江戸時代の人々は外国人をどう見ていたのだろう。そのように思いめぐらしたのは前回のブログ「地震、大火、北の黒船」を書いた時からだった。今から約200年前、文化4年(1807)大館村の肝煎高橋喜右ヱ門の覚書、「文化四年卯年五月松前国へどじん赤人陳舟移多見へ候」にあった。「大辞林第三版」に赤人(あかひと)「江戸後期、蝦夷(えぞ)の択捉(えとろふ)・得撫(うるつぷ)などに来航したロシア人を、日本人が呼んだ呼称。赤蝦夷(あかえぞ)。赤ら顔、あるいは赤い服を着ていたからという」と書かれている。肝煎高橋喜右ヱ門は松前国に赤人が押し寄せ、秋田藩の要請に「横手湯沢のお侍久保田まで具足、武具、馬疋杯仰せつけられ百姓まで難儀迷惑至極」とあった。帝国ロシアの松前藩侵入に大舘村の侍、百姓が大きな犠牲を払ったことがしるされている。このこと...江戸の人々と外国人
稲荷神社の稲荷は「稲成り」の意味だったものが、稲を荷なう神像の姿から後に「稲荷」の字が当てられたとされる。稲荷神を祀る神社を稲荷神社と呼ばれている。稲荷神社は穀物・農業の神だが、現在は商工業を含め産業全体の神として商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神として信仰されている。京都市伏見にある伏見稲荷大社が日本各所にある稲荷神社の総本宮。伏見稲荷大社では、キツネは稲荷神の神使とされる。朱の鳥居と神使の白いキツネがシンボルとなっている。伏見稲荷神社の白いキツネ像2018.10.17平成2年秋田県が悠紀の国に選ばれた。秋田県神社庁は大嘗祭と同趣旨の新嘗祭に新穀を伊勢神宮、県内神社に奉納するために「新嘗祭献穀田」を設け、平成3年より県内13支部持ちまわりで実施している。平成最後の献穀田は湯沢市川連町が選...お稲荷さんとキツネの闊歩
「象潟地震、江戸の大火、北の黒船と大館村」は、寛政拾年(1798)二月から天保十一年(1840)二月までの大館村麓、肝煎喜右ヱ門の記録(覚書)。昭和42年3月発行「稲川町史史料集第三集小松久編」で紹介された。寛政拾年以降(一)覚書川連高橋喜右ヱ門氏蔵とある。その覚書から象潟地震、江戸の大火、松前藩択捉島ヘロシア帝国侵入を追ってみた。稲川町史史料集第三集小松久編「寛政拾年以降(一)覚書川連高橋喜右ヱ門氏蔵」象潟地震について「文化元年甲子年より中だんひるなり、同元年子年六月四日よる4ツ半頃に大地震なり、五日には暮六つには地震、六日には朝六つには地震。三日之間〇〇やめずにゆるなり、近国大きに家蔵揺り崩れ、庄内三百と坂田(酒田)家蔵大きにひきつぶれ、志を越(塩越)かんまん寺大寺もひきつぶれ、かた(潟)も島もゆれ候、近国...地震、大火、北の黒船と大館村
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