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新庄嘉堂残日録 https://blog.goo.ne.jp/shinjocad

残された日々の中で、過去に書き溜めたものや折々の記を孫たちに伝えたいと思っているのですが。さて、孫は

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2016/04/07

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  • 斯界の通説・『運河』SD1901A その3

    斯界の通説・『運河』SD1901A その3

    さて、もう一つ。表(その1項に掲載)の右蘭にはその時に発掘された瓦について、どうであったかを報告書から抜粋しています。実は今回、奈良文化財研究所紀要の2015―2018を調べていて、第186次調査で、「SD1901Aからはどの土層からも一切瓦が出土しない」という報告があることに気がついたのです。おや?と思って調べたのがこの表の右欄なのです。「運河」が機能していた時代の土層は粗砂(流砂)が堆積している層と考えられていますが、そこから出土した瓦です。これも表の通り一目瞭然、全調査区を通じて殆ど出土しないのです。軒瓦については皆無です。摩耗した丸瓦や平瓦が若干出土するといいます。これは一体何を表しているのでしょうか。SD1901Aは藤原宮建設のための資材運搬の運河でしょう。何を運んだのでしょうか。木材を運んだら...斯界の通説・『運河』SD1901Aその3

  • 斯界の通説・『運河』SD1901A その2

    斯界の通説・『運河』SD1901A その2

    ここまでは、わたくしも拙著『実在した倭京』(ミネルヴァ書房2021)の中で湊哲夫を支持して、運河ではあり得ないと、建設現場からの声を提示したのです。その骨子を再掲すれば、おおよそ次のようになるでしょうか。藤原宮中枢宮殿の建設のための仮設用運河であれば、どうして工事完了まで使わなかったのか。大規模な工事用仮設道路、ここでは運河の機能は建設資材の搬入だけではない。廃材や残材、治具や工具の搬出入に使う。現代の建設工事現場であれば、さしづめ、場内仮設道路であろう。建設工事を計画する工務部は、建設目的物たる主体施設の建設に邪魔にならないところから場内に進入して、施設建物が建たないルートを選んで計画するものだ。北大垣中門も大極殿院南門も版築による基壇ではなく、掘り込み地業で基礎を支えている。しかも、運河をわざわざ埋め...斯界の通説・『運河』SD1901Aその2

  • 斯界の通説その1・『運河』S D1901A

    斯界の通説その1・『運河』S D1901A

    斯界の通説その1・『運河』SD1901Aまずは「SD1901Aは藤原宮造営の木材を運んだ仮設運河である」という斯界の常識です。藤原宮第18次調査で初めて検出されたSD1901Aは、朱雀大路計画線の東側に沿って南北に500メートル以上検出され、それは藤原宮建設時の資材運搬のための運河であるということになっています。まずは次の表を見てください。これは、藤原宮宮域内で大溝SD1901Aが検出された発掘調査の全次数を拾い出した表です。回数にして9回、1976年から2015年まで実に足掛け40年。そしてこれが全てなのです。北は宮域を囲む大垣の外側(外周帯)から南は大極殿院南門直近の朝堂院朝庭まで朱雀大路計画線の東側に沿って運河と言われる大溝を600メートル近く検出しています(もちろん悉皆発掘ではなく、部分発掘です。...斯界の通説その1・『運河』SD1901A

  • 更新再開!

    更新再開!

    更新再開!木下正史の論理を三回に分けてお話ししましたが、その内容に齟齬はないか、ということについては、これが更新中断の理由だったのですが、なんとか理解してお話できているのではないかと思います。大丈夫、この調子で進めたいと思います。この項を書いていて失礼のあったことに気がつきました。引用させていただいている木下正史をはじめ先輩諸先生方の敬称を略させていただいていることです。改めて、本ブログにおいては、引用させていただく著書、論文の著者・編者の敬称は、遠い師も近い師も全て略させていただきたいと思います。ご寛恕のほどお願いいたします。さて、次回から何回かに分けて「ガチガチに凝り固まっている藤原京解釈」というテーマです。おとなしく言えば「斯界の通説」でしょうか。わたくしが気になる以下の項目などについて、拙著脱稿以...更新再開!

  • 更新が止まっています!

    更新が止まっています!

    ■主題は藤原宮です。藤原宮が大宝令制定後に大規模な造替を受けているというのですこれもまた、先行条坊と同様に、史書には全く書かれていないのですが、考古学的事実から「違いない」となっているようなのです。藤原宮の大垣の中には北から内裏地区、大極殿院、朝堂院という宮の中枢宮殿・空間が存在します。その左右の空間が東西の官衙地区になります。そして、考古学的事実は中枢宮殿地区には大規模な造替は認められていないのですが、中枢域の東側にある東方官衙B地区が大きく造替されているのです。これをもって、大規模な宮殿の大改造だと斯界は判断しているようです。わずか16年しか存在しなかった藤原宮が、途中で大規模な造り替えをしているというのはちょっと変ではないか?また、その造替時に中枢域が無傷というのも解せない。この辺りのことを、現在調...更新が止まっています!

  • 木下正史の倭京都市計画説−3

    木下正史の倭京都市計画説−3

    大雑把な解説で分かりづらかったかもしれません。後ほど、改めて推敲してみようと思います。それはさておき、木下正史の「倭京都市計画説」の結論を言えば、木下正史は先行条坊の理解について正鵠を射抜けなかったのです。擦(カス)りはしたのですが。いえ、わたくし一存の評価です。それは隣の橿原考古学研究所が進めていた飛鳥京跡の発掘調査の影響だと思うのですが。奈良文化財研究所の藤原宮跡の発掘調査と橿原考古学研究所の飛鳥京跡の調査は競うように、あるいは情報共有するように並行して進捗してゆきます。そして、1988年には小澤毅論文(※注)によって飛鳥浄御原宮が明日香村岡地区(飛鳥地方南端)に存在したことが確証的になり、以降これが斯界の通説になってゆくのです。このことによって、「先行条坊らしき都市計画はあったが、中枢宮殿は明日香村岡地区...木下正史の倭京都市計画説−3

  • 木下正史の倭京都市計画説−2

    木下正史の倭京都市計画説−2

    木下正史は1970年代発掘調査初期の考古学的発掘事実を重視しました。西方官衙や大宮土壇以北から検出される先行条坊の位置付けや出土する土器や木簡さらには生活痕跡です。まず、藤原の地が古墳時代以降、賑やかになっていくのが7世紀半ばであることを1982年の論文の中で次のように述べています。藤原宮周辺地域の開発の歴史の中で、七世紀の後半期は著しい画期であった。独立柱建物群の造営が始まり、それは宮周辺のあらゆる地域に及んだ。古墳時代後期の集落が宮東辺と西辺のほぼ二地点に集中して継起していたあり方との相違は大きい。しかも、古墳時代集落は七世紀前半期には継承されず、この時期の藤原宮周辺地域はほとんど無住の地に近かったのであって、七世紀後半期に登場する掘立柱建物群は古墳時代以来の集落とは無縁のものである。掘立柱建物群は広域にわ...木下正史の倭京都市計画説−2

  • 木下正史の倭京都市計画説−1

    木下正史の倭京都市計画説−1

    前項「彷徨える始発」で述べましたが、「非常識の極み」についてそのつづきをお話ししましょう。ここまでくると、少し見晴らしが良くなりますね。「天智天皇の時代までに藤原京の建設は始まった」という非常識なフレーズがヒントです。実は、この文章の「藤原京」の代わりに「先行条坊」という語彙を使えば、これは考古学的事実とも合致し、非常識ではなくなるのです。藤原京に「先行」しているわけですから、置き換えてもいいでしょう。「天智天皇の時代までに先行条坊都市の建設は始まった」これでどうでしょう?何か不都合な文献史学上のあるいは考古学上の問題があるでしょうか?それはないのですが実は、あると言えば大いにあるのですよ、思わぬところに。すなわち、「そのような先行する条坊都市なんて聞いたこともなければ習ったこともありません」という市民の声つま...木下正史の倭京都市計画説−1

  • 彷徨える始発

    彷徨える始発

    縷々述べてきましたように、藤原京は藤原宮のための条坊制であると、諸説競ってその根拠を力説されてきたにもかかわらず、それらも確たる証拠もなく、結局は「宮内先行条坊」が何者(WHAT)であり、何時(WHEN)建設されたのかということについては不明のまま、「謎」ということになってしまっているのです。謎だということはわたくしの理解・判断ということだけではなく、発掘調査の主体たる奈良文化財研究所の見解でもあるのです(※注)。宮内先行条坊発見から50年経ってですよ。おかしいと思いませんか。どこかで落とし穴にはまっているにちがいありません。◆専門家の常識の落とし穴斯界揃って「藤原宮の下層は藤原京である」「藤原京は藤原宮の京である」とするのは一応、根拠のある常識ではあるです。つまり、わたくしも学校で習いましたように、歴史の時代...彷徨える始発

  • 最後の砦・土器年代観−2

    最後の砦・土器年代観−2

    第Ⅲ期後半の土器群の特徴は、食器類に著しい特徴が現れることです。一つは食器の種類の多様さです。さらには法量(容積)の分化です。そしてそれらが同時期に一気に現れてくることです(下図参照)。何らかの社会的な画期があったことを暗示させます。西弘海はこれらの第Ⅲ期後半の食器群について、次のように理解するのです。第Ⅲ期後半の大きな様式的発展は、真に新たな支配体制である律令制を基軸とする国家体制という帰結に到達したこと、その反映としてよいだろう。第Ⅲ期後半の食器類を中心とする様式的発展とその特質―多様な器種分化とその前提となる法量の規格性は律令制古代国家の中核をなすものであった。官僚制の発展と、それにかかる大量の官人層の出現とその特殊な生活形態を前提として初めて理解できるものである。この第Ⅲ期後半の土器様式は「金属器指向型...最後の砦・土器年代観−2

  • 最後の砦・土器編年−1

    最後の砦・土器編年−1

    『書紀』天武五年新城条をこれ以上、一生懸命解説する必要はないでしょう。説明しましたように、この記事は先行条坊の建設開始を告げる記事なのかどうか、全く不明なのです。これ以上の詮索は一旦おきましょう。文献史学が天武五年新城条を武器に考古学を応援して、先行条坊の建設開始時期に箍(タガ)を嵌めようとした試みは失敗したということです。しかし、今ひとつ文献史学の出番があったのです。それは土器編年です。現在も、土器編年は先行条坊の建設始発時期に箍を嵌める強力な応援団になり続けています。どういうことかと言いますと、「飛鳥・藤原土器編年」という物差しがあります。飛鳥・藤原の地の発掘現場から出てくる土器はこの物差しに合わせて時代評価されます。出土土器の年代措定の基準になる非常に重要な意味を持っています。この物差しの制作過程に問題が...最後の砦・土器編年−1

  • 答えはもともとはっきりしていたのでは

    答えはもともとはっきりしていたのでは

    疑問を先に片付けましょう。更に脇道に入るようですが・・・・・何故、こんな意味不明の記事(『書紀』天武五年新城条)を取り上げて、ああだ、こうだと言い張るのでしょうか。『書紀』の建設記事を信じればいいじゃないかと思うのですが。その方が素直だから。無理がないからですが。そうならないわけは一つしかないのでしょう。つまり、先行条坊の存在です。持統四年以降の藤原京(新益京)・藤原宮の記事を信じたいのは山々なんです、みんな、研究者は。ところが、信じた途端に、「じゃあ、下から出てきた先行条坊は何なんだ」となります。「直前」遺構というのが曲者なのですよね。歴史が続いている証拠なわけです。続いているのだから、藤原宮の直前に藤原京(新益京)の建設があったに違いない。あるいは、というか更にはというか、もっと強く「それ以外には考えられな...答えはもともとはっきりしていたのでは

  • いつ、建設が始まったのか?−3 『書紀』記事の探索

    いつ、建設が始まったのか?−3 『書紀』記事の探索

    『書紀』天武紀上・下は藤原京あるいは新益京の建設を明示的には一切記事にしていません。何となくそう読めるような記事があるだけです。逐一、あげましょう。なお、天武紀上いわゆる壬申紀には該当する”らしき記事”はないのです。資料として利用したのは小澤毅と林部均の論文です。※注天武五年(676)是年、將都新城。而限內田園者、不問公私、皆不耕悉荒。然遂不都矣。天武十一年(682)三月甲午朔、命小紫三野王及宮內官大夫等遣于新城令見其地形、仍將都矣。天武十一年(682)三月己酉、幸于新城。天武十二年(683)七月癸卯、天皇巡行京師天武十三年(684)三月辛卯、天皇、巡行於京師而定宮室之地。以上、わずかに五点の記事が挙げられています。しかも、考古学からの知見では前述しましたように、天武九年(680)以前まで条坊施工は遡ることがわ...いつ、建設が始まったのか?−3『書紀』記事の探索

  • いつ、建設が始まったのか?−2

    いつ、建設が始まったのか?−2

    ・・・ところがです。それからおよそ10年、1993年再度、本薬師寺の調査が行われ、その伽藍中門の下層から何と!条坊遺構が現れたのです。これによって、10年前の評価は覆り、条坊建設が本薬師寺建立に先行することを明らかにしたのです。折角の考古学的な箍(タガ)が外れた瞬間でした。即ち、条坊建設はさらに遡り、天武九年(680)以前となってしまったのです。以降、考古学の視点から条坊建設の上限を区切る材料を見つけるのが困難になります。そこで登場するのが文献史学です。『書紀』の記事を必死に探す!ことになるのです。「いつ、建設が始まったのか?」と。天武九年の箍が外れるとどこまで遡るのか、と。しかし、探す範囲は分かっています。第二九巻天武紀下・第二八巻天武紀上です。なぜなら、「宮直前遺構」と言われるように、この藤原京は藤原宮のた...いつ、建設が始まったのか?−2

  • いつ、建設が始まったのか?−1

    いつ、建設が始まったのか?−1

    宮内先行条坊がはっきりと認知されたのは1978年に発表された第20次調査概報あたりでしょう。例の大極殿の土壇の下を道路が貫通していることが白日の下に明らかになった時点です(写真は「宮内先行条坊3」参照)先行条坊の遺構は「宮直前遺構」ですから、まず「直前」は、持統四年(690)の宮地視察以前であることは分かっていました。「いつ、建設が始まったのか?」という問いについては、最後は『書紀』探索まで行き着くのですが、その前に、考古学の立場でどう評価されていたかを見てみましょう。考古学の知見からはその建設時期について次のような報告がありました。まず、第20次調査の時に、朱雀大路計画線SF1920の東側の大溝SD1901Aで出土した紀年木簡から、先行条坊の建設は天武朝末年(685)ごろまでは遡ることが明らでした。今ひとつは...いつ、建設が始まったのか?−1

  • 『書紀』に見える藤原宮の建設過程

    『書紀』に見える藤原宮の建設過程

    そもそも藤原宮の建設過程は日本書紀に明瞭に記載されているのです。持統四年十二月天皇幸藤原觀宮地持統五年十月遣使者鎭祭新益京持統六年五月鎭祭藤原宮地持統八年十二月遷居藤原宮この工程に何もおかしなところはないのです。尤も、持統天皇は「新益京(アラマシノミヤコ)」と言い、藤原京とは言わないのですが。とにかく、先行条坊の発見・確認・納得という「事件」が出来するまでは、このストーリーが何のわだかまりもなく、斯界では通説の位置を占めていたのです。藤原宮は持統天皇が造営した宮であると。ところが、宮内から先行条坊が検出され、日本書紀の記事と齟齬することが明らかになってきた時点で「変だね〜おかしいねぇ」となっていったのです。そしてさらに、宮内先行条坊が藤原京全域に及ぶらしいことがわかってきた段階で、藤原京先行建設説が斯界の流れに...『書紀』に見える藤原宮の建設過程

  • 宮内先行条坊とは何か?

    宮内先行条坊とは何か?

    今一度、研究の現状を確認しておきましょう。宮内先行条坊はその謂れの通り、藤原宮造営に先立って造成された道路・側溝網です。現代考古学の発掘成果の中でも特筆すべき成果と言えるでしょう。先立って存在したことはそれらが大極殿をはじめとする藤原宮の施設の存在する地層の下から検出されたことではっきりしています。しかも、発掘担当者はどの発掘現場でも同じですが、藤原宮の載る整地層の直下から検出しているのです。「宮直前遺構」などと称されるのはそのためです。宮の直下から出てくるということは、藤原宮の時代とその下層の先行条坊の時代には間隙がないということでもあります。つまり、先行条坊の時代から藤原宮の時代へと歴史は連続しているのです。ですから、藤原宮の研究者が先行条坊の時代を「藤原京が藤原宮に先行して施工された」と理解するのはある意...宮内先行条坊とは何か?

  • 宮内先行条坊排水路ネットワーク説

    宮内先行条坊排水路ネットワーク説

    井上和人(奈良文化財研究所)は1984年の仏教芸術154号で、藤原京についての発掘知見を基にした条坊遺構についての論考を上梓しています。その中で、宮内先行条坊についても、排水路ネットワークであるという独自の考え方を述べています。当初から宮室造営の地と予定されながら、何故道路を設造い、また小規模な建物群が営まれたのであろうか。まず、宮域予定地内に道路を通じさせたことについては、次のような推論を述べておこう。(中略)宮地と地形について論じた八賀晋氏は、藤原宮造営に際して大規模な造成工事が行われたことを推定している。つまり、造営以前のかなり起伏のある自然地形を、宮地として供するために、ある程度の平坦地に改変したことが考えられるのであるが、当然、それまでの排水経路(溝や小川などの)は破壊され、新たな排水体系を構築する必...宮内先行条坊排水路ネットワーク説

  • 宮内先行条坊施工途中計画変更説

    宮内先行条坊施工途中計画変更説

    奈良文化財研究所の黒崎直は研究論文の中で、次のように述べるのです。条坊の設定より遅れて宮の位置が決定された理由はよくわからないが、当初予定した京域のうち、南の大半が丘陵地帯に含まれることと関係するのかもしれない。すなわち、先述したように、十二里四方と推定する予定京域のうち、南半の比較的広い範囲が丘陵地に含まれていたため、いざ実際に条坊を施工し始めると多くの困難が生じ始めたのであろうか。このため、京の中心に宮を置くという基本方針が危うくなり、宮の位置の変更をめぐって議論があったかもしれない。しかしいずれにせよ、東西の二坊大路と二条大路と六条大路に挟まれた藤原宮の位置が、この時に最終的に決定されたのである。(研究論集Ⅺ奈文研2000220頁)見てきたような書き振りですが、「この時に最終的に決定された」という「この時...宮内先行条坊施工途中計画変更説

  • 宮内先行条坊計画ミス説

    宮内先行条坊計画ミス説

    次は計画ミス説というべき説です。藤原宮第10・11・15・16次の調査概報です。むすびで次のように述べています。今回調査した地区は、古墳時代には方形周溝墓が築かれていた。藤原宮が建設される以前(七世紀後半)に、これらの墓を破壊して、1町単位の地割(道路割)が行われた。藤原宮の建物はこの道路を廃して建設された。(中略)道路は宮の本格的な造営が行われる時点で廃絶しているのであるが、これを廃した理由はなんによるのであろうか。まず考えられることは、道路の地割と宮内の計画とが直接関係を持たなかったことである。宮内の朝堂院・内裏・官衙などブロック割はかなり大きな単位で行われているから、1町単位(約133m)の地割は小さすぎる。そのため、京の小路の延長にあたる部分の宮内の道路は廃絶することになったと考えることができよう。(奈...宮内先行条坊計画ミス説

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