ジョンの小学校時代からの友人デイビッド・アシュトンはジョンの家庭生活について詳しく知っている一人だ。彼によれば、ジョンは母親をすごく愛していたが、母親と別々にミミ伯母さんのところで暮らしていたので、良くミミのところを一緒に抜け出して母の居るスプリングウ
ビートルズが大好きなオヤジです。定年を迎えて、あらためてビートルズの魅力に触れたいと思います。
ビートルズ・ストーリー 407 地位が上がったジョージの一曲
アルバム『レット・イット・ビー』の4曲目はジョージが作った「アイ・ミー・マイン」。 ジョージはこの頃ビートルズの中で作者としての地位が上がってきていました。それは「サムシング」や「ヒア・カムズ・ザ・サン」などジョンやポールに負けないほどのヒット曲を作っ
アルバム『レット・イット・ビー』の3曲目はジョンが作った「アクロス・ザ・ユニバース」。 曲名もさることながら、「言葉が飛び出していく 終わりのない雨のように・・・・」で始まるこの歌は壮大で緊張感あふれ、美しいメロディーとともにいつまでも脳内に沈殿してい
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ジョンの小学校時代からの友人デイビッド・アシュトンはジョンの家庭生活について詳しく知っている一人だ。彼によれば、ジョンは母親をすごく愛していたが、母親と別々にミミ伯母さんのところで暮らしていたので、良くミミのところを一緒に抜け出して母の居るスプリングウ
クリオーメンのドラマーだったコリン・ハントンは、ジョンと母ジュリアの様子を身近で見ていたため、突然のジュリアの死を簡単には受け入れられなかった。そして思い出深く、こう述懐している。 「ジョンの母親、ジュリアに初めて会ったのは、ジョンに会いにメンディップ
母ジュリアを失った3人の子供はジョン18才、その異父妹のジュリア11才とジャッキー8才であった。この子供たちは完全にうちのめされたが、父親不在の中、それぞれが対処していかなければならなかった。妹たちは学校を中心に組織化された規則正しい生活を送り、放課後
ジョンは母が亡くなってしばらく、ミミ伯母さんの妹ハリーに預けられた異父妹たちと以前のように会うことはなくなった。ただまったく会うことがなくなったということではなく、異父妹のジュリアたちが、同じリバプールに住むようになったので、ジョンがミミ伯母さんと一緒
母ジュリアが亡くなって後、ジョンとその異父妹たちの生活は一変した。 ジョンは、元々一緒に住んでいたミミ伯母さんのところに帰れば良かったが、妹たちは簡単には身の振り方が決まらなかった。彼女たちが、母ジュリアが未婚で生んだ子供だったことが、大きく影響したの
ジョンは、母ジュリアのパートナーのボビーとタクシーを飛ばしてセフトン総合病院に行き、死んで横たわっている母と対面した。ジョンは母を見ることに耐えられなかった。数分の面会後、病院のロビーで、ボブはジョンの腕の中で泣き崩れた。ジョンは心が凍り付いていたのだ
ジョンにとって、人生に多大な影響を及ぼした事件が1958年7月15日に起こった。ジョンはそれを振り返り、こう言った。「俺は母を2度亡くした。5才の時と17才の時にね。そのせいで心がとても苦しくなった。母が殺されたとき、俺は母との関係を築き始めたところだ
1958年2月までに、クオリー・メンはジョンとポールがシンガー兼ギタリスト、ギターのエリック、ドラムのコリン、茶箱ベースのレンという構成になった。ところがレンは髄膜炎を患い、数カ月間入院したため、グループを脱退することになった。マネージャーのナイジェル
ジョンの母ジュリアと異父妹たちが住む、スプリングウッドの家に来るミュージシャンたちに、ポールが加わり、リハーサルはさらに熱を帯びて行った。キッチンは、小さなクラブやタレント・コンテストに向けての練習場になっていた。 ポールの母親が、前年にガンで亡くなっ
ジョンはクオリー・メンに加入した最年少のポールが自分の地位を脅かすのではと危惧していた。第一ポールは、ジョンよりギターを上手く弾くことができたし、風貌がジョンの好きなエルビス・プレスリーに似ていることで、焦りに拍車をかけたのだった。ポールのメンバーへの
ジョンをリーダーとするクオリー・メンの活動は、経済的に満足の行くものではなかった。16才になったジョンはタバコを吸っていた(当時イギリスでは、喫煙の年齢制限が無く16才のジョンは喫煙できた)ので出費も多く、お金はまさに燃えるごとく消えていた。ライブはも
ジョンは当初、ポールについて二つの異なる見解を持っていた。ジョンはポールは年下にもかかわらず社交的で、その性格に脅威を感じたことが1つ。そして異父妹のジュリアの感想では、ジョンは、もしポールが加入したならば、ポールにグループのリーダーとしての地位を奪わ
1957年7月6日土曜日は、見事に晴れた日だった。その日、リバプールのウールトン地区で開催されていたウールトン祭の公開イベントが、セント・ピータース教会の庭園で行われ、クオリー・メンも出演していた。人々の衣装もそうだが、花飾りを着けた車両の装飾も見事な
ジョンの母ジュリアがクオリー・メンの演奏を観る機会は限られていた。一般に母と息子がべたべたするのは、はばかれるものだ。ジョンもジュリアもそうだった。ジュリアは息子の活動に協力的だったし、音楽好きだったことも幸いして、ジョンの音楽活動を陰に日向に応援して
世界で最も成功したロックバンドとされているビートルズにも、普通のバンドと同様、最初は成功を夢見る若者たち、誰もが経験する下積み時代があった。ビートルズの前身、「クオリーメン」がリバプールのライブスポットの1つ「キャバーン・クラブ」に初めて出演したのは、
ミミ伯母さんの秘密は、ジョンにも母ジュリアにも気づかれないまま、母ジュリアはスプリングウッドやメンディップスでジョンと一緒にいられる時間に、ただ喜びを感じていた。制約があるゆえにその喜びはとても大きかったと想像できる。ただ、ジュリアが帰宅した後、下宿学
後年死の床で、ミミは自分のことを「悪女」と呼んだ。ミミがジョンと母ジュリアとの普通の親子関係をさせなかったこと、その悪魔のような態度の裏で、26才年下の下宿生マイケルと不倫関係を続けていたからだ。さらにマイケルからジョンの異父妹のジュリア・ベアードへの
人には、表面的にはうかがい知れない内面の秘密があるものだ。しかし、その人からは思いもよらない、意外な側面が明るみになったら、身近な人間は、どのように対処すれば良いのだろう。ジョンにとっての重要な人物、ミミ伯母さんは厳格な人物として、ジョンと母ジュリアの
ジョンと異父兄妹ジュリアたちは、母のパートナー(ボビー)とよく遊んだ。その中でも、振り回す遊びは乱暴そのものだった。また飛行機遊びというのもやった。それはジョンがボビーの真似をして、妹を空中に浮かせて飛行機が飛ぶような恰好をしていた。しかしジョンは手を
ジョンは妹たちを連れて、エルビス・プレスリーの映画「ラブ・ミー・テンダー」や「監獄ロック」を観に行った。そのころ野良猫を飼いだしたが、母ジュリアは名前を「エルビス」と付けた。当時避妊処置が普及していなかったのか、この猫は6匹の子猫を生んだ。この時期は、
ジョンをミミ叔母さんのところへ預けたジュリア(正確には、ジュリアに新しいパートナーができたためジョンへの悪影響を考えたミミ叔母さんの判断により引き取ったのだが)、そのジュリアに驚くべき事態が発生した。 船乗りとして長いこと家を留守にし、行方が分からなく
ジョンが母ジュリアから完全にミミ叔母さんに引き取られた経緯はジュリアの奔放な性格が寄与しているようだ。 1945年の秋、ジョンはモスピック・レーン小学校の幼児クラスに入学した。ジュリアはその小学校の近くにあるカフェでウェイトレスのアルバイトをしてジョン
ジョンがミミ叔母さんのメンディップスの自宅に泊まるようになったのは、母ジュリアが妊娠して体調を崩していたため休息する必要があり、幼いジョンの世話が満足にできなかったからである。この時ジョンは4才。ミミ叔母さんの夫ジョージはジョンをとてもかわいがった。こ
ジョンが母ジュリアの姉ミミ叔母さんのところで生活をするようになった経緯は複雑だった。 ジュリアの夫アルフは船の給仕として働くため長く海に出る期間がどうしても発生した。その期間はジュリアとジョン二人きりの生活になった上に生活費はアルフからほとんど入ってこ
ジョンは生前、自分は母ジュリアを2度亡くしたと言っていた。5才と17才の時だ。5才の時はジョンの叔母ミミに預けられたこと、17才の時はジュリアが交通事故で亡くなったことである。 ミミ叔母さんに預けられた時は幼かったため「なぜ」に対する答えは理解できなっ
ストロベリー・フィールズを公園として整備するに尽力したのがジョン・レノンの異父兄妹のジュリア・ベアードだ。彼女はジョンの母ジュリア(ホワイト・アルバムの中にある「ジュリア」のモデル)とジョンの父(アルフレッド・レノン)とは異なる父(ジョン・ダイキンズ)
ビートルズが生まれ育った町、リバプール。そこにはビートルズゆかりのの場所が目白押し。 日本から一度は行ってリバプールの空気を吸ってみたいと思い、まだコロナ禍が始まる前の2015年4月に成田→ドバイ→マンチェスター→リバプールと旅した。 あれから8年、
アルバム『パスト・マスターズ Vol.2』の15曲目は「ユー・ノウ・マイ・ネーム」。 シングル「レット・イット・ビー」のB面に収録。捧腹絶倒、お遊びソングだが妙に魅力的なのはなぜか。それは楽しんでいることにつきます。楽屋裏を生々しく見せていて、もっとも
アルバム『パスト・マスターズ Vol.2』の14曲目は「レット・イット・ビー」。 ポールが作った曲。今やスタンダードとして君臨する名曲。例えば電話の保留音として広く使われていますね。 この曲はシングル・バージョンとアルバム・バージョンで違いが大きい。こ
アルバム『パスト・マスターズ Vol.2』の13曲目は「アクロス・ザ・ユニバース」。 ジョンが作った曲。優しいジョンのボーカルとアコースティック・ギターの音色がたまりません。 良く聴くと女性コーラスも入っている。彼女らはたまたまスタジオの前でたむろし
アルバム『パスト・マスターズ Vol.2』の12曲目は「オールド・ブラウン・シュー」。 シングル「ジョンとヨーコのバラード」のB面として発表された。 バックに流れるハモンド・オルガンはジョージが担当。 疾走感溢れるサウンドは、ポールでもジョンでもない
アルバム『パスト・マスターズ Vol.2』の11曲目は「ジョンとヨーコのバラード」。 言わずと知れたジョンとヨーコのハネムーンの顛末を歌ったリアルで私小説的な1曲。 内容は英国領ジブラルタルでの結婚式、反戦を訴えたベッド・イン、偏見を批難したバッグ・
アルバム『パスト・マスターズ Vol.2』の10曲目は「ドント・レット・ミー・ダウン」。 「ゲット・バック」のB面を飾りジョンが作った。この曲はジョンがヨーコに励ましの意味を込めて捧げたもの。アップル・ビルの屋上ライブ(1969年1月30日)でも演奏されてい
アルバム『パスト・マスターズ Vol.2』の9曲目は「ゲット・バック」。 ポールがジョンに向けて「ヨーコにお熱を上げずに、バンドに帰って来いよ!」と訴えるために作った。曲のエンディングに屋上ライブ(ルーフ・トップ・コンサート/1969年1月30日)の時に発し
アルバム『パスト・マスターズ Vol.2』の8曲目は「レボリューション」。 シングル「ヘイ・ジュード」のB面になった曲。ジョンが作った。サウンドは革命(レボリューション)を連想させる激しい攻撃的なファズ・ギターと割れ気味の音を奏でる電子ピアノが印象的だ
アルバム『パスト・マスターズ Vol.2』の7曲目は「ヘイ・ジュード」。 ポールがジョンの息子ジュリアン・レノンを励まそうと作った。それというのもジュリアンはジョンと妻シンシアが離婚騒動真っ最中で不安定な立場に置かれていたため。ジョンは離婚後オノ・ヨー
アルバム『パスト・マスターズ Vol.2』の6曲目は「ジ・インナー・ライト」。 ジョージのいわゆるインド風味の曲。ボーカルはジョージだがバックはインド人が担当。他のメンバーはちょっとついてゆけないというのが本音か。でもメロディはいいねとの評価だったよう