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  • ブログ休止します。

    ご無沙汰しています。ながらく更新出来ないまま来ていた本ブログなのですが、一旦休止することとしました。理由は、端的には、現在、新たな実践を開始してそれが手一杯で更新の時間がなかなか取れないからです。自身の人生の夢はいくつかあるのですが、例えば、弁証法の収得。例えば、それなりの絵を描くこと等々。中でも、武道武術の修得=生命賭けの場でしっかりと闘えること、というのは幼い頃からの夢でした。しかしながら、昔昔の武道武術修業の古傷から、ほとんど不可能との思いになっていました。ところが、このところの四群点数法による食の見直しと海での鍛錬の成果?で、どうにかその修業が可能では無いのか、と思える様になって来ている現在です。そこで、その事に専念すべく、中途半端に放置していた本ブログも一旦休止ということにしました。ながらく、お付き合...ブログ休止します。

  • ブログ更新について

    コロナ関連で、あれこれ不安定な状態になっていってしまって、また、あれこれ新たな実践を始めたこともあって、例えば、休日には自宅での施術を始めたこともあって、ブログ再開出来ないままに来ています。夏頃には、と思っています。楽しみにして頂いている方がもしおられるとすれば、ココロから申し訳ないと思っています。ブログ更新について

  • ブログ再開について

    ブログ再開をと思いながら、また時が流れての現在書くべきこと書きたいことはしっかりとあると思えるのだが父の葬儀、諸々の手続きも終了したので遅くとも、ゴールデンウィーク前後には、と思います。よろしくおねがいします🙏ブログ再開について

  • ブログの再開について

    ブログを再開するとしてから、随分と月日が経ってしまった。楽しみにしていただいている方がおられたら、申し訳ない、との思いでいます。ようやくに、もろもろのことが終わりつつありますので、近々、ブログ再開をと思っています。再開最初は、生命の歴史を踏まえた施術の自身のイメージ、の深まりをアバウトにでも書ければと思っています。よろしくお願いします。ブログの再開について

  • 『哲学・論理学研究(第二巻)』が届いた。

    『哲学・論理学研究(第二巻)』(悠季真理著)が届き、早速に読み始めた。弁証法的ということのイメージが大きく広がりかつ深まったと感謝の気持ちで一杯である。例えば、「法」というものの原点から説いてくださる中で、巫女だとか神のお告げを伝える王(支配者)がそもそもどういうもの、ことであったのかを説いてくださっているが、「そういうことなのか!?」と目から鱗の思いで読んだ。自身では、「神のお告げ」というものは、民を従わせるための方便(うそ)と捉えていたのだが……。これから「第二編古代ギリシャ哲学、その学びへの招待〔後編〕」へとよみすすめるのであるが、そこで説かれる(と予告されている)「古代ギリシャ哲学を誕生させたオリエントの世界歴史的役割」に興味津々、期待を膨らませている。一年の最後に素晴らしいプレゼントをいただけたと、喜...『哲学・論理学研究(第二巻)』が届いた。

  • ブログ再開の予定

    連休中にはブログ再開していきます🙏ブログ再開の予定

  • スマホを変えた。

    引っ越しで大きく環境が変わり、アタマの働きも変わりつつあると思える。ならば一緒に、との思いでスマホも変えた。おかげで、gooブログにも入れずであったのだが......。スマホを変えた。

  • 引越しの効用〜Change the place, Change the brain!

    こんばんは。引越しを終えて、現在12月施術所オープンに向けて片付けに追われています。引越しを終えて、Changetheplace.ということの大事性、そのことがどれほどにChangethebrain!してくれるかを実感しています。詳細には、引越し後の片付け落ち着いてからの予定ですが、自身のアタマ(とココロ)の働きが引越しによって大きく変えられて、大変だったけれども引越して良かった、というのが現在の率直な思いです。みなさんも是非ともChangetheplaceを、とおすすめしておきます。引越しの効用〜Changetheplace,Changethebrain!

  • ブログ更新について

    このところ完全に本ブログを放置状態にしてしまっている。この1年ほど引っ越そうとして諸々の条件から引っ越せないでいたのが漸くに、一気に何もかもが進んでというのが一番の理由であるとの言い訳が浮かばないでは無いが......。本質的には、書くべきことが無かった書くだけの日々の研鑽を積めなかったというべきだと思う。その現象的な理由としてあげている引越しも順調に進んで、10月下旬には引越しを終えている予定である。併せて、念願であった施術所の開所も出来る筈である。引越し後落ち着き次第ブログ再開したいと思う。Changetheplace,Changethebrain.を実感しているので、引越し後はもしかしたら、少しはまともな文章が書けるのでは、書かねばならない、と思っている。引き続きお付き合いいただければありがたいです。よろ...ブログ更新について

  • 「書くことは考えることである」とは〜(ヘーゲルの)絶対精神の自己運動として全てを書く=考えること〜

    昨日の終戦記念日に思うこと。戦争・終戦という社会の激変レベルの変化があったから、その時代を生きた先輩、先生方は無いのかと。これはヘーゲルにおいてもそうであるし、そもそもの古代ギリシャという弁証法の誕生の時代もそうであったのだと(個体発生は系統発生を繰り返す)。より構造的にいえば、社会の激変ということの羽根井としてのアタマの中の激変=運動という像があってこその、納得、実感レベルでの弁証法の学び、修得が可能となっていったのではと思える。ここは別言すれば、形式、知識としての弁証法をいくら熱心に学んだところで、そもそものアタマの中の像が弁証法的・運動的でなければ、運動する像を生み出すような脳(頭脳?)の働きがなければ、弁証法を実感レベルでわかりようが無いのだということである。そういう意味で、コロナ禍で激変レベルで社会が...「書くことは考えることである」とは〜(ヘーゲルの)絶対精神の自己運動として全てを書く=考えること〜

  • 吉村イソジン発言〜内包と外延〜

    吉村知事のイソジン発言。言ってることの是非は別にして......これも大学の教養課程廃止のゆえか。吉村知事のイソジン発言、医師会会長の立法要請......近頃、この方達は内包と外延ということをご存知無いのかと疑ってしまう。と、自身の専門を省みれば、やはり同じく、東洋医学と西洋医学が混在し、観念論と唯物(タダモノ)論が混在している。吉村イソジン発言〜内包と外延〜

  • 大地から樹上へ〜四足哺乳類の運動とサル類の運動〜

    木登りからの枝にぶら下がっての運動行った。サル類の運動が脳の発達を促すということの中身の一つがアバウトにイメージ出来た、と思える。梅雨が明けて、海での鍛錬、河原での鍛錬がしっかりと行えるような日々が続いている。それゆえに、このところの海での鍛錬と併せてで、カイメン類→クラゲ類→魚類→(両生類)→哺乳類→サル類という生命体の進化を運動体として辿ることのミニマムな形でのほんの一コマであるが、実感出来た、と思える。サル類の、四足哺乳類がサル類へとなって行く運動というものは、それまでの変化の連続だけでは無しに、同じ動きをしっかりと力を込め続ける事で行う必要性がある、これは自身で、登り難い木に登って見れば......。このことが、アタマの中の変化する像を止める実力を培ってくれるのでは、と思える。大地から樹上へ〜四足哺乳類の運動とサル類の運動〜

  • 五蔵〜実体と機能〜

    五蔵=肝、心、脾、肺、腎は、代謝器官の機能、実体では無い。気もまた人体の機能。これら機能を次々と実体としていって、東洋医学の生理学は成立しているのか?これを唯物論的に、とは?五蔵〜実体と機能〜

  • 鍼灸の科学化とは如何なることか(覚え書)

    鍼灸(東洋医学)の科学化とは如何なることなのか?それは世界観としての唯物論を創ると直接に、鍼灸を唯物論として体系的に説く、説ききることである、と思う。鍼灸の科学化ということは、科学(技術)万能である現在においては当然のこと、当然にすでに成し遂げられていることと、外野の世界からは思われているかも知れない。自身でも鍼灸の世界に関わる以前はそのように思っていた。ところが現実は......である。鍼灸の科学化については、現在のところ、自身の管見の範囲内では大きく二つの流れがある。一つは、鍼灸と科学は相入れないとして鍼灸の科学化という作業を放棄してしまう流れ。もう一つは、西洋医学的、解剖生理的に鍼灸を解釈していこうとするものである。しかしながら、前者が問題外であるのはもちろんであるが、後者の行きかたもまた......であ...鍼灸の科学化とは如何なることか(覚え書)

  • 「古典に還れ」とは〜東洋医学の原点を問うとは如何なることか〜

    長かった今年の梅雨もあと僅かで明けそうです。梅雨が明ければ恒例の真夏の炎天下での鍛錬を行うことが出来、結果として僅かでもの前進が可能となるのでは、と思える。さて、本日のテーマ、「東洋医学の原点を問うとは如何なることか」。大きな問題にぶち当たったり、難問にお手上げとなった時に、その対処法として、「原点に遡って」とか「原点を問い直す」ということがよく言われる。これは、鍼灸、東洋医学の世界でも同じくであり、西洋医学が導入され、ウソ迷信の類である鍼灸、漢方が撲滅させられようとした時にも、「古典に還れ」をキャッチフレーズとしての「原点の問い直し」が行われ、結果として「経路治療」が誕生させられ......。しかしながら、そこで行われたことは本当に「原点」の問い直しであったのだろうか?何百年以上もの、もしかしたら何千年もの年...「古典に還れ」とは〜東洋医学の原点を問うとは如何なることか〜

  • 8時間食事術はなぜ効果があるのか〜生命のリズム(周期)に合わせて生きることの大事性〜

    8時間食事術を実践してみることで、身体の周期に合わせての食の(それゆえ運動の)大事性を実感した。6月の終わりより、8時間食事術(1日24時間のうちの8時間に食事を摂り後の16時間は基本的に何も食べない=断食=胃腸を休めるという食の摂り方)を行なっている。これまで断食を何度か行なったことがあるのだが、そのメリット(体調の良さ、増えすぎた体重の減少等)は実感するものの、そのデメリット(断食中は通常の運動が出来ない、短い期間に、例えば毎週末に何度も繰り返すと体重の減少とともに窶れる)が気になり、このところ行なっていなかったのであるが、8時間食事術を知り、これならば断食(自身の行なっていたのは48時間の断食)のデメリットも無いのでは、との思いとなって早速に行なってみた。(断食について、断食とは何かということについては改...8時間食事術はなぜ効果があるのか〜生命のリズム(周期)に合わせて生きることの大事性〜

  • 鍼灸の効果の差異について〜自然との乖離の問題〜

    癌等のいくつかの病があって治療をしている=大量に薬を飲んでいる方への鍼灸の施術行なった。なかなかに効果が出ない。身体が自然から乖離するほどに鍼灸の効果は薄いのでは?と思える。例えば、ブロック注射を受けている場合も。そう考えると、昔々は、鍼灸の効果は現在よりも、きっと大きなものがあったのでは?と思える。鍼灸の効果の差異について〜自然との乖離の問題〜

  • ストレッチ ジーンズに思うこと〜どこまでほぐすべきか?〜

    どこまでほぐすかの自身のイメージ。伸縮性のあるポリウレタンを僅かに使ったストレッチジーンズというものがある。見た目は通常の綿100%のものと変わらないのだが、通常のジーンズがほぼ伸縮性が無いのに比べて、僅かだと思われるが伸び縮みしてくれる。その僅かの伸び縮みが、履いて動くのに天と地ほどの違いを生んでくれる。本当に楽だと実感する。さて、本題の施術でどこまでほぐすか?ということ。自身では、昔々は、なるべく正常に近く、との思いがあった。それゆえに、あれこれ工夫して、何とかほぐそうと悪戦苦闘であった。しかしながら、近頃、何割かほぐせれば良いのでは無いのか?(一回の施術では)と思う様になってきた。端的に理由は二つ。一つは、それでも十分に患者さんにも満足感がある。もう一つは、ほとんどの場合に、直ぐには治りきらない=患者さん...ストレッチジーンズに思うこと〜どこまでほぐすべきか?〜

  • 鍼の打ち方〜その二重性〜

    昨日のKさんへの施術。症状に対しての施術(標治法)の二重性。覚え書。神経と経絡の二重性で鍼を打った。(灸でも良かったかもしれない、特に抹消、例えば指先)具体的には、居髎、環跳あたりの症状に対しての腎兪(大腿神経)、大腸兪(坐骨神経)と絶骨(胆経)、跗陽(膀胱経)胸部の症状に対しての経渠(肺経)とその症状の原因(神経支配として)と思われる頸部付け根へ、その部位に対しての経絡的アプローチ(小腸経)中衝(心包経)への灸も良かったかもしれない。鍼の打ち方〜その二重性〜

  • 古典の学びに必須のこと〜背後の認識を知ることの大事性〜

    古典の学びについて「文字面に惑わされること無く、言わんとすることを知ることが肝心である」と左合昌美先生がどこかで書かれている(もしかしたら直接に伺ったのかもしれない)。これは、認識論的には、言葉の背後の認識を知ることの大事性である。そもそも言葉というものは、認識の表現であるのだから、当然といえば当然なのだが。しかしながら、人類の歴史を振り返るならば、それはそう簡単なことでは無かった、と知るべきである。アリストテレスに至って漸くにその様な認識が誕生してくる。現実に、周囲を見渡し、自身を振り返って見れば、それがどれほどの難事かは......。何故ならば、それは眼に見えない世界のことであるから、相当の訓練を積まなければ......。古典の学びに必須のこと〜背後の認識を知ることの大事性〜

  • 入道雲〜梅雨明けも間近?〜

    入道雲〜梅雨明けも間近?〜

  • 8時間食事術〜=16時間断食〜

    昨日より8時間食事術始めた。その効果実感する。8時間食事術とは、すべての食事を8時間のうちに摂って、16時間は何も食べない=断食という食事法である。メリットはアバウトには、16時間しっかり内臓(主に消化器系)を休めることができる。軽い飢餓状態を作り出すことで、身体が活性化される、ということ。また、ダイエットという意味では、他のダイエット法のように食事の量や質に関する制限が無いので、身体に無理が無い。デメリットは、8時間に食事をおさめる、かつそれで必要十分な栄養素を摂取することの難しさ、か?とりあえずの、試しての実感は、空腹状態で眠ると胃腸がしっかり休めて寝起きが爽やかである、また、空腹感がそれほどでは無いので、継続しやすいだろう、ということ。継続して行きたい。8時間食事術〜=16時間断食〜

  • 脈診の矛盾〜形而上学について〜

    形而上学について学ぶと経絡治療(=竹山晋一郎)の説く、脈診の矛盾を感じる。どのように考えるべきなのか?経絡治療=竹山晋一郎は、「症は現象であり、証は本質である。我々は脈診によって証を診るのである。」と説く。しかし、である。証が本質であるとするならば、それは形而上の世界の出来事であるのだから、それを脈診=形而下の方法で診ると言うのは、あまりに無茶な話である。それは、頭脳活動、論理能力によってはじめて視れるものの筈である。それゆえに、この経絡治療=竹山晋一郎の説く、証を脈診で診るということが真理であるとするならば、証というものが本質=形而上のものでないのか、あるいは、脈診というものが、形の上では脈を見ているけれども、本当には、アタマの働きとしては、違うものを見ているのか、では無いのか?脈診の矛盾〜形而上学について〜

  • 月と人間〜現在の月の力とは〜

    月の満ち欠けが人間(=生命体)に大きな影響を与える。それは何故なのか?<生命の歴史>に尋ねれば、物質が生命体化するにあたっての、月の力の大きさは、大変なものがあるのだ、あったのだと納得される。それだけに、月の力の影響を考えての生活の調整の必要性を痛感する。しかしながら、太古の昔にはもう一つの太陽と言ってもいいほどの熱を持っていたであろう月も、現在では月自体の熱というものは無いに等しく、僅かに太陽の光を反射してである。一方で、月の引力は現在に至るも大きなものがあり、満月や新月の大潮の時には、海の波やうねりは激しくなる、大きく躍動させられる。そう考えるならば、現在においては月の影響=引力の影響なのだろうか?それとも、太古の昔、生命体の誕生に果たした月の熱、満ち欠けのリズムというものは、現在に至るも、生命体=人間のリ...月と人間〜現在の月の力とは〜

  • 中国鍼二番一寸〜仕事用の鍼〜

    中国鍼(カナケン)ステンレス鍼、二番一寸を使ってみた。これまでは銀鍼カスミ一寸を主に使っていたが、当分この鍼を使って、と思う。コロナによる職場閉鎖以来、往診で鍼を打つ機会が増えている。それ以前は、自身の職場では鍼を使うことが無い、素手での手技療法術しか行わないので、鍼を打つのは、自身に対してか家族や知人、友人に対してであった、ということもあって時間に追われることも無く、であった。しかしながら、往診で鍼を打つとなると、素早く失敗無く、時に連続してということもある。となると、打つこと自体に気を使う銀鍼、特にカスミ鍼よりは適当に打っても打てるステンレス鍼、それも鍼柄が持ちやすい中国鍼が、との思いとなって、である。中国鍼二番一寸〜仕事用の鍼〜

  • 施術の感覚〜即自、対自、即自対自〜

    施術の感覚の発展、即自→対自→即自対自。当初は自分の感覚のみ(即自)そこから、患者の立場に立っての努力を重ねていく(対自)結果として、自身の施術の感覚が同時に患者の感覚でもあるように(即自対自)施術の感覚〜即自、対自、即自対自〜

  • 運動すると筋肉(骨格、神経、血管、皮膚......)が発達するのはなぜか?〜機能が実体化する根本的理由〜

    生命の進化の歴史とはある意味、生命体が地球との相互浸透で機能が実体化していく量質転化の歴史それが可能であったのは、そもそものモノがそのような性質を持っていたからだろうか?否、それ以上に、機能が実体したモノが、生命現象→生命体であるから?運動すると筋肉(骨格、神経、血管、皮膚......)が発達するのはなぜか?〜機能が実体化する根本的理由〜

  • 運動とは何か〜実体と機能〜

    今朝、脚の筋肉の衰えに気づいた。運動の大事性、その意義を改めて考えさせられる。5月下旬に始まった神経痛が続いている。当初は腰から臀部、下肢にかけての怠痛い感覚、違和感と言っていいレベルのものであったのが、運動や鍼灸、指圧による寛解を何度か繰り返し、次第次第に神経的な違和感から腰を屈める時に激痛が走る神経痛という状態へとなっていって、現在、ようやくにピークが過ぎて......という状態である。それゆえに、この半月ほどの間、自宅と駅の往復もバス、梅雨の雨で足元も雪駄では無くサンダル(雪駄は雨に弱い)、職場でも施術の合間は座って、腰臀部のストレッチをしているのが通常の毎日になっていっている。その過程を持っての、結果としての、今朝の脚の筋肉の衰えの実感、「脚痩せちゃったなあ。神経痛を言い訳に、日常の運動をサボったものな...運動とは何か〜実体と機能〜

  • 神経痛〜機能としての〜

    機能としての神経痛モノには実体と機能が直接のものとしてある実体の無い機能もなければ機能の無い実体も無い神経痛とは神経という実体の機能であるそれゆえにまずは実体を変える様に働きかけることで、がもちろん機能に働きかける?ことで、もしかしながら、機能に働きかけるは、そのことで実体を、でしか無い神経痛〜機能としての〜

  • 食と神経痛〜実体と機能〜

    神経痛がなかなかに治らないままに来ている。食の見直しが必要なのでは無いのか、との思う。5月下旬ごろに出だした臀部から下肢外側、経絡で言えば胆経の神経痛。運動、自身での施術(指圧、吸玉、灸)を行うものの、一時的には軽減することはあっても、例えば、海での運動、河原の砂利の上の歩きを行なっている間は嘘の様に痛みが無い、僅かの痛み、突っ張り感も運動して行くのに従って、次第次第に消えていく。にも関わらず、神経痛としては治りきることなく、である。これには二つ理由が考えられる。一つは、一度スタートした病は、その病としての正規分布(今回のコロナに関わって繰り返し見せられて来た山形のグラフ)を辿って、成熟しなければ、回復して行くことは無い、ということ?あるいは、そもそもの自身の対処法、施術が誤っている、あるいは不十分ということ?...食と神経痛〜実体と機能〜

  • お医者様の処世術〜opeをしない理由〜

    昨日のブログに関わって想起したお医者様の処世術。白内障や膝の人工関節のopeは、現在では普通のこと、あちらでもこちらでも見聞きすることである。昔と違って現在では失敗もほとんど無い、と聞いている。しかしながら、それらのopeを希望しても、まだ早い?とお医者様から止められた、という話を時々聞く。まだそれほど状態が悪くないから、もっと悪くなったらopeしましょう、と。理由は、それほど悪くない状態でopeをすると、デメリットばかりが感じられて、opeの有り難みが分からない、クレームの元にもなりかねない、から。最初にこの話を聞いた時には、患者が不調を訴えて受診しているにも関わらず、病気の診断条件が揃っていないから、もう少し悪くなるのを待ちましょう。という馬鹿げたお医者様の理屈と同じことと思っていたのだが、昨日のブログ記事...お医者様の処世術〜opeをしない理由〜

  • 治療すべきで無い病〜病の二重性〜

    続けて三例の治療に失敗?した。病には治療すべきでないものがある。あるいは、治療すべき時がある、ということ痛感する。先日、知人の紹介で三人に対して、指圧、鍼灸、吸玉の治療行なった。治療自体は、それほどに間違ったとは思えないのだが、結果に於いて、現象的には、返って悪くなった、ということになってしまった。理由は、三人三様であるが、共通するのは、もともと悪くて古傷的なものがあるが、現在は、落ち着いている、それほど気になる症状が無い、ということである。結果として、一言でいえば、寝た子を起こす、ということになってしまった。本当は、悪いけど今は気になる症状は無い、ということであれば、症状が出たら治療しましょうと、逃げるべきであったと思う。これは、要するに、病には、治療すべきでないもの、時がある、ということである。治療すべきで無い病〜病の二重性〜

  • 海でのほぐし〜坐骨神経痛の治療〜

    コロナ休暇中に出た坐骨神経痛、に対して海でのほぐし行った。一筋縄では行かない、と。昨日は、コロナ休暇中に突然出た坐骨神経痛の治療として、海でのほぐし、40分×3の海中での運動を行った。運動を行なっている間は、徐々に痛み違和感が和らぎ、海での約三時間が経過した時点では、治った!?とも思えた。帰宅中のクルマの中では、強烈な睡魔に襲われ、帰宅後横になっていると、今度は、首、肩、腕の付け根に強烈な神経痛的な違和感を感じ、であったので、随分とほぐされている、明日には坐骨神経痛が軽減して......と思ったのであるが、今朝目覚めて見ると、今のところ大して変わりない状態である。なかなかに一筋縄では行かない、と思える。治療して寛解まで持っていき、そのプロセスをしっかりと書きたい、と思う。海でのほぐし〜坐骨神経痛の治療〜

  • 『哲学・論理学研究(第一巻)』〜東洋医学の学びに必須の書〜

    『哲学・論理学研究(第一巻)』(悠季真理著現代社白鳳選書107)を読み返している。『南郷継正武道哲学著作・講義全集(第三巻)』(南郷継正著現代社)を読むにあたっての、導きの灯となる書である、と思う。のみならず、真面目に東洋医学をその原点から学びたい、端的には、「古典に還れ」を実践したいとの志を持つ方にも、その導きの灯となるもの、と思う。端的には、「古典」の背後の認識=古代中国の人類の認識は如何なるものなのか?を垣間見せてくれる、数少ない書である、ということ、である。「古典」の言葉を文法的に、如何に見事に訳して見ても、「古典」のココロは分からない。鍼灸の実践に役立つことは無い。その「古典」のココロを垣間見せてくれる、垣間見る方法を説いてくれる書である、と。『哲学・論理学研究(第一巻)』〜東洋医学の学びに必須の書〜

  • 職場再開〜コロナ休暇の総括〜

    コロナ休暇1カ月の総括。それは、自身の人生の縮図と思える。昨日までで、約1カ月という長いようで短いコロナウイルス感染症の休暇(職場閉鎖?)が終わった。この間の目標として、空手の白帯からの再度の学び、と実家の片付けを掲げ、スタートした。空手の白帯からの再度の学びは、中頃から坐骨神経痛が出、また、自身の人間体の実力の低下が想定以上であったこともあって、空手云々以前の人間体としての鍛錬?がメインとなった。具体的には、雪駄で歩く、軽いランニングに加えて、庭や部屋の片付け、であった。結果として、空手の白帯からの再度の学びは、それなりに、引き続きの課題となり、実家の片付けは、一応、終了の目処が立つところまでは来た。一長一短ではあるが、普段出来ないことが出来た、という意味では有意義な1カ月の休み、であったと思う。職場再開〜コロナ休暇の総括〜

  • 「本と標」(2)〜史上初ということ〜

    古代中国のおいて、病を「本と標」として捉えられたことの意義は、何よりも、病には眼に見える姿(一重の)だけでは無しに、二重性があるという、目に見えない世界の構造を史上初に捉えられた、ということなのだ、と思える。これは、そのことでそれまでは治らなかったり、治ったと思っても直ぐに再発したりであった病をしっかりと治せるようになっていった、ということのみならず、病の持つ他の二重性が分かっていく道を拓いたのだ、と思う。これは例えば、史上初の鍼や灸の治療にも匹敵する、すべて鍼灸治療は、最初に、鍼を打ったり灸を据えたりという治療を発明した人があったからという意味での大発見であったのだ、と思える。そしてそれが、目に見える世界の鍼や灸の施術と違って、目に見えない世界の出来事であるだけに、それを史上初めてということは、大変なこと、凄...「本と標」(2)〜史上初ということ〜

  • 「本と標」〜その意義〜

    『黄帝内経』で説かれる「本と標」について、自身は、余りに低く見過ぎていた。別言すれば、古代中国という時代・社会ということを無視しての捉え方であった、と思える。「本と標」について、鍼灸の教科書等では、「本治法と標治法」の様に非常にレベルの高いものとして説かれる。例えば、「証と症(つまり本と標)は、原因と結果ではなしに本質と現象である。」(竹山晋一郎)と説かれる。これについては、古代中国という人類として幼い時代の、認識の直接性である言語表現を、現代の大人になってしまっている人類のレベルから、見てしまっている誤謬であると自身では捉えていた。本質(と現象)という様な抽象的な認識が古代中国という時代の人類に可能であった筈がない。別言すれば、古代中国という物質的なもの等が幼い時代に、認識だけが現代と同じレベルであった、高度...「本と標」〜その意義〜

  • 実家の片付けに思う〜量質転化ということ〜

    実家の片付けを行っている。コロナ自粛の有り難さ痛感している。1か月間のコロナによる職場閉鎖も残りわずか。手付かずのまま1年近く来ていた実家の片付け、漸くに軌道に乗って、片付け終わる目処も立って来た。手を付け始めるまでは、片付け無ければならないものの膨大さに圧倒され、手を付け始めたら始めたで、片付けても片付けても少しも捗らない感があり、休みも残り十日余となって、漸くに......。この膨大な量の実家の片付けの一コマ一コマは、例えば、食器を選別して捨てる、本棚の本を段ボールに詰めるである、でしか無いのだが、それが両親の数十年という長い間での積み重ねの結果となると、そう簡単に片付くものでは無かった。これはまさに<量質転化>ということであり、その恐さであり、凄さである、と思える。自身の学びも、認識と実体の両方において、...実家の片付けに思う〜量質転化ということ〜

  • 病のいくつもの二重性=多重性〜覚え書〜

    病には二重性=多重性がある、あると視るべきである。治ると不治の二重性のみならず、治らないとされる病にも二重性がある。本来なら治る余地があるのに治らないとされるものと本当に治らないものとの二重性。と考えると、治るにも二重性がある。通常は治るものと通常は治らないあるいは難治とされているが治るものと。障害の二重性として説かれる(解かれる)二重性、あるいは一般的な治療と特殊的な治療として捉えられる病の二重性、東洋医学で言う標と本......。通常、単純に一重性として捉えられる病には本当は=論理的にはいくつもの二重性があるから、そこを二重性として診ての施術でなければならない。そうでなければ、本来なら治るものを治らないとしてしまったり、治らないものを治るとしてしまったり、である。しかしながら、本当の不治の病というものは、生...病のいくつもの二重性=多重性〜覚え書〜

  • 『形而上学』(アリストテレス)〜根源を問うこと、あるいは概念規定〜

    『形而上学』(アリストテレス)を読み返している(正確に言えば、眺めているか?)。若さのある時に、しっかりと学びたかった、との思いがする。例えば、『形而上学』のΔ巻で「始まり(αρχη)」について、説かれている。様々な角度から、様々な意見を取り上げて、その共通性に着目して......。本当にすごい人。それも二千年以上前の人なのだから......。何がすごいのか、と言えば、人類史上初の、まだ正確の無い問題に、そこまでの人類の英知を思弁して、そこにさらに自身の思弁を重ねて......。せめて、自身は自身の専門分野で、と思う。『形而上学』(アリストテレス)〜根源を問うこと、あるいは概念規定〜

  • 実家の片付け〜全ては一〜

    実家の片付けに取り組んでいる。そこにも対象への関わり方の二重性がある、と思える。一年近くも、片付けねばならないと思うながらも、手を付けかねていた実家の片付け。コロナウイルス感染症による職場の一時閉鎖という一ヶ月近くの休みのおかげで漸くにして、手をつけることが出来、部分的にはほぼ片付けが終えられるとことまで来た。しかしながら、全体とすれば、1/10、甘く考えても1/5〜6は残っている状態。それらは、考えずにやたらめったらやっても出来るところから手を付けただけに、どうやって片付けていくのか?としっかりと方法、段取りを考えてやっていかねば、どうしようもないと思える。具体的には、不要と思えるものをまず捨てるのか、必要と思えるものを整理して箱詰め等していってまとめるのか、全体として手を付けるのか、一つの部屋を片付けてしま...実家の片付け〜全ては一〜

  • 肩こりをほぐす(1)〜の施術者のアタマの中を視る〜

    自身の他に優れる点は、理論的な高みでは無く、施術の高みでも無く、(自身の)施術の中身=それに関わるアタマの働きを書くこと、書こうとしていっていることにあると思う。カッコよくいえば、理論的実践家を志向しての、であると思う。そこを自覚して、空理空論にならぬ様、心がけていきたい。さて、施術をするということは、一般的には、その患者なりの治った状態をイメージして、それには現在の病んだ状態をイメージせねばならないが、その病んだ状態を治った状態=正常へと変えてやることであるが、その施術における施術者のアタマの中を視て、書いていきたいと思う。いきなりの高度なかつ複雑な施術、例えば「経絡治療」を取り上げると難しい、これは自身にとっても読んでいただく皆さんにとってもである、ので、まずは、施術初心者が単純な「肩こり」に対して施術する...肩こりをほぐす(1)〜の施術者のアタマの中を視る〜

  • 代謝器官の運動としてのランニング〜人間体の二重構造を踏まえての運動〜

    人間体を運動と代謝の二重構造として捉え返して、運動を支える代謝器官の運動としてランニングを行う。昨日のランニングの事実から、運動には全体と部分の二重性があり、それゆえ部分の運動が目的であってもそれは全体の運動=全身運動とともに、あるいは全身運動として行われるべきである、と運動を捉え返した。本日は、その全身運動として運動は行われるべきであるということの中身を、運動の二重性=運動器官の運動とそれを支える代謝器官の運動との二重性として運動を捉え返して、代謝器官の運動としてのランニングを行なった。具体的には、軽く息が切れる=呼吸器官が日常レベル以上にしっかりと働いている、働かせられていると捉えて、その状態を保ちながらのランニングを行なった。結果として、時間としては昨日より短い30分(雨が降ってきたので)であったのだが、...代謝器官の運動としてのランニング〜人間体の二重構造を踏まえての運動〜

  • ランニングの効用〜弁証法、あるいは<生命の鎖>の論理〜

    久しぶりにランニングを行なった。全身レベルの運動の大事性、実感する。昨日、久しぶりに約1時間のランニングを行なった。軽く息が切れ汗ばむというレベルの、であったが、ランニング後、今朝に至るまで足がポカポカと温かく、である。この二週間というもの、空手の準備運動として、ほぼ毎日、雪駄や下駄で約2時間歩いて、夜には足がつるという状態であったのに、その運動による足の温かさは、せいぜい運動中と運動後、数時間であるのに、何が違うのだろうか?雪駄で歩くでは何が足りないのだろうか?逆ならわかるのだが......。(自身では、この数年、夏の時期以外は、しっかりと運動してやらないと足の冷えを感じるようになって来ていて、年齢ゆえと半ば諦めてもいた。)これは、自身の運動の捉えかたが、部分のみに着目して、全体を見ないから、ではないのか?と...ランニングの効用〜弁証法、あるいは<生命の鎖>の論理〜

  • 庭の片付けに思うこと〜理論と実践の統一について〜

    庭の片付けを行った。実践的であることの大事性、実践なくしては理論的な深まりはないのだと実感された。本日、漸くにして一年半近くも片付けねばならない、と思うばかりでほぼ手付かずで放置していた庭の片付けが、もう少しで終われる目処が立つところまで進んだ。庭のある生活をされている方には常識であると思うが、庭というものは、手入れ(草抜き等)をしてやらないと、あっという間に草ボウボウの荒地?になっていってしまうものであり、半年も放置すると大変なことになるものである。我が家の庭は、そんな状態になってそこからさらに一年近くも、あれこれ忙しいと言訳して放置していた(もう気軽には手がつけられない状態になっていた)のだが、今回、コロナウイルス感染症により職場の約一ヶ月間の閉鎖によって、漸くに片付けに手をつけて、である。その庭の片付けを...庭の片付けに思うこと〜理論と実践の統一について〜

  • 昨日は、看護の日〜フローレンス・ナイチンゲールに視る、信仰とは〜

    昨日は、物事の理解は像としてということを、「信仰とは」の自身の理解とともに、『恩讐の彼方に』を取り上げて説いたのであるが、奇しくも昨日は、看護の日=フローレンス・ナイチンゲール生誕二百年であった、と知り、「信仰とは」の実例としては、フローレンス・ナイチンゲールをこそ取り上げるべきであったとのとの思いとなった。ほとんどの方には、看護関係の方をも含めて、フローレンス・ナイチンゲールについては、「クリミアの天使」と呼ばれたとか、せいぜいが『看護覚え書』を書いた昔々の人、くらいの認識しかないのでは、と思う。しかしながら、本当のフローレンス・ナイチンゲールは、人類の歴史上、何人もいないくらいの凄い人、と自身では思っている。例えば信仰ということに関わっていえば、フローレンス・ナイチンゲールは、看護・健康の法則=自然の法則=...昨日は、看護の日〜フローレンス・ナイチンゲールに視る、信仰とは〜

  • 『恩讐の彼方に』を読む〜信仰とは何か〜

    『恩讐の彼方に』(菊池寛)を、本来の信仰とはのリアルなイメージを描かせてくれる書である、と感動とともに読んだ。像として理解することの大事性、実感する。「信仰と学的観念の違いは何かを説けば、観念というのは、客観的世界を頭脳活動としてアタマの中に宿すことです。そして信仰というのは、逆に自分の信仰としての思いを客観の世界、つまり外界に創っていくことです。確かに信仰は何かを信じることであり、信じて敬う対象を外界に求めていくのですが、学問は信じて敬うものでは全くないのです。つまり、自分から外へと思いを致して、それに自分の心を向かわせるのではなく、森羅万象である外界が、まともに自らの五感器官へと反映できるように実践することから始まり、そしてそれを意図的に頭脳の中で現象化から表象化、そして抽象(論理)化していくことにあるので...『恩讐の彼方に』を読む〜信仰とは何か〜

  • 久し振りの階段昇降鍛錬〜過程性ということの大事性〜

    昨日は、午前中に近くの公園で50段程度の階段の昇降を約20分、その後、川の土手を約2時間歩き、午後は、庭の片付け(以前に伐った木をゴミ袋に入るように切る作業)おこなった。階段昇降は、久々の空手の練習へと直接的に繋がるものとの思いでの、であったが、案の定、わずかに50段程度の階段の昇降で息切れ、夜には、足が攣ることも。それゆえ、まだまだ、それ以前の人間体の鍛錬をしっかりやってでなければ、との思いとなった。客観的には、なんとも生温い練習であり、我がことながら、大丈夫かな?との思いを持たないでは無い。しかしながら、自身の特殊性(年齢、久しくまともな運動を行なっていないこと、かつ過去の運動での古傷がある)から止むなし、であると。なぜならば、端的には、いきなりやり過ぎるならば、簡単に壊れて、数ヶ月、場合によっては数年単位...久し振りの階段昇降鍛錬〜過程性ということの大事性〜

  • 何を為すべきか〜書くことの二重の意義〜

    "DasechteLeidgibteinemdiegeistigeHaltungwieder."(眞の苦難は吾人に氣魄を取り戻させる。)コロナ感染症の影響で(自身も含めて)多くの人が諸々に追い詰められていき、の現在である。しかしながら、それだけに、何があっても悔いを残さないように、可能な限りの努力を!と(何よりも自身の問題として)思う。また、鍼灸・東洋医学もまた同様に、その存亡の危機に立たされているのでは、とも(自身には)思えるのだが......。それだけに、かつて西洋医学の前に滅亡しようとした時に「経絡治療」が誕生させられたが如くに、コロナ後に、とも思えるのだが......いかなる事になっていくのだろうか?さて、書くことの大事性について、その二重の意義について、これまで説いてこなかった、もう一つの意義について...何を為すべきか〜書くことの二重の意義〜

  • 本当の?「古典に還る」とは〜観念的二重化の二重構造〜

    「古典に還る」とは本当には=認識論的には如何なることなのか?世界のあらゆる物事は必ず原点(としての構造)があってのそこからの生成発展の結果としての現在である。(二律背反)それだけに、原点に返ってそこからの辿り返しということは、現在、そして未来を識るには必須の作業である。しかしながら、その事をしっかりと成し遂げることは至難の技である。それゆえに、あらゆる専門分野でそれはほとんど成されていない。何故かならば、認識論(と弁証法)が無いからである。より具体的には、古典に還っているつもりで、現在の自身の実力から恣意的に古典を見るからである。認識論的にいえば、相手(=古典)に二重化出来ないからである。本当は自己の他人(=古典)化をしなければならないのに、自己の自己化をして他人化をしたつもりになってしまっているからである。こ...本当の?「古典に還る」とは〜観念的二重化の二重構造〜

  • 雪駄や下駄で歩く、のすすめ〜人間の運動を二重性で視る〜

    雪駄や下駄で歩くことのすすめ。それは現代人に欠けた運動である。コロナ外出自粛のゆえか、歩いたり走ったりする姿が目立つ。しかしながら、その姿を見るたびにせっかくの運動なのに、と残念な思いになる。なぜなら、その足元はほぼ100%靴であるから、である。現代人に欠けたる運動の最たるものの一つが足の運動であるのに、どうしてせめて雪駄や下駄で歩かないのか、と。どういうことかと言えば、人間の身体というものは、生命の誕生から36億年かけて、地球環境と相互浸透的量質転化的に、観念論的に?言えば、機能が実体化したものであるから、実体としてあるものは、その実体に見合った機能=運動を必要とするものであるから、ということである。つまり、足にも指がしっかりとあるということは、その指を使う必要があるということであり、逆から言えば、足の本来の...雪駄や下駄で歩く、のすすめ〜人間の運動を二重性で視る〜

  • 筑前煮〜たっぷり根菜が食べれる料理〜

    コロナウイルス感染症の影響で外出自粛しているので、料理作る頻度が上がっている。今夜は筑前煮。根菜をたっぷり食べて、免疫力アップを!筑前煮〜たっぷり根菜が食べれる料理〜

  • 社会レベルでのコロナ感染症の今後〜その二重性〜

    社会レベルのコロナウイルス感染症の終息についてのマスコミの報道を見ていると、その時々でいろいろと解説されて、これではコロナウイルス感染症の終息のイメージが描きづらいとの思いで、社会的レベルのコロナウイルス感染症の収束・終息について、自身のイメージをブログ記事として書いた。しかしながら、人によっては切実な問題(自身にとってもだが)であるだけに、ブログ記事を曲解レベルで読まれる方も無いではないとの思いから、記事の公開には躊躇いがある。とはいえ、社会レベルのコロナウイルス感染症の今後をイメージ出来ずに困惑しておられる方が多くおられるであろうことに鑑み、公開することとした。ブログ記事の稚拙な説き方では無く、説こうとする中身を汲みとって、役立てていただければ、と思う。社会レベルでのコロナウイルス感染症の収束・終息の見通し...社会レベルでのコロナ感染症の今後〜その二重性〜

  • どうしてダイエットはリバウンドするのか?〜痩せるの二重構造〜

    ダイエットはとりあえずは痩せれても、リバウンドすることが多い、難しいことと言われる。それは何故かと考えると、痩せるということにも実体と現象があるからだ、と思える。痩せる太るは、食物として摂取するエネルギーと運動で消費されるエネルギーとの差の結果であり、摂取するエネルギーが消費するエネルギーよりも多ければ太る、少なければ痩せる、とされている。それ故、食べる量を減らして運動量を増やせば当然痩せる、とされている。ところが、現実を見渡してみると、食べても太らない、逆に食べなくても太る、あるいは運動しても痩せない、逆に運動しなくても痩せる、という例がある。こういった場合に、本当は食べているから、とか運動が足りないとか、という結論を出して......終わる場合がほとんどである。また、ダイエットは、失敗=リバウンドが多い、と...どうしてダイエットはリバウンドするのか?〜痩せるの二重構造〜

  • コロナウイルスパニックに思うこと〜日本固有の精神・文化について〜

    「若い衆や、死ぬが嫌なら今死にやれ。一度死ねばもう死なぬぞや。生きた中は憂きも辛きも楽しみよ。侍じゃとて死んでよかろか。」(白隠禅師)現在の日本は、コロナウイルスに関わっての不安が不安心へとまでなっていって、である。それだけに、日本固有の精神・文化である「悟り」や刀術の「極意」というものが、求められる、求められて然るべきである、と思う。昨日、一昨日とゴールデンウィーク連休前ということもあってか、クリニックのリハビリ室へ多くの患者さんが来られた。中には、「コロナが怖い!」として何ヶ月もリハビリ(正確には指圧整体の施術)を受けることなく、腰痛を悪化させてしまってまともに歩くことすらままならない状態になってしまっている患者さんもおられた。また、「コロナが怖くてずっと家に篭りっきり」と言われる方も一人や二人では無かった...コロナウイルスパニックに思うこと〜日本固有の精神・文化について〜

  • ニュースを止めよう〜認識の原点は反映にある〜

    『コズミックフロント☆ヒーリング』を観た。美しい星空にココロ癒され、何を観るかの大事性痛感された。先日、夜中に目覚め、コロナのニュースがやっていないか?とテレビをつけると画面いっぱいの星空で、しばし見入ってしまった。番組は、『コズミックフロント☆ヒーリング』(NHK)で、1時間にわたり美しい星空を見せてくれる、というものであった。それ以来、コロナのニュースと空々しいお笑い番組(コロナのニュースに比べると全てのお笑い番組が自身にはそう思える)に嫌気がさすと、『コズミックフロント☆ヒーリング』の録画を観る。すると、コロナウイルス騒ぎで鬱鬱としている自身の気持ちが晴れる、と思える。これは、「人間の認識の原点は反映である」ということに思いを致せば、当たり前のことなのだが、不安を煽る?コロナ関連のニュースを見続けるならば...ニュースを止めよう〜認識の原点は反映にある〜

  • コロナウイルス感染症騒ぎの功罪〜物事には必ず長所と短所がある〜

    ほぼ一ヶ月間のリハビリ室閉鎖となった。千載一遇のチャンスと捉えて、空手の白帯からの一からの学び直しに全力を尽くしたい。明日から五月いっぱい、ほぼ1ヶ月間の休みが取れた。より正確には、コロナウイルス感染症の影響でリハビリ室が閉鎖となった。当初はコロナの影響での失業の憂き目との思いで、あれこれとジタバタしたのだが、「何処も同じ秋の夕暮れ」で求人自体が少なく、自身の年齢もあってなかなかに難しいものがあった。それならいっそ、逆転の発想で、社会人になったらなかなかに取れない長期休みが取れた!と開き直って、との思いへとなっていって思い浮かんだのが、冒頭の、白帯からの空手の一からの学び直し、である。一ヶ月では、入門程度とは思うけれども、「αρχηημισυπαντος」(始まりは全ての半分)との古代ギリシャの諺にもあるように...コロナウイルス感染症騒ぎの功罪〜物事には必ず長所と短所がある〜

  • 「古典に還る」とは(2/2)〜弁証法の問題として〜

    コロナウイルス感染症の影響で鍼灸・手技療法の世界も危機的な状況へとなっていっている、と思える。本来ならば、今回のコロナウイルス感染症のごとくに確実な対症療法(具体的には薬やワクチン等)がない時にこそ、東洋医学・東洋医術の出番である筈と思うのだが......。それはさておき、「古典に還る」とは、を引き続き説いていきたい。「人々は、哲学説のあいだに差異があるのを、真理が進歩してゆく発展過程としてとらえることなく、差異のなかに矛盾しか見ない。––––花が咲けば蕾が消えるから、蕾は花によって否定されたと言うこともできよう。同様に、果実により、花は植物のあり方としてはいまだに偽であったことが宣告され、植物の真理としての花にかわって果実が現れる。植物のこれらの諸形態は、それぞれ異なっているばかりでなく、たがいに両立しないも...「古典に還る」とは(2/2)〜弁証法の問題として〜

  • 弁証法の適用覚え書〜弁証法の適用にも二重性がある〜

    今朝、ブログ更新しようとしたらメンテナンス中だったので、とりあえずの覚え書。弁証法の適用ということにも歴史がある、弁証法性がある、と思える。本来それは二重性で、であるべき。弁証法の適用とは、対象(特に自身の専門分野)を弁証法的に見て取れる様になることがその目的であり、それには二重性がある。弁証法から具体の事実へ向かうことと具体の事実から弁証法へと向かうこととの。より正確には、具体の事実を一般的に捉えたもの(表象像?)と弁証法との上り下りか?それはともかく、最初は知識的な当てはめであったものが、後には......というのが、対象の究明にしたがって、対象を抽象的に、表象レベルで、あるいは一般性レベルで捉えられるようになっていって......。その弁証法との上り下りの二重性。では、昭和のはじめ頃にはどうであったのか?...弁証法の適用覚え書〜弁証法の適用にも二重性がある〜

  • ラジオ体操の意義〜全体としての運動の整え〜

    コロナ自粛の今こそラジオ体操を見直すべき、と思える。コロナ自粛のせいで外出機会が減って、結果として身体の不調から衰えにまでなっていってしまっている患者さんが多数おられる。運動することの大事性を実感させられている。とはいえ、やっぱり外出が怖い、人との接触を避けたい、との思いが一般的な、であると思える。そんな矛盾を抱えているみなさんには、ラジオ体操を是非にとおすすめしたい。このように述べると、たかだか10分以内の運動で、と否定的な意見を持つ方も多くおられるかも知れない。特に、日々しっかりとした運動を行なって来ていた方にあっては、と思う。しかしながら、「プリンの味は食べてみれば分かる」とのことわざ通りに、実際にラジオ体操を1か月程度でも続けて見ていただければ、その効果を実感していただける筈である。では、何故にラジオ体...ラジオ体操の意義〜全体としての運動の整え〜

  • 批判とは〜歴史的・批判的〜

    批判とは学問的には、歴史的に検討するという意味であって、ダメ出しでは無い。万が一、批判ということを素人レベルで誤解している方がいるといけないので、老婆心ながら念のため。批判とは〜歴史的・批判的〜

  • 「古典に還る」とは〜その弁証法的・認識論的捉え返し〜

    「古典に還れ」とは鍼灸の世界でもよく使われる言葉であるが、「古典に還る」ということの弁証法的・認識論的意義はいかなる事になるのであろうか?「古典に帰る」ということの意義は弁証法的にいえば、この世界のあらゆる物事はその誕生を原点として、その原点のあり方が発展していっての現在の物事であるから、原点がいかなるものであるのかの構造をしっかりと分かること無しには、現在のその複雑には発展したあり方の持つ意味が分からない、それゆえそこからの更なる発展を図ることが叶わない、からの「古典(=原点)に還れ」という言葉があるのだ、と思える。そうであれば、そうであるだけに、「古典に還る」ということの意義を認識論的に、しっかりと分かっての「古典に還る」でなければならない。どういうことかといえば、「古典に還る」ということを、ある事柄につい...「古典に還る」とは〜その弁証法的・認識論的捉え返し〜

  • 「古典に還る」とは〜経絡治療批判〜

    『名人たちの経絡治療座談会』(医道の日本社)を読み進めている。現代鍼灸の世界に比しての、その学びの広さ深さ、論理性に感心させられるとともに、何故に科学的鍼灸論としてそれが結実しなかったのか、と残念に思える。しかしながら、それもまた時代性ゆえ......と。『名人たちの経絡治療座談会』を読むと、鍼灸、東洋医学に関わる諸々の重要問題を、文献に当たり、そのことに関わる鍼灸の実践をしっかりと持ち、東洋医学的にだけでは無しに西洋医学的にも検討して、なおかつ唯物論的弁証法の適用によって究極して行こうとしている。にも関わらず現代においては、鍼灸術として経絡治療を受け継ごうとする人々はあっても、理論的にという人々は存在しないが如くである。それは何故なのだろうか?何が不足しているのだろうか?と不思議の思いがしないではない。詳細に...「古典に還る」とは〜経絡治療批判〜

  • 『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第三巻』に学ぶ〜そこから鍼灸・東洋医学の世界を二重性で視ること〜

    『南郷継正武道哲学著作・講義全集第三巻』を読むと、物事を二重性で視ることの必須性痛感される。竹山晋一郎の偉大性とは理論的にはそういうことでもあったのだと。コロナウイルスの影響で、クリニックは開店休業状態がほぼ3ヶ月近くも続いている。おかげで?『全集第三巻』の読み返しも4度目となっている。詳細は、スマホで打つのでは無くしっかりと原稿用紙に書いてと思うが、『全集第三巻』を読む中で何度も何度も繰り返し思ったことは、「ここで説(解)かれていることは、鍼灸・東洋医学の世界の問題そのものだ!その大難問に答えをいただいている!」ということである。それだけに、鍼灸・東洋医学の世界で『全集第三巻』が常識レベルになれば、そこに説(解)かれることに賛成するにせよ反対するにせよ、鍼灸・東洋医学の世界も大きく発展していけるのに、と残念な...『南郷継正武道哲学著作・講義全集第三巻』に学ぶ〜そこから鍼灸・東洋医学の世界を二重性で視ること〜

  • 『名人たちの経絡治療座談会』を読む〜現代鍼灸の一方の基礎〜

    『名人たちの経絡治療座談会』(医道の日本)を読み出した。その面白さについつい時を忘れて、である。無味乾燥な教科書による鍼灸、東洋医学の学びに、参ってしまっているみなさんに!『名人たちの経絡治療座談会』を読む〜現代鍼灸の一方の基礎〜

  • 「連動企画 ツボの選び方1・2」を読む〜現在の鍼灸を概観する〜

    現在の鍼灸の世界の全体をアバウトにでも知りたいとの思いから「連動企画ツボの選び方1・2」(『医道の日本1・2月号』所収)に眼を通している。鍼灸は科学化=学問化されるべき、との思いを専門的に鍼灸、東洋医学に関わりを持つようになって以来、持ち続けているので、現代の鍼灸が科学化されないのは何故なのか?そのためには何が欠けているのか?との思いは当初より持ち続けている。それ故、今回の『医道の日本』の企画は、現代の鍼灸を概観することで現代鍼灸に欠けたるものを識ることの出来る絶好の機会、との思いで早速に読み始めた。ところが、読み始めてみるとそれは大変分かりにくく、「この先生方は一体誰に向かって何を説きたいのだろうか?」との思い、とともに......。とはいえ、今回の『医道の日本』の企画、今までに無い画期的なもの(同僚の鍼灸師...「連動企画ツボの選び方1・2」を読む〜現在の鍼灸を概観する〜

  • 書くことによる「思い」の自己運動〜それをアバウトにマンガ的に説く〜

    書くということによる「思い」の自己運動を観念論的に、かつアバウトにマンガ的に説いてみたい。我々がある対象に関わり続けると、その対象に関わっての「思い」を描けることにもなっていく。ここは、認識というものは問いかけ的反映であるから、いかなる反映になるかは問いかけいかんという面もあるが、そこはカットして「思い」をあるものとして説き始めたい。話は、「思い」が自身の何者かを知ろうとするところから始まる。「思い」は、「これはこうなのだ。」「あれはああなのだ。」と素朴な一般論レベルでは自身が自身にとって明白ではあっても、逆に自身にとって明白である分だけ余計に、「何故そういえるのか?」と自身に問うてみると、自身のことであるにも関わらず霧がかかったようで、自分自身のことであるにも関わらずその中身は明確には分からない。それゆえ他者...書くことによる「思い」の自己運動〜それをアバウトにマンガ的に説く〜

  • 「書くことは考えること」の過程的構造〜を絶対精神の自己運動に学ぶ〜

    「絶対精神の自己運動(ヘーゲル)」について知ることで、永年の悩みであった「如何に書くべきか」ということが具体性を持ってイメージ出来た、と思える。ヘーゲルに学ぶことの偉大性、必要性痛感する。「絶対精神の自己運動」とはアバウトには、世界の始まりには絶対精神があり、その絶対精神がまず自然に姿を変え、自然が発展する中で、社会が誕生し、社会が発展する中で、精神(文化)が誕生し、精神が発展する中で絶対精神へと至るという(素朴な)絶対精神→自然・社会・精神→(レベルアップされた)絶対精神という、絶対精神に始まり絶対精神へと帰る円環としての自己運動である。(詳細には(正確には?)、『南郷継正武道哲学著作・講義全集第三巻』(現代社刊)をお読みいただきたい。)これは別の観点からいえば、観念の世界→物質の世界→観念の世界という否定の...「書くことは考えること」の過程的構造〜を絶対精神の自己運動に学ぶ〜

  • 「書くことは考えることである」〜という金言に絶対精神の運動性を視る〜

    「書くことは考えること」について「『ヘーゲル哲学・論理学[学の体系講義・新世紀編]』(全集第三巻)余録(Ⅱ)」(『学城第19号』所収現代社刊)で説いていただいている。それは個としての、絶対精神の発展のプロセスの繰り返しの一つのありかたなのでは、と思える。「書くことは考えること、である。」ということを、これまで何度も南郷先生は説いておられる。自身ではそれをアタマの訓練法、「思う」から「考える」へ、やがては「思弁」へとレベルアップしていけるための修業のあり方を説いていただいている、と捉えて自分なりにではあるが、あれこれ取り組んできた。(例えば、四百字詰原稿用紙五百枚で書く、あるいは毎日30分書くとか......)しかしながらそのことによって、自身の実力が劇的に向上することは無かった、と思える。それは何故か?そもそも...「書くことは考えることである」〜という金言に絶対精神の運動性を視る〜

  • ガングリオンの治療後〜およそ六年後の状態〜

    ネットで見かけて試したガングリオンの治療=灸。およそ六年後の現在も全く再発せず。太淵(手首親指側)にある灸痕の部分にガングリオンがあった。ガングリオンの治療後〜およそ六年後の状態〜

  • 今宵のスーパームーンに想う〜生命の誕生と月〜

    満月の光を浴びるとココロとカラダが安らぐ感覚がある。生命の誕生と月の関係からすれば、ある意味当然である、と思える。昨日、仕事帰りに満月のあまりの美しさに暫し見惚れていると、月光を浴びる感覚があり、それとともにココロとカラダが癒される感覚があった。当初は、自身の生命の歴史に関わる知識のゆえの錯覚とも思ったが......。生命の歴史においての月の役割に思いを致すならば、例えば、太古の月は小さな太陽と言っていいくらいの熱を持っていたということを考えても、月のパワーというものは現在と比べものにならないものがあった、と。それだけでは無く、月の引力というものは今に至るも、である。それだけに今回のスーパームーン、強い引力と月光の合わせ技でココロとカラダに大きな影響があるのでは、と思える。また、試しに月光浴で調べてみると、月の...今宵のスーパームーンに想う〜生命の誕生と月〜

  • 非常事態宣言で患者数が増えた〜啓蒙とは何か〜

    非常事態宣言でクリニックの患者数激減かと思いきや、通常の7〜8割まで逆に増えている。「啓蒙」の必要性痛感する。2月に入ったあたりから減少が続いていて、直近では通常の1割くらいの患者数になっていたのが、昨日は通常の6割くらいまで患者数が増えていた。自身では、おそらくは非常事態宣言を控えての駆け込み受診と思い、非常事態宣言が出された今日は患者数ほぼ零であろうとの予測を持っていた。ところが、豈図らんや、である。昨日にも増して患者数が増え、通常のほぼ7〜8割までの患者数となっている。一体どういうこと?訳がわからん!?との思いを当初は持っていたのであるが、あれこれ思いを巡らして思いあたったのが、非常事態宣言とともに繰り返し言われる「不要不急の外出はお控えください。ただし、病院や生活必需品の買物、健康維持のための散歩等は例...非常事態宣言で患者数が増えた〜啓蒙とは何か〜

  • 『学城19号』が届いた。

    待ちに待った『学城19号』が届いた。早速に読み始めた。学問の世界、人類の精神、文化の最高に触れられた、との感激とともに読み進めている。説いていただくこと有り難く......あれもせねばこれもせねば、怠けること無く頑張らねば、との思いへとなっている。『学城19号』が届いた。

  • 竹山晋一郎の唯物弁証法について〜弁証法の適用とは〜

    竹山晋一郎は何故に弁証法の適用で科学的鍼灸論としての経絡治療の理論を確立出来なかったのか?端的には、唯物弁証法の適用ということを一般論レベルで対象たる鍼灸に唯物弁証法の論理を知識的に当てはめて終わり、それが唯物弁証法の適用であると錯覚してしまっていたから、であると思う。しかしながら、それでは二流の観念論哲学者や宗教家が、自身の観念や神あるいは聖書の言葉から、世界の森羅万象を一方的に解釈して満足しているのと論理的には全く同じことでは無いのか?それゆえに、竹山晋一郎の、唯物弁証法の適用によって構築したとする鍼灸論は、論理的に無知であった当時の鍼灸の世界を驚かせ一世を風靡することはあっても、それを受け継ぎ実践していく者も発展させていく者も無く、結果として唯物弁証法の適用によって科学的鍼灸論を構築しようという試みがあっ...竹山晋一郎の唯物弁証法について〜弁証法の適用とは〜

  • 一杯60粒でコーヒーを淹れる〜ことにカントの哲学のココロを視る〜

    一杯60粒でコーヒーを淹れてみた。自身の学ぶということの取り組みの甘さ、今更ながら痛感される。かの大哲学者エマニュエル・カントはあらゆる物事に非常に几帳面で、毎日キッチリ同じ時間に同じコースを散歩するのでカントの散歩に合わせて時計を合わる人がいたとか、コーヒーを飲むのに一杯何粒と決めて毎日コーヒー豆を数えてコーヒーを淹れていた(コーヒーの逸話はベートーベンも同じで、カントについては具体的に分からなかったので一杯60粒というのはベートーベンの逸話によった)、とは知っていた。だが、自身では、カントの著作、例えば『啓蒙とは何か』を読むことはあっても、コーヒー豆を何粒と数えてコーヒーを淹れて飲んでみるということは無かった。そんな面倒なこととしてしまっていた。しかしながら、哲学というものが世界丸ごとから、森羅万象からその...一杯60粒でコーヒーを淹れる〜ことにカントの哲学のココロを視る〜

  • 花粉症はココロの病〜その生命の歴史からの理解〜

    「花粉症はココロの病」と(南郷先生が)説かれること、納得レベルで分かることが実践的には必須であると思える。「花粉症はココロの病である。ココロがパニックになるから、花粉症になる。クシャミ、鼻水、痒み等々が止まらなくなっていく。」と南郷先生がどこかで説かれていた(『夢講義』でであったと思うが、原文が手元にないので正確では無いが)。その一文を読んで、その時は自身の花粉症を事実からそれなりに理解して、「なるほどそういうことか!?であれば、花粉の時期にはパニックにならない様にココロを落ち着けるべくなだめてやることで!」と思い、そのことを試してみた。が、結果としては、少しは花粉症は軽減された様に思うけれど......であり、劇的に、というわけにはいかなかった。しかしながら、ある時にココロ=認識の原点である外界の反映像を、ク...花粉症はココロの病〜その生命の歴史からの理解〜

  • 今日の夕食〜バランスの取れた食の自身のイメージの具体化〜

    今日の夕食、自身の考えるバランスの良い食。生命の歴史を丸ごと、植物性の雑食と動物性の雑食をイメージして。玄米(+黒豆)、丸干し、ほうれん草、大根ぬか漬け、味噌汁(玉ねぎ、小松菜、ワカメ、エノキ茸、黒豆味噌、酒粕、サンマ干し出汁)デザート(ハトムギ、豆乳、百花蜂蜜)今日の夕食〜バランスの取れた食の自身のイメージの具体化〜

  • 治療の原初の姿〜そのアタマの働きのレベル〜

    標治、本治ということを古代中国の人類のアタマのレベルから考えると、そんなことはあり得ない、あり得なかった筈、と思える。東洋医学(鍼灸、漢方薬等)の世界には、古代中国の医術医学を至上のものとする信仰が存在するように思える。そこから、人類の歴史性を無視しての、が東洋医学の世界には多々あると思える。例えば標治、本治について、「標は現象であり本は本質である。我々は本を脈診により証として捉えて、それに対しての施術を行う。それが随証療法である。」として、それが古代中国からの伝統的鍼灸の再生であるとされる。しかしながら、古代中国という時代社会にあっては人類の認識は未だ形而下の世界であり、良くて形而上というものの存在が何となく、であったろうと古代ギリシャという時代社会から類推される。その時代に、治療のレベルとしても未だ幼く、ど...治療の原初の姿〜そのアタマの働きのレベル〜

  • 古代の標治、本治〜を黄帝内経に見る〜

    本治、標治を古代中国の文献である『黄帝内経(素問、霊枢)』に当たってみた。自身の想像と違って、本=先の病、標=後の病として述べられている。『霊枢概要』(神麹斎著ヒューマンワールド刊)によると「何かが原因で症状が発生し、その症状がまた原因となる場合、原因あるいは先に生じていた症状を先に治療すべきである。」と。『素問標本病伝論第六十五』でも同様のことが述べられているようである。古代中国という時代の医学は未だ形而上の世界へは至っていなかった、ということだと。となれば、現在一般的である教科書にもある標本の説明は、経絡治療(主に竹山晋一郎)の創作であるということになる。古代の標治、本治〜を黄帝内経に見る〜

  • 本治、標治を考える〜そのアタマの中〜

    本治、標治を考える古代中国の鍼灸医のアタマの中を視る。「同じ病の患者に同じ施術をしても、ある患者には劇的に効き、ある患者にはそれほどでも無い。何でだろう?」「人間は人それぞれに、背の高い低い、力がある力がない、走るのが速い走るのが遅い......と持って生まれた性質があるのだが、病についても同じように病が治りやすい人と病が治りにくい人があるのではないのだろうか?」「それは人間にあっては、病とは別の何かが病の回復を決めているということではないのだろうか?」と治療実践の積み重ねで、古代中国の鍼灸医は考えたのでは無いか?そう考えると、古代中国の世界観からすれば、現実の世界は、皇帝を頂点とする国家体系である国家として存在する諸々の国家の闘争、興亡の現在でありその歴史であるが、その現実世界は、大枠で天帝だとか鬼神だとかの...本治、標治を考える〜そのアタマの中〜

  • 本治、標治の始まり〜日本での鍼灸の歴史〜

    鍼灸の本治、標治ということの歴史を見ると驚いたことに、それは昭和のはじめごろに始まる。経絡治療を誕生させた人々によって、である。確かに『霊枢』にその記述はあるものの、経絡治療以前の鍼灸師の施術は、風邪にはこのツボ、脚気にはこのツボ、不眠にはこのツボ......であって、それが治療の全てであった。それゆえに、標治も本治も無くである。それゆえに、知らない病に対しては、お手上げとなってしまい、当てずっぽうに?施術していって、当たれば運が良かった。というレベル。それでは都合が悪いということで、あれこれ考えて......結果として「病を五蔵の変動の結果としての経絡の虚実として捉えて」の施術を行うことで、未知の病にも対応して行けるように、と。その治療を、それまでの症状に応じて決まったツボに施術する施術の仕方と区別する意味で...本治、標治の始まり〜日本での鍼灸の歴史〜

  • 『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第三巻』を読む〜そのアバウトな自身の感想〜

    『全集第三巻』を読んでのみなさんの感想はいかがですか?自身では、形而上学、観念の世界というものの姿を、そこまで手を引き背中を押しして連れて行って、見せてくれる唯一の書である、と感激とともに読み返してます。自身のレベルでは『全集』はまだ早い、まずは『夢講義』をしっかりと学んでいかねば、との思いが一方ではあるので、少し複雑な思いはあるのですが......。しかしながら、実力十分なみなさんや、学としての東洋医学に携わっている、あるいはそのことに興味を抱いているみなさんには、ぜひにとオススメします。特に東洋医学に関わる方にとっては、その原点から現在に至るまでの本当の姿を垣間見せてくれるもの、唯一の書と思えます。『南郷継正武道哲学著作・講義全集第三巻』を読む〜そのアバウトな自身の感想〜

  • 本治と標治〜本治とは何か〜

    鍼灸(東洋医学)の世界では、「本治」ということが言われる。それは本当には何なのか?鍼灸の世界では、施術、治療には本治と標治があり、本治は病を根本から治すものであり、標治は症状を治すものであるから、標治では本当には治った、治したとは言えないものである。同時に、病の症状が強く出ていて、緊急を要する場合にはまず標治であり、標治ということも必要なこと、本治と標治はどちらが大事というものではなく、どちらも大事である、と陰陽論で説かれもする。鍼灸学校ではそのように教わり、結果として大抵の生徒は、「そうか、症状を治すだけでは本当に治したとは言えないのか。それではやはり根本的に治すという本治が出来るようにならなければ!」とは思うものの、である。そのように思って本治についてよく知ろうともう少し調べていくと、例えば、経絡治療では、...本治と標治〜本治とは何か〜

  • 本治と標治(1/3)〜本治とは何か〜

    鍼灸(東洋医学)の世界では、「本治」ということが言われる。それは本当には何なのか?鍼灸の世界では、施術、治療には本治と標治があり、本治は病を根本から治すものであり、標治は症状を治すものであるから、標治では本当には治った、治したとは言えないものである。同時に、病の症状が強く出ていて、緊急を要する場合にはまず標治であり、標治ということも必要なこと、本治と標治はどちらが大事というものではなく、どちらも大事である、と陰陽論で説かれもする。鍼灸学校ではそのように教わり、結果として大抵の生徒は、「そうか、症状を治すだけでは本当に治したとは言えないのか。それではやはり根本的に治すという本治が出来るようにならなければ!」とは思うものの、である。そのように思って本治についてよく知ろうともう少し調べていくと、例えば、経絡治療では、...本治と標治(1/3)〜本治とは何か〜

  • 治療部位(穴)の二重性〜真理は二つ〜

    ある症状に対してどこに鍼を打つべきか、と考えていくとそれには二重性がある、と気づかされる。その二重性とは、症状の出ている部位に対しての施術であり、症状を出させている部位に対しての施術である。当初は、この両者をあれかこれからと一人問答していたのだが、結局、両方が真理、真理は二つ、その統一こそが真理、となっていった。「真理は二つ、その統一こそが真理」ということは、自身の専門とする対象をそれなりに構造に分け入ることが出来るようになっていってはじめて実感レベルで分かれるのだと、単なる言葉遊びではその偉大性は分かりようがないのだと、しっかりと専門を持っての理論の学びの必要性痛感する。ここでもまた「真理は二つ、その統一こそが真理」である、と。治療部位(穴)の二重性〜真理は二つ〜

  • 上肢挙上時痛への施術〜解剖の知識は対症療法を可能にする〜

    上肢挙上時痛を訴える患者への施術おこなった。解剖=対象の構造に分けいることの有効性、必要性実感した。上肢挙上時の痛み、側方からの挙上時100度前後のみに痛みがあり、180度挙上してしまうと痛みは消失する。いわゆるペインフルアークサイン(肩峰下を損傷した棘上筋腱が通過する時の痛み)と思われたので、上腕骨への棘上筋腱の付着部あたりを探り硬結部位があった。そこへの軽い指圧をおこない痛みの確認をしたところ痛みがあったので、さらに棘上筋を狙っての施術おこない、再度、側方から上肢の挙上をおこなわせたところ痛みがほぼ消失した。上肢挙上時痛への施術〜解剖の知識は対症療法を可能にする〜

  • 「覚え書」について

    「覚え書」のカテゴリに分類しているものは、自身のアタマに浮かんで、それなりに思うことができるけれどもしっかりと思えない、思えるようで思えない、アタマに浮かぶ像をしっかりと止めて見ることができない、止めて見れたと思った瞬間に消えてしまう、変化してしまうものを、しっかりと止めて見るために書いたもの、ですので悪しからず。「覚え書」について

  • ヘーゲルの大失敗に学ぶ東洋医学の学び〜形而上学としての東洋医学の姿は......〜

    形而上学としての東洋医学の姿は歴史上、誰も見ていないのでは?と思える。『全集第三巻』(南郷継正著現代社)では、ヘーゲルの『精神現象学序論』以降の学びの大失敗について説いていただいている。また、自然哲学(弁証法)、社会哲学(弁証法)、精神哲学(弁証法)をそれぞれに、かつ自然から社会、精神へとして(絶対精神の発展として?)究明してはじめて、哲学(一般?)、弁証法(一般、弁証学)の姿が浮上してくる、それゆえに歴史上、哲学、弁証学を形而上学としてその姿を見た、見せた人は誰もいないと説いていただいている。と理解している。そのように考える(思える?)と、東洋医学というものも(形而上学としては)歴史上誰も見ていないものなのではないのか?と思える。では、世に東洋医学と言われているものはなんなのか?それは端的には、東洋医術一般(...ヘーゲルの大失敗に学ぶ東洋医学の学び〜形而上学としての東洋医学の姿は......〜

  • コメントへの返信について〜当初はソクラテス的にしか......〜

    いただいたコメントに対しての返信を書いた。もう少し気の利いたコメントへの返信ができないものか!?と自身の実力不足を痛感した。自身のブログが「滅ぼしあう対立するものたちの統一」の実践の場となれば(自身にとってもコメントをいただけるみなさんにとっても)、との思いから、可能な限りのいただいたコメントの公開とそれに対しての返信のコメントを書くことを始めた。しかしながら、自身の思いに反して、気の利いたコメントどころか、である。一方で、何事も最初はそんなもの、むちゃくちゃであってもまずは始めること(ソクラテス)、次第次第にコメントへの返信もレベルアップしていければ、とも思う。これもまた「滅ぼしあう対立するものたちの統一」(プラトン)の一コマである、一コマにしていくべきものである、と。ここでも、人類の発展の論理的な繰り返しだ...コメントへの返信について〜当初はソクラテス的にしか......〜

  • ブログを読むみなさんへ、併せてコメントをいただけるみなさんへ

    今後はいただけるコメントはなるべく公開していこうと思います。それゆえにブログを読んでいただけるみなさんへ一言。端的には、ブログ記事とコメント欄とは別のものとしてお読みください。自身の、コメントに対するコメントも思いついたままに返すことも多くなると思いますので、ブログ記事(は基本的に原稿用紙に書いたものパソコンやスマホでアップしています)とは区別して、特に、いただいているコメントとはしっかりと区別していただければ、と思います。また、コメント欄での議論はしていただいても結構ですが、自身の判断で打ち切らせていただく場合もあります。本ブログが、読んでいただけるみなさんの、またコメントをいただけるみなさんの、併せて自身の実力向上のきっかけの場となることを熱望しております。よろしくお願いします。ブログを読むみなさんへ、併せてコメントをいただけるみなさんへ

  • ブログへのコメントについて

    これまでブログへのコメントいただいても、内容を検討して、その成否は別にして、自身の意見、理解、思いとその基本的立場の大きく異なるものはほとんど公開して来ませんでした。理由は、初心者的ブログ読者のみなさんが混乱することを危惧してであるし、得意げに自身の意見を開陳したければご自身でブログを開設して......との思いがあったからです。しかしながら、今後は出来る限りの公開をと思っています。理由は「正しいとされることの全ては、疑いうる」であるし、本ブログが「滅ぼし合う対立するものたちの統一」になっていければとの思いから、端的には、自身の意見も叩き潰され続けねばならないのだ、との思いからです。とは言え、目に余る無礼な物言いをされるコメント、何よりも書かれていることに見るべきものの無いコメントはいままで通り無視させていただ...ブログへのコメントについて

  • 人類の認識の発展から視る東洋医学とは何か〜対象を考える二つの筋道〜

    東洋医学の論理のレベルから東洋医術の問題を考える。『全集第三巻』で、東洋医学の中身(論理のレベル)を説いていただいてる。「この医学(......東洋医学)は、まず身体に表れている面から病気を見てとります(身体の内部、つまり実際の筋肉や骨や、特に内臓の実体には分けいらないのが、いわゆる東洋医学の成立過程です)。確かにそれでも病気はある程度は治せるようになりますが、病気とは何かの過程性を生活中心に見るだけに、内部の状態をまともに知ることはどうにもできないのです。だから東洋医学では、薬も対症療法の薬はなかなかに処方できず、身体の根本から治す薬に必ず重点をおくことになります。」説いていただいていることを東洋医術で考えてみると、例えば手技療法術の施術では風邪(やその他の病)を、身体の中で何が起こっているのかはさておき身体...人類の認識の発展から視る東洋医学とは何か〜対象を考える二つの筋道〜

  • 今日から10分間施術〜その二重の意義〜

    クリニックでの施術時間が10分間に制限された、自身の上達のチャンスと捉えて、と思う。昨日、院長より施術時間を10分間に、同じ患者の施術を一人でしない、との指示があった。端的な理由としては、患者数の減少歯止めのため、ということであった。問題はそこでは無い、とも思えるのだが......。とはいえ、これは自身の手技療法の上達に関わって二重の意義がある、と思える。一つは、「三分間指圧」(浪越徳次郎)の修得、構造としては対象の構造(患者の身体の歪)を端的に見て取っての施術の修練。もう一つは、自身の実力を発揮出来ない状態にしての修練、例えば、剣聖高野佐三郎が床に豆を撒いて勢い良く踏み込むと滑って転倒してしまう状態で打ち込みの修練を行なった如くの。10分間施術を自身の手技療法上達の絶好のチャンスと捉えて全力を尽くしたい。今日から10分間施術〜その二重の意義〜

  • 弁証法修得のための「オマジナイ」〜入門書を書ける実力とは〜

    『全集第三巻』で、弁証法修得のための「オマジナイ」を説いていただいている。道を極めると、このような事が可能になるのだと感心させられる。『全集第三巻』(正確には、『南郷継正武道哲学著作・講義全集第三巻』)、当初は、数段難しくなってしまったなあ、との思いで読み進めていったのだが、読み進めていくと難しいけれどもそこから自身の実践の示唆をいただける、知りたかったこと、知るべきだったことを説いていただいているとの思いへとなっていって、よくぞ書いてくださった、と感謝の気持ちで一杯に。その中で、初心者用の弁証法修得のための「オマジナイ」として説いていただいていること、これは弁証法を極めた南郷先生にしてはじめて説けること、専門とする対象(と人間の認識)を極めてこその「オマジナイ」であると、ただただ感心させられた。この「オマジナ...弁証法修得のための「オマジナイ」〜入門書を書ける実力とは〜

  • 気とは何か〜その現在・過去・未来〜

    随分のご無沙汰です。南郷先生の『全集第三巻』が届き読み進めていくと、「気」の問題をどう考えるべきかということが、ここに全て解かれている、説かれている、との思いとなっていった。同時に、認識論の必須性も痛感された。端的には、気の問題は形而上の問題として扱わねばならないのだと。現在、気とは機能である、と鍼灸学校では、要するに形而下の問題である、がそれはまだ解明されてはいない、と。また、昔々、古代中国という時代の人類は、気を目に見えない微小な物質と考えていた、とも教わったが、それは観念論的発想だと思われる。端的には、唯物論的には、「気」は最初からあるものでは無しに人類が、世界の何かを捉えて「気」としたのであって、である。目に見えないもの、人間が感覚出来ない何物かの像が描かれるようになった、それを東洋思想の「気」であると...気とは何か〜その現在・過去・未来〜

  • 解剖生理の勉強会

    現在、ある場所で手技療法のための解剖生理の勉強会開催の準備に追われています。そちらが一段落したら本ブログをどうするか、検討する予定です。解剖生理の勉強会

  • 人を感動させるもの〜人間は認識的実在である〜

    人を感動させるものはココロだけである、とマンガ『美味しんぼ』で海原雄山(なんと雄大な名!)が、料理勝負に負けて、お金や権力で最高の食材を手に入れたから!と負けを受け入れられない息子であり勝負の相手である山岡士郎に諭す場面がある。手技や鍼灸の施術も、と思う。最高の技にも二重性があり、ココロのこもった技、言動をと思う。人間は認識的実在であるのだから、ココロを整えることが出来なければ......。人を感動させるもの〜人間は認識的実在である〜

  • チネイザン〜タイ式按腹〜

    知人からチネイザン(タイ式の按腹)の施術を受けた。お腹をほぐすことで、カラダのみならずココロのケアも出来る、ということであった。みんな考えることは同じと面白く思えた。古代中国医術の影響なのか?対象の構造なのか?おそらくはその二重性。チネイザン〜タイ式按腹〜

  • 規範、本能、認知症〜規範を量質転化化することの大事性〜

    規範というものを自身の内にしっかりと創りあげること=量質転化化することの大事性痛感する。認知症へとなっていく父の言動を視ると、(父の場合には)規範が徐々に失われていって、ということが見えてくる。具体的には、ああしなければならない、こうしてはいけない、ということを無視して、ああしたい、こうしたいが、優先されるようになっていっている。要するに、対象の構造に見合ったアタマの働きが衰えていって、自分の思い、感情のままの言動となっていっている。別言すれば、規範の喪失であろうか。人類は、本能を失って、それに代わるものとして規範を誕生させた。それだけに、規範を失っていくと、行き当たりばったりの、というか社会性のある=対象の構造に見合った言動が困難になっていく。では、すべての規範が失われていくのかといえば、しっかりと量質転化化...規範、本能、認知症〜規範を量質転化化することの大事性〜

  • 人間の運動は全身運動であるべき〜運動を整えるの二重性〜

    運動(体)を整える=全身運動を行う、ということにも二重性(陰陽)がある、と思える。「生命の鎖」(ウイリアムズ)の論理に学んでラジオ体操の効用を、それは「欠けたる鎖の輪」を繋いだからということなのかと思い至り、そこから手技療法の施術も斯くあるべし、との思いとなったのであるが、「生命の鎖」をしっかりと繋ぐにはもう一つの方法がある、ということに気づいた。それは、最初から全ての栄養素を過不足無く含むところの食を摂る、ということである。例えば、「原始長命食」という名で売られているものがそうであるし、玄米や豆、卵、小魚等の生命体を丸ごと食べる食品がそうである。(生命体が生命体として生きている、実存しているということは、即ち、その生命体自身の「生命の鎖」がしっかりと繋がっているということに他ならない、但し、それらは生命体とい...人間の運動は全身運動であるべき〜運動を整えるの二重性〜

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