黒塗りの鋼板で造られていた私有の有蓋車ワ1。プレス板の国鉄車が姿を消した貨物駅の隅で。
北海道から九州まで、旅先で目にしてきた国鉄型機関車などの写真や、線路のある風景を載せております。
国鉄時代の残り香を求めて、時に歩き、時に自転車をこぎ、何だかんだで北へ南へ。現役車両だけでなく、保存車両を探し、廃線跡を眺めて幾星霜。ちょっとした暇つぶしや旅のご参考になれば幸いです。
鉄骨で築かれた高架線の下をくぐる貨物列車。隅田川駅へ向かう場合は常磐線の下をくぐって、上下共用の貨物線へ。手前の線路は常磐線の下り線に合流する貨物線でしたが、田端操車…
三河島駅の出口は端に1箇所のみ。15両分も離れた反対側は狭く、屋根もない孤島。
鉄橋に覆われて、まるで河川敷のような三河島駅の下。コンクリートの高架橋ではなく、大量のガード橋を並べて造られた珍しい駅。
三河島駅の横を上ってきたEH500-7。常磐線の上下線にそれぞれ田端操車場からの貨物線が合流しますが、貨物線の上りは隅田川駅への連絡線を兼ねているため上下共用…
貨物列車で使われない分、綺麗だったEF64-1031。道端を臨時列車が通った日。
コーポレートカラーだったEF64-1026。原色に戻る前の日常。
塗装が色あせてきた車体。やがて関東へ来なくなり、そのまま眠りについたEF64-1019。
国鉄再建が始まった年に長岡機関区へ配備されたEF64-1000番台。豪雪の上越線で補機をしていたのは、もう過去の出来事。
平地でも普通に使われていたEF64。今は関東に1本もない貨物列車。
機関車の交替が多かった頃、当たり前のように存在した単行の電気機関車。
地域の足として、観光の道として。山々を背に、高地の街を繋ぐ長野電鉄。
第三軌条集電の地下鉄から脱却して乗り入れ用に架空線を採用し、時代を先取りしたセミステンレス車体の営団3000系。見た目ではあまり変化がわかりませんが、既に製造から50年以上経過し、…
須坂駅ホーム端にある100周年記念の石碑。河東鉄道は開業時に蒸気機関車を導入し、電化まで5年だけ使われました。
須坂駅ホーム端のオブジェ。並べられた転轍機や車輪は往時の名残。様々な駅、様々な場所に存在していたドラマ。
3000系と交代したアルミ車体の営団03系。軽量合金の地下鉄車も今は地方の主役。
東急車に混じって留置されている営団3000系。1960年代と1970年代で世代が異なるステンレス車体。
廃線後に整備された公園。実際には右側の砂利敷きが廃線跡で、残された線路は保線用だったもの。
河東線須坂以南廃止後に用地を再利用した駐車場。陸送されてきた電車を併用軌道上で台車交換可能で、廃線で信越本線から分断された状況を象徴するような設備です。
須坂駅の南、正面が廃止された河東線屋代方面、右へ曲がる方が長野線長野方面。長野発着がメインになった後も国鉄からの急行乗り入れが河東線経由で行われていました。信越本線非電化時代はア…
須坂駅の駅舎寄り、使われていない5番線。結局、長野発着がメインルートになってしまったため、廃止前から河東線の松代・屋代方面は須坂発着の区間運転のみ。4・5番線は長野方面に繋がって…
千曲川東側に位置する須坂駅。今も長野電鉄の車庫と工場がある拠点。 信越本線長野駅の南、屋代駅から飯山・野沢を目指して1922年に開業した河東鉄道が長野電鉄の母体。長野駅の北に位置す…
車体の連結部に台車がある連接車。様々な試作車が幾度も生まれながら、小田急の特急車でのみ引き継がれてきた連接構造。
空港アクセスを離れて、長野の街へ転身した253系。原色に近い赤が目立つ有料特急。
市街地を離れて、冬枯れた果樹園の間を。雪がちらつき始めた鉄路。
標識がなければわからない、小さすぎる踏切。あぜ道を横切る地下鉄の電車。
郷土の森交通遊園で保存されている都電6191。交通遊園の中では新参だった都電もすっかり公園の一部になりました。
郷土の森交通遊園で保存されているEB10-1。都内の王子駅から分かれていた貨物線で弾薬の扱いが始まり、蒸気機関車の後継で1927年に製造された蓄電池式機関車AB10。貨…
郷土の森交通遊園で保存されているD51-296。東北本線・奥羽本線電化完成で廃車になった1972年から保存。まだ下河原線が現役時代の出来事でした。
下河原線の終点・下河原駅。遊歩道の左側にある公共施設が駅の跡で、ここから分岐して多摩川の河川敷まで引込線がありました。貨物駅の雰囲気は残っていませんが、周辺の道路や住…
息をのむような美しさの廃線跡。 北府中駅から南へ直進していた下河原線は多摩川の手前で西へ曲がっていました。曲線の外側は郷土の森博物館になっていますが、原生林を保存し…
住宅地が途切れ始めて、畑も点々と残っている廃線跡。向こうは多摩川の対岸に広がる丘陵地帯。 大正時代の建設ラッシュでコンクリート用の砂利は近場で採れる資源として需要が…
遊歩道の分岐点。南へ直進する方は下河原線で、分かれる方が東京競馬場前駅への支線。周辺の畑は減って、住宅地に変わりました。
廃線跡の下をくぐる南武線。下河原線が南武線と接続していないのは南武線が後から出来た私鉄だったためで、貨物線の東京砂利鉄道が国有化された1920年に南武鉄道は存在せず、南武…
住宅地の中を直進する下河原線の廃線跡。レールが存在する数少ない場所は、公園でなく道路にレールを埋めた珍しい残し方。
京王線高架橋の近くに造られた公園。レールを埋めた公園から下河原線の廃線跡が長い遊歩道になって続いています。
武蔵野線に沿って南へ続く下河原線の廃線跡。1973年の武蔵野線開通後、始発が国分寺駅から北府中駅に変わってわずか3年で廃止されました。北府中駅の引上線に転用された線路も撤…
近江鉄道から引き取られたED31-3。元は戦時買収で国有化された伊那電気鉄道の1923年芝浦製で、輸入機を模して資材を節約した凸型。輸入機が多かった時代に国産機は珍し…
北府中駅横に姿を現したEF65-535。EF60-500番台の後継となった特急用新性能直流電気機関車。20系寝台客車に対応していた500番台は客車の24系化とEF66への交代で貨…
武蔵野線の北府中駅。隣接する東芝の工場に専用線が広がっていましたが、整理が進んで北側は廃止状態。敷地を半周していた試験線も既に撤去。 武蔵野線の開通前から存在した古…
中央本線と武蔵野線が直交する西国分寺駅。向こうのタワーマンションが下河原線の廃線跡。さらに左奥は中央鉄道学園の跡地。 国分寺駅から中央本線と平行していた下河原線は90…
中央本線の国分寺駅。ビルに囲まれている東京西部の駅も1970年代までは貨物列車の比重が多い郊外の一般駅で、右側には貨車の留置線があり、右奥にホームがある西武国分寺線も中央…
人影のない駅を闊歩する住人。しばらくやって来ない電車。
列車交換可能な村山駅。複線区間と同じ左側通行だった進路が今では逆転。駅の無人化と列車のワンマン化が進む地方鉄道。
長野電鉄は千曲川を越えて対岸の街へ。時代が変わっても遠くの景色はそのまま。
市街地を離れて、長野電鉄は千曲川の広い河川敷へ。飯縄山が見下ろす盆地、駆けるロマンスカー。
コンクリートで固められた街の小川。やってきたのは日比谷線のアルミ車体。
小田急から来たロマンスカー。前面展望の特急はここでも特別な存在。
善光寺の東で地上に出る長野電鉄。他と同様に世代交代が進む地方私鉄。
善光寺下駅の8500系。中間車を改造した先頭車では少し造形が異なり、右上の表示窓をなくして番号を表記。都心を離れた後も地下鉄で使われているステンレス車。
1981年に地下化された駅の雰囲気は当時のまま。遠くの走行音以外に音がない、静かな灰色の空間。
地方私鉄、しかも高地の地下鉄は珍しい存在。都内の地下鉄と変わらない暗闇が続いている長野電鉄。
地下駅に止まる東急車。まるで違和感のない地下鉄の一場面ですが、ここは標高360mの長野駅。
追加生産された少数派の貫通型グリーン車を先頭に特急「しなの」が到着。新宿発の特急「あずさ」は松本行ですが、名古屋発の特急「しなの」はさらに先の長野行。1時間ごとにやっ…
北陸新幹線が先行開業した際の終点、長野駅は中間駅に。民営化後に増加した車種は再び画一化へ。
最後まで残った国鉄車211系。首都圏を離れて、高地の街へ。
名古屋駅を12時ちょうどに出発した特急「しなの」が長野駅へ。381系時代の改造グリーン車クロ381-10番台を引き継ぎ、383系でも先頭は前面展望グリーン車。北陸新幹線長野先行開業…
3両から2両へ。世代交代とともに輸送力も変わった現在。
中古国鉄車の時代は終わり、新車が発着する長野駅。
かつての信越本線。経営分離から年月が経ち、歪な鉄路へと乗り入れる篠ノ井線。
広くなり始める空。林の向こうに見えてくる成田空港。成田新幹線の道を歩むスカイライナー。
横須賀線から東京駅を経由してやって来た快速。新幹線の代わりにトンネルを抜ける通勤電車。
冬枯れた田園地帯。空港まであと少し。
成田新幹線に代わって走り始めたスカイライナー。起伏に富んだ山林は空港建設前から残る原風景。
用地買収すらされなかった他の区間と対照的に、空港近郊では建設が進んだ成田新幹線。成田線近くで高架橋が切り替わり、高架駅のような二段構造に。成田新幹線の計画にはなかった…
成田駅の北1.8km、成田線のすぐ東側から始まる高架橋。ここまら空港までの区間は成田新幹線として建設された部分で、放置されていた施設を再利用する事になり、1991年に成田駅か…
成田湯川駅の下をくぐる成田線我孫子支線。田園地帯は新線建設で激変。少しずつ周囲も宅地化が進んでいますが、成田線には駅がなく、成田市街に鉄道で行くことは出来ません。 …
新幹線のように通過線を駆け抜けるスカイライナー。 北千葉線の計画を踏襲した通勤路線は印旛日本医大駅まで、その先は新たに計画されたスカイアクセス線。成田湯川駅はス…
大きな掘割の南側に造られた千葉ニュータウン中央駅。 北総開発鉄道は手前の小室駅まで、計画では平行する北千葉線が新鎌ヶ谷駅から千葉ニュータウン中央駅を経由して成田方面…
掘割を跨ぐ陸橋の下で保存されている7000系。開業当初に新京成電鉄へ乗り入れていたステンレス車が車庫だった西白井駅で保存されています。
当初は新京成電鉄の北初富駅から小室駅までの暫定開業だった北総開発鉄道。団地が見下ろす西白井駅に小さな車庫が造られましたが、路線延長で車庫は保線基地に変わっています。
千葉ニュータウンの掘割を走るスカイライナー。 2路線分の大きな掘割は頓挫した鉄道計画の名残で、掘割の北側は小室駅までが北総開発鉄道、千葉ニュータウン駅から先の北側は…
空が広い東松戸駅。当初はホームの片側使用だった駅は全面利用になり、追加された線路で特急の追い越しが行われています。
都心を抜けたスカイライナーは郊外へ。ニュータウンの通勤路線は変遷を重ねて、特急が走るようになりました。
長距離列車に対応していた長いホーム。高度成長期の設備が今も残る、静かな五日町駅。
ホッパ車とタンク車が並んでいた側線は草の中。山越えしたEF64やEF65が止まっていたのは、ずっと前の出来事。
地方駅ではありふれていた、駅舎の横にある切り欠きホーム。有蓋車からトラックに積み替えていた時代の名残。
どこまでが線路かわからない草木に埋もれて。貨物列車だけでなく、旅客列車も少ない上越線。
五日町駅の東側にはセメントターミナルの他に石油施設もありました。国鉄末期に貨物輸送が縮小された後も、各地で残っていた大小様々な石油輸送。
建屋の中で眠りについていたモーターカー。専用線のあるどの駅でも見られた、今はもうほとんど残っていない小さな機関車。
短い専用線はそのまま住友セメントへ。ガレージのようなシャッターが専用線で、1両づつ荷役していた設備。
五日町駅の北側に残る小さな踏切。ほとんどそのままで残り、時間だけが過ぎてきた専用線。
いつも貨物列車の姿があったはずの五日町駅。沢山のトラックが出入りしていた広い駐車場。
5本もあるセメントターミナルのサイロ。上越新幹線、高速道路、ダムと建設需要が続き、大量輸送が行われていました。未完成だった北越北線が北越急行として開通し、国鉄民営化後…
南端にある空の建屋。止まったままの時間。
五日町駅に並んだセメントサイロ。関東から山を越えた貨物列車が到着していた側線は草に埋もれています。
閑静な駅前の向こう側に並び立つサイロ。高度成長期が激変させた町。
山を越えた上越線は南魚沼の田園地帯へ。上越新幹線と接続する浦佐駅の手前、静かで大きな五日町駅。
あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。
本年もお世話になりました。来年もどうぞよろしくお願い致します。
貨車を引かず、EF65だけになった末期。やってきた石炭輸送の終焉。
再開発で立ち並んだビルを背景に。EF64に代わってEF65が先頭に立った石炭輸送。
夕暮れ時。青いタキ43000の手前に止まったホキ10000。巨大な操車場がなくなった後も生き残っていた黒い貨車。
頑丈な車止めで終わる線路。帝釈天への連絡で110年。
常磐線の金町駅前にある京成金町駅。隙間に収まったような終着駅。
都内では希少な国道の踏切がある金町線。単線ながら本数が多く、踏切と交差点が一体で混雑しやすいため、交差点を通過する陸橋が上に造られています。 西に1km進んだ場所の閑…
開業当初に造られた歴史ある金町線。車両が変わっても風情が残っている、都内では珍しい単線区間。
高架から降りる金町線。地上の連絡線は回送用で、直通運転はなくなってしまいました。
参拝用で生まれた私鉄はニュータウン・空港連絡へ変遷。同型車が同時発車する京成高砂駅。
京浜急行も発着する京成高砂駅。隣の青砥駅だけでなく、京成高砂駅でも検車区への出入りで折り返しが存在。頻繁にやってくる赤い電車。
京成本線と金町線の間に広がる高砂検車区。路線の中央に位置する運行拠点。
「ブログリーダー」を活用して、武蔵宮さんをフォローしませんか?
黒塗りの鋼板で造られていた私有の有蓋車ワ1。プレス板の国鉄車が姿を消した貨物駅の隅で。
分解された貨車の向こうに佇むトキ28921。側板は変形して外にふくらんでしまった、晩年の無蓋車。
貨物駅の作業用になっていたトキ28664。解体された機関車の部品を載せて。
手頃な代車がなかったので長生きだった無蓋車トキ25000。国鉄時代から多くの物を運んできたトキ27022。
止まったままのタンク車タキ43550。北の大地からやってきて迎えた雪のない冬。
機関区の隅に取り残された大型有蓋車。コンテナ化で消えていったプレス版の車体。
北海道から九州まで、各地を結ぶコンテナ車。1両単位への回帰で珍しい存在になった4両ユニット型コキ102-533。
ライトは簡易な1灯ながら国鉄車との類似点も多いND5528。長生きを続けたDD13の系譜。
貨物列車を後押しするEF210-306。新型機の登場で様々な場面が過去のものになった峠道。
瀬野駅を通過するEF200-14。瀬野駅での後部補機連結・八本松駅での走行中解放はなくなり、峠道で止まらなくなった貨物列車。
向洋駅の通過線を駆けるEF210-140。段々と数を増やし、EF66・EF200に代わって主力に。
広島貨物ターミナル駅を出発するEF200-4。余りある出力6000kWの電気機関車。
傷みが目立ち始めたEF67-103。迫っていたEF210-300番台との交代。
EF61-200番台と交代して約30年。広島の街とともに歩んできたEF67-102。
EF65から改造された、もみじ色のEF67-105。重量貨物列車を後押しするため、連結器の基部が強化された勾配補機。
朝の広島。まだ現役だったEF200-20。
日夜忙しく入換を続けてきたDE10-1164。民営化で貨物用になった客貨両用の1000番台。
暗くなり始めた広島の街。止まっているのは吹田機関区のEF210-167。
パンタグラフを片方だけ上げたEF210-127。関東地方への出発を待つひととき。
EF66よりもシンプルに、EF65よりもパワフルに。現代へと繋がる0番台、EF210-17。
鉄骨で築かれた高架線の下をくぐる貨物列車。隅田川駅へ向かう場合は常磐線の下をくぐって、上下共用の貨物線へ。手前の線路は常磐線の下り線に合流する貨物線でしたが、田端操車…
三河島駅の出口は端に1箇所のみ。15両分も離れた反対側は狭く、屋根もない孤島。
鉄橋に覆われて、まるで河川敷のような三河島駅の下。コンクリートの高架橋ではなく、大量のガード橋を並べて造られた珍しい駅。
三河島駅の横を上ってきたEH500-7。常磐線の上下線にそれぞれ田端操車場からの貨物線が合流しますが、貨物線の上りは隅田川駅への連絡線を兼ねているため上下共用…
貨物列車で使われない分、綺麗だったEF64-1031。道端を臨時列車が通った日。
コーポレートカラーだったEF64-1026。原色に戻る前の日常。
塗装が色あせてきた車体。やがて関東へ来なくなり、そのまま眠りについたEF64-1019。
国鉄再建が始まった年に長岡機関区へ配備されたEF64-1000番台。豪雪の上越線で補機をしていたのは、もう過去の出来事。
平地でも普通に使われていたEF64。今は関東に1本もない貨物列車。
機関車の交替が多かった頃、当たり前のように存在した単行の電気機関車。
地域の足として、観光の道として。山々を背に、高地の街を繋ぐ長野電鉄。
第三軌条集電の地下鉄から脱却して乗り入れ用に架空線を採用し、時代を先取りしたセミステンレス車体の営団3000系。見た目ではあまり変化がわかりませんが、既に製造から50年以上経過し、…
須坂駅ホーム端にある100周年記念の石碑。河東鉄道は開業時に蒸気機関車を導入し、電化まで5年だけ使われました。
須坂駅ホーム端のオブジェ。並べられた転轍機や車輪は往時の名残。様々な駅、様々な場所に存在していたドラマ。
3000系と交代したアルミ車体の営団03系。軽量合金の地下鉄車も今は地方の主役。
東急車に混じって留置されている営団3000系。1960年代と1970年代で世代が異なるステンレス車体。
廃線後に整備された公園。実際には右側の砂利敷きが廃線跡で、残された線路は保線用だったもの。
河東線須坂以南廃止後に用地を再利用した駐車場。陸送されてきた電車を併用軌道上で台車交換可能で、廃線で信越本線から分断された状況を象徴するような設備です。
須坂駅の南、正面が廃止された河東線屋代方面、右へ曲がる方が長野線長野方面。長野発着がメインになった後も国鉄からの急行乗り入れが河東線経由で行われていました。信越本線非電化時代はア…
須坂駅の駅舎寄り、使われていない5番線。結局、長野発着がメインルートになってしまったため、廃止前から河東線の松代・屋代方面は須坂発着の区間運転のみ。4・5番線は長野方面に繋がって…