カラーフィルムのことをぐだぐだ記していても面白くないので、話題をかえます。ーーー新発売されたコダック社のイーストマンカラーを使って日本初の天然色映画しかも時代劇で制作されました。京都市の太秦(うずまさ)の大映京都撮影所で製作されました。ーーータイトルは「地獄門」で出演は長谷川一夫(盛遠、もりとう)京マチ子(袈裟、けさ)山形勲(渡辺渡)千田是也、黒川弥太郎、毛利菊江、荒木道子、ほかスゴいキャスティングでした。ーーー監督は衣笠貞之助(きぬがさていのすけ)音楽は芥川也寸志、関西交響楽団と豪華なスタッフでした。日本初の時代劇、天然色映画「地獄門」
テクニカラー方式の天然色映画が封切りされるのと平行して、色彩写真も始まっていました。普通写真はリバーサルフィルムとして始まっていました。このフィルムは現像、処理されるとカラーの透明陽画として出来上がりました。ーーーこの透明陽画はスライドとして幻灯機?を使って大きなスクリーンに投射して観る方法でした。アメリカの家庭ではパーティでスライドを来客に見せるのが流行っていたそうです。ーーーこの方法は、映画に応用するには後処理が大変で実用化は困難でした。国産初の天然色映画「カルメン故郷に帰る」はあえてこの方法で制作されたのでしょう。透明陽画としてのカラーフィルム
我が国で色彩フィルムによる天然色時代劇映画が企画されるようになって、写真好きの学生だった私も改めて、カラーフィルムを勉強するようになっていました。ーーー赤、緑・青の三原色からはじまってそれぞれの補色となるマゼンタ、イエロー、シアンと判ってきました。この光の三原色は何となく知っていましたが、私には、初めての色温度(いろおんど、しきおんど)がすぐに、理解できませんでした。そして、色温度の単位がK(ケルビン)を知りました。ーーー人間の眼も天然色です。網膜でも赤、緑、青と認識しています。そして、人間の眼でも色温度の問題はあるのですが、人間の脳が映像を分析して色温度を調節しているようです。人間の眼と脳はスゴいですね。ーーー日中の太陽光下の風景はデイライト。夜の電灯下の部屋はタングステンライトと分けられます。夕方の光...初めての単位、色温度
写真の世界では色彩写真つまりカラー写真が戦時中(大東亜戦争)からありました。小学生だった私は親父の引き出しから35ミリフィルムのカラースライドを見ていました。ーーーこのカラースライドには人物が写っていました。フィルムメーカーは日本の小西六、さくら天然色フィルムでした。天然色フィルムは戦時中から世界で研究されていたのでした。ーーー日本の富士フイルム製のリバーサルフィルムを使って色彩映画が制作されたのが松竹大船の「カルメン故郷に帰る」でした。ーーーアメリカのコダック社がコダクローム、エクタクロームなど、色彩リバーサルフィルムを発売していました。そのコダック社が映画用色彩フィルムを開発発売したのがイーストマンカラーでした。さくら天然色フィルム
映画制作で一番大事なものは銀塩フィルムです。この銀塩フィルムをカメラに装填して、撮影するのが映画制作のはじめです。撮影された銀塩フィルムを現像所に送って、現像処理を行います。現像処理を終わったフィルムの画面は、被写体の白黒が反転した陰画(ネガ)フィルムになります。そのネガフィルムを焼き付け処理をすると、陽画(ポジ)になります。ーーー銀塩フィルムを使っての映画制作は大変です。モノクロ(白黒)映画制作の段取りを天然色(色彩映画)に考案されたのが、イーストマンコダック社で発売されたイーストマンカラーでした。ーーーイーストマンカラーで撮影されて現像処理を終えた画面はカラーネガ(カラー陰画)になります。カラーネガは被写体の明暗が反転されて、撮影された色彩は補色になっています。このカラーネガフィルムを再びフィルムに焼...イーストマンカラーの原理
アメリカ土産として私は親父から、シェーファー・シュノーケルという万年筆を貰いました。当時、学生の筆記用具として万年筆は、王者でした。ーーー京都市内の百貨店には文房具コーナーに万年筆の売り場が必ずありました。メーカーから派遣されていたのか、若い女性の店員さんが数人、常駐していました。。ーーー現在の若者はスマホかノートパソコンが万年筆に取って代わってしまいましたが。ーーー当時の万年筆はアメリカからのパーカー製が斬新なスタイルでした。国産製もパイロット、セーラーなどが人気製品でした。ーーー親父からのもう一つの土産、ウェストン製の液温計に、びっくりさせられました。この液温計は白黒フィルムのフィルム現像液の温度管理や印画紙プリントの現像液の温度管理に便利な小道具でした。親父からのアメリカ土産
日本初の時代劇の天然色映画の制作のために使用するイーストマンカラーについて、制作スタッフだった親父はアメリカへ打ち合わせ?として、出掛けていました。ーーー期間は約一ヶ月でした。渡米中の親父からは連絡はありませんでした。当時の国際電話は電話代が大変でしたから、仕方がないことでした。ーーー一月ほどして、親父は無事帰ってきました。アメリカへの往復はパンナム航空でした。ーーーパンナム航空に搭乗した記念に、パンアメリカンのマーク付きのバッグをもらってきました。それと、アメリカへ行くのに途中に、日付変更線があります。その、日付変更線を越えたという記念のシートも、貰っていました。日付変更線を越えて
日本で時代劇映画を天然色で制作することになって、その制作スタッフになった親父は他のスタッフと一緒にアメリカへ出掛けました。ーーー期間は約一ヶ月でした。無事、帰国した親父にアメリカの土産話を聞きました。ーーー日本より先にアメリカではテレビ放送が始まっていました。その影響がすさまじく、親父らが訪れたハリウッドは活気がかんじられません。改めて、テレビの影響があったと私に話してくれました。ーーー親父はコダック社へ出掛けると同時に、もう一つのフィルムメーカーのアンスコも訪れました。アンスコのスタッフはイーストマン・コダックに負けましたと、話していたようでした。ハリウッドの現状
米国コダック社で新しく映画用カラーフィルムが出来たという、ニュースが入ってきました。ーーー映画人だった私の父親はその、新しいカラーフィルムを使って、天然色映画を制作するスタッフになりました。父親はじめ、その映画制作のスタッフの何人かはアメリカへ行くことになりした。ーーー制作スタッフがアメリカへ行くのには、飛行機です。確か、羽田からパンアメリカン航空(パンナム航空)でした。日航には、まだ国際線が無かったのでしょうか?何分、70年ほど前の話です。パンアメリカン航空で渡米
新しく出来上がったイーストマンカラーを使って日本で天然色映画を制作するプランが上がってきました。しかも、内容は時代劇を制作するというものでした。ーーー日本初の天然色映画は松竹大船の「カルメン故郷に帰る」と「夏子の冒険」は二本とも現代劇でしたから野外撮影つまりロケーションが主で、制作されましたが、今度は、時代劇です。時代劇はスタジオつまりセット撮影が主になります。スタジオ制作は、タングステン電球の照明で撮影されます。ーーー太陽光で撮影するロケーションよりはるかに暗い電灯光によるスタジオ撮影はどうするのでしょう?当時の私は映画人だった父親に色々尋ねていました。イーストマンカラーで時代劇を
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