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相撲史に関心・興味のある方どうぞ https://blog.goo.ne.jp/k3tanaka_1948

江戸勧進相撲以来の相撲史を中心に関聯事項 に対する私見・愚考を発表しています。

 去る十月、訪問者数が延べ30万人を 突破いたしました。

相撲史研究者・田中 健
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住所
長崎市
出身
長崎市
ブログ村参加

2015/12/21

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  • 形式的な「誓約書」では…❔

    読売新聞社刊『新古今大相撲事典』(両国國技館開館記念号)に拠れば━。昭和二十九年十二月…施行の「年寄名跡得喪変更に関する規定」の第七項に━理事長は、第一項の証書を交付するに当り、年寄名跡権利者より此の決議事項を遵守する旨の誓約書を別紙様式により提出せしめること。註=「第一項」とは━。年寄名跡現存のものは別紙目録の通りなることを確認する。更に、その「目録」には105の年寄名が記載されているが、男女ノ川~大鵬など「一代年寄」は当然ながら全然入っていない。扨て、今回の白鵬改め間垣親方だが、上記の如く、“形式的”な「誓約書」に“+α”がついた❔しかし、問題は「年寄襲名」に非ず、新「部屋創設」の際、相撲部屋の師匠としての“適否”ではないか。第二の時津風順一(元小結双津竜)事件を絶対発生させてはならないのだ。形式的な「誓約書」では…❔

  • 幕内最多勝利数の軌跡 その132

    ※昨日までのトータル訪問者数871,728文政十三(1830)年春場所。西方大関の稲妻は絶好調、八日目まで7戦全勝〔現代ならば1不戦勝か…。〕翌九日目も宿敵の横綱阿武松〔番附面では東大関。〕を撃破、8勝をあげ、通算22連勝を記録。入幕以来トータル勝利数も64に伸ばした。一方、阿武松は7勝1敗1預りで通算勝利数を96勝━漸く、“三桁”に迫ってきた恰好。尚、当場所は幕内力士に欠場が多く、初日~九日目を“皆勤”したのは、阿武松ひとりだけなのであった。幕内最多勝利数の軌跡その132

  • 相撲浮世絵師番附

    今夜、NHKの衛星放送番組で、葛飾北斎(←勝川春朗)を採りあげていたので……。郷土の大先輩、中尾方一氏〔東大→M商事〕に拠れば、相撲を題材とする浮世絵・錦絵は、江戸後期~明治初期に総数1万点を超えると云われる。では、相撲を対象に描いた浮世絵師は何名ほどであろうか…。〔上記、北斎も勝川派を離脱前に相撲絵も描いている。〕浮世絵版画を数点しか所蔵してない吾輩の勝手な推測では、50名もいないだろうと思う。そこで、独断・偏見で「相撲浮世絵師番附」をつくってみたので、御笑覧いただきたい。横綱勝川春章(享保11~寛政4)大関勝川春英(寶暦12~文政2)関脇勝川春好(寛保3~文化9)小結東洲斎写楽(?~?)「歌川派」のなかで誰が“三役級”に相当するのでしょうか…。御教示乃至ヒントをお願いします。相撲浮世絵師番附

  • 平成“未使用”『相撲 暦 』3部作

    ※昨日までのトータル訪問者数871,458日本相撲協会が制作・発行した『大相撲カレンダー』が平成22年、翌23年、更に同28年━3部が“未使用”なので、“筒”の状態で在ります。何れも大きさは横39.5cm×縦60cmで、保存程度は並以上乃至美品以下と思って戴いて結構です。尚、平成28年のもの、最下部余白右側に小さな広告物が6枚貼りつけられていますが、“骨董価値”を損なうものではないと確信いたします。平成22年9月&10月魁皇・千代大海ら5大関平成23年9月&10月横審の「稽古総見」平成28年9月&10月照ノ富士・豪栄道御希望の方、先着1名さまに無代進呈いたします。運賃のみ負担してください。宅急便の“着払い”にて…お願いいたします。尚、梱包後の総重量は1kg未満と思います。〒852-8113長崎市上野町14-11...平成“未使用”『相撲暦』3部作

  • 押し相撲が「投げ」で決めた

    若羽黒朋明━栃光正之の戦歴<続き>第23回戦昭和三十六年春場所七日目東張大関〇若羽黒(上手投)栃光●西前三24同三十六年夏場所八日目西張大関●若羽黒(下手投)栃光〇西前一25同三十六年名古屋場所三日目西張大関●若羽黒(上手投)栃光〇東張小結26同三十六年九州場所十日目東張大関●若羽黒(押出し)栃光〇西関脇この時分、本場所中は初日から千穐楽までTV桟敷〔カラーに非ず〕観戦を楽しんでいた。けれども、「押し相撲」両力士の「投げ」が決った瞬間なんか…もう「忘却の彼方」に━仮令「記憶力」が良くても60年ほど経過しているから…。否、記憶力は駄目なんです。もう「中3英語」はお手上げだった。「英単語」を丸暗記できなかった。押し相撲が「投げ」で決めた

  • “微温湯”どっぷり大関陣

    ※昨日までのトータル訪問者数871,217今日づけS紙、主張━「角界は重大危機と捉えよ」は、現日本相撲協会幹部諸氏に読んでいただきたいもの。その急所を抜萃しておきたい。〔前略〕照ノ富士は既に29歳〔註=九州場所後に満30歳。〕のベテランである。大関陣は優勝争いに加われず、三役に2桁勝ち星の力士はいなかった。将来の角界を背負う、有望な若手も見当らない。これこそ角界の重大危機である〔後略〕現首相みたいに照ノ富士が1年ほどで…「投出し」はしまいが、長期間活躍できまい。更に、問題点は「大関弱体」であり、次期「横綱候補」が早期に出現しそうにない。むかしから大関は平幕の3倍、横綱ならば5倍乃至10倍の猛稽古に励まないと、その責任を全うするのは難しい━と、されてきた。畢竟、大関陣に奮起を促すためには、「微温湯」の規則を改革せ...“微温湯”どっぷり大関陣

  • 間違っていた彦山説

    江戸・明治の昔は、同系統だって所属部屋が違えば容赦なく取組んだ。いつから〔昭和三九年まで〕異部屋・同門のシステムになったか。彦山光三説では、明治末期頃、常陸山の弟子━元小結両國に入間川部屋を創設させて、出羽海部屋と対戦させないようにした━云々。ところが最近、郷土力士稲佐山(最高位幕下)が当初、入間川部屋へ入門し、出羽海部屋の力士と対戦していたことが当時発行の相撲専門誌の星取表で…はっきりわかった。明治三十一年夏、東・西の前頭二枚目に鬼ヶ谷・梅ノ谷の兄弟弟子が対峙、勿論取組は回避━あくまでも臨時的番附編成だった。江戸時代だって類似の事例が…。「黒船来航」で米兵を驚愕させた小柳常吉は、東方力士なのに天保十二年春・冬は西方へ廻っている。けれど、同系の大関手柄山らと対戦していない。間違っていた彦山説

  • 似たり・寄ったりの派閥

    ※昨日の閲覧…481・訪問者…327トータル訪問者数870,937事実上「総理大臣」を選出する与党の「総裁選」。そこで、古雑誌『大相撲』の昭和四十三年・同四十五年、各々三月号記者座談会「協会大改革のうら・おもて」と「協会理事選を斬る」━想い出の読物。小見出しに「派閥は絶対なくならない」とか、或る記者発言に「自民党の派閥に憧れているようなところが協会幹部に…」与党など政界の派閥を「政閥」と呼ぶならば角界のそれは「角閥」と称したい。日本相撲協会と自由民主党の派閥は、似て非なるもの━ちがってるのは、前者に「無派閥」が存在せず、後者は無派閥からも大臣が出る。尤も、かつての「貴乃花一門」は当初無派閥的集団から発足していた。元A首相から「石橋」を叩いて渡られて…今回出馬断念のI議員も当初無派閥的グループから出発して派閥の領...似たり・寄ったりの派閥

  • 「一代年寄」は雲散霧消…?!

    もう何十年も前になるが、NHKの「…深夜便」の生放送に元横綱大鵬が出演、“流暢”な話っぷりが耳に残っている。真夜中に眼が覚めたので「日本の歌・心の唄」を聴こう…と受信機をONにしたら三時五分頃「臨時ニュース」で白鵬の「引退決意」が伝えられた。彼は過日、「年寄名跡」を取得したとか…。嘗て、「一代年寄」授与が念頭にあったはず。更に、外部有識者の提言で一代年寄の再検討が協会側へ……。この制度そのものは現在、所謂「内規」的に過ぎず「成文化」にはされていまい。仮に、入幕して15年間の“持久力”を誇ったとして、毎年平均3度「優勝」をつづけて達成可能となるV45の大記録なのである。今後、何十年も“更新”されることはあるまい。更に、出場した最後の本場所が「15戦全勝」も未曽有の記録だろう。69年前の昭和二十七年春場所、平幕2桁...「一代年寄」は雲散霧消…?!

  • 「相対的」に御嶽海が…?!

    92年前の昭和四年正月場所の番附は、前年の三月〔於名古屋〕・五月〔於両国…〕・十月〔於広島〕━3場所の地位・成績を基準として編成されたと云う。現代力士の実力評価だって3場所通算成績ならば穏当な番附ができそう…。東横綱<該当力士なし>西横綱白鵬15勝零敗・30休〔過去の実績から、大関以下へ陥落不可〕東大関照ノ富士39勝6敗西大関御嶽海27勝18敗東関脇貴景勝21勝12敗・12休西関脇正代25勝20敗東小結明生24勝21敗西小結髙安21勝19敗・5休「感染症」対策の所為も一因だろうが、稽古不足に「栄養過多」で「異常肥満」力士ばかりじゃぁ…「迫力」が益々土俵上から喪失した恰好でTV桟敷で「観戦」する気も喪失しそうだ。「相対的」に御嶽海が…?!

  • 大関若羽黒VS平幕栃光

    ※昨日の閲覧…896・訪問者…480トータル訪問者数870,610「中途半端」で終らせる心算はないが、若羽黒対栃光の「押し相撲」戦歴━つづきの調査をうっかり……。17回戦昭和三十五年初場所七日目東大関●若羽黒(送出し)栃光〇西前一18同三十五年春場所七日目西大関●若羽黒(押出し)栃光〇東張小結19同三十五年夏場所千穐楽西大関〇若羽黒(寄切り)栃光●東小結20同三十五年名古屋場所九日目東大関●若羽黒(叩込み)栃光〇西前一21同三十五年秋場所九日目東張大関〇若羽黒(押出し)栃光●東前一22同三十五年九州場所九日目西大関〇若羽黒(押倒し)栃光●西前五稽古嫌いの若羽黒と真摯な栃光だったが、当年度は3勝・3敗の互角の対戦成績だ。大関若羽黒VS平幕栃光

  • 180年前、七日目の大波瀾…!

    拙稿「江戸大相撲熱戦譜」━天保十二年春場所━を現在鋭意執筆中である。当該場所で一番注目すべきなのは七日目だと思考するに至った。中入り前の最後の取組で、東大関手柄山が西前頭筆頭の御用木に“銀星”を与えると、中入り後“結び”の相撲で西大関立神〔後横綱秀の山〕も東小結鏡岩に黒星を頂戴した。昨今の如く、大関は勿論、横綱力士が平幕に完敗したって…誰も“番狂わせ”と感じない低次元の土俵と全然異なり、180年前では東・西の両大関が相次いで敗れるのは、大波瀾なのである。上記の波瀾は、文政七(1824)年冬場所三日目中入り前に柏戸、中入り後に四賀峰の両大関敗北〔このとき2銀星〕以来の出来事だった。17年ぶりの大波瀾と云えるのであった。180年前、七日目の大波瀾…!

  • 幕内最多勝利数の軌跡 その131

    ※昨日までのトータル訪問者数870,130文政十二(1829)年の冬場所。横綱阿武松〔番附は東大関〕は八日目まで6勝をあげ、入幕以来通算89勝を記録した。一方、その好敵手である西大関の稲妻は、絶好調で初日から快進撃、八日目まで白星を重ねてトータル56勝をマークしたが、翌九日目の阿武松との一番は、水入り熱戦を展開した〔?〕挙句、引分けとなって、惜しくも“全勝”を逸してしまった。尚、前場所から稲妻は通算14連勝〔「●」がなければ連勝を中断しないものとする〕━いつまで継続できるだろうか。幕内最多勝利数の軌跡その131

  • 平成“未使用”『相撲カレンダー』3部作

    日本相撲協会が制作・発行した『大相撲カレンダー』が平成22年、翌23年、更に同28年━3部が“未使用”なので、“筒”の状態で在ります。何れも大きさは横39.5cm×縦60cmで、保存程度は並以上乃至美品以下と思って戴いて結構です。尚、平成28年のもの、最下部余白右側に小さな広告物が6枚貼りつけられていますが、“骨董価値”を損なうものではないと確信いたします。平成22年9月&10月魁皇・千代大海ら5大関平成23年9月&10月「稽古総見」平成28年9月&10月照ノ富士・豪栄道御希望の方、先着1名さまに無代進呈いたします。運賃のみ負担してください。宅急便の“着払い”にて…お願いいたします。尚、梱包後の総重量は1kg未満と思います。〒852-8113長崎市上野町14-11田中健お問合せはjhisa104@ybb.ne....平成“未使用”『相撲カレンダー』3部作

  • “3代”で終った西ノ海

    ※昨日の閲覧…501・訪問者…330トータル訪問者数869,851大相撲界の主流派、出羽海に対峙した井筒・雷(いかづち)とも結局没落してしまった。前者の軌跡を辿ってみたい。西ノ海嘉治郎〔初代=改名歴なし〕安政二(1855)年生れ、明治十五年幕内附出し髙砂部屋所属。明治二十三年、横綱免許明治二十九年引退、年寄井筒、髙砂から分離明治四十一年歿西ノ海灘右エ門→嘉治郎(←錦洋)明治十三年生れ、同三十三年初土俵井筒部屋所属。明治三十九年入幕大正五年、横綱免許。大正七年引退年寄井筒、昭和六年一月自決。西ノ海嘉治郎←源氏山大五郎明治二十三年生れ、同四十三年初土俵井筒部屋所属。大正五年入幕大正十二年、横綱免許。昭和三年引退年寄浅香山、昭和八年歿初代と2代めの年齢差が25年、2代めと3代めのそれは10年。3代めが井筒を襲名できず...“3代”で終った西ノ海

  • 濡髪は非力士で放駒は親方なの❔

    272年前の寛延二年、当長崎で東北仙台出身の横綱丸山權太左エ門が現役で急逝してしまった。その墓へ昭和・平成時代に何度、足を運んだだろうか……。交通未発達の時代、江戸⇔長崎だって大変なのに、仙台⇔長崎はもう想像を絶する。尚、仙台⇔江戸ならば江戸⇔長崎より短距離なのかな。その寛延二年は大阪で歌舞伎初演が濡髪長五郎の登場する何とか云うやつ。『江戸時代相撲名鑑』に拠れば━。濡髪長五郎不詳本名岩村…没年延享四年…(注)…力士ではなかったらしい。濡髪は非力士で放駒は親方なの❔

  • 『大相撲』創刊3年めに「団扇」

    ※昨日の閲覧…539・訪問者…333トータル訪問者数869,521昨年、89歳11箇月で亡くなった三宅充記者も若い頃は支度部屋で力士の話を聴くことが多かったようだ。古雑誌『大相撲』の昭和三十二年度「夏場所総決算号」━「総観戦記」のなかのコラム「東西東西」の千秋楽の項の冒頭箇所に……。三根山〔註=元大関〕と北ノ洋〔註=後関脇北の洋〕の一番は来場所の小結を争う大切な取組となったが、北ノ洋の左下手出投にうちわがあがった。これまで『相撲』→『大相撲』誌上でも「軍配」と書いてきた三宅記者が「団扇」〔大抵は「ウチワ」乃至「うちわ」の表記〕に変更した最初の記事をやっとみつけた。『大相撲』創刊3年めに「団扇」

  • 幕末の八萬騎…改め…

    「古今珍名番附」の最下段に是非とも載せて慾しい八万騎庄五郎→庄治郎だが、同名力士が幕末の幕下に在籍していた。嘉永六(1853)年春場所、東幕下三十三枚目〔当時「十両」制度が内規に…と思えるので、現在の数え方の枚数〕に八万木利介が出現し、同年冬場所は東方幕下二十二枚目に武者ヶ﨑利介と改名している。尚、『江戸時代相撲名鑑』の1324頁の2段め「八萬騎改メ武者ケ崎」の東二段目丗三枚━はあきらかに間違いだ。「八万騎」を「…木」と書いたのは、当時「黒船来航」で世の中が騒然としてきたので、番附筆者も画数の多い文字は敬遠したい気持がはたらいたと思う。尚、幕下枚数激増により、入幕前の「介」が入幕後「助」に変った事例が少なくない。幕末の八萬騎…改め…

  • 仁丹⇒ハリマオ⇒雄叫び⇒矢叫辰五郎

    ※昨日の閲覧…611・訪問者…361トータル訪問者数869,188また旧い話で恐縮だが、古雑誌『大相撲』の昭和三十一年「夏場所特集」号で、三宅記者が「シコ名の話」と題して…。その末尾に次の如く述べている。人を食ったシコ名ということになると大阪が本場で、次亜燐、仁丹、澤ノ鶴、正宗など、〔中略〕京都の凸凹となるとシコ名という観念からは完全に逸脱している。扨て、ここで問題提起するのは2番めの「仁丹」である。当該記事から8年後の臨時増刊で「古今珍名物語り」が掲載され、Y氏曰く「仁丹というのがあると聞いて探したがみつからなかった」趣旨の記述を記憶。その鳥渡ばかり前、少年向け連続テレビ映画『快傑ハリマオ』が森下仁丹提供で放送、主題歌を三橋美智也(昭和5~平成8)が唄っており、歌詞のなかに「雄叫び」があり、「おさけび」じゃぁ...仁丹⇒ハリマオ⇒雄叫び⇒矢叫辰五郎

  • なんで番附誤記と認識しない❔

    嚴嶋(いつくしま)関右エ門と名乗った江戸大相撲の幕内力士は2人存在した。しかも香川県出身、丸龜藩お抱えが共通している。手許に寛政四(1792)年春場所の縮刷番附コピーが…。東方の前頭三枚目に「嚴嶋関右エ門」と書かれている。はっきり云う。「巌」じゃぁない。「門」は崩し字に非ず…、「関」の文字の“門構え”は「関脇」同様、崩している。頭書の生国が鳥渡ばかり可笑しい。「丸亀」の「丸」は「圓」の崩し字みたい。尚、HPでは「巌島」に非ず「厳嶋」と表記している。なんで番附誤記と認識しない❔

  • 若羽黒に“綱獲り”ムードなし

    ※昨日の閲覧…447・訪問者…306トータル訪問者数868,827昭和戦後の代表的な「押し相撲」の両大関─若羽黒(三十年春入幕)と栃光(同夏)の戦歴検証のつづき。11回戦昭和三四年初場所十日目西前一●若羽黒(押出し)栃光〇西前二12同三四年春場所七日目東小結●若羽黒(突落し)栃光〇西張小結13同三四年夏場所千穐楽東関脇●若羽黒(浴せ倒し)栃光〇西関脇14同三四年名古屋場所十三日目東関脇●栃光(突出し)若羽黒〇西小結15同三四年秋場所千穐楽東関脇●栃光(押出し)若羽黒〇西張関脇16同三四年九州場所十一日目東大関●若羽黒(押出し)栃光〇東関脇漸く栃光が2番「おしだし」、若羽黒も「おしだし」・「つきだし」各々1番…「本領発揮」したのが昭和三十四年度だ。殊に、若羽黒は新大関で初優勝だが、当時マスコミは“綱とり”だ!─と...若羽黒に“綱獲り”ムードなし

  • 「団扇」と表記しない飛鳥…

    古雑誌『大相撲』の昭和三十二年「初場所總決算号」の「審判の権威」と題する劈頭記事─飛鳥四郎の署名。初場所三日目の松登と三根山の一戦は〔中略〕行司与太夫〔註=8代め式守…。昭和三十五年の「停年制」実施で退職、立行司に昇格してない。〕の軍配は三根山にあがり〔後略〕どうも解せない。「横綱土俵入り」を「手数入り」と表現したり、「何代」を「何人目」横綱と称するのは同誌の創刊以来、一貫していたのに、軍配⇒団扇は創刊から3年ほど経過しても変ってない。尚、飛鳥四郎とは三宅充氏のペンネーム。「団扇」と表記しない飛鳥…

  • 〇嚴嶋〔史上最悪の誤記〕●巌島

    ※昨日の閲覧…848・訪問者…360トータル訪問者数868,521我国最高の相撲文献『日本相撲史』が「面目躍如」だと思う箇所は……。上巻352ページ〔前略〕厳島関右エ門と改めた。この改名は、番附には巌島とあるので、番附至上主義の相撲研究家は巌島が正しいとしているようだが、勝負附を見るといつくしまとかな書きにしてあるので、厳島が正しいように思う。当時の番附の書方筆法では、厳と巌ぐらい平気で間違え兼ねない。〔後略〕日本の国歌「君が代」─……千代に八千代にさざれ石の巌(いわお)となりて……━の如く、「巌」はあくまでも「いわお」と読むのであり、断じて「いつく」と読むはずがない。「嚴嶋」を「巌嶋」との“誤記”は、江戸⇒東京本場所大相撲番附史上最大の誤謬と云うぺきであろう。しかるに、『相撲史』発刊45年後『…人物大事典』が...〇嚴嶋〔史上最悪の誤記〕●巌島

  • 平成“未使用”『大相撲 暦』3部作

    日本相撲協会が制作・発行した『大相撲カレンダー』が平成22年、翌23年、更に同28年━3部が“未使用”なので、“筒”の状態で在ります。何れも大きさは横39.5cm×縦60cmで、保存程度は並以上乃至美品以下と思って戴いて結構です。尚、平成28年のもの、最下部余白右側に小さな広告物が6枚貼りつけられていますが、“骨董価値”を損なうものではないと確信いたします。平成22年9月&10月魁皇・千代大海ら5大関平成23年9月&10月「稽古総見」平成28年9月&10月照ノ富士・豪栄道御希望の方、先着1名さまに無代進呈いたします。運賃のみ負担してください。宅急便の“着払い”にて…お願いいたします。尚、梱包後の総重量は1kg未満と思います。〒852-8113長崎市上野町14-11田中健お問合せはjhisa104@ybb.ne....平成“未使用”『大相撲暦』3部作

  • 幕内最多勝利数の軌跡 その130

    ※昨日の閲覧…800・訪問者…361トータル訪問者数868,161文政十二(1829)年の春場所は、本所回向院境内にて晴天10日間興行の予定だったが、七日目かぎり打切られてしまった。その原因・理由は明確になっている━「江戸大火」のためであった。まぁ…「火事と喧嘩は江戸の華」だから致し方ございませんな。東方総帥の阿武松は、5勝・1分・1休の“土つかず”で「横綱の面目」を保った恰好。入幕以来トータル83勝─“三桁”到達まで未だ数場所かかるのか。西方大関の稲妻も好調で、二日目「や」印を星取表へ記入されたが、白星6箇を綺麗に並べた。通算勝利数は48で宿敵に“差”をつけられた侭だが……。幕内最多勝利数の軌跡その130

  • 栃錦、対玉乃海に4金星

    名横綱栃錦(後春日野理事長)は、関脇玉ノ海改め玉乃海(後片男波監事)が“苦手”であった。1昭和二十八年秋場所八日目西大関●栃錦(浴せ倒し)玉ノ海〇東前四2同二十九年初場所七日目西大関●栃錦(掬い投)玉ノ海〇東前三3同二十九年春場所六日目西大関●栃錦(押倒し)玉ノ海〇東前四4同三十年春場所五日目西横綱●栃錦(外掛け)玉ノ海〇東前四5同三十年秋場所五日目東横綱●栃錦(寄倒し)玉ノ海〇西前六6同三十一年夏場所七日目西横綱●栃錦(押出し)玉乃海〇東前二7同三十一年秋場所八日目西張横綱●栃錦(首投げ)玉乃海〇東小結8同三十二年春場所十三日目西横綱●栃錦(突出し)玉乃海〇東関脇9同三十三年名古屋場所十一日目東横綱●栃錦(寄切り)玉乃海〇西小結10同三十三年秋場所十日目西横綱●栃錦(寄切り)玉乃海〇東前二11同三十四年初場所...栃錦、対玉乃海に4金星

  • 両者、「押し相撲」なのに…

    ※昨日の閲覧…425・訪問者…303トータル訪問者数867,800若羽黒─栃光の対戦記録調査のつづき。5昭和三十三年初場所千穐楽東張関脇●若羽黒(突出し)栃光〇西前八6同三十三年春場所八日目西関脇●若羽黒(上手投)栃光〇東前二7同三十三年夏場所三日目東小結〇栃光(突出し)若羽黒●東前一8同三十三年名古屋場所十二日目東前一〇栃光(叩込み)若羽黒●西前三9同三十三年秋場所十三日目東小結〇栃光(送出し)若羽黒●西小結10同三十三年九州場所二日目西関脇〇若羽黒(叩込み)栃光●東前四両力士とも押し相撲なのに「押出し」・「押切り」・「押倒し」が決らないのであった。両者、「押し相撲」なのに…

  • 「礼状」⇒吐露=素直に嬉しい

    過日、拙作『相撲史発掘』のバックナンバーを“団塊世代”でもあるY市のH氏に「贈呈」したところ、この度「礼状」をいただいた。貴重な資料である「相撲史発掘」の数々を送ってもらいありがたく頂戴します.私も大相撲は大好きですが、とても真似はできません.全国でもここまで研究されている人はそういないと思います.改めて敬意を表します.これからも研究を続けて下さい.〔後略〕実は、H氏の「現住所」を古雑誌『大相撲』の「読者の意見」欄より━ひょっとしたら、“変更”になっていて、「宛先に尋ね当らない」旨“附箋”をつけて返送されてくるかも…と、想定していた。最高位前頭四枚目の郷土力士、福田山幸右エ門関に直接話を聴くための「住所」は、『相撲』の昭和二十年代「全力士部屋別一覧」掲載の現住所と変更なく、「一升瓶」を持参して御自宅へ伺った。そ...「礼状」⇒吐露=素直に嬉しい

  • “押しの一手”は難しい…?!

    ※昨日までのトータル訪問者数867,497両力士とも在幕6場所めに“初顔”となった後大関の両者━若羽黒VS栃光。その後の戦績。2昭和三十二年初場所十四日目西小結●若羽黒(波離間投)栃光〇西前六3同三十二年春場所十四日目西小結〇栃光(押出し)若羽黒●東前二4同三十二年秋場所十二日目西小結〇若羽黒(外掛け)栃光●東前六「六場所制」確立以降は次回。それにしても、“押しの一手”で大関に昇るのは難しかった。栃光は「はりまなげ」、若羽黒も「そとがけ」を決めている。“押しの一手”は難しい…?!

  • 遅かった初顔合せ

    我が少年ファンだった頃、押し相撲の両力士と云えば、昭和三十年の春に入幕した若羽黒、夏に入幕した栃光である。両者の対戦記録を調査しようと思いついた。ところが、その“初顔合せ”が随分おそい━昭和三十一年の秋場所十三日目だった。東前一〇若羽黒(おくりだし)栃光●西前五押し相撲は、「押されると弱い」と云われるが果して対戦成績は…❔遅かった初顔合せ

  • 派閥力学

    ※昨日の閲覧…408・訪問者…311トータル訪問者数867,219来春の日本相撲協会理事改選と同様、「派閥力学」で流動してるように国民の眼に映るのが自民党総裁選だ。20人の「推薦人」確保が微妙なN女史はスキャンダルが払拭できず…論外である。T女史は首相になっても「靖國参拝」続行を明言してるが、中・韓の“抗議”を突っ撥ねることができるかな…?米国女性大統領よりもお先に我が日本で女性首相誕生の確率は5割程度か。元防衛相は、防衛政策で“失敗”したのを識者諸氏から猛烈に批判されている。折しも、北の“軍事大国”が“挑発行為”を再開しているし、近未来の一党独裁国の「台湾侵攻」が現実味を帯びてきている。彼に、日本の「安全保障」は信頼して任せられまい。二階から目薬━ならぬ一億五千万の“集金マシン”Nの子分ならば大臣に登用され易...派閥力学

  • 髭の伊之助、“眼”がわるいぞ !

    大相撲がVTRを参考に〔物言いの場合〕するようになってから“誤審”は激減した。特に、審判…が「勝負検査役」〔略して検査役〕と称していた頃、部屋系統の“利益代表”色を露骨に表現する親方まで存在していたのである。爾後まで問題化した一番に昭和三十一年初場所十一日目の東張出横綱吉葉山─東張出大関若ノ花があり、当時の『大相撲』記事。〇若の下手捻りが決まったと観衆のおそらく十中八人までがそう思ったであろう。しかし式守伊之助〔註=19代、髭の…〕の軍配は吉葉にあがり、検査役は物言いもつけなかった。当該記事の筆者は故三宅充氏だった。果して…「団扇」〔仮名書き〕に変るのは何年後であったろうか❔髭の伊之助、“眼”がわるいぞ!

  • 「天保十二年春場所」 序 章

    ※昨日の閲覧…486・訪問者…302トータル訪問者数866,908江戸大相撲熱戦譜第79回☆天保十二年春場所★天保十二(1841)年春場所は、旧暦の閏正月十三日(新暦三月五日)より本所回向院境内にて晴天10日間興行。“閏月”開催は安永二(1773)年・文化八(1811)年・文政五(…22)年の各々春場所、天保三(…32)年の冬場所に次いで5度めだった。昨冬序盤から1預りを挟み6連敗の元関脇黒岩、ストレートに6連敗で終盤を休んだエ野上(←頂)が引退し、全休4力士━新横綱不知火、元関脇鷲ヶ濱、千田川(→友綱)、小松山は一時的に番附から名を消されてしまった。替って靏翼以来2年ぶり“看板”三國山が附出され、荒飛改め狭布里(きょうのさと)(→Ⅵ柏戸)ら5人も入幕━就中、大関手柄山らに挑み白星のない房の海が幕尻へ…。どうや...「天保十二年春場所」序章

  • 平成 “未使用” 『相撲カレンダー』3部作

    日本相撲協会が制作・発行した『大相撲カレンダー』が平成22年、翌23年、更に同28年━3部が“未使用”なので、“筒”の状態で在ります。何れも大きさは横39.5cm×縦60cmで、保存程度は並以上乃至美品以下と思って戴いて結構です。尚、平成28年のもの、最下部余白右側に小さな広告物が6枚貼りつけられていますが、“骨董価値”を損なうものではないと確信いたします。平成22年9月&10月魁皇・千代大海ら5大関平成23年9月&10月「稽古総見」平成28年9月&10月照ノ富士・豪栄道御希望の方、先着1名さまに無代進呈いたします。運賃のみ負担してください。宅急便の“着払い”にて…お願いいたします。尚、梱包後の総重量は1kg未満と思います。〒852-8113長崎市上野町14-11田中健お問合せはjhisa104@ybb.ne....平成“未使用”『相撲カレンダー』3部作

  • 幕内最多勝利数の軌跡 その129

    ※昨日までのトータル訪問者数866,606文政十一(1828)年の冬場所。我国最高の相撲文献『日本相撲史』上巻276頁の星取表に大きな欠落が……。東方大関〔横綱〕阿武松の五日目は、「や」に非ず、「〇渦ヶ渕」であり、当場所成績は7勝1敗・1休〔楽日の「や」はノーカウント〕。それでも入幕以来の通算勝利数は78に過ぎない。記録的には、明和年間(1764~71)頃のトップ数値の如く低い。“三桁”到達まで何場所を要するのか…見当もつかない。昨春以来3場所ぶり稲妻が登場し、新大関に昇進。四日目から出場し4勝したが、八日目は好敵手の阿武松に痛い土をつけられた。トータル42勝を記録しても矢張り“存在感”に乏しかった━と思われる。幕内最多勝利数の軌跡その129

  • 彦山論文の小見出し…

    TV長寿番組『笑点』での劈頭、「自己紹介」の際、三遊亭楽太郎(現圓樂)が鳥渡ばかり難い話をすると、となりの故林家こん平が「私にはそう云う難しいことはよくわからない…」と常套句を発していた。彦山光三が古雑誌『大相撲』の昭和三五年新年号から4回連載寄稿「年寄定年制の是非」は、全文を100%理解するには、相当の能力を要する。そこで難解箇所の小見出しを列記しておきたい。年寄“株”は“財産”権「株仲間」の権利・義務「株仲間」の歴史概要「株仲間」の組織と秩序「株仲間」と年寄“株”年寄「仲間」の“規約”純粋な共同意識「年寄」は“取りおくれ”牢人免許を得るための労苦「年寄仲間」と収入源幕府の職業相撲公許「年寄“株”」の公的性格私見では、「年寄株」とは俗称で、正式には「年寄名跡」が正しいと愚考したいが……。彦山論文の小見出し…

  • 古書は「團扇」と書き「うちわ」と…

    ※昨日の閲覧…562・訪問者…327トータル訪問者数866,311著者より進呈いただいたのに、その本を批判して申し訳ないが……。『大相撲なんでも七傑事典』(平成七年、講談社刊)の末尾588頁に━。〔前略〕彦山光三氏など、「団扇」と書いて、決して「軍配」とは書かなかった。〔後略〕彦山光三著『相撲道綜鑑』(昭和十五年刊)の504~505頁に━。〔前略〕行司の軍配は、軍配團扇の略法である。〔中略〕軍配に神聖權が附與されてゐる……団扇に非ず軍配と表記していたのである。昭和三十一年『大相撲』(読売スポーツ別冊)の「初場所特集」にも三宅記者は━。〔髭の式守〕伊之助の軍配は東富士にあげられ扨て、いつから軍配が団扇に変ったのだろう❔古書は「團扇」と書き「うちわ」と…

  • 180年前の人材難…❔

    拙稿「江戸大相撲熱戦譜」━天保十二年春場所━を鋭意執筆中だが、未だ「序章」相当部分も書き終えていない。当場所幕内番附は、6力士が入れ替っており、当時としても異例である。前場所全休の4力士─新横綱不知火(諾…)ら4人とも一時的に番附から名を消してしまった。替って、“看板力士”1名が附出され、5名が入幕だが、房の海は大関手柄山らに挑戦、白星皆無なのに……。畢竟、当時だって“人材難”なので…こんな番附編成になったのかも知れない。180年前の人材難…❔

  • 宇瑠寅、2.3倍の重量級翻弄?!

    ※昨日の閲覧…524・訪問者…326トータル訪問者数865,984【昨夜の拙稿に加筆しました。】去る名古屋…の四日目、序二段七三枚目の最軽量力士、宇瑠寅〔167㎝弱・65kg弱〕は1枚下位の東浪〔173㎝・154kg弱〕を破っている。尚、決り手は「総決算号」を購読しないので…わからない。兎に角、自らの2.37倍もある重量級を翻弄したみたい━観客は「喝采」できなかった❔宇瑠寅、2.3倍の重量級翻弄?!

  • 微妙なニュアンスのちがい

    アンチ彦山派が曰く━彦山光三の『橫綱傳』は、…彦山翁の豊富なボキャブラリーを縦横に駆使した…━と。翁の使用頻度に拘らず、我が日本語ほど語彙が無限に近いほどありそうなので、微妙なニュアンスの違いがあり、それが文章を認たためるときの面白味でもあるのだ。例えば、相撲用語では「第1日」ではなく「初日」で、「最終日」に非ず「千穐楽」だ。番附だって、前頭1枚目じゃぁなく「前頭筆頭」と称する。一般に範囲を拡げれば、「令和1年」に非ず「令和元年」であり、例えば「9月1日」と表記せず「九月朔日」と表現したい。拙稿「江戸大相撲熱戦譜」━天保十二年春場所の執筆を開始。初日は、旧暦で閏一月と表記は矢張り「閏正月」と書くことにしたい。明治五年以前の旧暦の場合は「一月」よりも「正月」が穏当だと最近になって気づいた次第。微妙なニュアンスのちがい

  • 新首相も解散不能?!

    ※昨日の閲覧…450・訪問者…309トータル訪問者数865,658炎鵬不出場の相撲なんて「クリープを入れないコーヒー」如きものと愚考━秋…はTV桟敷に坐らない心算なんです。宇良の174kgは、「膝に負荷」が心配であんまり期待したくない。以下、相撲から離れる。ここ1世紀ほど米民主党の外交政策は気に喰わない。その民主党クリントン政権に日本の7名…、同じくオバマ政権に向きあった日本の5名━何れも総理大臣の「短命政権」だったわけ。日本の短期政権は、日・米の同盟関係にマイナスであり、我国の“国益”を損なうものだ。旧民主党H首相みたいに「巧言令色」では政治屋であり、真の「政治家」は出現せず…。吉田茂首相の「莫迦野郎!」解散の如きハプニングも令和政界はあり得ない❔もう2度めの「任期満了」の総選挙必至か。新首相も解散不能?!

  • “行司泣かせ”だった怪力の小柳常吉

    幕末、「黒船来航」の際、巨漢の白眞弓とともに“怪力”ぶりを披露し米水兵を驚愕させたのが大関小柳常吉だった。彼の入幕3場所め、天保十二(1841)年春の星を御覧いただきたい。西前頭二枚目〇大勝(幕下)△靏ヶ嶽(〃)△相生(前二)△稲川(関脇)△鏡岩(小結)●御所ノ浦(前一)〇雲早山(幕下)や△要石(前四)や取組んだ過半が勝負「預り」と記録されており、4日連続の預りも珍しい。彼の在幕6預りのうち5番が当場所だ。『古今名力士百傑傳』での星取表をざっとみれば、力士晩年に引分け相撲が多くなっている。兎に角、未熟な取口が段々向上したのが星取表記録に如実に表現されていそうだ。“行司泣かせ”だった怪力の小柳常吉

  • …協会とJ党、派閥“締付け”の度合い❔

    ※昨日の閲覧…422・訪問者…306トータル訪問者数865,349隔年━平成につづき令和も偶数年の初場所後に行なわれる日本相撲協会の理事改選。もう何十年前の話だが、某一門では「一門以外の候補者に投票しない」旨の「誓約書」を提出させたと云う。選挙と云えば、与党の「総裁選」で、各派閥の“締付け”は緩いであろうが、議員個人の「自由意思」は100%尊重されているのであろうか…❔たった1年ほどで「最高権力者」の地位を“投出し”た菅義偉氏は、当初10年の「長期政権」をめざしていたそうな━まさに「君子は豹変す」の言葉どおりだ。各輿論調査では、たしかに現内閣の支持率は3割前後に落込んだけれど、与党のそれは全然下落せず…、裏を返せば野党支持率がてんで上昇してないわけ。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」日本人が少なくないと思えるが、旧民...…協会とJ党、派閥“締付け”の度合い❔

  • 平成の“未使用”『相撲 暦 』3部作

    日本相撲協会が制作・発行した『大相撲カレンダー』が平成22年、翌23年、更に同28年━3部が“未使用”なので、“筒”の状態で在ります。何れも大きさは横39.5cm×縦60cmで、保存程度は並以上乃至美品以下と思って戴いて結構です。尚、平成28年のもの、最下部余白右側に小さな広告物が6枚貼りつけられていますが、“骨董価値”を損なうものではないと確信いたします。平成22年9月&10月魁皇・千代大海ら5大関平成23年9月&10月「稽古総見」平成28年9月&10月照ノ富士・豪栄道御希望の方、先着1名さまに無代進呈いたします。運賃のみ負担してください。宅急便の“着払い”にて…お願いいたします。尚、梱包後の総重量は1kg未満と思います。〒852-8113長崎市上野町14-11田中健お問合せはjhisa104@ybb.ne....平成の“未使用”『相撲暦』3部作

  • 幕内最多勝利数の軌跡 その128

    ※昨日までのトータル訪問者数865,043文政十一(1828)年春場所。首位だった元大関源氏山(←縄張)が関脇から一挙、平幕へ陥落、番附に名を残して引退。入幕以来通算勝利数は105勝で終った。新横綱阿武松(←小柳)は、プレッシャーに弱いのか…、3勝3敗1分1預りの不振、トータル勝利数は71勝を記録しているに過ぎない。その好敵手の稲妻は、昨冬につづき不出場では、どうしようもない、一方、西方大関の四賀峰は、3場所前から後半休場・全休・全休、当場所の番附には載っているが、欠場なので事実上の引退確定だと愚考。入幕から最後の白星まで72勝をあげて、阿武松を上回っているが仕方がない。━阿武松を第一位とする。幕内最多勝利数の軌跡その128

  • 古雑誌『大相撲』飛鳥四郎

    いつから『大相撲』誌が「軍配」を「団扇」〔漢字表記に非ず、「うちわ」もしくは「ウチワ」と書くことが多い。〕に“変更”したのか━調べるため古雑誌を引張り出している。昭和三十年「春場所特集」号「横綱の面目」の四日目の箇所に…。千代の山に対し北ノ洋〔中略〕行司〔髭の〕伊之助、千代の踏越しを指さして軍配を北にあげた〔後略〕署名原稿に「飛鳥四郎」とあり三宅記者のペンネームと思える。尚、22代め木村庄之助こと泉林八翁がNHK相撲中継で裏正面ゲスト解説━物言いの際、「団扇」と云っていたのを記憶する。古雑誌『大相撲』飛鳥四郎

  • 元幕内貴源治を十両へ格下げ?!

    ※昨日の閲覧…494・訪問者…319トータル訪問者数864,748「社会部」記者だから誤った記事になるのだろうか…。S紙“三面記事”の「元貴源治を書類送検…」なる見出し記事に━。〔前略〕警視庁は大麻取締法違反の疑いで、大相撲の元十両、貴源治…彼だって、「古今入幕力士」に列したのは2年前の名古屋…で、最高位が前頭十枚目であった。だから「元幕内」の肩書が穏当であるのは云うまでもない。元幕内貴源治を十両へ格下げ?!

  • 信夫山9━7鶴ヶ嶺

    名関脇同士の好取組、信夫山治貞VS鶴ヶ嶺昭男(一時哲生)の戦歴を調べてみたい。1昭和二十八年夏場所七日目東前十一〇信夫山(寄切り)鶴ヶ嶺●東前十六2同三十年春場所八日目西小結●信夫山(寄切り)鶴ヶ嶺〇東前七3同三十年夏場所五日目西小結〇信夫山(外掛け)鶴ヶ嶺●東前二4同三十年秋場所三日目東小結〇信夫山(寄倒し)鶴ヶ嶺●東前五5同三十一年夏場所五日目西関脇●鶴ヶ嶺(外掛け)信夫山〇西前三6同三十一年秋場所十三日目西小結〇鶴ヶ嶺(寄切り)信夫山●東前七7同三十二年初場所十一日目東小結●鶴ヶ嶺(寄切り)信夫山〇西前一8同三十二年春場所十一日目東小結●信夫山(上手投)鶴ヶ嶺〇西前三9同三十二年夏場所千穐楽東小結〇鶴ヶ嶺(打っ棄り)信夫山●東前四10同三十三年春場所千穐楽東前四〇信夫山(寄倒し)鶴ヶ嶺●東前十11同三十三...信夫山9━7鶴ヶ嶺

  • 宇良・炎鵬の特技に“客観性”は…❔

    ※昨日までのトータル訪問者数864,429また想い出話で恐縮だが、かつて『大相撲』誌の〔総〕決算号の「決り手は彦山光三」で、特集〔→展望〕号「略歴表」の「特技解説は天竜三郎」だった。編集部としては、特技…の方も彦山翁に…お願いしたいのだが、翁が拒否したのではなかろうか。〔その点、三宅編集係に質すことはしなかった。〕その点、協会機関誌『相撲』の決り手は、全部「協会発表」のものと一致させており、「すそがえし」は「裾払」となる。では、各力士の「得意手」を誰が決めているの…❔例えば、幕内宇良のそれは「押し・足取」で十両炎鵬は「左四つ・下手投」とある。けれども、「足取り」は炎鵬だって時々試みるのは周知のとおり─決る・決らないはまた別箇の命題であるはず。宇良・炎鵬の特技に“客観性”は…❔

  • 見えざる敵に負けた…?!

    「PCR検査」と云うの…、この「信頼性」は必ずしも100%じゃぁないらしい。だから最初「陰性」で何回めかに「陽性」に転ずるのは珍しくも・なんでもないとか…。何れにせよ、吾輩が少年時代に接種の「ツベルクリン反応」の場合みたいに単純ではなさそうだ。また関取や取的に「感染者」を出して、その「接触者」たる相撲部屋所属力士が体調の如何に拘らず、「全員欠場」の措置。当該検査が陰性で、無症状ならば出場させてOKだと思う。但し、毎日検査を実施し、体調に異変を感じたら即刻出場停止の措置を採ればいいじゃぁないか。人気軽量力士の炎鵬は、「強制休場」で「救済措置」がなければ関取の座を明け渡すことになる。江戸時代ならば、番附発表前の場合、当該力士は番附からカットされる。さもなくば、通常どおり出場してる力士こそいい迷惑なのである。見えざる敵に負けた…?!

  • 『相撲史発掘』№98 全内容予告

    ※昨日までのトータル訪問者数864,173来月完成予定の拙作&私家版『相撲史発掘』第98号の全内容予告─。1~4頁〇全勝力士が消えた星●戦後復興期篇<上>◎鏡里・大内山の写真つき5~7頁〇江戸大相撲熱戦譜●天保十一年冬場所折込み両面●幕内勝負&星取表◎不知火諾…の似顔絵つき8~9頁〇明治・大正の新聞記事から●大正9.1.22『時事新報』●〃9.1.21『東京朝日新聞』10ぺージ〇昭和二十年代の軽量力士●大江戸から梅錦まで12名折込み表面〇高知県出身入幕力士一覧●Ⅰ海山から土佐豊まで19名折込み裏面〇大関平石の相手地位つき星取表11ページ〇古今平幕最優秀力士星取表●大正9年~15年横書きコラム☆229年前の史上最短「3日間」本場所『相撲史発掘』№98全内容予告

  • 昔ほめ・今くさし

    彦山光三は、評者なるもの「昔褒めの今腐し」なんて書いているが、彦山翁自身もその例外ではない。即ち、江戸・明治の力士に甘く・昭和の力士に辛かった。40連勝中の双葉山が完璧な取口に非ず─趣旨の論文を『三田文學』へ寄稿したり、戦後は大鵬を「屁っぴり腰の型なし」と酷評した。双葉山の「全勝」は8回だが、うち「15戦全勝」は3回だけ。ずっと遡って、文政~天保期の大力士とされる稲妻の最高成績とは…。天保四(1833)年春場所、西大関〔横綱〕〇大濵(幕下2)〇瀬戸﨑(〃1)〇由良ノ海(前七)〇黒岩(前三)〇小柳(前二)〇荒礒(前一)〇宮城野(小結)〇柏戸(前四)✖阿武松〔横綱〕〇璞(前六)はっきり云って稲妻には「10戦乃至9戦全勝」は皆無なのである。昔ほめ・今くさし

  • 時津山13─6鶴ヶ嶺

    ※昨日の閲覧…454・訪問者…307トータル訪問者数863,916名関脇の両力士─時津山〔立浪部屋=時津風に非ず〕対鶴ヶ嶺〔井筒部屋〕の戦歴を振り返ってみたい。昭和三十年初場所七日目西前九〇時津山(吊出し)鶴ヶ嶺●西前十二同三十年夏場所六日目西前一〇時津山(掬い投)鶴ヶ嶺●東前二同三十年秋場所四日目西張関脇〇時津山(寄切り)鶴ヶ嶺●東前五同三十一年春場所十一日目西関脇〇時津山(上手投)鶴ヶ嶺●東張小結同三十一年秋場所十一日目西小結●鶴ヶ嶺(吊出し)時津山〇西前七同三十二年初場所初日東小結●鶴ヶ嶺(下手捻)時津山〇東前一同三十二年夏場所十二日目西関脇〇時津山(吊出し)鶴ヶ嶺●東小結同三十二年秋場所四日目東関脇〇時津山(吊出し)鶴ヶ嶺●東前四同三十二年九州場所三日目東張関脇〇時津山(吊出し)鶴ヶ嶺●東前六同三十三年...時津山13─6鶴ヶ嶺

  • 平成“未使用”『相撲 暦 』3部作

    日本相撲協会が制作・発行した『大相撲カレンダーが平成22年、翌23年、更に同28年━3部が“未使用”なので、“筒”の状態で在ります。何れも大きさは横39.5cm×縦60cmで、保存程度は並以上乃至美品以下と思って戴いて結構です。尚、平成28年のもの、最下部余白右側に小さな広告物が6枚貼りつけられていますが、“骨董価値”を損なうものではないと確信いたします。平成22年9月&10月魁皇・千代大海ら5大関平成23年9月&10月「稽古総見」平成28年9月&10月照ノ富士・豪栄道御希望の方、先着1名さまに無代進呈いたします。運賃のみ負担してください。宅急便の“着払い”にて…お願いいたします。尚、梱包後の総重量は1kg未満と思います。〒852-8113長崎市上野町14-11田中健お問合せはjhisa104@ybb.ne.j...平成“未使用”『相撲暦』3部作

  • 『相撲』当地発売が土⇒月曜

    ※昨日までのトータル訪問者数863,609当初、日本相撲協会機関誌と銘打つ『相撲』最新号の“読後感”みたいなものを記述する心算だったが、以下の理由で不可能……。平成日本は、当県雲仙岳噴火に始る「災害列島」の様相を呈した─。令和日本は、それに加えて「感染列島」で、戦後最悪の“国難”と云って過言ではあるまい。兎に角、「天災は忘れた頃にやってくる」とは文・理の両道を究めた寺田寅彦〔彼に2篇の相撲随筆あり。〕の言葉だが、現代日本列島は、“忘れないうち”にまた災害が頻発してるみたい。昨朝、幹線道路で大雨に見舞われ一区間が通行止で輸送トラックなど立往生を余儀なくされたらしい━詳細は当方関知してないが、本日当地発売の『相撲』誌などが月曜日に遅延となった旨、老舗書店から承った次第。『相撲』当地発売が土⇒月曜

  • 房の海鬼太郎

    昨夜「問題提起」した180年前の天保十二年春場所━我国最高の相撲文献たる『日本相撲史』の当場所記事には次の如く述べている。〔前略〕力士のお抱え状態を見てみると、東方は手柄山、相生、越ノ海、要石の姫路藩(兵庫県)、稲川、鏡岩の丸龜藩(香川県)で占め、西方は盛岡(岩手県)、八戸(青森県)の南部力士で固めている。全然無視されているのが、東幕尻へ入幕した房の海鬼太郎である。番附の頭書は、「房州」と書いてある。〔入幕前は「江戸」〕最近刊行された『房總大相撲人國記』にも彼は全然紹介されていない━詳細出身地未詳のためとは思うが……。果して、所謂お抱え力士だとすれば、安房の「勝山藩」と云うことになるが、どこにも抱えられていなかったかも…❔房の海鬼太郎

  • 一寸先は闇…?!

    ※昨日の閲覧…501・訪問者…333トータル訪問者数863,361彦山光三の不朽の名著『橫綱傳』(昭和二十八年末刊)での次の一節を思い出した。〔前略〕総理大臣といい横綱力士といえば、それそれの分野においてかならず人格高く・識見すぐれ・実力の秀でた、卓越した大人物にちがいないという、たやすくうごかすことのできない既成概念をもとにした見地から、あえなくこれにあこがれ・渇仰し・満足してしまう。いわば英雄崇拝的な自己陶酔と称すべきであろう。〔後略〕私見・愚考。横綱力士とか総理大臣が1年や2年ほどで…やめちゃったら矢張り「無責任」の誹りを免れないだろう。「派閥力学」での「総裁選挙」に勝利する「自信喪失」で、一旦「立候補」を表明しながら…前言を翻すなんて無責任じゃぁないか。敢えて特記すれば、「菅義偉内閣」で「失言辞任閣僚」...一寸先は闇…?!

  • 初日に改名したのに…

    拙作『相撲史発掘』第98号は、予定よりやや早く脱稿、原稿清書完了と相成った。ほっとする“間”もなく、来春の第99号にとりかからねばならぬ。先ず、「江戸大相撲熱戦譜」は天保十二(1841)年春場所である。当場所、附出し1を含み6力士が幕内へ初登場─鳥渡ばかり異例の多さだ。ここに問題提起するのは6人のうち、大蛇泻が番附発表後に千年川と改名した。某書には…大蛇潟は2日目より千年川と改名━と、あるが正確じゃぁない。『相撲起顯』の「初日中入後」に千代ケたけ引分千年川─と、記載されており、初日から千年川と名乗って土俵へ…。ところが、その『相撲起顯』も鳥渡ばかり可笑しい。初日に“改名表示”がないからだ。「二日目」の箇所には大蛇泻改千年川房ノ海─と、記載しており、初日は「引分」の文字が邪魔で割愛したのであろう。尚、三日目以降は...初日に改名したのに…

  • 三宅記者も「軍配」と書いていた

    ※昨日までのトータル訪問者数863,028古雑誌『大相撲』(読売新聞社刊)を隅から隅まで読んでいない。そこで、創刊号━読売スポーツ(臨増)大相撲「夏場所特集」(昭和二九年)から「相撲鑑賞の手引」の「行司」の項を読むと…。〔前略〕行司のもつ軍配のふさの色によって識別…末尾に【三宅充】とあります。更に、同頁には“歴次”ではなく「歴代橫綱」と書いてある。彦山光三だって『相撲道綜鑑』には「団扇」と書かず「軍配」と表記していた。尚、「手数入」を使用しないはずの『相撲』の「編集後記」に東冨士の手数入りと三宅記者が…。昭和二十八年頃の話だ。三宅記者も「軍配」と書いていた

  • 歴史は繰返す…

    拙稿「明治・大正の新聞記事から」では、大正九年一月二十二日づけ『時事新報』の相撲記事のみならず、「◊常勝將軍橫綱栃木山を敗つた西軍の殊勳者大潮の雄姿」との説明・写真も転載する。以下、『相撲史発掘』で採りあげない。上記、古新聞には相撲記事の上部へ以下の一般記事が載っている。見出しは…。〇昨年の感冒に較べて■亡率は約三倍注射は絶對的に有効自分の爲人の爲めマスクを附けよ……………潮内務省衛生局長談本文は以下に。憂ふべき流行性感冒の蔓延に就いて内務省潮衛生局長は語る「どうも却々下火になる模樣が見えない、〔後略〕「歴史は繰返す」と云うが、凡そ100年前の“蔓延”なんか繰返して慾しくない。「令和小父さん」こと菅首相は、「ロックダウン」は日本〔人〕に馴染まない─と云ったけど、馴染む・馴染まぬの問題ではないはず。早目に収束させ...歴史は繰返す…

  • 八万騎の生涯勝率3割…

    ※昨日の閲覧…634・訪問者…326トータル訪問者数862,779八万騎庄治郎の全成績を列記。文政八(1825)年冬場所西幕下十六4勝6敗同九年春場所西幕下十五1勝8敗1預り同九年冬場所西幕下十八4勝4敗・2休同十年春場所〔7日間〕西幕下二十2勝2敗1分・2休※場所後、現役急逝❔総成績。11勝20敗1分1預り・4休勝率は、3割6分4厘野球ならば「3割打者」なんですが…。八万騎の生涯勝率3割…

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