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原始仏教・ラマナ(マハルシ)・ニサルガダッタ(マハラジ)などの教えを通して気づいたことをシェア

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2016/04/11

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  • 一番ポジティブな事実

    一番ポジティブな事実。それは、何があろうとも、「私は在る」という事実。ネガティブを全て洗い流してくれる。「私は在る」と考えるのではなく、「私は在る」を感じる。それは穏やかな感謝と同じ感覚。一番ポジティブな事実

  • 必要なものは全て最適なタイミングで与えられる

    その人が本当に必要なものは全て、最適なタイミングで与えられます。それがシンクロニシティです。それ以外のものを欲しがることを欲といいます。与えられたものを受け取るのは全く悪いことではありません。むしろ受け取るまで何度もやってきます。欲がないとき、必要なものが一番早いタイミングでやってきます。欲があるほど、必要なものがやってくるのが遅れます。何をやっていても、自然とやってくるものだけ受け取りましょう。そうすれば何も間違っていることはありません。その確信を持ちましょう。必要なものは全て最適なタイミングで与えられる

  • 未来を考えない

    「今ここ」に生きるにはどうしたらいいか、わからないという人も居るかもしれません。「今ここ」を生きることの一つの方法は、「未来を考えない」ことです。「結果を考えずに行動する」や「結果を期待せずに行動する」と言ってもいいかもしれません。「結果を期待せず」というのは案外難しい人にとっては難しいものです。なぜなら、大抵の人は、「若干良い結果」や「悪い結果」を「期待」してしまったりするからです。「結果」に関する思考そのものを排除しないといけないのです。それは恐れをベースにした思考を止めることと同じ意味です。恐れがあると、良い結果を期待したり、悪い結果を不安がったりします。しかし、恐れがないとき、結果を考えることがありません。どんな結果も恐れないからです。恐れがないというのは、「本当の自分」を知っているということです。「本...未来を考えない

  • 二種深信

    今回の話題はほとんどの人には興味がないと思うが、過去一時期縁があった浄土真宗について。浄土真宗のゴールの心境は二種深信と表現される。だが、この二種深信というのは残念ながらかなり中途半端な表現で、ゴールを達成したという勘違いを生みやすい。機の深信というのは、あくまでも「私」でないものについての表現である。一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。ここでいう「自身」というのは「私」のことではない。だから、より良い表現としては、一つには、決定して深く、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなき罪生死の凡夫は我に非ざると信ず。である。次に法の深信。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑な...二種深信

  • 命を懸けるものなどない

    命を懸けてすることなど存在しない。なぜならその命自体が自分のものでないからだ。だから懸けは成立しない。それに気づかない限り、どこまでも同じところを回っているだけである。これも輪廻。命を懸けるものなどない

  • 何も求めない。

    何も求めないというのは、ただあるがままにあるということです。何か雑念を感じても、「雑念が起きて欲しくない」とも思わない。雑念に対して「街ですれ違う赤の他人」のように接することです。街の雑踏の中で次々すれ違う他人に対して「誰一人としてすれ違いたくない」なんて思わないでしょう?淡々と出会うままに、過ぎさるままにするはずです。そのようにしましょう。何も求めない。

  • 葛藤は要らない

    葛藤を意志によって乗り越えることを激流の実践として説く者がおりますが、本来葛藤は要らないものです。抵抗すれば葛藤になりますが、抵抗しなければ葛藤もありません。意志でなんとか出来るという幻想があると激流になりますが、幻想がなければ激流は起きません。激流はないけれども激流を渡ったという結果だけが残ります。激流は無いと見切れば激流は渡れます。激流は自分の持つ観念と真逆の観念です。そこに意志を絡ませるほど意味の無いことはありません。智慧で見抜くか、大きな力に委ねるか、釈迦かキリストか、自力の限界を見抜くか、他力に委ねるか。2つに1つです。どちらも結果は同じです。激流の実践と言っているのは2つの道を見誤った見解です。葛藤は要らない

  • 無常

    無常という言葉は昔から日本に根付いているものの、なかなか向き合う機会がないのではないでしょうか。それは「無常だなあ」という感覚自体も無常にも消え去っていくものだからだと思います。普通、無常というと、「人間いつ死ぬかわからない」という意味で使うことが多いと思います。確かに、お釈迦様はカルマによって人間いつ死ぬかわからないから、怠ることなく努め励めとおっしゃっていますが、そこで「無常」という言葉はあまり使われないのです。お釈迦様が繰り返し「無常」とおっしゃっているのは、6つの認識なのです。それは、眼の認識、鼻の認識、耳の認識、舌の認識、身体(触覚)の認識、思考の認識です。これらの認識によって、私たちは「自分」と「自分以外」を分けているのです。お釈迦様がおっしゃるのは、「その分け方、正しいの?」「その自分、本当に自分...無常

  • 「私は在る」トレーニング

    「私は在る」感覚をつかむためのおすすめトレーニングがある。といっても内容は出息入息のトレーニングなので新しくはない。ただ、実施のタイミングは食事後である。まあ会社では難しいかもしれないが、休日とか夕食後とかなら出来るかもしれない。食事後、出来るだけゆったりした姿勢で、目を閉じ、へそから下を使って横隔膜を動かすイメージで息を吸ったり吐いたりすることに意識を集中する。胸筋を使った呼吸は体が緊張するので、あくまでも腹式呼吸である。ただでさえ食事後で思考が鈍くなるため、呼吸に集中しやすくなる。また、満腹感による幸福感もあり、非常に気持ち良く呼吸に集中できる(食べ過ぎ注意。食べ過ぎは苦しみを生む)。これを続けていると、熟睡感を感じながらも意識があるという状態になる。呼吸から意識を離すとあっというまに入眠しかねないのでその...「私は在る」トレーニング

  • メンタルトレーニング

    メンタルを鍛えるといっても、メンタルという実体があるわけじゃない。でも敢えて鍛えるという言葉を使って説明する。メンタルを鍛えるのはいつでも出来るわけじゃない。鍛えられるのは苦しいときである。メンタルが苦しいとき、「嫌だ」とか「逃げたい」とか別の思考が出てくるかもしれないが、それらオマケ的な思考は、苦しみの燃料となるので、無視して、苦しみを感じることに集中する。苦しみに集中するなんてかえって苦しくなりそうだが、集中された苦しみはそのエネルギーを失って胡散霧消していく。全ては無常なので、1つ1つの苦しみは放っておけば消えていくことが実感出来る。苦しみに集中してみれば、苦しみは消えていくことを成功体験として積み重ねるのがメンタルを鍛えることである。苦しみの燃料を断つ(苦しみに付随する思考を無視する)習慣も大切である。...メンタルトレーニング

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