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まーじさんのプロフィール

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ネットで初めて詩・ポエムを書いたのは2001年くらいです。学生時代は一応、早稲田詩人会に所属していました。今は10年以上かけて構築中の小説を完成させるために奮闘中♪

ブログタイトル
詩人まーじの生活と意見
ブログURL
http://merginalman.blog.fc2.com/
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詩・ポエム・ショートショートなどを孤高の詩人が書き散らすサイト。哲学・文学・サブカル好きは大歓迎!
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ブログ村参加:2015/03/13

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まーじさんの新着記事

1件〜30件

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第八十一章

    【理(り)】へと着地する前に、わたくしたちは死海文書のあらゆる破片を手中にする如く、さまざまなる位相へと、前-最終形真理の意匠を破壊するために「形而上学的ホップ・ステップ・ジャンプ」を成立させなくてはならないだろう。わたくしを含めたすべての読者にとっての体感的修行でもある。「たとえば世界をこんな風に捉えてみよう」などという思考実験例が、この作品の後の章においてわたくしによって語られるであろうが、そ...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第八十章

    (「まさに『デュエム-クワイン・テーゼ』を超えたテーゼなんだと思います、きつねさんの思想は!」とウィッシュボーンは、神がサイコロを振るかどうかためらうときの癖を真似て、その顎を親指と人差し指で挟んだりつまんだりする。)(「んー? 『残酷な天使のテーゼ』ならよくカラオケで歌うよー」とチビが、犬ファッション雑誌をくりんくりんと丸めながら言い、筒状のその雑誌の穴にきららかな右の瞳を当てて、「わー、絶好調...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第七十九章

    幅無き世界、というオリジナル無き不可思議について、前-最終形真理的ヴューポイントからの査読を実行すればするだけ、つまりは人間的スケールの知の枠内によって科学的に分析すればするだけ、初期衝動的な渦が混沌と秩序を巻き起こし続けるというニセモノの世界が幅無き世界を隠蔽し、つまり幅を捏造し、その虚偽の幅が分節性を保持することで、人間たちがいくらでも自由に謎かけできる余白を見出すことのできる論理空間が産み出...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第七十八章

    この章では、ヒト科という存在者に(諸説あれど一般的に普及している説によると)特有の能力とされている言語という記号体系、そのシステムと真理の先に鎮座するという【理(り)】との関連性について軽く触れておきたい。いや、言語と【理(り)】に対して礼節を尽くすために、ウィッシュの口ぶりを真似て、慣れない丁寧語で語る章としてみよう。もっとも、言語そのもの性に対する言語学的な分析も、【理(り)】に到達する「道」...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第七十七章

    狐族であるわたくしと、犬族であるチビたちとの関係性における豊饒は、いささか面映ゆき愛の、ソリッドに煮え立つ萌芽、そして輪郭の際立った持続性として境界線無き時空を穿ち、どこまでも存在者然として屹立する完璧な無次元曼荼羅のごとく、現に存在する。人語を駆使する狐族と犬族は、この作品において実在論的に――あらかじめすでにこれからも――結実の握手によって、速度無き自転という存在の風となる。現象界の構造部位として...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第七十六章

    (この章は、わたくしきつねくんという実在のキャラクターによる語りの実存論的再起動から始まる。)世界に取り込まれることなく、世界を取り込むこともなく、世界という約束そのものであるために、わたくしたちに対してわたくしは告げる。有機物でも無機物でもない自己の在り方を想像しようではないか。生き物以前性ではなく、物質以前性を想起せよ。存在という謂(いわ)れ無き謗(そし)りに曝され続けることば、それが、人間的...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第七十五章

    ウィッシュ「きつねさんはニーチェなんかもお読みになられますからね。次から次へと断片的に想念というものが浮かぶんでしょうね」チビ「ニーチェかー、なんかポワンポワンしてなさそうなイメージ。チビも名前くらいは知ってるよー。でも、名前だけ知ってるのって損なのかな。けっきょくだいじなのは、名前とそのひとがピッタリしてるかどうかだと思うこともけっこうあったりー」しろ「しろはフルーチェ。どっちにしろフルーチェ一...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第七十四章

    さて、再度このテーマについて噛み砕こう。消失し得ない存在について。安易な第一歩こそ肝要だ。まずは、生まれる前を想像してみよう。世界に遍満した存在の複数形として、分裂しているはずの自己が見えてこないだろうか。この宇宙には精子的ななにものか、卵子的ななにものかが確固として存在してしまうイマージュが立ち現われてこないだろうか、人間たちよ。いのちの源が、蠢いて蠢いて、ひっきりなしに生成と消滅という物理学的...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第七十三章

    赤ちゃんについて少し。男性の精巣や女性の卵巣をかたちづくるための、あらゆる原因となるところのモノとコト、男性の精子や女性の卵子をかたちづくるための、あらゆる原因となるところのモノとコト。それらの正常なる機能を保つための、あらゆる原因となるところのモノとコト。そういった無数の遠因と近因(それは、男女が時を得て、有効な大人の体操を実行する、という基本的タイプの性行動ももちろん含まれる)によって、赤ちゃ...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第七十二章

    たとえば、宇宙に遍満する無数の粒や波、それらに最低限の大きさや振幅があろうとなかろうと、何かしらの働きを成す現象としての粒や波は、生命としての存在者が死して無数の散開存在者となり、分裂的に漂う「可能性の風」として新たに生成するために、穏やかな顔で宇宙に待機している間、闇に潜める不可能性から自由に振舞うべき寵児として、つまり、生成し生成されるものとしての主体的存在者として生まれ変わるために、宇宙の中...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第七十一章

    さてここで「荼毘に付す」ということについて少し触れておきたい。わがニッポンにおいては現在「荼毘に付す」とは、人間たちを火葬に付す、ということであるのだが、ダイオキシンなどの発生を抑制し、骨を燃やし切ることのない程度の温度に設定されている。火葬場における煙突の設置が内的であろうと外的であろうとも、遺体はともかく小さいモノへと強制分解させられる。人間たちは燃やされることで、自らの骨とも別離することとな...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第七十章

    すべてのちいさきものよ、はかなきものよ、よわきものよ、こわれやすいものよ、世界をそのままに、そのままにしておきましょう。世界は変わらない。世界を否定することはできない。ちいさく、はかなく、よわく、こわれやすく、人間たちよ、世界であれ。わたくしの【理(り)】をわたくしの【理(り)】である。タナトフォビアに恐怖するすべての人たちよ、わたくしのことを信じる必要は、ない。だがしかし、死を恐怖するすべての人...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第六十九章

    わたくしはこの辺りで謙虚になろうと思う。謙虚であろうとすることは、自然体であろうとすることであり、身の丈にあった試行錯誤であろうとすることである。そういう時期であろう。では、聴いてほしい。生き物が死ぬと、生きていた頃に知り合ったすべての生き物に再び逢える、というロマンティックな思考プロセスに認知バイアスを仕掛けられる方々が、地球人社会には一定数存在する、という事実にわたくしはまず驚きを隠し切れない...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第六十八章

    さあ、続けよう。口述であれ記述であれ、それらことばの記号(記号作用と記号内容の合わせ技)としての性質なくしては、神話も、宗教も、詩も、哲学も、科学も、その象徴性を人間社会において維持することはできない。あらゆる人間社会における物理学的応答に根差したソースコードは、たとえ機械が人間たちを支配するようになったとしても、また、機械自らが機械そのものを生み出すような時代が到来したとしても、世界の世界性に関...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第六十七章

    さて、「ひかり、あれ!」と声を荒げるよりも、「ひかり、ある!」と忍び音(しのびね)を心密かに漏らす方が、より正しい世界への呼ばわりとなるだろう!このマクドナルドの店内において、このような新しい思想へと突き進むわたくしたちに追いやられた時空の帆が孕むものは、真偽を超えたひかりでしかない。原初のひかりよりも、それは吹き荒れやすく、肌を枯らし、舌を燃やし、鼻腔を凍らせ、耳をつんざき、目の玉を激震させるこ...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第六十六章

    聴いてくれるかな、チビたち。チビたちが犬であろうと、ぬいぐるみであろうと、人間であろうと、チビたちという存在者の存在そのものが織り成す世界線・世界面・世界体積は、完全に無であるがゆえに、完全に有であり、その価値量は、人間たちの産み落とした哲学、そして科学や科学哲学の産声よりも豊穣に、いや完璧な充足感によって超越しているのだろう、とわたくしは思う。その思いに対する反論は、チビたち、ここでは受け付けな...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第六十五章

    (店内の照明の匂いが、窓の外からのひかりによって、ほんのひと匙分ねっとりとしてきたことに、わたくしは気付き、一瞬、目を閉じてみる。すると、愉快なワンちゃんトリオ、チビ・ウィッシュ・しろのトリニティが輪状に店内の空気を揺らし始めたのをまぶたに感じる。)(宇宙のこととか深すぎてよくわかんないけど、宇宙ってきっとグミみたいなツブっていうか、むずかしく言うと粒子とかいうので満ちてるんじゃないかなー。そんな...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第六十四章

    宇宙とは世界そのものとされることが多いのだが、この作品では便宜的に、世界の属性の一面として宇宙をまず定義したい。さて、弱かろうが強かろうが、観測できようができまいが、宇宙論における「人間原理」なる傲慢は人間たち自身にとっても、当てにはならない。人間たちの創り出した記号と宇宙との蜜月、そのような浮き名を宇宙が期待しているわけではない。なぜなら、宇宙とは世界の世界性同様に、つまり世界の世界性に対する随...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第六十三章

    時間や空間という「幅」は確かに、人間たちのでっち上げたマボロシだとは思う。人間たちは「幅」を感知できるようになってしまったんだろう。もちろん、愛というなにものかも、マボロシであり、世界の世界性に刃向かう際の常套手段であるが、それは上等な武器でもあるんだよ、チビたち。世界の世界性に刃向かうときって、人間たちは意志の力を借りているだろうか?意志の力ではない、なんらかの不可抗力のようなものに衝き動かされ...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第六十二章

    少し話頭を転じよう。生滅を繰り返すことなく宇宙が反復できるとしても、その繰り返しが無限であるかどうか、ということは確率論的には未定であろう。サイクリック宇宙論、すなわちエンドレスなユニヴァース論なるものも、理論物理学において、れっきとした(インフレーション宇宙論、ブレーン宇宙論、M理論などと肩を並べているかどうかは微妙なところではあるが)宇宙論として、それなりの幅を利かせてはいるようだ。さてここで...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第六十一章

    「動」が「静」に帰結する、あらゆる形態の計算式の解が定まること、それが有限という概念である。世界における、現象としての事態の生き様が、未決であろうと既決であろうと、有限とは、有限の外部に他性の取り巻きを要請せざるを得ない概念であることに間違いはない。他性に囲繞(いにょう)された有限における「有」とは、「完全有」としての「有」ではなく、前-最終形真理的な「有」であり、前-最終形真理である限り、その「有...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第六十章

    【理(り)】に接近するためには、山ほどの常識的判断を焼却しなくてはならない。そのひとつとして、出逢いと別れという因果関係(筋書き)は存在しないのだ、ということを肯定する、という非常識的判断という名の焼却炉もあるのだ。出逢ったのだが別れてしまう、というドラマティックな変化というものが、世界の世界性には、脚本的に存在しない。時間的経過、ない。空間的変容、ない。相対的干渉、成立しない。たとえば愛する人と...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第五十九章

    (ふいに「愛……」と、ウィッシュことウィッシュボーンが魔法使いの弟子のようにつぶやいた。三点リーダーの点々の継ぎ目から忍びやかに顔をのぞかせながら。そしてわたくしは非情にも話を少し変奏させてゆく。なぜなら、それこそが急務なのだ。このマックで宿泊するわけにもゆかない。わたくしは潔癖症で繊細なので、家のおふとんできっちりと睡眠したいのである。わたくしは不眠症であるのだが、それは哲学や詩を好む生き物にとっ...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第五十八章

    完全無-完全有の完成形としてのパズル(それは粗大でも微細でもない)の(当然、メタファーとしての)ワン・ピースを、人間たちは全歴史的時空の中で選ばされている。つまり、世界樹のように分岐すること無き世界の世界性に「おいては」、なんらの自由意「思」も自由意「志」も完全無-完全有的に、存在し得ない。完全無と完全有との兼ね合いから世界の世界性をまなざすこと、それを認識論的・存在論的・形而上学的修行と呼び習わし...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第五十七章

    ある粒子、そして、ある粒子と区別されるところの粒子、粒子同士の位置関係、粒子同士の行動パターン、粒子同士の意思の疎通、粒子同士のエントロピーのじゃれあい、粒子同士のエンタルピー(示量性を持つ熱力学的関数)の呼吸音、粒子同士の生滅ゲーム、粒子の回路網が、あるかたちをかたちづくろうと、そうでなかろうと、かたちと呼ばれ得るなにものかは、意識を所有する存在者としての人間たちとは無関係に――あらかじめすでに――...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第五十六章

    突然ではあるが、振り子時計の振り子をあなたがじっと眺め入るシーンを思い浮かべてみてほしい。なぜいまどき、そのような古典的な時計を餌に哲学的な戯れ言を開陳しようとしているのか、などといぶかしげに肩をすくめないでいただきたい。今ここで、三百億年経ってもたった一秒の誤差しか生じないスーパークロックの話題を持ち出す必要はない。二台の時計が、2掛ける10のマイナス18乗程度の誤差の範囲内、というその驚異的な精度...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第五十五章

    何をどのように心配しようとも、何をどのように楽観視しようとも、何をどのように苦しもうとも、何をどのように闘おうとも、何をどのように決意をしようとも、何をどのようにあきらめようとも、何をどのように活気付けようとも、ただ「ある」だけのわたくしたちは、そのように「ある」だけである。先行する何か、追随する何か、最良の何か、孤高の何か、絶好の何か、貧しき何か、良心的な何か、隠蔽された何か、笑止千万な何か、気...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第五十四章

    人間たちよ、過去や未来、さらに今というなにものかに視線を注ぐことなかれ。求められてもいないのに、原因と結果を結び付ける癖を飼い慣らすことなかれ。すべては「今ここ」において起こってしまっているという定義に安住することなかれ。現在がなんだというのだろうか。現在を何か強烈に高貴な存在として崇めるのは何故なのか。あらゆる「学」は、なにゆえ現在を起点として、過去や未来を定義するのか。現在とはなんなのか。現在...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第五十三章

    頽落した人間たちは哀れである。頽落とは進化であり、進化とは退化である。生き様と死に様だけを脳裡に浮かべることに忙しい。己が生まれる前の自我を想起することによっては、あまり恐怖を抱いたりしない割に、生物学的に死んだ後の自我、自己意識の行く末に関してだけは依怙贔屓(えこひいき)的に幾倍も恐れおののく。そういった思考パターンに捕縛され続ける人間たちこそが、世間一般的なマジョリティ、つまり蔓延としての世人...

  • 『完全無――超越タナトフォビア』第五十二章

    科学にしろ一般的な思想にしろ宗教にしろ、反常識的・本来的に、つまり非頽落的に鑑みるならば、位置や大きさや向きなどをあらわす量、ここで片仮名を敢えて使用するならば、スカラー(大きさのみを持つ概念で、座標のシステムに拘束されない量)、ベクトル(座標のシステムにおいて大きさと向きを持つ量)、テンソル(古典的に捉えればベクトルの多次元配列化のことであり、テンソル内の個々の成分は座標変換の影響を受けるが、テ...

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