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コタラの社長日記 https://blog.goo.ne.jp/kothala

スリランカ産ハーブ「コタラヒムブツ」(学術名サラシア・レティキュラータ)を紹介され、世界初のサプリメ

コタラの社長日記
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2015/06/17

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  • 手術の経験

    静岡県立がんセンター膵臓ガンに関わり、手術の経験を積みたい気持ちは分かりますが、こちらは命、人生が掛かっています。少しでも多くの経験を積んだ、先生に関わって欲しいのです。手術をする人に命を預けるのですから、少しでも多くの手術を経験した先生に関わって頂き、気持ちを楽にしたいと思う気持ちを理解して下さい。入院中、もうしないと云っていた検査が又始まりました。そして『ここでは、駄目ですか?』も始まりました。そして、難しい胃の手術をした人を隣のベッドに移し、『ここの先生達の手術は超1流だから、任せた方が良いよ』と、1日に何回も云わせていました。毎日、うるさい位云われますが、聴こえない振り作戦を通しました。手術の経験

  • 膵臓ガンで有名な先生!

    静岡県立がんセンター『先生、ガンセンターのXX先生に早く紹介状を書いて下さい』『えっ、XX先生をご存じですか?!』『はい、異業種交流で知り合いました』『分かりましたが、、、ここでは駄目ですか?』『はい、知り合いの先生の方が気心が知れて良いので、書いて下さい』『はい、分かりました。では、もう検査はしませんが、しばらく入院していて下さい』『何故ですか?直ぐに行きたいのですが』『ガンセンターの病室に空きがないそうです』『そう言う事ですか、分かりました』紹介状を頼みましたが、中々手元に来ません。『紹介状、出来るだけ早くお願いします』『ここでは、駄目ですか?』もう1度聞かれました。『はい、知り合いの先生の方が、気心知れて楽なんです』『はい、分かりました』『出来るだけ早くお願いします』ガンセンターのXX先生は知りませ...膵臓ガンで有名な先生!

  • 膵臓ガンだと云われた!

    市立病院に着くと、担当と思われる先生が、レントゲンやCTを空けて待っていました。検査はスムーズで、20分から30分位で終わりました。『どうも膵臓ガンの様です』『膵臓ガンですか?!』膵臓ガンと云えば、5年の生存率が5%と聴いているので、衝撃でしたが、何となく自分は大丈夫と云う変な自信がありました。膵臓ガンと云う言葉で、直ぐガンセンターの知り合いに電話をしました。『もしもし、〇〇さん、今、沼津市立病院にいて検査を受けたんだけど、膵臓ガンだと云われたの、ガンセンターで膵臓ガンに強い先生は誰か、教えて!』『膵臓ガンですか?!XX先生です。TVでしょっちゅう報道されています。日本で1番だと思います。』『XX先生ですか、ありがとうございます。XX先生に行くから、宜しくお伝え下さい。ここで紹介状を書いて貰います』膵臓ガンだと云われた!

  • 膵臓癌の兆候

    静岡県立がんセンター僕の場合は、背中が痛くなりました。古い車が好きで乗っているので、背中が痛くなるのでと思い、整体に予約をし、行く当日に考えをかえました。もしかすると、体の中からの痛みかもしれないと思い、病院に行き、血液検査をしてもらいました。その日は金曜日で、結果が出るのは早くて月曜日でした。月曜日の朝9時頃、出かけようと思った所へ電話がなりました。『もしもし、病院ですが直ぐ来て下さい』嫌なTELですが、『はい、分かりました、直ぐ行きます』嫌な感じを胸に車に乗り込み、病院に着きました。『血液検査の結果が出ました!ここでは、対処出来ないので、紹介状を書きます!』と云い、沼津市立病院への紹介状を書いてくれました。多分、何かの会合で知り合った先生への紹介状だったと思います。とっさの事で、ガンセンターの名前が出...膵臓癌の兆候

  • 早いもので7年前です、

    静岡県立がんセンター富士山と駿河湾が見渡せる事が、建つ条件だったそうです。早いもので、今書いているのは、7年前の事です。時間が経つのは、本当に早い、膵臓ガンの人が周りに多くなりました。身近の友達やごく親しい知人の親などです。10年前の膵臓ガンの年間発生率は、2万人だったそうですが、今は、年間4万人で倍になったそうです。昔は、欧米人が多かったのですが、今は日本を含む東南アジア人が多くなったそうです。原因は、肉食が多くなったと云う事でしょうか、戦後直ぐの生まれの僕は、子供の頃、肉は食べられませんでした。住んでいた家の近くに肉屋も魚屋もありません。魚屋が自転車の後ろに氷漬けの魚を積んで売りに来るのもたまでした。冷蔵庫もありません、その日のうちに作ったモノをその日の内に消費する生活でした。オカズは、野菜の煮物ばか...早いもので7年前です、

  • クリスマス・イブの日

    クリスマス・イブの日、夜7時から8時頃でしょうか、4~5名の看護師さんと思われる方々が、サンタやトナカイの恰好をして、クリスマス・ソングを歌いに、病室を訪れてくれました。嬉しいより、病人には寂しくなります、何故かと云うと、『もう後が無いよ』と云われている様な気がするからです。出来れば、サンタの恰好が好きな、子供さんだけにして欲しいと思います。ガンセンターには、似つかわしく無い幼児もいます。病院内を歩いていると、小さい子供達を見ると、悲しくなってしまいます。出来れば、彼らの病気は全員治って欲しいと祈ります・・・静岡県立がんセンター最上階に大浴場があります。クリスマス・イブの日

  • にゃん太が見つかった頃です・・・

    胆汁が、尿に混じり、こげ茶色になりました。『このままだと、大変ですから、右の脇腹に穴を開け、胆汁を抜くようにします』『痛いですか?』『右の脇腹に5㎜位の穴を二つ開けます、そこから胆汁を外に出します。出した胆汁をビニールの袋に溜めますので、2~3時間位したら、取り出して、飲んで下さい。毎日3~4回位です。1回1ℓ位です』『飲むんですか?どんな味ですか?』『酒を飲み過ぎてゲップした時のような感じの味です。飲み難いので、冷蔵庫で冷やすと匂いが薄く感じられますので、少しは、楽だと思います』『酒を飲まないので分かりませんが、何となく感じが分かります』『胆汁を取り出さないと、体内が溶けてしまうので、飲んで下さい』『はい、分かりました』病院で、大勢の患者が、胆汁飲みをしています。飲み終わると、一か所に集められ、入れ物の...にゃん太が見つかった頃です・・・

  • ノラから家猫へ

    にゃん太は、この日から家猫になりました。のらだった猫が、突然家猫になったのですから、驚く事ばかりだったでしょう。いつでもご飯は水と一緒に置かれ、好きな時に食べられる、天国でしょう。でも、外に出歩く事は出来ません。猫を外に出してはいけないと、騒ぐようになったのは、いつ頃からでしょう、猫は、いつでも外で遊んでいるのが普通でした。知らない家に上がり込み、追いかけられるのも普通でした。たまに人の家の魚をクワエテ追い駆けられる事もあったようです。我が家では、結婚式の引き出物の「鯛」を咥えて逃げられました。晩ご飯のオカズで、テーブルに置いたのを取られ、庭で食べていました。小さい子猫2匹で、親に置いて行かれ、知らず知らず我が家に住み着いていました。40年も前の話で、冬の寒い夜、仕事を終わり、帰って来た時、『にゃ~』と云...ノラから家猫へ

  • にゃん太が見つかた!

    居なくなってから2週間位たったでしょうか、正月も近づいて、病院も正月だそうで、『1時家に帰って下さい』と云われました。夜、TVを見ていると、突然家の電話のベルが鳴り、妻が出ました。『お宅のネコを預かっています』『えっ!』『今から、お届けに参りますが、如何でしょうか?』『場所が分かりますか?』『首輪の住所で分かります』『では、お願いします』家の近くから、TELをして下さり、妻と娘が出て行きました。『お礼を持って行った方が良いよ』『大丈夫、用意してあるから』外で立ち話をし、にゃん太を連れて帰って来ました。『上品なおばさんだったわよ。コンビニの前で遊んでたり、屋根の上で寝転んでいたり、近くの家の猫だと思っていたそうよ』『ある晩、玄関が開いて、猫が入って来たから驚いたそうよ』『そして、家に上がり込んで、コタツの中...にゃん太が見つかた!

  • にゃん太も同じか?

    入院する前、あんなに可愛がっていた、『父が可愛そうだから探してあげたい』娘と妻は、にゃん太が居なくなったのは、ねこ太と同じで、出入り業者のトラックに乗り込んだと推理したようです。会社の近くから、沼津、富士宮、裾野まで探し回り、写真を持って、警察にも行ったそうですが、情報を得られなかったようです。探し始めたのは、沼津市立病院でした。12月に入り、ガンセンターに移りましたが、まだ見つかりませんでした。12月の終わり頃、『正月は人がいなくなりますので、家に帰って下さい』『えっ?!帰るのですか?』『はい、緊急の方は残りますが、それ以外の方は、家で過ごして頂きます』『は~・・・』静岡県立がんセンターにゃん太も同じか?

  • ねこ太の時と同じかな?

    以前、会社に住み込んでいた、八分けのネコ太がいました。3~4年居たと思います、突然いなくなってしまいました。頭の良い猫で、お客さんにも好かれ、会社のアイドルでした。今回のにゃん太君と同じ八分けのネコです。ねこ太は、会社から10Km位離れたスーパーの、ネズミガードをして、生計を立てていたようでした。このスーパーのおばさんと、近くに住んでいるご夫婦に可愛がられているようでした。スーパーに出入りしているご夫婦が気に入り、夜は家の中で寝ているようでした。このご夫婦からのtelで、ねこ太は見つけられました。『ねこ太、帰ろう』と言いましたら、ねこ太は、駆け寄って来ましたが、『行っちゃうのかな~』と云う声が聞こえましたので、連れて帰るのをあきらめ、飼って頂く事にしました。『良いですか?』と云われましたが、『行っちゃうの...ねこ太の時と同じかな?

  • にゃん太君が、いなくなった?

    にゃん太が、突然居なくなったと妻からtelがありました。『娘から連絡が来て、にゃん太がいなくなったそうよ』『え~、にゃん太がいなくなった?ねこ太の時と同じで、運送で来たトラックに乗って行っちゃったのかな~?』以前、会社に住み込んでいた、八分けのネコ太がいました。3~4年居たと思います、突然いなくなってしまいました。頭の良い猫で、お客さんにも好かれていました。今回のにゃん太君と同じ八分けのネコです。にゃん太君ちび茶・八丸初めての子分てお丸八分けのねこ太ねこ太ねこ太とにゃん太と見分けがつかないでしょ?怪傑ゾロマスクです!にゃん太君が、いなくなった?

  • 会社の猫と自分の病気

    4匹の猫達が毎日仲良く過ごしていた時、入院が決まりました。これから、猫達と会えず寂しくなります。入院は嫌でしたが、取り敢えず、沼津市立病院でした。ガンセンターの病室が空きませんでしたので、3週間位、この病院で過ごす事になりました。ここで手術をしないと、表明しているのにも関わらず、何とか手術をさせようと、胃の手術をした人を同室にし、この病院の手術が如何に上手か、説明させ、説得させようとしていましたが、嫌なコッターです!医者とすれば、珍しい手術や難しいと云われる手術をする事で、手に職を付けたいのでしょうが、そうはいきません!手術の実験材料、試作品には、なりたくない!そうでしょ?!これから、手術をする人は、経験豊富な病院の経験豊富なお医者さんに、手術をしてもらえるような策を施し、手術に向かって下さい!静岡県立ガ...会社の猫と自分の病気

  • にゃん太君と一緒の仲間

    にゃん太君と仲間になったのは、サバ猫の子分、黒猫のクロ太、アリ舐めの茶チビ計4匹が、毎日ぶらぶらと何処に行くにも一緒に過ごしていました。朝、にゃん太君が事務所から出ると、外で寝る3匹がご飯を貰うのを待っていて、食べ終わると、会社の周りを4匹でブラブラする毎日でした。にゃん太君ピンと上に伸びたシッポが獲物を捕る道具です。にゃん太君と一緒の仲間

  • にゃん太君のお友達

    最初のノラは、子分です。子分は、いつもにゃん太君の後ろを付いて歩くので、子分と名付けられました。次に来たのは、親猫が産まれたばかりと思われる、小さな子猫を連れて来て、ご飯の場所を教え、子猫を置いて自分は立ち去ってしまいました。置いて行かれた子猫は、茶色のトラでしたので、茶チビと呼んでいました。大きさは、手のひらに乗る位の大きさだと云えば、分かると思います。産まれて歩き始めたばかりだと思います。にゃん太君のご飯を子分が食べてしまうと、食べ物を捕らえる事が出来ません。食べ物が無いのが分かれば、入れますが、分からないとアリを舐めていました。顔中アリが、歩き回っていました。食べ物を上げようとしますが、怖がって逃げてしまいます。仕方なく、近くに投げますが、それもダメで、逃げます、人が怖かったのでしょう。八分けのにゃ...にゃん太君のお友達

  • にゃん太君のご飯

    当初、にゃん太の朝と昼のご飯と水は、倉庫の入り口近くに置きました。そのご飯を狙って、ノラが集まって来ました。最初に来たのが、子分でした。にゃん太君の留守を狙ってご飯を食べ、見つかると逃げるを、繰り返していました。仕方ないので、『お出で』と呼び、慣れさせようとしましたが、模様がサバ猫は、なつき難いと云われます、触らせるようになるまで6年かかりました。妻が、代々の生粋のノラだから、懐かないと云っています。親もその親もノラだったんですね~、、、にゃん太君と猫は、子分箱の中が好きです。にゃん太君のご飯

  • にゃん太君の部屋

    2階の事務所の隣に男子用更衣室があります。ここに食事・水入れと少し離れた所にトイレを置きました。二つの部屋の仕切りは引き戸で、事務所の方には警備会社の監視カメラがあります。夜、にゃん太君がカメラに映らないように、更衣室に閉じ込めました。事務所と更衣室の間は、引き戸で区切られています。にゃん太君は、人の動きをよく見ていて、引き戸の開け方を覚えてしまいました。爪で戸を引っかけ、開けるのですが、かなり力が必要です。誰も居なくなった夜、更衣室と事務所を行き来し、警備会社に見つかってしまい、夜中に会社まで呼び出されてしまいました。それからは、にゃん太君を部屋に入れ、つっかえ棒で引き戸が動かないようにして帰っていました。にゃん太君と子分にゃん太君の部屋

  • にゃん太君の住まい

    会って三日後の月曜日、生まれて初めてキャットフードを食べた、にゃん太君!毎日ご飯を食べられるように、雨がかからないような草むらを住処にしました。火曜日の朝、僕が到着すると、大声で飛び出して来ました、水曜日も、木曜日も、ここに居れば、毎日キャットフードを食べられると思ったのでしょう、秋でしたので、雨は降らず濡れる事はありませんでした。でも、雨が降れば、ご飯の入れ物と水の入れ物が濡れてしまいます。ご飯と水の入れ物は、事務所に置き、猫小屋を草むらに置こうかと迷いましたが、何となくかわいそうに思いました。2階の事務所に住まわせる事にしました。にゃん太君の住まい

  • 怒った唸り声!

    白黒の八分けの猫の前に、ステンの入れ物を置き、キャットフードを入れました。入れ物に顔を突っ込み、初めて見る物を口に入れ、何に驚いたのでしょうか、怒ったような、物凄い大きな声で泣きわめき出しました!そして、又一口食べ、同じように泣きわめきます、その声を娘と二人、驚いて顔を見合わせ、大笑いしました!多分、キャットフードを食べるのは、生まれて初めだったのだと思います。あまりの美味しさに驚いたのでしょうか、、、八分けのにゃん太君足元に正座し、にこりと笑顔でこちらを見上げました。猫の笑顔を初めてみました。嘘だと思われるでしょうが、本当です!怒った唸り声!

  • あの八分けの猫が、

    月曜日の朝10時頃、駐車場に車を止め、降りると、あの猫が、足元に正座し、笑顔でこちらを見上げています。猫の笑顔を初めてみました。『あ~、お腹が空いているのか、ちょっと待っててね』と云い、下のローソンにおにぎりを買いに行きました。「鮭とイクラ」のおにぎりは無いので、猫の好きなオカカのおにぎりを買い、足元に置きましたが、食べません。オカカと云えば、猫御用達だと思っていましたが、『そ~か、嫌いなのか、少し待ってろ!」と云い、少し離れた所にある、カインズホームに出かけ、キャットフードとステンのご飯入れと水入れを買って帰りました。何となく、面倒を見るような感じになってきました・・・あの八分けの猫が、

  • 昨日の猫が、

    昨日同様、天気が良い日曜日でした。又、スカイラインで出かけ、昨日と同じ4時頃帰って来ました。ゴソゴソと雑草を分けて何かが来る音がしました。昨日の猫が雑草をかき分け、足元に正座をし、こちらを見上げました。あ~、お腹が空いているのかと思い、オヤツに買ったジャムパンのジャムが無い部分をちぎってあげると、ムシャムシャと全部食べました。野生の動物は、1日中食べ物を探しているのでしょう、全部食べるのを確認し、『今日は、終わり』と云い、帰りました。にゃん太君こちらに向かって歩いて来ます、その時、よせば良いのに、スズメがニャン太君の頭上40~50㎝位の高さを、前から後ろに飛んで行こうとしました。ジャンプ1っ発、捕獲し食べてしまいました。のんびりした猫に見えますが、、、昨日の猫が、

  • 7年前の10月の最後の土曜日

    7年前、医者に検査をして貰っている頃です。倉庫にスカイライン2000GTBで帰って来ると、八分けの猫が、道路の真ん中に正座して、遠くを眺めていました。ノラだろうから、お腹が空いているだろうなと、思い。近くのローソンに食べ物を探しに行きました。丁度良い具合いに「鮭とイクラ」のおにぎりが置いてありました。「親子にぎり」だし、猫が好きそうじゃないですか、食べ易い大きさにちぎり、八分けの傍に投げました。怖かったのでしょう、逃げましたが、ニオイを嗅ぎに来、食べだしました。全部食べ終わるのを確認し、帰りました。プリンス・スカイライン2000GT-B7年前の10月の最後の土曜日

  • 早期発見が大事です!

    背中が痛いのは、古い車が好きで、雨の日以外は乗りますから、シートのクッションが古いから背中が痛くなるのだと思い、シートの張替えをしたり直していたのですが、体の中からの痛みだと理解したのは、10月の初めでした。背中の痛みを感じた5月の半ばに医者に行っていれば、結果はどうだったでしょうか、気になりますが、後のマツリですね。手術後、レベル3.5だと云われました。レベル4だと手術は、受けられません。7年前のレベル3.5は、今だとレベル3.25だそうです。技術や機械などのレベルが上がって来たのでしょうね。もう少し時間が経つと、今の手術不能なレベル4は、手術可能なレベル3.5になるのでしょうね。背中が痛い、腰が痛いと思ったら、血液検査をお勧めします。早期発見を務めて下さい!早期発見が大事です!

  • 話が違うでしょ?

    紹介状を書いて貰い、静岡県立癌センターに提出しました。入院するのに、ベッドの空きが無いとの事で、直ぐには入れませんが、ベッドの空きが出来れば、代わる事が出来ます。静岡県立ガンセンターは、日本で1番だと云われています。入れるまでは、今までの病院で我慢です・・・もう検査はしないと云う事でしたが、又同じようにCT検査を始めました。『検査をしないと云う話でしたが、又同じ検査をするのですか?』『もう少し、詳しく調べて、あちらに提出しようと思います』『あ~、そういう事ですか。でも、向こうに行けば又同じ検査をすると思いますが』『・・・・・』囚われの身ですから、言われるままでした・・・身体の異変に気付いたのは、5月の連休明けの頃だったでしょうか、背中が、時々痛くなりました。身体の変調を知るために、血液検査を3か月に1度し...話が違うでしょ?

  • 病院を何処にしようか、悩みます

    『OO先生をご存じなんですか?』『はい、異業種交流で知り合いになりました』『あ~、そうですか・・・』ガッカリしたような返事でした。多分、自分が手術を担当したかったのだと思います。30代後半か40代初めの先生では、実験台になってしまうと思うのは、当然ですよね。『では、もう検査は必要ないと思いますので、今日で止めます』『はい、分かりました、そうして下さい』所が、なぜです?病院を何処にしようか、悩みます

  • 膵臓ガン!?・・・・・

    妻に紹介先の病院に向かうと連絡しました。病院に到着し名前を告げると、CTの場所を告げられ、CTの検査が始まりました。『膵臓ガンです』『膵臓ガンですか?!』僕がなぜ膵臓ガン?!・・・・この言葉は、病気での死刑判決のように聴こえました。異業種交流で知り合ったガンセンターの知り合いに電話をしました。『こんにちは、今、沼津市立病院で、CT検査をしてもらい、膵臓ガンだと云われたのですが、ガンセンターで膵臓ガンで1番の先生を教えて下さい!』『1番は、OO先生です』『OO先生ですね、ありがとうございます!』『申し訳ございませんが、ガンセンターのOO先生に紹介状を書いて下さい!』アプリコットの店内から駐車場を観た風景膵臓ガン!?・・・・・

  • 月曜日の朝

    9時頃、TELが鳴り響きました。『今日来る事になっていましたが、今からすぐ来られます?出来れば直ぐ来て下さい。早くお知らせしたいんです』とお医者さん。『はい、分かりました、今から伺います!』朝の電話は、嫌ですよね。妻に話し、大急ぎで車に乗り込みました。『レントゲンでは、分かりませんでしたが、血液検査で異常値が出ました。沼津市立病院に紹介状を書きますので、今から直ぐ向かって下さい』血液検査で異常値が出たと云われ、驚きました。これから直ぐ、検査だと云われ、2度ビックリです。これから、検査をするように言われたと妻にTELをし、直ぐ車に乗り込みました。裾野アプリコット入り口月曜日の朝

  • 便秘など、初めてだ!

    身体の調子が悪いので、町医者に行きました。『今まで便秘になった事が無いのに、五日も出ないんです』『では、便秘薬を処方しますので飲んで下さい』『3日飲んだんですが、出ません』『では、強い薬を出します』『3日飲みましたが出ません』『後輩が沼津で開院していますので、そちらを紹介しますので、行って下さい』沼津の医者に行き、今までの経過を報告しました。『レントゲンを撮り、採血しましょう、結果は月曜日に出ますから、月曜日に来て下さい』『はい、分かりました。月曜日に来ます』裾野アプリコット便秘など、初めてだ!

  • もう、6年も前になるのか~、

    妻に、初めて店に連れて行かれたのは、6年前の11月の終わり頃だったでしょうか、10月に病名が分かり、最初入った病院から、家に近い病院に変わりました。2回目の病院に知り合いがいました。『病名が分かったから、何というお医者さんが良いか教えて!』『ウエサカ先生です!』最初の町医者が、最初から2番目の病院を紹介してくれれば、良かったのに!最初に行く病院を、選ばなければババ引いてしまいますね。新しい病院の先生に『手術が出来そうです』と云われ、準備に入りだした頃でした。もう、6年も前になるのか~、

  • この店は、裾野にあります。

    この店は、姉妹二人で営業していましたが、1年位前から同じ年位の男性が入りました。閉店を知らされたのは、先月です。28年営業してきましたが、『疲れてしまいました』と云われました。『毎日、朝4時に起きて、ケーキなどを作ったり、仕込みをするんです。それと、創業時の機械が壊れてきて、いつ完全に壊れるかと思うと、ドキドキしてしまいます。新しく買う事を考えましたが、辞められなくなってしまいますから・・・』この店は、裾野にあります。

  • なぜ、閉店の店の事を書くのか?

    実は、今月いっぱいで閉店になる店があるんです。最初は、妻に連れて行かれました。なぜ、閉店の店の事を書くのか?

  • 40年位前の話です

    東京に住んでいた頃、妻と妻の両親の4人で、中華にはちょくちょく出かけていました。原宿では、南国酒家・皇家・福禄寿飯店の3軒。青山では、横浜の中華街からの出店と書かれていた「萬珍楼」。萬珍楼は開店の広告を観て、行列を並んで入りました。万珍楼の1人前¥5,000円のコースだと、最後に鯉の甘酢あんかけの料理が出ましたが、4人とも苦手で手付かずでした。2回目から、他の料理に替えてもらっていました。アン・ルイスさんは、常連らしく、お店の人達と談笑していました。2回程会っています、歌が大ヒットしていた頃です。4軒の名前を書きましたが、今残っているのは、南国酒家だけのようです。40年も前の事ですから、残っている「南国酒家」がすごいのでしょう、40年位前の話です

  • 料理人が好きな味の違い

    中沢さんが居なくなり、又帰って来ました。陸茶坊が好きな人達にとっては、中沢さんの料理が陸茶坊だったと思います。中沢さん以外の人が作った味は、塩辛さだけでは無く、トンガっていると感じさせる味で、マロヤカサがありませんでした。ですから、今までの人達が作った料理の味と違うのが、誰にでも直ぐ分かったと思います、味が柔らかくなりました。中沢さんから他のシェフに代わると、最初は「おや?」と思う位ですが、半年もすると「塩辛さ」が目立ってきます。作る人が、本来目指す自分自身の味になっていくのでしょう、素材が持つ味を理解する事が、調味料の量や材料の質などに関係するのでしょうか、料理人が好きな味の違い

  • 同じ料理でも、料理人で味が変わる・・・

    中沢さんが、途中で他の店に行き、他の人が代理で入りました。最初は「おや?」位の味の違いが、半年もすると『前と全然味が違うね、塩辛さがタッテル』と感じる位、以前の柔らかな味が無くなります、持って生まれた天性なのでしょうか。何年後かに帰って来た時も『味が昔に戻った』と分かりました。塩加減だけでは無いのでしょうが、味って奥が深いですね~、同じ料理でも、料理人で味が変わる・・・

  • 陸茶坊の中沢シェフ

    陸茶坊の近くにある蕎麦屋さん(竹のや)で、陸茶坊の1時閉店の話をしましたら、『開店当時、田代グリルで働いていた人が、陸茶坊に行きました』と話してくれました。田代グリルにアグネス・チャンが食べに行ったとすると、田代グリルは、本格中華だったんだ、1度も行った事が無かったとは、、、、多分、田代グリルから行ったシェフは、中沢隆哉氏だったと思います。当時の陸茶坊の厨房には、シェフが7人で回していたそうです。7人を率いていたのですから、相当な人だったのでしょう。中沢さんが、途中で他の店に行き、他の人が代わりになると、最初は「おや?」位の味の違いが、半年もすると『前と全然味が違うね、塩辛さがタッテル』と感じる位、素人でも分かりました。平成元年(社)日本中国料理協会の第3期中国派遣生、1か月杭州で研修6年陸茶坊リニューア...陸茶坊の中沢シェフ

  • アグネス・ちゃんが?

    僕は、三島の商工会の会員になっていて、月に2回くらい会報が届き、目を通します。その時は、「アグネス・チャンの三島の思い出」という様な事が書かれていました。『私は、中華料理が食べたくなると新幹線に乗り、三島駅の前にある「田代グリル」に行って食べます』と書かれていました。『教えてくれたのは母です』と書かれていました。又、『子供も連れて食べに行っていた』とも書かれていたと思います。『へ~、本当かよ?田代グリルがね~・・・』三島駅の真ん前の交差点に「田代グリル」があったのは、知っていましたが、そんなに有名な店だとは知りませんでしたし、高校生の時からすると数十年、1回も入った事はありませんでした。何故この事を書いたのかには、訳があります。アグネス・ちゃんが?

  • 陸茶坊3

    35年位昔、TVで流行していた番組に「料理の鉄人」という番組が流行っていて、我が家では毎週観ていました。たまたま見逃した時がありました、その時に「陸茶坊の料理長が出て、中華の鉄人陳健一破りました」、毎週観ているのにこの週だけ観ていないという偶然、泣けます・・・この放映後の込みようといったら、客の立場ですが大喜びでした。東京No.神奈川No.の車が更に多くなりました。陸茶坊のシェフ中沢隆弥氏陸茶坊がオススメする箱根西麓三島野菜(hakoneseirokumishimayasai.jp)陸茶坊3

  • 陸茶坊2

    陸茶坊の客席は、1階は一般席、2階は予約席でした。2~4人掛けの席が1階は、8席、10人の宴席1部屋で、2階は15席位だったと思います連日予約しないと入れない位盛況でした。一人の値段は、¥3,500円~¥5000円だったと思います。駐車場の車は、東京や神奈川の車が多く、地元の車は殆んどいませんでした。当時の東京の値段は、¥3000円からでしたから高い方だったと思います。35年以上前の事です、陸茶坊(最後のメニューです)【公式】中国料理陸茶坊(りくちゃぼう)のホームページ(rikuchaboh.com)陸茶坊2

  • 行く所が少なくなっちゃった・・・

    7月31日で、休業になってしまいました。店の名前は「陸茶坊」、こんな田舎にまさかの本格中華家さんでした。開店は、37~40年位前だったでしょうか、当時住んでいた家の近くに開店しました。行ってみて驚いたのは、本当にまさかの本格中華の店でした。開店を知ったのは、新聞広告のチラシです。開店の日、家族4人で出かけました、大きな駐車場に大きな2階建ての店で、このまま東京でも開店出来そうな構えでした。赤坂や原宿にある中華家の様でしたし、ひけをとらない構えでした。本日初日は客が殺到し、並んでも入れそうにありませんでした。陸茶坊【公式】中国料理陸茶坊(りくちゃぼう)のホームページ(rikuchaboh.com)行く所が少なくなっちゃった・・・

  • あの人は、元気か?

    『沼津で有名な、あの人は元気か?』と義兄。『あの人って誰の事?』『そうか、分からないよな、沼津辺りでは、有名なチャラさんの事だよ』『チャラさんって、有名なの?』『そうか、分からないか、沼津では、有名な人だよ、良い人だったな~』『同じ仲間だったの?』『違うけど、話が分かる良い人だった』『へ~、そうなんだ』沼津に住んでいる人達に『チャラさんて、知ってる?』と尋ねると、『知ってますよ、チャラさんは有名ですよ』と、返ってきました。沼津では、ちょっとした人で、人気がある人のようでした。義兄も、何かの接点があったのでしょうが、聴きませんでした。あの人は、元気か?

  • 5年位前でしょうか、

    今から5年位前の事でしょうか、義兄は、知り合いが入院している、国立がんセンターに見舞いに行ったそうです。そこで偶然、元若い衆に会ったそうです。『お前もしかして、Y?』『えっ、兄貴?兄貴ですか!』と云い、泣き崩れたそうです。彼は、50位前『子供が生まれるので、抜けたいのですが、お願いします』と義兄に云い、『子供が生まれるのか、そうか良かったな~、2度と戻って来るなよ』と義兄に言われ、確かお祝い金¥300万円位を貰って出た人です。彼は当時30歳位で、身長180cm、体重70㎏、眉は太く、角刈りでした。当時、ホンダから出たばかりのシルバーの77Sに奥さんと乗っていました。あれから、50年近くなります。今の彼は、ガンを患い痩せて、目を合わせるのが辛かったそうです。一通り話をし、『Y、又な』と別れたそうです。もう、会う事...5年位前でしょうか、

  • 盾が、サラシと新聞紙ね~、

    『喧嘩に行く時に、腹にサラシを巻くのを見た事があるだろ』『映画で見た事があるけど、実際の喧嘩を見た事がないから分からない』『そうか、映画で見た事があるくらいか、実際の喧嘩でもサラシを巻くんだよ。そのサラシを巻く下に、新聞紙を巻いておくんだよ。そして、喧嘩をすると決めた時、サラシの上から水をかけ、中の新聞紙を濡らすんだ、サラシと新聞紙が濡れていれば、ヤッパで刺されても、中まで入りにくい』『へ~、サラシの下に新聞紙、そして新聞紙を濡らすんだ。新聞紙とサラシが濡れていれば、刃が入りにくく、怪我も軽く済むと。でも、こんな事にならないようにしないとね』『サラシが無い場合は、新聞紙だけで行くんだ、しょうがないけどな』『だから、いつもサラシを置いてあるんだね』盾が、サラシと新聞紙ね~、

  • 矛がね~、ノコ?

    「言う方は簡単に『やってこい』と云うけれど、やる方は、色々考えるよ。相手が、他の組だったら問題ないけど、同じ組の顔なじみだと、躊躇するよ。それも、可愛がってくれるような人だったりすれば、『簡単にはい!』とは言えないだろ?」「言えないね~、云えれば、それこそ仁義に欠けるよね」「殴りこみの時、中々獲物が手に入らない。そう云う時は、ノコギリとか、台所の包丁とか直ぐ手に入る物を使う時もあるよ」「は~、映画とは違うのね~。ノコギリで乗り込んだ事があるの?」「そりゃ~あるよ、手に入るのがノコギリだったら、それで行くしかないもの。手拭いで、巻いてさ~」「顔を切りつけりゃ、後で手当てが大変だ~、傷跡が残ってさ~」「ギザギザに残りそうだね」「刀で頭を切り付けた事があるけどさ~、刀が跳ね返って切れなかった。相手にさ~、『お前、刀は...矛がね~、ノコ?

  • 仁義と云うけど、

    『同じ組なのに、こんな事があった。仁義と云えばそれまで何だけど、凄く可愛がって面倒見てくれた他の兄貴分がいたんだ、その人が気に入らないと、俺の直の兄貴分が云うんだよ、それで言われたのが、『あいつをやってこい!』だよ。『えっ!出来ません』と云ったけど『俺の言う事が聞けないのか!』だよ。しぶしぶ出かけて、申し訳ないけど、命令なのでと云って、やって来た。『A、お前!』と云われたけど、『申し訳ございませんと云って、刺した。そして、俺にやられたと、云わないでくれた。本当に嫌な事だけど、仕方が無い世界だ、お前は絶対に入ってはいけない』『母親が入ると困ると心配しているけど、絶対に入らないから安心して』仁義と云うけど、

  • 大学生のバイトのつもりが・・・

    『大学生になって、パチンコの景品買いを始めたんだ。東京だから、実入りが良いだろ。誰にも縛られないで自由に出来る、気楽ささ。その時、スカウトされて、組に入った。適当な値段で売買されるのが、嫌だったんだろうな。当時日本で1番だと云われていた組織だった。そこの親分に気に入られて、部屋住みになったよ。朝5時に起きて掃除から始まる』『部屋住みって大変だね~!』『それは、一人前になるための、男としての躾だな。大きな鉱山を持っていて、羽振りは良かったし、気風も良かった。男も惚れる良い男でよ~、浅草の3社祭を仕切ってたんだ。誰が見ても漢だったな~!』『へ~、あの三社祭を仕切っていたんだ、凄いな~!』『盆暮れには、他の組からオヤジさんにと現金5百万と若い衆にと、ビールやジュースが2tトラックで来るんだよ。毎年驚いてたよ。』『凄い...大学生のバイトのつもりが・・・

  • 中学生から、ヤミ米を

    『都会に米は、無いだろ?そりゃ~売れるよ、でも金額だな、買う方も擦れているから、交渉が難しかった、でも俺は売ったよ。持ち帰る事は無かった』と自信タップリに云いました。『三浦半島には、米が採れなかったのかな~?』『そりゃ~、取れただろうけど、安けりゃ買うよ』『取り敢えず売れたよ、売り方の駆け引きも覚えた。シケモク集めもしたよ、ホテルのロビーの灰皿を回るんだ。集めたシケモクを英語の辞書で巻くのさ、英字の辞書に巻いたシケモクは直ぐ売れた。三浦半島に行った時、お巡りさんに捕まったけど、親を思う子供だから今回は助ける、次は捕まえるぞって脅かされて、2度と行かなかった。』『良かったね~、分かる人に捕まって良かった!』中学生から、ヤミ米を

  • 切っ掛けは、なに?

    『家はよ~、家計が苦しくて母親が大変だったので手助けをしたかったんだ。親父は、台湾で警察官をしていて、戦後の引き揚者さ。仕事が無くてさ~。子供は、男4人と女3人の7人兄弟だもの、食うのが大変な時代だよ』『子供が多いと大変だよね~、でも田舎だったから食べ物はあったよね?』『田舎だったから少しは良かったかな。だけど、少しでも母親を楽にしたくて、米やタバコを背中に背負って上野まで行ってた。帰りにフカシ芋を買って食べるんだ。あれが美味くてよ~。俺の家の方の芋は、ぐちゃぐちゃの芋で美味くない、こっちの芋は、ホクホクして美味いんだ~。1個10円。これを食べるのがうれしくてさ~、汽車に乗っていると警察の取り調べが突然行われてさ~、飛び降りる人もいるんだよ。俺は中学生だけど、捕まる時もあって、「もうしないから勘弁して下さい」な...切っ掛けは、なに?

  • 入れても、後が大変だと思いますが、

    『親に裏口から入れて貰っても、勉強でついて行けるのかな?』と、義兄は、心配していました。本当にツイテ行けたでしょうか、人事ですが心配になります、刑事が¥1500万円出しました、これこそ怪しいお金だと疑います。お金は、足利銀行の帯が巻いてあり、1500枚通し番号だったそうです。今から50年チョット前の、今頃の寒い日の夜の8時頃の事でした。コートの左右のポケットに¥400万円づつ入れ、病院を出ましたが、左右のポケットの重さと、お金を運ぶ緊張で、血の気が引いているのが分かりました。ある人の話ですが、私立の学校では、寄付で入学するのは、当たり前の事だと云っています。父兄の寄付で学校が運営され、父兄と学校との信頼関係が強固になると云っています。池袋びっくりガード東口びっくりガード-Wikipediaびっくりガード西口入れても、後が大変だと思いますが、

  • 入学金かな?

    僕が義兄に呼ばれたのは、受け取ったお金を、家に運んで欲しいとの依頼でした。その時、義兄は駒沢の国立病院に入院していて、動けない状態でした。でも、これって仕事ですね。ベッドのマットレスをまくると、¥100万円の束が出てきました。『お金を運ぶのは良いけど、幾ら運ぶの?』『ここに¥800万あるから、これを運んで欲しい。小遣いをやるけど、幾ら欲しい?』『いらないよ、運ぶ位何でも無いもの』『じゃ~、¥10万で我慢しろ、俺はケチだな』『こんな事で¥10万円貰って良いの?』『少ないけど、頼むわ』『裏口入学の紹介で¥1500万円貰ったけど、紹介者の二人に、お礼で¥700万円渡したから、¥800万円になった、これを妻に渡してくれ』と頼まれました。紹介者、あ~、あの二人かと、顔が浮かびました。あの二人、借金があるから返せば良いのに...入学金かな?

  • 大学に入れたい親

    義兄は出身大学のNには、顔が利いていました。ボクシング部出身でしたので、運動部全般に、です。その頃、特にボクシング部と空手部の学生達は、毎日出入りしていました。ここに登場したのが、気に入らないデカでした。息子が大学に入りたいけど、入れないから、何とかして欲しいと話があったそうです。それも、10数校受験したのに、全部ダメだったそうです。『Aよ、何とかならないか?』『何とか、話をしてみましょう、でも、お金が掛かりますが良いですか?』と、云う様な事になったようです。大学に入れたい親

  • 仲間内でも、

    『デカの仲間内で、何か良い事があったとするよな、それも家を建てたなんて話が出たとするだろ?』『うん、家を建てる人もいるだろうね』『そんな話を聴いたら、奴らはどうすると思う?』『普通、お祝いをするね』『違う、どうやって家を建てたのか、洗うんだよ』『えっ、洗うって、どう云う事?』『洗うって云う事ぐらい分かれよ、どうやって金を作ったか、調べるって事だよ』『うん?どうやってお金を作ったか?普通に貯めたんじゃ~ないの?』『分かんね~な~、誰かから、金を貰ったかもしれないと思うんだよ』『あ~、そ~云う事か~、わいろを貰ったか、調べるの?』『そうだよ』『えっ、だって、仲間内でそう云う事をするの?』『あいつ等は、仲間内でも疑ってる、信用しないな』『へ~驚いた、じゃ~探られた人も他の人を探るんだ?』『そうだよ、自分以外は、信じて...仲間内でも、

  • 暴力団とデカは、同じ仲間だ

    『暴力を振るって、暴力団と呼ばれるか、デカと呼ばれるかでは、偉く違うだろ?』『うん、違うね』『暴力を振るって、馬鹿がそのままだと、暴力団、多少目鼻が利くとデカだ』『どう云う事?』『暴力団は、暴力を振るうワルの小僧が大きくなった人間達で、デカは、暴力をフルっても権力に守られる人間達だ、そうだろ?』『う~ん、そう言われれば、そうかも知れない』『相手が悪いと分かれば、そりゃ~すごいからね!殴るわ、蹴るわ、やりたい放題。俺はやられた事はないけどね』『殴る人間、殴られる人間、殴られないで、命令する人間と3種類に分かれる』『うん、そうだね』『殴られるには、殴られる訳がある』『そうだね』『殴るには、殴る訳がある』『そうだね』『デカになる奴は、殴れる立場になる事を考えていて、殴るのが好きな奴がデカになる、それも法律に守られてだ...暴力団とデカは、同じ仲間だ

  • ハジキとデカ

    『あいつ等、最低な奴らだよ』『へ~、どうしたの?』『良い刀なんか、何振りも持って行かれた』『A.お前、良い刀を持っているらしいな~、チョット見せてくれ』と云われれば、見せない訳にはいかないだろ?もう、それっきりだ。最初から取るのが目的だから、始末が悪い。何振りも、持って行かれた。俺が刀を持っているのを知っている奴が、チクるんだな。自分の何かを見逃してもらうんで、チクるんだ、最低な奴だ。仲間を売るなんて!』『そんなデカも、昔は役に立つ事があったけど、今は全然ダメ!』今書いているのは’69年~‘72年頃の事を書いていますが、これより5年~10年位前だと、デカ達も融通が利いたと云っていました。どんな事か、興味があるでしょ?「何か問題が起きると、『チョット、チョット』とこちらに手招きするんだよ」「来たところで、『あの話...ハジキとデカ

  • ハジキとデカ

    『あいつ等、最低な奴らだよ』『へ~、どうしたの?』『良い刀なんか、何振りも持って行かれた』『A.お前、良い刀を持っているらしいな~、チョット見せてくれ』と云われれば、見せない訳にはいかないだろ?もう、それっきりだ。最初から取るのが目的だから、始末が悪い。何振りも、持って行かれた。俺が刀を持っているのを知っている奴が、チクるんだな。自分の何かを見逃してもらうんで、チクるんだ、最低な奴だ。仲間を売るなんて!』『そんなデカも、昔は役に立つ事があったけど、今は全然ダメ!』今書いているのは’69年~‘72年頃の事を書いていますが、これより5年~10年位前だと、デカ達も融通が利いたと云っていました。どんな事か、興味があるでしょ?「何か問題が起きると、『チョット、チョット』とこちらに手招きするんだよ」「来たところで、『あの話...ハジキとデカ

  • 義兄の話

    江古田に住んでいた時の話だそうです。『朝6時頃だったと思うけど、ドサが入ってさ!』『そんなに早くに来るんだ?』『何故早朝かと云うと、大体寝ているし。逃げられないだろ?』『成程ね、朝6時頃だったら、寝ているものね』『5人位で来たんだよ、玄関、裏口と窓など、逃げ場を抑えるんだよ。そして、『おはよ~、上がるよ』と云って部屋に入って来るんだ。こっちは、パジャマだから、『着替えさせて』と云ってた所、『おいA!お前んち犬は、躾が良いな~、俺の靴の上にフンをしやがった!』『観たら、犬のラッキーがデカの靴の上にウンチしてあって、大笑いさ!それと、心の中では、ざまーみろ、だ~!その隙に、妻が布団の間に隠してあった、ハジキを帯の間に隠してくれて、ラッキーだった』『う~ん、洒落にもなるね』、こんな出来事があったそうです。犬が、ウンチ...義兄の話

  • タレこみがあった?

    『これは、モデルガンと分かるし改造してないので、返します』『こんなのもありました』『それは、学校で使う小刀です。持って行かれると困ります』と、云いましたが、持って行ったまま、帰って来ませんでした。8月の暑い夏の日の朝から、夕方までの二日間でした。誰かがタレこんだと云っていましたが、誰だったのでしょうか?それとも、タレこみがあったと云い、家宅捜査の口実だったのでしょうか?この頃、義兄は案外金回りが良かったと噂になっていました。友達が地下鉄の中で聴いたそうですが、『Aさんは、幾ら持っているか分からない位、持っていると云う話だぞ』『うん、そうらしいな~、知り合いの中で、評判だよ』と二人の男が話していたそうです。このような噂が、広まっていたそうですが、この噂が独り歩きして、今回のドサになったのでしょうか?あまりにも暑い...タレこみがあった?

  • ドサが入った!

    『申し訳ないけど、車のカギを貸して欲しい。怪しい物は入っていないよね』『車は僕のだから、関係ないでしょ?調べる必要がないと思いますが』『いや~、形ばかりの捜査だけど、観させて下さい』と警官。『車のトランクに、木刀が入っていました』と木刀を持ってきました。『学校の同級生が、剣道をやっていて、会うと二人で遊ぶのに使います』『取り敢えず、預からして下さい』と持って行きました。『こんな物が出てきました』と、モーゼルとコルト・ガバメント、ウインチェスター73のモデルガンも持ってきました。『それは、甥と僕のオモチャです、何も改造していません。見れば分かると思います』モーゼル軍用コルトガバメントM1911Mウインチェスター’73ドサが入った!

  • 今の家に越してきた頃の事ですから、50年以上前です

    今の家に越してきた頃なので、50年以上前の、朝6時頃でした。『おはよ~』と大きな声がして、男が5人位家に上がり込んできました。『おはよ~、朝早くから起こして申し訳ないけど、家を調べなければならないんだ。変な事はしないから、大人しく協力して欲しい』『はい、分かった、調べれば良い、何も出ないよ』と義兄。何となく慣れた感じの受け答えです。『所で、何の捜査ですか?』と義兄。『怪しい動きがあると、タレコミがあってさ、仕方なく調べなければいけないんだ、協力して欲しい』『怪しい動きって何だろう、ま~、どうぞ』家の中の箪笥と引き出しと云う引き出しを探します。それから、天井を棒でツッツキ何かが乗っかっていないかを調べます。そして、壁も棒で突っついたり、こぶしで叩いて音の変化を観察していました。二日間来ましたが、何も出ません、ご苦...今の家に越してきた頃の事ですから、50年以上前です

  • 多分、この頃だと思います

    義兄の帰りが遅い時がありました。義兄の話では、賭場を開いていたそうです。そう云えば道で会う、そのスジと思われる人達に頭を下げ、挨拶をしていました。又、ドライブに行った先の駐車場やドライブインで、親しげに声を掛け合う所を見ていました。自分達と違う組の親分達が、お客さんで来てくれていたと云っていました。その人達は、1晩で¥100万円位落としてくれたそうです。『親分達は、一勝負で10万位落としてくれて、持って来た金を全部落としてくれた。三日位同じ場で開いていた』『へ~、警察に見つからなかったの?』『大丈夫だったな~』『映画なんかで、ピン札を出すだろ?あれって、賭場に来る前に、若い衆にアイロン掛けさせるんだよ』『え~、アイロンかけて、ピン札にするの?』『そ~だよ、見栄えが良いだろ』『へ~、そうだったんだ』賭場-Wiki...多分、この頃だと思います

  • 彫り物

    当時の義兄の話では、手のひらサイズで¥3,000円との事でした。最初に絵をかき・すじ彫り・色入れとなるそうです。色は、黒と云いますが、藍色でしょうか、それと赤と云ってもエンジでしょうか、このスジ彫り・色入れとなると、手のひらで¥9,000円です。色も藍色を何色も使ったり、赤を何色も使えば、それなりの金額になります。¥9000円は、スジ彫りと黒1色・赤1色の金額です。義兄の若い衆に一人いました、でも見た事はありません。他の人達は観ています、「最初の刀の話」の兄です。A兄弟と云われていました。二人とも、その世界の人達の顔では、ハンサムでした。海水浴で、白の6尺ふんどし1本で仁王立ち姿。手首から始まり、足のくるぶしの少し上まで、総彫りです。胸は、ダボシャツで隠せるように、真ん中だけ彫りません。極めつけは、男のシンボル...彫り物

  • 刀と云えば、

    家に来た若い衆に、義兄が話し始めました。『昨日事務所にYが来たんだよ。それも刀を持って』『Yですか、久し振りですね~』『アイツ背が低いだろ、佐々木小次郎のように刀を背負って来た。どうした?と聴いたら、頭に来たから、殴りこみに行くと、云うんだ』『え~、それからどうしました』『どうした?と聴いたら、他の組の奴らと揉めて、話が付かなかったから、これから、話をつけに行くと云うんだよ』『何があったんでしょうか?』『聴くと長くなるから、もめ事はよくあることだから、気にするなと云っておいた。だけど、自分の背より長い刀を背負って来たんだよ!』と笑いが止まりません。Yさんは、身長155㎝位で、奇麗に刈り込んだ角刈り・髭は濃いけれど、毎日毎朝剃って青々とし、眉は太く奇麗に手入れされています。上下のスーツはいつも奇麗にプレスされ、白...刀と云えば、

  • 引く勇気

    家に帰りましたら、若い衆が一人、義兄と話をしていました。何の話かは分かりませんが、真剣な顔をしています。彼は横に置いてあった、布袋を開け、小刀を出し、『これから、出かけて来ます』と云って、覚悟を見せました。小刀は鍔が付き、柄巻き紐は茶色で、江戸時代の高官が差している様な刀でした。『止めろ、そんな事をして家族に迷惑をかけるな、我慢が必要な時もあるぞ』と、義兄は止めました。『コケにされて黙っていられません』『コケにされても、我慢が必要な時もある、今回は引け、引く事も男だ』若い衆は、黙ってうなずき2~3分沈黙の間があり、『失礼します』と帰って行きました。その後、義兄から、もめ事が有ったと云う話を聴きませんでしたので、彼は、我慢して引いたのでしょう、組もそうですが、家族にとっても良かったと思います。この様な感じの脇差で...引く勇気

  • お出迎え

    『明日の朝、一緒に出掛けてくれ』と義兄に言われ、朝5時に起き、若衆二人と一緒に4人で出かけたのが、府中刑務所でした。入っている人が出てくる場所は分かっているのですが、出てくる場所で待つと、出さないそうです。ですから、少し離れた場所で、目立たないようにして待ちます。待っているのは、我々だけではありません。出てくる人と直接関係がある組織の人や、若い衆、兄弟と呼び合う人達や入る事になった経緯と関係がある人達など、30~40人位の人達が集まっていました。義兄がどう云う関係かは分かりませんが、義兄の格から言えば、それなりの人だったのでしょう。目立たないように待っていると『おめでとうございます』、『お疲れ様でした』『お勤めご苦労様でした』などの言葉が飛び交いました。出所した人から、『今日は、朝早くからありがとうございました...お出迎え

  • ヒデさんの本業

    ヒデさんは、時々大きな風呂敷包みを背負い歩いていました。義兄の話によると『娑婆にいるより、務所に入っている方が長いって云うんだから、驚くよ。務所の仕来たりなんか細かい事まで詳しくて、あ~云う奴が務所に入るとオオイバリ、だから牢名主だな。小悪党の方が、エバルんだ』へ~そうなんだ。『あいつの本業は泥棒、それも安物は取らない。大きな呉服店の高級な着物専門、店の目星を付けるだろ、入り口を見ると、裏口が分かると云うから驚きだよ。品物を運び出す時、どこから出すか入る前に頭の中に入れるそうだ』当時、夜の女性達を「夜の蝶」と呼んでいました。夜の蝶でも、着物を着ている女性達は格上です。今もそうですが、夜の蝶だけでなく、芸者さんや日舞の人達にも着物は必需品でした。その女性達に、着物や帯、羽織などを仕入れていました。ヒデさんは、女性...ヒデさんの本業

  • 義兄の若い衆

    義兄との付き合いは、どの位か分かりませんが、ユニークな人でした。僕が義兄の所に来たのは、67年の春頃でしたから、義兄と彼とは10年以上前からだと思います。彼は帽子をいつも被っていました、頭が薄いからです。今では、髪が薄くても平気ですが、昔は気にする人達が多かったんですね。『臭いな~!』と彼の周りの人達が騒ぎ出したそうです。それも、普通の臭さではなかったそうです。義兄は、彼の事をヒデと呼んでいました。『ヒデ、お前臭いぞ!』と言われ、最初の内はごまかしていたそうですが、余りの臭さで騒ぐので理由を話したそうです。若い女性のオシッコを頭に付けると、毛が生えてくると云われ、その通りの事をしていたんだそうです、臭いわけです。若い女性のオシッコが、ヘヤートニック代わりだったとは、義兄の若い衆

  • 社長室長の車

    仕事用には、トヨタ・クラウン、遊び用には、フォード・ムスタング・グランデの7000㏄に乗っていると云っていました。ムスタングで7000㏄だとすると、パトカーのために作られた428のエンジンだと思います。コブラなどのスポーツ用の427のエンジンが高価なため、安価でパワーが出せるエンジンを作った結果が428でした。『ポルシェが横に並んでアオルから、やったけど、ツイテ来ないよ』と云っていました。オートマで428の7000㏄にツイテ来る車は、ソウソウ有りません。’68ムスタング・グランデCOBRA427s/cコブラ427は、0~400m、12.4秒で、最高速270㎞だったと思います。社長室長の車

  • デパートからの電話

    『お前、デパートに買い物のお金を払っているよな?』と義兄から言われました。『うん、払っているけど、どうしたの?』『お金が入金されていないそうだ。デパートから電話が掛かってくると思うけど、ちゃんと話した方がいいぞ』『うん、ちゃんと払っているから安心して頂戴』デパートからの電話『申し訳ないですが、買い物代金が入金されていないんです。お兄さんにも話しましたが、「アイツは金に固いし、払ったと云っていたから払っているよ」と言われました。『え~、払いました、入金されていないんですか?』『担当者と話をして、又後で連絡します』連絡が来ました。『担当者を問い詰めたら、使い込みをしたと言い出したんです』『あ~~、そう云う事ですか。こちらは、今までのお金は全部払っています』『事情は分かりましたので、こちらで対処します』『はい、お願い...デパートからの電話

  • 外商とお付き合い出来ました!

    義兄の友達のお陰で、デパートで割引して貰える事になりました。紹介して貰えたのが、社長の親戚の「社長室長」です。『30%割引できない物は、酒・タバコ・レコード・カメラ・などだけど、そのつど質問して貰えれば、良いから、外商の担当者を紹介しておくよ』『はい、お願いします』『社長室長とは、どう付き合えば良いの?』と義兄に尋ねると、『俺との付き合いだから、気にしなくて良いよ』と言われました。今まで、このデパートの10%割り引き券をもらっていましたが、これからは違います、30%割引です!殆んど何でも30%割引で買えます。若い男の子が欲しがる物は、殆んどです!知り合いや、親戚、妻の家族にも教え、代理で買い物をしました。最初の内は、その都度決算しましたが、デパートの外商から『面倒なので、1か月ごとの決済にしましょう」と言われ、...外商とお付き合い出来ました!

  • 義兄の友達

    20歳位の時で、まだ若かったので、着る物や装飾品には興味がありました。帰りの家は、西武池袋線の富士見台駅です。学校帰りには、買い物が無くても池袋のデパートに寄り道していました。池袋には、3つのデパートがあります、西武・東武・三越です。その中で、売り物が一番田舎クサイと感じるデパートが東武デパートでした。でも、社長室長を紹介して貰えました!社長室長を紹介して貰える前は、10%割引の券を貰って買い物をしていました。メーカー品ならどこも同じです。他のデパートで探し、品番を調べて同じ物を取り寄せて貰えば、良いと考えました。『デパートの偉い人だから、何か買う物があれば、安くしてもらえ』『お願いします』『大体の物が30%引きに出来るから、ね』と笑顔で言われました。『本当ですか!?』義兄の友達

  • 義兄の友達

    義兄がどこで知り合ったのか、聴きませんでしたが、畑違いの大会社の重役が現れ、紹介してもらえました。『デパートの偉い人だから、何か買う物があれば、安くしてもらえ』『本当ですか、お願いします!』『大体の物が30%引きに出来るから、ね』と笑顔で言われました。『え~!?』『頭は良いし、社長の親戚だし、両方揃っているから、偉いんだよ』「社長室長」と書かれた名刺を頂きました。義兄の友達

  • 無尽仲間

    競馬や競輪のノミ屋の人達が多く参加しました。彼らは、1日1割の利息を取っていましたから、1か月1割なら、何でもない利息でした。白タクまがいの人達もいました。自動車を持っているので、お客さんを自宅まで向かいに行き、競馬場、競輪場まで連れて行きます。お客さんの持ち金が終わると、日1で貸します。日1とは、1日1割の利息です。そして、帰りは自宅に送り届け、元金と利息を受け取ります。ご家族とも知り合いですから、逃げようがありません。大泉学園の駅前のお客さんに、『駅前の土地を1坪売れば¥100万円だよ』と言われ、がっかりしたと、話していました。50年前の話ですから、今の大泉学園駅前は、坪幾らなのでしょうか?無尽が大きくなり、銀行になった例もありました。当時、富士見台駅前に在った『東京相互銀行』が、そうでした。http://...無尽仲間

  • 無尽の集まり

    ¥30万円が必要な人達が2人以上だとすると、必要とする人達で落札になります、¥5万円で落とす事もありましたが、それ以上の金額になると、欲しい人同士で話し合いをし、決めていました。1口¥100万円で1か月と云うのは、ありませんでした。50年以上前の¥100万円は、トヨタクラウンが買えましたから、今の金額を想像して下さい。1番多かったのは、¥50万円だったと思います。このお金を何に使うか?支払いか、投資です。期日の集まりに来れなく、逃げた人もいましたが、必ず視つけられました。無尽の集まり

  • 義兄達の集まり

    ‘67~’72年頃、毎日、池袋西口のサルビアに集まる人達が、特別な目的を持って、サルビアに集まる日がありました。互助会とでも云うのでしょうか、「無尽」と云う集まりでした。1グループが、5人~7人位で、¥30万円のグループ、¥50万円のグループ、¥70万円のグループと金額に合わせてグループを作ります。¥100万円のグループは、無かったと思います。¥30万円のグループで、会員5人だとすると、1人¥6万円を出し、合計金額を¥30万円にします。この金額を1か月間誰が使うかです。使いたい人が1人の場合、月1割の利息¥3万円を出し、¥27万円を1か月使い、1か月後に¥30万円を持って来て、返します。その金額を会員で平等に分けます、当然、借りた本人にも配当がありました。無尽が大きくなり、銀行になった例もあります。当時、富士見...義兄達の集まり

  • 時計ブーム

    デイトジャストを手に入れた人達は、銭湯や海水浴に行く時も、腕から外すことはありませんでした。他の人達の驚きと好奇心のまなざしを観るためでした。義兄の友達たちもデイトジャストを買いだしました。但し、白文字盤を手にした人は皆無で、『売ってくれ』、『交換して欲しい』と何人もの人達から言われましたが、今も自分の腕に着いています。この頃、何人かの人達がパテック・フィリップの時計を付けていました。名前を聴くと『カラトラバ』と教えてくれました。奇麗な時計で『¥80万円だよ』と言われましたが、本物かニセモノかわからないので、名前だけ覚えました。カラトラバ・スモール・セコンド1秒を12コマで刻んでいるように見えます。パテックの時計で、今は観ませんが「文字盤がバンドと一体になっている時計をはめている人がきました。値段を聴くと『¥4...時計ブーム

  • 憧れのロレックス

    この頃、義兄の仲間内で流行ったのが、「ロレックス」のデイトジャストでした。防水で日付を確認でき、ベゼルがホワイト・ゴールド、今までにない時計でした。義兄の若い衆の殆んどが、デイトジャストを腕に付けていました。義兄は、上に頼まれて沖縄の同僚の墓参りに行きました。一度も会った事が無いそうですが、上からの頼みですから仕方無いですね。当時、沖縄はアメリカ統治で、そこでロレックスを買い、日本に持ち込みました。その時、義兄と一緒に沖縄に行った若い衆は、全員デイトジャストを買って日本に帰って来ました、5~6人のおのぼりさん達です。『税関で質問されたら、日本から付けて行ったと云え』と教えたそうですが、箱を持ち込んで税金を払った人もいたそうです。ですから、僕のデイトジャストは、箱も仕様書もありません。いくらで買ってきたのか知りま...憧れのロレックス

  • 水戸ッポのヒロシさん

    水戸ッポのヒロシさんの和服姿は、高倉健に仁義を教えたと云うだけあって、映画に出てくる粋な男の出で立ちでした。ヘヤースタイルは、池部良に似ていました。左右は刈上げ、7:3に分けていました。厚手ウールの角袖に、紺か茶の大島を着て、袖は筒ッポでした。着物の仕立てで生計を立てていた母に、筒ッポにする意味を聴きましたら、『立ち回りで、動きやすくするためよ』と言われました。その世界では、普通の袖にすると動きが悪くなるので、筒ッポにするのが普通だったようです。和食の板前さんの和服姿を観れば、ツツッポの袖口が多いそうです。腹にサラシをきつく巻き、喧嘩の時は、濡れた新聞紙をかませるか、サラシを濡らすとドスが入らないと云っていました。足元は、黒の足袋で着物に合わせた鼻緒の雪駄でした。足袋も、コハゼの数を指定していたそうです。池部良...水戸ッポのヒロシさん

  • 彼は、お洒落でした

    この稼業に携わっている人達は、それぞれ独自のお洒落感を持っていました。殆んどの人達のスーツは、オーダーで、裏地やボタンなども指定していました。僕も真似をしていましたが、浮世絵の裏地などはしないで、普通にアルパカの生地で、ボタンは、水牛か貝を指定しました。東映の高倉健に仁義の切り方や着こなしを教えたのは、『俺達だったんだよ』と云っていました。又、大泉学園の東映撮影所で、スター達の用心棒もしていたと、話していました。義兄が否定しなかったので、本当だろうと思います。西武池袋線の富士見台に住んでいたのに、東映撮影所に行った事がありません、惜しい事をしました。高倉健と池部良彼は、お洒落でした

  • 義兄の若い衆の一人

    『お金を貯めるのは、大変だよ~。最初は¥500万円貯める事からだね。¥500万は、案外早く貯まると思うけど、そこからが大変だ!¥1000万を、貯めるのは難しい。1000万円貯められたら、たいしたもんだ』『は~、そうですか』『あると思うと使っちゃうし、直ぐに貯まると思うと使っちゃうし、¥1000万円がヤマだな』この言葉は、今でも覚えています。この若い衆は、近くに住んでいましたから、毎日顔を出していましたし、池袋のサルビアにも一緒に行っていました。名前は忘れましたが、顔は覚えています。水戸の生まれだと話していて、剣道が得意だと云っていました。義兄の他の若い衆は、水戸ッポと呼び、義兄は、ヒロシと呼んでいました。顔は浅黒く、髪は刈上げで、7:3に分けていました。義兄の若い衆の一人

  • 本当に出来るのだろうか?

    『この仕事用のお金¥100万円は、お前にやるから親から借りなくても良い。この仕事をやれる男を探していた。お金が入ると酒や女に使う奴が殆んどだ。その点、お前はお金に固いとみたから、話した』『そこまで言って貰えるからには、一生懸命やるので、教えて下さい』と云う事で始めました。始めましたと、云った所で、何も分かりません。義兄も誰かに教えて貰って始め、時間の経過で慣れたと云う感じでした。義兄は、悪い事をしていないと云う信念を持っていました。今現在、義兄がやっている仕事に付いて、本屋に行き、やり方が書かれている本を探し、何冊か読みました。そして、頭で理解する事から入り、義兄に実践している事を聴き、義兄のやり方を、本に書かれているようなやり方、言い方に直し、お客さんに説明し、納得してもらいました。本当に出来るのだろうか?

  • 義兄からの提案

    『今、俺がやっている仕事を、引き継げ。1~全部教える!お前がここに来てから、行動をジッと見ていた。無駄な事にお金を使わないし、必要な事にはお金を使う、お金にケジメが有るから、お金を任せても大丈夫だと思った』『え~、でも、無一文だよ』『この仕事のお金が100万円ある、これを全部、お前にやるからやってみろ!後で返せなどとは、言わない』『100万円、こんな大金見た事もないし、失敗したら返せないし・・・』『もし、ダメになったとしても、返せなどとは言わないから安心しろ』『じゃ~、そのお金、母に借りるから、仕事を教えて下さい』’67年~’73年頃の池袋、すごく懐かしい池袋上の写真には、知っている人が写っている様な気がします。自分自身が歩いていそう、義兄からの提案

  • 思いがけない話が、、、

    僕が、姉の家に居候するようになったのは、‘68年3月頃からです。当然、姉から義兄には話が通っていました。条件は、車の運転免許取得と空きのある時間には、義兄の運転手をする事でした。時間が無い時とは、学校へ行く時と勉強する時でした。入学は出来ましたが、学校へ行くのにお金が必要です。入学金と勉強道具の購入資金は、高校を出てから2年間働き貯めました。入学金と勉強道具購入代金は、20万円でした。(2年後、同級生の初任給が税込み¥3万円でした)入学しても、毎月の月謝や他の経費が必要になります。アルバイトを探そうとしていた時、義兄から話が出ました。思いがけない話が、、、

  • 義兄の自慢話2

    もう一つは、中野に闇市があった頃だそうです。大学生のアルバイトで、パチンコの景品買いをしていたそうです。アルバイトと云っても、自分自身で売買していたそうです。自分自身で売買してたという事は、闇営業ですね、大学生で・・・『ハットを被ったアンちゃん達が3人、露店の堅気の人達をいじめていた。多分、ショバ代を寄こせとか言っていたのだと思う』『アンちゃん、止めなよ』と注意したけど、こちらをニランデて粋がってる』もう1度、『アンちゃん止めなよ~』と、云ったら、殴りかかって来た。『それも3人でだよ』『それで、よけながらパンチさ~!ボクシングをやってると、相手の動きは止まって見えるし、次の動きも読めるから、3人でかかってきても、よけられる。ハットを飛ばして殴り掛かって来ても、相手の動きが読めるって凄いだろ、もう~、周りの人達か...義兄の自慢話2

  • 学生時代の義兄の自慢

    義兄にも面白い話があります。当時義兄は、ボクシング部の大学生だったそうです。池袋西口の駅の真ん前で、カラマレタそうです。後で分かった事ですが、相手は3回戦ボーイだったそうです。「3回戦ボーイに喧嘩を売られてよ~、『止めなよ』と云ったんだけど、殴り掛かってくるから、このままだとヤラレル、よけながら、手を出したら、丁度チンに入ってよ~、西口の砂利道に打ちのめしたよ』嬉しそうに話します。その後、『俺は、プロに勝った』と皆に自慢したそうです。自慢になりますよね~!学生時代の義兄の自慢

  • サルビアでの乱闘

    サルビアで乱闘があったと義兄が話しました。当時、義兄の若い衆に国士舘大学のボクシング部の学生がいたそうです。池袋には、当時有名な空手家がいて道場を開いていました。そこの道場の師範代が、ボクシング部の大学生と喧嘩になり、ノされたそうです。喧嘩の原因は、聴きましたが忘れました。義兄は、自分がボクシングをしていたので、ボクシングは強いと云って譲りませんでした。それと、ボクシングの動体視力は、他のスポーツより優れているし、スピードが速いと云っていました。プロのスポーツ選手でも『学生には叶わない、何故なら、彼らは朝から晩まで1日中、1年中練習をしているから、運動している学生の強さは半端じゃ~ない、正し、学生は、奇麗な試合をしようとするのが欠点だな。学生チャンピオンの桜井孝雄の試合を見れば分かるよ』この話が、有名な空手家の...サルビアでの乱闘

  • 池袋西口の美人喫茶「サルビア」

    美人喫茶と云うだけあって、並みより上の女性達でした。女性達は思い思いの服装で接客していました。今のウエイトレスが着ているような、動きやすい服装ではありません。当時の女性歌手が着ていたような、ひらひらした薄手の服装でした。だからと言って、男に媚びるような事はありませんでした。義兄を含め、都会出身者は殆んどいない人達の集まりですから、彼女達に憧れがあったのかもしれません。決して、変な真似をする事はありませんでしたし、彼女たちも、変な真似はされないし、何かあったら、守って貰えると安心して付き合っていました。サルビアには、毎日通いました。通いましたと云うより、出勤でした。土曜日、日曜日の休みもありません。行けば誰かが待っていましたし、話相手には困りませんでした。寂しかったら「サルビア」、嬉しかったら「サルビア」でした。...池袋西口の美人喫茶「サルビア」

  • 昭和42年頃の池袋西口

    家は練馬でした。殆んど毎朝10時頃家を出発し、池袋に行き、義兄たちの仲間と過ごす事が多くなりました。運転免許を取り、義兄の送り迎えに、自動車を買って貰った事も一因でした。学校に行くのも、ここが起点でした。学校が早い時は、電車で通いました。殆んど毎日、池袋西口の東武デパート近くにいました。東武デパートを出て立教大学の方へ行くと、「サルビア」と云う美人喫茶在り、そこがたまり場でした。どこに行くにも、この店が出発点でした。『サルビアに行くからよ~』と云うのが、義兄の決まり文句でした。この店の裏手にある駐車場は、1日200円で置きたい放題でした。サルビアの中央の良い席を、毎日10人以上が占めていました。他のお客さんの迷惑になるような事はしませんし、迷惑をかけるような客が来ると、用心棒のような役目をしていました。行く所が...昭和42年頃の池袋西口

  • 免許取得です

    僕は学校に行くので、住む所を探さなければなりません。姉に相談しましたら、『内から通えば良いよ』と言ってくれました。そして、義兄に話を付けてくれました。『内から通うのだから、時間がある時は運転手をしてくれ、その代わり自動車を買ってやるから、免許を取れよ』と言われました。免許を取るお金は、母に出してもらいました。義兄に、池袋の自動車教習所に連れて行ってもらい、通いました。義兄の兄弟分が関係している、教習所だとの事で、順番を取るのも、電話1本で済み、楽でした。『仮免を取った人の中では、この教習所始まって以来の1番良い点数でした。上手だからと云って、無茶をして、事故を起こさないように、余計気を付けて運転するんだよ』と教官に言われました。義兄の兄弟分が関係しているだけあって、親切丁寧でした。静岡の地元では、免許を取れなく...免許取得です

  • 想像はついた、だから観ない

    義兄の若い衆が池袋で大事をしました。他の組の若い衆達が、歩いている真ん中へ、車で突っ込んだと云う話でした。誰を狙ったのかは、分かりません。取り敢えず、喧嘩を売ったのか、買ったのかしたのは、間違いありません。義兄は話をつけるために、何回か出かけ、ケジメ手来ました。改めてちょっとした包みを持ち、出かけました。こちら側の落ち度なのでしょう、後の事を考えないで、行動をおこす、こう云う若い衆が居ると、迷惑な事もありますが、役に立つ時もあります。その時のために、我慢をしなければと、思うのが上の人達なのでしょう、自分でケジメをつけられないのに、喧嘩をするとはと考えてくれれば、1段階上がれるのに若い衆の不始末を、ケジメなければいけないのが上の立場の人達なのです。変な人達の世界です、箪笥の中に、白い半紙に包まれて箱に入ったモノが...想像はついた、だから観ない

  • 名前の順番は?

    『この名前を書く人は大変だね、いつも順番を覚えていなくてはいけないものね。入れ替わりもあるだろうし、良く覚えていられると思うと感心する』『この名前の順番を間違えると、同じ組でも喧嘩になるし、違う組ならなおさらだな。順番を間違わないで書く人は、限られた人になるよ。俺の友達で、お前も知ってるXXが書いてるんだ。全部の組から頼まれてるよ』いざこざで、もめるのは、案外下の人間のようです。上の人達は案外仲良しです、表面上かも知れませんが、でも、案外穏やかな人が多いように思います。出来れば、もめ事を起こしたくないと、思っているのではないでしょうか、義兄の弟だと分かっている、からかもしれませんが、こうなると、姉のお陰かも?懐かしいな~と、思います。名前の順番は?

  • 巻手紙の名前の順番

    『こう云う手紙を出す人たちは、生活費を稼ぐのが大変なんだよ、警察の取り締まりがきつくてよ~、特に関東は警視庁だから、な~』と笑顔で話します。『は~・・・、前から後ろまで、人の名前が書かれているけど、順番はあるの?』『そりゃ~あるよ、どこに書かれているかで、金額が違うんだ、俺の場合は、真ん中だから¥3,000円、前と後ろの、この辺りの人達は、¥5000~¥1万円。だから俺の場合は、毎月¥30万~40万位かかる。生活費と若い衆との付き合いで¥150万/月は必要だな、作るのが大変だよ』思っていた以上に、封書が来ていたんだと思いました。それと、他の組織だと、若い衆からお金を取るような話を聴きますが、義兄は逆で、小遣いを上げていました。『他の所は、若い衆からミカ締め料とか云って取るとか聴いてるけど、どうして取らないの?』...巻手紙の名前の順番

  • 毎日届く、巻紙の手紙

    この頃、毎日義兄に封書が届きす、それも巻手紙で、時代劇の映画の手紙のようでした。1日1通の事もあれば、3通以上の時もありました。その手紙の量は、50~70通/月位でした。『全部、お葬式の通知だよ。中には数年前に亡くなった人のお葬式もあるよし、10年以上前の人の事もある』『え~、どうして?』『お金がないから、集めるのが大変なんだよ。生活費を稼ぐんだよ』と笑いながら話します。『は~・・・、前から後ろまで、人の名前が書かれているけど、順番はあるの?』西口か東口か分かりません大戸屋は、東口だったんですね、東口は、西武デパートしか分かりません毎日届く、巻紙の手紙

  • 新しいデパート

    姪が産まれた頃は、池袋のデパートですませていましたが、ちょっと遠くに新しいデパートができ、新聞広告も出ました。東京の町中をスムーズに運転できるようになったし、出かけました、「二子玉の高島屋」。いつも行くのは平日で、人もまばらでガラガラでした。大きな駐車場もガラガラで、好きな所に停められました。新しいデパートで人もまばら、商品は高級品揃い、特にドレッサー売り場に行くと、並んでいる商品は、殆んどヨーロッパからの輸入品、150万円前後でした。こんな高級品は池袋のデパートでは、見る事がありませんでした、驚きで、目が点です!田園調布~成城まで、高級住宅街の真ん中に位置すれば、その内、売れるのが、分かっているのでしょう、僕が、姪の乗った乳母車を押し、姉が横を歩いていると、夫婦に見られているような、視線とヒソヒソ話を感じまし...新しいデパート

  • ドライブに行こう!

    姪が産まれて、『ドライブに行こう』と姉に言われると、『デパートに行こう』と云う合図でした。姉は、甥の時もそうでしたが、子供を着せ替え人形の代わりだと思っていました。子供の頃、貧乏だったので、人形が欲しくても買えなかったからでしょうか、最初の子供の甥は、男の子としては、女の子のような顔立ちだったので、女の子のような洋服を着せていました。男の子ですから、スカートは、はきませんが、上下ともモノクロの感じでした。『可愛いお姉ちゃんね~』と通りすがりのおばさんに声を掛けられ、『オリャ男だぞ』と言い返した事があります。多分4歳位だったと思います、『え!ご免なさい』とおばさんは言い、逃げるように立ち去りました。姉と母は、『すみません』と申し訳なさそうに謝っていましたが、僕は、顔と言葉のギャップで大笑いでした。池袋のデパートは...ドライブに行こう!

  • ドライブに行こう

    姪が産まれてから、義兄は帰宅が早くなりました。初めての子供ですから、嬉しかったのでしょう、『ブチュ、ブチュ』と言い、ホッペにキスしていました。自分の子供は、可愛いですね。子供が生まれる前の姉に、『ドライブに行こう』と言われると、ガソリン満タンと洗車をしに江古田近くのGSに行きました。帰りは、向かい側の墨国(メキシコ)で、茶とケーキ付でした。この墨国、「茶平」と名前を変え中華だそうです。広い駐車場があり、便利でした。江古田にある茶平(チャーペイ)という中華屋さん、前は墨国(メキシコ)大飯店という名前だったそうだ。洋食屋で香港というのも西落合にありますな。他にも紛らわしいのありそう。むかーしマドリッドにマイアミっていう定食屋があったな午後2:05·2012年8月18日·Twittelator茶平(新桜台/中華料理)...ドライブに行こう

  • 姉のお産

    姉が妊娠し、近所の産婦人科に入院しました。学校帰りに病院により『調子はどう?』と聞きましたら、『1時頃生まれたけど、未熟児で日赤に入院するために、連れて行かれたわ』時計を見たら3時でした。『へ~、未熟児って、どの位の重さ?』『1400gだって』『へ~、小さいの?赤ん坊って、みんな小さいじゃない』『小さいのよ、1000g位小さいの』『じゃ~小さいね、日赤って、どこにあるの?』『広尾よ、今度連れてって』『うん、良いよ』義兄、姉と3人で、しょっちゅう広尾の日赤に通いました。入院して、直ぐ黄疸が出て、痛々しい感じでした。小さいながら、いきるのに頑張っていると、感心しました。半年位入院したでしょうか、無事退院出来ました。この写真は、いつ頃でしょうか?今の正面入り口らしいですこの話の時代には、木造のバラック小屋も建っていま...姉のお産

  • 初めての車

    車の免許は持っていないので、助手席に座るのが好きだった義兄でした。『ドライブに行こう』と言われると、殆んど箱根方面を目指しました。僕の運転で、姉と甥、姪が後席に座ります。最初の休憩場所は、東名の海老名休憩所でした。『お茶飲もう』義兄は、このフレーズが好きで、どこに行っても何回も言いました。最初に行くのは、トイレです。トイレに行く前か、出て来た時に、必ず声を掛けられました。『お~、久し振り』『お~、元気だった』『久し振り、どこへ行くの?』『お~、兄い、どこへ行くの?』大体、こんな言葉を投げかけられ、『こんちは、元気そうで』『こんちは、お元気そうで』『こんちは、ドライブですか?』こんな決まったあいさつをしていました。『知り合いなの?』『うん、OO組の親分』『うん、△組の兄弟分』組は違っても、普段は普通のあいさつを交...初めての車

  • 若い衆に聴いた話

    『兄貴は言わないけれど、この集まりで、やってはいけない事が三つある。堅気をいじめるな。女で食うな。薬に手を出すな。『この三つを守らないと怒るよ』と教えてくれました。一般的には普通の事ですが、一般的では無い人達の集まりですから、外れる人もいたようです。外れた人は、他に出て行ったそうです。それと、義兄に対しての口のききかたで、もめた事がありました。元日に直接の若い衆が集まります、その時、自分は実家に帰っていましたので、聴いた話です。その集まりで、口の利き方が悪いと、兄貴分を殴った年下が出ました。それも、ガラスで作られた、大きくて重い灰皿で頭を思いっ切り殴ったそうです。殴られた上の若い衆は、救急車で運ばれたそうです。殴った若い衆は、引きませんでしたが、殴られた若い衆が自覚したのだと思います。それと、直接の若い衆達です...若い衆に聴いた話

  • 射撃練習は、どこでするの?

    散弾銃を持って行ったのを見たので、『撃った事はあるの?』『そりゃ~あるよ。ハジキも撃ったよ。色々な種類のハジキを撃ったけど、当たらないな、映画とは違うよ』と云っていました。『よく映画で、腹にハジキを差しているだろ?』『うん、あと背中にも隠すね』『ハジキは冷たいから、後で腹を壊す、映画とは違うね』『腹にハジキを指すのは、ほんの一時だけ、後でピ~ピ~になっちゃって大変。腹にさらしを巻くだろ、腹を守るためもあるけど、何かを隠す目的もあるね』『ピストルは、当たるの?』『当たらないよ~、5mでやっとかな~。10m離れたら全然当たらない』『どこで練習するの?』『浜辺か山の中だな、それも夜中、音がすごいから海が多いかな』との事でした。射撃練習は、どこでするの?

  • 若い衆は、何人?

    10日位で義兄は、若い衆2~3人と一緒に帰って来ました。何事も無かったようで、無事でした。姉の話では、義兄は相当な顔で、直接の若い衆は10~12人位いるとの事でした。この事を直接義兄に質問しましたら、自分の直接の若い衆は、姉が言っていた人数と同じ位で、その若い衆に若い衆が付くから、全体で100人位いるとの事でした。散弾銃を持って行ったのを見たので、質問しました。『撃った事はあるの?』義兄が持っていたような「上下2連散弾銃」狩猟などに使う一般的な上下2連散弾銃西部劇で、駅馬車の護衛官や保安官などが持っていた銃散弾銃-Wikipedia8月8日(日)朝食を食べ、うたたねをしましたら、風邪をひいたらしく、日替わりで、寝たり起きたりでした、、、若い衆は、何人?

  • 若い衆の若い衆は、若い衆!

    桐生から10日位で義兄は、若い衆2~3人と一緒に帰って来ました。何事も無かったようで、無事でした。姉の話では、義兄は池袋で相当な顔で、直接の若い衆は10~12人位いるとの事でした。この事を義兄に質問しましたら、自分の直接の若い衆は、10人位だけど、『彼らに若い衆が居るから、全体では、100人位いる』との事でした。風呂屋で『お前、誰の若い衆?』と聴いたら、『池袋のXXXさんです』と言われたよ、『俺がXXXだよ』と言ったら、『OOOOの所です』と言われた。『あ~、そうか、真面目に勤めろよ』と言っといた。『今は、真面目な男が少なくなった』と云っていました。昭和30年代後半から40年代初め頃の池袋だそうです。言われれば、その様な気もします。焼き肉屋で、ビビンバを食べさせられたのは、この頃です。ビビンバ丼の上からスープ...若い衆の若い衆は、若い衆!

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