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  • コーラ

    小学校には特別学級というクラスがあった。特別なサポートを必要とする生徒のクラスだった。そこの生徒達は、校外授業などの時に通常クラスの生徒達と行動をともにすることがあった。私のクラスには二人の生徒が来ていた。 そのうちの一人は、直樹

  • ゲームセンター

    小学四年の時に菊池君という転校生が入ってきた。彼は少し大人びていて体格も良く、運動神経抜群だった。私はサッカー部で一軍の補欠選手だったが、彼は入部してすぐにレギュラーになった。 付属小学校から転校してきており頭も良く、女子生徒から

  • 転校生

    小学生の高学年の時だった。顔立ちがハンサムで小柄な転校生がクラスに入ってきた。名前は小川君だった。小川君はなかなかクラスに馴染めず、尖った感じで皆に偏屈な態度を取っていた。 運動会の時に若くてとても綺麗なお母さんが一人で見に来てい

  • 日常の風景

    朝は、トーストを数枚食べてから下宿出るか、早めに大学の学食に行き、八十円のかけそばやかけうどんを食べたりした。駅まで歩いて二十分ほどかかったが、その行き帰りの道をただ歩くのでさえ自由を全身で感じて楽しく、心がときめいていた。私は、高校まで自

  • ジャングルハウス

    初めての一人暮らしでの下宿先は23区の外れにある古いアパートだった。日帰りしかできなかったため、一日で決めなければならず、選り好みはできなかった。大学の斡旋を利用したが、ほとんどが古いアパートで良い物件など期待できなかった。 そこ

  • 大学一年のゴールデンウィーク

    一人暮らしを始めた頃は、不安の中、5月のゴールデンウィークになれば帰省できるのだからと考えていた。しかし、大学生の生活にも慣れてきて、ゴールデンウィークになる頃にはサークルの付き合いだったり、何かと忙しくなっていた。 5月の連休に

  • 哀愁漂う記憶

    記憶はこうやって色褪せていくのだろうか。1990年4月、そこはとても発展した近代都市だった。上京してきた私は、そこに自分が居るというだけで心がときめくような明るさを感じていた。 そして、2020年4月、その当時の写真の中の景色は色

  • 二〇二一年九月二十六日

    今日、二〇二一年九月二十六日は特別な日となった。 我が息子が、大学の宿泊施設に移動した日である。本来は、大学に合格した日が特別になるのかもしれないが、家を出て精神的に独立した日こそ特別であるべきだと思う。 息子の大学は観

  • 一九九〇年四月

    一九九〇年の四月は特別だった。入学式が終わり、大学に通う日々が始まった。私の下宿先は二十三区ではあったが、都心からは離れていたため、少しは静かな雰囲気が残っている場所だった。そんな場所から毎日、電車に乗って都心にある大学に通学した。大学の周

  • 一人暮らし

    三月の下旬に母と共に再び上京した。下宿先の部屋には冷蔵庫とベッドだけは付いていた。私は、ただでさえ狭い部屋にベッドは必要なかったため大家に撤去してもらった。 秋葉原に家財を揃えに買いに行き、レンジ、オーブントースターや一人用の電気

  • 下宿探し

    行く大学も正式に決まり、今度は東京で一人暮らしをする準備をしなければならなかった。地方出身の私は、大学から届いた案内に従って、下宿先を決めるしか手立ては無かった。大学で行われる説明会の日に日帰りで母と共に東京に赴き、下宿を決めることにした。

  • 運命の朝刊

    その当時、大学の合格者は地方新聞の朝刊に掲載されていた。そのため、合格発表を無るために東京に向かうことなく合否を知ることができた。第一希望の私立大学の受験が終わり、二週間後くらいに合格発表が行われる予定だった。 私は、合格発表当日

  • 水道橋

    二度目の受験シーズンが遂に来た。その年から共通一次試験はセンター試験になり制度が少し変わっていた。センター試験は目指した点よりは低かったが、選んだ国立大学を受験するためにはぎりぎり足りている点数だった。国立大学の二次試験の前に私立大学の入試

  • 一九八〇年代

    一九八〇年代は私にとって特別な年代だった。激動の日々であり、息つく暇も無く全力疾走をし続けた時代だった。 自分のすべてを掛けた一世一代の大勝負だった高校受験。これまで勝負の世界で生きてきた私の人生の中でも、この時ほどの伸るか反るか

  • 寝台列車

    自宅浪人をしている期間は単調な日々だったため、季節の移り変わりの記憶があまりない。時間の流れをはやく感じたのか、ゆっくりだったのかほとんど感覚がなかった。予備校の模擬試験も都度、自分で申し込んで受けに行ったが、いつ頃の季節にどれくらい受けた

  • 自宅浪人

    私は、予備校等に通うことはせずに自宅で一人で勉強することを選んだ。ただ、一週間に一回の英語塾に通う事はそれまで通り継続し、その他にZ会の通信教育をやることにした。高校三年生を終え同様に浪人した人の中で自宅浪人を選んだのは私だけだった。&nb

  • 晴れつつある霧

    自宅浪人生活が始まった。この時の期間は、これまでの私の人生の中でも特殊な期間だった。社会のどこにも所属することも無くただひたすら自分の部屋で時間の許す限り勉強をした期間だった。 受験の後、自分は何をすべきか、どうしたいのか、何をや

  • 突然の来訪者

    大学受験が終わり、気持ちが晴れない日々が続いていた。すぐに来年の事を考えねばならず、すでに焦るような気持ちもあった。一年など瞬く間に過ぎ去って行くことは十分に承知していた。 三月も終わる頃、家で物思いに耽っていた時、中学三年生の時

  • 大学二次試験

    受験する大学は県外だったため母に付き添ってもらった。母が事前に調べた神社で共に合格祈願をしたり、その近くの蕎麦屋で昼食を取ったりした。あの時のたきつね蕎麦は本当に美味しかった。そんなことまでしてもらっていながら、心の底では合格は無理だろうと

  • 大学受験

    気持ちが焦る中、遂に共通一次試験がやって来た。その日は、雪がちらついており寒い日だった。会場となっていた大学へは、バスで三十、四十分ほどかかる距離だった。試験は、朝から夕方まで二日間に亘って行われた。 試験の時の記憶はほとんど残っ

  • 高校三年生の夏

    高校時代の最後の夏休みに入った。どこか集中し切れていなかったが日々勉強していた。英語塾の日で、その日はいつになく授業後の質問で先生と白熱し、終えて帰る時には二十三時近くなっていた。その頃には母も、英語塾の時には帰宅時間が遅くなることが度々あ

  • 目標の無い日々

    部活を引退した後、今度は受験勉強に集中しなければならない時期となった。しかし、私は目標を見出すことができなかった。自分のやりたいことが何なのか分からず、大学に進学する意味そのものも分からず霧の中を彷徨っているような心境だった。 私

  • 県大会を終えて

    あの時の二本のサーブは今でも忘れられない。団体戦の地方大会出場を決めた後の試合で、どこか気が緩み絶対に勝つという強い意思が保てなかったのではないか、どこかで勝負をあきらめたのではないか、あの時に一瞬でも集中力を欠いていたとしたらそれはどうし

  • 最後の県大会

    春期大会の県大会は、家から行くことのできる総合体育館で行われた。県大会の記憶は一つの試合以外の記憶は残っていない。団体戦は、ベスト四に残り、地方大会には進めたが、準決勝で負けたため一年前と同様にインターハイには繋がらないことが確定していた。

  • 春期大会地区予選

    遂に春期大会が始まった。まずは地区予選でベスト四に入り、確実に県大会まで進まなければならなかった。地区予選とは言え、決して楽に勝ち進めるわけではなかった。少しでも気を抜いたり、調子が悪くて負けてしまえばその時点ですべては終わりであった。&n

  • 試合のための練習

    二年生の三学期が終わり春休みに入った。流れるように時は過ぎ、気が付けば高校生活もあと一年となっていた。その春休みは、最後の春期大会に向け、特に練習には力が入っていた。目標は、個人戦と団体戦共に地方大会出場、そしてインターハイだった。&nbs

  • 高校二年生

    二年生になる頃には高校生活にもすっかり慣れ、大学受験まではまだ日があるため比較的余裕のある日々だった。日々、バドミントンに明け暮れ、単調な日々が何となく過ぎて行った。いずれ来る大学受験のことが頭の片隅のどこかで常に気になっている一方、まだ随

  • 地方大会、そして

    県大会の準決勝は負けた。その時点で、地方大会には進めるがインターハイには地方大会の成績の如何に関わらず出場できないことが決まっていた。私の高校が地方大会まで進めたのは数十年ぶりで、学校としても名誉な事だった。地方大会は県外で、先輩や私達、顧

  • そして勝負の時

    当日はタクシーで会場に入った。私の高校は団体戦に賭けており、順調に勝ち進むことができベスト四まで残ることが出来た。次の準決勝に勝つことができれば地方大会まで進むことができる。試合は、先輩達がダブルスとシングルスを一つずつ勝ち、最後のシングル

  • 秋季大会

    一年生の秋にバドミントンの秋季大会があった。私は、団体戦のシングルスの選手として二年生と混じって出場した。団体戦は、ダブルス二組、シングル三人の五試合を他校と競い合う。私の高校は、地区予選は必ず勝ち進み県大会までは毎回出場していた。県大会で

  • 卒業する三年生

    バドミントン部を引退した三年生の受験も終わり、それぞれ進学する大学も決まった後、三年生が一、二年生をボーリングや食事をすべて奢るということが毎年の伝統となっていた。 春休みに入っており学校は休みとなっていた。三月後半のある日の午後

  • 恩師との出会い

    私が大きな影響を受けた人は、高校一年生の時に行き始めた英語教室の先生だった。その先生からは、英語はもちろんだが、それ以上に英語を通して物の見方や考え方などを教わった気がする。私の人生は先生によって変わったといって良い。 私は、中学

  • 初めてのスキー

    スキー場で本格的に滑るのは初めてだった。スキーの経験のある生徒も多くいる中で、初心者の私は大丈夫だろうかと不安もあったが、運動神経には自信があったので、三日間もあれば何とか形になるくらいには滑れるようなるだろうと思った。当日はスキーウェアを

  • スキー授業の傍らで

    一年生の冬はスキー旅行があって、一週間スキー場で宿泊してスキーを教えてもらうという行事があった。 私の高校では、毎年、先生方がスキーの指導してくれることになっていた。スキー授業の前に、ビデオで過去のスキー授業の様子を見たりするなど

  • 友人達との集い

    あっという間に夏休みが終わり二学期が始まった。九月はまだ残暑で暑い日が続いたりするが十月になると肌寒くなってくる。秋も寒くなってきた時期にクラスメートの五人で、その中の一人の自宅に宿泊しようという話になった。 土曜日だったと思うが

  • 夏合宿の最終日

    最終日は、午前中は普通に練習して、午後からは試合を行った。試合は一年生と二年生を分けることなく行われた。 バドミントンの技術に関しては、全部員の中で自分が最も優れていると思っており、優勝するつもりでいた。トーナメントが始まり、次々

  • 夏合宿の夜

    夜の練習は二十時頃だった。疲れ果てて寝泊する教室に戻り寝る準備をするのだが、一週間の中で引退した三年生が焼き鳥を差し入れてくれたりすることもあった。三年生の先輩に、まあ食べろと言われながら摘まんだ焼き鳥は美味しかった。 三年生に限

  • 夏の合宿

    夏休みに部活の夏合宿があることは、入部した後に聞かされていた。寝泊りする場所は学校の教室で、期間一週間の練習が相当厳しいという話だった。夏休みに入り、合宿の期間が八月一日から一週間と決まった。私は、無事に一週間を乗り切れるのかとても不安だっ

  • 夏休み

    入学後目まぐるしく時間が過ぎて行き、気が付けば夏休みになっていた。その当時、七月二十五日から八月末までが夏休み期間だった。 夏休みに入っても毎日、部活で学校に行くため休みという感じは薄かったが、眩しい真夏の外から校内に入ると冷やり

  • 日常の風景

    校舎は古く含蓄があった。今は建て替えられて新しく近代的な建物となったが、やはり自分が在籍していた頃の校舎が懐かして良い。 私の高校は理系が強く、数学の進みがとても速かった。県下一の高校とあって生徒達は皆とても優秀だった。学年の人数

  • 究極のメニュー

    高校の隣にとても美味しい中華料理屋があった。 店内は、数名座れるカウンターとテーブルが三つ、奥に四人座れる小さな座敷があった。昼時になるといつも高校生で溢れていた。高校に入り、初めて食べたチャーハンは驚くほど美味しく、しかもとても

  • 体育祭

    私の高校の体育祭は、大規模で力の入った行事だった。 その当時、各学年は十組あり、それぞれの組の一年生から三年生が一つの連合となり十の連合で競い合うものだった。体育祭の近くになると十のやぐらが組まれ、それぞれのやぐらの上には、その連

  • 伝統ある応援歌の継承

    私の高校では、入学後しばらくして一週間、毎日昼休みや放課後に三年生が一年生に応援歌を教えるという伝統があった。 その伝統はユニークで、非常に厳しいものだった。男子も女子も関係なく、独特の振り付けを覚えさせられ大声で歌わされた。三年

  • 日々の生活

    学校への通学は、夏場で天候の良い日は自転車で、天候が悪い日と冬場はバスを使った。 春先の清々しい朝に自転車で通学する気分はとても良かった。私は、中学生の頃、よく話をするような仲間内の男子生徒や女子生徒がそれなりにいた。皆それぞれ違

  • バドミントン部

    バドミントン部は男女別にはなっておらず、一つの部だった。一年生は私を含めて男子6名、女子7名だった。 驚いたことは、入学式に向かうバスの中で見かけたとても可愛い女子生徒も入部していたことだった。ここで、小説やドラマのような話にでも

  • 憧れの高校へ

    私にとってはこの高校に入ることは特別な意味があった。社会の底辺からスタートした母が、私をそこから救い出そうと自分自身の人生を賭けて手を尽くしてくれていたからだ。憧れの高校へ通えることの喜びを噛みしめながら新たな生活が始まった。 入

  • そして

    父が旅立った後、私は記憶の旅を続けてきた。今もなお父が逝った事を実感できていない。 父が生前言っていたことがある。「自分の兄弟は皆、三の付く歳で亡くなっている。自分はきっと八十三歳だろうな。自分の方が先に逝った方が良い」と言ってい

  • 今生の別れ

    帰国は数年に一度くらいだったが、日本への出張の場合が多く滞在期間も一週間程度と短く、いつも実家に帰省できるわけではなかった。そのため父と会う機会も随分と減った。 英国で多忙な日々を過ごしているうちに、私は心臓疾患を患い緊急手術が必

  • カメラと釣り具

    両親を英国旅行に招待した後、私はそれまで勤めていた会社を退職し、英国を基盤にして働くことにした。 私が一時帰国し実家に帰った時、父はカメラと釣り具を私に見せ、「もういつ何時自分もどうなるか分からないから、このカメラと釣り具を私に残

  • 英国旅行

    私が駐在で渡英した翌年に、両親を滞在期間一か月の英国旅行に招待した。 両親は海外に行った経験はほとんど無く、ましてや英国旅行に行くなど想像もつかない事だった。私は空港に出迎えに行き、両親との再会に喜んだ。家に向かう途中、車窓から見

  • 駐在員

    私が就職して十年近く経ち、英国に駐在員として派遣されることになった。 渡英する数週間程前に皇居近くのパレスホテルで両親が壮行会を開いてくれた。そこには私の姉家族と妻の両親も招待されていた。広めのとても良い和室に皆が集まった。素晴ら

  • ジュークボックス

    私が大学生になって初めての夏休みに帰省した時、家族でボーリングに行った。 私にとっては、希望の大学に入ることができ、東京で一人暮らしを始めた特別な年だった。心が晴れ晴れとし気持ちも明るくなっていた。家族みんなで楽しくボーリングを終

  • 最初で最後の試合

    私は中学・高校とバドミントンに明け暮れていた。高校の頃には県内でベスト4に入るくらいになっていた。大会の時には、家族に、見に来られると緊張してしまうので、絶対に来ないで欲しいといつも伝えていた。今思えばあそこまで頑なに見に来ないで欲しいなど

  • 手紙

    私が東京で一人暮らしをするようになると、時折両親が食べ物やちょっとした日常品などを送ってくれた。 いつも荷物といっしょに母や父からの手紙が入っている。当時は携帯電話やメールなど現在では当たり前の物は何一つなかった時代だった。連絡す

  • 運転免許証

    私は、大学院一年生の時、就職に備えて運転免許証を取得した。 免許証を取得しても東京で一人暮らしをしている間は車を運転することが無いので、実家に帰った時に父に助手席に乗ってもらい運転の練習をした。長期休暇の時に実家に帰り毎日のように

  • 旅行

    家族で旅行したのは、私が小学一、二年生の頃で、温泉と佐渡に行った二回だけだった。 温泉旅行は、家から車で一時間半くらいの海岸沿いにある温泉街に行った。父と温泉に入ったことと、そのあとに休憩場でゲームをしたことを覚えている。温泉浴場

  • 豪雪の中で

    私が大学二年生になる前にそれまで住んでいたアパートからマンションに引っ越した。アパートからマンションまでは駅一つと近い場所だった。 引っ越す時に両親が東京に車で来てくれて、荷物を運ぶ手伝いをしてくれた。三月初旬のまだ肌寒い季節だっ

  • セーター

    少し前に母が、父用のコートやセーターがあってほとんど使ってないからと言って送ってくれたことがあった。その中に、昔、私が父にプレゼントしたセーターがあった。そのセーターは、私が大学院を卒業し就職後の初任給で買ってあげたものだった。二十四年も前

  • 魚釣り

    数えきれないほど父と釣りに行った。よく晴れた日のとても美しかった夕方、防波堤まで波が来そうになるほどの悪天候の時や、早朝に起きて遠い釣り場に行った時のことなど様々な思い出がある。船で出たことは一度もなく防波堤からの投げ釣りが主だった。夏場か

  • 釣りの帰り道

    私が小学生の頃の日曜日は、いつも父の早朝ボーリングに付いて行き、午後は父と釣りに出掛けた。仕掛けの針やおもり、餌などを買うのは私の役目だった。父はいつも私に「これで好きなものを買っておいでと」と千円を渡してくれた。「千円でこんな遊びができる

  • 運動会

    運動会と言っても私の学校の運動会ではなく、父の勤める会社で行われた運動会である。会社は卸問屋の集まる団地にあり、同業の会社が多く集まっていた。年に一回、その卸団地の会社が集まり運動会が開催された。 場所は県の陸上競技場だった。多く

  • 父は歌が上手く自慢の一つだった。父が若い頃、NHKのど自慢に出場したことがあるという。鐘は二つだった。当時はテレビ放映ではなくラジオだったと言っていた。 私が小学生の頃、カラオケの機材を持っている親戚の家に集まり、父達がカラオケ大

  • ドライブ

    私が小学生の頃、休日はたまに父と母と三人でドライブに出かけた。姉はその頃は中学生になっており何かと忙しく、すでに別行動が多かった。いつもシーサイドラインを通りスカイラインで山頂に行くコースを走った。シーサイドラインを走っている時に見える海岸

  • 竹とんぼ

    私が幼少の頃、年に数回ほど父に連れられ本家に行くことがあった。父は本家が好きでよく行っていたようだった。 祖父の葬儀が本家で行われる時、父は準備のため忙しそうに何やら作業をしていた。私は何かと待たされ手持無沙汰のことが多かった。そ

  • 街道沿いの休憩場

    父が会社のトラックで私と姉をゲームセンターに連れて行ってくれた時があった。ゲームセンターと言っても街道沿いにある休憩場のような小さな遊び場程度のものだった。カップラーメンの自販機が置いてあったりして、夜間にトラックの運転手などが休憩できるよ

  • ボーリング

    アストロボールが閉鎖されることになり、その後、家からは少し遠くにあるシルバーボールで、父はそれまで通り日曜日の早朝ボーリングを続けた。 毎週日曜日の朝六時四〇分くらいに家を出た。毎回のように私も付いて行った。シルバーボールはアスト

  • 自動車

    父の自慢の一つは車の運転だった。父の若い頃はまだ車が一般的に普及する前だったが、その頃から運転免許を持っており、それも大型免許を持っていた。運転には自信を持っており父のアイデンティティーの一つになっているようだった。 しかし、どこ

  • 初めてのハゼ釣り

    父と私は、私が小学二年生の時に初めて魚釣りを始めた。 初めての釣りは河口でのハゼ釣りだった。母と姉もいっしょに来て釣りの様子を眺めていた。その河口には多くの釣り人が居り、時折釣り船が往き来していた。秋口の午後でとても天気の良い清々

  • 日常の風景

    父は海産物関係を扱っている卸問屋に勤めていたため、毎朝家を出るのは早かった。朝六時過ぎには家を出ていたが、何か特別な時は朝四時頃に家を出ることもあった。特別な時というのは漁港に行く時や、遠方に市がある時だったと思う。そのため夜は九時半から十

  • アストロボール

    父はボーリングが好きで日曜日の早朝はいつもボーリング場に出かけた。父はボーリング場が主催している早朝ボーリングの会員になっていて毎日曜日の早朝大会でゲームを楽しんでいた。成績によってポイントがもらえ景品などと交換できるシステムだった。出かけ

  • 砂場遊び

    私が保育園に通っている時に保育園の近くの公園で父に遊んでもらったことを覚えている。 砂場で山を作って遊んだ。父は板切れを持ってきて一気に砂を集めてきて大きな山を作ってくれた。幼少の私は純粋にそんな光景をすごいなと思って眺めていた。

  • 記憶の糸を辿って

    私の記憶の中で最も古い父の記憶は、保育園に行く前の三歳か四歳の時だったと思う。 ある夜、私は重たいような腹痛を感じながら一人で遊んでいた。母が熊の胆を飲ませてくれた後、しばらくして突然戻してしまった。その後に父がピストルのおもちゃ

  • 急変

    二〇二〇年十月三〇日の夜明け前に父が施設から救急車で病院に運ばれた。そのことを私は十一月三日に知った。入院診療計画書は以下のように伝えられた。  病状は誤嚥性肺炎、脱水症状、発熱呼吸、呼吸不全。 治療計画は呼吸薬とステロイドを点滴

  • 父は逝った

    今日二〇二〇年十一月十日の日本時間午後十二時七分に父は逝った。享年八十八歳。 二〇二〇年十月三〇日の夜明け前に父が施設から救急車で病院に運ばれた。そのことを私は十一月三日に知った。入院診療計画書は以下のように伝えられた。 

  • 図工

    小学1年生の時の記憶はほとんど残っていないが、絵を描いた時の事が断片的に残っている。 どんな絵を描くことになっていたのかは全く覚えていないが、図工の時間で絵を描くことになった。私は何をどう描いて良いのか全く分からず思い付かなかった

  • 遥かなる記憶

    小学校の時の記憶は思い出したくない事ばかりだった。記憶は苦しみと共に強く残るのだろうか。断片的ではあるが鮮明に残っていることも多い。思い出したくないと思うがゆえにより記憶に残るのかもしれない。 母は着物のような服を着て私を連れて家

  • 有終の美

    合格発表の次の日から高校へ入学する日までは2週間くらいあった。中学校は入試の前に卒業式を終えており、高校へ入学するまでは社会的にどこにも所属していない不思議な期間だった。 こんなに心が満たされ喜びにあふれた気持ちで日々を過ごすこと

  • 審判の日

    受験が終わり合格発表は3日後くらいだったような気がする。合格発表の日までの間、何をしていたのか全く記憶がない。家に居たのか、学校に行ったのか、今となっては空白の数日間となっている。ただ、悔いはなかった。 そして審判の場所へ。バスで

  • 決戦の時

    そしてついに受験当日が来た。中学校に入学してからはいつも、この日がいつか来てしまうのだ、とずっと思っていた。 高校入試はどこかに合格しなければ行く学校がなく、高校に入るための浪人も通常なかった。そのため絶対合格しないといけないとい

  • 決戦前夜

    ついに受験日の前日が訪れた。不安と緊張感で心が覆われたまま夜の10時頃になった。全く眠れそうもない中、私は学校からもらった国語の問題集を繰り返し見ていた。私はとにかく国語が一番苦手だった。漢字やことわざ、慣用句の問題を何度も見ていた。母や姉

  • 志望校への下見

    受験日がかなり近づいたある日、私と同じ公立高校を受験する友人と二人で下見に行った。固定電話しかないその当時、待ち合わせ場所などを確認するために友達の家に電話をかけることはとても緊張することだった。親が出たときにきちんと話せるだろうかと覚悟を

  • 一心不乱

    高校受験を数か月後に控えた冬だった。学校が終わると一分一秒を惜しむように一目散に帰って学校でもらった問題集や塾の問題集、自分で買った問題集などをひたすら繰り返しやった。裕福ではない家庭だったが適度な広さの良い部屋を使わせてもらえていたのだと

  • すべてはそこから始まった

    人生の中で忘れられない分岐点は間違いなくあの時だった。そして人生のハイライトがあるとすればこの時をおいて他には無い。それは高校受験で合格したあの瞬間だった。人生の分岐点のようなものはいくつかあるものだと思うが、あの瞬間がなければその後の分岐

  • 哀愁漂う記憶

    記憶はこうやって色褪せていくのだろうか。1990年5月、そこはとても発展した近代都市だった。そこに自分が存在できているというだけで心がときめくような明るさがみなぎっていた。そして、2020年5月、写真の中にあるその景色は色褪せた懐かしい都市

  • 仙人の楽しみ

    その昔、天界に仙人がいた。その仙人はお茶を飲みながらいろいろな惑星の様子を見物するのが楽しみだった。そんなある時、仙人は乗り物惑星を見つけた。 その惑星には、2つの車輪を付けた乗り物が生活していた。綺麗な色の乗り物、かわいい乗り物

  • 保育園

    保育園に入園した初日は、私の人生で忘れることのできない日だ。 最初の日は、一日中保育園の先生にしがみ付いて泣き続けていた。とにかく悲しかった。きっといつも側にいたはずの母がいなくなった衝撃が大きかったのだと思うが、そのような記憶は

  • 出来物

    小学生になる前くらいまでは体中によく出来物ができた。 おしり、おなかや太ももの辺りは特によくできた。大きさは五ミリくらいのものが多く、その膨らみには黄色い膿が溜まっていた。また、直径三センチくらいに大きく腫れてそこに黒ずんだ血が溜

  • 家のある場所はその辺りの地域では高台になっていた。奥まった狭い道路から少し入った袋小路になっている所に家があった。家の概観は昔ながらの普通の一軒屋で、外壁がトタンで色は薄い茶色だった。玄関の前に小さな門があり、門から玄関までは四、五メートル

  • 熊の胆

    まだ保育園に行く年齢になる前だった。 夕食を終えた後、居間で何かに夢中になって遊んでいた時、おなかが痛くなってきた。みぞおちの辺りの奥の方に重たくて鈍い痛みを感じていた。母に言うと、母は熊の胆という薬を飲ませてくれた。その当時は富

  • 一番遠い記憶

    不快な感覚を感じて目を覚ました時は布団にいた。それは3歳くらいで保育園に行く前だった。 おもらしをして泣いていたことを覚えている。そこにとなりのおばちゃんが来たのか居たのか定かではないが世話をしてくてれていた。母はその場にはいなか

  • np

    薬を量を減らしてから眩暈の回数が減り楽になった。今日はまだ眩暈が一回もない。薬を飲んだ後は食欲が少しなくなる感じがする。

  • そして今、私は生きている

    随分長い時間が過ぎた。あまりにも多くのことがあり、多くの医療を拒否した。自分が選択した結果今がある。

  • Unwelcome letter

    自宅で静養して日々目に見えて回復していた。普通に歩けるようにもなってきたし、傷口の痛みも少しずつであるが緩和していた。そんなある日、執刀医からレターが届いた。そのレターは執刀医から先天性や特殊な心臓疾患を専門に扱っているドクターへのレターだ

  • 味覚が変わった

    手術後しばらくして食べ物の好みが変化していることに気が付いた。以前は比較的甘いものが好きだったのに手術後は好んで食べたいとは思わなくなった。パンもかなり好きだったのにとにかくご飯が食べたくなった。食後はチョコレートやお菓子などを良く食べてい

  • 退院、そして家

    ついに退院の日が来た。まだ普通に歩くにはほど遠いレベルだが随分回復した。手術後8日での退院となった。その日から病院で行っていた投薬を自宅で行い静養することになった。まだ抜糸をした後の傷があるのでシャワーを浴びれるのは次の日からだった。家の階

  • 抜糸の日

    その後順調に回復し退院日が決まり抜糸をすることになった。開胸した傷は首の下あたりから縦に20cmくらいだった。看護師がガチガチに張ってあったガムテープのようなものを剥がし、太い釣り糸のようなステッチをパチン、パチンと切る音をたてながら少しず

  • あたりまえだったことがあたりまえではなくなった

    病気になる前は当たり前だったことがすごいことだと分かった。点滴針があるので腕を自由に曲げられない。寝返りが打てない。トイレに行くことすることがものすごく大変。シャワーを浴びれない。自分で服を着ることができない。体重が激減した。病気になる前と

  • Warfarinに敏感な体

    病室に移って4日目くらいから食欲が出てきた。夜中におなかがすいて朝食が待ち遠しかった。しかし、朝食が運ばれる直前くらいから急に冷や汗が出してきて頭がくらくらしてきた。気分が悪くすぐにベルを押した。看護師はすぐに鼻に酸素のチューブを付けて血圧

  • 食べ物だけはどうにもならない

    その後、「タカヤス」という言葉について触れられることはなかった。私も全く忘れて日々病室で回復につとめていた。病室に移って2日たつが食欲は全くなかった。食べれなくても毎回食事は運ばれてきた。もちろんおかゆなど無いし、消化に良さそうな和食などあ

  • タ・カ・ヤ・ス... イシュ−?

    次の日の夕方に執刀医が病室にきた。一通りの診察を終えて話をした。手術は実に上手くいった、本当によかった、と言われた。私は大動脈について質問をした。執刀医は、その後、詳しく調べてた結果 "タカ・ヤス イシュー " だ、と言

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