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2015/11/28

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  • 「独裁者たちのとき」

    「独裁者たちのとき」(ベルギー・ロシア、2022年) 独裁者の登場を、誰が望んだのか。われわれ、人民であろう。 アーカイブに記録された四人の国家指導者、スターリン、ヒトラー、ムッソリーニ、そしてチャーチル。快哉の狂濤をなして彼らを迎えるのは当時の人民である。

  • 「ニューオーダー」

    「ニューオーダー」(メキシコ・フランス、2020年) 〝新たな秩序〟の対岸に見晴らされる現行の秩序、あるいは旧套の秩序とは、何を礎石として成立するものなのか。それは民主主義的な意思決定にもとづき運営される社会である。あるいは法により治められた国家といってもよ

  • 「ダミアン・ハースト 桜」

    「ダミアン・ハースト 桜」(国立新美術館、2022/3/2 - 5/23) 現代芸術とよばれる世界にながらく興味を持つことができなかった。現代芸術とは、原語である〝contemporary art〟の原意を酌んで、「同時代的な問題意識を投影した作品群」 とでもそれを定義するのが適切であ

  • 断想(8)

    進んでも進んでも、そこには一物の影もない。何かを手にするとは、その何かを手放すためなのだと知る。闇を払おうとも新たな帳が手繰り寄せられるだけであり、何かを乗り越えるとは新たな何かに蹴躓くことだけを意味している。見いだすすべてはその価値を喪い、この身を苛む

  • 上村松園

    夭(おさな)くして才覚の認められた上村松園を批判する声が当時にもあったらしい。前世紀初頭ごろの話であったろうか、曰く、「松園の絵は京人形のように美しいが、しかし心がない」 といった批評の言葉であった。 それはひとり上村松園という画家にだけ向けられた讒言で

  • 断想(7)

    われわれ人間に生きる意味はあるのか、という問いをたえず繰り返している。人間、と一般化しているが、ひるがえって自己という存在がこの世にあるべき意味を私は問うているのである。その自問に対し、私はどうしても積極的な回答を見出すことができずにいる。この数年来の

  • 灰谷健次郎『兎の眼』

    灰谷健次郎『兎の眼』(角川文庫、1998年) 教育、――誰かに何かを〝教える〟ということは、何も学校という特殊な空間にだけ限られた話ではない。それは人と人とが関係するということのうちに必然的に組み込まれた営為であり、人から人へと知識が伝播されることなくし

  • 「異端の鳥」

    「異端の鳥」(チェコ・スロバキア・ウクライナ、2019年) 作中時期の明示はないが、おそらく一九四三年の冬から、ドイツが敗戦を迎える四五年五月までのおおよそ一年半という期間に、ユダヤ人であるヨスカ少年の辿った彷徨の旅路は、ユダヤとは何であるのか、それもユ

  • 『「快楽の園」を読む ヒエロニムス・ボスの図像学』(3)

    さらには芸術表現における精神の自由という問題を、ボスと現代芸術家とを対照させながら考えてゆきたい。ボスの絵画は豊かであり自由である、と私は先に書いた。すなわちボスと対置する現代芸術家が不自由であり貧しいものであることを私は述べたいのである。これは芸術作

  • 『「快楽の園」を読む ヒエロニムス・ボスの図像学』(2)

    ヒエロニムス・ボスの《快楽の園》に刺激を受けてこれを書いている。《快楽の園》の図像学を読みながら私の感じたこと、それはボスの絵画より溢れ出す自由と豊かさということであった。それは理性という光明を浴した近代以降の人々がまさしくその光輝の眩さゆえに絶望的に

  • 『「快楽の園」を読む ヒエロニムス・ボスの図像学』(1)

    神原正明『「快楽の園」を読む ヒエロニムス・ボスの図像学』(講談社学術文庫、2017年) 理性主義的であることが、あまりにも貴ばれすぎている。理性的であるとは合理的に、すなわち万人が相互に了解しうる共通の原理である論理に基づき事態の正否を分別し、樹ち立て

  • 「タレンタイム~優しい歌」

    「タレンタイム~優しい歌」(マレーシア、2009年) 身近なひとには優しく、しかし他者には冷然と傲岸と厳しい眼(まなこ)を向ける。それはあまりにもありふれた人間の性向であって、ことさらに省みられることもない人間の悪意のひとつの発露である。それは確かに悪意の

  • 『増補 チベット密教』(2)

    いますこし密教の思想的な特色を探るために、中国仏教の代表である禅との対比を試みたい(禅は日本文化とも融合し、日本で色濃く残存しているために、ともすれば日本的仏教であるとの見解を持つものもあるかもしれないが、日本仏教の窮極とは浄土宗的な、つまりはきわめて

  • 『増補 チベット密教』(1)

    ツルティム・ケサン/正木晃『増補 チベット密教』(ちくま学芸文庫、2008年) インドからチベットへと直輸入された後期密教のみならず、中国を経由し、空海によって日本へと丸ごと移入された中期密教ですらも、禅や浄土に親しむ私にとっては肌になじまぬものを感じさ

  • 断想(6)世相について

    地図を持たずに歩みだすことの困難は誰もが知っているにもかかわらず、ひとびとは人生を描く一片の地図も持つことなく平然とその歩みを進める。その歩みがどこから始まり、そしてどこへと続いてゆくのか。今の自分は、進むべき道程のどこに立っているのか。一直線に死へと

  • 中宮寺 菩薩半跏像

    菩薩半跏像(奈良・中宮寺、七世紀) 三年ぶりに会う彼女は変わることなく、しかしかつてとは異なるすがたで私の前に現われた。 大晦日も間近に寄せるその日、私は友人と斑鳩の中宮寺を訪れた。ひとりで訪ねたときのように、ゆったりとした心持ちで彼女と向き合えたわけで

  • 断想(5)精神の自由について

    精神の自由であるべきことについて考えたい、と思っている。自由とは述べても、それは欧米のごとく政治的抑圧に対する個人の自由のことではない。それよりもはるかに実存的の問題であり、あるいは真に個人的な自由にかかわる問題である。これを論ずるためには、まずは多く

  • 「家族を想うとき」

    「家族を想うとき」(イギリス・フランス・ベルギー、2019年) 社会はわれわれに要求する。人間性などという不合理なものは即座に捨ててしまえ、と。かかる要求を呑まぬ人間に待つものは困窮であり社会的不自由である。要領よく生きることのできる人間は、そうした要求をう

  • 「少女は夜明けに夢をみる」

    「少女は夜明けに夢をみる」(イラン、2016年) 誰もがみずからの幸福を願っている。 更生施設に収容されたイランの少女たちは、そのことごとくが犯罪者である。薬物、強盗、売春、浮浪、さらには父親殺し。しかしそれはおのれの欲望を満たすための犯罪ではなかった。生き

  • 「洗骨」

    「洗骨」(日本、2018年) 本筋において平凡な家族ドラマ以上には出ることのないこの作品が、案外と好意的な評価をもって迎えられたのは、ひとえに物語の終着点に設定された〝洗骨〟という――それを知らぬ大多数の本土のひとびとにとっての――異習に対する驚きがその理由

  • 茶碗、茶陶――茶の生命

    「茶の湯の名碗 高麗茶碗」(三井記念美術館、2019/09/14 - 12/01)「サントリー芸術財団50周年 黄瀬戸・瀬戸黒・志野・織部 —美濃の茶陶」(サントリー美術館、2019/09/04 - 11/10) 茶は禅である、という。その言葉の意味するところ、――それは、茶とは生命である、

  • 「存在のない子供たち」

    「存在のない子供たち」(レバノン・フランス、2018年) 妹を周囲の悪意から隠そうとし、あるいは血の繋がりもない、ゆきずりの赤ん坊をなんとか育てようと奮闘するゼインの行動は、社会に蔓延るインチキ(phony)から子供たちを守ろうとした、『ライ麦畑でつかまえて』の主

  • 「Girl/ガール」

    「Girl/ガール」(ベルギー、2018年) 思春期は、怒りである。望みは多く、しかしそれを叶える力はない。外に対しては怒りを激発させ、内に向けては抑圧を科す。怒りは怒りのままに終わり、何を叶える力にも転化されない。胸には苦しみだけが残る。――なぜこの願いは、叶

  • 「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」

    「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」(国立新美術館、2019/04/24 - 08/05) 一〇〇年以上も昔のウィーンで製作された椅子やケトルといった家具のデザインを見て、とっさに「古くない」と感じた――というよりも、そのように感じてしまった――ことに、非

  • 室生寺・釈迦如来坐像

    釈迦如来坐像(室生寺、8〜9世紀) (「奈良大和四寺のみほとけ」東京国立博物館、2019/06/18 - 09/23) これは禅定にある釈迦のすがたである。眼前に立てば息苦しいほどの圧迫を感じさせるその肉体は、しかしその精神と切り離しては意味を見定められぬものとなる。写

  • 断想(4)

    ――仏道とは、自己を求める道のことである。 そのことばを遺したのは日本曹洞宗の祖、道元であったか。問は答の前提されるものであり、答はまた問と対置されることによってその表現を得る。自己を求めるとは、自己とは誰であり、何であるのかを問うということである。か

  • 岡本太郎『青春ピカソ』

    岡本太郎『青春ピカソ』(新潮文庫、2000年) 芸術を芸術たらしめるものとは何か――。深甚にその問いと向き合ってゆくのならば、多くの日本人が無批判のうちに芸術の典型であると看做し、鑽仰している西洋美術がいかに芸術から遠くありつづけてきたのか、そしてまた、日本

  • 「心と体と」

    「心と体と」(ハンガリー、2017年) 人の世は、ひどく生きづらい。この世には多くの約束事があり、しかもそれは決して明文的に定められたものではない。なんとなくそれを察し、うまく協調できるものだけがこの世間を如才なく渡ってゆくことができる。察する、とはいっても

  • 「ラッカは静かに虐殺されている」

    「ラッカは静かに虐殺されている」(アメリカ、2017年) 知る、ということは現代において、われわれに課された義務ではないか、と考えることがある。政治的に複雑で歴史も入り組んでいる――あるいはそのように思い込まされているだけなのかもしれない――中東の情勢は、日

  • 「乱世備忘 僕らの雨傘運動」

    「乱世備忘 僕らの雨傘運動」(香港、2016年) 青年は未来を生き、大人たちは現在を生きる。学生運動が社会全体の賛同を得るところにまで発展することがないのは、青年の抱く未来への切迫感が大人には共感されえないためである。切迫したその感情には現在を脅かす具体的な

  • 「太陽の塔」

    「太陽の塔」(日本、2018年) 一九七〇年に開かれた大阪万博のテーマ〈人類の進歩と調和〉に対し、人類には進歩もなければ調和もないのだと真っ向よりそれを断じ、近未来の都市設計(都市における居住空間の限界の解消を目するその展示の思想の根柢にあったものこそは、ま

  • 「染付 ─世界に花咲く青のうつわ」

    「染付 ─世界に花咲く青のうつわ」(出光美術館、2019/01/12 - 03/24) 白磁にコバルトで描かれた淡色の染付よりも、《青花臙脂紅龍文瓶》のように臙脂の加えられた二彩の、あるいは豆彩のように多くの色彩で表面を覆われた器により多くの美を感ずる。とりわけ明の時代から

  • 「初期伊万里-大陸への憧憬-展」

    「初期伊万里-大陸への憧憬-展」(戸栗美術館、2019/01/08 - 03/24) 江戸時代の初期、一七世紀初葉に制作の始まった初期伊万里に、焼成や絵付の技術的未熟と、それゆえに後世に様式の完成された焼物には認めることのできない特有の親しみやすさが宿っていることは確かであ

  • 「神々のやどる器―中国青銅器の文様―」

    「神々のやどる器―中国青銅器の文様―」(泉屋博古館分館、2018/11/17 - 12/24) 中国・商の時代、紀元前一四世紀ごろから複雑化する古代青銅器の紋様をデザインと捉えてはいけない。design とはすぐれて人為的な思考にもとづき案出されるものである。無論、古代の青銅器も

  • 「新・桃山の茶陶」

    「新・桃山の茶陶」(根津美術館、2018/10/20 - 12/16) 陶器、とりわけ施釉ではなく無釉の陶器がよい。一七世紀に到りようやく磁器の生産の始まった日本において、それ以前より形成され醸成された茶道という文化で陶器がこれほど好まれたのは、しかし技術的な限界がその理

  • 「鍋島と古九谷―意匠の系譜―展」

    「鍋島と古九谷―意匠の系譜―展」(戸栗美術館、2018/10/05 - 12/22) そこには感性的の美を志向する精神が看取されない。芸術性を欠落させたその造形や図案からは、もっぱら外貨獲得の手段として磁器の生産が行なわれていたという実態が窺われる。鍋島や古九谷の、染付に

  • 「ゲッベルスと私」

    「ゲッベルスと私」(オーストリア、2016年) 戦時下における罪の所在とその適用範囲は容易に定められるものではない。平時とは異なる倫理観がそこに敷衍されるためである。その意味において、本作の宣伝やポスターに用いられる、『何も知らなかった私に罪はない』というキ

  • 「人間機械」

    「人間機械」(インド・ドイツ・フィンランド、2016年) ――今よりも給料を増やしたところで、あいつらは酒か煙草に使うだけだ。仕送りなんかしない。 工場経営者の発するこの言葉に、私は嫌な既視感を覚えた。一九世紀イギリスの資本家がこれとまったく同じ台詞を口にし

  • 「ガザの美容室」

    「ガザの美容室」(パレスチナ・フランス・カタール、2015年) 女は戦争を起こさない。日常の諍いを戦争にまで発展させてしまうのはいつも男の仕業である。その美容室は銃声やまぬパレスチナ・ガザ自治区の一隅に立つ。男から髪を隠す必要のない、女だけの社交の場はあまり

  • 「ウィンド・リバー」

    「ウィンド・リバー」(アメリカ、2017年) 二級市民、という表現すらも不適当に感じる。開発するほどの価値もない土地を「保留地」と名づけ、そこに押し込められたネイティブ・アメリカンの処遇は、事実上、アメリカという国家が彼らを国民としては認めていないことを示し

  • 「祝福~オラとニコデムの家~」

    「祝福~オラとニコデムの家~」(ポーランド、2016年) 自閉症の弟。酒に溺れた父。母は家を出てしまって帰らない。――どれほどその境遇に不満や理不尽を感じていても、オラはあまり怒らない。癇癪を起こすこともない。それは我慢強いからではない。包容力があるためでも

  • 「グッバイ・ゴダール!」

    「グッバイ・ゴダール!」(フランス、2017年) 一九六八、という年は、西暦のある一年を示すとともに、それはそのまま学生運動の代名詞ともなっている。フランスの五月革命に蝟集する学生たちの活動と弁論、そして訴えるその思想は、同時期の日本の学生の姿と折り重なって

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