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アートプラス京めぐり https://blog.goo.ne.jp/korede193

京都の探索中、記事数5200、まち歩き・寺院神社・石碑道標・陵墓・看板 京都府南部も始めました

アートプラス京めぐり
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2015/02/19

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  • 14 堀川一条界隈 地区 寺社記事検索一覧

    項目をクリックするとその記事にワープします浄福寺➔浄福寺赤門、違法建築泣き龍、洛陽48願所で有名ですその壱浄福寺赤門、違法建築泣き龍、洛陽48願所で有名ですその弐浄福寺赤門、違法建築泣き龍、洛陽48願所で有名ですその参浄福寺赤門天狗が主役その四・最終浄福寺の狛犬猫そっくり智恵光院➔平等寺智恵光院洛陽48願所六臂(ろっぴ)地蔵尊が有名名和長年遺蹟参考地➔史跡上012名和長年戦没地聚楽第址➔聚楽第松永稲荷鵲橋(かささぎばし)晴明神社➔人気の晴明神社です晴明神社の狛犬福大明神社西陣織会館➔石碑6ジャガード渡来100年記念碑西陣織会館西陣織会館の着物ショー西陣織会館の石碑西陣と村雲御所堀川戻橋➔一条戻橋に関する話・伝説小町草子洗ノ井址➔えっ知らなかった小野小町・・・小町通いきな通り名です大峰殿➔大峰寺跡武者小路千家官休...14堀川一条界隈地区寺社記事検索一覧

  • まち歩き上1061 滋野中学校 統合記念碑 校歌

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き向日1060御塔道(おとうみち)関連記事⇒14堀川一条界隈下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き上1061滋野中学校統合記念碑校歌

  • まち歩き中0001 今はなき橋の銘 綾小路

    2018年4月8日撮影堀川橋と綾小路橋の親柱が集められています2015年3月25日の記事京都市内の堀川通り四条あたりは堀川は埋め立てられ暗渠になっています昔あった橋の銘が交差点の歩道に残されていました四条より1つ南の通りの橋です綾小路まち歩き前回の記事⇒まち歩き向日1060御塔道(おとうみち)関連記事⇒15中京界隈地区寺社等検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中0001今はなき橋の銘綾小路

  • 15 中京界隈地区 寺社等 検索一覧

    項目をクリックするとその記事にワープします下御霊神社➔下御霊神社無実の罪で非業の死を遂げた人たちを祀る茅の輪くぐりの準備中下御霊神社下御霊神社例祭8月18日表門行願寺(革堂)➔革堂(こうどう)幽霊絵馬加茂明神塔白山神社➔白山神社本能寺➔本能寺天性寺➔天性寺浄土宗真鍮の始祖墓所・顔の形が端正な子供を授かる信仰がある矢田寺➔矢田寺西山浄土宗送り鐘弁慶石➔弁慶石法雲寺善導寺➔善導寺石燈籠釈迦三尊石仏地蔵六面石幢木屋町高瀬川高瀬川一之船入➔高瀬川一之船入り先斗町鴨川をどり三条大橋三条小橋池田屋騒動址瑞泉寺➔寺院中0018瑞泉寺関白秀次を弔う河原町三条新京極誓願寺➔寺院中0067誓願寺浄土宗西山深草派誠心院➔和泉式部誠心院真言宗泉涌寺派蛸薬師安養寺➔安養寺(倒蓮華寺・さかれんげじ)善長寺➔善長寺くさよけ地蔵浄土宗西山禅林...15中京界隈地区寺社等検索一覧

  • 史跡向日047 長岡宮 跡

    国家の制度が整えられた奈良時代(8世紀)以来、大極殿及び朝堂院では元旦に「朝賀の儀式」が盛大にとり行われました。この時、大極殿の前に7本の宝幢が建てられます。宝幢とは、古代中国伝来の儀式用旗飾りで、長さ約9メートルの太柱の上に、青龍・朱雀・白虎・玄武の四神の絵がはためき、烏・日・月の飾り物が華やかに揺れました。1997年の発掘調査で、この宝幢を建てた柱の堀形が発見されました。長さ3m、幅約1.2m、深さ約0.8mの楕円形をした大きな掘方で、中央に大柱、両側に添え柱の痕跡がありました。柱堀形は三期あり、大極殿の前約百尺(29.6m)の位置に、東西方向へ3mごとに並んでいます。宝幢は大極殿の中軸線上を中心に左右に計7本建てられるものですから、発見された柱堀形は東の3本に相当します。同様な遺構は1983年に平城宮の大...史跡向日047長岡宮跡

  • 寺院向日0601 南真経寺 日蓮宗

    東西2ケ寺にわかれているここは西にある鶏冠山南真経寺といい、西山方面の京都六檀林の1つとして知られた名刹です。はじめ真言宗に属し、真言寺といっていたが、徳治2年(1307)ときの住職実賢律師が日像上人の教化に信服して日蓮宗に改宗し、寺名も真経寺と改めた。日像上人にとっては関西における日蓮宗弘通(ぐずう)最初の寺であり、その後の布教活動の拠点となった由緒ある寺。江戸初期の承応3年(1654)、通明院日祥は教学研究のために檀林を設け、寺を南北に分かち、北真経寺は宗内僧徒の講学所とし、南真経寺は鶏冠井村村民の信仰の場とした。明治初年に檀林は廃され、建物の多くを失った。現在の北真経寺は開山堂、三宝堂(本堂)、をはじめ経蔵、鐘楼、庫裏等がある。南真経寺は開山堂、三宝堂(本堂)、鐘楼、客殿、庫裏等がある。深草宝塔寺らつぐ古...寺院向日0601南真経寺日蓮宗

  • 寺院向日0606 石塔寺 日蓮宗

    法性山と号する本化日蓮宗の本山で、日蓮上人の孫弟子の日像上人を開山としている。日像上人は他宗の迫害を冒して教化につとめ、朝廷から洛外追放の法難にあい、京都七口に法華題目の石塔婆を建てようとして、まず向日神社の社頭に建立した「鶏冠井(かいで)法華」の始まりとされる、その後、文明年間(1469~87)日成上人がその近くに一宇を建てて石塔寺と名づけたのが、当寺のおこり。のちに勧修寺宮の殿舎を賜わって本堂を再建するなど栄えたが、日蓮宗以外の人からは布施を受けない不受不施の禁制にあって幕府の方針に合わないとして、弾圧を受け衰退した。明治維新後、付近にあった興隆寺の建物を移し、現在の地に再興された。境内には寺名の起こりとなった日像上人筆の題目石塔婆を安置した塔堂があり、草花が多い。今も周辺に「御塔屋敷」「御塔下」「御塔道」...寺院向日0606石塔寺日蓮宗

  • 祠向日051 鈴吉大明神

    祠前回の記事⇒祠八幡050荒鈴龍王関連記事⇒39乙訓の里地区寺社記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます祠向日051鈴吉大明神

  • ポスター0103 向日市 桜まつり

    ポスター前回の記事⇒ポスター0102癒しの修行と旅関連記事⇒39乙訓の里地区寺社記事検索一覧ポスター0103向日市桜まつり

  • 39 乙訓の里 地区 寺社記事検索一覧

    乙訓向日神社向日神社・元稲荷古墳向日神社・増井向日山真経寺石塔寺長岡宮大極殿址桓武天皇皇后高畠陵物集女車塚古墳角宮神社来迎寺来迎寺・両部曼荼羅板碑乙訓寺光明寺光明寺・御影堂光明寺・阿弥陀堂光明寺・法然上人石棺光明寺・開山廟光明寺・釈迦堂光明寺・紫雲松長法寺今里大塚古墳長法寺・三重石塔長法寺・溺水長岡天満宮寂照院走田神社乗願寺乗願寺・御谷神社土御門天皇金原陵御谷神社乗願寺・あかねの井柳谷観音楊枝谷神足神社勝竜寺城址独鈷水・楊谷寺楊枝谷・独鈷水恵解山古墳勝竜寺大山崎離宮八幡宮河陽離宮址離宮八幡宮・竹林公園関戸神社妙喜庵天王山妙喜庵・書院妙喜庵・待庵茶室大念寺宝積寺宝積寺・仁王門宝積寺・三重塔宝積寺・本堂宝積寺・閻魔堂宝積寺・十九所明神社宝積寺・小槌の宮宝積寺・九重石塔鬼くすべ酒解神社宝積寺・待宵の鐘宝積寺・鬼くすべ...39乙訓の里地区寺社記事検索一覧

  • まち歩き向日1060 御塔道(おとうみち)

    上植野町御塔道(おとうみち)石塔寺は関西に初めて日蓮宗を布教した日像上人が建てたと伝える石塔を由緒に創立された。この石塔(お塔さん)は御塔堂に安置されていたため堂前の参道を「御塔道」と呼ぶようになった。まち歩き前回の記事⇒まち歩き向日1059大日如来琴の橋由来応仁の乱関連記事⇒39乙訓の里地区寺社記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き向日1060御塔道(おとうみち)

  • まち歩き向日1059 大日如来 琴の橋 由来 応仁の乱

    琴の橋大日如来由来記応仁元年(1467)以来11年間世にいう応仁の乱により家屋敷を焼き払われた民、公家は暗夜に乗じてある者は裸同然の姿でわれもわれもと都落ちしていった。都からさほど遠くないこの乙訓の村々にも都落ちしてきた人々が数多くみられた。ある夜のこと暗い野良道を急ぐ数人連れがあった。長い布で身を隠した一人の娘を取り囲むかの様に急ぎ足で行く刀を差した小者がいたわる様に、月明かりに照らされた姫の美しいほおに涙がキラリと走る。「都の父は如何されたであるか。」ちょうど桂(京都市右京区)から寺戸村(向日市寺戸町)へ入る所だった道が川に行き当った。幅が2メートル近くあり深く橋が下り、か弱い姫を守っての逃避行渡れそうにない「せっかくここまで逃げ延びてきたのに」姫と小者も途方に暮れてしまった。身の不運とあきらめかかったその...まち歩き向日1059大日如来琴の橋由来応仁の乱

  • まち歩き向日1058 家にくいこむ 街路樹

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き右1057広沢の池石仏関連記事⇒39乙訓の里地区寺社記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き向日1058家にくいこむ街路樹

  • まち歩き右1057 広沢の池 石仏

    洛西屈指の大池で、周囲は約1キロ、伝説によるとこの池は寛朝(かんじょう)僧正が遍照寺を建立するにあたって作ったといわれるが、先住民が灌漑用の池として造ったものを寛朝が境内の一部に採り入れたもの、寛朝は早くからこの池畔に山荘を構えていたが、永祚(えいそ)元年(989)10月、山荘を寺とし遍照寺と号した。寺は真言宗広沢流として栄えたが、長徳4年(998)寛朝の没後は衰微した。この池は、時代の推移によって変わらず残っているから。数々の歌に詠まれている。観音島の観音石仏頭上に11面の化仏をあらわし、両脇に千手をもつ丸彫りの石仏。背面に寛永18年(1641)樋口平太夫が願主となり、但称上人によって造られた銘がある。もと鳴滝の五智山にあった石仏群中5体の一体をこの地に移したもの。明治時代に蓮華寺から借り出したもので、寺に借...まち歩き右1057広沢の池石仏

  • 神社右0181 阿刀神社

    阿刀神社小さな社殿と石鳥居があるだけ、神社としてはすごく古い。貞観8年(866)には従五位下を授けられ、延喜の制には小社に列せられ、国家の祭祀にあずかった格式高い神社です。祭神は阿刀家の祖神味饒田命(うましにぎたのみこと)とし、同家が平安遷都に際し、河内国渋川郡跡部(大阪府八尾市)よりこの地へ移住したとき、併せて祖神を勧請したもの。弘法大師の母は阿刀家の出身といわれ、大師は幼時同家について学問を修めた。大師が東寺を賜わるや、阿刀家は東寺執行(しゅぎょう)の職を相伝したという家柄で、子孫は今なお健在とのこと。阿刀氏は物部氏の支族で石上氏(いそのかみ)と同祖といわれ、延喜23年(804)2月5日に、両氏の祖神を祀る大和国石上神宮の器仗を、この地に遷座したことがみえる。そこは嵯峨新宮町で、明治維新まで「維新の森」とよ...神社右0181阿刀神社

  • 花右002 この花は 見事 すばらしい

    場所は広沢の池のほとり児神社の向かいです平成30年4月3日撮影満開です落下の花はないです平成27年4月2日撮影つばきかさざんかかどっちなんでしょう後記椿でした平成28年11月20日撮影画像追加(平成29年6月6日)前回の花記事➡花001椿見事です今年も咲きました広沢の池五七五夫だけ凄い凄いと褒めてくれ/松原ことわざお前百までわしゃ九十九まで花右002この花は見事すばらしい

  • 右京区 町名 仁丹

    右京区秋街道町区域関連記事⇒仁丹町名ホーロー看板上京区版、その他右京区町名仁丹

  • 石碑八幡0206 圃場整備事業 八幡地区竣工

    関連記事⇒49八幡地区記事検索一覧石碑前回の記事⇒石碑八幡0205小野篁公作十王像閻魔堂三宅石碑下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石碑八幡0206圃場整備事業八幡地区竣工

  • 寺院八幡0605 宝青庵

    寺院前回の記事⇒寺院八幡0604八角堂重要文化財関連記事⇒49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院八幡0605宝青庵

  • 石碑八幡0205 小野篁公作 十王像 閻魔堂 三宅石碑

    小野篁公作十王像閻魔堂昭和三年春京都依三宅安兵衛遺志建之関連記事⇒三宅安兵衛の道標49八幡地区記事検索一覧関連記事0013小野篁ゆかりの各地下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石碑八幡0205小野篁公作十王像閻魔堂三宅石碑

  • 町名0021 『不動』 の名がついた町名

    北区大北山不動山町上京区不動前町中京区不動町下京区石不動之町下京区北不動堂町下京区南不動堂町伏見区日野不動講町町名0021『不動』の名がついた町名

  • 道標八幡0248 紅葉寺寶青菴 三宅石碑

    紅葉寺寶青菴向て右涙川一丁半左り八角院一丁昭和二年七月京都三宅安兵衛依遺志建之関連記事⇒三宅安兵衛の道標49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0248紅葉寺寶青菴三宅石碑

  • 道標八幡0247 万稱寺跡 三宅石碑

    万稱寺跡右正平塚半丁左中ノ山一丁昭和二年十月京都三宅安兵衛依遺志建之関連記事⇒三宅安兵衛の道標49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0247万稱寺跡三宅石碑

  • 石碑八幡0204 正平塚古墳 墓地に二基

    正平塚古墳昭和二年七月京都依三宅安兵衛遺志建之正平塚古墳昭和二年七月京都依三宅安兵衛遺志建之関連記事⇒三宅安兵衛の道標49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石碑八幡0204正平塚古墳墓地に二基

  • 町名0020 『毘沙門』 の名がついた町名

    上京区毘沙門町(黒門通)上京区毘沙門町(七本松通)上京区毘沙門町(上立売通)上京区毘沙門横町中京区毘沙門町(西洞院通)中京区毘沙門町(御幸町通)下京区毘沙門町東山区毘沙門町山科区安朱毘沙門堂町町名0020『毘沙門』の名がついた町名

  • 慰霊碑013 慰霊碑 大東亜戦争 昭和26年

    関連記事⇒関連0011慰霊碑戦没碑49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます慰霊碑013慰霊碑大東亜戦争昭和26年

  • 寺院八幡0604 八角堂 重要文化財

    八角堂八角院ともいう。正法寺の境外仏堂で、西車塚古墳の上に本堂を1棟だが建っている。当寺は建保年間(1213~19)善法寺検校祐清(ゆうせい)の創建と伝え、もと石清水八幡宮の西谷にあったものを、明治の神仏分離に際にこの地に移し、建物が八角形であるのに因んで、八角院と名を改めた。もっとも八角といっても通例の八角円堂ではなく、正方形の四隅をやや大きく切り落としたような平面で、四方に扉がついている。慶長年間(1596~1615)に豊臣秀頼の再営とつたえる。堂内に安置する本尊阿弥陀如来坐像(重文・鎌倉時代)は像高2.8m、光背も大きく4.8m、反りがないのが注目される。右の大師堂に安置する元三(がんさん)大師座像(重文・鎌倉時代)は像高82cm、彩色で大師72歳の像といわれ、写実性に富んでいる。いずれも石清水本宮三の鳥...寺院八幡0604八角堂重要文化財

  • 道標八幡0246 万稱山 三宅碑

    正平塚万稱山右男塚一丁吾妻與五郎墓左紅葉寺半丁昭和2年10月京都三宅安兵衛依遺志建之道標前回の記事⇒道標八幡0245八角院三宅石碑関連記事⇒三宅安兵衛の道標49八幡地区記事検索一覧その2下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0246万稱山三宅碑

  • 49 八幡 地区 記事検索一覧 その2

    まち歩き八幡1050謎の石柱なんのため祠八幡050荒鈴龍王寺院八幡0603極楽寺まち歩き八幡1051井戸最近まで使われていたような道標八幡0242水月庵三宅石碑まち歩き八幡1056松花堂庭園表門車塚古墳三宅石碑道標八幡0243正平7年役神器奉安所岡の稲荷社三宅石碑道標八幡0244正平役血洗池古蹟三宅碑道標八幡0245八角院三宅石碑49八幡地区記事検索一覧その2

  • 道標八幡0245 八角院 三宅石碑

    西車塚跡國寶乾漆阿弥陀像八角院同元横川元三大師像昭和二年建之京都三宅安兵衛依遺志関連記事⇒三宅安兵衛の道標49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0245八角院三宅石碑

  • 道標八幡0244 正平役血洗池古蹟 三宅碑

    正平役血洗池古墳右八角堂左男塚昭和二年七月京都三宅安兵衛依遺志建之関連記事⇒三宅安兵衛の道標49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0244正平役血洗池古蹟三宅碑

  • 道標八幡0243 正平7年役 神器奉安所 岡の稲荷社 三宅石碑

    正平7年役神器奉安所岡の稲荷社左奈良街道美の山十丁松井廿大住一里薪一休寺文学博士西田直二郎書昭和2年7月京都三宅安兵衛依遺志建之右高野街道峠十五丁津田二里野崎四里柏原六里従是高野山至ル関連記事⇒三宅安兵衛の道標49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0243正平7年役神器奉安所岡の稲荷社三宅石碑

  • 下京区 丹波口通 仁丹

    丹波口通下松屋町西入丹波口道町関連記事➡仁丹町名ホーロー看板下京区丹波口通仁丹

  • まち歩き八幡1056 松花堂庭園 表門 車塚古墳 三宅石碑

    表門松花堂庭園の表門は、もと石清水八幡宮の「一の鳥居」前にあった「高坊」(宿坊)のものといわれ、二百有余年前に造られた破風型寺門の様式です。八幡小学校の開設以来、長らく校門として使用され、同校のシンボル的存在でしたが、運動場の拡張に伴う校門の新設により昭和38年(1963)10月に当地に移転したものです。八幡小学校明治5年(1872)に知周校と称し、八幡高坊の地に創立明治33年(1900)に八幡尋常高等小学校と校名改称大正5年(1916)に八幡菖蒲池に移転昭和16年(1941)に八幡国民学校昭和22年(1947)に八幡小学校に校名改称松花堂庭園・美術館車塚古墳昭和3年秋京都三宅安兵衛依遺志建之車塚古墳標高18mの平野部に築造されている。現在は史跡松花堂の庭園になっていて、墳丘は前方部が削られて既になく、後円部は...まち歩き八幡1056松花堂庭園表門車塚古墳三宅石碑

  • 慈雲寺 洛陽十二支妙見 申

    平成30年3月29日撮影平成27年9月20日の記事慈雲寺日蓮宗洛陽十二支妙見申近辺地域記事➡地図の右下ユーザー地図をクリック関連記事➡洛陽十二支妙見慈雲寺洛陽十二支妙見申

  • 下京区 下松屋町通 仁丹

    下松屋町通丹波口下ル丹波街道町下松屋町通中堂寺下ル薮之内町関連記事➡仁丹町名ホーロー看板下京区下松屋町通仁丹

  • ポスター0102 癒しの修行と旅

    ポスター前回の記事⇒ポスター0101仏壇供養会京仏壇・京仏具ポスター0102癒しの修行と旅

  • 44 城陽 地区 寺社記事検索一覧

    城陽平井神社安養寺久津川古墳群車塚古墳芭蕉塚古墳丸塚古墳友が丘古墳公園平川廃寺跡万福寺久世神社久世鷺坂久世廃寺跡芝ケ原十二号墳正道官衙址寺田水度神社栗隅大溝址鴻ノ巣山天塚古墳公園念仏寺長光寺三縁寺水主神社大国魂命之塚室城神社樺井月神社樺井の渡址阿弥陀寺天満宮社荒見神社長池長池址大蓮寺島利兵衛墓長池宿碑光明寺旦椋神社森山遺跡青谷青谷梅林市辺天満宮城山遺跡青谷青谷梅林市辺天満宮城氏館跡松井蔵人館址市辺押磐皇子故址椎野山観音寺址栗神社椎尾山観音寺址椎野ノ滝森山遺跡丸山古墳奈島青谷梅林奈島賀茂神社深見泥奈島賀茂神社深見泥十六松本神社44城陽地区寺社記事検索一覧

  • まち歩き向0506 冨永屋 伊能忠敬が宿泊、初代若乃花が風呂を使う

    2018年4月8日撮影2017年3月30日の記事西国街道を行き交う旅人が泊まり、乙訓の大きな会合が開かれたところ西国街道に面して広い間口を構えるこの建物は、江戸時代から戦後しばらくまで、富永屋の屋号で、代々宿屋・料理屋を営んでこられたところです。創業は古く、今から400年近く前の元和2年(1616)には、すでにこの場所で富永屋権三郎が「羇宿渡世」(「羇」は旅のこと、つまり旅の宿の商売宿屋さん)をしていた記録があります。向日市は、西国街道沿いの町場として栄えました。西国街道は、京都の東寺口を起点に摂津の西宮に至ります。豊臣秀吉が朝鮮出兵の物資や軍勢を送るため街道を拡張・整備した時、京都を出てひと休みの場所にある向日神社の門前に、町場をつくることを認めたのが始まりです。江戸時代には乙訓の商業・文化の中心として、西山...まち歩き向0506冨永屋伊能忠敬が宿泊、初代若乃花が風呂を使う

  • ポスター0101 仏壇供養会 京仏壇・京仏具

    ポスター前回の記事⇒ポスター0101今宮神社神幸祭ポスター0101仏壇供養会京仏壇・京仏具

  • まち歩き下1055 本願寺門前町の親鸞像

    向こうの門は西本願寺の門まち歩き前回の記事⇒まち歩き下1054植柳小学校の二宮尊徳像関連記事⇒16下京地区寺社記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1055本願寺門前町の親鸞像

  • まとめ030 二宮尊徳像

    1石碑八幡0194慰霊碑2寺院南0535延命山西蔵寺西山浄土宗3「府立図書館」日本で初めての公衆図書館4番組小学校下京区11番開智小学校今は学校歴史博物館5まち歩き下1054植柳小学校の二宮尊徳像6789まとめ030二宮尊徳像

  • まち歩き下1054 植柳小学校の二宮尊徳像

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き下1053京都駅のペンギンモニュメント関連記事⇒まとめ030二宮尊徳まち歩き下1054植柳小学校の二宮尊徳像

  • 石碑 鯖街道口

    鯖街道とは,この地から高野川左岸を北上して,八瀬・大原,近江国朽木から越前小浜へ至る若狭街道のことである。京都と若狭湾を結び,魚の輸送路となり,なかでも鯖が多く運ばれたことから「鯖街道」と呼ばれるようになった平成13年建立相国大龍書之鯖街道の名称は古代~近代にはない。鯖が若狭湾で豊漁になるのは江戸時代末期であった。関連記事⇒まとめ0031京の七口石碑鯖街道口

  • 桜下041 植柳小学校の桜

    平成30年3月29日撮影桜前回の記事⇒桜右040太秦映画村前の通りの桜関連記事⇒まとめ035桜の花番組小学校下京19番植柳小学校給食・脱脂粉乳16下京地区寺社記事検索一覧桜下041植柳小学校の桜

  • まち歩き下1053 京都駅のペンギン モニュメント

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き右1052斜めに伸びる松の木関連記事⇒16下京地区寺社記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1053京都駅のペンギンモニュメント

  • まち歩き右1052 斜めに伸びる松の木

    前回のまち歩き記事⇒まち歩き八幡1051井戸最近まで使われていたような関連記事⇒寺社検索05太秦・嵯峨野下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き右1052斜めに伸びる松の木

  • 道標八幡0242 水月庵 三宅石碑

    水月庵向て左美濃山八丁長尾停留所一里四條畷三里昭和二年建之京都三宅安兵衛依遺志建之向て右北八幡宮本社十丁一西幣原水月庵八丁京阪八幡停留所廿丁招堤十八丁枚方三里道標前回の記事⇒道標八幡0241橋本近道三宅石碑関連記事⇒三宅安兵衛の道標49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0242水月庵三宅石碑

  • まち歩き八幡1051 井戸 最近まで使われていたような

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き八幡1050謎の石柱なんのため関連記事⇒49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き八幡1051井戸最近まで使われていたような

  • 寺院八幡0603 極楽寺

    寺院前回の記事⇒寺院八幡0602福寿院浄土宗関連記事⇒49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院八幡0603極楽寺

  • 祠八幡050 荒鈴龍王

    祠前回の記事⇒祠八幡049弁財天関連記事⇒49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます祠八幡050荒鈴龍王

  • まち歩き八幡1050 謎の石柱 なんのため

    縦に溝みたいなものがある円柱状の土台のようなものもあるまち歩き前回の記事⇒まち歩き八幡1049正法寺近くの町なみ関連記事⇒49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き八幡1050謎の石柱なんのため

  • 道標八幡0241 橋本近道 三宅石碑

    電柱の向こうパーマ看板の手前楠葉道停留所十五丁橋本近道西十五丁昭和二年十月京都三宅安兵衛依遺志建之道標前回の記事⇒道標八幡0240左京街道東在所道三宅石碑関連記事⇒三宅安兵衛の道標49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0241橋本近道三宅石碑

  • 道標八幡0241 橋本近道 三宅石碑

    楠葉道停留所十五丁橋本近道西十五丁昭和二年十月京都三宅安兵衛依遺志建之関連記事⇒三宅安兵衛の道標49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0241橋本近道三宅石碑

  • まとめ0031 京の七口

    豊臣秀吉が天下制覇し、天正19年(1591)に洛中周辺に御土居を築き、都の構えとして七口をひらいた。東粟田口坤(ひつじさる)東寺口⇒地蔵尊南039矢取地蔵尊道標南0131西丹波口北清蔵口艮(うしとら)鞍馬口⇒出雲路鞍馬口・京の七口北大原口⇒京都で一番美しいと言われている大原口道標東荒神口⇒京の七口江戸時代には街道と結びついて山陽道(摂津道)東寺口東海道(伊賀伊勢道)五条橋口西海道(さいかいどう九州道)四條大宮口南海道(紀州道)竹田口東山道(とうさんどう近江道)三条橋口北陸道(若狭道)大原口山陰道(丹波道)清蔵口これらは鳥羽口伏見口丹波口粟田口八瀬口若狭口長坂口とか東寺口竹田口五条橋口大原口三条橋口千本口七条口などと呼ばれていた実際京に入る道は10数か所あり竜華越(りゅうげ)八瀬の里から北の山路を経て近江国大溝の...まとめ0031京の七口

  • 道標八幡0240 左 京街道 東在所道 三宅石碑

    左京街道御幸橋廿丁淀一里半鳥羽三里東寺四里廿丁伏見二里半左東在所道戸津八丁内里十五丁岩田渡船場廿五丁寺田一里半下奈良渡船場廿二丁宇治二里昭和二年十月京都三宅安兵衛遺志建之道標前回の記事⇒道標八幡0239正法寺三宅石碑関連記事⇒三宅安兵衛の道標49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0240左京街道東在所道三宅石碑

  • まち歩き八幡1049 正法寺近くの 町なみ

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き八幡1048壁のつる関連記事⇒49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き八幡1049正法寺近くの町なみ

  • 地蔵尊北046 地蔵尊 と 若狭街道

    2019年7月8日記事追加前坂の京向地蔵尊京を向いているのでこの名がある。台石に石工銘があり「石工京荒神口今津屋平兵衛」とある。江戸後期の天明から寛政年間富む推定される。2018年10月11日の記事古道若狭街道京見峠0.5K杉坂2K真弓6K山国16K地蔵尊前回の記事➡地蔵尊山045山科下御廟野町下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます地蔵尊北046地蔵尊と若狭街道

  • 寺院八幡0602 福寿院 浄土宗

    寺院前回の記事⇒寺院八幡0601安心院浄土宗関連記事⇒49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院八幡0602福寿院浄土宗

  • 地蔵尊八幡056 地蔵尊 前に石が祀られている

    地蔵尊前回の記事⇒地蔵尊八幡055大きい地蔵尊です関連記事⇒49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます地蔵尊八幡056地蔵尊前に石が祀られている

  • 愛宕灯籠34 愛宕山大権現 横には 三体石仏 千束で 原谷を目指して2

    内容追加19.7.7前回16.1.20前回の記事➡鷹峯の三叉路原谷を目指して1石仏古い台石には寛政10年(1798)の銘がある。右から聖観音菩薩・地蔵菩薩・不動明王愛宕山大権現文化9年(1812)建立の愛宕灯籠文化9年は徳川将軍11代家斉26年目講中と記されています愛宕灯籠のまとめ・検索➡愛宕灯籠愛宕灯籠34愛宕山大権現横には三体石仏千束で原谷を目指して2

  • 町名0019 『六道』 と名がついた町名

    右京区嵯峨大覚寺門前六道町町名0019『六道』と名がついた町名

  • 寺院八幡0601 安心院 浄土宗

    寺院前回の記事⇒寺院八幡0600正法寺浄土宗鎮西派重要文化財関連記事⇒49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院八幡0601安心院浄土宗

  • 寺院八幡0600 正法寺 浄土宗鎮西派 重要文化財

    正法寺(しょうぼうじ)徳迎山正法寺は浄土宗の古刹で、その歴史は12世紀末高田蔵人忠国が源頼朝の幣札使として来住したことに始まる。高田氏は後に姓を志水と改めその菩提寺として寺領堂舎をととのえた。天台宗から浄土宗に改め、後奈良天皇の帰依をうけ天文15年(1546)勅願寺となる。この頃正法寺敷地内には塔頭も数箇寺でき、寺領が増した時期であった。その後、志水氏の娘お亀が徳川家康の側室となり、尾張藩祖義直公を産んだことにより寺領五百石を有する寺勢となった。お亀は落飾して相応院と号し、没後当寺はその菩提寺となって尾張徳川家の庇護を受けた。本堂・唐門・大方丈は国の重要文化財で、寛永7年(1630)相応院寄進により建立され、現在の伽藍がこの頃ほぼ整えられた。小方丈・書院・鐘楼は京都府指定文化財で、書院西にある庭園は京都府指定の...寺院八幡0600正法寺浄土宗鎮西派重要文化財

  • 町名0018 『極楽』 がついた 町名

    伏見区深草極楽寺町伏見区深草極楽寺山町伏見区深草極楽町町名0018『極楽』がついた町名

  • 道標八幡0239 正法寺 三宅石碑

    尾張大納言義直候母堂相應院殿墓所正法寺南八角院四丁圓福寺十五丁昭和4年3月稟京都三宅安兵衛依遺志建之北九品寺一丁京阪電車一八丁寺院前回の記事⇒道標八幡0238九品寺三宅石碑関連記事⇒49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0239正法寺三宅石碑

  • 寺院八幡0599 九品寺

    寺院前回の記事⇒寺院八幡0598法園寺律宗重文関連記事⇒49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院八幡0599九品寺

  • まち歩き八幡1048 壁のつる

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き八幡1047老舗志ばん宗・じばんそう関連記事⇒49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き八幡1048壁のつる

  • 道標八幡0238 九品寺 三宅石碑

    九品寺左巣林庵一丁右正法寺二丁昭和二年十月京都三宅安兵衛依遺志建之道標前回の記事⇒道標八幡0237八幡宮道三宅碑関連記事⇒三宅安兵衛の道標49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0238九品寺三宅石碑

  • 道標八幡0237 八幡宮道 三宅碑

    八幡宮道興聖谷不動昭和二年十月京都三宅安兵衛依遺志建之道標前回の記事⇒道標八幡0236法園寺三宅碑関連記事⇒三宅安兵衛の道標49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0237八幡宮道三宅碑

  • まち歩き八幡1047 老舗 志ばん宗 ・じばんそう

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き八幡1046エジソンの顔モニュメント関連記事⇒49八幡地区記事検索一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き八幡1047老舗志ばん宗・じばんそう

  • 町名0017 『地蔵』 がついた町名

    左京区一乗寺地蔵本町(じぞうもとちょう)左京区北白川地蔵谷町山科区竹鼻地蔵寺南町町名0017『地蔵』がついた町名

  • 道標八幡0236 法園寺 三宅碑

    法園寺右川口渡舟五丁左園口一丁半昭和2年10月三宅安兵衛依遺志建之関連記事⇒三宅安兵衛の道標49八幡地区記事検索一覧道標前回の記事⇒道標八幡0235安居橋三宅石碑下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0236法園寺三宅碑

  • 町名0016 『観音』 がつく町名

    上京区一観音町上京区元観音町上京区観音寺門前町中京区観音町中京区観音堂町中京区七観音町南区吉祥院観音堂町南区吉祥院観音堂南町伏見区観音寺町町名0016『観音』がつく町名

  • 石仏八幡033 法園寺 となりの石仏

    石仏前回の記事⇒032関連記事⇒49八幡地区記事検索一覧石仏八幡033法園寺となりの石仏

  • 寺院八幡0598 法園寺 律宗 重文

    法園寺律宗の寺で、雄徳山と号する。当寺は鎌倉時代に石清水八幡宮の別当田中宗清(34代)・行清(39代)が二代にわたって創立した寺で、南部の中道上人を請じて開山したとつたえる。本尊釈迦如来坐像(重文・南北朝)は87cm、寄木造り、漆箔、玉眼の押木に正平16年(1361)大仏師院全の墨書銘があり、作者と制作年代の明らかなことや、胎内にまた当寺の建立を物語る多くの古文書や経巻(重文・南北朝)等の納入品があることで、重要な仏像とされている。寺院前回の記事⇒寺院八幡0597薬薗寺薬師如来・重文三宅石碑関連記事⇒49八幡地区記事検索一覧京都府の重要文化財・国宝建物下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院八幡0598法園寺律宗重文

  • 町名0014 『和泉式部』 と名がつく町名

    右京区太秦和泉式部町(いずみしきぶちょう)この地と人物和泉式部との関係は・・・町名0014『和泉式部』と名がつく町名

  • 神社八幡0180 春日神社

    稲荷の神商売繁盛、家内安全、五穀豊穣瘡守の神皮膚病やでき物に良く効かれる神平癒の神塞の神昔、村の中に悪い神や悪魔が入らないように塞の神を祀った旅に行く時に道中安全を祈った交通安全の神と同じ道祖神と同じ大正7年建立天満宮御祭神菅原道真公学問上達・受験合格の神神社前回の記事⇒神社八幡0179和気神社関連記事⇒49八幡地区記事検索一覧神社八幡0180春日神社

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