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小梅日記 https://blog.goo.ne.jp/koume87

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解きます。

旅日記や万葉集、百人一首などもあります。

小梅日記
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2016/02/16

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  • 山菜

    昨日満開のサクラもこのこの週末でおしまいだろうか。春が来た証のさくら。もう一つの春の証は山菜だ。町育ちだったせいで山菜という存在を知らなかった。見ても雑草程度にしか思えなかった。それが今は山菜大好き。メルカリでワラビやゼンマイを買ったりしている。きっかけはもう何十年も前に奈良の新興住宅地に引っ越したときだった。息子は一歳だった。真新しい遊園地で息子を遊ばせていて女の子を遊ばせていたS三と知り合った。Sさんは田舎育ちで山菜や山草に詳しかった。山を切り開いて造られた住宅地だったのでまだまだ自然いっぱいだった。私たちは子どもを連れて自然の中を歩き回った。帰りにはビニールの袋に戦利品がたくさん入っていた。戦利品…わらびにつくしに芹にゼンマイまであった。アクの抜き方を教わっておそるおそる食べた。今ならネットですぐに...山菜

  • 春が来ました

    四月になったらブログを始めようと思っていました。去年からいろいろあってとどめは14才のダダ(マルチーズ)が虹の橋を渡ってしまったこと。今、やっとなんとか立ち直ろうという気になりつつあります。手始めはブログに再開ですが長年書き続けてきたlivedoorの編集には入れなくて諦めました。ここは小梅さんに日記を書くところなのに中断したままですが、時々雑記として書かせてもらおうかと思います。桜も咲き始めることですし。もうずっと外出先は殆どお医者さん。両足の股関節置換手術をしたのが昨年の一月でずっと週一でリハビリに整形外科に通ってます。MRIとか胃カメラとか通院にはそれなりの理由があって…夏の肺炎で入院した時には糖尿病と大動脈瘤が発見されてビックリでした。糖尿病は入院中に治してくだされありがたいこと❗️動脈瘤の方はC...春が来ました

  • 来年にのぞみを

    とうとう大晦日です。去年今年と入院という出来事があってこれはお産を除くと16才以来のできごとで心も体も周囲も混乱しておまけに16年いつも一緒だった末っ子のダダの先立たれ本当にぼーっと呼吸するだけの日々でした。しかしじっくり考えればつぎのあの世への旅立ちまでの日数はもう決まっているのでしょう。来年は己を戒め「小梅さん」とおつきあいしたいと思います。今は!です。老齢になるとどんな病や事故が待機していることでしょう。元気でピチピチしている友人は残念ながら一人もいません。…とまあ弱気なことですみません。みなさま、よいお年をお迎えください。来年にのぞみを

  • 七月朔日 晴

    七月朔日大層暑い。主人は夕方前から外出して6時過ぎに帰った。久野は里へ行き、雄介はいさと虎之丞を送りに行った。遠藤小四郎、保五郎よりスイカをもらった。そのスイカにそうめん11把添えて田中への中元祝儀とした。七月朔日晴

  • ご報告

    決心がつかないで長い間うじうじしてましたが、ついに手術してきました。1月13日に入院して14日に両足の人工股関節置換術を受けました。三週間の入院と言われたところを二週間に値切って27日に退院しました。入院中はずっとマルチーズのダダが玄関で待っていたという。夫がそんな写真を送ってくれて胸が痛みました。だからリハビリも頑張って褒められた次第です。近所の整形外科への紹介状をいただいて直営のリハビリテーションに週に二回リハビリに通っています。親戚の老婦人も両膝を手術したそうですが二ヶ月経つと手術したことを忘れるくらいとのこと。早くそうなりたいです。さくらの頃には出歩けると良いなあと願っています。ご報告

  • 近況報告

    すっかりご無沙汰してしまいました。加齢に重なって体調不良であります。三年前から痛んでいた脚が悲鳴を上げだし、もう逃げられずに整形外科の専門病院受診決意。でも、通っていた整形外科で紹介してくれる病院はなぜか厭で他への紹介状も書いてもらえず困惑。と、夫のゴルフ仲間が三人も肩の手術を受けて絶賛している病院を知りました。早速HPへ飛んで紹介状なしでも良いとあって行ってみた次第です。あ、病名ですが変形性関節症です。MRIを見て先生は「両足ともかなり悪いですね。一度に両足の手術をしましょう」と。テレビドラマの見過ぎでしょうか。瞬間に太ももを走るメスの姿が脳裏を走って怖さに震えました。私は怖がりです。だから手術は厭だと言って次の診察日を聞いて帰宅しました。一ヶ月後の診察日もMRIのあと先生の顔を見てよろしくお願いしますと言っ...近況報告

  • 六月晦日

    六月晦日晴大いに暑い。昼前に清吉がきた。酒販を出したがご飯は食べなかった。夜は住吉の賑わいを見に母と久野らが行った。お金がにぎり寿司を少しくれた。主人は岡本へ見回り、遠藤らへ行く。提灯を借りてくる。六月晦日

  • 六月二十九日

    六月二十九日晴十時頃に藤助がきた。山本健次郎も居て昨夜のことを話し、督学の元に集まるとする。健次郎と藤助が先に行き、主人もすぐに行った。柴やがきて、札三十枚と金一歩支払う。六月二十九日

  • 六月二十八日

    六月二十八日晴主人は暑気見回りに行く。先日の約束なので岡野平太夫殿の方へ行き『環海異聞』を返すそうだ。夜、藤助主と浅之助主が一緒に来た。岩橋はかつおの造り、山本は造りふた鉢の計三鉢持参。主人の帰りが遅かったが、何か談じごとがありそうな様子。しかし、別段話もしないで帰った。主人は田中、上田、荻野らへ行くとかで急いでいた。六月二十八日

  • 六月二十七日

    六月二十七日晴昼前に世古蔵助がきた。酒を出していると村井定二郎が子供を連れて弓を持参した。魚を五尾さげてきた。一緒に酒を出す。主人は二時過ぎから三浦公へ行く。橋本へも寄るとのこと。六月二十七日

  • 六月二十六日

    六月二十六日晴大暑。山本督学が見回りにこられた。雄介が見回りに行く。武田半助もくる。あとは会にて富永、栗山、田中、山本が来る。壱封と六匁は酒三升代、雄介は田中でゆあみし酒飯を済ませて帰宅。夏目も呼びに行き、夜に皆が帰ったのは10時ころになった。六月二十六日

  • どうしてだか

    おくればせながらしんねんおめでとうございます。同じ事を投稿したのですが消えていました。体調を崩してさぼっているうちに操作も忘れてしまったのかも(汗)まだもう少し小梅さんには頑張ってほしいです。これから幕末に向けて新しいことにたくさんであうのですから。のろのろの歩みですが宜しくお願いします。どうしてだか

  • 六月二十五日

    六月二十五日晴今日は左氏の会。了吉が見回りにきて一盃だす。平松良蔵から手紙と葛一袋届く。代三匁。四時過ぎに良吉は帰った。畳紙一つ送る。夕方過ぎに久野が来た。虎之助、たみの、千代もきた。夜、天神へ参詣し、みな泊まった。夏目楠蔵も同道。出口が持参したスイカと酒を出す。二時頃寝た。六月二十五日

  • 六月二十四日

    六月二十四日晴学校当番。4時頃遠くで雷鳴が鳴る。出口千代が子供を連れてきた。今晩は久野が来るはずだったが用が出来たので明晩参るとのこと。夕方まで遊び、いさが岡崎屋に行くのに連れだって行った。六月二十四日

  • 六月二十三日

    六月二十三日晴江戸や熊野へ出張した筋は大方帰る。また、江戸へ行く者もあり。船は見えなくなったそうだ。昨日、美濃へ手紙を出した。主人は昼前から岩橋へ行った。出口が重箱を送ってきた。四時頃、本と肩衣を返す。六時頃に主人は帰宅し岩橋へ行く。一盃飲んで正住寺へいき桜を見て休みそれから御駕籠町へ。善之助主も来ていたそうだ。六月二十三日

  • 六月二十二日

    六月二十二日晴雷鳴が聞こえ夕立が来そうだったが降らなかった。三浦公へ行く。名三つの書き付け持参する。奥方はおせいという。持参のものはみな使えば良いし又考え直すはず。毎年、精米問屋に作り物があるあるのだが今日はなかった。六月二十二日

  • 六月二十日、二十一日

    六月二十日晴勉強会で人々が来る。遠藤一郎が見回りに来る。山本弘太郎が仙人酒一徳利と水粉一袋よこす。桃井からは豆を一袋。揚げ物をする。岸から葛まんじゅう十六個が送られた。夕方にまんじゅう五つと揚げ物など持って久野が帰る。いさも送りに行った。千代に会う。小梅の亭主がくる。山本健二郎も見回りに来る。六月二十一日曇る。神奈川まで蒸気船がきて、すぐに退いた。六月二十日、二十一日

  • 六月十八日、十九日

    六月十八日晴暑い。為之助は宿に帰る。夜、浅之助が来る。酒を出す。六月十九日晴おおいに暑し。夕方、為之助が来る。昼、使いが来る。桃井からも使い。雄介は暑気見回りに近所へ行く。吉田庄太夫へ江戸への状を頼む。夜になって千代、直らの子を迎えにきた。くりわた持参。六月十八日、十九日

  • 六月十七日

    六月十七日晴大暑。異国船がおいおい騒動となって対処のために人々が出立する。異国の人ののぞみは伊豆の大島を借りたく不承知ならば手向かってくるとのことで、九十軒に三千人ほどづつ乗組んだので船が山のように見えるそうだ。一戦のつもりで小谷某が相務めたとのこと。江戸からの状の写しをしるす。こちらにてもそれぞれ仰出され、一番手二番手まで出す。金沢弥右衛門の組下三十人ばかりを呼び出し、この度の義につき具足七十出したがこの内の二領は自分の着用分也。そお余は皆々へ貸し遣わし金十両ずつ貸し候。大いに受けた。渡辺一角、千本某、は今晩出立する。久野殿も仰せられる。菊の間づめになった処、また元のようになって支度ができ次第江戸へ参るべし。これは異国船の外のことだとのこと。かててまぜて又一昨夜、宮崎、野口、橋本、西岡、これらは二里の外へ追放...六月十七日

  • 六月十六日

    六月十六日曇曇る。蒸し暑い。夜、出口の老母が帰られる。皆で片原まで送った。六月十六日

  • 六月十四日、十五日

    六月十四日晴れた。しかし、大分涼しい。夜に出口の家内が来た。酒は徳利で二。六月十五日おおいに暑し。善之助どのがくる。栗山も会のつもりでくる。酒一つ出して直ぐに帰った。夕方から安兵衛を連れて川原へ行く。月が美しく趣がある。十時頃帰る。大手御門の所に千太郎がきている。回状がきたそうだ。このたび、フランス船が来る候につきめいめい相心得ているようにとのこと。岩橋に回す。六月十四日、十五日

  • 六月十三日

    六月十三日このところ高野山近辺は雨が降っている。川の水は少し濁っているらしい。雲が少々でていたが雨は降らない。ぶしゅかん酒を取る。内田が米を三斗送ってきた。喜助に酒を飲ます。あては何もなし。こしあんを五本送る。夜、えそを二匹買いに行き一杯やる。うちでの孝経の会の後で雄介は川原へ行く。千太郎と万次郎も同道する。酒肴を夏目と岩橋と二人出す。夕立は気配ばかり。六月十三日

  • 六月十二日

    六月十二日晴かなり涼しい。学校当番だ。二時前に為之助が男を連れてくる。なすびが11の花をつけた。学校から三浦へ直行する。夜になって虎之丞が帰る。六月十二日

  • 六月十一日

    六月十一日晴三浦へ肴を求めに行った。朝から遊びかける。大いに忙しい。夕方、虎之助が饅頭持参で来る。夏目は会でくる。菓子を出す。いさを同五へ酒を取りにやる。遠くで雷鳴がしたが夕立は期分程度。六月十一日

  • 六月十日

    六月十日晴夜、金比羅へ参る。月、色も大きさも大いによし。林一平太が文章を見せに来る。そのあとに鳥谷宗吉もきた。どちらにも酒を出さなかった。為之助は朝帰り。六月十日

  • 六月九日

    六月九日晴早々に起き出して岡野氏へ稽古に行く。下屋敷は花盛りなのでそこで本読みもよしというので、その節には雄介も連れてくるといいとおことで同道した。昼前に帰る。主人は督学へ寄る。昼飯は岡野で頂いた。おおいに節倹で菜飯になすびのお汁。キスを焼いたものをつけ、酒も飯の時に二、三こん勧めたばかりで肴なし。誠にこれらはいにしえの人の風にておもしろい。帰る折にも丁寧に送りにこられ礼儀厚い。主人はそのあと山本で一盃よばれて二時頃に帰った。今日は少し風があって、みなを休ます。明日とふりかえ絣の布をのばす。六月九日

  • 六月七日

    六月七日極暑なり。主人は学校当番で出かけ、二時過ぎに帰宅。少し休んでから三浦公の元へ行く。夕方に田中の母者と久野を連れて帰る。虎之丞、為之助、雄介もしばらく行っていないので送った。いさも同様。畑屋敷の梅本からお茶を送られる。さて、昨日、山口兵馬ご用の儀があるについて他所に出さぬようと申し出があった。直ちに兵馬を身請けし、まずお上がり候と上へ通すと、さて私にご用とは御改易のことかいかがと尋ねる。役人が来て宇治杉の馬場の横のきんの屋敷で申し渡した。「その方の儀、不埒のことなれど、いちいちお尋ねにも及ばないとのことで囲い入れて屋敷を取り上げという粋な改易となった。女どももそれぞれへ帰すように。跡を調べてみれば何もかも片付けてあり、ただ柴部屋の二階にしろいものが見えたがそれは白木の長持ち2棹だった。中には女物の絹の衣服...六月七日

  • 六月五日

    六月五日極暑。会に富山、栗山、山本が来た。夜には皆で鷺の森へ参った。主人と小梅は留守番。安兵衛が働く。二匁遣わした。丸山から米二斗持ってこられた。六月五日

  • 六月四日

    六月四日非常に暑い。まことに耐えがたいほどの暑さだ。歳二郎は祭りらしい。沼野からやまももを一籠持参される。鈴木正五郎は鰺三匹と餅をもってきた。風が少々でてきた。安兵衛がちょっときた。六月四日

  • 六月三日

    六月三日今日は昨日より少々涼しい。岡野へ行く。夕方、久野が帰る。為之助と虎之丞らがいさを連れて行き12時頃に帰る。湯を浴びて寝たのは2時過ぎ也。おおいに暑い。寿司や菓子を送られる。雄介もいて、昨日から申し込みがあっておおいに盛会。六月三日

  • 六月一日、二日

    六月一日早天。主人と雄介と八幡へ参詣した。帰りに片原へ行く。母君は留守居。六月二日あまりの暑さに耐えかねる。学校当番だ。今日まで法事。岩橋で一盃飲んだそうだ。4時過ぎに小梅と久野の髪を結いに来る。終わってから一盃出す。寿司と取口を取る。夜、出口から使い来る。内田からは柏餅、田中からエンドウが届く。そらまめを3升ほど安兵衛の娘に持っていった。京の八十一郎から状が届いた。六月一日、二日

  • 寒い年末

    今年もあと一日となりました。のろのろ、とろとろですが来年もこんな調子で続けていくつもりです。お読みくださったみなさま、ありがとうございました。良い年をお迎えくださいませ。寒い年末

  • 五月二十九日

    五月二十九日まことに暑い。土用よりも耐えがたい暑さ。会で武田源右衛門が何か申し先へ帰った。後から皆が来た。夕方から主人は浅之助を伴い絵絹二幅を持って岡本綠邨へ絵を頼みに行った。くじら尺八尺二寸有るのを三つに割って二つを持参したらしい。米屋へ六匁払った。〆。五月二十九日

  • 五月二十八日

    五月二十八日九時頃に半袴を着用して登城する。佐野伊左衛門殿が仰せられた。そのあらましはこれまで三歩五厘以上だったが、春恭院様(前藩主・徳川治宝)の思し召しによって度々さしゆるし度思し召しになるのでお勝手がむつかしく、そのまま続けていたが、このたびは中将様(現藩主・徳川慶福)も春恭院様のなさりよう(浪費?)をご披露になってそれゆえ今後はみなも贅沢を慎むようにとのお達しがあったとのこと。昼過ぎに帰った。が、学校で講義があるので休まずに行った。江戸の菊池から書状が来た。岩橋、山本へも一所にきた。高野山登りの詩が一首有った。遠藤蔵主昨年に六十谷から養子をもらった祝いにと餅を送って寄越した。岡野へ行く約束だったが彦十郞殿かsら断りが入った。夜、一丁目へ目薬を買いに行く。五月二十八日

  • 五月二十七日

    五月二十七日晴二時頃から三浦へ嫁入り。雄介、弥一郎、為之助らが見に行った。花嫁は備中の国、備中の守の娘御だ。一昨日に船が着いた。美しく本式で非常に盛大だったという。荻野惣五郎は小笠原流諸礼家に召されているが一人では覚束ないので、和田与三左衛門の母が小笠原流の諸礼をよく知っているのでお屋敷に上がって指図することになったらしい。通り筋は水手桶などだし、四丁町店は片付けて美しく飾っていた。あられに似ているとか。丸の内では土手に人を上がらせない。役人が出て警護するなどまことに厳重だ。今日は日前宮国安様御祭礼でもあり、花嫁見物との両方で人の出がおびただしいのだ。夜に久野が来た。虎之丞や千代らがついてくる。岸から回状がきた。明日二八日半袴着用で午前九時に登城すること。岩橋へ回し奥向の小野田へ回す。万次郎、虎之丞、為之助らみ...五月二十七日

  • 五月二十六日

    五月二十六日晴三浦公から手紙が来る。嫁入りの縁女の船が着いたので明日は引っ越してくるゆえに稽古をお断りとのこと。会には真善はじめ皆々がきた。松江で鉄砲の弾が肩に入ってうめいている人がいるという。朝寝していたらしい。和田安太郎が鯖を持参した。梅本にわけてあげた。五月二十六日

  • 会えないまま

    同人雑誌に入っていた。ネットで知ってまだ創刊2号という同人雑誌だった。書いて原稿料を得ていたのに書いてお金を払うのである。活字離れの昨今ではあるけれど、まだまだ書きたい人がいる。一年で4冊、春夏秋冬に出す。1頁いくらの分担金と年会費だけでは足らないから主宰に苦労は大変だっただろう。不足分は自費で補填してでも続けると頑張っておられた主宰。号を重ねるにつれて期待していた人たちが何人かやめていき、自分が書き続けるトコロではないと居心地悪くやめますとメールを送った。残念です。自分が膵臓癌になってしまったけれど命ある限り頑張りますとの返事。そうなると止めずに止められず半年ほど会費だけを払っていた。秋号がでているはずなのに知らせがないのは出稿してないからか。お見舞いをかねてメールしたら主宰の娘さんからの返事は訃報だった。予...会えないまま

  • 五月二十五日

    五月二十五日今日は左氏、いや、後漢書の会。札川、富永、栗山、板坂、山本らが来る。大いに暑く仏手柑の茶を飲む。田中はこなかった。糸を染めていたら色が悪くて、またとって染めた。夜分、出かけた主人はすぐに帰った。五月二十五日

  • 五月二十四日

    五月二十四日おおいに暑い。学校当番だ。羊羹一本持参で岩橋へ見回りに行く。藤助は風邪で具合が悪かったが、大分良くなったらしい。4時頃から米与へいく。勘定八拾目かえる。いろいろ勘定して差し引き残ったのは壱百九拾八匁。正味参百四拾目余り。八石。楳本へ見回りに行って飯を食べた。布を広げたが糸が足りなかった。五月二十四日

  • 五月二十三日

    五月二十三日快晴する。昼頃、有馬武右衛門が何かの挨拶だとかで来る。あり合わせの酒を出す。上九(仕出しや)へ雄介が行き鯖と二本取口三鉢持ってくる。昼過ぎに帰った。その後へ督学が挨拶にと来られたが直ぐに帰られた。夕方、遠くで雷鳴。主人は諸処へ挨拶や見回りに行く。五月二十三日

  • 五月二十二日

    五月二十二日天気よし。三浦公(三浦長門守・家老・学問所掛かり)へ備後の木下から嫁御が来るというので人々が見に行く。当方の主人もお祝いに行った。督学へもこの間の礼に行く。仕廻清吉へも行く。提灯を借りて帰った。岡野氏へ教えに行く。気分が悪くなって人参入りのえきしとうを取ってきた。為之助は故郷に帰っている。三浦公の嫁は海上にいて今日は着かない。五月二十二日

  • 五月十九日、二十日、二十一日

    五月十九日終日、小雨が降り続く。五月二十日ようようと日が当たる。糊(布類に)をする。山本樟亭の三回忌の逮夜で呼ばれる。四時前から八時すぎまで。左氏の会があったがいつもより少し始めた。五月二十一日また曇る。岩橋からはすいもをとりにきた。提灯を返す。布安染物へ紋書で持参。まわし地五尺五寸、一匁一分。緋縮緬一尺、一匁三分。これは梅本分。太平御覧初一冊、合へき字類十冊を岩橋に使いに返えさせる。二十一日は三浦殿へ九州の方から嫁御の道具がくるらしい。まだ詳しいことは知らない。三浦公の家人の岡田志津摩から、明日は縁女引越につき稽古お断りという手紙が来る。五月十九日、二十日、二十一日

  • 五月十八日

    五月十八日雨で風も少々あり。主人は学校当番で合羽菅笠で行く。学校へは一人も来ないので帰ろうと申し出るとお目付役の中島十郞右衛門がまだ誰か来るかもしれないと言うので見合わせていた。そのうちに岩橋から酒や肴が出されたので夕方まで帰宅せず。家では案じて雄介が迎えに行って8時過ぎに帰った。大降りで雨は盆をかえすが如し。植えてあるものがみなこけた。山本彦十郞殿からお茶の葉が届けられた。樟亭主の三回忌とのこと。逮夜(命日の前日に行う通夜)は二十日だそうだ。五月十八日

  • 五月十六日、十七日

    五月十六日今日は忌み明けだ。主人はあちこちへ礼に行く。学校帰りに岩橋と呑む。山本らへも行く。富永が雨具を返しにきて提灯を持っていく。五月十七日朝のうちは日が当たったが、また降り出した。夜は大雨であがるようすもない。主人は三浦公へいき夕方帰る。五月十六日、十七日

  • 五月十四日、十五日

    五月十四日山中よりかき判を取りに来る。木村清吉から手紙。五月十五日曇りがちなり。昼前に山本謙二郎が見回りに来た。羊羹二本持参。安兵衛が来る。古帷子を下取りに出し、代わりの一反を買う。代金は四十三匁五分。しかし下取りがあるので二十二匁五分の足しだ。絹の羽織が染め上がってきたので紋書きにやった。二時過ぎに善之助主が見回りがてらきた。富永と山本ばかり居る。栗山へ本を取りに雄介が両度まで行く。差し支えがあるとかで不出来。雨が降り出す。一盃だし、夜は合作で、家内みな出て遊んだ。下駄、傘で帰った。内田から米三斗を持たせてきた。傘を貸す。遠くで雷鳴がした。五月十四日、十五日

  • 五月十二日、十三日

    五月十二日山中の家来の晴吉がつき判のことでくる。五月十三日昼過ぎに山中家の家来に判を取りに寄越した。即渡す。今日は学校でせきてんがあるがこちらは忌中なので出席せず。しかし、うちで一盃食べた。混ぜ寿司を作り出口に送った。隠居はものもらい(目)さそうだ。遠いので久野を見舞いに遣わす。薩摩寒天を作り菓子も持たせた。夕方に帰った。小重に詰め替えた金山寺味噌にアジサイの花を添えて持ち帰った。木村晴吉からまた手紙が来る。今ひとつ外に咲いてるゑびねをくれという。五月十二日、十三日

  • 五月十一日

    五月十一日晴れ時々曇りこぬか雨が時々降る。母君は昨日の代わりに金比羅へ参詣し喜多村に寄る。三宅弥太郎が二十三石に跡立とのこと。山中大輔は八百俵お取り上げ。作兵衛殿は蟄居。隠居となり牛町の休息所もお取り上げだという。七山省安から返事が来る。安兵衛も来てゴボウの葉をこしらえて、酒一升取る。五月十一日

  • 五月十日

    五月十日こぞりよるあんどの影のうすぐらさにふと吹上の菊をば宇治の賤の女が移せばゑみの草はえとなる吹上の菊をば宇治にうつしうへて色香はあらでゑみの草はへ吹上の菊をば宇治にうつせども色も香もなきゑみのくさはへ頼もしと思ひよるべのあんどうの影うすくして光とどかず影頼むあんどうの光うすければいっそ寝て待て果報こぬらん五丁目の者が盆を持ってきた。一匁五分。細工銀一両。彫り賃二朱と箱入り羊羹、菓子を合わせて二十一匁五分になる。両人は四時過ぎに梅本へたいや参りして八時前に帰る。高柳と富永が見回りに来る。夜になって大いに雨が降った。五月十日

  • 五月九日

    五月九日雄介が清吉の家へ行く。酒券ひとつ渡すなり。昼頃に野呂清吉がきた。京都へ状を送ることを頼む。一匁で魚を数十求めて出す。その後、刑部が暇乞いに来た。絵を渡した。梅本平七に香典を送る。酒券三と椎茸数十。二匁は卒塔婆料だ。万次郎にことづける。岡本から菊の苗が届いた。夕方に皆でそろって植えた。五月九日

  • 五月八日

    五月八日おおいに晴れる。主人と雄介は四時頃畑屋敷の梅本に行く。今晩は平七殿の葬送。小梅は梅本の内室と連れだって四時頃から行き葬列を見送った。おおいに盛大だった。浅之助が駕籠で見送り、こちらも主人が供を四人、雄介は一人と都合五人雇う。代六百文。槍、提灯も借りあわせ安兵衛へも心付けを渡す。風もあり至極極上の天気也。葬式の鑓も死者ともに八本あった。平七殿は大変幸せな人だ。八〇歳。病もなく眠れるごときの臨終だった。五月八日

  • 五月六日、七日

    五月六日おおいに快晴する。今日から五日間休業。長太郎が本代を持参した。五月七日天気良し。四時頃に刑部来る。すぐに昼飯をと混ぜ寿司を作っていると梅本でも一杯出すとのこと。こっちには来ず主人と母君も呼ばれた。夜。藤助どのがこられた。見舞いだという。精進物で一盃出す。安兵衞は提灯の貼り替えに行く。二匁入りの火袋は一匁六分にまける。五月六日、七日

  • 五月五日

    五月五日快晴する。鳥谷が礼に来た。筆一本を持って来た。その他秋月や山本らも礼に来る。弘太郎に野呂が一冊本を売る。沼野章七がお重に寿司を入れて送ってきた。その一重を主人が松下へ持って行った。御切米のこと頼む、寿司を早々に食べているところに畑屋敷から大切な報せが来た。直ぐに行く。(平七殿=豹蔵の父の兄)昼頃に楽入候とのこと。夜には母君と梅本の妻が行く。さびしい。五月五日

  • 五月四日

    五月四日今日は学校当番とのこと。あとで鉄之助が為輔殿が勤めにこられて誠に言語にたえないと申しきた。夕方から小梅は畑屋敷の梅本へ行った。平七殿は相変わらず老体ゆえにひどく危うい。何も言わずしきりにたばこをのんでいた。五月四日

  • 五月三日

    五月三日少々くもる。魚九にて肴を取る。ひらめ2,えび1で四匁八分。それを内田に送る。畑屋敷の梅本から今日は有馬の初幟(鯉のぼり?)で客を招くそうだ。祝い酒を二時頃からおこなうという。奥さんもと招かれたが小梅は断って主人と雄輔が行く。しかし、平七の八十才の祝いも申しきたので二人とも先にそちらへ行った。主人は先に帰って有馬へ行く。八時過ぎに帰ってすぐに有馬へ行った。十二時頃までで、皆が寝たのは二時過ぎだった。客は六十人以上でおおいに盛り上がったとのこと。五月三日

  • 五月二日

    五月二日のち8時過ぎに雨があがる。お城当番だ。雨具置き場に困るので安兵衞を連れて行く。しかし段々と雨が上がって合羽は不用なので昼頃に帰った。室内膳の母が病死したとの廻状を受け取り、すぐに安兵衞を戸田藤左衛門へ持たせやる。三宅弥太郎から跡目についての手紙がきた。今は20人ほどいるが、先日8人、そのほかもいろいろあったようだ。宮崎は沙汰が悪いが一向結構な様子。隠居が倅の正作に跡目を継がせると仰せつけた。元は800石だったが寄り合いで450石と決められたとのこと。榎本直之助はそのまま学校へ罷り出るとのこと。八百輔は有馬のために来る。明日は皆来るようにと言う。みなは断り主人と雄輔だけが行くという。三浦に行き、清吉方に寄る。五月二日

  • お芝居のご案内

    平成が去り令和がやってきました。急速に変わっていく世の中に昭和生まれのおっさんたちはとまどっています。そんなおっさんたちの生き様をおもしろおかしく描いてみました。小倉祇園太鼓も応援してくれます。晴れるといいな。お芝居のご案内

  • 五月朔日

    五月朔日晴のち曇八幡へ雄輔が為之助を連れて参る。夜、千太郎と畑屋敷へ見回りに行く。ぶしゅかん酒を少々持たせた。帰りに大雨となり裸足で帰った。留主の中林一平太がきた。宿へ帰って持って来たとソラマメを二升くれた。庭から帰った。有馬へ酒二升おくった。五月朔日

  • 四月晦日

    四月晦日暑い。昼頃に善之助がきた。あり合わせで酒販をだした。喜多村がサバを二本くれた。お金を伊勢屋にやる。六尺松江行きの割合を寄越す。酒はあり合わせの切手で二升取り寄せた。ぶしゅかんとシソ酒を作る。2時頃、丸栖から酒二升届く。一升が一匁五分だとのこと。吉田庄太夫の子ら三人連れで柏餅を持ってきた。絵を二枚あげる。夕方に岩吉が魚三尾と内田からの寿司一重を持参。これは後ほど内田の隠居と奥方や久野らが来ると言うことで掃除して待っていたら夕方に来たので寿司や魚で酒を出した。味醂を取り寄せる。主人はそこいらへ行きあわびを買うだけで12時頃帰ってきた。雄輔は昼頃に善之助主と一緒に栗山へ行くはずで出かけたが一平太方に寄ったら善之助主が来ていたので連れ立って富永会に行ったそうだ。栗山ではおおいに接待されたようだ。四月晦日

  • 四月二十九日

    四月二十九日大いに晴れる。暑い。守谷から内祝いの柏餅を送ってきた。松下八百輔も持参した。さて、昨日の八時頃、安藤殿が江戸を出立したそうだ。とても立派だという。昨夕、榎本半助、野沢次郎右衛門らは中村九郎兵衛宅で仰せつけられる。「其方、不心得の義有りにつきお役召しはなし。刑は両人共に小普請を仰せられる。渥美は同じくにて隠居を仰せられた。家督は(名は忘れたり)1300石を500石と仰せられる。ほかにもあったが詳細は不明。宮崎もなんとかなる様子。主人は2時過ぎから岡野へ行く。行きがけに市川へ向かい二朱と羊羹一箱を持参した。これは、先年に御天守で活字判摺立ての時に、日勤しおる時に毎日使用したケヤキの枠をいただいたのだが、置きっ放しにしていたので底をつけて梅の絵と彫り物を梅庵へくれてやれよと言い渡したそうだ。八匁二分八厘を...四月二十九日

  • 四月二十八日

    四月二十八日快晴する。二時頃、親子(主人と雄輔)連れだって学校へ行く。母君は朝、鷺の森へお参りし、お金の家に行く。お金はすぐに来て夕方に帰る。風呂を焚く。四月二十八日

  • 四月二十七日

    四月二十七日今日も雄輔が三浦へ勉強の断りに行く。為之助を連れて行った。主人は、明日、同僚の松江灯籠堂あたりで集会があるらしい。しかい、片頬の腫れが引かないので中止の相談だ学校まで行った。昨日は学校当番だった。浅之助に頼まれた四つ切りの書画を持って行く。松の詩と菊の画だ。本人はお役者の某…名前を忘れた。畑屋敷平七が何も食べないとのこと。夕方に清吉の妻が来た。遅れて清吉も。寿司をとり酒を出す。松魯の詩集を幾冊も持参していた。主人は大いに酔って帰ってきた。四月二十七日

  • 四月二十五日、二十六日

    四月二十五日快晴。主人は頭痛がするというので薬屋で風邪薬を三服とる。会があって富永、栗山、山本が来る。酒を出し夕方に帰った。四月二十六日大いに快晴する。真善が今日の会を断りに来た。主主人も頬が腫れているので断りに千太郎を行かせた後に真善が来たのだ。夜に内田から使いが来て初幟祝儀の寿司一重を持参。皆で食べる。虎之丞は家へ帰って居らず、雄輔は野呂宅へ行って留守。四月二十五日、二十六日

  • 四月二十四日

    四月二十四日大いに快晴する。主人は岡野へ行ったが、四時頃から少々気分が悪くなったらしい。内田から祝い餅を送ってきた。久野はさっぱりとしてなかなかいい。京都への書状を送るについて清吉に手紙をやるが返事がない。雲蓋院の隠居が病死したのでこれから出かけるとのこと。漬けた真菜を少々送った。四月二十四日

  • 四月二十三日

    四月二十三日快晴。昼前から雄輔、虎之丞、為之助が高野御寺へ参詣。夏目楠蔵も誘った。酒一升を取り寄せて瓢箪に入れて持参したが、瓢箪の紐が切れて割れたらしい。慈光寺で介石の画会があるのでそれにも行ってみる筈が道が違いいけなかったようだ。桃井隼人がきた。酒券一枚持参。夕方、楠蔵が玉子を九つくれた。貴志の隠居がついに病死の由、提灯を出す。岡崎長屋の子供を長にやとい30文渡す。主人は彦坂へ行く約束だったが断った。お金が来て帯の代金三渡した。四月二十三日

  • 今年の運勢?

    近所の氏神さまの境内に立っていました。参考になるでしょうか。今年の運勢?

  • 四月二十二日

    四月二十二日晴朝の内に小雨が降った。主人は三浦公の所に行く予定だったが、飛騨守が来られていて稽古はなし。帰りがけに深津によって酒を出されたそうだ。出口から使いが来て柏餅をもらう。内田からは麦粉と梅漬けが届いた。四月二十二日

  • 四月二十一日

    四月二十一日まあまあの天気。今日は八幡神社で馬駆けがあるとのこと。しかし詳細がわからないので、まず4時過ぎから虎之丞と為之助らが行った。が、雨が降り出しこよし宅で傘を借りてきた。安兵衞は大師へ参るそうだ。出口は田中へくらかけ一つ返しに行く。これも同時に帰る。そこらまで傘を持っていきじきに帰る。主人も久しぶりに無沙汰で村井多右衛門宅へ行き雨具を借りて夕方に帰る。8時頃、市川梅庵、野口三伯、三木俊庵らがきた。梅庵は頼んでおいた盆に彫り物して持参した。酒や取口を取り寄せる。誰かが持参したさまつ(早松茸)2本を吸い物にして出した。四月二十一日

  • 四月二十日

    四月二十日朝から浅之助に頼まれた合作を四枚全紙に絵を描く。左氏の会に10名ばかりきた。主人は二日酔いで気分が悪いようだ。早々に廻状が来たので岩橋へ回す。23日から150回ご法事のこと。火の手元がぶれて御名を忘れてしまった。四月二十日

  • 四月十九日

    四月十九日学校当番で主人は出て行く。風呂を焚く。いさが2時頃から出口の内田へ久野の見舞い。筍を五、六本づつ分けた。和田安太郎がタコを三つ持参。それを夏目へ送り本を返した。京都の前田から書状がくる。主人は岩橋に行く。西川へ礼に行く。辻野へも行き善之助も来て一緒に酒を吞んだそうだ。提灯を借りて10時過ぎ帰宅。安兵衞はいっときばかり働く。夜、浅之助が来た。合作を持参したが、これは江戸の人に渡すので明日の10時頃までに書いてくれとのこと。四月十九日

  • 四月十八日

    四月十八日天気良し。※日前宮の馬駆け(奉納競い馬)が先日から日延べされて256騎で行われた。大きな怪我はない。主人は山本彦十郎殿へ行く。健二郎、清吉らと大田村の斉藤を訪ねると病人があるとのことで妙堂寺へ寄って遊んだ。ちらし寿司などを持参したが寺なので食べずに持ち帰った。料理屋で求めて持参するのがいいようだ。提灯を借りてきた。これは鷺の森(寺)の裏門前の魚門へ返す筈。為之助は4時頃、虎之丞は夜分に帰宅した。※日前宮一つの境内に日前神宮(ひのくまじんぐう)と國懸神宮(くにかかすじんぐう)の二つの神社があり、総称して日前宮(にちぜんぐう)あるいは名草宮とも呼ばれる。入口から向かって左に日前神宮、右に國懸神宮がある。和歌山市内にある当社と竈山神社、伊太祁曽神社に参詣することを「三社参り」と言う。日前宮國懸神宮和歌山駅か...四月十八日

  • 四月十五日、十六日、十七日

    四月十五日こぬか雨が降ったが昼からあがった。早朝に主人は野崎やまで薬のことを訊ねに行く。会があって人々が来る。三宅の娘のお久がくる。着物の表を二つあげた。島谷が来た。逢と則は今日帰る。四月十六日上々の天気だ。今日は内田によばれてる。小梅と雄輔は先に行き主人が後から来た。おおいにご馳走で盛り上がる。10時頃から田中へ行って泊まる。お舟は早くに二升仕舞う。四月十七日今日も吉。10時頃から田中の奥さんと連れだって遊川へ行く。物見より人を見る。おおいに賑わう。夕方から帰る。四月十五日、十六日、十七日

  • 四月十三日、十四日

    四月十三日また雨。主人は薬屋に行くと出て行き、丸山へ行き遠藤一郎へも行く。酒を出されたとか10時前に帰宅。四月十四日快晴。2時頃から岡野へ行く。有馬から祝いが届いた。久野は夕方に帰る。雄輔、虎之丞、為之助がいさをを送って行ったが途中で千代に会ったので早々に帰る。天赦日なので市川へ為之助を入門させる。雄輔が同道した。梅川は直川へ参ったとよもぎ餅を土産にくれた。10時過ぎに寿司少々を持って主人が帰った。清吉宅で少し吞んだらしい。四月十三日、十四日

  • 四月十二日

    四月十二日少々雲はあるが天気は良い。4時前に三浦へ行くべきだったが、安藤に呼ばれてお稚児ばかりに教えた。ご機嫌伺いに湊御殿へ行く。ここは今日限りでこれからはお城で行うので方々しかと拝見せよとのこと。(逝去した治宝公がこの湊御殿で院政を行っていた)帰りに出口田中へ寄る支度をする。留守中に内田が米を三斗送ってきた。喜助に酒一盃だす。本二冊、覗き本などを返す。2時過ぎに野呂清吉が京都の医者の山崎幾多郎を伴ってきた。もらいものの肴があったので酒を出す。夕方、雄輔。安兵衞もちょっとくる。四月十二日

  • 四月十一日

    四月十一日寒いが、天気は良い。廻状がくる。明日12日、奥役中奥御供番頭御法事が済みご機嫌伺いのこと。昨日は安兵衞が来たので山本先生の元に下駄を返しにやった。酒一杯を出す。雪駄を取りに来る。昨日は会があって大勢の人が来た。覚円寺が今年になって始めて来た。酒券一枚を持参。四月十一日

  • 四月九日、十日

    四月九日主人は学校当番。4時前に帰った。切手で酒を取ってくる。今日は西脇の稽古を東都御用人の菊池角右衛門のほか何人か見るそうだ。虎之丞もその人達と行く。6時半頃に帰る。四月十日雨があがったが雲模様は定まらず快晴にはならない。丸栖村の為之助が帰郷するので馬継利平へ手紙をことづける。夜、浅之助がくる。酒出す。金比羅へ母君、久野らが参る。雄輔は少々風邪気味。薬を取ってきて煎じて飲ませる。四月九日、十日

  • 四月八日

    四月八日おおいに天気良し。※山東伊太祁曽へ参る。雄輔、虎之丞、為之助なり。初茶屋で一杯食べにぎりめしも食べて参詣。ご祈祷帰りなのでどこにも寄らずに2時過ぎに帰宅。主人は岡野へ行き8時過ぎに帰る。同時に久野が餅を持ってきた。今日は菊池と関口の稽古をみたいとみんな行く。明日は西脇の稽古を見るらしい。夜になって主人は丸山へ行った。※山東伊太祁曽神社旧称は山東宮。式内社、紀伊国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。和歌山市内にある日前神宮・國懸神宮と竈山神社、伊太祁曽神社に参詣することを「三社参り」と言う。祭神である五十猛命はスサノオの尊の御子神で、父神に従って高天原から大八洲国(日本)に天降ったとき、多くの樹木の種を持ってきて、日本全土に木の種を播き植林したので木の神様とされている。4月第1日曜日には木...四月八日

  • 四月七日

    四月七日快晴だが少し風がある。廻状が来る。そのあらましは湊御殿で諸事あるゆえに、前々通りお城で行うので二十三日の講義もお城へ行くようにと奥詰の申し合いがあったとのこと。小野田へ廻状を回す。帯屋がきた本を買う。夕方に久野が帰った。四月七日

  • 四月六日

    四月六日快晴する。四時頃に市川斎がきた。小紙を二枚持参して詩歌画を頼まれた。中頃までにとのこと。日高浄楽寺とか京へ帰るそうだ。梅庵もやがてくるだろうから黒江あたりへいっぺん行ってくるとのこと。あり合わせの物で酒を出す。それから主人は菊池の旅の宿へ行き直ぐに帰った。留守中に藤助どのがきた。菊池に何か土産ものを送る相談だ。会があって皆々くる。左内が土手饅頭をくれた。四月六日

  • 四月四日、五日

    四月四日快晴す。主人は岡野と彦十郎殿へ行く。東都の菊池角右衛門御用人がこの度、御棺につき来られたので、その人を招くについてのご相伴だという。四月五日小雨が降る。昼前に田村民之助が入門。丸栖村百姓庄屋の倅だ。酒一つ出す。金一封と酒徳利を持参した。連れてきたのは仲御徒町の仁井兵右衛門という地方手代。四月四日、五日

  • 四月三日

    四月三日おおいに快晴する。安兵衞が働きに来る。内田から肴(小鯛、海老)を岩助が使いで持って来た。藤助殿が来られた。酒を出す。山半から蚊帳が届いた。昨日、小出の養子が書画帳を取りに来たので渡した。今日は市川から書画帳をくれと使いが来た。岡野へ行く約束があるし、晩方は久野や女子達が来ることになっているので用事があるからと断りに安兵衞をやった。8時頃に久野が数人の男女を連れてきた。大きなお重に入れた寿司が土産。夕方、遠藤彦一郎から使いが来て鯛を二匹頂いた。それを市川斎へ遣わした。四月三日

  • 四月二日

    四月二日今日は奥役の者は袷、半袴で登城する筈。その御棺(葬儀)は済んでいるので今日はご機嫌伺いである。(中将様=第十一代藩主で後の家茂。十四代将軍。その生母の観如院の葬儀)こちらは出かけず。夜、房吉に四十六冊の本を全部返した。四月二日

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