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  • 2-XI-5

    パスカルは母親の面前に立ったまま、片方の手で椅子の背をぎゅっと掴んで身体を支え、来るべき打撃に供えて身構えているかのようであった。彼自身に関わる悲痛な感情は過去のものとなり、今や彼の全神経は高揚し逆上の域に達するかと思われた。目の前には苦悩の深淵があり、それに呑み込まれそうだった。彼の人生がかかっているのだから!これから母親が語る内容の如何によって、彼は救われるか、決定的に死を宣告され、恩赦を請うことも出来ず、希望もない状態に置かれるか、になることになる……。「それじゃ、お母さんが出かけた目的はそういうことだったんですね?」彼は口の中で呻くように言った。「ええ、そうよ」「僕には何も言わずに……」「そうすることが必要だった?何を言ってるの!お前こそ、私の知らないところである若い娘さんを愛するようになり、彼女...2-XI-5

  • 2-XI-4

    というのも、パスカルは自分の母が厳格な伝統に固く縛り付けられていることは知らないわけではなかったからだ。一般市民階級の古い家柄では、母から娘へと代々受け継がれる貞節の掟のようなものがあり、それは情け容赦なく盲目的とも言えるものだということも……。「男爵夫人は夫から崇拝されていることがよく分かっていたんですよ」と彼は思いきって言ってみた。「夫が帰ってくると知って、彼女はパニックになり理性を失ってしまったんじゃないでしょうか……」「それじゃお前は、その人を弁護するというの!」とフェライユール夫人は叫んだ。「お前は、過ちを償うのに罪をもってなす、なんてことが可能だと、本当に信じているの?」「いいえ、断じてそんなことはありません、でも……」「男爵夫人が自分の娘にどんな苦しみを与えたかを知ったら、お前ももっと彼女に...2-XI-4

  • 2-XI-3

    パスカルは答えなかった。母の言うことは全く正当だと分かってはいたが、それでも彼女の口からこのような言葉を聞くのは身を切られるように辛かった。何と言っても、男爵夫人はマルグリットの母親なのであるから。「そういうことなのね」とフェライユール夫人は、徐々に興奮の度を増しながら言葉を継いだ。「そういう女性がいるというのは本当の事なのね。女はこうあるべきというものをこれっぽっちも持たず、動物にもある母性本能すら持たない、という……。私は貞淑な妻だったけれど、だからって自分が立派だと思っているわけではないわ。そんなこと、褒められるようなことじゃない。私の母は聖女のような人だったし、私の夫を私は愛していた……義務と言われることは、私にとっては幸福だった……だから私には言える。私は過ちを許しはしないけれど、理解はできるわ...2-XI-3

  • 2-XI-2

    仇敵ド・ヴァロルセイの懐に入り込み、否定しようのない証拠を掴むのに役立ってくれると彼が頼みに思っているのが、手の中の十万フランであった。男爵との会見が上首尾に終わったことを母親に早く伝えたくて、彼は足を急がせた。しかし、自分の究極の目的を果たさんがための様々な過程について思わず考え込んでしまい、ラ・レヴォルト通りにある粗末な住まいに着いたのは五時近くになっていた。そのとき、フェライユール夫人は帰宅したばかりであった。母親が外出することを知らなかったので、彼は少なからず驚いた。彼女が乗って来た馬車はまだ門の前に停まっており、彼女はまだショールも帽子も取っていなかった。息子の姿を見ると彼女は喜びの声を上げた。息子の顔を見れば、何も言わなくても彼が何を考えているか分かるほどに息子の顔色を読むことに長けていたので...2-XI-2

  • 2-XI-1

    XIマルグリット嬢のパスカル・フェライユールの人と為りを見る目は確かであった。順風満帆のさなかに突然前代未聞のスキャンダルに打ちのめされた彼は、しばし茫然自失でぐったりしていたが、フォルチュナ氏が推測したような臆病な行動に身を委ねることはなかった。彼についてマルグリット嬢が言った言葉は、まさに彼を正しく言い表したものだった。「もしあの方が耐えて生きることを選ばれたのなら、それはご自分の知力、体力、意志の力のすべてを捧げて、あの憎むべき中傷と戦うためです……」このとき彼女はパスカル・フェライユールの身に降りかかった厄難の全貌を知ってはいなかった。彼女付きの女中であるマダム・レオンがシャルース邸の庭木戸で彼に手渡した手紙により、パスカルが自分に見捨てられたと思っている可能性があることなど、どうして彼女が知る筈...2-XI-1

  • 2-X-20

    ただ、行動を開始する前に、フェライユールさんのお考えを聞くことがどうしても必要です……」「それはどうも出来ない相談のようです」「何故ですの?」「フェライユール氏がどうなったのか、分からないからですよ。私だってですよ、復讐をすると誓ったとき、最初に考えたのは他でもないフェライユール氏でした。私は彼の居所を突き止め、ウルム街に走りました。ところがそこはもぬけの殻。あの不幸が見舞った翌日にはもう、彼は家財道具を売り払って、母親とともに出て行ったのです」「それは存じておりますわ……。私がここに参りましたのは、あなた様に彼を探し出してくださるよう依頼をするためでした……。彼がどこに身を隠しているか、それを探し出すのなんて貴方様にとっては子供の遊びのようなものでしょう」「まさか、お嬢様は私が探そうとしなかったとお考え...2-X-20

  • 2-X-19

    彼が金持ちの女性と結婚し、将来の妻の父親をうまく丸め込んで、自分の財政状態を立て直したいという希望を彼から聞いた限りでは、正直、それがさほど悪いことだとは私には思えませんでした。確かに褒められた所業ではございません。が、今日そのようなことは日常茶飯事として行われていることでございます。それでは今日、結婚とは何ぞや?それは取引です。互いが相手を騙すことで自らを益しようとする行為、そうでなければ取引などとは呼ばれません。騙されるのは花嫁の父かもしれませんし、婿の方かも、花嫁かも、あるいは三者全員がそうかもしれませんが、それはさほど目くじらを立てるようなこととは私には思えません……。ですが、フェライユール氏を陥れる計画が持ち上がったときには、ちょっと待った、それはならぬ、と。私の良心が許さなかったのです。無実の...2-X-19

  • 2-X-18

    「ヴァロルセイはもはや一銭の金も持ってはいない、と証明できますよ。この一年彼は警察沙汰になってもおかしくない怪しげな弥縫策に頼って生計を保ってきたのです」「そうなのですか!」「彼が真っ赤な偽物の書類を見せてド・シャルース氏を騙そうとしたことを証明できます。また彼がフェライユール氏を陥れるためド・コラルト氏と共謀したことを明らかにすることが出来ます。どうです、お嬢様、ちょっとしたものではございませんか?」マルグリット嬢は微笑んだが、その笑い方はフォルチュナ氏の虚栄心を大層傷つけるものであった。彼女は、信じがたいがまぁ大目に見ようという口調で言った。「口では何とでも言えますでしょう」「それを実行することだって可能です」とフォルチュナ氏は素早く言い返した。「私が出来るとお約束するときには、それを可能にする方法を...2-X-18

  • 2-X-17

    「ド・ヴァロルセイ侯爵がいまだにのうのうとしていられるのは何故なのか?それは私には奇跡のごとく思われます。もう既に六か月前、彼の債権者たちは彼を差し押さえると脅していたのですよ。ド・シャルース伯爵の死後、一体どのようにして彼らをなだめて来られたのでしょうか?こればかりは私にも分かりません。確かなことはですね、お嬢様、侯爵が貴女様との結婚という野望を諦めてはいないということです。それを実現するためなら、どんなことでも、よろしいですか、どんなことでも彼はやる気だということです……」今やすっかり落ち着きを取り戻したマルグリット嬢は、まるで関係のない話を聞くかのように全く表情を表さず聞いていた。フォルチュナ氏が一息吐いたので、彼女は氷のような冷たさで言った。「そのことはすべて存じております」「な、何ですと!御存知...2-X-17

  • 2-X-16

    フェライユール氏が卑劣な手段で陥れられたのは、貴女様が目的だったからに他なりません。そしてこの私は、氏を破滅に追い込んだ悪党どもの名前をお教えすることができます。この犯罪を画策したのは最も大きな利益を得る人間、ド・ヴァロルセイ侯爵です……。その手先となったのはド・コラルト子爵と自称している凶悪なる人物。その者の本名及びその恥ずべき過去については、ここにおりますシュパンがお伝えすることができます。お嬢様はフェライユール氏という方を見初められました。それ故その方が邪魔になったのです。ド・シャルース様はド・ヴァロルセイ侯爵に貴女様との結婚を約束なさったのではありませんか?この結婚こそが侯爵にとって起死回生の手段、まさに溺れる者を救ってくれる舟だったのでございます。というのも侯爵にとって状況は破綻寸前だったのです...2-X-16

  • 2-X-15

    「私どもへの御依頼の具体的内容については、確かにまだ伺ってはおりません。ですが、失礼ながら推理をさせていただきました……」「まぁ!」「つまりこうでございます。お嬢様は私めの経験、それにささやかな能力を頼みと思って下さったと理解しております。憎むべき中傷をお受けになった弁護士のパスカル・フェライユール氏の無実を晴らし、名誉を回復せんがための……」マルグリット嬢はぱっと立ち上がった。真から驚き、恐ろしくなったのだ。「どうしてそのことをご存じなのです!」と彼女は叫んだ。フォルチュナ氏はいつのまにか自分の椅子を離れ、暖炉の前でチョッキの袖つけ線に親指を差し込んだ姿勢で立っていた。それが自分を最も良く見せるポーズだと思っていたのだ。そして奇術師が自分の術の意図を述べるときのような口調で答えた。「驚かれるのはごもっと...2-X-15

  • 2-X-14

    しかし彼女のそのような感情は全く表には出なかった。気品ある美しい顔の筋を一本も動かすことはなく、目は誇り高く澄んだままだった。内心は緊張で一杯だったが、澄んだよく響く声で彼女は言った。「わたくしはド・シャルース伯爵に後見を受けておりました者でマルグリットと申します。貴方様はわたくしの手紙を受け取って下さいましたか?」フォルチュナ氏は、結婚相手を探すために出かけて行くパーティでするような、この上ない優雅さでお辞儀をし、やり過ぎなほど気取り返ってマルグリット嬢に椅子を勧めた。「お嬢様のお手紙は確かに届いてございます」と彼は答えた。「お越しをお待ち申しておりました。私どもに信頼を寄せて頂くとはまことに名誉なことと存じます。お嬢様から以外の依頼はすべて断ってございます……」マルグリット嬢が座ると、しばしの沈黙があ...2-X-14

  • 2-X-13

    というわけでマルグリット嬢は誰にも気づかれることなく家を出ることが出来た。それはまた、もし帰宅の際誰かに見られたとしても、どれくらいの時間外出していたかを知られずに済むということでもあった。彼女が外に出た途端、ピガール通りを一台の馬車がやって来たので彼女は呼び止め、乗り込んだ。彼女が今取っている行動は彼女にとって非常に苦痛の伴うものであった。若い娘であり、元来大変内向的な性格の彼女が、見ず知らずの他人に、自分の心の奥の最も秘めておきたい感情、すなわちパスカル・フェライユールへの愛情、を曝け出すなどということが簡単にできる筈もない……。しかし、ド・ヴァロルセイ侯爵の手紙の複製を作って貰おうと写真家のカルジャット氏のもとを訪れた昨日に較べれば、自分は冷静で自分自身をちゃんとコントロールしていると彼女は感じてい...2-X-13

  • 2-X-12

    それで説明は十分だと判断したのか、彼はフロランに向かって言った。「着替えを手伝ってくれ。明日は早い時間に出発しなきゃならんのだ……」この命令はシュパンの耳にもちゃんと入ったので、彼は翌朝七時にはド・コラルト邸の門の前に張りついて見張りを開始していた。そしてその日は一日中コラルト氏の後をつけた。まずド・ヴァロルセイ邸、それから事業関係の事務所、次にウィルキー氏宅、午後にはトリゴー男爵夫人のもとへ、そして夕方にはマダム・ダルジュレの館へと……。そして使用人たちに混ざり、館の前に次々と横付けされる馬車のドアを甲斐甲斐しく開けに行くという仕事を手伝いながら、母親と息子の間でたった今繰り広げられたばかりの恐ろしい諍いについて小耳に挟んだのだった。やがてウィルキー氏が乱れた服装で出て来た。その後ド・コラルト子爵も出て...2-X-12

  • 2-X-11

    このような考えで頭が一杯だったので、帰り道は行きよりずっと短く感じ、ダンジュー・サントノレ通りのド・コラルト邸まで来たときも危うく通り過ぎるところだった。門番のムリネ氏のもとに出頭せねばならなかったわけだが、彼は出来る限り興奮が目に顕れないようにし、役者が隈取りをするようにこの上なく無邪気な表情を作って入っていった。ところが、驚いたことに門番小屋にいたのはムリネ氏とその妻だけではなかった。フロランもそこに居て、彼らとともにコーヒーを飲んでいたのだ。それだけではない、下男のフロランは主人から拝借したエレガントな装いを脱ぎ、赤いチョッキ姿に戻っていた。彼はひどく不機嫌そうであったが、それも至極尤もなことであった。ド・コラルト邸から男爵邸はほんの目と鼻の先であったが、不運が見舞ったのである。男爵夫人は小間使いの...2-X-11

  • 2-X-10

    あのパスカル・フェライユール、極悪非道な悪党たちの被害者となった彼を救い出すために大きな働きをすることが出来れば、自分がかつて犯した犯罪の償いにある程度までなるのではなかろうか!それにしても、この状況は彼の理解力を越えるものであった。どのようにしてああいう悪党がパリという大都会に忽然と姿を現し、いくら自ら幅を利かせるような行動を取ったにせよ、彼が何者なのか、どこから来たのか誰も知らないままに人々に受け入れられるようになったとは?ド・コラルト子爵のようなならず者がパスカル・フェライユールの名誉を傷つけるようなことが、そもそも出来たのは何故なのか?全く、なんということか!正直に生きている人間の名誉などというものは、どこかの陰謀家に目障りな奴と思われた途端、木っ端みじんにされてしまうというわけか!してみれば人生...2-X-10

  • 2-X-9

    「わたしには決心がつきませんわ」と彼女はムション氏に言っていた。彼の腹黒そうな横顔が暗がりの中に浮かんでいた。「本当に、どうしても……。だって、この手紙を出してしまえば、あの人が戻ってくるという希望を永遠に失ってしまうことになりますもの……何が起ころうとも、あの人は私を決して許さないでしょう」「そうなったら」と老紳士は答えた。「今までよりもっと悪くなると言うのかね?さぁさぁ、考えてごらん、手袋をしたネコが鼠を捕まえられた試しはないんだ(時には手を汚すことも必要だ、という意味の諺)……」「あの人は私を憎むでしょう」「いやいや、犬を懐かせるにはまず打つことだ……それに、葡萄酒を汲んできたのなら飲まなければ(一旦始めたことは最後までやらねばならない、という意味の諺)……」この奇妙な論法で彼女は納得した。シュパン...2-X-9

  • 2-X-8

    「ここにはしょっちゅう来るの?」「うん、毎晩。いつもポケットに美味しい物を持ってて、ママと僕にくれるんだ」「どうしておじさんはあの部屋にいるの?明かりも点けないで……」「それはね、お客さんに姿を見られちゃいけないからだって」このような尋問を続けることは、何も知らぬままこの子を母親の告発者にしてしまうことになる。それはおぞましい行為ではなかろうか……。シュパンは自分がもう既に入ってはならない領域にまで足を踏み入れていると感じた。そこで彼はその子の顔の一番汚れていない場所にキスをし、床に降ろすと言った。「それじゃ遊びに戻りな」その子は残酷なまでに正確に母親の性格を暴いたのであった。母親から自分の父親のことをどう聞かされているかというと……彼はお金持ちで、いつか戻ってくるときにはたくさんのお金と綺麗な洋服を持っ...2-X-8

  • 2-X-7

    しかし性格はおとなしそうで、人を寄せつけないような態度ではあったが、利発そうであった。金髪で顔立ちはびっくりするほどド・コラルト氏に似ていた。シュパンは子供を膝に抱き上げ、隣室に続くドアがきちんと閉まっていることを確かめてから尋ねた。「名前は何ていうんだい?」「ポール」「パパのこと、知ってる?」「ううん」「ママはパパのこと何も言わないの?」「ああ、言うよ!」「どんなことを言ったの?」「パパはお金持ちだって、すっごくお金持ちだって!」「それから?」その子は返事をしなかった。母親がそれ以外のことは何も言わないのか、夜が明けはじめる前の曙光のように、分別に先立つ本能が見知らぬ人間の前で喋ることを制止しているのか、どちらとも分からなかった。「パパは君に会いに来たりしないの?」とシュパンは尚も尋ねた。「ううん、全然...2-X-7

  • 2-X-6

    自分の妻が姿を現し、自分の本当の名前と過去を世間に言い触らそうものなら、自分は終りだということが分かり過ぎるほど分かっているからだ。しかし彼には金がない……。ド・コラルト子爵のようにお気楽な人生を送っている若い男は節約とか貯金をするという考えは持たないものだ。それが、絶え間ない消費欲にがんじがらめになっている彼らのような生き方に付いて回る宿命というものである。さて、このように言わば喉元にナイフを突きつけられた状況に追いこまれたド・コラルト氏は妻に待ってくれ、と手紙を書き、男爵夫人には懇願あるいは命令---それは彼らの関係によって決まるだろうが---の手紙を書いて要求されている金額の金を貸してくれるよう頼んだのだ。それにしてもシュパンには一つ腑に落ちないことがあった。かつてフラヴィ嬢ほど気位の高い女はいない...2-X-6

  • 2-X-5

    そして彼女は老紳士の後に従って奥の部屋に入り、ドアを閉めた。「そういうことか、結構だね!」とシュパンは思ったが、内心ではちっとも嬉しくなかった。「これからいよいよ佳境に近づく、お楽しみが始まるってわけだ……」シュパンはその波乱に富んだ人生経験のためか、若さに似合わぬ洞察力を持っていたが、たとえそんなものがなくとも、マダム・ポールの十語足らずの言葉と老紳士の諺だらけのもの言いだけで、この場の状況を理解するには十分だった。彼は今や、自分が届けた手紙の中味を、自分の目で読んだのと同様にはっきり知ることができた。これでド・コラルト氏の怒りに満ちた態度の理由が呑み込めた。彼が何故急ぎの命令を下したのかも……。シュパンは最初漠然と、男爵夫人への手紙と彼の正式な妻への手紙の間にはなんとなく繋がりがあるような、そして一方...2-X-5

  • 2-X-4

    現れたのは、五十ぐらいの腹の出た、頭が扁平で禿げた男だった。愚鈍そうで、だらしない、それでいて腹黒そうな男で、帽子を手におずおずと出て来た。「そうだろう、そうだろう」と彼は猫なで声で言った。「私が言ったとおりだろう。果報は寝て待てって」彼女は既に封を破っていた。一息に読み終えると、途端に嬉しそうに手を叩いて叫んだ。「あの人は同意したわ!恐くなったのよ、だから私に少しだけ待ってくれ、って頼んでいるわ。ほら、読んでみて頂戴!」しかしムション氏は眼鏡なしでは読めなかった。ポケットを探って眼鏡を見つけるのにたっぷり二分は掛かった。それから更に、眼鏡を掛けてからも光が弱すぎたため、文面を解読するのに三分かかった。その時間を利用してシュパンは彼をじっくり観察し、鑑定していた。「この年寄りは一体何者なんだ?」と彼は考え...2-X-4

  • 2-X-3

    彼がガラス戸の前でぐずぐずしていたのは、彼女が誰かと話をしていることが見て取れたからであった。カウンターのすぐ後ろのドアが開けっ放しになっており、その向こうには別の部屋があるらしく、彼女はその部屋にいる誰かと話をしている様子だった。その相手が誰なのか、シュパンはなんとか一目だけでも見られないかといろいろやってみたが無理だった。仕方がないので中に入ろうとしたそのとき、彼女が突然立ち上がり、何か気に入らぬ様子で二言三言喋りかけるのが見えた。彼女の視線は奥の部屋でなく、目の前の店の隅っこに注がれていた。「おや、あそこに誰かいるのかな?」とシュパンは訝しく思った。彼は立つ位置を変え、爪先立って覗いてみると、確かに三、四歳の小さな男の子が見えた。やせ細り、青白い顔にぼろ着を身に着け、同じくぼろぼろになった紙製の馬で...2-X-3

  • 2-X-2

    自分の妻を飢え死にさせるがままにしておくとは……!この店をやっているのはド・コラルト氏の妻であることに間違いはなかった。彼女をかつて一度見たことのあるシュパンは、カウンターの向こう側にいる女性が彼女だと認識した。残酷なまでに面変わりしていて、殆ど見間違うほどだったのではあるが。「確かに彼女だ」と彼は呟いた。「間違いなく、フラヴィー嬢だ……」彼が口にしたのは、若い娘だった頃の彼女の名前だった。「可哀想に!」確かに可哀そうな人間であった。彼女はまだ若い筈であった。しかし不幸と悲しみ、後悔、恐ろしいばかりの窮乏、この貧弱な生活を支えて行かねばならぬ日々、涙にくれて眠れぬ夜、そういったものが彼女を老けさせ、しなびさせ、生気を失わせ、抜け殻のようにしていた。天井から吊り下げられた頁岩油ランプの弱弱しい光が彼女の顔を...2-X-2

  • 2-X-1

    X目的地に着いたので、シュパンは歩を緩めた。そしていかにも事情を心得ているといった様子で慎重に店に近づき、ガラスに鼻をくっつけんばかりにして中を窺った。予め中の様子を見るのは、自分がどんな感じで入っていったらいいかを決めるのに役立つだろうと考えたのだ。確かに、たっぷりと心行くまで観察するのを妨げるものは何もなかった。夜の闇はすっかり濃くなり、河岸に人の気配はなかった。物音ひとつ聞こえてこない……。悪臭を含んだ濃い霧が息苦しいほどに立ち込め、陽気なざわめきのある隣の市門までずっと続いていた。パリの街ならすべて知り尽くしていて驚くことなどない生粋のパリっ子のシュパンでさえ、ぞっとするような場所だった。『おいらの街』の中ならどんなにさびれた場所に居ても、ブルジョアが自分のアパルトマン内の部屋ならどこであろうとく...2-X-1

  • 2-VI-20

    このド・コラルト氏の妻に宛てた手紙と男爵夫人宛てに持って行かせた手紙の間には何らかの繋がりがある、とシュパンは思った。きっとそうに違いない。それら二通は同じときに書かれ、同じ感情に支配されていたと考えられる。なにか問題でも起きたのか?ラ・ヴィレットのタバコ屋とヴィル・レヴェック通りの大富豪の男爵夫人との間にどんな関係があるのか、シュパンは頭を捻って考えたが、どうしてもありそうな関係は思いつくことが出来なかった。とは言え、思案の方は前に進まなかったが、彼の脚は動きを止めなかった。果てしなく思われるラファイエット通りを上がって行き、フォブール・サン・マルタンの高台まで出ると、外周道路を横切りフランドル通りに着き、ようやく息を整えた。「やれやれ!乗合馬車に乗るよりはちっと速く着いたかな……」と彼は呟いた。河岸通...2-VI-20

  • 2-VI-19

    しかし彼は独り言を言うのをやめ、馬車の通れる立派な門の陰に用心深く身を隠した。粋な身なりのフロランはヴィル・レヴェック通りでもひときわ豪華な邸の門の呼び鈴を鳴らしていた。門が開けられ、彼は中に入っていった。「ふうむ、長い距離じゃなかったな」とシュパンは思った。「抜かりはないな、子爵と男爵夫人……近所なんだから、花を送ったりするのも便利というわけだな……」彼はあたりを見回し、一人の老人が自分の店の前でパイプを吹かしているのを見つけた。その老人に近づいて行き、丁寧に話しかけた。「ちょっとものをお尋ねしますが、あちらの立派なお宅はどなたのお住まいかご存じですか?」「あれはトリゴー男爵邸さ」と相手は口からパイプを離さず答えた。「それはどうも有難う存じます」とシュパンは鹿爪らしく答えた。「こんなことをお聞きしました...2-VI-19

  • 2-IX-18

    彼の自制心は相当なものだったとは言え、内心の動揺はあまりにも大きかったのでその場に居た者たちの目に止まらずにいなかった。「おい、お前、一体どうしたんだ?」と彼らは同時に尋ねた。「どうかしたのか?」意志の力を振り絞ってシュパンはなんとか冷静さを取り戻し、自分のヘマを取り繕うべく口実を素早く探した。「そうっすねぇ」と彼はむすっとした口調で答えた。「そりゃまぁ、やるとは言いましたがね……こっからラ・ヴィレットまで遠路はるばる行くんしょ……旦那が行くのを渋るようなとこまで。こりゃもうお使いってなもんじゃない、出張っすよ……」この説明はすんなり受け入れられた。自分の労力が当てにされていると知って、この若者はもう少し値を吊り上げようとしている……まぁ当然のことか。「それじゃ不満だってのか!」と赤いチョッキのフロランは...2-IX-18

  • 2-IX-17

    ド・コラルト子爵は手早く手紙をしたためたようだ。まもなくまた姿を現し、手にした二通の手紙をテーブルの上に投げ出しながら指示を与えた。「一通は男爵夫人に。奥様自身か、奥様付きの小間使いに直接手渡しする以外誰にも渡すな……返事は貰わなくていい……それからもう一通は書いてある住所に届けて、返事を貰って来るんだ。それを私の書斎のデスクの上に置いておくように。急いで行け」こう言い捨てて、子爵は入って来たときと同じように、つまり走りながら出て行った。その後すぐ彼の馬車の音が聞こえた。赤いチョッキの下男、フロランは怒りで真っ赤だった。「これだよ!」と彼は門番にというよりシュパンに向かって話しかけていた。「だから言ったろ?男爵夫人に直接手渡し、それかマダム付きの女中に、だってさ。つまりは、こっそり隠れてってことさ。言わず...2-IX-17

  • 2-IX-16

    それを上手く聞き出そうと、仕事の後二人が勧めてくれるワインを味わいながらシュパンは策を練り、機会を窺っていた。そのとき中庭に一台の馬車が乗り入れる音が聞こえてきた。「あれはきっと旦那様だぜ」と窓に駆け寄りながら下男が叫んだ。シュパンも同じように窓辺に飛んで行くと、非常にエレガントな青い箱馬車が高価な馬に引かれているのが見えた。しかし、子爵の姿は見えない。ド・コラルト氏は既に馬車から降り階段を二段抜きで駆け上がっていた。その直後、アパルトマンに入るや彼の苛立った大声が聞こえた。「フロラン!どういうことだ?ドアが全部開けっ放しになっているじゃないか!」フロランとは赤いチョッキの下男のことだった。彼は軽く肩をすくめた。主人の考えそうなことは知り尽くしているので何も怖れるものはない、という召使の余裕だった。で、彼...2-IX-16

  • 2-IX-15

    下男はまた、子爵の青い天鵞絨の部屋着、毛皮の裏地の付いたスリッパ、果ては就寝時に身に着ける絹の飾り紐の付いたシャツまで見せてくれた。しかしシュパンが息をのみ、呆気にとられたのは化粧室だった。巨大な大理石の化粧台を見たとき、彼は口をポカンと開けて立ち尽くしてしまった。そこには三つの流しがあり、あらゆる種類のタオル、箱、壺、ガラス瓶、皿が並んでいた。またブラシは、柔毛、剛毛、顎鬚用、手用、マッサージ用、口髭のためのオイル塗布用、眉毛用、などがダース単位で揃えてあった。身だしなみ用の奇妙な道具類がこのように勢ぞろいしているのを、彼は今までに見たことがなかった。銀製のものも鋼鉄製もあったが、ピンセット、ナイフ、小刀、ハサミ、研磨器、ヤスリ、柳葉刀、等である。「まるで足治療医か歯医者みたいっすね」と彼は下男に言った...2-IX-15

  • 2-IX-14

    「ここだ、さぁ入って!」ド・コラルト氏が、フォブール・サンドニに住む自分より良い暮らしをしているであろうとは思っていたシュパンであったが、この控えの間の豪華さは予想を遥かに上回るものだった。天井から吊るされた照灯器具は目を見張るようなものだったし、数脚の長椅子はフォルチュナ氏のソファと同じくらい立派なものだった。「この悪党は小銭を掠め取るような悪事じゃ満足しないんだな……」とシュパンは思った。「スケールが違うってわけか……だが、こんな暮らしもそう長くは続かないぞ!」仕事はすべての部屋の花の鉢を庭師が運んできた鉢と取り替えることだった。それからバルコニーの半分を占める非常にお洒落な小さな温室にも、そして絹の布を木枠に張りめぐらした綺麗な小部屋が喫煙室として使われていたが、そこにも運び込んだ。結局のところ、門...2-IX-14

  • 2-IX-13

    「ああ、もちろん、何か厄介なことで来たわけじゃありませんよ」と彼は答えた。「つまりこういうことでして。マドレーヌのパサージュ(マドレーヌ寺院のある広場から始まるガラス屋根のアーケード)を歩いていると凄い綺麗なご婦人が俺を呼び止めてこう言ったんです。『ド・コラルトさんはダンジュー通りに住んでいらっしゃるってことだけど、私は番地を知らないの。まさか一軒一軒尋ねて歩くわけに行かないから、お願い、もしあなたが彼の住所をここまで知らせにきてくれたら百スーあげるわ!』そんなわけで百スー頂き、ってわけなんですよ」パリっ子ならではの豊富な経験を活かし、シュパンは今の場面にぴったりな言い訳を選んだので、聞いていた二人はどっと笑い出した。「聞いたかい、ムリネ爺さん!」と赤いチョッキの召使が叫んだ。「爺さんの住所を知るために百...2-IX-13

  • 2-IX-12

    お前が死ぬまで後悔し続けるような罪から、今回免れられたのは神様の御加護だよ。お前の雇い主は今のところ善良な気持ちを持っているけれど、お前にそのマダム・ダルジュレの後をつけるよう命令したときは邪な気持ちだったんだ。気の毒なご婦人じゃないか!息子さんのため、ご自分を犠牲になさってたんだよ。息子さんの目に触れないよう隠れておられたのに、お前はその方を裏切るようなまねをした!お気の毒に……どんな苦しみをお耐えになければならなかったか。それを思うとわたしは堪らないよ!今のあの方の境遇、しかも自分の息子から軽蔑されるなんて!わたしは何の身分もない女だけれど、わたしなら恥ずかしくて死んでしまうよ……」シュパンは窓ガラスを震わせるような大きな音を立てて洟をかんだ。気持ちが高ぶって涙が出そうになるとき、彼はいつもこうやって...2-IX-12

  • 2-IX-11

    そして最後に、テーブルの上に掛けられた小さな鏡に一瞥をくれたき、自分の様相に驚いてしまった。「なんてこった!」と彼は呟いた。「昔の俺、なんてチンケだったんだ!」彼は着替えている間ずっと極力音を立てないようにしていたのだが、無駄な努力だった。目の見えない人間が身に着ける恐るべき聴力のおかげで彼女は息子の動きをすべて察知していた。まるで傍に立って彼を観察していたかのように……。「お前、着替えをしたね、トト?」と彼女は尋ねた。「ああ、うん……」「なんでシャツを着たのかい?」母親の鋭い洞察力をよく知っている彼ではあったが、それでもこれにはギクッとした。しかし嘘を吐こうとは思わなかった。母親が手を伸ばしただけで嘘はばれてしまう。「これからやる仕事のために必要なんだ」と彼は答えた。目の見えない母親の優しい顔つきは一変...2-IX-11

  • 2-IX-10

    「戻ってくるだなんて」と彼は口の中で呟いた。「まっぴら御免だね!いい加減な連中だ。俺の『お宝』を手にした途端、あいつらが何をするかと思っただけで……!」しかしこの恐怖はすぐに消え去った。彼はフォブール・サン・ドニへの最短距離の道を辿りながら、自分の作戦が功を奏したことに満足していた。「ようし、これであの子爵の奴を捕まえたぞ」と彼は思っていた。「ダンジュー・サントノレは番地が百もない通りだ。たとえ一軒ずつ虱潰しに当たったとしても、たかが知れてる!」彼が帰宅すると、いつものように母親は編み物をしていた。それが殆ど完全に視力を失った彼女に出来る唯一の仕事だったのだが、彼女の仕事への熱中ぶりは凄まじかった。「ああ、お前帰ったのかい、トト」と彼女は嬉しそうに言った。「こんなに早く帰ってくるとは思わなかったよ。良い匂...2-IX-10

  • 2-IX-9

    「この手紙を届けるためですよ!」給仕たちは肩をすくめた。「そんなの、うっちゃっておきなよ」と彼らは言った。「わざわざ届けてやるこたねぇよ……」こういう反応をシュパンは予想していた。「それがですね」と彼は言った。「中にお金が入ってるようなんですよ」彼は封筒の口を少し開けて中の札を見せた。その途端、給仕たちにとって状況が変わった。「そうなりゃ話は別だ」と、金が入っているのを見た途端、一人が言った。「届けなくちゃな……しかし、わざわざ家まで行くのも大変だぜ……ここに預けておきなよ、カウンターに。そしたらその人が次に来たとき渡してあげられるよ……」シュパンの背筋に冷たいものが走った。彼の札が失われて行く図が見えたのだ。「それはちょっとどうかな」と彼は叫んだ。「おいらのめっけた掘り出し物をここに置いとくなんて!それ...2-IX-9

  • 2-IX-8

    「ボック(4分の1リットル入りのビールのコップ)を一つ」と彼は注文し、同時に書くもの一式を持って来てくれと頼んだ。障害にぶち当たったときのこの解決法は、彼がかつて手を染めていたあるいかがわしい仕事の名残りであった。他の場合であれば、こんな危険な方法を取ることに躊躇したであろうが、今は急を要するときだったし、他に頼る当てもなかった……。給仕が頼んだものを持って来てくれるや否や、彼はそこからインスピレーションを得ようとするかのようにビールを一気に飲み干し、ペンを持つと、達筆とは言えないものの、出来るだけ綺麗な字でこう書いた。『親愛なる子爵殿、ピケのゲームで借りた百フランをお返しする。リベンジ・マッチはいつにしようか?君の友、ヴァロルセイ』この手紙を書きあげた後、彼はそれを三度読み返した。社交界で『最高にシック...2-IX-8

  • 2-IX-7

    しかし彼の皮肉な笑いの下に激しい怨嗟のエネルギーが蠢いているのが感じられたので、フォルチュナ氏は全く不安を感じることはなく、この憎悪から派生した意志が、いわゆる『ロハで』働いて貰うよりずっと自分の助けになるだろうと確信していた。本来この手の手助けは最も高価なものにつくのだが……。「そうか、そうか、それは結構だ」と彼は言った。「なら、お前を当てに出来るな、ヴィクトール……」「もっちろんでさぁ。ご自分の分身だと思ってくださいよ。いつでも、どこへでも行きますよ」「で、火曜日には確かな情報を持ってきてくれるというわけなんだな?」「それより前かも……もし何も邪魔が入らなかったら」「ようし。では私の方は専らパスカル・フェライユール氏に掛かることにするよ。ヴァロルセイの企みについては、彼より私の方がよく知っている。我々...2-IX-7

  • 2-IX-6

    ああ、そうは行くかって!あの手の若造は残念ながらそこら中にうようよしてますが、あいつら、社会の害虫ですぜ。待ってろよ、コラルト、お前からは目を離さないからな。お前には借りがある。そして俺は借りは必ず返す男だ!ムッシュ・アンドレが俺を窮地から救い出してくれたとき、実際俺は首をちょん切られても文句を言えないことを仕出かしたのに、あの人は条件を付けたりしなかった。ただこう言ったんです。『もしお前が骨の髄まで腐っているのでなければ、これからは正直に生きるんだ』ってね。それを言っているときのあの人の姿といったら酷いもんでしたよ。あの墜落がもとで身体中ズタズタ、肩は包帯でぐるぐる巻き、顔は真っ白で廃人同然といった有様で……こん畜生め!俺はあの人の前で自分がミミズみたいにちっぽけに感じましたよ。そのとき俺は誓ったんです...2-IX-6

  • 2-IX-5

    ボスは俺の家庭をご存じですよね---彼はこの言葉を非常にもったいぶった様子で口にした---俺の母親にお会いになりましたね。いろいろと金が掛かるんです……」「つまりお前の言いたいのは、私の出す報酬が十分でないと……」「いえ、その逆ですよ、ボス、最後まで言わせてください。確かに俺は金が好きです。ですがね、この件に関しては報酬は頂きません。給料も経費も、一サンチームも、何も要りません。ボスの仰るとおり働きます。が、それは俺のためであって、俺の満足のためです。ただでやります。ロハですよ」フォルチュナ氏は驚きの叫び声を抑えることが出来なかった。腕の力が抜けて肩をすくめることも出来なかった。シュパンといえば金にガツガツした奴の代名詞、貪欲さにかけては年老いた高利貸しも顔負けの、あのシュパンが金など要らないと言うとは!...2-IX-5

  • 2-IX-4

    シュパンは心の動きがすぐ顔に出るタイプだったが、今はそれを押し隠していた。まず第一に、フォルチュナ氏にいちいち自分の行動を報告する義務はなかったし、第二に、今は自分の主義を宣言するのに適当なときではないと判断したからだ。それでフォルチュナ氏が言い終わった途端、彼はすばやく答えた。「つまりそれって、悪党どもをやっつけるってことっすね……ああ、分かってますって!そういうことなら、俺自慢するわけじゃないすけど、大いにボスのお役に立てますよ。あのド・コラルト子爵の過去についての具体的な事実なんかどうです?実はですね、俺知ってるんすよ、あの悪党野郎のことは、何から何まで!言ったように奴は結婚していて、あいつのカミさんを一週間以内に連れて来ることも出来ますよ。どこに住んでいるかは知らないんすけど、タバコ屋をやっている...2-IX-4

  • 2-IX-3

    なんと!十五フラン六十五サンチームも!他の場合であればこのような予想外の大盤振る舞いにシュパンの顔には大満足の皺が寄せられる筈であった。ところが今日の彼はにこりともしなかった。彼は放心したようにポケットに金を滑り込ませると、酷く気乗りのしない口調で「どうも」と言った。フォルチュナ氏の方は自分の考えに耽っていて、この些細な出来事には気がつかなかった。「あいつらをやっつけるぞ、ヴィクトール」と彼は再び口を開いた。「コラルトとヴァロルセイには裏切りの代償を支払って貰う、とお前にも言ってたろう。その日も近いんだ。ほら、この手紙を読んでみてくれ……」シュパンは有能そうな様子でその手紙を注意深く読んだ。読み終えるとフォルチュナ氏が言った。「さぁ、どう思う?」しかしシュパンは軽々しく自分の意見を述べるような青年ではなか...2-IX-3

  • 2-IX-2

    いろんな感情が激しく入り乱れ、いつもは無表情な彼の顔彼の態度があまりに奇妙だったので、ドードラン夫人は好奇心に駆られ、口をぽかんと開け、目を一杯に見開いて耳をそばだて、フォルチュナ氏の前にじっと立ち尽くしていた。それに気づいた彼は怒りの口調で言った。「そこで何をしている?おかしな真似をするな!じっと見ていたんだな!さっさと戻って台所の監督でもしていろ……」彼女は震えあがって逃げていった。フォルチュナ氏自身も書斎に入った。じっくり考えてみると喜びが沸々と湧き上がって来て、やがて来るべき復讐への期待に頬が弛み、悪意のこもった微笑が浮かんだ。「あの娘はなかなか良い勘をしている」と彼は呟いた。「それにツキにも恵まれている……。俺が彼女の味方をしよう、そしてあの恋人、極悪人どもに名誉を傷つけられるがままになったあの...2-IX-2

  • 2-IX-1

    IXアキレスの腱にまつわる神話はいつの時代にも通じる真実を語っている。身分が低かろうが高かろうが、身体が強壮であろうがなかろうが、どこかに弱点を抱えない人間はいない。そこだけが極めて脆く、傷つけらればその痛みは耐え難い。イジドール・フォルチュナ氏のアキレス腱は、彼のふところにあった。彼のその部分が攻撃されることは、彼の生命の源そのものがやられるも同然であった。そこは彼の感受性が最も鋭敏なところであり、彼の心臓が鼓動しているのは胸の中などではなく彼の幸福な財布の中だった。彼が喜んだり苦しんだりするのはその中身によってであり、素晴らしい才覚によって仕事が上首尾に終り、財布が膨らんでいるときには幸せになり、不手際がもとで失敗して空っぽになったときは絶望感に襲われるのだった。さて、かの呪われた日曜日、意気盛んなウ...2-IX-1

  • 2-VIII-19

    「レースでね、もちろん!」とマルグリット嬢は思った。そしてその夜はずっと、良く言えば独創的とは言える節約の仕方についての話題に終始するのを聞いていなければならなかった。真夜中頃になって自室に戻った彼女は腹立ちを抑えることができなかった。そしてもう十回は頭の中で繰り返したであろう言葉を独り言ちた。「一体私のことを何だと思っているの、あの人たちは!私が完全な馬鹿だと思っているのね。私の目の前で私の父から盗んだお金で手に入れたものを並べ立てるなんて!私から盗んだお金でもあるじゃないの!下賤なペテン師たちには自制心がないから、騙し取った金品を使わずにいられなくて夢中になって使いまくる図、というのは分からないでもないけれど、あの人たちは!あの人たちは頭がおかしいんだわ」マダム・レオンはしばらく前に就寝していた。マル...2-VIII-19

  • 2-VIII-18

    あまり、どころではなく、全然問題にならなくなった、のかもしれなかった。『将軍』はその後すぐ、友人の一人を伴って帰宅した。彼を晩餐に招待したのである。その晩餐の席でマルグリット嬢はフォンデージ氏が夫人に負けず劣らずその日を有効に過ごしたことを知った。彼もまたくたびれた様子だったが、確かにその理由はふんだんにあったようだ。まずフォンデージ氏は投資で大損をしたという紳士から馬を数頭買い取ったのだが、それらの見事な姿を見れば、代金が五千フランとは破格の安値であった……。その後一時間も経たないうちに、ある有名な馬の目利きであるブリュール・ファヴァレイ氏から、殆ど二倍の値で買いたいという申し出があったのを断ったのだった……。このことで彼はすっかり気を良くし、立派な鞍付きの馬の周囲をうろついた挙句、それが百ルイで手に入...2-VIII-18

  • 2-VIII-17

    幸いにも味方と頼れる人が一人いた。あの老治安判事である……。彼に相談しようかと考えたことは今までもあった。彼女のこれまでの行動はそのときどきの状況に応じてなんとか切り抜けてきたものだった。が、事態の進展の速さを考えると、状況を制御するには自分よりもっと人生経験を積んだ人が必要だと感じていた。今彼女は一人なので、スパイされる恐れはない。この時間を利用しないのは愚かなことだ。彼女は旅行鞄から筆記用具を取り出し、不意に誰かが入って来ることのないようドアにバリケードをし、治安判事に宛てて手紙を書き始めた。最後に会ったときから起きた出来事の数々を、稀に見る正確さで、細部に亘り省略することなく、すべてを彼女は記した。そしてド・ヴァロルセイ侯爵からの手紙の中味を再現し、何か不測の事態が生じたときには写真家のカラジャット...2-VIII-17

  • 2-VIII-16

    興奮が冷めると、彼女は自分が手に入れた優位を過大評価するのでなく、むしろ疑いをもって吟味し始めた。それというのも疑いの余地のない完璧な勝利を望んでいたからだ……。ド・ヴァロルセイ侯爵の犯罪を暴くことにさほどの意味はないように彼女には思われた。それよりは、彼の計画の真意を見抜くことが必要だと心を決めていた。彼が執拗に彼女を追い求めるその隠された理由を突き止めることだ……。自分自身素晴らしい武器を手にしていると思ってはいるが、侯爵の手紙に書かれていた脅しのことを考えると不吉な不安を追い払うことが出来なかった。『協力者のおかげで』と彼は書いていた。『かの気位高き娘を非常に危険かつ悲惨な状況に置き、一人では脱出できぬと思われるその状況の中で……』この文言はマルグリット嬢の頭から離れなかった。この今にも自分の頭の上...2-VIII-16

  • 2-VIII-15

    マルグリット嬢がフォンデージ邸を出てから一時間超が経っていた。「ときが経つのってほんとに早いのね!」と彼女は呟いていた。人目を引かぬ範囲内で最大限に足を速めながら。それでも、いかに急いでいたとはいえ、ノートルダム・ド・ロレット通りの裁縫材料店に立ち寄り、五分ほどを費やさねばならなかった。黒いリボンやその他の喪のしるしの小物を買うためである。召使の誰かが出て来て外出の理由を聞かれることがあった場合に備え、説明できるように、であった。そういうこともないとは言えず、むしろありそうなことであった。あらゆる可能性を彼女は考えていた。しかし、『将軍』邸の前の階段を上がり、門の呼び鈴を鳴らしたときは緊張のあまり鼓動が胸を突き破りそうになった。この彼女の計画と冒険が成功するか否かは、彼女の行為とは無関係な外的要因に依存し...2-VIII-15

  • 2-VIII-14

    そうこうしている間に助手が機具を持って戻って来たので、彼はその機具を小サロンの中で組み立て設置した。準備がすべて整うと彼は言った。「ではそのお手紙をお渡しくださいますか、マダム」一瞬の戸惑いが感じられた。しかしそれはほんの一秒ほどのものだった。この写真家の誠実で親切な顔つきから、彼は信頼を裏切ることはないだろうと彼女は確信した。この人ならむしろ自分に力添えをし、救ってくれるであろう、と。彼女はド・ヴァロルセイ侯爵の手紙を悲痛な威厳を持って差し出し、はっきりした口調で言った。「貴方様の手に託しますのは、私の名誉と未来でございます……。でも私には不安はありません。何も怖れてはおりません」写真家はマルグリット嬢が何を考えているのかが分かった。秘密にしておいてくれ、と敢えて口にしなかったこと、それは不必要だと彼女...2-VIII-14

  • 2-VIII-13

    きっとそうであって欲しいと彼女は願っていたのだった……。彼女が突然思いついたこの計画の成否はこれらの点に掛かっていた。それでもまだある懸念が彼女の希望に影を落としていた。その心配を振り払おうと決心したのだが、いざ口を開こうとすると、今度はいろんな不安材料が頭に浮かび、彼女は躊躇した。今言おうとしているのは、彼女の計画の核心に触れる部分だったからだ……。しかし必要なことは聞かねばならない。彼女はためらいを押し殺し、やや上ずった声で言った。「もう一つお尋ねしなければならないことがありますの。私は何も知らない女ですので、お教え頂きたいのです……。私がここに持っている手紙は、明日差出し主に戻され、多分焼却されることになります。もし、今後訴訟という事態になり、私があることを申し立てたら、相手方は否定するでしょう。そ...2-VIII-13

  • 2-VIII-12

    「貴方にお願いしたいことがあるんです。とても大事なことです」「この私に?」彼女はポケットからド・ヴァロルセイ侯爵の手紙を取り出し、相手に見せた。「貴方にこの手紙の写真を撮って頂きたいのです。どうかお願いです……今すぐに、私の目の前で、です。これには二人の人間の名誉が掛かっています。今こうしている一瞬一瞬がそれを危険に晒しているのです!」マルグリット嬢を突き動かしているものの激しさは誰の目にも明らかだった。彼女の頬は真っ赤になり、全身がぶるぶると震えていた。それでいて、彼女は誇り高い態度を崩さなかった。高潔な思いの一途さが彼女の大きな黒い目を輝かせており、その口調の静かさに彼女の強い心が感じられ、正義のために最後まで戦うという決意がにじみ出ていた。若い娘の恥じらいと恋する者の逞しさという相反する力が彼女の中...2-VIII-12

  • 2-VIII-11

    「ノートルダム・ド・ロレッタ通りを下りて行きゃ、すぐのところにありますよ」と彼はついに答えた。「坂を下り切ったところの左手にカルジャット写真館てのがあります」「ありがとうございます!」食料品屋の主人は店の敷居のところに立って彼女の姿を目で追った。「どこのお邸のお嬢さんか知らねぇが」と彼はひとりごちた。「あまりものを知らないんだな」彼女の様子はいかにも異様で、しかも猛烈な速さで歩いていたため、通りすがりの人々が振り返るほどであった。彼女もそれに気づき、意識的に歩調を緩めるようにした。やがて教えられた場所の近くまで来ると、馬車の出入りできる大きな門の両側に、たくさんの肖像写真が額縁に入れられているのが見え、その上に『E・カルジャット』という名前があった。マルグリット嬢は中に入っていった。大きな中庭の右手に建物...2-VIII-11

  • 2-VIII-10

    手紙を元通りにしまって、何事もなかったかのように今まで通りお馬鹿さんを演じ続けるか?いや、そんなことは出来ない。侯爵の犯罪を立証するこのような明々白々な証拠をみすみす逃してしまうなどとは狂気の沙汰であろう。しかし、この手紙をどこかに隠せば当然大騒ぎになり、捜索がなされるであろう。ド・ヴァロルセイ侯爵は打撃を受けるだろうが、完膚なきまでにというわけではないだろう。そしてジョドン医師を抱き込んでの陰謀も誰にも知られることなく終わってしまうことだろう。最初に浮かんだのは、かの老治安判事に助けを求めに行くことだった。しかし彼にすぐ会うことは出来るだろうか?彼が住んでいるのはかなり遠く、時間は切迫している……。それでは、あの万相談を引き受けてくれる便利屋のもとに馳せ参じるのは?それとも公証人?あるいは裁判官?この手...2-VIII-10

  • 2-VIII-9

    『我が味方の心強き協力により』と手紙は続いていた。『この気位高き娘を非常に危険かつ悲惨な状況に置き、一人では脱出できぬと思われるその状況の中で、あわやというその瞬間に小生が駆け付け彼女を救い出す……さすれば感謝の念が必ずや奇跡を導くことであろう。それはこちらにとり祝着至極……』『すべては順調に運ぶものと存ずる。しかしながら、ド・C氏を臨終まで診られた医師、貴下は確かドクター・ジョドンとか申されたと記憶しておるが、その方の御助力あれば尚更に事は上首尾に運ばんものと存ずる。かの御仁はどのような方でおられるか?もしも数千フランの札束で心動かさるる人物ならば、これはもうはっきり断言いたそう。この件はもう成功したも同然、と……』『貴下のこれまでの振る舞いは真に見事なもの。必ずやその報償は貴下の期待以上のものとなろう...2-VIII-9

  • 2-VIII-8

    しかし自己防衛の本能がこれらの良心の呵責に打ち勝ったのであろう……。彼女の名誉、パスカルの名誉、そして彼ら二人の将来、二人の愛と幸福が掛かっているのではないか!「ここで躊躇ってなどいたら、それは正直さでなく愚かさだわ」と彼女は呟いた。そしてしっかりした手つきで鍵を鍵穴に差し込んだ。錆びついてがたがたになっていたので、なかなかすんなりとは行かなかったが、引き出しは開いた……。すぐに目に飛び込んで来たのはマダム・レオンによってきちんと整列させられた装身具の畝で、問題の手紙はその上にあった。マルグリット嬢は気持ちの昂ぶりを感じつつ急いでそれを手に取り、広げて読んだ。『マダム・レオン殿、……』まぁ、とマルグリット嬢は呟いた。名前を省略もせずに書いてあるではないか!これでは否認することも難しかろう、不用意なことだ…...2-VIII-8

  • 2-VIII-7

    既に出かける支度を終えていたフォンデージ夫人は馬車を迎えにやろうとしていたのだが、マルグリット嬢に一緒に行かないか、と提案した。こんな申し出に乗らない者などいない、と彼女は決めてかかっていた。新商品を取り揃えている店から店を回るのは、買えるか買えないかは別にして、たとえ興味を惹かないものであったとしても、抗しがたい魅力なのだ……。それは大貴族の御婦人たちによってアメリカから取り入れられた習慣で、絹物を取り扱う店の貧しい女店員に絶望感を与えるものであった。一時ごろになると、流行に敏感な若い女性たちがこういった店にどっと押しかけ、布地を見せてくれと要求する。ただ見て回るだけより、その方が面白いのだ。絹の布地を二百メートルほども無駄に広げさせた挙句、彼女たちは夕刻には帰宅するのだが、その一日は無駄に終わったわけ...2-VIII-7

  • 2-VIII-6

    この瞬間から、彼女の頭は専らこの考えに占領された。なんらかの策がないものかと一心に考え込んだあまり、朝食の間彼女が喋った言葉は十語にも満たず、しかもうわの空であった。「あのいまいましい手紙を手にする方法を考えつくことが出来なければ私は単なるお馬鹿さんだわ」と彼女は頭の中で何度も繰り返した。「あの中に書いてあるのよ。パスカルと私が陥れられた邪悪な陰謀の証拠となるような言葉が……」彼女がうわの空であることは、しかし幸いにも誰にも気づかれなかった。共に食事をしている者たちは皆それぞれ自分の考えに耽っていたからである。マダム・レオンはさっき受け取った手紙について思いを巡らせ、それ以外は専らヤマウズラのトリュフ詰めとシャトー・ラローズの瓶に注意を奪われていた。彼女は美味しいものには目がない方で、自分でも無邪気にそれ...2-VIII-6

  • 2-VIII-5

    マダム・レオンがこの手紙が来るのを知っていたこと、じりじりしながらそれを待っていたことは、彼女が急いでベッドから飛び起き---彼女はまだベッドで寝ていた---素早くドアを開けに行った様子によって疑いの余地はなかった。そしてすぐに彼女の飛び切りの猫なで声が仕切り壁越しに聞こえた。「まぁご親切に、本当に有難う!ああ、おかげさまで心配が吹き飛ばされましたわ。義理の兄が様子を知らせてくれたのよ……これは彼の筆跡よ……」この後でドアが再び閉められた。マルグリット嬢は部屋の真ん中に立ち、顔は蒼白、額には汗がじっとり浮かんでいた。不安が彼女を駆り立て、あらん限りの力を振り絞って聞き耳を立てた。手紙の封を開ける音が聞こえた。内なる声があらゆる分別をしのぐ強さで彼女に語っていた。彼女の名誉、未来、そして命さえもこの手紙に掛...2-VIII-5

  • 2-VIII-4

    料理女も首が挿げ替えられたのだろうか?この点はマルグリット嬢には確かめる術がなかった。ただ日曜の晩餐が前日のものとは全く様相を異にしていたのは事実だった。量よりも質が重んじられ、細心さが感じられ、豊富でもあった。シャトー・ラローズを取りに貯蔵室まで降りて行かせる必要もなかった。ワインはちょうど良いタイミングで、適度に温められた状態で出され、マダム・レオンの好みにぴったり合ったようであった。この二十四時間でフォンデージ夫妻は本物の豊かさの中に身を置くようになった。辛くも外面だけを取り繕い裕福さを演じることは現実の貧苦より千倍も悲惨なことである筈だが、そのようなことなど経験したこともない、といった様子であった。「私は思い違いをしていたのかしら。そんなことってある?」と彼女は自分の部屋に戻って一人になったときそ...2-VIII-4

  • 2-VIII-3

    男はまさかという疑いと不安そして希望をありありと見せながら、ポケットから長い長い計算書を取り出した。しかし札束を目の当たりにし、明細が改められもせず、文句もつけられず、言い争いにもならず、すんなり支払いが行われると、仰天しながらも敬意を込めた態度に豹変し、蜜のように甘い声音になった。焦げ付きそうな借金が回収されるときというのは、堅実な支払いを受ける場合の五十倍の喜びをもたらすと言われるが、この場合がそれに当て嵌まるようであった。見ていたマルグリット嬢は、この貸し馬車屋が『伯爵夫人様』にこの『ちょっとした支払い』をもう少し後までお待ちしてもよござんす、と言い出すだろうと思ったほどだった。パリの商売人というのはこのようにできている。相手の懐具合が苦しそうだと見れば情け容赦ないが、相手の状態が順調と見るや、請求...2-VIII-3

  • 2-VIII-2

    そもそも、彼女を自分たちの家に引き取るとは何たる大胆さというか、軽率さであろうか。かの大金のたとえ一部でも着服したのが真実ならば、その金を使うことにより彼らの犯罪が明るみに出てしまう危険があるというのに……。「あの人たちは完全に頭がおかしいんだわ」と彼女は考えた。「そうでなければ、私は目が見えず、耳も聞こえず、この地上で生きている誰よりも騙されやすい人間だと思っているのよ」次に、何故彼らはあれほどまでに息子のギュスターブ中尉と彼女を結婚させたいのだろうか?「一件が露見した場合に備えて防御方法を準備しているのかしら?」フォンデージ夫妻に警戒心を起こさせてはならない、と彼女は心配していた。抜け目ない人間であれば、負債をそっと目立たないように返済してしまうことなど何でもない。そして殆ど目につかぬようなやり方で出...2-VIII-2

  • 2-VIII-1

    VIII少なくともマルグリット嬢の側では、調べられることはそう多くはなかった。常識的に見て、今後の彼女の仕事としては、フォンデージ夫妻の生活をたゆまず観察し続けること、そして夫妻の支出を正確に記録しておくこと、だけだった。これは注意力と数字の問題だった。ここまでの成果で自信を持ってもよかったのだが、彼女は自分の力の及ぶ範囲を過信することはなかった。これは大きな意味を持つものなのかもしれないし、あるいは何でもないのかもしれない。『将軍』がド・シャルース伯爵の書き物机から消えていた二百万フランを盗んだという心証が得られたとしても、それで全てが終わるわけではないということを彼女はよく理解していた。その瞬間から真の困難が始まるのだ。一体どのような方法でフォンデージ氏がその大金をくすねることが出来たのか、それを彼女...2-VIII-1

  • 2-VII-15

    健康的であること、居心地の良さ、ゆとりといったものはこの家では悲惨にも犠牲にされていた。見栄え、世間の目にどう映るかという体裁が優先されていた。食堂は立派なもので、サロンは堂々たるものであったが、家全体の中でちゃんと家具が揃っているのはこれら二つの部屋だけであった。残りの部屋は空っぽで寒々とし、剝き出しで荒涼としていた。まるで差し押さえの執達吏が目録を作成するときのように、虚栄心が最低限必要なもの以外すべて取り去ってしまったかのようであった。偶然そこに取り残されたかのごとく散らばっているものは家具というより、競売に掛けられなかった残骸のようだった。フォンデージ夫人の部屋には確かに鏡張りの綺麗な衣装戸棚があり、それはあの颯爽たるトリゴー男爵夫人の友人として、なくては済まされぬものであった。しかし彼女の寝台に...2-VII-15

  • 2-VII-14

    もしもマルグリット嬢がド・シャルース邸で生まれておれば、そして両親の愛情に包まれ何不自由なく成長し、莫大な財産によって人生の厳しい現実に曝されないよう守られて生きて来たのであれば、財産の無い状態に絶望したであろう。人は自分の知らない危険を避けるすべは持たないものであるから。しかし彼女は子供の頃からの苦労のおかげで現実の人生の苦い側面を知ることが出来た。それを教えた師というのは厳しくも残酷な、不幸という師であった。十三歳という年齢からこの上なく自堕落な階級の中に置かれ、頼る者は自分一人、すべてを疑いすべてを危惧することに慣れていた彼女は、奇妙な警戒心の強さと鋭い洞察力の持ち主となった。彼女には物事をじっくり見聞きし、考え、そして行動する力が備わったのである。生まれつき純情な性格でありながら、彼女は策略を巡ら...2-VII-14

  • 2-VII-13

    これは『将軍夫人』から逃れられるまたとない機会だったので、マルグリット嬢はすぐさまそれに飛びついた。彼女は夫人に退出しても構わないかと尋ね、疲れて死にそうなので、と理由を言ったが、それは本当のことであった。夫人から母親のようなキスを貰い、「よくお休みなさい、可愛い子」と声を掛けられ、彼女は寝室へと引き上げた。有難いことにマダム・レオンは出かけていたので、彼女は監視される心配もなく一人になることが出来た。そこでトランクの一つから旅行用の書き物セットを取り出すと、手早く一通の手紙を書きあげた。それはド・シャルース伯爵が雇ったことのある業者、イジドール・フォルチュナ氏宛てで、次の火曜日に彼を訪問することを告げる内容であった。「さぁ後は明日ミサに行く途中、この手紙を誰にも見られずにポストに投函する方法を考え出すこ...2-VII-13

  • 2-VII-12

    「言うまでもないことだけれど」と夫人は続けた。「冬が一番煌びやかな季節なのよ。楽しいときが始まるわ。十一月五日を皮切りにコマラン伯爵夫人のパーティが催される。パリ中の人々が集まるわ。七日にはボアダルドン子爵婦人邸で舞踏会があるし……十一日にはコンサートがあってその後舞踏会がトリゴー男爵夫人邸で開かれるわ。貴女もご存じでしょ。あの四六時中ゲームをしていらっしゃるという、ものすごくお金持ちで一風変わった方の奥様ですよ」「初めて聞くお名前です……」「まぁ本当?貴女本当にパリに住んでいらしたのよね?信じられないわ。これだけは知っておいてね、世間知らずさん、トリゴー男爵夫人はパリで一番目を引く方でいらして、しかも才気煥発、ファッションでもあの方の右に出る人はいないわ。ファン・クロペンのお店でのあの方の払いは年に十万...2-VII-12

  • 2-VII-11

    貴女みたいな別嬪さんなら、本当に貴女は神々しいくらいに綺麗なんですもの、どこへ行ったって女王様みたいにもてはやされるわ。さぁ、こう言ったら貴女の冷淡な心も動かされないこと?活動的な生活、パーティ、ざわめき、目を見張るような装い、ダイヤモンドの輝き、殿方からの称賛、ライバルのやっかみ、自分の美しさを自覚すること。これほど若い娘の心を満たすものは外にはないわ。眩暈がするほどでしょうけど、その眩暈こそが幸せというものよ」これは彼女の本心なのであろうか?彼女は計算づくで誘惑しようとしているのであろうか?このように若い娘の目を眩ませれば、その後自分の好きなように操れるであろうと期待しているのか?狡猾な性格の人間にはよくあることだが、彼女の中には非常に現実的な率直さと奥深い計算高さとが同居していた。彼女が口に出してい...2-VII-11

  • 2-VII-10

    マルグリット嬢は笑いを隠すのに少なからず苦労せねばならなかった。「おば様に白状いたしますけれど、私は子供の頃からずっと自分の着る服は自分で作っていますの」『将軍夫人』は両手を天に差し伸べた。「自分で、ですって!」聞き間違ったのではないことを確認するため、彼女は数回繰り返した。「自分の手で?まぁ、そんなこと、とても考えられない!五十万か六十万リーブルもの年利収入のある方の娘である貴女が、どうしてそんな!ああでも、そうね、亡くなられたド・シャルース様は立派な方ではあったけれど、奇妙な一風変わった考えをお持ちの方でしたわね……」「お言葉ですけれど、おば様、私は自分の楽しみのためにそうしていたんですの……」ここに至って、これはフォンデージ夫人の理解を越えた。「信じられない!」と彼女は呟いた。「とても本当のことと思...2-VII-10

  • 2-VII-9

    将軍はそそくさと立ち去り、召使たちは食器を引き始め、マルグリット嬢はフォンデージ夫人の後についてサロンに入った。それは広々とした部屋で、天井は高く、三つの窓から採光がされ、食堂より更に豪華なものであった。家具や絨毯、それに壁掛けの趣味は多少問題があったかもしれない。色彩鮮やかで派手であり強い印象を与えるものであったが、華やかさが強調されすぎの気味があったかもしれない……。もしも暖炉棚の置物一式が七、八千フラン以上はしなかったとしても、確かにそれらは二万五千フランの輝きを放っていたし、他の物も同様であった。夜は肌寒かったので、フォンデージ夫人は暖炉に火を入れさせていた。彼女は暖炉の前の長椅子に腰を下ろし、マルグリット嬢が向かいに座ると彼女は口を開いた。「さぁ、可愛いマルグリットちゃん、お話をしましょうね」マ...2-VII-9

  • 2-VII-8

    「あなたも御存知でしょ。わたし、この者には地下の酒蔵の鍵を預けておりませんのよ。エヴァリスト、ジュスティーヌを呼びなさい」例のずうずうしい態度の小間使いが現れると、女主人は問題の地下の酒蔵の鍵がどこにあるかを伝えた。やがて十五分も経った頃、一本のワインが持って来られた。食料品屋や酒屋がごく並みのボトルを唖然とするほど立派に見せるための工夫を凝らしたもので、苔と埃を被り、パリの街を走り回っている悪童たちが採石場跡で集めて来る蜘蛛の巣に覆われていた。それらは『品質』によって一リーヴル(500g)七十五サンチームから二フランで売られている。しかしこのボルドーもその場の空気を元の陽気さに戻すことはできなかった。『将軍』は一言も口を利かず、コーヒーが出されて妻がこう言ったときには嬉しそうな顔を隠すことができなかった...2-VII-8

  • 2-VII-7

    というのは、食堂は素晴らしい部屋だったからだ。どっしりした飾り戸棚には貴重な食器や磁器が並べられ、ちょっとした博物館のようだった。マルグリット嬢は『将軍』とその夫人の間に挟まれる位置で、マダム・レオンの向かい側に座ったが、ひょっとして今まで自分は偏見に囚われていたのではないかと自問した。しかし、ここに所狭しと並べられているのは銅や亜鉛などの合金ばかりであることに気づいた。それにナイフやフォークの数が足りてさえいないことにも。とはいえ、銀器は鍵をかけた戸棚にしまっておく人々がいることも事実であった。使われている磁器は非常に綺麗なもので、『将軍』の花文字がついており、妻の伯爵の王冠が圧倒していた。食事自体は救いようのないものだった。量はあったが、質は酷く、最下級の見習いコックの試作品かと見紛うほどだった。それ...2-VII-7

  • 2-VII-6

    しかし、彼女とマダム・レオンの荷物が運び上げられている間、フォンデージ夫人と腹心の女中とが何やらひそひそ声で熱心に話し合っているのが見えた。なにか思いがけぬ緊急の問題が持ちあがった様子だった。一体何を話し合っているのだろう?耳をそばだてるのに良心の呵責はなかった。「上下一揃いのシーツ」という言葉が何度か聴きとれたので、彼女は考え込んだ。「そんなことってある?」と彼女は思った。「私たちのためのシーツがないなんてこと……」ほどなく彼女はこの家の女中が自分の職場について持っている意見を知ることになった。箒と雑巾と羽根ばたきを使って奮闘しつつ、これからますます仕事量が増えることを見越している彼女は歯ぎしりしながら不平をこぼしていた。このぼろ家では死ぬほど働かされた挙句、お腹一杯食べることもできず、給料も遅れる、と...2-VII-6

  • 2-VII-5

    彼女がド・シャルース邸で使っていた瀟洒な部屋とこの侘しい小部屋とを較べると、マダム・レオンは渋面を隠すのに苦労しなければならなかった。しかし、ためらいを見せたり選り好みなどを言っている場合ではなかった。ド・ヴァロルセイ侯爵からはマルグリット嬢の傍から離れぬよう厳しく言われているし、お嬢様に随行できたこと自体、僥倖と言わねばならなかったのだ……。侯爵が目的を遂げるかどうかは別にして、相当な報酬を支払って貰うという約束があるのだから多少の不便は大目に見なければならないだろう……。というわけで彼女は飛び切りの甘い声と心にもない遜りで本心を隠し、貧しい未亡人にはもったいないくらいの部屋でございます、と言い切った。降り掛かった不幸のため元の社会階層から転落した身である自分には、と。そして、ド・フォンデージ夫妻のご配...2-VII-5

  • 2-VII-4

    そうこうしているうちに彼らは殆ど家具の置かれていない部屋をいくつか通り抜けた。「申し訳ないのは私の方ですわよ」とフォンデージ夫人は言葉を続けていた。「あの素敵なド・シャルース邸が恋しくおなりになるんじゃないかと心苦しく思っていますのよ。私共は貴女の亡くなったお父様ほどのお金持ちではありませんのでね。暮らし向きは随分良い方ですけれど、それだけのことでね……。さぁここですわ。ここが貴女の部屋ですよ」女中がその部屋のドアを開け、マルグリット嬢は中に入っていった。それは窓が二つあるかなり大きな部屋で、みすぼらしい壁紙が貼ってあり、青いカーテンが掛かっていたが、日の光と埃で殆ど色褪せしていた。部屋中の物が驚くべき乱雑さで散らかっており不潔だった。ベッドメーキングはされておらず、洗面道具は洗われた形跡がなく、へり地製...2-VII-4

  • 2-VII-3

    三階の部屋のドアまで来ると、フォンデージ夫人はポケットを探りマスターキーを取り出そうとしたが、見つからなかったので呼び鈴を鳴らした。やがて金ぴかのお仕着せを着た恐ろしくふてぶてしい態度の大男が、古い汚れた錬鉄の燭台を持って現れた。燭台の上ではちびた蝋燭が一本悪臭を放っていた。「どういうことなの!」とフォンデージ夫人は声を張り上げた。「控えの間にまだ灯が入っていないのは!馬鹿にしているの!私が居ない間に一体何をしていたの?さぁぐずぐずしないで……火を灯しなさい!料理女にお客様の夕食も用意するように言っておくのよ!私の小間使いを呼んで。ギュスターブの部屋を準備させないといけないんだから。それから下に降りて、この方々のお荷物を運び入れるのに将軍がお前の助けを必要としているかどうか見て来なさい」このように一度には...2-VII-3

  • 2-VII-2

    将軍は彼女に奥の座席にフォンデージ夫人と隣り合って座るよう言い張った。彼は前の長椅子にマダム・レオンと共に座った。道中は長く物悲しいものだった。やがて日が落ち、パリの街が動き出す時刻となった。通りは混雑し、どの曲がり角でも馬車は一旦停止しなければならなかった。一人フォンデージ夫人だけが会話を続けていた。彼女の甲高い声は車輪の音に負けず響き渡っていた。彼女は亡くなったド・シャルース伯爵の優れた資質を讃え、マルグリット嬢が良い決断をしたと言って褒め上げた。彼女の言葉はどれも月並みなものであったが、言葉の端々に深い満足と、殆ど思いがけぬ勝利の喜びに近いものが滲み出ていた。将軍はときどき馬車の昇降口に身を屈めては、ド・シャルース邸からマルグリット嬢の荷物を積み込んだ荷馬車がちゃんと後をついて来ているかどうか確かめ...2-VII-2

  • 2-VII-1

    VII.見知らぬ人間……それどころか自分を執拗に追ってくる敵……に身を委ねること……。他者の損失において己の利益を追求することに機敏な、猫かぶりのペテン師たち、その度合いでその悪辣ぶりを測ることができるのだが、そういった連中はどんなことでもやってのける。熟考を重ねた後、このような手ごわい偽善者たちの意のままになる決心をするということ、相手が密かに企んでいる災いに、穏やかな眼差しと微笑で平然と立ち向かうこと。危険な匂いのする誘惑や忠告、狡猾に計算された追従、あらゆる種類の罠、陥穽、あるいは暴力もあるかもしれないのに……。これをやってのけるのは並みの精神力の持ち主ではない。自分の意志の力に揺るがぬ自信を持ち、危険をものともせず、生きるか死ぬかの決断に迷わない。こういった英雄的資質をマルグリット嬢は持っていた。...2-VII-1

  • 2-VI-28

    いつもの彼はこの上なく抜け目のないプレイヤーなのに、危険な手ばかり続け、何も考えていないかのように出鱈目なプレイぶりだった。何もせずぼんやりしていたのでは怪しまれると恐れたのか、彼はやみくもに親と同額を掛けるバンコを繰り返していた……失った金を取り返そうと必死になっているという風に……。親になったときの彼は更に酷かった。ツキが回ってきたというのに彼のやり方は無茶苦茶だった。例えば手札に七が来たとき、相手に仄めかしを与えた後でカードを引く、という具合でね……。(バカラは二人が二枚のカードを引き、合計した数字の1の桁が9に近い方が勝ちというゲーム。10以上のカードは0とカウントされる。他のプレイヤーは二人のうちどちらが勝つかを賭けて遊ぶ)やればやるほど彼の出鱈目ぶりが明らかになり、周囲から夕食時に飲みすぎたん...2-VI-28

  • 2-VI-27

    「先日私を訪ねてきた男よ、イジドール・フォルチュナとかいう……。ああ、あのときあの男にお金をやれ、とどうして貴方は言ってくださらなかったの……」男爵はすっかりその男、ヴィクトール・シュパンの雇い主、の存在を忘れていた。「貴女は間違ってますよ、リア」と彼は答えた。「フォルチュナ氏はこのことは無関係です……」「それじゃ一体、誰が話したと仰るの?」「もとは貴女の側についていた男、彼がパスカル・フェライユールを陥れるのを貴女が許したその男、ド・コラルト子爵ですよ」こう指摘され、怒りが瞬間彼女を貫いた。そのため少し元気を取り戻したらしく、彼女は立ち上がった。「まぁ、もしもそれが本当だったら!」と彼女は叫んだ。それから、男爵がド・コラルト氏を憎む理由が頭に閃いたので、彼女は呟きながら再び座った。「違うわね。貴方は恨み...2-VI-27

  • 2-VI-26

    彼女は言葉を切った。これから口にしようとしていることが恐ろしくなったからではなく、疲弊してしまい息が切れたのだった。彼女はしばし大きく息を吸っていたが、やがて声を落として言った。「それに、あの子をここに送り込んだ人間は冷静に行動せよと命じたに違いないわ。落ち着いて慎重に、と……確かに最初はそうだったわ。最後の方になって、思いがけないことを告げられてからよ、あの子が自制心をなくしてしまったのは。私の兄の何百万という遺産が自分の手に入らないと聞かされて、あの子は頭がおかしくなってしまったのよ。ああ、お金って人の運命を変えてしまう呪われたものね!」このときの彼女は、自分の舘でバカラのテーブルを囲む賭け事師たちが全財産を失うのを冷ややかに眺めていた自分のことを忘れてしまっていた。ウィルキーからの金の無心があること...2-VI-26

  • 2-VI-25

    男爵の赤ら顔の頬に熱い涙が零れ落ちた。男爵もまた哀れな男だった!マダム・ダルジュレの嘆きの一つ一つが彼の苦しい胸にも響き、共鳴していた。空威張りの男爵、賭博場の常連、トリゴーと言えばカードゲーム、そう言われている彼もまた同じ絶望的な叫びをあげていたのだ。「あれが我が子なのか!」という。しかし彼はそういう自分の気持ちを隠し、わざと陽気な調子で言った。「馬鹿な!ウィルキーはまだ若い。今に自分の非を改める日が来ますよ!我々だって二十歳の頃には皆馬鹿なことをやらかしたもんじゃありませんか!タフな男を気取って母親に心配させ、眠れぬ夜を過ごさせたりしたもんです。時間てもんが必要なんですよ。時がたてば、あの跳ねっ返りの若者にも分別が付きますよ。それに、貴女が信頼しているあのパターソン氏、彼にも非がないとは私には思えませ...2-VI-25

  • 2-VI-24

    ウィルキー氏は一言も答えず、ぎこちない足取りで、廊下に出る二枚扉まで来ると、そこで元気を取り戻した。その廊下は踊り場に通じていた。「あんたのことなんか、怖くないからな!」と彼は熱に浮かされたように激しい口調で言った。「あんたは自分の腕っぷしを見せつけたな。卑怯なやり口だ……だが、このままで済むと思うなよ。いいか忘れるな!償いをして貰う。……あんたの住所はすぐに分かるから、明日には決闘の介添え人を差し向けるからな……コスタール君とセルピヨン君だ。俺は剣を選ぶ!」ウィルキー氏がそそくさと出て行ったのは、男爵の猛烈な罵り言葉に多少背中を押された所為もあろう。彼は素早く踊り場に立つと、扉を押さえたままにし、危険と見ればすぐさま閉められるようにしておいた。「そうとも」と彼は召使い全員に聞こえるように声を張り上げて続...2-VI-24

  • 2-VI-23

    この名前こそウィルキー氏の記憶に刻み込まれていたものだった。彼がごく幼い頃耳にした名前……。ジャック!そうだ、彼にお菓子や玩具を持って来てくれた男の名前がそれだった。その綺麗なアパルトマンに彼はほんの数日だけ滞在したのであった。というわけで彼は理解した。少なくとも理解したと思った。「あ~あ、ああ、そういうことか!」彼はゲラゲラと、呆けたようなそれでいて獰猛な笑い声を上げた。「こりゃいいや!こちらさんは愛人てわけか。これは言っておかねば、是非とも言っておか……」彼は最後まで言うことが出来なかった。男爵が彼の胸ぐらを掴み、強靭な腕一本で服の上から彼を持ち上げるとマダム・ダルジュレの膝の前の床に投げつけるように彼を下ろし、怒鳴った。「謝れ、悪ガキ!許してくださいとお願いするんだ!さもないと……」さもないと、の後...2-VI-23

  • 2-VI-22

    負けようのないほど良い手のときわざと負け、あの馬鹿げた出来事のためにツキが変わってしまった、とぶつくさ言いながら彼は立ち上がった。そして隣のサロンに入って行き、誰にも気づかれぬように外に出た。「マダムはどこにおられる?」と彼は最初に捕まえた使用人に尋ねた。「夏の小部屋におられます」「一人で?」「いえ、若い男の方とご一緒です」男爵は自分の推測が正しかったことをもはや疑わなかった。が、不安は二倍になった。勝手知ったる家だったので、彼は急いでその小部屋に走っていった。ちょうどそのとき、ウィルキー氏は自分の欲望が打ち砕かれたことに逆上し、恐ろしい剣幕で怒鳴っていた。男爵は恐怖を感じ、屈んで鍵穴から中を覗くと、ウィルキー氏が片手を振り上げるのが見えた。男爵はドアを開けるというより押し破り、あわやという瞬間ウィルキー...2-VI-22

  • 2-VI-21

    「ああ、僕にはあなたの腹が読めましたよ、お母上」と彼は歯ぎしりしながら叫んだ。「もしあなたが自分の権利をおとなしく行使していたなら、すべては何の支障もなく進んだでしょうに。そして僕は、僕の父がそれを知る前に相続財産を安全なところに移しておくことが出来たでしょうに……。ところがあなたは、そうはしなかった。僕が裁判に訴えざるを得ないようにして、僕の父の知るところとなるようにしたんだ。僕を憎んでいるからだ。そして父がすべてをかっさらって行く……。でも、そうはさせませんよ。あなたは今すぐ紙に書くんだ。あなたの兄の相続財産を受け取る、という」「そんなことしない!」「ああそうですか!そんなことしない、ですか……断るんですね!」威嚇しながら彼はマダム・ダルジュレに近づいて行った。そして彼女の腕を掴むと骨が砕けんばかりに...2-VI-21

  • 2-VI-20

    ウィルキー氏は真っ青になった。「そ、そんなの嘘だ」と彼は口ごもりながら言った。「明日、私の結婚契約書を見せるわ」「何故今夜じゃないんです?」「今は部屋に人が一杯いるから」「僕の父は何て名前なんです?」「アーサー・ゴードンよ。アメリカ人なの」「それじゃ僕は、ウィルキー・ゴードンという名前なんですね」「そうよ」すっかり動転した息子の顔をこっそり見てしまったマダム・ダルジュレは身を切られる思いだった。考え込んでしまった息子の口からどのような決意が洩れるのであろうか?しかし彼は何も言わなかった。ウィルキー氏は手の届かないところに逃げてしまったものを思って悔しがっていたのだ。自分が名乗る筈であったド・シャルースの名前、そして自分の馬車に描かせようと思っていた伯爵の冠を。「それで……僕の父という人は金持ちなんですか?...2-VI-20

  • 2-VI-19

    僕にはその財産が必要だし、手に入れて見せますよ。だから、僕の言うことを聞いて、一番手っ取り早いのは貴女が自発的に僕を認知してくれることなんです。というわけで、さぁ、そうしますか?しない?……一度、二度、三度、どうです?やはり駄目!はい落札!明日には印紙を貼った書類を受け取ることになりますよ……では、これで、失礼します」彼は実際別れのお辞儀をし、昂然と立ち去ろうとした。しかしドアノブに手を掛けたとき、マダム・ダルジュレが身振りで彼を押し留めた。「最後にもう一言だけ、いいこと?」彼女は喉を締めつけられたような声で言った。息子の方は振り返ることすらせず、苛立ちを隠そうともしなかった。「何ですか一体?」「最後に一言、警告しておくわ。おそらく裁判所はあなたの主張を認める判決をくだすでしょう。私は兄からの相続権を与え...2-VI-19

  • 2-VI-18

    「残念ながら。あなたが物わかり良くしないからですよ……」「ということは、あなたはスキャンダルが平気だということね。あなたがド・シャルース家の一員だと証明するためには、シャルース家の名誉を汚し、泥の中を引きずり回すことも辞さない、と……」このような議論を続けるのは、この威勢のいい若者には苛立たしいことであった。彼に言わせれば実に単純な件であるのに、このように仰々しい茶番を演じるとは愚の骨頂であり、この上なく腹立たしいことであった。「全く!そんなこと、結局のところ、どうでも良いこっちゃないですか」と彼は叫んだ。「僕に気取ったまねをさせたいんですか?……ふうむ、そうですね……はっきり言いますけど、あなたの言うことを聞いてると、まるで犯罪でも犯したようじゃないですか……道徳的な生き方をするのは結構ですよ。でも行き...2-VI-18

  • 2-VI-17

    「私が跪いて、どうかそんなことはしないで、と懇願しても?」「それは通りません!」マダム・ダルジュレの目がきらりと光った。「そう!それなら」と彼女はきっぱりと言った。「この財産はあなたの手の届かないところに逃げていくことになるわ。あなたはどんな権利で遺産を要求するつもり?あなたが私の息子だから、でしょ。それなら、私はあなたが私の息子だということを否定します。もし必要なら宣誓してもいい。あなたは私と何の関係もないし、あなたのことなど知らないと申し立てます」ところが、何たることか!ウィルキー氏の人を小馬鹿にしたような落ち着きはそのままだった。彼はポケットから折り畳んだ紙切れを取出し、勝ち誇ったようにそれを振りかざした。「僕を息子と認めない!ほう、それは人が悪い」と彼は言った。「でも、そんなことは先刻織り込み済で...2-VI-17

  • 2-VI-16

    事ここに至っては、ウィルキー氏の行動、彼のやり口、自信たっぷりな態度、猫かぶりな様子、諸々の矛盾、すべての辻褄が合った。世の母親の心には息子に対する至高の信頼が根強く存在するものであるが、こうなるとさすがにマダム・ダルジュレの心からもその信頼が消えた。彼女はウィルキー氏の中に底知れぬ計算高さと悪辣さを垣間見て、怯えあがった。彼が他人の意見など気に掛けぬとあれほど胸を張って宣言したのも、子供の頃の負い目を切々と訴えたのも、これが理由だったのだ。彼が求めていたのは母親ではなく、ド・シャルース伯爵の遺産だったのだ……。「ああそう。それを教えて貰ったってわけなのね」哀れな母親の口調には苦い皮肉が込められていた。そしてイジドール・フォルチュナ氏のことが彼女の頭に浮かび、付け加えた。「この秘密はさぞかし高いものについ...2-VI-16

  • 2-VI-15

    ウィルキー氏の口から洩れたぎすぎすした冷笑が彼女の言葉を遮った。自分の友人たち、自分の楽しみ、自分の好み、そういったものを攻撃されては黙っていられない。我慢などできるか……。「上等じゃないか!」彼は言った。「言ってくれるね!道徳をお説きになるとは!ああそうなんだな、あまりに高潔すぎていらっしゃる!今から俺はきっちり三分間笑わせて貰うよ、時計で計ってな!」この皮肉に込められた残酷さを彼は意識していたのであろうか?ひとつ確かなことは、マダム・ダルジュレはまっすぐ立っていることが出来なかった。それほどこの一撃は堪えたのだ。可哀想な彼女はすべてを予想できていたのだが、この息子の激怒だけは別だった。しかし彼女はこの不面目を逆らうことなく呑み込んだ。そして耐え難い悲しみ滲ませて答えた。「確かに、あなたに真実を説く資格...2-VI-15

  • 2-VI-14

    「お前に知られなければ、私はこんな地獄の底からでもお前の母親でいられたのに。そしてお前をそっと眺めていられたのに……。お前に恥ずかしい思いをさせず、お前を軽蔑することもなく、お前を助けることもできたのに……。私のことを知られた今となっては、もうお前にしてやれることは何もない……何も!私はお前を援助するよりも貧窮で死なせる方を選ぶわ。お前が死ぬのを見る方がまし。お前が私の汚れた金で穢されるのを見るよりは……」「しかし……」「何を言うの!私が今まで渡してきたあの金をまだ平気で受け取れると言うの?そもそも私がそれを続ける気になるなんてことがあるとでも?」毒蛇がウィルキー氏の前で鎌首をもたげたとしても、これほど素早く彼が飛び退くことはなかったであろう。「そんなことは絶対ありません!」と彼は叫んだ。「ああ、断じてそ...2-VI-14

  • 2-VI-13

    パターソンさんは現在大きな工場を経営しているのよ。だから喜んで私たちの力になってくれるわ。大丈夫、私たちは誰かの世話になるわけじゃない。あなたが働くという決心をしてくれたら……」この言葉に、ウィルキーは激昂して立ち上がった。「ちょっと!」と彼は遮った。「どういうことですか。全く意味が分かりません。この僕にパターソン氏の工場で働けとお母さんは言っているのですか?……そんな!はっきり言いますが、それは悪い考えですよ……」ウィルキーの言葉、その口調、そのときの身振りにはもはや疑念を挟んだり幻想を抱く余地はなかった。彼はいわば、彼という人間を余すところなく赤裸々に暴露して見せたのだった。マダム・ダルジュレは自分がどんなに酷い思い違いをしていたかを悟った。目から覆いがはらりと落ちた。彼女は自分の夢想と現実とを取り違...2-VI-13

  • 2-VI-12

    あなたは僕のお母さんなんでしょ?お母さんが何をしてきたか、そんなこと僕には関係ありません。僕はね、人の意見なんて気にしないんです。僕はまず自分の好きなようにやる。その後で他の人に相談するんです。それじゃ気に入らないっていう人にはこう言うんです。いいから黙っててくれないか、ってね」マダム・ダルジュレは喜びにうっとりしながら息子の言葉を聴いていた。彼の言葉遣いの奇妙さに違和感を覚え、なにか気がついてもよさそうなものだったが、残念ながらそうはならなかった。彼女の目は何も見ず、ただ一つのことしか頭になかった。息子が自分を撥ねつけたりせず、立派に自分を受け入れてくれたということ、自分のために身を捧げてくれるのだということしか……。「ああ神様!」と彼女は呟いていた。「これは本当に現実のことでしょうか?……私はこれから...2-VI-12

  • 2-VI-11

    彼は自惚れの強さと同じぐらい、情にほだされない強かさを持った男だった。母親から炎のような接吻を受けつつ、その下では氷のように冷静だった。実際、内心ではぶつくさ不平を言いながらも表面上は不承不承されるがままになっていたが、それはぎりぎりの我慢をしていたのであり、どのようにこの場面にけりを着ければよいか分からなかったためである。「いつまで続くんだよ」と彼は思っていた。「これは人気のある証拠だな。俺って人に好かれるタイプなんだ。コスタールとセルピヨンが見たら大笑いするこったろうて!」コスタールとセルピヨンとは彼の友人で、かの『ナントの火消し』の共同所有者である。しかしマダム・ダルジュレはこの突然の出来事で動転していたのと、気の毒なことに、喜びに舞い上がっていたため、息子の表情が控え目に言っても奇妙なものであるこ...2-VI-11

  • 2-VI-10

    「マダム!」彼女は深く溜め息を吐くと、押し殺したような声で言った。「マダムだなんて!お母さんとは呼んでくれないの?」「僕がですか!そ、それはもちろん!でもですね、そういうのは習慣の問題で……時間が掛かるんですよ……でもそのうち慣れます」「そのとおりね!……本当にそうだわ!……でもそう言ってくれたのは同情からだけじゃないわね。あなたは私を憎んでいるでしょ。呪ってもいるに違いないわ。ああ地獄の責め苦だわ!女は物心つくや否や、いつもいつも『身を慎め!』と言われるでしょう。……『お前の息子もいつか二十歳になる。そしてお前はその目に射すくめられることになるのだ……彼はお前の恥を自分の恥とせねばならないその釈明を求めるだろう!』ああ神様!こんな風に考えていたら、女は罪を犯すことなどないでしょうに……このような恥ずかし...2-VI-10

  • 2-VI-9

    しかし彼はその異様さに耐えていた。混乱したわけではなく、彼が感じていたのは一種の本能的な恐怖と同情が入り混じったものだった。自分が出現したためにこの哀れな女はかくも深い絶望の叫びを上げたのだ。その叫びがどのような意味を持つか、彼はさして深く理解したわけではなかったが、心を揺さぶられるものではあった。こういった錯綜する感情は何とも言えぬ居心地の悪さとなり、それが自分の弱さに起因するものであるかのように彼は苛立った。「また困ったことになったもんだ!」と彼は思っていた。「涙とか、メロドラマとか……女というのはどうしようもないな!穏やかにおとなしく話し合えばしごく簡単なことなのに……」しかし、どうしたものか決心がつきかねて彼はぼんやりしていた。が、ドアに近い踊り場から足音が聞こえて来たとき彼は現実に引き戻された。...2-VI-9

  • 2-VI-8

    「ああ神様!」彼女は自分の額を床に打ち付けながら言った。「息子は私を拒んでいます。私のことを恐ろしい女だと思っているのです……ああ、こうなるのではないかと怖れていました。可哀そうな子!あなたはどうしてここに来たの?誰かおぞましい人間に教えらえてここに来たのね、ダルジュレの舘に!その人の名前を言いなさい、ウィルキー!今となってはもう分かったでしょう、私が何故あなたから身を隠していたかが……あなたの前で、我が息子の前で、恥ずかしさに居たたまれない思いをしないために、私はあなたを遠ざけたのよ!……でもでも、それはあなたの為でもあった…………私だけのことなら、死は安らぎとなったことでしょう。でも幼いあなたは……。あなたの呼吸はだんだん弱くなっていって、私の首にしがみつく力もなくなっていた。あのとき私は叫んだのです...2-VI-8

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