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石ころ https://blog.goo.ne.jp/bachan-no-1

日々の聖書通読から、聖霊のお導きによって気づかせられたことや、 新しく教えられたことなどを書いて居ます。 それは今日を生きるための知恵となり、失敗からの守りとなります。 また、不意な出来事に対して、予め備えてくださる言葉でした。

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2016/04/03

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  • 誓願のための捧げもの ②(レビ記27 章)

     家を聖別した人がそれを買い戻したい場合は、評価額に五分の一を加えれば、それは彼のものとなる。(15) 二割の余地、それは引き返すことを許す主とのコミュニケーションの備えのよう・・。人の判断は揺らぐものであり、「間違ってしまった」と悔やむことがあるから、人の心をご存じの主は、後悔が残らないように取り戻す余地を残された。 アナニヤとサッピラの罪は、主に信頼して自分の真実を話さなかったことである。「本当は信じ切ることが出来なくて、自分のために取り置きました。私の不信仰をお赦しください。」と使徒の前で告白すれば、彼らは死ぬことはなく、責められることもなかったであろう。そのとき、聖霊を偽る罪を犯さずにすんだのだから。 ただし、家畜の初子は主のものである。初子として生まれたのだから、だれもこれを聖別することはできな...誓願のための捧げもの②(レビ記27章)

  • 今日の歌(2022.08.29)

     百日紅登りし子らは今何処(いずこ)長袖を引き出す宵の静けさや今日の歌(2022.08.29)

  • 誓願のための捧げもの ①(レビ記27 章)

     主はモーセにこう告げられた。「イスラエルの子らに告げよ。人が人間の評価額にしたがって主に特別な誓願を立てるときには、(1~2) 人間の価値観と、命を造られた神の価値観は違う。信仰の初めの頃に「キリストはあなた一人のためにでも十字架にかかってくださった。」というメッセージを聴いたとき、感謝と喜びに満たされた。心に真っ直ぐに届いて平安に満たされたからである。キリストは十字架で、一人ひとりを百パーセント愛してくださった。百人居ても百分の一ではないことを知ったのだ。 キリストの聖めと赦しを体験していたからであり、すべては、創造主の愛から発していることを知って、心安らかに「アバ父」呼ぶ霊をたまわり、祈る時はいつも「愛する天のお父様」と呼びかけるようになった。とても自然に・・。 その評価額を次のとおりにする。二十歳...誓願のための捧げもの①(レビ記27章)

  • 従順には祝福を不従順には懲らしめを ④(レビ記26章)

     「わたしはさらに、あなたがたの罪にふさわしく、七倍激しくあなたがたを打ちたたく。」(21)イスラエルの民が不従順によって聴き従わなかったとき、主はこう言われたが、 わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こす。またイサクとのわたしの契約を、さらにはアブラハムとのわたしの契約をも思い起こす。わたしはその地を思い起こす。(42) このように祝福の契約を思い起こすとある。しかし神は契約を忘れるお方ではないので、此処では、アブラハム契約を取り出して彼らを憐れまれたのであろう。 あなたの神、主はあわれみ深い神であり、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの父祖たちに誓った契約を忘れないからである。(申4:31) 人類の祝福はアブラハム契約に発している。「地のすべての部族」とは世界の民である。このことの故に罪の結果...従順には祝福を不従順には懲らしめを④(レビ記26章)

  • 今日の歌(2022.08.24)

     ひっそりと深夜に香る白百合は眠れぬ我の作業見守る 山登る胸に恐れのあるままに薪背負いしイサク導き今日の歌(2022.08.24)

  • 従順には祝福を不従順には懲らしめを ③(レビ記26章)

     もしあなたがたがわたしに逆らって歩み、わたしに聞こうとしないなら、わたしはさらに、あなたがたの罪にふさわしく、七倍激しくあなたがたを打ちたたく。(21) 愛とは重いものである。それが神のひとり子をたまわるほどの愛ならなをさらである。遥か昔に自然発生した命は目的を持たず、創造する愛とは無縁な存在であろうが、人は宇宙を創造された神の愛によって、交わりの目的を持って造られた故にそれは非常に重いのである。 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」(創1:26) 人は、神のかたちに造られたゆえに、すべての生き物とは全く違って、神に愛されている存在である。神は猿も造られたが猿...従順には祝福を不従順には懲らしめを③(レビ記26章)

  • 従順には祝福を不従順には懲らしめを②(レビ記26章)

    しかし、もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、これらすべての命令を行わないなら、また、わたしの掟を拒み、あなたがた自身がわたしの定めを嫌って退け、わたしのすべての命令を行わず、わたしの契約を破るなら、わたしもあなたがたに次のことを行う。わたしはあなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病で目を衰えさせ、心をすり減らさせる。あなたがたは種を蒔いても無駄である。あなたがたの敵がそれを食べる。(14~16) 此処は聞き分けのない者に向かって、主が叫んでおられるようようである。神が人を退けたのではなく、人が神の祝福のことばに反抗して退けるのである。人は、神の祝福によって労働の実を得て生きる者であり、この世でも健やかな魂と、永遠のいのちを守っていてくださる。 主を離れて夜も眠らずに頑張っても、その実を食べることが出来る...従順には祝福を不従順には懲らしめを②(レビ記26章)

  • 今日の歌(2022.08.18)

     主に在りて老いて踏み出す初めては弱さのうちにすべての備え キーを打つ八十路の指の曲りしよ心曲がらぬ守りを給え今日の歌(2022.08.18)

  • 従順には祝福を不従順には懲らしめを ①(レビ記26章)

     あなたがたは自分のために偶像を造ってはならない。また自分のために彫像や石の柱を立ててはならない。あなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしがあなたがたの神、主だからである。(1) ご自分の民を愛される神は、民が偶像礼拝の罪のゆえに滅びることがないように警告された。これは後の、神に創られたすべての人に向けて告げられているのである。「自分のために造るな」とは依頼されて作ったとしても、結局それは自分に何か見返りがあってのことで、自分のためなのである。 何の益にもならない物を神に反逆して造り、悪霊に住まわせおめおめと滅びの死に向かって行く、愚かさを止めよと言われる。創造主なる神を愛しキリストの愛に満たされて、永遠のいのちを得よと、滅びゆく者を惜しまれてのことである。 あなたがたはわたしの安息日...従順には祝福を不従順には懲らしめを①(レビ記26章)

  • レジーナさんコメント感謝します

     長くなりましたので、こちらに書かせていただきます。そのことは、確かに霊に触れられた現れだとは分かりますが、気分が悪くなるだけで、交わりが存在しないのは最悪だと思います。聖霊はとても繊細で、個人的なお交わりに在る方ですから、残念な出会いだと思います。 三位一体の神である聖霊は、私たちのもっとも親しい方であり、私たちの霊のうちにおられ昼も夜も、良い時も悪い時もずっと共に居て下さり、すべてを良く知っていてくださる方です。それは、父なる神が妬まれるほどの関係です。それゆえ必要は自分で願えば良いのです。「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。(ヤコブ4:5) たとえばあなたに愛する子どもたちがいて、慈しんで育てている時に、他人がやって来て子どもたちの願いが伝えられたとしたら、あなたはと...レジーナさんコメント感謝します

  • 霊的な生き方

     割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。これからは、だれも私を煩わせないようにしてください。私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから.(ガラテヤ6:15~17) 三位一体の神である聖霊の内住には、キリスト者を御住まいに相応しく、聖霊の炎によって十字架によるきよめのしるし、イエスの焼き印が押されている。その人にサタンは指一本触れることも、訴えることも出来ない。三位一体の神の御住まいだからである。 聖霊は霊の深いところにおられるゆえに、外から見て分かるものではなく、ちょっと接して分かるものでもない。同じ御霊によって目を開かれた者には、互いのうちにおられる主...霊的な生き方

  • ヨベルの年 ④(レビ記25章)

     もしあなたの同胞が落ちぶれて、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、彼をあなたのところに在住している寄留者のように扶養し、あなたのもとで生活できるようにしなさい。彼から利息も利益も得てはならない。あなたの神を恐れよ。同胞があなたのもとで生活できるようにしなさい。(35~36) 同胞とは神が愛する民であり、そのことを覚えて接する関係にある。豊かであるか、貧しいか、ということによって価値を量ることをせず、役に立つか、そうではないか、によって態度を変えることもない。ただ、神が愛しておられる人として助け、主に在る尊厳をもって接することは、神の民に相応しい姿であろう。これは、教会の在り様でもある。そのとき主がどれほどに喜んで祝福し、愛するための必要を、溢れるばかりに満たしてくださることであろう。 わたしはあな...ヨベルの年④(レビ記25章)

  • 今日の歌(2022.08.11)

     炎天下住まい造りに奔走す吾子を見つめて主に安らけし今日の歌(2022.08.11)

  • ヨベルの年 ③(レビ記25章)

     人が、城壁を巡らした町の住居を売るときは、それを売ってからの一年間は買い戻す権利がある。買い戻しはこの期間に限る。(29) 住居は家族が生きる場所である。それは耕作地ではないので、落ち着いた生活を守るための、家族に対する優しさであろう。一年以上生活をしていて子供がいるかもしれない住まいを、追われることがないようにという神のご配慮であろう。 主により頼む者には、主が家族ぐるみの暮らしを守ってくださる。みことばにより頼み、主に安らう家庭には、永遠の望みとキリストの平安がある。また、彼らの安住の先は、キリストが天に備えてくださった永遠の住まいが待っている。 もし満一年になるまでに買い戻されないなら、城壁を巡らした町の中のその家は、買い戻しの権利の喪失により、代々にわたってそれを買い取った人のものとなり、ヨベル...ヨベルの年③(レビ記25章)

  • 「神である主はこう言われる」と言え

     およそ愛の無い者に、完全な愛である神のことばを伝えさせ、義のない者に、神の義を語らせるのはアイロニーである。それでも臆面もなく、顔を赤らめもせずに語り続けて止めないのは、うちに満たされることばに拠る。それを押しとどめる術がないのだ。神のことばを語るのに、自分を差し挟むことはナンセンスであるけれど、それでもうめき声が漏れるとき、聖霊が望みのみことばで覆ってくださる。 「見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔に合わせて硬くし、あなたの額を、彼らの額に合わせて硬くする。わたしはあなたの額を、火打石よりも硬いダイヤモンドのようにする。彼らを恐れるな。彼らの顔におびえるな。彼らは反逆の家なのだから。」その方は私に言われた。「人の子よ。わたしがあなたに告げるすべてのことばをあなたの心に納め、あなたの耳で聞け。さあ、捕...「神である主はこう言われる」と言え

  • 今日の歌(2022.08.06)

     子らを待つコロナ調べて帰郷せん主の守り給う微笑みを待つ今日の歌(2022.08.06)

  • ヨベルの年②(レビ記25章)

     土地は、買い戻しの権利を放棄して売ってはならない。土地はわたしのものである。あなたがたは、わたしのもとに在住している寄留者だからである。あなたがたの所有するどの土地においても、土地を買い戻す権利を認めなければならない。(23~24) 土地の買い戻しの権利を放棄してはならないのは、神のものを捨てることだからである。神にたまわった恵みを捨てることは関係を失うことである。永遠のいのちを失うことに繋がるからある。 人は皆、主が創造された地に寄留しており、万物も、自分の命も家族の命も、神から借用しているものである。創造主は神だからである。神のものである故にたまわっている所で、たまわった命の分を安息して生きることが出来るのだ。すべては良き方の庇護の元に在り、完全に備えてくださる御力のうちに在るからである。 もしあな...ヨベルの年②(レビ記25章)

  • ヨベルの年 ①(レビ記25章)

     あなたがたは五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰る。(10) 神が創造された地は神のものである。先祖に割り当てられた地は子孫が受け継ぐ。一時的に手放しても、神の者が神の定められた所に帰る権利は奪われないのだ。神によって人が治められるとき貧困の連鎖は起こらない。親の貧困によって土地を失っていても、神の与えてくださった地に、子らが帰って来るチャンスが備えられていたのである。しかも代価を支払うこともなく。 この五十年目はあなたがたのヨベルの年である。種を蒔いてはならないし、落ち穂から生えたものを刈り入れてもならない。また手入れをしなかったぶどうの木のぶどうを集めてはならない。(11) 畑に...ヨベルの年①(レビ記25章)

  • 今日の歌(2022.08.02)

     静かなり蝉さえ鳴かぬ昼下がり 肌を焼き蝉の声さえ絶える道深き緑陰備えられたり今日の歌(2022.08.02)

  • 安息の年(レビ記25章)

     主はシナイ山でモーセにこう告げられた。「イスラエルの子らに告げよ。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は主の安息を守らなければならない。(1~2) これから先住民の住む地に入って行くと言う時に、主が民に命じられたことは、なんと安息することであった。如何に戦うかでは無く、敵を知ることでもなく、よく働いて地所を広げよでも無く、主の命令に従って休むことであった。 このことはキリスト者の人生にも同じである。キリスト者ゆえの戦いがあり、計画が行き詰って思い煩う事もある。しかし、キリスト者には先立つ聖霊の火がみことばを指し示し、雲の柱が主の臨在を思い出させ、わたしに安息せよと命じてくださる。 正しい人の行く道は平らです。あなたは正しい人の道をならし、平らにされます。(イザヤ26:7)正しい人...安息の年(レビ記25章)

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