古事記・日本書紀・万葉集を読む
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加藤良平さん
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コピペで学位は自己責任で。 「上代語ニュース」にまとめも。
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加藤良平さんのブログ記事

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加藤良平さん
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  • ヤタガラスについて 其の三

    (承前)(注)(注1)上代文学における、記の八咫烏記事の先行研究としては、坂根2011.がある。発話文の解釈を定めるものである。(注2)アタとアダの清濁の違いについて無視することはできない。古典基礎語辞典に、「アタは近世中期までは清音であったが、敵対するものの意をカタキが表すようになるにつれ、アタは主に、害やうらみなどのよくないことを表すようになった。一方、アダ(徒)も無益・無用の意を表すので両者の混同が起こり、アタ[(仇・敵)]がアダになったと考えられる。」(32頁。この項、白井清子。)とある。五来2004.は、言葉の“時代考証”を欠いている。なお、ヤタガラスと通称され、本稿のタイトルにもそのように記したが、上代においては、古訓のとおりヤアタガラスと呼ばれていたと考える。(注3)「「儒者に曰く、「日中に三足の...ヤタガラスについて其の三

  • ヤタガラスについて 其の二

    (承前)鬼・的オニ(鬼)という言葉は、もともとのヤマトコトバにはなかったとされる。万葉集では鬼の字をモノと訓む(注10)。和名抄に、「人神周易に云はく、人神は鬼〈居偉反、和名於邇(おに)、或説に云はく、於邇は隠奇の訛れる也といひ、鬼物は隠れて形を顕すを欲せざる故に以て称する也といふ〉と曰ふといふ。唐韻に云はく、呉人は鬼と曰ひ、越人は𩴆〈音蟻、又音祈〉と曰ふといふ。四声字苑に云はく、鬼は人の死し神の魂也といふ。」とある。漢字の隠(隱)の古い字音onに、母音iをつけた語という説が根強い。鬼が隠と密接に関係するものと考えられるなら、姿を隠して探りを入れる斥候に通じるものである。紀に、次のような例がある。此、桃を用(も)ちて鬼(おに)を避(やら)ふ縁(ことのもと)なり。(神代紀第五段一書第九)是の夕(よひ)に、朝倉山(...ヤタガラスについて其の二

  • ヤタガラスについて 其の一

    八咫烏問題の焦点記紀のなかで神武天皇(神倭伊波礼毘古命・神日本磐余彦尊(かむやまといはれびこのみこと))は日向の高千穂を出発し、大和の橿原宮で即位する。その間の道中を東征説話という。竺紫(筑紫)、阿岐(安芸)、吉備、浪速(難波)へと順調に進むが、日神(ひのかみ)の御子が日に向かって戦をしたためか前途を阻まれ、紀伊半島を南へ迂回する。そして、熊野においても危ない目に遭い、どちらへ行ったらいいのかわからなくなる。そのとき、高木神(たかぎのかみ)の言い付け、ないし天照大神の夢のお告げにしたがって派遣された八咫烏(頭八咫烏)(やあたからす)が現われ、それを先導にした結果、進軍することができた。さらに、宇陀(菟田)(うだ)の土豪勢力の反抗にも八咫烏を派遣し、その計略を見破って討伐することができた。記紀において、八咫烏につ...ヤタガラスについて其の一

  • ご大層なこと

    W・J・オング『声の文化と文字の文化』(藤原書店)と山田孝雄『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』(宝文館)を併せてヤマトコトバが文字時代に突入した際の衝撃を論じられたらいいなあと思うご大層なこと

  • 倭建命の「あづまはや」について

    古事記の中巻、景行天皇条に、倭建命(やまとたけるのみこと)の東征説話がある。東征を終えて帰る途次、足柄山で「あづまはや」と歎き叫んだからその国を「あづま」というのであるという地名譚が載る。其(そこ)より入り幸(いでま)して、悉(ことごと)く荒ぶる蝦夷等を言向(ことむ)け、亦、山河の荒ぶる神等(かみたち)を平(たひら)げ和(やは)して、還り上り幸す時、足柄(あしがら)の坂本に到りて、御粮(みかれひ)食(を)す処に、その坂の神、白き鹿に化(な)りて来立つ。爾(ここ)に即ち、其の咋ひ遺せる蒜(ひる)の片端を以て待ち打てば、其の目に中(あた)りて、乃ち打ち殺しき。故、其の坂に登り立ちて、三たび歎きて詔(の)りたまひて云はく、「あづまはや」といひき。故、其の国を号けて阿豆麻(あづま)と謂ふ。(自其入幸、悉言向荒夫琉蝦夷等...倭建命の「あづまはや」について

  • 枯野伝説について 其の二

    (承前)万葉集にカヂの語は、「真梶」、「小梶(をかぢ)」、「梶棹」、「八十梶(やそか)」など含めて70例ほどある。用字としては、「梶」(220、257、260、366、368、509、930、934、935、936、942、1143、1152(2例)、1185、1205、1221、1235、1254、1386、1453、1455、1664、1780、2015、2029、2072、2089、2223、2746、3211(「八十梶」)、3212(「八十梶」)、3232、3333(2例)、4025、4240、4461)の38例、「檝」(1138、2044、2067、2088、2494、3173、3174、3299)の8例、「櫂合」(1062)、また、音仮名としては「可治」(3611、3624、3627、3630、36...枯野伝説について其の二

  • 枯野伝説について 其の一

    本稿では、応神紀、仁徳記に載る「枯野(からの)」という船にまつわる説話について検討する。カラノと特別に命名されているからには、それなりの古代的観念の反映であろうから、それを解き明かすことが最重要課題である。文化人類学のフィールドワークにも似た、異世界への探求心が求められる。枯野説話の本旨「枯野」の船の逸話は、応神紀と仁徳記に載っている。話の持ち味に相違があるが、「枯野」と名づけられた高速船が老朽化し、その廃材を使って塩を焼いたところ燃え残りがあり、それで琴を作ったら遠く響く音がしたという点が共通する。疑問点としては、(1)「枯野」という船の名称の由来、(2)船を焼いて琴が出現している点、(3)紀では応神朝、記では仁徳朝のこととされて若干内容も相違する点、(4)歌謡の解釈、などが挙げられる(注1)。冬十月に、伊豆...枯野伝説について其の一

  • 仁徳記、枯野説話の伝承地「免寸河」について

    仁徳記に、「枯野」の船の逸話が載る。応神紀にも「枯野」という名の船の説話は存する。ただし、場所の設定が違っている。記では、巨木伝承から説き起こされる。免寸河の西に大木があり、その影は朝は淡道島、夕方は高安山を越えるものであった。その木から船を造ったら高速船ができた。朝廷は、朝夕に淡道島から名水を宅配させていた。しかし、船が老朽化したので塩作りのために焼いたら焼け残りがあり、それで琴を作ったという話になっている。此の御世に、免寸河の西に、一つの高き樹(き)有りき。其の樹の影、旦日(あさひ)に当れば、淡道島に逮(およ)び、夕日に当れば、高安山(たかやすやま)を越ゆ。故(かれ)、是の樹を切りて船を作るに、甚(いと)捷(はや)く行く船なり。時に、其の船を号けて枯野(からの)と謂ふ。故、是の船を以て、旦夕(あしたゆうへ)...仁徳記、枯野説話の伝承地「免寸河」について

  • 安康記、目弱王物語における都夫良意美の発言「然恃己入坐于随家之王子者死而不棄」について

    はじめに安康記の目弱王(まよはのおほきみ)物語で、七歳の目弱王は義父に当たる安康天皇を暗殺したのち、都夫良意美(つぶらおみ)を頼ってその家に逃げ込んでいる。都夫良意美は大長谷王(おほはつせのみこ)の軍勢に取り囲まれながら堂々と振る舞い、最後は目弱王の言葉通りに運命を共にしている。実に劇的な物語である。ここでは、そのクライマックス部分について検討する。まず、今日一般に訓まれている訓み方を示す。亦、軍(いくさ)を興して都夫良意美(つぶらおみ)が家を囲みき。爾くして、軍を興して待ち戦ひ、射(い)出(いだ)す矢、葦の如く来散りき。ここに大長谷王(おほはつせのみこ)、矛を以て杖と為(し)て、其の内を臨みて詔(の)らさく、「我が相言へる嬢子(をとめ)は、若し此の家に有りや」とのる。爾くして、都夫良意美、此の詔命(みことのり...安康記、目弱王物語における都夫良意美の発言「然恃己入坐于随家之王子者死而不棄」について

  • マオリの文化展

    「TUKUIHO受け継がれるレガシー:マオリ・アート展覧会」へ行ってきましたカパ・ハカ舞踏パフォーマンス腰蓑に刮目、染めてあるところは揉んで柔らかくなっているような……これと素材(亜麻)は同じ?材は2×4の合板のような感じ、鑿はスイス製でしたどのように吹くのか不明なフルートマオリの文化展

  • 雄略即位前紀の分注「𣝅字未詳。蓋是槻乎。」の「𣝅」は、ウドである論

    本稿は、雄略即位前紀の分注「𣝅字未詳。蓋是槻乎。」の「𣝅」の意味するところと、その周辺部分の編纂者の書きっぷりの巧みさについて言及するものである。従来からの日本書紀の解釈や分注論では決して至ることのできない、「読む」ことの重要性について論を起こしている。該当部分は、雄略即位前紀の政争記事にある。そのなかで、坂合部連贄宿禰(さかあひべのむらじにへのすくね)が、黒彦皇子(くろひこのみこ)の屍を抱いて焼死したため、遺骨を選別することができなかったとある。天皇許したまはずして、火を縦(つ)けて宅(いへ)を燔(や)きたまふ。是に、大臣と、黒彦皇子(くろひこのみこ)と眉輪王(まよわのおほきみ)と、倶に燔き死(ころ)されぬ。時に坂合部連贄宿禰(さかあひべのむらじにへのすくね)、皇子の屍(かばね)を抱きて燔き死されぬ。其の舎人...雄略即位前紀の分注「𣝅字未詳。蓋是槻乎。」の「𣝅」は、ウドである論

  • 仲哀記、香坂王と忍熊王のうけひ狩とその後の戦闘について

    本稿では、古事記の仲哀天皇条に見える香坂王と忍熊王の反乱譚の前半、うけひ狩と戦いのはじまりの部分について検証する。最初に、今日一般に行われている訓読文と原文を示す。是(ここ)に息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)、倭(やまと)に還り上ります時、人の心を疑ひしに因り、喪船(もふね)を一つ具へ、御子を其の喪船に載せ、先づ「御子は既に崩(かむあが)りましぬ」と言ひ漏らさしめたまひき。如此(かく)上り幸(いでま)す時、香坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)聞きて待ち取らむと思ひ、斗賀野(とがの)に進み出で、宇気比(うけひ)獦(がり)を為(し)き。爾(ここ)に香坂王、歴木(くぬぎ)に騰(のぼ)り坐(ゐ)て見るに大きなる怒猪(いかりゐ)出で、其の歴木を堀り、即ち其の香坂王を咋(く)ひ食(は)みき。其の弟忍...仲哀記、香坂王と忍熊王のうけひ狩とその後の戦闘について

  • 垂仁記の沙本毘売命物語の抜本的読み替え―「愛」字の訓を中心に― 其の二

    (承前)「愛(え)」という語の本質と強要愛すべき、また、うまし、という意味合いを、口頭語においてエ(e)一音にて表している。巧みな言葉である。イザナキとイザナミの掛け合いに使われているように、睦まじい間柄で、互いの距離がパーソナルスペースとされる45㎝以内で限りなく0㎝に近いところにあって言葉が交わされている(注13)。至近距離で交わす言葉には、言葉として短ければ短いものほど好まれる。もはや言葉などいらない時空である。「ねえ」、「うん」、「さあ」、「そう」、「うふ」、「ああ」などといった“言葉”とアイコンタクトだけで会話が成り立っている。ないしは、互いの個は溶けてしまっている。本稿でとり上げている沙本毘売命と沙本毘古王とのやりとりも、「面(まなたり、まのあたり)」で行われたことが示されている。其の伊呂妹(いろも...垂仁記の沙本毘売命物語の抜本的読み替え―「愛」字の訓を中心に―其の二

  • 垂仁記の沙本毘売命物語の抜本的読み替え―「愛」字の訓を中心に― 其の一

    はじめに垂仁記には、后であった沙本毘売命(さほびめのみこと)がその兄の沙本毘古王(さほびめのみこ)と謀反を起こす事件が物語られている。現代の人々にも、心情の躍動を経て悲劇的な結末をむかえているように読むことができて注目され、多くの論考をあつめるに至っている(注1)。本稿では、原典に立ち返ってその意味するところを検討し、無文字時代の言語活動の特性を繙くものである。最初に、沙本毘売命物語の前半から中盤部分の、今日流布している訓読と原文を示す。此の天皇、沙本毘売(さほびめ)を以て后(きさき)と為(し)たまひし時に、沙本毘売命の兄(せ)沙本毘古王(さほびこのみこ)、其の伊呂妹(いろも)に問ひて曰く、「夫(を)と兄(せ)と孰(いづ)れか愛(うるは)しき」といへば、「兄ぞ愛しき」と答へ曰ひたまひき。爾に沙本毘古王謀(はか)...垂仁記の沙本毘売命物語の抜本的読み替え―「愛」字の訓を中心に―其の一

  • 東洋文庫ミュージアム「漢字展」にて

    東洋文庫ミュージアムの「漢字展」へ行ってきました。いつもながら“工夫”に感心させられます。ミュージアム・ノートというすばらしいものがありました。浦島太郎物語とミュージアム・ノート漢字の成立とその展開については、伝説上の人物、蒼頡(ソウケツ)君が案内してくれました。ソウケツ君が漢字の世界をご案内ソウケツ君でも難しい四角号碼ほかに気づいたことをいくつか。モンゴル文字を改良した満州文字は、縦書きで左から右へと書くということでした。三国志演義(満州語本、1979年刊)ウォーリス・バッジの『エジプトヒエログリフ辞典』(1920年、ロンドン刊)というのに、ヒエログリフは象形文字だけれど、表音文字としても機能していたと解説されていました。万葉仮名みたいなものでしょうか。また、「令和」の出典本が並べられていました。万葉集文選万...東洋文庫ミュージアム「漢字展」にて

  • 「立体錯視の最前線」展について

    明治大学博物館特別展「見えているのに見えていない!立体錯視の最前線」に行ってきました。杉原厚吉先生の作品がずらりと並んでいました。テレビで見たときには面白くできているなと思っていましたが、現物を見るとなかなか見るポイントがつかめず、カメラを通して見ないと錯視は起きにくいものだとわかりました。鏡を使ったものは生(なま)で見てもよくわかるものでした。鏡を使った錯視の作品群岡山県の石上布都魂神社の賽銭箱(展示パネル)岡山の石上布都魂神社とどのようなゆかりがあるのか存じません。京急の羽田空港国際線ターミナル駅へ行く予定もありません。「立体錯視の最前線」展について

  • 仁徳記の大后、石之日売命の嫉妬譚について―記57・58歌謡の解釈を中心に―

    仁徳記の説話では、皇后の石之日売命(いはのひめのみこと)のことを「大后(おほきさき)」と称し、とても嫉妬深い存在として描かれている。最初の紹介記事に、「其の大后石之日売命、嫉妬(うはなりねたみ)すること甚(いと)多し。」(仁徳記)とある。「嫉妬(うはなりねたみ)」とは、ウハナリ(後妻)+ネタミ(嫉、妬)の意である。そんな大后は、「豊楽(とよのあかり)」という宮廷主催の酒宴を開く準備のため、酒を注ぐ「御綱柏(みつながしは)」を「木国(きのくに)」、紀州へ採りに行った。その留守中に、天皇は八田若郎女と懇ろな関係になっていた。それを知った大后は、御綱柏を投げ棄てて、難波宮に還らずに河の流れを遡って山代へ行き、天皇に対して帰還を拒む歌を歌ってその地に留まってしまったという話である。此より後時(のち)に、大后(おほきさき...仁徳記の大后、石之日売命の嫉妬譚について―記57・58歌謡の解釈を中心に―

  • 雄略紀「少子部連蜾蠃」の物語について―「仍改賜名為雷」の解釈を中心に―

    雄略紀に、少子部連蜾蠃(ちひさこべのむらじすがる)の説話が2つ載っている。第1話は、天皇は養蚕を奨励するために蜾蠃に蚕(こ)を集めて来るように命じたが、彼は児(こ)を集めて来た。天皇は大笑いし、養育させて少子部連の姓を与えたとする頓智話である。第2話は、三諸岳の神の形を見たいから、力持ちの蜾蠃に捕まえて来いと命じたところ、三諸岳の大蛇を捕えて来たので困ってしまった。天皇はそれを見ないように事後処理し、また、「雷(いかづち)」という名に改めさせたとする頓智話である。三月の辛巳の朔丁亥に、天皇、后妃(きさきみめ)をして親(みづか)ら桑(くは)こかしめて、蚕(こかひ)の事を勧めむと欲(おもほ)す。爰(ここ)に蜾蠃(すがる)〈蜾蠃は、人の名なり。此には須我屢(すがる)と曰ふ。〉に命(ことおほ)せて、国内(くにのうち)の...雄略紀「少子部連蜾蠃」の物語について―「仍改賜名為雷」の解釈を中心に―

  • 神武紀の「韴霊(ふつのみたま)」について

    記紀には命名された刀剣類が見られる。「天沼矛(あめのぬほこ)」(記上)、「天之瓊矛(あまのぬほこ)」(神代紀第四段)、「草那芸之大刀(くさなぎのたち)」(記上)、「藂雲(むらくも)」(景行紀四十年是歳)、「十掬剣(とつかのつるぎ)」(記上)、「十握剣(とつかのつるぎ)」(神代紀第五段一書第六)などである。それとは別に、ある特徴を持ったものとして、「韴霊」(神武紀)、「布都御魂」(神武記)という刀があげられている。このフツノミタマという名称について、フツヌシとの関係で述べられることはあっても、どうしてフツと言うのかについて、突っ込んだ議論は行われていない(注1)。本稿では、「韴」という用字にかかる古代人の思いのめぐらせ方を中心に、その難題に立ち向かう。まず、神武記紀の該当箇所と、フツヌシという形で示される神代紀、...神武紀の「韴霊(ふつのみたま)」について

  • 令和の出典、万葉集巻五「梅花歌三十二首」の「序」について

    (Summary)TheJapanesegovernmenthasdescribed"BeautifulHarmony"asanEnglishtranslationofthenewera"令和(Reiwa)".Theadaptationoftheclassicscontinuestoberepeated,whichisthetraditionofpoeticwriting.Theoriginof"Reiwa"is"Introduction"ofaseriesofplumblossoms'songsinManyoshuvol.5.Theauther大伴旅人(Otomo-no-Tabito)used"令(Rei)"and"和(wa)"asthemeaningof"falling"and"softening"."令(...令和の出典、万葉集巻五「梅花歌三十二首」の「序」について

  • 記紀説話に見られる殯(もがり)の際のキサリ(岐佐理・傾頭)について 其の二

    (承前)キサリとは、雁同様、来ては去ることを表しているのであろう。虎はなわばりを持ち巡回するから、来ては去る存在である。縦縞模様の虎が殯と関係するとするなら、ご遺体にゆくゆく現れてくるあばら骨のことが連想として結びつく。すなわち、ご遺体の上に虎の毛皮を被せて安置したのであろう。カハカリ(河鴈)が重要な役を担っていたのは、皮を借りていたと示したいからであった。そのことの残存伝承に、猫が死人の上を飛び越すと死人がムクムクと起き上がるとか、飛び越えた猫が猫股という怪物になって悪さを働くとか、猫が火車となって死者を地獄へと連れて行くという怪しい話が各地に残っている(注6)。そのため、通夜では寝ずの番をしたり、刃物を置いておいて猫が来ないようにしていた(注7)。舶来で高価な虎の毛皮が掛けられないからといって、ご遺体がその...記紀説話に見られる殯(もがり)の際のキサリ(岐佐理・傾頭)について其の二

  • 記紀説話に見られる殯(もがり)の際のキサリ(岐佐理・傾頭)について 其の一

    記紀説話に見られる殯(もがり)の際のキサリ(岐佐理・傾頭)について検討する。キサリという語は、天若日子(天稚彦)の殯の記事に登場する。故、天若日子が妻(め)、下照比売が哭く声、風と響きて天に到りき。是に、天に在る天若日子が父、天津国玉神(あまつくにたまのかみ)と其の妻子(めこ)と、聞きて降り来て哭き悲しび、乃ち其処(そこ)に喪屋(もや)を作りて、河鴈(かはかり)をきさり持と為(し)、鷺を掃持(ははきもち)と為、翠鳥(そにどり)を御食人(みけびと)と為、雀(すずめ)を碓女(うすめ)と為、雉(きぎし)を哭女(なきめ)と為、如此(かく)行ひ定(さだ)めて、日(ひ)八日(やか)夜(よ)八夜(やよ)以て遊びき。(記上)天稚彦が妻下照姫、哭き泣(いさ)ち悲哀(かなし)びて、声天に達(きこ)ゆ。是の時に、天国玉、其の哭(おら...記紀説話に見られる殯(もがり)の際のキサリ(岐佐理・傾頭)について其の一

  • 家畜展

    東京大学総合研究博物館で、「家畜―愛で、育て、屠る―」展が行われている。土曜日にギャラリー・トークが行われるそうである。家畜家禽見れば見るほど、市場原理的畜産物という考え方は、人と家畜の間柄の些細な演出に過ぎないと思われてくる。長い間、彼らの命と人間との関係は、合理性によってではなく、はるかに奥深い心の結びつきに支えられてきたに違いない。(5頁)ドンタオ.ベトナムの在外鶏である.脚部が異様に太い.この形質に経済的合理性は無い.ベトナム北部の農村にて.(10頁)遠藤秀紀「魅せる命」東京大学総合研究博物館ニュース『Ouroboros』第65号(2019年2月)(http://www.um.u-tokyo.ac.jp/web_museum/ouroboros/v23n3/v23n3_endo.html)に載る解説を引...家畜展

  • 前島宗祐の四季耕作図屏風について

    神奈川県立歴史博物館の「屏風をひらけば―神奈川県立歴史博物館所蔵の屏風絵―」展(~3月31日)をみた。前島宗祐筆・四季耕作図屏風(室町時代、六曲一双、紙本墨画淡彩)(TwipuTwipu)がいちばんおもしろかった。はじめに、部分について検討する。龍骨車龍骨車である。この屏風絵が描かれた室町時代当時、龍骨車が日本で活躍していたか不明である。龍骨車を描いた挿絵類は、中国においても、必ず気になるほどに変なものばかりである。なぜそれで良いかというと、職人尽の絵と同じことだからである。情報として雰囲気以上のことを伝えることは求められていない。同じく神奈川県立博物館所蔵の狩野探幽(1602~1674)の四季耕作図屏風に、あり得ない形の唐箕が描かれている。一説に、唐箕が日本に伝来したのは元禄年間(1688~1704)であると...前島宗祐の四季耕作図屏風について

  • 黄泉国について 其の五

    (承前)(注11)上代語のシキヰは、茣蓙や莚のように、座るために敷く物のことをいう。「席」(武烈紀八年三月、斉明紀五年是歳)、「座」(敏達紀十二年是歳)、「床席」(天智紀三年十二月是月)、「班」(欽明紀六年十一月)とある。単位は枚である。シキミのほうは、「閾」(仁徳記)、正倉院文書には「敷見」、「敷弥」などとあり、単位は枝である。両者の区別ははっきりしていた。あるいは、神仏のいますところが「座」で、その手下が門番をするところが閾といえるのであろう。(注12)窪1996.参照。庚申信仰として今日に伝わる有名な文句がある。抱朴子・内篇・微旨篇に、「又言ふ、身中に三尸(さんし)有り。三尸の物為(た)る、形無しと雖も実に魂霊鬼神の属なり。人をして早く死せしめんと欲す。此尸は当に鬼と作(な)ることを得て、自づから放縦遊行...黄泉国について其の五

  • 黄泉国について 其の四

    (承前)イザナキを追って来たのは「予母都志許売」(泉津醜女)である。和名抄に、「醜女日本紀私記に云はく、醜女〈志古女(しこめ)〉は或る説に黄泉の鬼也といふ。今、世の人、恐れを為す小児の称〈許々女(ここめ)〉は此の語の訛り也といふ。」とある。といって、イザナミはもはや産まず女である。産まず女が入る産屋にして働きに出て、何か別のものを産ませようとしている者は恐ろしい者である。紀には、泉津醜女のことを、「泉津日狭女(よもつひさめ、ヒは甲類)」ともいうとある。母屋から外れた細長い一間を庇・廂(ひさし、ヒは甲類)といい、韓竈の焚き口部分の外縁の庇状のデザインをも連想させ、産屋の女の意であることを示したいのであろう。最後に桃の実が投げられている。記には、「黄泉比良坂の坂本(さかもと)に到りし時に、其の坂本に在る桃子(ももの...黄泉国について其の四

  • 黄泉国について 其の三

    (承前)竈という語は、和名抄に、「竈〈窓附〉四声字苑に云はく、竈〈則到反、躁と同じ、加万(かま)〉は、炊爨する処也といふ。文字集略に云はく、窓〈七紅反、久度(くど)〉は竈の後ろに穿つ也といふ。」とあり、万葉集には、山上憶良の貧窮問答歌に、「可麻度(かまど)」(万892)とあって、上代にはカマ、カマドが混用されていたのではないかとされる(注14)。竈の意味には、また、ヘツヒ、クドという言葉もある。クドのことは、和名抄から竈の煙突が外へ出ていることを指していたかと思われる。釜は、和名抄に、「釜古史考に云はく、釜〈扶雨反、上声之重、輔と同じ、賀奈倍(かなへ)〉は黄帝が造る也といふ。」とある。容器一般はヘと呼んで、瓮(へ、ヘは乙類)、戸(へ、ヘは乙類)の意味を表した。伊耶那美命が還れない理由として、すでに「黄泉戸喫(よ...黄泉国について其の三

  • 黄泉国について 其の二

    (承前)イザナキが黄泉国から帰った時にも、「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)の阿波岐原(あはきはら)」(記上)、「檍原(あはきはら)」(神代紀第五段一書第六)に到って「禊祓(みそぎはらへ)」(記上)、「祓除(みそぎはらへ)」(神代紀第五段一書第六)をしようとしている。原っぱで禊や祓をするとはどういうことか。アハキハラは、紀に、「檍原(あはきはら)」とある。檍とは、和名抄に、「檍説文に云はく、檍〈音億、日本紀私記に阿波岐(あはき)と云ふ。今案ずるに又櫓木の一名也とあんず。尓雅に見ゆ。〉は梓の属也といふ。」とあり、アズサないしカシの木の一種ではないかとされている。ならば、「梓原」や「橿原」とすればよいとがそうしていない。アハキハラと言いたいからそうしているに違いない。アハキに似たことばにツハキがある...黄泉国について其の二

  • 黄泉国について 其の一

    黄泉国の話は、伊耶那美命(伊弉冉尊(いざなみのみこと))の死、伊耶那岐命(伊弉諾尊(いざなきのみこと))の黄泉国訪問、黄泉国からの脱出と訣別、禊祓の話から成る。本稿では、黄泉国という舞台設定は、何を表すものであるかについて検討する。今日までのところ、黄泉国=死の国のことと考えられてきているが、事柄をお話にするときに、即物的に表して多少の肉付けを行って良しとしたとは考えにくい。説明文でも紀行文でもない。何かの譬え話でなければ、大人が考えた話として賢くないからである。創話者は、無文字時代に言葉を巧みに操って一話と成している。ただ一度聞いただけで相手を納得させてしまう語りっぷりが行われている。エピソードのひとつひとつ、言葉の端々にいたるまで、首尾一貫して了解されたから伝承され、太安万侶や日本書紀の編纂者に書き起こされ...黄泉国について其の一

  • 仁徳紀十一年の茨田堤の記事について 其の二

    (承前)「全匏(おふしひさこ)両箇(ふたつら)」とある。オフシは凡(おほ)しの意とされる。まるのままのヒョウタンのことを表している。歴博2004.に、「弥生時代から古代へ時代が新しくなるにつれ、ヒョウタンは一気に多様化した。遺跡からの出土事例は多くなり、形や大きさの変化に富んだものになった。これは日本に持ち込まれるヒョウタンが多系統になったことと、ヒョウタンがどのような品種とも交雑するためであろう。平城京からは、多数のヒョウタンの果実が出土しており、首の長いフラスコ型のものから、球形や西洋ナシの形をしたものまで多彩である。」(50頁)、「ヒョウタンとして現代では最もよく知られているひさご形は、史料からも出土例からも中世に初めて記録され、日本列島におけるヒョウタンの歴史ではかなり新しい。くびれた独特の形状が容器と...仁徳紀十一年の茨田堤の記事について其の二

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