よく、介護は100点を目指さなくていい、60点でいい、と言われますが、私は、60点なんて高い!とても無理!と思っていました。自分の介護を点数にするなら、20点と思っていました。得意でも好きでもない車の運転を、40代でペーパードライバーを解消して親がいるうちはと続けていたのが10点。認知症になり記憶することが難しくなった母に、こんなことがあったという覚え書き、日記代わりに始めたアルバム作りが10点。いや、1点ずつの2点でもいいくらいです。弄便や異食が始まってからは、自分なりにアイディアを絞り出して対応したつもりですが、混乱している間に入院しましたので加点も疑問で。運転は、目も悪いのでもうしません。アルバムも、納骨の様子や仏前にと届けられた品々を撮って、プリントして貼って、おしまいにしました。写真の説明やコメントを...20点介護
前の記事で、母がいなくなったら、どんどん自分の道を前に進むと決めていたと書きました。そう思ったのは、介護中、出かけたがりの母のため、買い物も兼ねてなるべく広いショッピングモールを歩く事が多かったからです。母は、少し離れて私の後ろを歩いて来るのが常でした。たいてい開店直後から入店していたので、まだ空いていて、広い通路を、前を行く私を目印にしつつ、1人で歩いている感覚を味わいたかったのだと思います。私は、母の速度に合わせながら、ちゃんとついて来ているかどうか、しょっちゅう振り返り、確認していました。それで、母がデイサービスの日など、私1人で歩ける時には、自分のペースでさっさと歩きました。そんな現実的なことと、心情的なことと合わせて、母がいなくなったら自分のペースでどんどん行く、と決めたのでした。よく行った店を自分の...母の死は不思議
まだ母のことで誰かと話す時に泣けてくるのですが、もう大丈夫という気もします。先日見た母の夢では、母と一緒に急な斜面を登らなければならず、私が先に行って母を引っ張ろうとすると、母が自力で登って来た、そんな場面でした。母ももう大丈夫なんだな、と思いました。介護中に決めていたことがあって、母とは楽しく過ごして、別れの時が来たら笑顔でさよならして、次の日からどんどん自分の道を進む、ということでした。実際は、認知症が重くなり、母は不穏の日々。私は余裕がなく精神的にまいってしまい楽しく過ごすどころか母は入院。入院が長引いて、コロナ禍で会えもせず、もやもやと緊張の中、会話もできず亡くなりました。私は心身の不調で前に進む気力なし。また、母が入院して、介護から手が離れた時にも決めたことがあります。嫌われてもいいから、もう誰の機嫌...決めたこと
なんだか不意に思いついて、母がいつも来ていた冬のコートを出してハンガーに掛け、その上から、母愛用のショルダーバッグを掛けました。眺めると、なんだか気持ちが落ち着きました。先日、納骨の際、泣けてしまうかな…と思いましたが、簡素に淡々と進んだこともあり、私も淡々としていました。帰宅して、ほっとしたような、骨とはいえ母が家からいなくなってさみしいような、そんな感じがしましたが。なので母のことではもう泣かないような気がしましたのに、そのコートとバッグに泣けました。自分でこんなことをしといて泣いてるよ、とあきれながら。その夜、母の夢を見ました。母が入院したので病室に行くと、看護師さんに明日退院です、と言われる。ああそうなんだ、早いな、準備できてないけど数日なら大丈夫か、そしてまたホームに戻れば…と考えました。夢の中では、...母の夢を見るおまじない??
母がいなくなって、守るものがなくなったと感じます。持病のあった母の体調や病院のことから、認知症と診断されてからは特に、母にかかりきりになりました。認知症への誤解や偏見で母が傷つかないように。父からの暴言、皮肉に傷つかないように。体調管理とともに、気にかけていました。服や持ち物、お化粧、見た目もこざっぱりするように。今、自分の通院で医師と話す時、気になる点があっても伝えず、はいはいと聞いて終わります。母の通院では、伝えること、聞くことをメモして、ぐいぐい話したのですが。母のことでは、何がいいか、どこがいいか、調べまくったのですが、自分のことは面倒だからこれでいいや、です。もう母のことはしなくていい。することがなくなりました。守るものがなくなりました。守れていたのかというと、へなちょこなので、人並みにも至らず、だと...守るものがなくなった
最近、母の夢を見ました。外を歩いていたら誰かに、ここは危ないと言われて、私は母を抱きかかえるようにして移動する、という内容でした。以前にも同じような夢を見ました。母と歩いていたら、空襲が起きて、人々は急いで近くの山の中に入って隠れる。私も母の手を取って茂みに隠れようとしますが、母が歩けない。どんどん遠くに行く人々を見ながら、私は立ち止まり、山の手前の道で母と座り込み、ここにいるしかない、とあきらめたのでした。目が覚めた時、ものすごく悲しくてむなしかったです。思えば、母がいた時は、母を探して走る夢がとても多かったです。自分の靴がない、という夢もよく見ました。そういう夢はこのところ見ていません。もう見なくなるのでしょうね。学生の頃、算数・数学がとても苦手だったせいか、卒業して何年経っても、その授業の夢を見ました。答...母の夢
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