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てんとてん琉球 https://ten-ten.ryukyu/

沖縄が琉球という一つの国だったころの歴史や、沖縄の歴史スポットを紹介します。

クイナがこけた
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2016/01/06

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  • 読谷村波平の歴史散策をしたので地名の由来など調べたけれど

    読谷村波平の歴史散策をしてきました。訪れたのは「イットゥカグシク」と「波平大主の墓」です。後日、波平について地名の由来や波平大主の正体などいろいろ調べたことを書き並べておきます。

  • 名城に残る御神屋を見学-糸満市名城の歴史散策

    糸満市名城の歴史散策その2です。ほとんどが名城に残る御神屋の話ですが、富盛殿内を調べているとそこにヤマト人の影が見え隠れ。なかなかおもしろい話と出会いました。

  • トマンザからフェンサグスクまで-糸満市名城の歴史散策

    旧真壁村集落ガイドマップを参考に糸満市名城の歴史散策をしてきました。 帰ってからさらにあれこれ調べていたら、トマンザの地形とかフェンサグスクの按司とか、いろんな方向に想像が膨らんで話が長くなりました。

  • 阿知利世の主(アチリユウヌシ)のこと-調べもの途中のメモ

    与那原町与那原にある史跡「阿知利世主」について。与那原の村建ては阿知利世の主だったのではないかと予測した素人のメモ書きです。

  • 糸満市「喜屋武公園」内の歴史散策

    糸満市の喜屋武公民館すぐそばにある「喜屋武公園」で歴史散策をしてきました。

  • 食栄森御嶽(イームイ御嶽)舜天の墓と伝わる【南城市大里】

    南城市大里の南風原農村公園のすぐそばにある食栄森御嶽(イームイ御嶽)。御嶽内には舜天の墓と伝わる場所があります。実際に訪れて感じたことや、舜天と食栄森御嶽の関連についての勉強メモ。

  • ソントンノ御イベ【八重瀬町当銘】

    八重瀬町当銘にある沖縄の名木百選に認定された『当銘のガジュマル』。その根元にある『ソントンノ御イベ』について、琉球の歴史に関する勉強メモです。

  • 中山世譜が描く舜天

    琉球王府初の史書中山世鑑が完成してから51年後に、改めてまとまられた中山世譜。その中山世譜が描く舜天について気になるポイントを書き出しました。

  • 中山世鑑が描く舜天

    琉球王府の史書ではそもそもどんな風に舜天を描いているのか、中山世鑑が描く舜天について、気になったポイントを書き出してみました。

  • 中山世鑑を読んでいます(まだ56ページ目)

    図書館で借りてきた中山世鑑を改めて読んでみました。現在56ページ目です。今日読んだところの感想や発見のメモです。

  • サイトリニューアル中です

    サイトの雰囲気を変更しようと思いましてリニューアルに取り掛かっていました。それで長い間メンテナンスモードにしていましたが、いったん解除することにしました。

  • 泰期(たいき / たいち)

    読谷村の残波岬にある泰期(たいき)像。 「商売の神様」とされた泰期は琉球で14世紀後半に活躍した実在の人物だった。 進貢貿易の立役者 「商売の神様」とされる理由 残波岬に立てられた泰期像の台座には、 "…並外れた勇気と使命感、統率力、国際的ビジネス感覚で大交易時代を先導した泰期を「商売の神様」として象徴化し…" と刻まれている。 1372年、浦添世の主であった察度(さっと)のもとへ中国明より来貢の催促があった。察度はそれにすぐに応えて遣使をおくる。これが琉球と明との公式な外交関係の始まりだった。この時に察度の使者として明国へ渡り進貢したのが泰期だった。 泰期は以降10年の間に5回も明国へ渡って進貢し、莫大なみかえりの品を琉球に持ち帰った。また、琉球にサトウキビを持ち帰り製糖法を伝えたともいわれている。 当時、明国へ渡るには多くの危険を伴った。その危険を顧みず何度も行き来した泰期は現在でもその勇気を讃えられている。 泰期の正体 泰期は察度の異母兄弟だったというのが通説になっている。 察度の父・奥間大親は天女との間に察度を授かり、天女が去った後妻に迎えた又吉家の娘との間に泰期が生まれたという。 ところで、泰期という名前はもともとはたいちという名の当て字だったという説がある。実際に琉球史本の中にはたいちと仮名が振られている本もある。たいちという名は鍛冶屋で作る刀の「太刀(たち)」に由来するという。この由来については泰期の一族は鍛冶屋だったのでなはいかという一説に基づく話ではあるが、もし、察度と泰期が異母兄弟だったなら、察度は交易で鉄を大量に輸入し、農民に道具を分け与えたことで人気を得たとされているので、鉄を打つ鍛冶屋と何らかのかかわりがあったとしてもおかしくないように思う。 一方で、読谷村宇座には"唐商い(からあきない)"つまり海外との交易を流行らせたたち(たいち)という人物を讃える歌が残されている。宇座のたちは長浜港を拠点に盛んに海外交易を行い周辺の按司たちに一目置かれる存在だった。このたちの能力を察度が認めて、琉球最初の進貢の際、自分の弟つまり親族だということにしてたちを明国へ送ったのではないかという見方もある。

  • 琉球歴史本紹介-視野が凝り固まってしまったときに読む本

    琉球歴史本紹介。琉球の歴史を調べているうちに視野が凝り固まってしまったときにいつも読んでいる本。沖縄諸島の古代を含め、琉球時代から現在までの沖縄の歴史を幅広く知りたいならおすすめの一冊。

  • 浦添城(うらそえぐすく)

    浦添グスクがなぜこんなにもマイナーなグスクなのかわからない。知れば知るほど浦添グスクは歴史的に重要なはずなのに…。 王都の礎となった巨大グスク 沖縄県浦添市仲間にある浦添城(うらそえぐすく)跡。 このグスクは沖縄戦の後、一部石垣が復元されているものの、首里城や勝連城のようなわかりやすい復元はされていない。観光地としてはマイナーで、実際主郭の辺りまで登っても見晴らしのいい草原が広がっているだけに見える。 しかし実は、浦添グスクは琉球史上とても重要なグスクだったという。 王都として機能していた浦添グスク 浦添グスクは1260年~1349年までの90年間は英祖(えいそ)一族、1350年からの数十年間は察度(さっと)一族が城主だった。その間浦添グスクだけでなく、浦添一帯も都に匹敵するほどの発展を遂げたという。琉球で王都といえば首里城をイメージするが、首里城には浦添グスクと共通した造りや名称が多く、首里城は浦添グスクを基にして造られたとも言われている。察度の長男・武寧が琉球で初めて明国からの冊封を受け「王」に任命されてからは、まさに琉球最初の「王宮」だったということになる。 その後、首里へ遷都されるまで中山の王宮として栄えたグスクだった。 現在、浦添グスク跡は浦添大公園内にある。グスクを散策するには『浦添大公園南エントランス管理事務所』からが一番近い。 浦添大公園南エントランスの管理事務所からは2つの道が通っていて、片方はグスクの南側を行く散歩道、もう片方は主郭につながっている。 浦添グスクが王宮だったころ、南側の散歩道周辺は堀になっていた。そして、グスクにつながる道の世持井(ユムチガー)の奥には「イユグムイ(魚小堀)」と呼ばれる大きな人工池があったという。 グスク跡の頂上は現在広場になっていて休憩所やベンチが置かれているが、その広場が主郭にあたる。広場の南側、林に入る手前の深く雑草に覆われているくぼみが正殿跡だという。当時はそこに高麗瓦の正殿が建っていたという。 正殿を背にして北にすこし下った辺りの崖下には王陵「浦添ようどれ」がある。当時、浦添ようどれの北側には「極楽寺」という琉球最古の寺院があった。

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