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新庄嘉堂残日録 https://blog.goo.ne.jp/shinjocad

残された日々の中で、過去に書き溜めたものや折々の記を孫たちに伝えたいと思っているのですが。さて、孫は

新庄嘉堂残日録
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2016/04/07

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  • 斯界の通説・『運河』SD1901A その3

    さて、もう一つ。表(その1項に掲載)の右蘭にはその時に発掘された瓦について、どうであったかを報告書から抜粋しています。実は今回、奈良文化財研究所紀要の2015―2018を調べていて、第186次調査で、「SD1901Aからはどの土層からも一切瓦が出土しない」という報告があることに気がついたのです。おや?と思って調べたのがこの表の右欄なのです。「運河」が機能していた時代の土層は粗砂(流砂)が堆積している層と考えられていますが、そこから出土した瓦です。これも表の通り一目瞭然、全調査区を通じて殆ど出土しないのです。軒瓦については皆無です。摩耗した丸瓦や平瓦が若干出土するといいます。これは一体何を表しているのでしょうか。SD1901Aは藤原宮建設のための資材運搬の運河でしょう。何を運んだのでしょうか。木材を運んだら...斯界の通説・『運河』SD1901Aその3

  • 斯界の通説・『運河』SD1901A その2

    ここまでは、わたくしも拙著『実在した倭京』(ミネルヴァ書房2021)の中で湊哲夫を支持して、運河ではあり得ないと、建設現場からの声を提示したのです。その骨子を再掲すれば、おおよそ次のようになるでしょうか。藤原宮中枢宮殿の建設のための仮設用運河であれば、どうして工事完了まで使わなかったのか。大規模な工事用仮設道路、ここでは運河の機能は建設資材の搬入だけではない。廃材や残材、治具や工具の搬出入に使う。現代の建設工事現場であれば、さしづめ、場内仮設道路であろう。建設工事を計画する工務部は、建設目的物たる主体施設の建設に邪魔にならないところから場内に進入して、施設建物が建たないルートを選んで計画するものだ。北大垣中門も大極殿院南門も版築による基壇ではなく、掘り込み地業で基礎を支えている。しかも、運河をわざわざ埋め...斯界の通説・『運河』SD1901Aその2

  • 斯界の通説その1・『運河』S D1901A

    斯界の通説その1・『運河』SD1901Aまずは「SD1901Aは藤原宮造営の木材を運んだ仮設運河である」という斯界の常識です。藤原宮第18次調査で初めて検出されたSD1901Aは、朱雀大路計画線の東側に沿って南北に500メートル以上検出され、それは藤原宮建設時の資材運搬のための運河であるということになっています。まずは次の表を見てください。これは、藤原宮宮域内で大溝SD1901Aが検出された発掘調査の全次数を拾い出した表です。回数にして9回、1976年から2015年まで実に足掛け40年。そしてこれが全てなのです。北は宮域を囲む大垣の外側(外周帯)から南は大極殿院南門直近の朝堂院朝庭まで朱雀大路計画線の東側に沿って運河と言われる大溝を600メートル近く検出しています(もちろん悉皆発掘ではなく、部分発掘です。...斯界の通説その1・『運河』SD1901A

  • 更新再開!

    更新再開!木下正史の論理を三回に分けてお話ししましたが、その内容に齟齬はないか、ということについては、これが更新中断の理由だったのですが、なんとか理解してお話できているのではないかと思います。大丈夫、この調子で進めたいと思います。この項を書いていて失礼のあったことに気がつきました。引用させていただいている木下正史をはじめ先輩諸先生方の敬称を略させていただいていることです。改めて、本ブログにおいては、引用させていただく著書、論文の著者・編者の敬称は、遠い師も近い師も全て略させていただきたいと思います。ご寛恕のほどお願いいたします。さて、次回から何回かに分けて「ガチガチに凝り固まっている藤原京解釈」というテーマです。おとなしく言えば「斯界の通説」でしょうか。わたくしが気になる以下の項目などについて、拙著脱稿以...更新再開!

  • 更新が止まっています!

    ■主題は藤原宮です。藤原宮が大宝令制定後に大規模な造替を受けているというのですこれもまた、先行条坊と同様に、史書には全く書かれていないのですが、考古学的事実から「違いない」となっているようなのです。藤原宮の大垣の中には北から内裏地区、大極殿院、朝堂院という宮の中枢宮殿・空間が存在します。その左右の空間が東西の官衙地区になります。そして、考古学的事実は中枢宮殿地区には大規模な造替は認められていないのですが、中枢域の東側にある東方官衙B地区が大きく造替されているのです。これをもって、大規模な宮殿の大改造だと斯界は判断しているようです。わずか16年しか存在しなかった藤原宮が、途中で大規模な造り替えをしているというのはちょっと変ではないか?また、その造替時に中枢域が無傷というのも解せない。この辺りのことを、現在調...更新が止まっています!

  • 木下正史の倭京都市計画説−3

    大雑把な解説で分かりづらかったかもしれません。後ほど、改めて推敲してみようと思います。それはさておき、木下正史の「倭京都市計画説」の結論を言えば、木下正史は先行条坊の理解について正鵠を射抜けなかったのです。擦(カス)りはしたのですが。いえ、わたくし一存の評価です。それは隣の橿原考古学研究所が進めていた飛鳥京跡の発掘調査の影響だと思うのですが。奈良文化財研究所の藤原宮跡の発掘調査と橿原考古学研究所の飛鳥京跡の調査は競うように、あるいは情報共有するように並行して進捗してゆきます。そして、1988年には小澤毅論文(※注)によって飛鳥浄御原宮が明日香村岡地区(飛鳥地方南端)に存在したことが確証的になり、以降これが斯界の通説になってゆくのです。このことによって、「先行条坊らしき都市計画はあったが、中枢宮殿は明日香村岡地区...木下正史の倭京都市計画説−3

  • 木下正史の倭京都市計画説−2

    木下正史は1970年代発掘調査初期の考古学的発掘事実を重視しました。西方官衙や大宮土壇以北から検出される先行条坊の位置付けや出土する土器や木簡さらには生活痕跡です。まず、藤原の地が古墳時代以降、賑やかになっていくのが7世紀半ばであることを1982年の論文の中で次のように述べています。藤原宮周辺地域の開発の歴史の中で、七世紀の後半期は著しい画期であった。独立柱建物群の造営が始まり、それは宮周辺のあらゆる地域に及んだ。古墳時代後期の集落が宮東辺と西辺のほぼ二地点に集中して継起していたあり方との相違は大きい。しかも、古墳時代集落は七世紀前半期には継承されず、この時期の藤原宮周辺地域はほとんど無住の地に近かったのであって、七世紀後半期に登場する掘立柱建物群は古墳時代以来の集落とは無縁のものである。掘立柱建物群は広域にわ...木下正史の倭京都市計画説−2

  • 木下正史の倭京都市計画説−1

    前項「彷徨える始発」で述べましたが、「非常識の極み」についてそのつづきをお話ししましょう。ここまでくると、少し見晴らしが良くなりますね。「天智天皇の時代までに藤原京の建設は始まった」という非常識なフレーズがヒントです。実は、この文章の「藤原京」の代わりに「先行条坊」という語彙を使えば、これは考古学的事実とも合致し、非常識ではなくなるのです。藤原京に「先行」しているわけですから、置き換えてもいいでしょう。「天智天皇の時代までに先行条坊都市の建設は始まった」これでどうでしょう?何か不都合な文献史学上のあるいは考古学上の問題があるでしょうか?それはないのですが実は、あると言えば大いにあるのですよ、思わぬところに。すなわち、「そのような先行する条坊都市なんて聞いたこともなければ習ったこともありません」という市民の声つま...木下正史の倭京都市計画説−1

  • 彷徨える始発

    縷々述べてきましたように、藤原京は藤原宮のための条坊制であると、諸説競ってその根拠を力説されてきたにもかかわらず、それらも確たる証拠もなく、結局は「宮内先行条坊」が何者(WHAT)であり、何時(WHEN)建設されたのかということについては不明のまま、「謎」ということになってしまっているのです。謎だということはわたくしの理解・判断ということだけではなく、発掘調査の主体たる奈良文化財研究所の見解でもあるのです(※注)。宮内先行条坊発見から50年経ってですよ。おかしいと思いませんか。どこかで落とし穴にはまっているにちがいありません。◆専門家の常識の落とし穴斯界揃って「藤原宮の下層は藤原京である」「藤原京は藤原宮の京である」とするのは一応、根拠のある常識ではあるです。つまり、わたくしも学校で習いましたように、歴史の時代...彷徨える始発

  • 最後の砦・土器年代観−2

    第Ⅲ期後半の土器群の特徴は、食器類に著しい特徴が現れることです。一つは食器の種類の多様さです。さらには法量(容積)の分化です。そしてそれらが同時期に一気に現れてくることです(下図参照)。何らかの社会的な画期があったことを暗示させます。西弘海はこれらの第Ⅲ期後半の食器群について、次のように理解するのです。第Ⅲ期後半の大きな様式的発展は、真に新たな支配体制である律令制を基軸とする国家体制という帰結に到達したこと、その反映としてよいだろう。第Ⅲ期後半の食器類を中心とする様式的発展とその特質―多様な器種分化とその前提となる法量の規格性は律令制古代国家の中核をなすものであった。官僚制の発展と、それにかかる大量の官人層の出現とその特殊な生活形態を前提として初めて理解できるものである。この第Ⅲ期後半の土器様式は「金属器指向型...最後の砦・土器年代観−2

  • 最後の砦・土器編年−1

    『書紀』天武五年新城条をこれ以上、一生懸命解説する必要はないでしょう。説明しましたように、この記事は先行条坊の建設開始を告げる記事なのかどうか、全く不明なのです。これ以上の詮索は一旦おきましょう。文献史学が天武五年新城条を武器に考古学を応援して、先行条坊の建設開始時期に箍(タガ)を嵌めようとした試みは失敗したということです。しかし、今ひとつ文献史学の出番があったのです。それは土器編年です。現在も、土器編年は先行条坊の建設始発時期に箍を嵌める強力な応援団になり続けています。どういうことかと言いますと、「飛鳥・藤原土器編年」という物差しがあります。飛鳥・藤原の地の発掘現場から出てくる土器はこの物差しに合わせて時代評価されます。出土土器の年代措定の基準になる非常に重要な意味を持っています。この物差しの制作過程に問題が...最後の砦・土器編年−1

  • 答えはもともとはっきりしていたのでは

    疑問を先に片付けましょう。更に脇道に入るようですが・・・・・何故、こんな意味不明の記事(『書紀』天武五年新城条)を取り上げて、ああだ、こうだと言い張るのでしょうか。『書紀』の建設記事を信じればいいじゃないかと思うのですが。その方が素直だから。無理がないからですが。そうならないわけは一つしかないのでしょう。つまり、先行条坊の存在です。持統四年以降の藤原京(新益京)・藤原宮の記事を信じたいのは山々なんです、みんな、研究者は。ところが、信じた途端に、「じゃあ、下から出てきた先行条坊は何なんだ」となります。「直前」遺構というのが曲者なのですよね。歴史が続いている証拠なわけです。続いているのだから、藤原宮の直前に藤原京(新益京)の建設があったに違いない。あるいは、というか更にはというか、もっと強く「それ以外には考えられな...答えはもともとはっきりしていたのでは

  • いつ、建設が始まったのか?−3 『書紀』記事の探索

    『書紀』天武紀上・下は藤原京あるいは新益京の建設を明示的には一切記事にしていません。何となくそう読めるような記事があるだけです。逐一、あげましょう。なお、天武紀上いわゆる壬申紀には該当する”らしき記事”はないのです。資料として利用したのは小澤毅と林部均の論文です。※注天武五年(676)是年、將都新城。而限內田園者、不問公私、皆不耕悉荒。然遂不都矣。天武十一年(682)三月甲午朔、命小紫三野王及宮內官大夫等遣于新城令見其地形、仍將都矣。天武十一年(682)三月己酉、幸于新城。天武十二年(683)七月癸卯、天皇巡行京師天武十三年(684)三月辛卯、天皇、巡行於京師而定宮室之地。以上、わずかに五点の記事が挙げられています。しかも、考古学からの知見では前述しましたように、天武九年(680)以前まで条坊施工は遡ることがわ...いつ、建設が始まったのか?−3『書紀』記事の探索

  • いつ、建設が始まったのか?−2

    ・・・ところがです。それからおよそ10年、1993年再度、本薬師寺の調査が行われ、その伽藍中門の下層から何と!条坊遺構が現れたのです。これによって、10年前の評価は覆り、条坊建設が本薬師寺建立に先行することを明らかにしたのです。折角の考古学的な箍(タガ)が外れた瞬間でした。即ち、条坊建設はさらに遡り、天武九年(680)以前となってしまったのです。以降、考古学の視点から条坊建設の上限を区切る材料を見つけるのが困難になります。そこで登場するのが文献史学です。『書紀』の記事を必死に探す!ことになるのです。「いつ、建設が始まったのか?」と。天武九年の箍が外れるとどこまで遡るのか、と。しかし、探す範囲は分かっています。第二九巻天武紀下・第二八巻天武紀上です。なぜなら、「宮直前遺構」と言われるように、この藤原京は藤原宮のた...いつ、建設が始まったのか?−2

  • いつ、建設が始まったのか?−1

    宮内先行条坊がはっきりと認知されたのは1978年に発表された第20次調査概報あたりでしょう。例の大極殿の土壇の下を道路が貫通していることが白日の下に明らかになった時点です(写真は「宮内先行条坊3」参照)先行条坊の遺構は「宮直前遺構」ですから、まず「直前」は、持統四年(690)の宮地視察以前であることは分かっていました。「いつ、建設が始まったのか?」という問いについては、最後は『書紀』探索まで行き着くのですが、その前に、考古学の立場でどう評価されていたかを見てみましょう。考古学の知見からはその建設時期について次のような報告がありました。まず、第20次調査の時に、朱雀大路計画線SF1920の東側の大溝SD1901Aで出土した紀年木簡から、先行条坊の建設は天武朝末年(685)ごろまでは遡ることが明らでした。今ひとつは...いつ、建設が始まったのか?−1

  • 『書紀』に見える藤原宮の建設過程

    そもそも藤原宮の建設過程は日本書紀に明瞭に記載されているのです。持統四年十二月天皇幸藤原觀宮地持統五年十月遣使者鎭祭新益京持統六年五月鎭祭藤原宮地持統八年十二月遷居藤原宮この工程に何もおかしなところはないのです。尤も、持統天皇は「新益京(アラマシノミヤコ)」と言い、藤原京とは言わないのですが。とにかく、先行条坊の発見・確認・納得という「事件」が出来するまでは、このストーリーが何のわだかまりもなく、斯界では通説の位置を占めていたのです。藤原宮は持統天皇が造営した宮であると。ところが、宮内から先行条坊が検出され、日本書紀の記事と齟齬することが明らかになってきた時点で「変だね〜おかしいねぇ」となっていったのです。そしてさらに、宮内先行条坊が藤原京全域に及ぶらしいことがわかってきた段階で、藤原京先行建設説が斯界の流れに...『書紀』に見える藤原宮の建設過程

  • 宮内先行条坊とは何か?

    今一度、研究の現状を確認しておきましょう。宮内先行条坊はその謂れの通り、藤原宮造営に先立って造成された道路・側溝網です。現代考古学の発掘成果の中でも特筆すべき成果と言えるでしょう。先立って存在したことはそれらが大極殿をはじめとする藤原宮の施設の存在する地層の下から検出されたことではっきりしています。しかも、発掘担当者はどの発掘現場でも同じですが、藤原宮の載る整地層の直下から検出しているのです。「宮直前遺構」などと称されるのはそのためです。宮の直下から出てくるということは、藤原宮の時代とその下層の先行条坊の時代には間隙がないということでもあります。つまり、先行条坊の時代から藤原宮の時代へと歴史は連続しているのです。ですから、藤原宮の研究者が先行条坊の時代を「藤原京が藤原宮に先行して施工された」と理解するのはある意...宮内先行条坊とは何か?

  • 宮内先行条坊排水路ネットワーク説

    井上和人(奈良文化財研究所)は1984年の仏教芸術154号で、藤原京についての発掘知見を基にした条坊遺構についての論考を上梓しています。その中で、宮内先行条坊についても、排水路ネットワークであるという独自の考え方を述べています。当初から宮室造営の地と予定されながら、何故道路を設造い、また小規模な建物群が営まれたのであろうか。まず、宮域予定地内に道路を通じさせたことについては、次のような推論を述べておこう。(中略)宮地と地形について論じた八賀晋氏は、藤原宮造営に際して大規模な造成工事が行われたことを推定している。つまり、造営以前のかなり起伏のある自然地形を、宮地として供するために、ある程度の平坦地に改変したことが考えられるのであるが、当然、それまでの排水経路(溝や小川などの)は破壊され、新たな排水体系を構築する必...宮内先行条坊排水路ネットワーク説

  • 宮内先行条坊施工途中計画変更説

    奈良文化財研究所の黒崎直は研究論文の中で、次のように述べるのです。条坊の設定より遅れて宮の位置が決定された理由はよくわからないが、当初予定した京域のうち、南の大半が丘陵地帯に含まれることと関係するのかもしれない。すなわち、先述したように、十二里四方と推定する予定京域のうち、南半の比較的広い範囲が丘陵地に含まれていたため、いざ実際に条坊を施工し始めると多くの困難が生じ始めたのであろうか。このため、京の中心に宮を置くという基本方針が危うくなり、宮の位置の変更をめぐって議論があったかもしれない。しかしいずれにせよ、東西の二坊大路と二条大路と六条大路に挟まれた藤原宮の位置が、この時に最終的に決定されたのである。(研究論集Ⅺ奈文研2000220頁)見てきたような書き振りですが、「この時に最終的に決定された」という「この時...宮内先行条坊施工途中計画変更説

  • 宮内先行条坊計画ミス説

    次は計画ミス説というべき説です。藤原宮第10・11・15・16次の調査概報です。むすびで次のように述べています。今回調査した地区は、古墳時代には方形周溝墓が築かれていた。藤原宮が建設される以前(七世紀後半)に、これらの墓を破壊して、1町単位の地割(道路割)が行われた。藤原宮の建物はこの道路を廃して建設された。(中略)道路は宮の本格的な造営が行われる時点で廃絶しているのであるが、これを廃した理由はなんによるのであろうか。まず考えられることは、道路の地割と宮内の計画とが直接関係を持たなかったことである。宮内の朝堂院・内裏・官衙などブロック割はかなり大きな単位で行われているから、1町単位(約133m)の地割は小さすぎる。そのため、京の小路の延長にあたる部分の宮内の道路は廃絶することになったと考えることができよう。(奈...宮内先行条坊計画ミス説

  • 宮内先行条坊測量基準説

    藤原宮の下層に歴史の厚みを認めない研究者は、さまざまな解釈を試みます。まずは珍説から。藤原京条坊の遺構は、条・坊(街路)と側溝です。条・坊はさらに細分され、大路ー条坊間路ー小路とランクがあったようです。小澤毅は1997年の論文で、条坊は藤原京全域に一律に一気に施工した、つまり本来必要のない宮域内部もやってしまったとし、その言い訳として「機械的に施工した。それだけのことだ」と武断です。さらに、「測量の成果を大地に刻みつける方法としては溝を掘るのが最も効果的であった」だから、宮内先行条坊は不自然ではない、と強弁したのです(小澤毅「古代都市藤原京の成立」1997)。条坊の大路の側溝は幅1メートル以上、深さ50センチはあります(井上和人「古代都城制地割再考」1984)。これが測量基準線だという理解はどこから出てくるので...宮内先行条坊測量基準説

  • 藤原京という名称

    ◆「藤原京」は学術用語平城京や長岡京、平安京はその京(ミヤコ)が存在した時代、あるいはそれ以降に使われた名称です。しかし、藤原京は藤原京が存在した持統天皇の時代を含めて、この名称は使われた痕跡がないのです。ただ一点、奈良時代に編まれた「藤氏家伝・武智麻呂伝」に一箇所、藤原京とあるのですが、ポツンと孤立した史料であり、取り上げられることはほとんどありません。継続した利用が見当たらないからでしょうか。近代に入り、喜田貞吉が初めて「藤原京」を使ったとされます。貴田貞吉は『帝都』(1915・1937131頁)の中で次のように述べています。されば、京の名より言えば、是亦飛鳥京の一で、之を藤原京と称するは適当でない。されば、日本紀には、常に藤原宮とのみ書いて、一も藤原京と言ったことは無い。之を藤原京と称するは、茲に新式の都...藤原京という名称

  • 藤原宮宮内先行条坊 3

    ◆区内先行条坊・朱雀大路計画線大宮土壇は藤原宮大極殿の載っていた土壇ですが、宮内先行条坊SF1920という遺構が研究者に大きなショックを与えたのです。この街路遺構がこの土壇の真下を南北に貫通しているのです。(奈文研のブログ2014年12月号を参照せてください。その写真が掲載されています。)つまり、宮の平面の中軸線ですから、研究者はこれを「朱雀大路計画線」と命名したのですが。もちろん、朱雀大路が宮域内に存在するわけはないので、計画線という造ったけれども使われなかったという意味の言葉を添えているのです。大きなショックというのは、紛れもない事実だったからです。遺構の写真は専門家しかわからない読み込む技術を要するものではなく、市民にもよく理解できるものでした。確かに藤原宮の造営に先立って、先行条坊が存在することを認めざ...藤原宮宮内先行条坊3

  • 藤原宮・宮内先行条坊 2

    □藤原宮の平面構造藤原宮の平面構造は、大極殿を中心とした大極殿院、その南に政務を司どる朝堂が東西に並び、それらで囲むように中央に広大な朝庭が設けられています。この区画を朝堂院と呼びます。さらにその南には宮廷官吏が出勤時に集合する朝集殿が東西に並びます。この区画を朝集殿院と言います。これらの中枢殿舎群の外側、つまり残りの宮域内には、内裏や官衙群が配置されています。この宮域が宮城十二門と大垣さらにはf外周帯と外濠で囲まれています。整然とした街区が想像されますが、現実には、宮域内といえども中枢宮殿以外の発掘調査はわずかしか進んでおらず、ほとんどが未確認といっても良いのです。ましてや、藤原京全域についてはほとんど手がつけられていない状況と言えるでしょう。□歴史の厚みさて、宮内先行条坊ですが、そもそもこの宮域内には条坊は...藤原宮・宮内先行条坊2

  • 藤原宮・宮内先行条坊

    昨年秋(2021年11月)、『実在した倭京・藤原京先行条坊の研究』をミネルヴァ書房から上梓しました。学術出版は校閲や校正に相当の時日を要します。また、その内容は先行研究を十全に抑えなければならないなど、出版に至るまでには踏まなければならない手順があり、苦労が多いものです。さらには、一旦出版されると、不十分な校閲や校正が指弾されることにもなります。特に校閲は研究者の責任であり、間違うことは時に致命的な問題になります。拙著も一応の原稿が出来上がり、脱稿したのは2020年の夏でしたが、それからが大変で、随分しんどい日を過ごしました。出版まで丸一年かかったことになります。さて、このブログでは、拙著の主題をピックアップして、なおさらにお話ししたいことを書き継いでゆきたいと思っています。時に、勘違いや拙速した間違いが出来す...藤原宮・宮内先行条坊

  • みなさん お元気ですか

    ご無沙汰しています。仕事から離れて5年間、大学の通信教育課程に学び、ようやく毎日が日曜日の生活になってきました。このブログも残日録らしく、書き続けて行きたいと思います。大学で学んだことは卒業論文と、それを延長した拙著「実在した倭京・藤原京先行条坊の研究」ミネルヴァ書房(2021.11)にまとめることができました。生業とした建築の世界もそうですが、今回学んだ歴史学の世界も若い人たちの研究意欲に些かの危惧を感じます。わたくしたちの生活のよってたつ基盤である歴史を疎んじることは後代から叱責されるのではないでしょうか。杞憂であればいいのですが。ブログの表題に書きましたように、「孫たち世代」と一緒に考えたいという謂はそういうことでもあります。是非、会話に加わっていただければ幸いです。では、再開しましょう。みなさんお元気ですか

  • ◆ 建蔽率50%のウソ

    良好な住宅地で建蔽率50%といえば、これは2階建てにすると敷地の半分が空地になることを意味します。わたくしたちはこのように教えられてきました。市民が手にするほとんどのまちの建築設計や都市計画の案内パンフレットでそう描かれているはずです。敷地の半分が空地になるのだから、さぞ緑豊かなまちがつくられてゆくと思うかもしれません。では、東京の郊外にぎっしり建て込む建売住宅の街区。大きな屋敷地が売りに出され、それを細分して20〜30坪の狭小宅地に分割して住宅を建てて売る方式です。どこにでも見る風景です。この建蔽率はどのくらいだと思いますか?これが50%です。ほとんどぎっしりという感じでしょう。空地率が50%あるようには見えないでしょう。空地率50%とれば、緑豊かな住宅地ができるというのはウソなんです。図を描いてみれば一目瞭...◆建蔽率50%のウソ

  • ◆東日本大震災から6年・また1から

    また1から。6回目の311が巡ってきた。復興の現実がみんなの眼に見えるようになって、漸くその計画の未熟さに気がつき始めたと言うところか。ハードな復興計画も都市計画の一部であり、建築計画の一部であってみれば、計画者、建築家が計画段階で身抜かなければならないことがある。声をあげなければならないことがある。ダメなものはダメと。◎住まいは高台に、生産拠点は海岸に。時の総理大臣の掛け声で始まった。まちとはそんな単純なものではないのに。そして今。。。◎津波にあった河岸平地は5メートル以上全面かさ上げするのだと。巨費を投じて完成した時、誰が帰ってきて住むのだろうと思ったものだが。やはり。。。概成した盛り土のてっぺんで現実になった景観をテレビは嘆息している。何だ、これは?と。◎防潮堤で守ろう、と巨大な防潮堤事業が始まった。バカ...◆東日本大震災から6年・また1から

  • ◆森友学園と建築家

    ◆森友学園騒動が喧しい。テレビは連日、賑々しく取り扱っている。その中で、ベンガラ色に塗られた小学校の校舎が竣工寸前で「壊される?」という話が浮上している。小学校設立が不認可になれば、その校舎用地は更地にして買い戻されることになるというのだが。これをブログ再開の最初のテーマにしてみたい。凡そ、誰も言わないことであろうがわたくしは「建築設計とはなんなんだろう?」「建築を設計するものの役割はなんなんだろう?」ということがたいへん気になるのだ。経済的合理性という観点ではなく、建築設計者の職能、ひいては建築家の職能ということについてである。竣工と同時に人為的に壊されるなどという話は姉歯事件以降、寡聞にして知らない。この森友学園の新しい校舎の設計を担当した設計者は何を考えているだろうか?よく言われるように、所詮は建築とはた...◆森友学園と建築家

  • ◆閑話休題2/法興寺と法興年号

    休載中に、たのしい話題をひとつ。それは法興寺に関わることだが、法隆寺金堂の釈迦三尊像に光背銘がある。その先頭は「法興元丗一年歳次辛巳十二月」から始まり、太后、王后、法皇が続けて亡くなったことを記し、その菩提のために釈迦三尊像を作ったという意味の銘が楷書体で陰刻してある。先頭の法興元丗一年は過去の研究、史料批判の成果として西暦621年のこととされている。それは「辛巳(かのとみ)」が決め手となっている。然し、法興という年号は教科書では習わない。それは、7世紀の古代史の闇の中に押し込められている。今はこれに立ち入らない。いずれにしろ、法興年号があったことはこの金石文が明快に示していることが重要だ。そして、それから31年を引くと、西暦591年。法興元年となる。さて、件の法興寺だが、この寺院の名前が法興年号の後か先かとい...◆閑話休題2/法興寺と法興年号

  • ◆ラドバーン3/制限約款

    さて、話が先の方へ飛んでしまったが、その土地利用制限約款というものを具体的に見ておこう。本稿最後にその骨格となる<制限の宣言>部分の概要を掲載している。参照されたい。ラドバーンの近隣住区理論については次回解説したいと思う。制限約款無くしてラドバーンは無く、ラドバーン無くして制限約款はないぐらいにこの二つは不離不可分の関係にある。その元々は近隣住区論を説いたクラレンス・ペリー(1872-1944)がハード設計だけでは無くそれと不離不可分にコミュニティの計画が必要なことを看破していたことである。そのペリーがこのラドバーンの開発に関わったのだ。この場合、「開発者の想い」とはペリーやルイ・マンフォードの想いでもあったのだ。それが制限約款に収斂し、それを運用するHOAの設立に繋がった。そして、1960年代以降のアメリカに...◆ラドバーン3/制限約款

  • ◆ラドバーン2/計画技術の前に開発の想いがあった

    ラドバーンは視察したいと長年思いながら、今なお実現していない。したがって、人の尻馬に乗って理解している部分もあり、特に現場の空気感はそうである。本論が非難を浴びることがあるだろうが、論の的は外していないと思っている。現場報告はいずれ実現したい。ご寛恕をこう。さて、近年、海外への住宅事情を見に行くツアーが花盛りであるらしい。その中でもラドバーンは必見であるようで、WEB上でも賑やかである。そのほとんどは、建築設計資料集成の説明を超えていない、つまり、設計技術としてのラドバーン方式を報告されている。が、一つだけわたくしが気に入ったレポートが目に止まった。転載させていただく。原典はウェブ上に掲載されていた「2008米国住宅地まちなみ視察調査(平成20年6月5日~6月14日)-米国における“住みたくなる街”のデザインと...◆ラドバーン2/計画技術の前に開発の想いがあった

  • ◆ラドバーン1/形だけ取り入れる愚

    ◇ラドバーン都市の設計に携わった建築家であれば、ラドバーンは大変懐かしい思い出をお持ちだろう。わたくしもニュータウンの現場で、あるいは公団の住宅開発や民間の工場跡地の再開発など一団地の計画にわずかに携わった経験があるが、近隣住区理論や歩車分離の袋小路(クルドサック)の計画技術はバイブルのようにして、これを真似てなんとか実現しようとたくさんの絵を描いたものである。建築学会の建築設計資料集成の中では、このラドバーンの住宅地開発について次のように説明されている。ーーーーーーーーーーラドバーン設計ClarenceS.Stain,HenryWright開発CityHousingCorporation建設1928年着工(1929第一次入居)敷地420ha(計画)密度59.5人/haニューヨーク市の北西24kmに建設された住...◆ラドバーン1/形だけ取り入れる愚

  • ◆「中国高速鉄道事故批判」を批判する

    【解題】2016.5.24建築家も一級建築士としては技術屋の端くれである。先の姉歯問題に始まり、技術的な瑕疵や倫理観にまつわる話題は特に最近目立つように感じる。この技術論のカテゴリーではそのような問題について、わたくしなりに理解できたことを記しておきたいと思う。次のテーマは5年前の事故であるが、怒った場所が中国ということもあってか、批判的な論調だった。目に余るので新聞社に投書した元原稿である。◆「中国高速鉄道事故批判」を批判する今回の中国高速鉄道の事故に対する我が国の新聞等ジャーナリズムの論調は概して皮肉を籠めた批判的論調になっています。勿論、建設から10年を経ずして9000キロメートルの鉄路を完成させ、実用化しているところから垣間見える建設時の陥穽もあるでしょう。しかし、コメントを寄せる専門家の言はいただけま...◆「中国高速鉄道事故批判」を批判する

  • ◆デザインの根源/使い道のわからない技術の時代へ

    ◆技術の歴史次世代技術論議が喧しい。曰く「次世代携帯電話」、曰く「次世代自動車」「次世代テレビ」そして「次世代CAD」。夢のような技術が市民生活に還元される未来。はたしてそうだろうか?デザイナーをターゲットとしたCADの世界に眼をやってみよう。デザイナー向けのCADはたかだか20年の歴史である。そう、マッキントッシュがその黎明をつ告げたわけだが、技術の進歩はすごい。携帯電話はIT革命の旗手であった。今までの卓上電話には無い夢の機能を搭載して、「アレガデキル、コレガデキル」とそれこそ日進月歩ならぬ時進日歩の技術を売りに売った。そして今、携帯電話にできることは「写真を撮ったり」「GPSナビゲーション」であったり、「お買い物」であったり、「ミュージックを聞いたり」、そろそろ「映画も見れる」ようになるだろう。だが、ちょ...◆デザインの根源/使い道のわからない技術の時代へ

  • ◆デザインの根源/欲望が技術を引っ張る世界から技術が欲望を追い越す時代へ

    【解題】2016.5.23◆イメージが技術を引っ張る最前線この論稿は2008年から2009年にかけて国土交通省の建設CALSがやかましく騒がれた当時のものである。この狂想曲はどこへ行ってしまったのか?設計調達の未来技術を夢のように描いていたが。いま、時代は設計調達からデザインビルドへと大きくシフトしている。わずか10年前のことだ。1つの技術が成熟する前に、全く違う方向から技術革新がやってきたり、パラダイムシフトが起こって、その技術はどこかへ吹き飛んでしまう。とにかく、進歩の速度はとてつもなく速いようにわたくしには映っている。先に、イメージがデザインよりも前に存在する話をした。このイメージの先行性が厳然と生きているデザインの世界が3つある。ひとつは新薬の開発・医療技術の進歩である。この世界には、長く生きたいという...◆デザインの根源/欲望が技術を引っ張る世界から技術が欲望を追い越す時代へ

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