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まほろばの泉 https://blog.goo.ne.jp/greendoor-t

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集

まほろばの泉
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2015/01/13

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  • 国家の折と節 ゛観て見ぬ振り゛ 09 9/12 あの頃

    国家には折り目と節目といわれるものがある。今も昔も祝日は旗日(ハタビ)といわれ日章旗を玄関先に掲げている。いまは右翼でと小声で云われ、或るとき板橋区では祝日の掲揚の指示に付け加えて「文句が出たら片付けるように・・」との役人らしいお触れが現場に回った。皇居の参賀では小旗を配布するが、ゴミ箱?を用意して苦情が出たことがある。軍人が日章旗を戦闘に行進したからと、平和に反すると教育現場に問題が起きているが、自由意志の調和と連帯が社会の寛容度とするならば強制も反発も馴染まない。ただ、目印としては有効だ。他国とは異なるものだからだ。金儲けのオリンピックも戦闘行為も旗印は必要になる。日の丸は軍の連隊旗でもなければ錦の御旗でもない。夫々の異なる国柄を尊重する行為を理屈で当てはめるまでも無く、また愛顧や魂の存在を置いても、...国家の折と節゛観て見ぬ振り゛099/12あの頃

  • 悪を破るは易くして、愚は難し 12 4/4再

    雀の群がる樹真の悪党は一夜にして善に転じることがある。いや、善悪一如なのかも知れないが、時に善より悪のほうが利他に貢献することもあるそれを括目してみる人物も少ないが、まともな悪は褒められたいと思わないような、事を成すことに必須な矜持が潜在している逆に愚かで軽薄な流言や群れになった行動は、いつの間にか取り返しのつかない惨事を招くことがある。ときに察知して、異なることへの批判を恐れない変わり者の行動が惨事をとどめることもあるたとえ、その烈しい行動が疎外され、悪と嘲られようが、「為さざるは成さざるなり」人任せではなく、自らが発起して動くような、墨家の任侠のような人物だろう。良いことをするからと、頭を下げ、媚をうり、大義を訴えても、善をつくろう小悪党でしかない。要は、どの部分から、誰から、みた悪なのかだ。善を装う...悪を破るは易くして、愚は難し124/4再

  • 明日死ぬとわかっても、今日から始めることがある 08 7/31

    佐藤慎一郎先生明治のカブレたフランス式官制学校制度によってエリートの質は激変した。つまり人物の枯渇だ。旧制から新制に変わった途端、東大生も落ち着きがなくなり、出される課題に問題意識もなくだだ答えを出すために汲々とする数値選別に慣らされた。各界は充て職のごとく学校歴エリートを採用し、政治や経済に機略(縦横無尽・臨機応変)の躍動を失くした。結果は、騒がしく、問題の抽出能力もなく無関心や無責任の徒がおびただしい数で排出された。しかも、それらの人間の問題については教育も宗教も同様に効力がなくし、なかには同衾する宗教人や教育者も出てきた。以下は既存の世界では聴くことのない人物からの背中学でもある。白山は有名。荻窪は無名、だが互いに足らずを補い合っている秘めた関係である。筆者は、行ったり来たりを、゛したのか、させられ...明日死ぬとわかっても、今日から始めることがある087/31

  • 愚法は敵とおもえ 11 5/3再

    知って教えず師あって学ばず学んで行なわず「人災」岡本義雄翁寄贈立法時における様々な諸法との関連性を整える機関に法制局というものがある。いくら思いつきの善意で工夫を練っても駄目だしされれば陽の目を見ることは無い。つまり、矢鱈に法を知っていても、堆積されたものが整理されていなければ役にも立たない。それは幾ら戦後新憲法下で整理されたといっても、明治憲法下の法が三権にはばを利かしていると、現代生活の有効性にそぐわず、ソレを分かりやすく云えば、電力の関西の60ヘルツと関東の50ヘルツのように互換性もないものと同じようなものになってしまう。ただ、明治初頭の裁判官のように集積された判例も無いために、民族慣性である掟や習慣に照らし、かつ成文法に馴染むようにと脳髄を絞った挙句、「条理(情理)に照らして」と判決する智慧があっ...愚法は敵とおもえ115/3再

  • 数値選別と見えない独裁

    以下は豆腐の角で頭をぶつけるような言いふるされた内容の話だが、個性化とか国際化と謳われ、追い立てられ、いつの間にか現在に至った繰り言である。本文数値による愚かな受験選別が限界に達しているのは理解のとおりたが、まだ多くの盲目の民が流動している我が国において、未だ真のエリートの輩出については暗中模索の状態にある。またこれくらいは理解の淵に届いている。昨今、少しは元気が良くなった国が、遠い昔をたどり、゛そういえば、あの頃は・・゛と、想いだしたように言いがかりをつけてくることがある。その当時は単民族、多民族に関わらず構成されてる「国」という枠組みが明確だった。そのなかには、族長が闘ったり、譲り合ったりする部族共同体もあれば、宗教指導者による国家、軍政国家、西洋では王政や立憲君主、そして専制独裁があった。それが通信...数値選別と見えない独裁

  • 浅草っ子の西舘好子さんと蒋介石 18 4/6 再

    「○○さんサンデー毎日に蒋介石のことが載っていますよ」突然の電話だったが、詳しいことは分らない。以前、「天下為公」(副題請孫文再来)を贈呈してから数日のこと、「あの頃の経過がよくわかりました。」と読後感を伝えていただいたことがあった。西舘さんといえば劇作家井上ひさしさんの奥さんで、つい先ごろ「家族戦争」という本を著している。知人からの紹介でお会いしてから様々な交流があった。二十年前から子守唄の収集と調査研究を行い、文科省の後援を得て全国各地で誰もが聞き覚えのある子守唄を通じて、ある意味人生の内照と内観を促し、童心回帰のための運動を行っている。ある講話に同行した折、「私は不倫第一号、名づけはあの朝日新聞です」小生も「不義密通や姦通などというおどろしい文字より造語としてもいいですね」と、軽口を叩くと「それにし...浅草っ子の西舘好子さんと蒋介石184/6再

  • 教育免許?? 2021 あの頃

    数学の本質は論理ではなく情緒岡潔氏孔子やブッダには教えるための資格もなければ、論語や経典に流行りの著作権はない。だが、学び舎で論語を説き、寺院で経典を説き、かつ生計を図るには免許が必要となる。そして、いつの間にか学術的(アカデミック)の範疇に囲い、元となる心学や救済なとは微かになり、資格は既得権として形骸化する。つまり、埒外(柵の外)、放心(心が放たれる)となり、学び舎や教育産業と化し、寺院はミュージアムやイベント小屋と化す。以下は、教師でなく教員であり、聖職者でなく行政労働者のハナシだ。関西の高校で体育教師が国語を教えたことで問題になっている。教科によって免許が必要となり、それ以外は単位として認められないという事らしいが、その教科目の数は細かく分類している。免許取得で一番多いのは自動車だが、この管轄は公...教育免許??2021あの頃

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