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アートプラス京めぐり https://blog.goo.ne.jp/korede193

京都の探索中、記事数5200、まち歩き・寺院神社・石碑道標・陵墓・看板 京都府南部も始めました

アートプラス京めぐり
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2015/02/19

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  • 寺院右0625 妙心寺 寺号標 北門前 他1基

    大本山妙心寺昭和44年4月29日建立施主静岡県館林金太郎・きわこちらは何が書かれているのか看板で不明大正5年建立寺院前回の記事⇒寺院右0624妙心寺北総門重要文化財関連記事⇒まとめ024妙心寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院右0625妙心寺寺号標北門前他1基

  • ポスター0104 妙心寺 大法院 庭園公開

    ポスター前回の記事⇒ポスター0103向日市桜まつりポスター0104妙心寺大法院庭園公開

  • まち歩き右1073 妙心寺北門前 石柱・街燈

    開山国師550年遠登山紀念東京本派寺院有志寄附まち歩き前回の記事⇒まち歩き右1072妙心寺境内歌碑とかかれた石関連記事⇒2花園地域の寺社記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き右1073妙心寺北門前石柱・街燈

  • 寺院右0624 妙心寺 北総門 重要文化財

    南総門、勅使門とおなじ慶長15年(1610)の造立。潜り通用口・門番所を付設している。寺院前回の記事⇒寺院右0623妙心寺光國院(こうこくいん)亀姫と関係がある関連記事⇒まとめ024妙心寺まとめ045京都府の重要文化財・国宝建物下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院右0624妙心寺北総門重要文化財

  • 花035 白い花

    平成30年4月23日撮影妙心寺境内花前回の記事⇒花右034梅宮大社の石垣の花3月花035白い花

  • 寺院右0623 妙心寺 光國院(こうこくいん) 亀姫と関係がある

    光圀院(こうこくいん)開祖は梁南禅棟(りょうなんぜんとう)で、元和6年(1620)に美濃加納の城主松平忠隆が父の忠政の菩提を弔うために創建したものである。もと南門前にあり、渡香橋東北の地が旧跡で勅使の休憩所として使用された名院であった。忠隆の当院創建は、祖母亀姫(1625没)の強い意志を受けてのものであった。寛永5年(1628)に亀姫(徳川家康の娘)の菩提所成徳院が松平忠明によって創建され、梁南をもって開祖とした。その位置が現在の光圀院の所在地で、明治にいたってここに光圀院が移建された。明治11年に光圀院と合併している。境内にある行者堂は、もとは近くの法金剛院村にあったもので、移建されて今日に至っている。寺院前回の記事⇒寺院右0622妙心寺長慶院北の政所寧々の姉関連記事⇒まとめ024妙心寺下の地図のユーザー地図...寺院右0623妙心寺光國院(こうこくいん)亀姫と関係がある

  • 寺院右0622 妙心寺 長慶院 北の政所 寧々の姉

    慶長5年(1600)豊臣秀吉の室北の政所寧々(ねね)の姉にあたる長慶院が、東漸和尚を開山として創建した。境内には長慶院の墓がある。また、長慶院の画像がある。長慶院晩年(1625没)の画像は江戸初期女性像の名品として知られている寺院前回の記事⇒寺院右0621妙心寺雲祥院方広寺の梵鐘に関わる話関連記事⇒まとめ024妙心寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院右0622妙心寺長慶院北の政所寧々の姉

  • 寺院右0621 妙心寺 雲祥院 方広寺の梵鐘に関わる話

    海山によって創立されている。京都東山の方広寺大仏に豊臣秀頼の寄付による梵鐘の銘(東福寺の僧・清韓の撰文)のうち「国家安康、君臣豊楽」の一文から、家康が大阪の秀頼を攻める口実にせんとした時、阿諛(あゆ)する者多かった中にあって、断固これに反対したのが雲祥院の海山であった。寺院前回の記事⇒寺院右0620妙心寺桂春院重文関連記事⇒まとめ024妙心寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院右0621妙心寺雲祥院方広寺の梵鐘に関わる話

  • 寺院右0620 妙心寺 桂春院 重文

    平成30年4月23日撮影名勝及び史蹟桂春院庭園昭和29年1月建設文化財保護委員会桂春院慶長3年(1598)織田信忠の次男津田秀則によって創建されたが、秀則の没後無住となったため、寛永9年(1632)美濃国の豪族石河壱岐守貞政は亡父光政の50年忌を営むために再興し、桂南和尚を請じて開山とした。この時寺名を桂春院とあらためた。方丈は、寛永再興時の建造で、内部は仏間、室中の間を設け、本尊薬師如来像を安置する。方丈各室の障壁画はすべて狩野山雪の筆と推定されている。なかでも金地著色「松に三日月図」4面は佳作である。庭園方丈南庭(真如の庭)は簡素な庭方丈東側(思惟の庭)は16羅漢石等を配置した美しい苔庭書院前庭(佗の庭)は露地庭既白庵茶室は二重襖によって仕切られ、目立たぬようになっている寛永8年(1631)近江長浜城より書...寺院右0620妙心寺桂春院重文

  • 寺院右0619 妙心寺 大雄院(だいおういん) 柴田是真の寺

    2018年4月23日撮影大雄院(だいおういん)慶長8年(1603)石河市正光忠(いしこいちのかみみつただ)が父光元(みつもと)・祖父光重(みつしげ)追福のため、慧南(えなん)和尚を開山として建立した石河家の菩提寺である。石河家は光忠以来、尾張藩の目付家老職をつとめた。その一族は妙心寺内に多くの菩提寺を建立し、また妙心寺再興に当たっては寄与した。方丈は享保12年(1727)光忠の百年の遠忌にあたって再建された。内部5室には柴田是真(ぜしん)の筆になる障壁画71面によって飾られている。是真は江戸の蒔絵師として名高い。画面の一隅に「柴令哉写」の署名があり、京都遊学中に描いたことがわかる。書院には法橋洞玉筆「赤壁図」4面、曽我華簫筆「山水人物図」2面、土岐済美筆「山水図」4面の障壁画がある。軸として海北友松筆「人物図」...寺院右0619妙心寺大雄院(だいおういん)柴田是真の寺

  • 寺院右0460 通玄院 妙心寺塔頭

    安土・桃山時代の天正7年(1579)、創建されている。檀越は寺西織部であった。もと即心院と称し、現在、経蔵(重文)に納められている一切経を写経した時の写経所となっていた。写経は、建仁寺の高麗版蔵経を借用し、12人の僧が8年の歳月を費やしている。写経の願主は、塔頭水月庵の無門和尚であった。この水月庵は明治11年(1878)通玄院に合併されて今日に至っている。関連記事➡まとめ024妙心寺寺院前回の記事➡寺院0459玉右龍院妙心寺塔頭下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院右0460通玄院妙心寺塔頭

  • 寺院右0618 妙心寺 蟠桃院(ばんとういん) 前田玄以の墓

    蟠桃院(ばんとういん)慶長6年(1601)前田玄以が一宙和尚を開山として創建した。境内墓地には前田玄以一族の墓がある。また仙台伊達家累代の祠堂がある。玄関はもと聚楽第より移したものといわれる。庭園は枯山水の庭園。寺院前回の記事⇒寺院右0617妙心寺海福院福島正則の墓関連記事⇒まとめ024妙心寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院右0618妙心寺蟠桃院(ばんとういん)前田玄以の墓

  • 寺院右0617 妙心寺 海福院 福島正則の墓

    海福院元和2年(1616)福島正則が夬室(かいしつ)和尚を開山として創建した福島家の菩提寺で、福島正則及び一族の墓がある。正則に関する遺物古文書がある。勤王家町尻説久(如水)の墓がある。庭園は蘺島軒秋里(りとうけんあきさと)の作庭、江戸末期の書院式露路、蹲の形式をとどめている。狩野探幽は妙心寺法堂の蟠龍(ばんりゅう)を描くにあたって当院に滞在中、酒興に乗じ、新しい唐紙に唐人猿回しの画を無断で描いたため、帰宅した院主にきつく叱られたという。ただ方丈に狩野益信筆「山水図」4面を残している。押し入れには、茶儀の一切を仕組んだ茶室がある。これはむかし禅僧が歌舞音曲・遊芸・茶花をいましめられたにも拘わらず、ひそかに茶をたしなんだ名残といわれる。寺院前回の記事⇒寺院右0616妙心寺雑華院(ざつげいん)関連記事⇒まとめ024...寺院右0617妙心寺海福院福島正則の墓

  • 寺院右0616 妙心寺 雑華院(ざつげいん)

    天正11年(1583)千利休七哲の一人、牧村利貞が一宙和尚を開山として創建した。方丈の前庭は江戸初期の禅院式枯山水の庭園。日蓮宗妙蓮寺の僧玉淵(ぎょくえん)の作庭。書院には土方稲嶺(ひじかたとうれい)・曽我霞簫(かしょう)両画家による淡彩水墨画、24面の障壁画がある。二条昭実(あきざね)夫人像(織田信長女)および大野治長夫人像は、竜安寺の細川昭元(あきもと)夫人像とともに三名幅とされ、のちの美人画・浮世絵発生の先駆をなすものとされる。寺院前回の記事⇒寺院右0615妙心寺微妙殿関連記事⇒まとめ024妙心寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院右0616妙心寺雑華院(ざつげいん)

  • 寺院右0615 妙心寺 微妙殿

    関連記事⇒まとめ024妙心寺前回の記事⇒寺院右0614妙心寺如是院下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院右0615妙心寺微妙殿

  • 寺院右0614 妙心寺 如是院

    義天玄承(ぎてんげんしょう1393~1462)が開創した塔頭で、六祖道場のひとつ。開創当初は、大愚庵と称し、現在の東海庵の所在地がその旧跡である。室町時代の寛正(かんしょう)3年(1462)に如是院(にょぜいん)と改称し、その時の中興の祖は直指宗鰐(じきしそうがく)で、檀越に伊勢奥平貞澄(おくだいらさだすみ)を得て中興をなしている。近世には、妙心寺塔頭で院禄を有する24ケ院中のひとつに入り明治に至ったが、昭和32年に現在の花園会館の地より現在地に移った。寺院前回の記事⇒寺院右0613妙心寺福壽院関連記事⇒まとめ024妙心寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院右0614妙心寺如是院

  • 寺院右0613 妙心寺 福壽院

    江戸時代初期の元和5年(1653)に信州松本城主水野忠清(ただきよ1582~1647)が建立し、龍天宗登を開祖とする。この時は養賢院(ようけんいん)と号し、その後、承応2年(1653)に水野忠職(ただもと1613~1666)が再建して性宣院(しょうせんいん)と改称し、さらに享保3年(1718)に台嶽(だいがく)和尚が再建中興し、福寿院となった。この時の開基が水野忠清の夫人「福寿院殿性宣妙演大姉」で、前田家の養女として水野家に嫁いだ女性である。現在「福寿院殿像」を伝存している。寺院前回の記事⇒寺院右0612妙心寺小方丈重要文化財関連記事⇒まとめ024妙心寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院右0613妙心寺福壽院

  • まち歩き右1072 妙心寺 境内 歌碑とかかれた石

    如是院歌碑まち歩き前回の記事⇒まち歩き右1071妙心寺境内通り道関連記事⇒まとめ024妙心寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き右1072妙心寺境内歌碑とかかれた石

  • 道標右0249 如是院・福寿院 妙心寺

    道標前回の記事⇒道標八幡0248紅葉寺寶青菴三宅石碑関連記事⇒まとめ024妙心寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標右0249如是院・福寿院妙心寺

  • 寺院右0612 妙心寺 小方丈 重要文化財

    小方丈重要文化財・室町時代応仁の乱後に再建された山内唯一の遺構で、室中・仏間を備えない。住持常住の場として使用されていた。ここは、玉鳳院の故地とつたえ、花園法皇が離宮麒麟閣に開山大師を迎えられたのに因んで、麒麟殿といい、南縁西の板戸にはこれに因んで麒麟が描かれている。室内の襖絵「山水花鳥図」(36面)とともに狩野尚信門下の片山尚景の筆と伝える。寺院前回の記事⇒寺院右0611妙心寺大心院関連記事⇒まとめ024妙心寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院右0612妙心寺小方丈重要文化財

  • 寺院右0611 妙心寺 大心院

    明応元年(1492)細川政元が景堂和尚を開山として創建し、のちに細川幽斎が中興したとつたえるキリシマツツジ方丈南庭「牡丹の庭」と呼ばれる。切石に囲まれた花壇が庭の中心。大書院前の「阿吽の庭」は枯山水庭園で、白砂と苔で表現した昭和の庭造園家中根金作氏の作庭寺院前回の記事⇒寺院右0610妙心寺塔頭春浦園(しゅんほえん)境外塔頭重文関連記事⇒まとめ024妙心寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院右0611妙心寺大心院

  • まち歩き右1071 妙心寺 境内 通り道

    東を向いています、次の十字路を左(北)へ曲がります左に曲がり北を見ていますここはメインの通り道から外れていますすごく静かな様子ですまち歩き前回の記事⇒まち歩き伏1070稲荷橋いなりばし関連記事⇒まとめ024妙心寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き右1071妙心寺境内通り道

  • 35 深草 地区 寺社記事検索一覧

    深草伏見稲荷神社伏見稲荷神社・楼門伏見稲荷神社・本殿伏見稲荷神社・権殿伏見稲荷神社・石灯籠伏見稲荷神社・御茶屋伏見稲荷神社・奥宮伏見稲荷神社・白狐社伏見稲荷神社・玉山稲荷社伏見稲荷神社・大八嶋社伏見稲荷神社・奥社奉拝所伏見稲荷神社・お山めぐり伏見稲荷神社・大山祭伏見稲荷神社・初午祭伏見稲荷神社・稲荷祭伏見稲荷神社・御田植祭伏見稲荷神社・火焚祭東丸神社荷田春満旧宅まち歩き伏1070稲荷橋いなりばし伏見人形石峰寺ぬりこべ地蔵石峰寺・石仏五百羅漢像伊藤若冲墓茶碗子ノ水宝塔寺宝塔寺・総門宝塔寺・本堂宝塔寺・多宝塔宝塔寺・昭宣堂瑞光寺宝塔寺・日像上人廟宝塔寺・七面社宝塔寺・霊光寺極楽寺址瑞光寺・元政上人墓番神塚古墳址真宗院深草・十二帝陵嘉祥寺沓掛善福寺仁明天皇深草陵浄蓮華院西岸寺藤森神社藤森神社・本殿藤森神社・八幡宮社・...35深草地区寺社記事検索一覧

  • まち歩き伏1070 稲荷橋 いなりばし

    昭和2年2月架橋まち歩き前回の記事⇒まち歩き南1069伏見稲荷大社トラックにのって御旅所へ関連記事⇒35深草地区寺社記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き伏1070稲荷橋いなりばし

  • まち歩き南1069 伏見稲荷大社 トラックにのって御旅所へ

    平成30年4月22日撮影まち歩き前回の記事⇒まち歩き南1068鳥羽水環境保全センター藤の花公開下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き南1069伏見稲荷大社トラックにのって御旅所へ

  • まち歩き南1068 鳥羽水環境保全センター 藤の花 公開

    平成30年運転開始:昭和14年4月敷地面積:460,460m2処理能力:957,000m3/日(平成29年度末現在)鳥羽水環境保全センターは,京都市最大の規模であり,全国でも有数の処理能力を有しています。また,施設の改築更新に合わせて高度処理の導入に努めています。鳥羽水環境保全センター吉祥院支所,伏見水環境保全センター及び石田水環境保全センターの汚泥も,ここで処理します。春(例年4月下旬)には,120mの藤棚の回廊とともに施設の一般公開を行っています。汚泥処理した後の水は淀川(大阪)へ流れています。向かいにある京都消防学校の鉄塔関連記事⇒ポスター0005鳥羽の藤120メートルの藤棚まち歩き前回の記事⇒まち歩き西1067松尾祭船渡御下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き南1068鳥羽水環境保全センター藤の花公開

  • まち歩き西1067 松尾祭 船渡御

    平成30年4月22日撮影松尾祭船渡御桂大橋上流右岸から桂大橋下流左岸まで4基の神輿と唐櫃は西七条御旅所に、2基の神輿は川勝寺・郡の末社に駐贊する。河原の見物人が多い。神輿や供奉の人々がすべて葵と桂で飾る。橋の上には見物人がいます関連記事⇒まち歩き前回の記事⇒まち歩き上1066京都御苑抱き合う大木下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き西1067松尾祭船渡御

  • 寺院右0610 妙心寺 塔頭 春浦園(しゅんほえん) 境外塔頭 重文

    春浦院(瞬歩イン)空山和尚が永井佐渡守尚主の外護により、寛永5年(1628)に建立した酔月庵を前身とする境外塔頭である。方丈には江戸中期の特異な漢画家山口雪渓の筆になる障壁画43面があり、また寺宝の紙本着色「福富草子」2巻(重文・室町時代)は、二人の男の放屁にまつわる珍話を題材とした絵巻物で、伊予守隆成の筆といわれ、室町時代絵画の代表的作品とされている。.関連記事⇒まとめ024妙心寺寺院前回の記事⇒寺院右0609妙心寺長興院(ちょうこういん)滝川一益の墓がある下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院右0610妙心寺塔頭春浦園(しゅんほえん)境外塔頭重文

  • 寺院右0609 妙心寺 長興院(ちょうこういん) 滝川一益の墓がある

    津田家菩提所長興院(ちょうこういん)天正9年(1581)、滝川一益(たきがわかずます1525~1588)が、九天宗瑞(くてんそうずい1612寂)を開祖として創建した塔頭で、暘谷庵(ようこくあん)と称する一庵が建てられた。慶長11年(1606)に一益の養女を夫人とする津田秀政が再興して、暘谷庵と号したが、寛永12年(1635)秀政が没し、「長興院岩道景大居士」と法名を付し、院号を再び長興院と改称している。元禄5年(1692)に大雲院(開基織田信忠、開祖九天宗瑞)を合併し、貞享3年(1686)に現所在地に移転し、その跡地を本山が買い取って宝蔵を建立して池を掘り、今日のような景観となった。津田家の菩提寺である当院の墓地には秀政、正重など代々を葬っている。滝川一益の墓がある。関連記事⇒まとめ024妙心寺寺院前回の記事⇒...寺院右0609妙心寺長興院(ちょうこういん)滝川一益の墓がある

  • 戦時下の八幡 京都からの集団疎開

    1944年(昭和19)から、空襲をさけるため都会にある国民学校初等科の児童を個人的、集団的に地方都市や農村へ移住させることを学童疎開といいます。当時、京都市内から先生につきそってもらって学校単位で八幡にやってきた子供たちです上京区・京極国民学校・50人内里の福王寺とほかに2つの寺・有智郷国民学校へ通う下京区・豊園国民学校・111人(1次)、21人(2次)・上津屋の善照寺・光頼寺・専琳寺・岩田の正覚寺・都々城国民学校へ通う中京区・朱雀第4国民学校・47人・神応寺・八幡国民学校へ通う寺院八幡0579神応寺曹洞宗戦時下の八幡京都からの集団疎開

  • 神社八幡0182 石清水八幡宮 男山を離れた仏像と堂塔

    1868年神仏分離令が出され、その後男山から寺や坊がなくなる男山山上にあった堂塔とそこに安置されていた仏像はどこへいったのでしょう1行教律師座像・開山堂・南谷⇒神応寺(八幡市西高坊)神応寺曹洞宗2元三大師座像・大師堂・南谷⇒京都市国立博物館京都国立博物館野外展示石造物3東照神君(とうしょうしんくん)徳川家康像(豊蔵坊)⇒等持院等持院臨済宗天龍寺派4阿弥陀如来坐像・八角堂・西谷⇒正法寺正法寺浄土宗鎮西派重要文化財5薬師如来立像・十二神将像・護国寺・北谷⇒東山寺(とうざんじ)とうざんじ兵庫県淡路市6聖徳太子立像(二歳像)・太子堂⇒国分聖徳太子会・滋賀県大津市7厨子・聖徳太子像⇒国分聖徳太子会・滋賀県大津市8愛染明王像・愛染堂・南谷⇒誓願寺(京都市)、その後、愛知県に移る誓願寺浄土宗西山深草派9阿弥陀如来坐像・石清水...神社八幡0182石清水八幡宮男山を離れた仏像と堂塔

  • 寺院右0608 妙心寺 衝梅院(こうばいいん)

    本山四派淵源雪江宗深禅師塔所本堂重要文化財衝梅院(こうばいいん)重要文化財当院は妙心寺第6世雪江宗深禅師(1408~1486)の塔所である。禅師は応仁の乱により灰燼に帰した妙心寺の復興に心血を注がれて大本山の基礎を築き再中興開山と仰がれている。また、弟子の景川(龍泉派)梧渓(東梅派)特芳(霊雲派)東陽(聖澤派)は夫々四派の開祖となられ、大本山の時運はここに定まったのである。当院は、細川政元が文明12年(1480)花園天皇離宮趾に開いた。現本堂は、天秀和尚の代、慶長9年(1640)大阪夏の陣豊臣方七人衆の一人真野蔵人一綱の寄進により再建されたものである。昭和42年5月、重要文化財に指定、方丈には、雪江禅師像を祀り、障壁画は法眼春卜(大岡姓)宝暦6年の作である。「下間一の関」の障壁画は昭和60年加瀬藤圃画伯による十...寺院右0608妙心寺衝梅院(こうばいいん)

  • 寺院右0607 妙心寺 宝蔵

    歴代天皇の宸翰や綸旨妙心寺一切の什宝が所蔵される関連記事⇒まとめ024妙心寺寺院前回の記事⇒寺院右0606妙心寺養源院下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院右0607妙心寺宝蔵

  • 寺院右0606 妙心寺 養源院

    本山中興開山日峰禅師之塔養源院六祖道場のひとつ。室町時代の文安5年、細川持之(もちゆき)の外護を得て開創された。日峰宗舜(にちほうそうしゅん)(1368~1448)の塔所である。応仁の乱で焼失したが、文明10年(1478)六祖雪江が再興、東陽英調(とうようえいちょう)(1428~1504)に付属した。その後、聖沢派で管理していたが、天文年間に入ってその維持が困難となり、荒廃した。これを中興したのが剛宗宗紀(ごうそうそうき)で、父半井元成(堺の富豪、1615歿)の援助を得て堂宇を再建した。現在の方丈はこの期のもので、鐵山宗純筆による慶長4年(1599)の棟札を残している。妙心寺山内現存する方丈の中で、建築年次を明確にする建物としては最も古いものである。中興の祖の剛宗は、摂州の原に土地を購入して当院に施入し、経済的...寺院右0606妙心寺養源院

  • 寺院右0605 妙心寺 東林院 沙羅双樹の寺

    東林院(沙羅双樹の寺)享禄4年(1531)細川氏綱が建立した三友院を、のちに山名豊国が直指和尚を中興開山として再興し、名も東林院と改め、山名家の菩提寺とした。寺宝に細川高国画像や山名豊国遺愛の武具等があり、境内墓地には山名豊国の墓がある。方丈の前庭には沙羅双樹の古木がある。6月中頃に白い椿のような花を咲かせる。関連記事⇒まとめ024妙心寺寺院前回の記事⇒寺院右0604妙心寺涅槃堂下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院右0605妙心寺東林院沙羅双樹の寺

  • 寺院右0604 妙心寺 涅槃堂

    納骨堂妙心寺歴代祖師碑檀信徒の位牌を祀る本尊は赤銅製の釈迦涅槃像で、日本三涅槃像の1つといわれる。寺院前回の記事⇒寺院右0603妙心寺玉鳳院重要文化財関連記事⇒まとめ024妙心寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院右0604妙心寺涅槃堂

  • 寺院右0603 妙心寺 玉鳳院 重要文化財

    玉鳳院の西からの眺め玉鳳院の西から東を見る眺め玉鳳院玉鳳院花園法皇が妙心寺創建の時、傍らに一院を設けて禅宮とされたところと伝わる。これに因んで一般には玉鳳禅宮と称する。現在の建物は単層、入母屋造り、檜皮葺き、明暦2年(1656)仙宮を模して改建された瀟洒な方丈で、内部には花園天皇法体の像を安置し、狩野益信・安信筆とつたえる山水・人物・花鳥の各種画題をもった障壁画よよって満たされている。またその正門にあたる向唐門(江戸時代)は寛文年間(1661~73)淀屋辰五郎の寄進と伝える。鐘楼にかかる銅鐘は、慶長15年(1610)の鋳造になる。四脚門・重文・室町時代もと後小松天皇から皇居の南門を賜わり、勅諮門としていたが、のちに現在の位置に移したとつたえ、開山堂とともに応仁の兵火を免れた当山最古の建物である。開山堂重文・室町...寺院右0603妙心寺玉鳳院重要文化財

  • 寺院右0602 妙心寺 塔頭 東海庵 重要文化財

    東海庵文明16年(1484)斎藤越前守利国の室利貞尼(りていに)が、悟渓宗順(ごけいそうじゅん妙心寺11世)を請じて建立した塔頭。悟渓は尾張国(愛知県)の人で、雪江門下の傑僧といわれ、教えを東海道に弘通し、東海派を樹立した。庭園は書院の西庭と南庭からなっている。西庭は南北に細長い書院式平庭とし、10個の石組みに刈込を配して池をあらわし、蓬莱・方丈・えいしゅうの三神仙島に似せている。南庭は書院と方丈とのあいだにあって、きわめて小さな地割の上に白砂を一面に敷き、それに竜安寺の石庭を思わせる7個の小石を配置しただけの清淡な枯山水の庭園としている。ともに文化11年(1814)東睦和尚の作と伝える。書院の襖絵「水墨山水図」24面は、狩野派の画家片山尚景の筆と伝える。狩野元信筆、紙本水墨「瀟湘八景図」重文・室町時代絹本著色...寺院右0602妙心寺塔頭東海庵重要文化財

  • 寺院上0133 慈眼寺 佐々成政の菩提 神沢杜口 、山本梅逸 の墓所 藤の花

    平成30年4月16日撮影紫がきれいだ2016年7月12日の記事曹洞宗佐々成政の娘や、その娘(徳川家光の正室)が創建、再建に尽力佐々成政は厳冬の北アルプスのさらさら越えで有名です慈眼寺福聚山と号する曹洞宗の寺である。天正16年(1588)に鷹司信房の北の方(妻)・嶽星院が、父の熊本城主・佐々陸奥守成政の菩提を弔うため、織田信秀(信長の父)り伯父に当たる曹洞宗の高僧・大雲永瑞を開山として建立した。当初、西陣の地に建てられたが、後に寺町丸太町に移され、寛文3年(1663)にこの地に再建された。嶽星院の娘で、徳川三代将軍家光の正室となった本理院(鷹司孝子)が、再建に大きく力を注いだ。成政は、安土桃山時代の武将で、織田信長に仕え戦功を立てた。信長没後の天正15年(1587)、肥後国(現在の熊本県)の新領主となったが、検地...寺院上0133慈眼寺佐々成政の菩提神沢杜口、山本梅逸の墓所藤の花

  • 桜上029 本昌寺の桜です 4月18日

    平成30年4月16日撮影2015年4月28日の記事本昌寺・上京区見事です来年、見に来よう飽きるまで時を過ごしたいです桜前回の記事➡桜右028散るのが早い嵐電桜街道関連記事⇒まとめ035桜の花桜上029本昌寺の桜です4月18日

  • 2 花園 地域の寺社記事検索一覧

    項目をクリックするとその記事にワープします「徒然草」はこの地で書かれた双ヶ丘吉田兼好お精霊送り8月16日妙心寺花園宇多院址衣笠殿址妙心寺玉鳳院東林院東海庵大心院雑華院海福院蟠桃院大雄院桂春院長慶院隣華院天球院金牛院寿聖院智勝院麟祥院➔妙心寺塔頭麟祥院は春日局の菩提寺大通院春光院大竜院大法院霊雲院聖沢院退蔵院➔退蔵院妙心寺の塔頭庭園・絵画で有名竜泉庵衝梅院春浦院牛若丸首途乃井址➔牛若丸首途の井跡碑義経かどで地蔵尊願王寺法金剛院➔法金剛院関西花の寺五位山待賢門院陵➔陵墓右002花園西陵鳥羽天皇皇后璋子上西門院陵➔陵墓右006花園東陵統子内親王今宮神社➔今宮神社(右京区)御霊社の1つ西光庵➔西光庵双ヶ丘東麓白蓮社址地蔵院・京都市右京区池上双ケ丘➔まち歩き右0003双ヶ丘山頂から仁和寺を眺める安井安井御所址安井右馬塚址...2花園地域の寺社記事検索一覧

  • まち歩き上1066 京都御苑 抱き合う大木

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き上1065京都御苑大木複雑に伸びているまち歩き上1066京都御苑抱き合う大木

  • まち歩き上1065 京都御苑 大木 複雑に伸びている

    まち歩き前回の記事⇒ち歩き上1064京都御苑出水の小川まち歩き上1065京都御苑大木複雑に伸びている

  • まち歩き上1064 京都御苑 出水の小川

    出水の小川昭和56年に、疎水から引いた御所水道を利用して整備されました。人工水路の幅2m~6m余、延長100m余、深さ10cm程度の浅い小川が木陰の間を流れてゆきます。水の流れと遊ぶための親水空間として、子供たちを楽しませてくれます。その後、平成4年に御所水道が遮断されて80年に及ぶ歴史を閉じざるをえなくなりました。現在は、出水広場の一隅に掘られた井戸からポンプアップした地下水を利用しています。地下水を循環ろ過したうえで流しています。まち歩き前回の記事⇒まち歩き上1063京都御苑の大木下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き上1064京都御苑出水の小川

  • まち歩き上1063 京都御苑の大木

    木の周りを一周してみました関連記事→まとめ001樹木まち歩き前回の記事⇒まち歩き上1062京都御苑の大木まち歩き上1063京都御苑の大木

  • まとめ001 樹木

    樹木記事の中から選びました1まち歩き右0008葉のない樹木桂川・上野橋上流2まち歩き西0113竹の道西京区・大枝山陰街道付近3まち歩き東0249たくましい樹だ素晴らしい4まち歩き北0717加茂川の大樹5まち歩き左0766横高山の樹木ねじれている6まち歩き上0951京都御苑石垣を突き抜けて出てきた樹木7まち歩き上1062京都御苑の大木8910111213今回の川柳鉛筆を九年ぶりに削ったよ/シュアリまとめ001樹木

  • まち歩き上1062 京都御苑 の 大木

    123456789関連記事⇒まとめ001樹木まち歩き前回の記事⇒まち歩き上1061滋野中学校統合記念碑校歌下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き上1062京都御苑の大木

  • 桜上042 京都御苑 出水の里桜

    平成30年4月16日撮影関連記事⇒まとめ035桜の花下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます桜上042京都御苑出水の里桜

  • 名水上007 滋野井 古くは平安時代から

    滋野井の井桁この地は、平安初期の公卿滋野貞主(しげのさたぬし)(785~852)の邸宅跡である。(現在の下立売通南、西洞院通西、椹木町通北、油小路通東の地)。敷地内の清泉は都七名水の1つとして知られ「滋野井」と呼ばれた。貞主は、漢詩人として知られ漢詩集『経国集』や『秘府略』(一種の百科事典)を編纂撰進した人物で、温雅で度量広く、仁明天皇の信任も厚かった。その後この邸宅は「蹴聖」と称された蹴鞠の達人大納言藤原成通(なりみち)(1097~没年不詳)のものとなる。「成通卿口伝日記」によると、成通が蹴鞠上達を願って千日間の練習を誓うと、その満願日に鞠の精が三匹の人面猿身の姿となって現れ、蹴鞠の法を伝授したと記される。後に、後鳥羽上皇はこの鞠の精を「精大明神」として祀り、滋野井のほとりに祠をつくったと言われる。現在も精大...名水上007滋野井古くは平安時代から

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