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2015/08/02

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  • ラテン語諺人生観その6

    ラテン語諺人生観その6 Qui dedit beneficium taceat, narret qui accepit.(クィー・デディト・ベネフィキウム・タケアト・ナッレト・クィー・アッケーピト)と読む。 恩恵を与えた者は黙るのがよい。受けた者は語るのがよい。セネカ『恩恵について』から。 私達人間は非常に愚かなので、しばしばこの逆をやらかして人間関係をこじらせる。つまり、恩恵を受けたのに、「ありがとう」のひと言を全く言わなかったり、「俺はあいつにこんなことをしてやった」とばかりに吹聴したりてし、人間関係をダメにするのだ。 「ああしてやった こうしてやったで 地獄行き」という言葉が仏教にはある。恩恵を与えた場合は、黙して語らないことが大切だ。恩恵を受けた場合は、「大いに人に語って、恩恵を与えてくれた人の人徳を褒めれば良い。それが、良好な人間関係を築く。 人..

  • ラテン語諺人生観その5

    ラテン語諺人生観その5 Docendo discimus. (ドケンドー・ディスキムス)と読む。 意味は、「私たちは教えることによって学ぶ」である。 私は退職後今までの人生の恩返しだと思って、日本語教師のボランティア活動を始めた。教える立場になると、普段使い慣れている日本語の奥の深さが理解できる。つまり、「私たちは教えることによって学ぶ」とは事実であることが体感できる。「ら抜き」言葉、「を入れ」言葉、「さ入れ」言葉等々のおかしさが分かる。 もっとも、自分が分かったことを外国人にうまく伝えることはほぼ不可能に近い。何故なら、学習者の日本語レベルが非常に高くなければ、そういうことは話しても無駄であるからだ。

  • ラテン語諺人生観その4

    ラテン語諺人生観その4 Carpe diem(カルペ・ディエム)と読む。 意味は「その日を摘め」である。 紀元前1世紀の古代ローマの詩人ホラティウスの詩に登場する語句である。「一日の花を摘め」、「一日を摘め」などとも訳される。また英語では「seize the day」(その日をつかめ/この日をつかめ)とも訳される。ホラティウスは「今日という日の花を摘め」というこの部分で、「今この瞬間を楽しめ」「今という時を大切に使え」と言おうとしている。 「明日は明日の風が吹く」のである。くよくよと遠い明日のことを考えずに、「今とここ」を大切にして生きるのが、人間が取るべき態度である。

  • ラテン語諺人生観その3

    ラテン語諺人生観その3 Dum spiro, spero. 「ドゥム・スピーロー・スペーロー」と読む。 これはキケロの言葉だという人もいるが、出典はよく分からないらしい。なお、この言葉は米国のサウス・カロライナ州のモットーだそうだ。 dumは「~の間」という意味である。spiroは「息をする」しいうを意味である。spero は「希望を持つ」という意味である。実際にこの言葉を口にだし言うと、sとp の連続音の響きが美しい。たった三語で素晴らしく美しい響きと共に、力強い「生きる」宣言ができるのである。 この言葉の意味は、「私は息をする間、希望を持つ」となる。つまり、「生きる限り、希望をもつことができる。」(死んだら希望などもてない)という意味になる。 日本語でこれに近いのは「死んで花実が咲くものか」であろうか。それとも「明日は明日の風が吹く」だろうか。あるいは、「何をくよく..

  • ラテン語諺人生観その1

    ラテン語諺人生観 その1 Date et dabitur vobis. 「ダテ・エト・ダビトゥル・ウォービース」と読む。 『新約聖書』ルカの福音書6章の言葉「与えよ、さらば与えられん」 という意味である。 この言葉は、しかし、先に何かを相手に与えれば見返りが後から回り回って帰ってくる、というような物的な報酬の関係を表すのではない。無償・無条件の奉仕によって、自己の内面や他者を通じて神の祝福が与えられるという、精神的な報酬の関係として捉えられるべきである。 自分にとって価値のあるものを相手に与えることは、なかなか難しいものだ。自分にとって不要になったものを与えるのは、「捨てる」という行為と何ら変わりない。しかも、感謝して貰いたいとか、見返りをきたいしたりしては意味がない。無償かつ無条件の施しが出来なければ、神の祝福はないというのだ。 これは、伝教大師最澄の..

  • ラテン語諺人生観その2

    ラテン語諺人生観その2 Cognosce te ipsum. 「コグノスケ・テー・イプスム」と読む。 cognosce は、「知る」という意味の第三変化動詞の命令法で、「知れ」をを意味する。te は、「人称代名詞」tu の対格で、「あなたを」である。ipsum は、te を強調する「強意代名詞」であり、「自身を」ということだ。つまり、「汝自らを知れ」という意味である。この言葉はデルポイの神殿に刻まれたギリシア語(グノーティ・セアウトン)のラテン語訳である。 さて、この元々「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)という言葉は、ギリシアの七賢人の言葉であったものが後にデルフォイ神殿に刻まれた格言とも密接に関係する内容です。「グノーティ・セアウトン」という言葉は、「度を越すなかれ」という意味で使われ、現在のギリシアでは、酒場の店の入り口付近に張ってあるそうだ。正体を失うまで飲むな..

  • 始祖鳥は飛べなかった

    始祖鳥は飛べなかった 鳥類の祖先といわれる始祖鳥は羽ばたいて飛べなかったらしい。始祖鳥の推定体重と、化石に残された羽根の軸の太さなどから、始祖鳥の翼では体重を支えきれず、木の枝から地面へ滑空するしかできなかったというのが結論である。 始祖鳥や始祖鳥の次に原始的な鳥の孔子鳥と現在の鳥類と比較すると、羽根の長さは変わらない。しかし、始祖鳥や孔子鳥は、長さに対する羽根の軸が非常に細かったという。 現在の鳥類は体重の6-13倍に耐え、羽ばたく激しい動きに対応できる強度があったが、始祖鳥(推定体重276グラム)は体重の0.55倍、孔子鳥(同500グラム)は0.39倍しか支えられないことが分かった。 つまり、原始的な鳥は現在の鳥類に比べて、設計不良だったのである。もっとも、進化の過程ではそれも仕方がないことだろう。 より遠くより高く飛ぶには、体重の何倍もの重量を支えるだけ..

  • 詩 『「~」のない人生』

    詩 『「~」のない人生』 「~」のない人生 僕の人生には何があったのかとつくづく考えた 子供のころはお菓子と母ちゃん そして近所の遊び友達 中学生になると可愛い女子生徒の面影と部活の友達 そしてアイドルやお気に入りの歌手 高校生になってもそれは変わらなかった 大学生になると本とアルバイトがあった やがて社会人になると 仕事を覚えるのが精一杯で あれもこれも欲しいものばかりだった 他人よりも高い給与 組織の中でのより高い地位 多くの人からの称賛 部屋がいくつもある豪邸 美しくだけでなく聡明な恋人 心地よく酔わせてくれる酒 両親が喜んでくれるような社会的成功 全てはなかなか手に入らないままに時間は流れた そして 気が付くと僕は あまり美しくも聡明でもない妻と たいして賢くなく平凡な子供たちに囲まれて 父親と呼ばれる存在になった 僕が..

  • 人生の重力

    人生の重力 ヒッグス粒子というものが発見されたという。宇宙の生成に際して水飴状のものが物質に降りかかり、それによって物質が質量を持つようになったという話だが、私には難しすぎてよく理解できない。ともかく、物質に重力を与えたのが、このヒッグス粒子らしい。 地球に重力があることは小学生でも知っている。重力があるからこそ、地球が自転していようとも我々は地球から放り出されずに、この地上で生きていけることは言うまでもない。 地上の重力と同じように、人はだれも何らかの重力に引っ張られているからこそ生きていけるのだと思う。もちろん、幼い頃はその重力の持つ意味などに気付くはずもない。だが、思春期になると様々な重力に引っ張られていることに気がつき始める。その重力を桎梏と感じ始めたら、思春期の子どもたちは暴走するしかない。だからこそ、大人は子どもたちに教えなければならないのだ。人生の重力とは桎梏..

  • しんみりと

    しんみりと 「もし今日、トリエステに着いて、もう一度サバに会えるとしたら、そして、なにげなく選んだ道をサバとともに散歩できたなら……」1958年、すなわちサバがなくなった翌年に、評論家のジャコモ・デベネッデッティは書いている。 須賀敦子全集第五巻 ウンベルト・サバの冒頭部分より。 トリエステというのは、イタリアの最も東側にある港町で、スロベニアはすぐそこというくらいに近い。オーストリアのハプスブルグ家の影響を強く受けた街である。第二次大戦後はイタリアとユーゴスラビアの間で、その帰属を巡る争いがあったらしい。そこにこの須賀敦子さんも住んでいる。 私はそこに行ったことがないが、陽光溢れる港町として描かれていることが多い。 さて、歴史にはIfは禁物であるが、その禁物を無視して、ジャコモ・デベネッデッティのような空想を巡らすとすれば、あなたは誰を訪ね、その人と何を語り..

  • 伝説

    伝説 スペインのバレンシア郊外のアルブフエラ湖を訪問したときに、ふと会田綱雄という詩人の「伝説」という詩を思い出したことに触れた。今日はその詩を紹介したい。 伝説 会田綱雄 詩集 『鹹湖』(かんこ)より 湖から 蟹が這いあがってくると わたくしたちはそれを縄にくくりつけ 山をこえて 市場の 石ころだらけの道に立つ 蟹を食うひともあるのだ 縄につるされ 毛の生えた十本の脚で 空を掻きむしりながら 蟹は銭になり わたくしたちはひとにぎりの米と塩を買い 山をこえて 湖のほとりにかえる ここは 草も枯れ 風はつめたく わたくしたちの小屋は灯をともさぬ くらやみのなかでわたくしたちは わたくしたちのちちははの思い出を くりかえし くりかえし わたくしたちのこどもにつたえる わたくしたちのちちははも わたくしたちのよう..

  • 親子について

    親子について 中国の有名な詩人の白居易は四十歳の時に、長女の金鑾子をわずか三歳で亡くしてしまう。 「念金鑾子」白居易から一部抜粋 與爾為父子 お前と父子になってから 八十有六旬 八百六十日たった。 忽然又不見 お前は忽然と私の目の前から消えた。 邇来三四春 あれから、もう三、四年の春が過ぎた。 形質本非質 人間の肉体は元々実態としてあるのではない。 気聚偶成身 天地間の気が集まって肉体となる。 恩愛元是妄 親子の恩愛は仮初めの現象だ。 縁合暫為親 縁があって肉親になるのだ。 念茲庶有悟 こんな道理で悟った気がする。 聊茲遺悲辛 こう考えて悲しさや辛さを払いのけている。 慚将理自奪 けれどもはずかしい。 不是忘情人 こんな理屈で自分の本当の気持ちを隠していることが。 訳は『中国名詩集..

  • 代悲白頭翁 劉希夷

    代悲白頭翁 劉希夷 洛陽城東桃李花 飛來飛去落誰家 洛陽女兒惜顏色 行逢落花長歎息 今年花落顏色改 明年花開復誰在 已見松柏摧爲薪 更聞桑田變成海 古人無復洛城東 今人還對落花風 年年歳歳花相似 歳歳年年人不同 寄言全盛紅顏子 應憐半死白頭翁 此翁白頭眞可憐 伊昔紅顏美少年 白頭を悲しむ翁に代る 劉希夷 洛陽城東 桃李の花 飛び来たり飛び去たって誰が家にか落つ 洛陽の女兒顏色を惜しみ 行くゆく落花に逢いて長歎息す 今年花落ちて顏色改まり 明年花開いて復た誰か在る 已に見る松柏の摧かれて薪と爲るを 更に聞く桑田の変じて海と成るを 古人また洛城の東に無く 今人還た対す落花の風 年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず 言を寄す全盛の紅顔子 応に憐れむべ..

  • 今日という日は、残りの人生の最初の一日。

    今日という日は、残りの人生の最初の一日。 ”Today is the first day of the rest of your life.” この言葉は、チャールズ・ディードリッヒという人の言葉だそうだ。この人は、薬物中毒患者救済機関の施設“シナノン”の設立者であるという。 そして、この言葉は映画「アメリカン・ビューティー」のセリフにも引用され、1960年代のアメリカで流行したという。 私は、チャールズ・ディードリッヒについても、「アメリカン・ビューティー」という映画についても何も知らないし、関心もない。しかし、実に良い言葉だと思う。 しかし、少し考えれば、この言葉は至極当然のことだと分かる。昨日を過ごせば今日があり、今日を過ごせば明日があるのだから、明日は残りの人生の最初の一日である。 だが、昨日の続きの今日というが、当たり前のように続くのだと..

  • 思春期と老人

    思春期と老人 思春期には あこがれの女学生を 街で見かけると 胸がどきどきした あれから半世紀 すっかり老いてしまった私は 少し早めに歩くだけで 胸がどきどきする 思春期には 憧れの女学生のことを考えると 思いが強すぎて 頭がぼーっとした あれから半世紀 すっかり老いてしまった私は 少し時間が経つと なぜかしら 頭がぼーっとする 思春期には 美しい映画女優を 見るたびに感激して 涙が頬を伝った あれから半世紀 すっかり老いてしまった私は 嬉しいにつけ 哀しいにつけ 涙が頬を伝う

  • 愛おしい日本語の言の葉その1

    愛おしい日本語の言の葉その1 これから、日本語について感じたまま、あるいは思いつくままに日記を書いてみたい。途切れ途切れのシリーズになるだろうけれど、それは私の心の赴くままにまかせたい。また、無理矢理シリーズ仕立てにする必要などもない。 第一回目は、動物にとって最も大切な行為である「食う」ことについて。 「食う」という言葉は近年あまり使われなくなった。「食べる」という言葉のほうが現在では幅を利かせているし、いずれかなりの部分が「食べる」に取って代わられるのもそう遠い日ではないだろう。 なぜかというと、「食う」という言葉は、野卑で粗暴な感じを与えるからだろうと思う。私が愛用している明鏡国語辞典では、「食べる」というのは「食う」の丁寧語だそうだ。 江戸時代の前半頃までは、食物を摂取するのを「食う=食ふ」あるいは「食らう=食らふ」という言葉で表現していたという。「食ふ」..

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