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2015/08/02

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  • 『菜根譚』前集第五十六項から

    『菜根譚』前集第五十六項から 奢者富而不足。 何如倹者貧而有余。 能者労而府怨。 何如拙者逸而全真。 奢(おご)る者は富みて而(しか)も足らず。 何ぞ倹(つつましやか)なる者の貧(まず)しきに而(しか)も余りあるを如(し)かん。 能ある者は、労して而(しか)も怨(うら)みに府(あつ)まる。 何ぞ拙(つたな)き者の逸(いつ)にして而(しか)も真を全(まっと)うするに如(しか)ん。 贅沢な者は、いくら豊かでも満足しないが、いくら貧乏でも余裕のある倹約家はいる。 また才能のある者は、いくら努力しても恨みをかい、いくら粗忽でも本質に生きる者はいる。 つまり、足るを知って気楽に生きるのが最も幸せだということ。 言い換えれば、人生は正に在るべき様は、である。忙しい時は忙しい様に、余裕がある時はゆったりと過ごしているのだ。

  • 『菜根譚』前集第五十三項から

    『菜根譚』前集第五十三項から 施恩者、内不見己、外不見人、即斗粟可当万鐘之恵。 利物者、計己之施、責人之報、雖百鎰難成一文之功。 恩を施す者は、内に己を見ず、外に人を見ざれば、即(たと)え斗粟(とぞく)も万鐘(ばんしょう)の恵みに当たるべし。 物を利する者は、己の施しを計り、人の報(むく)いを責(もと)むれば、百鎰(ひゃくいつ)と雖(いえど)も一文の功を成し難(がた)し。 他人に恩恵を施す者が、それを特別に良いことだと考えなければ、米一升であっても価値がある行為だが、施す気持ちに下心があれば、例えそれが大金であっても1円の価値もない。 つまり、善意は無心で行ってこそ価値があり、下心があれば無意味なのだ。 匿名で寄付をする人は有名になりたいとか、褒めて貰いたいなどという下心はないからこそ、その行為が出来る。

  • 『菜根譚』前集第五十項から

    『菜根譚』前集第五十項から 福莫福於少事、過莫過於多心。 唯苦事者、方知少事之為福、 唯平心者、始知多心之為過。 福(さいわい)は事少なきより福(ふく)なるはなく、禍(わざわい)は心多きより禍(か)なるはなし。 唯(た)だ事に苦しむ者は、方(はじ)めて事少なきの福たるを知る。 唯(た)だ心を平かにする者は、始めて心多きの禍(わざわい)たるを知る。 最も幸せなことは、事件が少ないということで、不幸なことは、心ここに在らずという状態のことだ。 日頃ゴタゴタ苦しんでいる者は、事件が少ないことこそ幸福だと知っている。 そして、心が穏やかな者は、心ここに在らずの状態が不幸だということを知っている。 つまり、平凡が一番ということを知っている人間こそが幸せなのだ。 イタリア語にはこんな諺がある。 L’uomo saggio non..

  • 「菜根譚』前集第四十六項から

    菜根譚』前集第四十六項から 人人有個大慈悲、維摩屠劊無二心也。 処処有種真趣味、金屋茅簷非両地也。 只是欲蔽情封、当面錯過、使咫尺千里矣。 人々、個の大慈悲あり、維摩(ゆいま)・屠劊(とかい)の二心(ふたごころ)無きなり。 処々、種の真趣味あり。金屋(かなや)・茅簷(ぼうえん)も両地にあらざるなり。 只だ是(こ)れ欲蔽(よくおお)く情を封(ふう)じ、当面に錯過(さっか)せば、咫尺(しせき)を使(し)て千里(せんり)ならしむ。 誰にでも慈悲深い仏心があり、維摩居士もと屠殺人や死刑執行人も違いはない。また、立派な館でだろうと、粗末なあばら屋であろうと、そこなりに趣がある。 だから、誰であれ、欲に溺れず、人情に流されないようにしなければ、ほんの小さなズレが、時間とともに、大きな違いになる。 つまり、それが誰でどんな事をどこでしているかでは、善悪は決..

  • {菜根譚』前集第三十八項から

    菜根譚』前集第三十八項から 降魔者、先降自心。心伏則群魔退聴。 馭横者、先馭此気。気平則外横不侵。 魔(ま)を降(くだ)すには、先(ま)ず自(みずから)の心を降(くだ)す。心伏(しんふく)すれば、則(すな)ち群魔(ぐんま)退(しりぞ)き聴(したが)う。 横(ほしいまま)なるを馭(ぎょ)するには、先ず此(こ)の気を馭(ぎょ)す。気平(きたいら)かなれば、則(すなわ)ち外横(がいこう)も侵(おか)さず。 魔性のものを降伏させようとするなら、まず自分の心にある魔性を降伏させなければならない。煩悩や妄想を滅することができれば、外的な魔性は引き下がり逆らうことはなくなる。 また、横暴なものを制御しようとするなら、まず自分の心にある横暴な気を制御するしなければならない。勝気や客気を平静にすれば、外的な横暴は自分に進入することはない。 つまり、怖いからとい..

  • 『菜根譚』前集第三十四項から

    『菜根譚』前集第三十四項から 利欲未尽害心、意見乃害心之蟊賊。 声色未必障道、聡明乃障道之藩屏。 利欲は未(いま)だ尽(ことごと)くは心を害せず、意見は乃(すなわ)ち心を害するの蟊賊(ぼうぞく)なり。 声色(せいしょく)は未(いま)だ必ずしも道を障(ささ)ず、聡明は乃(すなわ)ち道を障(ささえ)うるの藩屏(はんぺい)なり。 利益を求める気持ちは必ずしも善なる心を損なうわけではないが、思い込みが善を蝕む害虫のようなものである。 名声や色情は必ずしも修行の道のさまたげになるわけではないが、謙虚に欠けることが、修行の道の妨げとなる障害物のようなものである。 つまり、人の心根は大志を抱いて、拘らず、囚われず、謙虚に真面目に誠実にということである。

  • 『菜根譚』前集第三十二項から

    『菜根譚』前集第三十二項から 居卑而後知登高之為危。 処晦而後知向明之太露。 守静而後知好動之過労。 養黙而後知多言之為躁。 卑(ひく)きに居(お)りて而後(しかるのち)高きに登るの危きを知る。 晦(くら)きに処(お)りて而後(しかるのち)明るきに向うの太(はなは)だ露(あらわ)るるを知る。 静(せい)を守りて而後(しかるのち)動を好むの労(ろう)に過ぐるを知る。 黙(もく)を養いて而後(しかるのち)言の多きの躁(そう)たるを知る。 低いところに居るからこそ、高いところに上るのだろうが、危険をわきまえておくこと。 暗いところに居るからこそ、明るいところに出るだろうが、でしゃばりをわきまえておくこと。 静けさを守っていたからこそ、動きたくなるだろうが、働き過ぎをわきまえておくこと。 言葉少ないを守っていたからこそ、多弁の騒がしさをわ..

  • 『菜根譚』前集第六項から

    『菜根譚』前集第六項から 『菜根譚』は明の時代の支那人、洪自誠が著した書物であり、私にとっては『徒然草』と並んで老後に読むべき書物の第一であろうと思われる。 疾風怒雨、禽鳥戚戚。霽日光風、草木欣欣。 可見天地不可一日無和気、人心不可一日無喜神。 疾風怒雨には、禽鳥(きんちょう)も戚々たり。霽日(せいじつ)光風には、草木も欣々(きんきん)たり。 見るべし、天地に一日も和気なかるべからず、人心に一日も喜神なかるべからず。 嵐の日は鳥までも寂しく悲しげで、晴れた穏やかな日は草や木も楽しげです。 自然にはたとえ一日でも穏やかで和らぐ日がなければならないし、人の心もたとえ一日でも天真爛漫に喜ぶ気持ちがなければならないのです。 さて、「和顔愛語」とは『大無量寿経』にある言葉だそうだ。穏やかな笑顔と思いやりのある話し方で人に接することを意味するそうである。 穏..

  • 喜食満麺その9

    喜食満麺その9 シリーズの最後は鍋の話にしたい。我が家では、冬の間は夕食はたいていお鍋だった。それは、今後もずっと変わらないだろう。 鍋料理は味付けも具材も変化させ続けられるので飽きが来ないのだ。ちゃんこ鍋、水炊き風、もつ鍋、海鮮鍋、トマト鍋、キムチ鍋、水餃子鍋という風に変化させれば手軽にできる。なによりも、材料を刻むだけですむ。 そして、最後のお楽しみは、締めである。たとえば、トマト鍋の時にはご飯を入れてチーズを足せば即席のリゾットになる。水餃子の締めは中華麺を入れる。 私の一番のお気に入りは、和風の海鮮鍋の後のおじやだ。海鮮から出た美味で滋養に富んだダシをご飯が全部吸い取っていて、大変美味しく食べられる。 残りのあまり長くない人生を過ごすには、この海鮮鍋のように、美味しくて滋養に富んだダシを与えてくれる人達とお付き合いしたいものだ。義理のお付き合いは最低限に絞..

  • 喜食満麺その8

    喜食満麺その8 昨日の日記はイタリアの諺を基にして文化の違いや価値観のことについて考えた。今日は日本国内での違いについ考えてみたい。 ごく大雑把な話をすると、東と西の食文化の違いは、糸魚川―静岡構造線(フォッサマグナの西辺)あたりに顕れる。 天麩羅(九州では薩摩揚げのことも天麩羅というが、ここでは薩摩揚げは含まない本来の天麩羅のみ)にソースをかけ る文化というのがある。この食べ方は、和歌山では主流はだそうだ。関東ではどういうわけか、埼玉が天麩羅補ソースで食べる割合が比較的多いそうだ。 また、関東以北では「お汁粉」と呼ぶものを「ぜんざい」と呼ぶのは静岡以西である。 さらに、肉と言えば関東では豚肉をまず連想するのに対して、関西では牛肉を連想するという。中華まん(肉まん)のことを「豚まん」と呼ぶのは関西以西であろう。関東では「肉まん」と呼ぶ。つまくり、関東では肉=豚とい..

  • 喜食満麺その7

    喜食満麺その7 中国、韓国および東南アジア諸国でもお米は非常に重要な地位を占める食料である。日本のお米は粘り気があって、それがお米を止められない魔力のひとつだ。 欧州ではお米は野菜として食べるが、イタリアやスペインなどではリゾットやパエリアなどの形でよく食べられていることは周知の事実である。 つまり、洋の東西を問わず美味しいものは美味しいのだし、自分たちが美味しいと思う素材を、自分たちの調理法に併せて調理するという、ごく単純な事実だけがある。 片方はオリーブ・オイルやチーズと併せて煮たり、焼いたりする。もう片方は、何も加えずに蒸す。場合によっては様々な具材と一緒に煮る。そうすることで、自分たちの舌になじんだ食べ物ができる。 さて、イタリアにはこんな諺がある。 「米は水の中に生まれ、ワインの中に死ぬ」 II riso nasce nell’acqua e mu..

  • 喜食満麺その6

    喜食満麺その6 子どもの頃は食べ物の好き嫌いが激しくて、ほとんどの野菜が嫌いだった。気に入ったおかずがない時は、ふりかけだけをご飯にかけて食べる時もあったぐらいの偏食児童だった。今では何でも食べる爺さんになった。特に夏野菜は大好きだ。 レストランなど家の外で食事をする時、一緒にご飯を食べたくない人がいる。 それは、食べ物を食べるときに、くちゃくちゃいわせる人だ。それから、やたらとげっぷをする人。さらに、汁物を食べるときに、ずるずると大きな音を立てる人。(ただし、ラーメンや蕎麦などのようにすすり込む食べ物は別) 自宅の家の中ならともかく、大勢の人がいるところでは少しは慎んだ態度を取らなければいけない。これは、価値観の問題ではなく、周囲の人を少しでも不愉快にしないエチケットの問題だからだ。しかし、家の中では個人の価値観に従って、好きにすればよい。寛いでご飯を食べられるのは..

  • 喜食満麺その5

    喜食満麺その5 水はすべての生き物にとって最も大切な要素であることは言うを待たない。 そして、水は温度条件により、液体、固体、気体と三つの相を取る不思議な物体だ。 ヒトの場合、赤ちゃんが生まれてくる時は80%程度の水分であるが、死んで行く時は50%程度の水分保有率だそうだ。つまり、ヒトは、絹ごし豆腐として生まれ、高野豆腐になって死んで行くのだ。 そんなにも大切な水だが、私達は水資源を大切にしていない。日本の水道は、蛇口からそのまま水を飲んでも問題がないほど整備されている。他の国で蛇口からそらまま水を飲むことは考えられない。雑菌や微生物の処理が行き届かないし、水の硬度が高過ぎて飲用に適さないという問題があるのだ。 上善如水というお酒がある。限りなく水に近いと行ってもいいようなきれいですっきりした味わいのある、新潟の銘酒だ。 この言葉は老子の言葉が元になっている。..

  • 喜食満麺その5

    喜食満麺その5 水はすべての生き物にとって最も大切な要素であることは言うを待たない。 そして、水は温度条件により、液体、固体、気体と三つの相を取る不思議な物体だ。 ヒトの場合、赤ちゃんが生まれてくる時は80%程度の水分であるが、死んで行く時は50%程度の水分保有率だそうだ。つまり、ヒトは、絹ごし豆腐として生まれ、高野豆腐になって死んで行くのだ。 そんなにも大切な水だが、私達は水資源を大切にしていない。日本の水道は、蛇口からそのまま水を飲んでも問題がないほど整備されている。他の国で蛇口からそらまま水を飲むことは考えられない。雑菌や微生物の処理が行き届かないし、水の硬度が高過ぎて飲用に適さないという問題があるのだ。 上善如水というお酒がある。限りなく水に近いと行ってもいいようなきれいですっきりした味わいのある、新潟の銘酒だ。 この言葉は老子の言葉が元になっている。..

  • 喜食満麺その4

    喜食満麺その4 麺類は人類を救う。私は、麺食い人間としてそのように信じている。麺類の特質は次のとおりだ。 まず、麺類は様々な麺がある。うどん、ラーメン、チャンポン-、蕎麦、パスタ、韓国の冷麺、中央アジアのラグマン、ベトナムのフォーなどなど。あ、ラグマンというのはうどんのようなもので、トマトベースのスープに羊肉が入ってるらしい。 次に様々な形状、直径、の組み合わせによって、固くて細い麺とか太くて柔らかい麺などいろいろな麺ができるので、食感の違いが楽しめる。それから、麺類には様々な具材を合わせることができる。そして、それぞれの麺にあったスープ、つけ汁、出汁のバリエーションがある。 また、ラーメンに代表されるように、それ一食でフルコースになりうる。スープ、前 菜、メイン、そしてお腹を満たす澱粉質。 麺は長寿の象徴でもある。しかし、私は長く生きたいとは思わない。長生きするよりも..

  • 喜食満麺その3

    喜食満麺その3 過ぎたるは猶お及ばざるがごとしとは孔子の言葉であることぐらいたいていの人は知っている。 そして、たいていの人はそのような経験もしている。そういう意味では実に普遍的な事実であるが、この程度のことは別に孔子でなくとも言える。 孔子が偉いのは、この普遍的事実を言語化したからではなく、教育の実践に活かしたからだと思っている。 私にも苦い経験があるから、孔子の言葉の妥当性に頷いて、この言葉から日記を書き始めたのだ。 私の生まれた町は、木工産業が盛んな町で、たぶんいまでもそうだと思うのだが、毎年「木工祭り」というのが開催されていた。 このお祭りにはいろんなバザーがあって、町の婦人会のみなさんが提供してくださるいろいろな食べ物が、とても美味しかったのを覚えている。 その中でも私のお気に入りは「ぜんざい」だった。「しるこ」と「ぜんざい」の違いは未だによ..

  • 喜食満麺その2

    喜食満麺その2 日常の中にささやかな喜びを見つけることができるというのは、年齢を重ねた者の特権である。若い間は、そんなことは目に入らないし、もっともっとと求めるものがあるからだ。 子どもの頃は、日本全体が貧しかった。食べ物のことで文句をいうなどはありえず、食べられればとりあえずそれでよい、という時代だった。私自身は好き嫌いがとても多かったので、貧しい時代には生きてゆくのが難しい子どもだった。 しかし、卵と海苔のおかげでちゃんと生き延びていくことができた。海苔は味付け海苔も焼き海苔も好きだったし、今でもそれは変わらない。 今の時代はなんでも食べられるが、そういう豊かな時代と、選択肢がなく、たまに口にできるものが大変なご馳走に思えた時代と比較して、どちらが幸せを感じることができるかと言う問題は、意外に難しいのだ。 食欲がない時は、子どもの頃に好きだったものを食べるのが、..

  • 喜食満麺その1

    喜食満麺その1 「喜食満麺」とは、もちろん「喜色満面」をもじったものだ。この世は苦に満ちているが、ささやかな喜びはたくさんある。その中でも食べることに関する喜びや哀しみはどなたにもあることだろう。 なぜ「満麺」なのかというと、私が麺食いだからだ。私が生まれたのは福岡県の筑後川の河口に位置する町である。木工産業が盛んな町で、町中は木工関係の職人が多かった。そのせいか、町の食堂では味付けは塩気が濃いものだったように思う。 中学生の頃の大好物はラーメンだった。現在のいわゆる博多ラーメンよりも、もっと久留米ラーメンに近いものではなかったかと思う。ラーメンにいろいろな具を乗せずに、ほとんどスープと麺のみの「素ラーメン」というのが50円で食べられた。この素ラーメンを食べながら、思春期の話をいろいろとしたものだ。 豚骨のこってりしたスープと長くて細いストレートな麺だったので、年寄りにな..

  • 動詞による人生論 その10 祈る

    動詞による人生論 その10 祈る 祈るという行為は、人間にしか出来ない。動物が他の動物のために祈るなどということはしない。親猫が子猫を可愛がったり、生存の為に必要なことの数々を教えたりすることはあるけれど、祈ることはしない。 それは、神仏のことを動物が知らないからなのではなく、かれらには神仏など不要だからだ。私には神仏の存在が必要だから、神仏を信じている。他の人もほぼ同じだろう。 霊魂などと言うのも同じ事で、私にはその存在が必要だから、霊魂は存在すると信じたい。もちろん、神仏も霊魂もこの目で見たことはないが、伊勢神宮に参詣したときに感じる、あの清々しい、神々しい気分は神様以外の何物でもない。 私は、神社や寺に参詣しても、個人的なことを祈らない。それでは、なんのために参詣するのかというと、あくまでも神仏に「感謝」の意を捧げるために参詣するのだ。もちろん、今後もそのように..

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