chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
唯識に学ぶ・誓喚の折々の記 https://blog.goo.ne.jp/seikannamo

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思ってい

唯識に学ぶ・誓喚の折々の記
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2014/11/27

arrow_drop_down
  • 唯識入門(40)

    おはようございます。前回明日にでもとお伝えしましたが、少し先延ばしになってしまいました。外境は存在しないとどうしていえるのかという問題です。ここは、無始以来の有漏種子が因として現行している異熟識を受け止めることが出来ないことに関わってきます。もう少し先になりますと、阿頼耶識の心所が述べられますが、触の心所が大事なキ-ワ-ドになると思います。根・境・識の三和合に由って認識が生起するわけですが、ここに深く関わってくるのが恒審思量の第七末那識なのです。根・境・識の何れの一つがなかったなら認識は起こりません。根が境に働きかけなければ識は生まれません。識があっても、根・境が無かったなら認識は起こりません。認識は和合体なのです。前五識の成り立ちは、例えば眼識は眼根に依り、眼根の対象である眼境(色境のことです)を捉えて眼識が...唯識入門(40)

  • 唯識入門(39)

    おはようございます。いい天気ですね。ちょつとお出かけしたいと思います。しばらく休憩をしていましたが、また再開させてもらいます。前回は因縁変・分別変について考えましたが、少し戻ってですね、阿頼耶識の所縁について考えてみたいと思います。その前に、四分義が終わりまして、「故に識の行相は即ち是れ了別なり。了別と云うは即ち是れ識の見分なり。」(『論』第二・(『選註本p42))ここが総結の文になります。ここをもって四分の説明はおわります。このように識の行相(働き)は了別(区別)して知ることである。そして区別するのは識の見分である、と。そして所縁が説かれてきます。認識の主体は常に自分なんですね。自分を離れて認識は成り立たないことを四分義は教えてくれました。眼は外に向いていますから、世界は自分を離れて存在すると思っていますが、...唯識入門(39)

  • 唯識入門(38)

    おはようございます。ご無沙汰しております。ブログを開設して数年経ちますが、ブログは当然読んでいただきたいのです。しかし、ブログは僕の学びのスタイルとして、こうでもしないと学びの姿勢がとりませんので書き込みをしているわけです。ですから読み手の方にとっては、書き込みをしなくても知っておられると思うわけです。煩わせて申し訳ありません。m(__)mでも今日も考えさせてください。前回、内因外縁について触れさせていただきました。親鸞聖人は信心正因と示されました。典拠として、『正像末和讃』(真聖p504)「不思議の仏智を信ずるを報土の因としたまへり信心の正因うることはかたきがなかになをかたし」「信文類」(真聖p223)「涅槃の真因はただ信心をもってす。」「信文類」(真聖p228)「この心はすなわち如来の大悲心なるが故に必ず報...唯識入門(38)

  • 唯識入門(37)

    今晩は。いろいろな繋がりがあって、本当に有難いです。僕は思うのですが、人間は本来純粋なんだとね。しかし、生まれもって自分という、他者より選ばれた存在という意識が働いて、自分がすべてという妄想の中で日暮をしているわけでしょう。しかし、本来の純粋性に還ることができると教えているのが仏教なんでしょう。浄土教の純粋性は、曇鸞大師が八番問答で、自利利他の問いを立てられ、人間からは利他は成り立たないと喝破されたことが、他の大乗教と異にする所だと思います。他に利せられることはあってもですね。他を利する力はないんだと。この曇鸞大師の受け止め方は、限りなく人間の傲慢性を破っていく原動力になりますね。私たちは、皆さんはどうかしれませんが、僕はですよ、やっぱりどこまでいっても自分が正しい、間違っていないと思って生活をしています。この...唯識入門(37)

  • 唯識入門(36)

    おはようございます。猛烈な残暑ですね。皆さまお気をつけて行動してください。先週のつづきになります。第八識の行相・所縁について考察しているところですが、第八識の識を自体として、行相を見分、相分上に種・根・器を変現しているわけです。ここは純粋経験になります。しかし、純粋経験が何故覆われてしまうのかを解き明かしているのが唯識を学ぶ上での醍醐味ですね。『三十頌』第十五頌に「依止根本識・五識随縁現」(根本識に依止す。五識は縁に随って現ず。)と表されていて、第六意識は常に根本識である第八識を依り所とし、五識は意識の影響下に置かれているわけです。しかし五識と第八識の関係は現量(分別を加えないありのまま)なんです。私たちの経験することのすべてを第八識はありのまま分別を加えないで認識しているのです。経験は五識に依って純粋なのです...唯識入門(36)

  • 唯識入門(35)

    唯識入門も今回が35回目の投稿になります。論書である『成唯識論』をベースに読ませていただいてますので、幾分難解さもあろうかと思います。原典を鏡として、私たちの日常の生活の在り方を問い、いのちは何を求めているのかを明らかにしたいという思いがあって、今回の行相・所縁において、いのちは何を対象として動いているのかを考えています。最初に原典を載せておきます。幾度となく音読していきますと、言葉の響きが伝わってくるように思います。「「此識行相所縁云何。謂不可知執受處了。了謂了別。即是行相。識以了別爲行相故處謂處所。即器世間。是諸有情所依處故。執受有二。謂諸種子及有根身。諸種子者謂諸相名分別習氣。有根身者謂諸色根及根依處。此二皆是識所執受。攝爲自體同安危故。執受及處倶是所縁。阿頼耶識因縁力故自體生時。内變爲種及有根身。外變爲...唯識入門(35)

  • 唯識入門(34)

    おはようございます。今日も雨模様です。感染拡大も日に日に多くなっています。生活様式の変化が求められる中で、仏教徒は連綿として世間のありように左右されることなく、生きることの意味を尋ねてまいりました。これまでに種子生現行の種子について考え、認識はどのような過程を経て知りえることが出来るのかを見てきました。種子は本識(第八阿頼耶識)の三相の中の因相について考究されていますが、四分義の認識の在り方は第二の行相所縁で考究されているところです。(『選註』p39)第八阿頼耶識の行相と所縁について考えます。いのちはどのような対象を持ち、どのような動きをしているのかを明らかにしているところです。『成唯識論』では問いと答えそして解義が述べられています。「この識の行相と所縁は云何ぞ。」「謂く不可知の執受と処と了となり。」と。不可知...唯識入門(34)

  • 唯識入門(33)

    おはようございます。先週で簡単ではありますが、認識の在り方について四分義を考察いたしました。今回より、第八識阿頼耶識(心王)は、どのような心所(心所有法)と相応するのかを考えてみたいと思います。選註本の『成唯識論』ではP45から始まります。ここで巻第三にに入り、心所相応五遍行が説明されています。「此の識は幾ばくの心所と相応するや」と問いをたて、「常に触・作意・受・想・思と相応す。」と答えています。阿頼耶識は、始めなきいのちの始発から今日に至るまで、迷いの境涯は恒にこの五遍行と相応していると説かれています。『成唯識論』巻第三・本科段より、巻第三にはいります。『述記』では、第三末・初右。大正43・328a16~より説かれています。初めに科段が示され、全体的な釈文の傾向が明らかにされています。「此の識は幾ばくかの心所...唯識入門(33)

  • 唯識入門(32)

    おはようございます。九州地方は大雨で大変な状況になっています。心配です。局地的豪雨は多大な災害をもたらしますし、防ぎようがありませんから当事者の方々のご心労はいかばかりかとお察しいたします。コロナ禍もじわりじわりと第二派に向かっているようで三蜜は避けなければいけませんね。四分についての説明です。私たちの認識活動は、「識体転じて二分に似(の)るなり。」と、自分の心が転変して、見るものと、見られるものとに似て現れる。見られるものという相分は、自分の心の表れである、見分も相分も自分の心の表れであって、「倶に自証に依って起こる」と云われているのですね。自証分を依り所として見分・相分が成り立っているという。識が縁ずる(対象とする)のは、識の中に表された対象を縁ずる、内識のみであって、無境ということ、唯識とは、唯量という意...唯識入門(32)

  • 唯識入門(31)

    今日は。中一週あきましたが、前回のつづきを述べてみたいと思います。「了」(りょう)についての説明です。了とは、了別、つまり物事、対象を区別する働きを持つものという意味です。それは認識主体である見分(けんぶん)になります。見分は常に認識対象である相分(そうぶん)と一緒に働いています。私たちが誤解をするのが、相分と共にですから、相分(認識対象)が存在すると錯覚を起こすのですね。これが二分説になるのですが、二分説では認識の在り方が十分に説明がつかないわけです。そこでですね、陳那論師が二分は自体から生ずると見抜かれました。自体分から認識するもの、認識されるものが転じているのだと。このような構造ですと、認識の在り方は、自体分、つまり自分から生まれているんだと、自己責任に於いて認識判断を行っているのが私であるということにな...唯識入門(31)

  • 唯識入門(30)

    おはようございます。自粛要請も全面解除になり、何故か新型コロナが終焉したかのような感がありますが、終焉していませんからね。お一人お一人の行動の自粛が求められますね。たとえワクチンが開発されたとしても、新たな感染症が必ず生まれてきます。それは人間が環境と共存する姿勢を失って、人間が環境を破壊する限り、環境と人間の行動の摩擦から必然的にもたらされるものだと思います。いうなれば、感染症はどこかから来たのではなく、人間が人間自身の中から生み出してきたものであるという自覚が必要だと感じます。唯識は四分義に於いて警鐘をならしています。単純には、いのちは何を対象にして動いているのかということです。いのちの対象は自らの経験したことと、この身体です。そして共通するいのちの大地、つまり環境です。これを対象として動いています。自らの...唯識入門(30)

  • 唯識入門(29)

    今晩は、ちょっと間隔があきましたが、四分義についての序説を述べてみたいと思います。四分義は何を現わそうとしているのか、ここが一番の問題だと思います。四分義は、私たちの認識の構造の心の奥深くに横たわっている自己中心的な思いによって成り立っているという問題を抉り出しているのです。第八識の行相と所縁、働きと、対象は何かという問題ですね。心は必ず何かを対象として認識をしているのです。『成唯識論』では、「謂く、云く」と答えています。『三十頌』では「謂く不可知の執受と処と了となり」と述べられていますが、注釈は「了」から解釈されています。不可知というのは、阿頼耶識の認識と認識の対象とのありようをを表す概念で、阿頼耶識の行相(認識作用)は微細であり、阿頼耶識の所縁(認識対象)、阿頼耶識は何を対象としているのかというと、執受と処...唯識入門(29)

  • 唯識入門(28)

    今日は。先週はお休みをいただきました。一週おきまして、今週から四分義について考えてみます。認識はいかにして成り立っているのかという考究になります。それに先立ちまして、唯識の基本に一度立ち返りたいと思います。唯識は、2000年以上も前から仏教の世界では連綿として伝わってきた思想です。唯識とは、「ただ識のみあり」、ただ心だけがあるということです。「唯識」とは、私たちの苦悩の解明に心血を注いで発見した珠玉の名言です。ただ心のみがあるとはどういうことでしょうか。私たちは私と周りの外界(環境)、あるいは私と私とは無関係に存在すると考えている外界の二つがあると考えています。所謂、主客二元論です。具体的には私が意識してもしなくても山があり、川があると思っています。唯識はそれを誤りだと指摘するのです。では何があるのかといいます...唯識入門(28)

  • 唯識入門(27)

    おはようございます。コロナウイルスの感染拡大も少し落ち着いてきた感がありますが、本当に大事なのは今現在の後ひと踏ん張りだと思います。不要不急の外出はできる限り差し控えるべきでしょうね。今の行動が明日を演出する。今の行動が未来を決定し、明るい未来の創造は、今何をなすべきかが未来より問われていることだと思います。このことを唯識ではどのように捉えているのでしょうか。難しい言葉では「三法展転因果同時(さんぽうてんでんいんがどうじ)」と教えています。『成唯識論』では所熏・能熏のまとめとして説明されています。「能熏の識等は種より生ずる時に、即ち能く因と為して復種を熏成す。三法展転して因果同時なること、炷(しゅ)の燄(えん)を生じ、焰生じて炷を燋(しょう)するが如し。亦、束蘆(そくろ)の更互に依るが如し。因果倶時なりと云うこ...唯識入門(27)

  • 唯識入門(26)

    今日は、一気に夏日ですね。体調管理しっかりと、濃厚接触は避けましょう。できるだけ外出も控えて、常日頃忘れていることを考えてみるいい機会ではありませんか。前回のつづきになります。古代の印度には論理学が学ばれていまして、特にですね、陳那(じんな・デグナ-ガ)論師が新因明学を完成させられて、唯識でもこの因明の三支作法を用いて説明されることが多々あります。前回の能熏の説明においても用いられています。宗・因・喩の三つを指しますが、宗とは、主張命題です。「AはBなり」ということになります。いんとは、宗が成り立つ理由ですね。喩は宗の正しさを裏付けるものとなります。能熏になるものは、宗とは「作用有るを以ての故に方に能熏なり。」その理由は、「無為をば簡ぶ因なり。」喩えば「種子の生滅の用有るが故に能く果を生ずるが如し。」(『述記』...唯識入門(26)

  • 唯識入門(25)

    今日は。今日も世間の風に左右されることなく、後生の一大事について学んでいきたいと思います。後生とは、死んでからのことを言っているのではありません。私にとって一番大切なこと。生まれてきた意味を問い、死することの意味を問う、そんなチャンスが今与えられてることに感謝の意を表し、学びを進めていくことを表しています。父が死の間際にふと漏らした一言が耳の底にとどまって離れません。「俺の人生一体何だったんだ。」と。父の問いかけに応えていかなければなりません。今日から、能熏(のうくん)の四義に入ります。前回までに述べてきました所熏については、『摂大乗論』にも同じ定義が述べられていますが、能熏につきましては、護法菩薩独自の見解になります。能ですから、熏習する方の働きの定義になります。所熏は受け入れる方、能熏は能動的に種子を受け入...唯識入門(25)

  • 唯識入門(24)

    今日は。昨夜来より爆睡しました。ちょっと疲れがたまっていて、やっぱり歳ですね。身体は正直です。ちょっとすっきりしました。唯識は難解ですか。私は何処に向かって歩いているのか。どうなりたいのかを思索する学問になると思うんですよ。いわば、無条件の救いを実現する学問です。では何故無条件の救いが完成しなのでしょう。何が邪魔をしてるのか。この状況を唯識は詳しく説き明かしています。一言でいえば、唯識無境です。境は対象ですね。識は私の心の構造になります。私の心の構造のみが存在して、対象である境は無いといっています。この「無い」は実体的に固定的に存在するものではないということなのです。実は、私も実体的に固定的に存在するものではないんですね。それは縁に由って変化する存在であるわけです。ここで、我と法が語られます。唯識は我を明らかに...唯識入門(24)

  • 唯識入門(23)

    おはようございます。あいにくの雨ですね。お昼以降春一番が吹き荒れるかもしれません。コロナの勢いは収まりをみせません。政府が七割から八割の外出を控えるようにというのであれば、あらゆる業種に御願いして、一週間から二週間、休業補償などを含めてロックダウンをするのが賢明であると思いますが、一部が動いて、お昼の営業は可能で、夜は駄目というのはどうなんでしょう。また、法規制外の営業を認めるというのであれば、水をすくって駄々洩れ状態ではありませんかね。家の近くの大型パチンコ店は来月六日まで営業を自粛されていますが、付近の個人店は営業されています。またここに依存症の人たちが集まるのですね。クラスターが発生する可能性大です。足並みが揃っていないことが要請の欠陥ではないでしょうか。それはともかく、今日は、所熏(経験の蓄積される場所...唯識入門(23)

  • 唯識入門(22)

    今回は熏習とは何かについて学びます。どのような理由から熏習という名を立てるのか。それは所熏(熏じられるもの=阿頼耶識))と能熏(熏ずるもの=七転識)に各々四義を備えて種子を生(新熏種子)・長(本有種子)するが故に熏習と名づけるのであると説明されます。種子論では、色は色という自己の種子を熏し、生じるときも同じ自己の色の種子から生じ、心は心の自己の種子を熏じ、生じるときも同じ自己の心の種子から生じる。けっして色から心が生じたり、心から色が生じるということはない。よって因果の道理に錯乱はないことを明かに説いていました。これを受けて、熏習に所熏の四つの性質と、能熏の四つの性質を明らかにしたのです。ようするに、熏習されるもの(所熏)と熏習するもの(能熏)とに分けて説明し、所熏になりえるものと、能熏になりえるものの特質を述...唯識入門(22)

  • 唯識入門(21)

    おはようございます。二週間ぶりの更新になります。ちょっと体調を崩しておりまして一週間飛びました。お許しください。今日は昨夜来からの雨で寒いですね。関東甲信越では平地でも雪模様になっています。お気をつけてください。そして新型コロナウイルスの猛威は止まりません。本音は、買い物以外の一週間程度の徹底した外出禁止と操業停止が必要なのかもしれません。そうなると、パニックが起こるでしょうね。そこまでしなくてもという批判も起こるでしょう。身近な接触、特に濃厚接触は避けたいですね。自分は大丈夫という妄想は通じませんよ。こんな時だからこそ、ゆっくりと自分を見つめなおす機会が与えられている未曽有の時が熟しているのですね。普段は、いそがしい、忙しいと自分を忘れて動き回っていますが、それが一つのウイルスで木っ端微塵に飛び去ってしますよ...唯識入門(21)

  • 唯識入門(20)

    おはようございます。新型コロナウイルスの影響で、講座や法要が相次いで中止、延期になっています。異常事態です。アメリカの研究チームは空気感染もあり得るという見解を示しました。どこにいても感染のリスクを負っていることになるのでしょうね。できるだけの予防をして感染しないように努めなければなりません。そして、産業界では七月以降の受注が激減すると予想を立てています。つまり、今は受注残をこなしているだけなのです。経済が逼塞状態にあるということです。倒産件数も増えるのでしょうね。それに伴い、失業者も増えます。お金が回らないというのは、息ができない状態です。私たちに突き付けられた問題、問いかけは非常に深いものがあります。今日も、ネット学習は粛々として進めてまいりたいと思います。前回よりのつづきになります。今回は因縁果の、「縁」...唯識入門(20)

  • 唯識入門(19)

    おはようございます。あいにくのお天気ですね。前回よりのつづきになります。直接的な原因と間接的な原因によって現在の自分が存在しているのですが、因の力とは、自分が溜めた力をいいます。因の力に随って善悪等を生ずると説明されます。生ずることが決定されているんだ、と。善の因は善として、悪の因は悪として、阿頼耶識の中に種子として溜められる。此の方程式が恒相続されていくのです。これが因縁なのですね。「親しく自果を生ずる功能差別」と云われている所以です。これは、前に熏習した時の現行の因の力に随って、善悪等を生起するは決定していることを表しています。因と果は雑乱しないということですね。果は異熟果(いじゅくか)として、時熟(じじゅく)、時が熟して現在しているわけです。ですから、現在の果は善悪というレッテルを貼り付けないのです。異熟...唯識入門(19)

  • 唯識入門(18)

    おはようございます。今回より熏習(くんじゅう)についてですが、阿頼耶識に熏習されることを意味します。つまり、身・口(語)・意の三業の種子が人間の心の要である阿頼耶識に植え付けていく、阿頼耶識からは植え付けられていくことになります。これを、現行熏種子(げんぎょうくんしゅうじ)といっています。阿頼耶識は、「Thestore-consciousness」と訳されていますが、storeは倉庫・貯蔵所・con-scious-nessは知覚としての意識になります。つまり、現実の私の行動のすべてが貯蔵所としての阿頼耶識に収められることになります。この収められたのが種子ですから、この一瞬に何を熏習させるのかが問われているのですね。過去は取り戻すことはできませんが、過去を受け止め、未来を開いていくのは、この一瞬の行動が決定権を握...唯識入門(18)

  • 唯識入門(17)

    おはようございます。前回では、何を以て種子とするかについて大切なところを述べました。種子について、護法菩薩は、人間は本来的に持つ一面(本性住種・ほんしょうじゅうしゅ)と、生活を通して吸収し取得していく一面(習所成種・じゅうしょじょうしゅ)とがあって、二面が備わったのが現実の生きざまであるという人間観を確立されたのです。『大乗阿毘達磨経』には、因果の性質を、「更互(こうご)に果性(かしょう)と為(な)り、亦常(またつね)に因性(いんしょう)と為(な)ると。」と、説かれています。同時因果の教証になります。また、「有情(うじょう)は無始(むし)の時より来(このかた)種々の界(かい)有り。」とも説かれ、「界と云うは、是れ因の義。即ち種子識にして、」種子とは因性なんですね。この因相を、本頌では「一切種」といっています。『...唯識入門(17)

  • 唯識入門(16)

    おはようございます。あいにくの空模様です。午後から荒れ模様だそうです。お出かけされる方は気を付けてくださいね。今回は前回に述べました第一番目の刹那滅と第三番目の恒随転を結ぶような形の第二番目の果倶有(かくう)について考えます。言葉の難しさを感じます。どうしても、種子・現行・熏種子(くんじゅうし)と並びますと、それぞれが別に動いていると思ってしまいます。しかし、そうではなくて、現行の一つの側面を言い表しているのですね。現行は種子から引き出され、引き出された現行は、そのまま阿頼耶識(あらやしき)に熏習(くんじゅう)されているということです。深層の阿頼耶識の循環によって、私の生活は成り立っていることを教えています。縁に伴ってということがありますが、厳密には、その縁も自らが引いてきたことなんでしょうね。種子を因として、...唯識入門(16)

  • 唯識入門(15)

    今日は、来週からまた初春の陽気になるそうですが、雨模様みたいです。今日明日はまだ冬型ですね、寒いです。前回から種子について考えていますが、少し論題から離れてですね、地獄・極楽を死後の世界と捉えると、死後の世界なんて信じられへんという返事が返ってきます。地獄・極楽は両極端のように聞こえますが、そうではないですね。地獄は極苦処とも、奈落(金輪際)ともいわれて、暗闇の世界を表しています。極楽はどうでしょうか。ネオン輝く繁華街を思い出してください。竜宮ですね。共に、自己を振り返る余裕はありません。そこでは言葉が通じない世界だと、よくいわれます。何故言葉が通じないのでしょう。それは自分の思い(自分の物差し)が強いからでしょうね。浦島太郎の物語や蜘蛛の糸で語られていることは、自己の物差しですね。自己中心の天秤が、それこそ、...唯識入門(15)

  • 唯識入門(14)

    おはようございます。一週間早いですね。今日は穏やかな天候に恵まれています。お出かけ日和ですね。さて、今日は種子についてです。種子(しゅうじ)って何?という疑問がでてまいりますが、種子こそ現在の自分を規定している根幹を成すものなんですね。『論』では種子となるものを六つの方面から考究しています。すべてを紹介するのはかえって煩雑だと思いますので、大事なところだけを紹介したいと思います。種子を積極的に規定しているのが、種子の六義の中での第一番目の刹那滅(せつなめつ)と第三番目の恒随転(ごうずいてん)になります。有為法から種子を明らかにしています。有為法は生滅変化するもので必滅の用あるものです。刹那滅というのは、つまり、生ずると即座に滅する、間が無い(間断することが無い)けれども、その中で勝功力(しょうくりき・強い力)が...唯識入門(14)

  • 唯識入門(13)

    おはようございます。唯識を学ぶ上で、どうしても避けてはならないところがあります。例えば、本識(阿頼耶識)と転識(前七識)との関係、或いは、表層の前六識と深層の二識との関係、表層でも、第六意識と前五識との関係ですね。そして、何が一番大切なことを教えているのかといいますと、第八阿頼耶識の行相・所縁です。行相は行相見分といわれていますので、阿頼耶識の積極的な動きであり、所縁は対象。阿頼耶識は何を対象としているのか、ここははっきりとしておかなくてはならないところです。少しづつ説明していかなければなりませんが、その前提となる種子(しゅうじ)。法律の場合は(種子)しゅし、ですが、唯識ではすべては阿頼耶識の中から生み出されてくる因として(種子)しゅうじを考えています。定義は「本識の中にして親しく自果を生ずる功能(くうのう)差...唯識入門(13)

  • 唯識入門(12)

    今日はもう一題投稿します。この種子―薫習-現行は同時に起こってきます(三法転展同時因果といいます。)現行されたものが種子となり薫習され、薫習されたものが縁にふれ現行されてくることから、三法は同時に起こっているのです。私たちは本当に一期一会の時間を与えられていることがよくわかりますね。末那識とは、manasuマナスの音写なんです。定義としては、「思量するをもって性とも、相ともなす。」といわれています。何を思量するのかといえば、我を思いつづける、我の思いどうりにしたいと寝てもさめても思い続けるということを本質としているということなんです。この思量されたものが、阿頼耶識に蓄えられて、意識に上り現実の行動となって現れてくるのです。人間にとって一番大切なことはこの末那識の転換ですね。転換とは、知ることなんですね。自我意識...唯識入門(12)

  • 唯識入門(11)

    おはようございます。気持ちの良い朝ですね。来週は雨の日が続く予報がでていますが、暖かいみたいです。「ただ識のみあり」と断定しますと、何もないのかという疑問が出てくると思います。外界にはいろんなものが存在するではないか、それを「無」というのには合点がいかない。僕もそう思っていました。言葉を足しますと、外界は確かに存在する。しかし実体的、固定的に存在するのではなく、私が認識しているような外界は存在しないと教えているんだろうと思います。意識はどのような動きをしているのかといいますと、表層の前五識に影響を与え、深層意識に経験値として蓄積する働きを持っています。つまり、外界が問題ではなく、意識の本質と動きが私という存在を生み出しているといっていいんではないかと思います。難しい言葉でいいますと、「了境為性相」(りょうきょう...唯識入門(11)

  • 唯識入門(10)

    唯識入門も10回目の投稿となります。安田先生は、「分からなくなったらはじめにかえる」、と教えてくださいました。少し戻って唯識の全体像を見ていきたいと思います。唯識は、2000年以上も前から仏教の世界では連綿として伝わってきた思想です。唯識とは、「ただ識のみあり」、私たちが認識を起こし感情を持つのは、認識作用である自分の心だけであるということを教えています。対象に触れる作用です。触れるとそこに心が揺り動かされ、自分という認識のフィルターを通して、自分の心にインプットしていきます。この作用が自分という一個の人間の人格を形成していくのです。「ただ心のみがある」とはどういうことでしょうか。私たちは私と周りの外界(環境)、あるいは私と私とは無関係に存在すると考えている外界の二つがあると考えています。所謂、主客二元論です。...唯識入門(10)

  • 唯識入門

    おはようございます。昨日は、僕の一言で大切な人の心を傷つけてしまいました。後悔先に立たずですが、思考と意思決定は、過去に自分が何を考え、どのような行動をとってきたかに由るわけです。現在の行動は、自分はこのようなことを考えていたんだなと、教えられるのですね。こうのように書いている瞬間もうすでに過去の出来事なんです。何回も同じことを言いますが、現在は過去の集大成であり、未来は現在の集大成であるわけです。同じことの繰り返し、同じことの過ちを犯してしまうのは、何を基準として日暮をしているのかに関わってきます。金子大栄師は「人生をはやり直しはできないが、見つめ直すことはできる。」と教えてくださいました。これは、自分の依り所、自分の立ち位置を確認しなさいということなのですね。ここで云えることは、人生には師が必要であるという...唯識入門

  • 日曜雑感

    おはようございます。お正月休みもほとんどの方が今日までですね。土日が重なったこともあり、長い連休になりました。お疲れ様です。さあ、一年の始まりです。ある人のブログを拝見させていただきまして、感じさせられたことは、お仕事に取り組まれる姿勢が素晴らしいんです。考え方や、人と接するときの気遣い等、お若いとは思えないほどしっかりされています。これからも頑張ってほしいです。私たちが日常、良いこと、悪いことの判断として、他人に迷惑をかけることが悪、他人に良い影響を与えることが悪と、大雑把にいえばこういうことになるんだ労を思います。ところが、仏教では善・悪は他に対してではないのですね。簡単違説明しますと、『善は私たちにとって大切な行為ですが、本来、自身が涅槃に向かう道なんです。それと共に他を利する道でもあるんですね。涅槃はニ...日曜雑感

  • 唯識入門

    今晩は、箱根駅伝興奮しましたね。東海大の二連覇ならず、青学が制しました。前評判はあまり高くなかったけれども、チャレンジャーの気持ちが前面に出ていましたね。創価大も初シードおめでとう。熾烈な戦いでしたが、選手も、スタッフも、応援団も、地域のボランティアの方々も、人と人とのつながりの大切さを学びました。この学びが、人生を生きぬく上で大きな役割を果たしてくるのですね。このような活動の積み重ねが大輪の花を咲かせます。『大乗阿毘達磨経』にですね、「無始時来界」(始めなき時よりこの方界たり)と説かれています。界は「因の義、種子なり」と説明がありますが、今、私は何を成しているのかが、それが将来の結果を引き起こしてくると教えているのですね。仏教では、善の方向、悪の方向に分かれて説かれます。善は、心の平安が保たれ、空しく過ぎるこ...唯識入門

  • 唯識入門

    皆さんこんにちは、今日はお正月の風物詩、箱根駅伝が始まっています。さて往路優勝はどこの大学が制するのでしょうか。興味津々です。唯識(ゆいしき)というと、何か雲を掴むような話ですが、皆さん、いろは歌をご存知ですね。「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせす」。漢字を添えますと、色は匂えど散りぬるを(諸行無常)わが世誰ぞ常ならむ(是生滅法)有為の奥山今日越えて(生滅滅已)浅き夢見じ酔いもせず(寂滅為楽)となります。すべてのものは、縁によって生じ、縁によって去っていく。すべてのものは移りお変わっていき、ひとつとして実体的に存在するものは無い。自分という存在を考えてみよう。自分という存在が一人で存在することは不可能である。関係的存在として、関わり合いの中で助けたり、...唯識入門

  • 唯識入門

    新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。私たちは、生まれてからこの方、私と、私を取り巻く環境と、私のものという存在が有ると信じて疑いません。論者は問いを提起します。「もし、私(我)と、私を取り巻く環境と、私のもの(法)という認識と存在が、ただ、心の働きだというのであれば、どうして世間や経・論・釈の聖教に我・法が存在すると説かれているのか」と。慈恩大師は「唯(ただ・ゆい)は境(対象・相分・ノエマ)の有(実体的存在)を遮す(否定する)。有に執(執着)するものはその真(本当の在り方)を喪う(そこなう。失う)。」と解釈されています。世親菩薩は「仮の存在・仮の認識に基づいて。我・法があると説く」と答えられます。仮の存在、仮の認識という、「仮」が大事な意味をもってきます。すべての存在は一瞬たり...唯識入門

  • 唯識入門

    今年もあとわずかの時間になりました。ブログも長い間綴っておりませんでしたが、ここにきて、また書こうかなという気持ちが生まれてまいりました。それは僕の気持ちを揺り動かせてくれた人との出会いが大きいと思います。私は、私の力で、私の意識で何事も推進できると思い込んでいますが.,私の力ってほんの微々たるものです。それは人との触れ合いの中で教えてもらいました。触れることの大切さを再認識させられた今年の後半期でした。人との触れ合いの中で、喜んだり、悲しんだりという感情が生まれてきます。喜怒哀楽という感情ですね。この喜怒哀楽は自分の内面から生じてくるわけですが、内面を見せてくれるのが触れることに由るわけですね。唯識は、触れることに於いて感情が生まれ、言語活動を通して意識が働くと教えます。つまり、何に触れるかが人格形成に大きな...唯識入門

  • 唯識入門

    おはようございます。昨日は認識はどのような構造で成り立っているのかを簡単に説明しました。つまり、眼が対象に向かって、対象を捉えた時に認識は意識の上に登ってくるのですね。ここに、捉えるべき眼と、捉えられる物と、知覚する意識が一つとなって、私たちの認識は起こってくるのだと、このようなことを述べました。ここに、私たちはどのような間違いを起こしているのかを護法菩薩にお聞きしますと、対象は眼の外に存在しますから、外境と言い表しています。この外境は、意識の働きと同じように、固定的・実体的に存在し、その外境が意識に働きかけてきて、私の心が波打つんだと執しているところから誤りは起こってくるといいます。それは自分が勝手に作り上げた世界だと。しかし、これが私の実体なんですね。ですから、ここから逃げるのではなく、ここを立脚地として、...唯識入門

  • 唯識入門(3)

    おはようございます。一週間あっという間ですね。そして年末も押し迫ってまいりました。慌ただしくお過ごしのことと思います。本年最後のブログになりますが、来年度も引き続きよろしくお願いいたします。「唯識入門」といえ、かなり難解な熟語が出てまいります。出来るだけ現在の言葉に置き換えてご理解していただけるように努力を重ねてまいりますので、よろしくお願いいたします。仏教といえば、すぐに「悟り」を連想されると思いますが、唯識は、初めから悟りを目指すのではなく、悩み、苦しんでいる(苦悩の群萌)に対して、正しい仏教理解をしていただけるように、心の構造を開いて、先ず、理解を深めていただきたいと願っているのです。私が、苦しんだり、悩んでいるとき、何に苦しみ、何に病んでいるのか?あまり深く考えたことはないようです。それは「私という存在...唯識入門(3)

  • 第一回目 『唯識入門』講義全文掲載

    唯識入門今回は2012年にお話させていただきましたところから、抜粋して投稿します。『成唯識論』講義第一回この『成唯識論』、唯識を学ぶという入門講座について前々回の往生礼讃の会の後にこちらの住職からお話をいただきました。自分にこのような大役が務まるのかどうか全く未知の世界で、まだ人前で長い時間お話をしたことがないことがありまして、随分考えさせていただいたのです。私は、自分自身が問いをもって自分自身が答えていく、そして自分自身を明らかにする、そういう歩みをしたい、とずっと前から思っておりました。そしていつかは自宅を開放してでも一度『成唯識論』というものを読んでみたいとも思っておりましたので、ご住職が仰ってくださったことにたいして、甘えさせていただこうと思った次第です。また、私から話を聞いていただくということで非常に...第一回目『唯識入門』講義全文掲載

  • 唯識(ゆいしき)認識の構造

    おはようございます。一週間あっという間ですね。今日は師走も半ば、何となく気持ちが焦っています。前回の記事に対しまして、漢字が読めない、意味が分からないという指摘を受けました。ありがとうございます。前回につきましてはコメントで対応させていただきました。今回より、出来る限りフリガナを付けるようにします。タイトルの唯識(ゆいしき)についてですが、唯(ゆい)は、ただ、二つ並ぶことの無い、唯一無二(ゆいいつむに)を表します。識(しき)は認識を起こす働きです。認識はどのように成り立っているのか、簡単に説明しますと、認識が成立するためには、認識する側(能動体)認識される側(受動体)がマッチしなければなりません。そして認識を起こす根拠として、普通は六識が考えられています。このことが、私の精神構造のすべてであると教えているのです...唯識(ゆいしき)認識の構造

  • ブログをはじめるにあたって。

    今日は。ブログは2009年より綴って最近に至っていますが、初めの投稿から少し自分を見つめ直したいという思いから、Twitterと連携して週一のペースで更新できればと思います。先ず初めに、「生きること」のプロローグを書いてみます。「私が本当に大切にしているもの。人それぞれ違うでしょうが、月並みに「幸せ」でありたいと思っているのではないでしょうか。私も「幸せ」でありたいと思っています。しかし現実は自分の思いとは裏腹に一向に幸せ感が達成できません。せれどころか、いちばん嫌だと思っているいざこざが絶えないのが日常の在り方です。何故なんでしょう?ではなぜ思いと違った方向に行くのでしようか。心の闇と一言で片づけるには、大きな問題が横たわっています。闇の問題は、自分を大切にという思いから、他を大切にしていない事実が浮かび上が...ブログをはじめるにあたって。

  • 10月度テキスト(2)

    「此の後の境に随って六識の名を立てたるは五色根が未自在なるに依りて説けり。若し自在を得つるときには、諸根互用(しょこんごゆう)するを以て一根いい識を発して一切の境を縁じぬ、但根に随う可し、相濫ずる失無しを以て。」(『論』第五)(この後の境(認識対象)に随って、六識の名を立てたのは。五色根が未自在位という位によって説いたのである。もし自在を得たときには、諸根互用するので、一根が識を発して一切の境を縁じることになる。随境得名はただ未自在位のみに限る。無漏の五識現在前する自在位にあっては五根が互有するから五識が自根に依って遍く五境を認識する、例えば眼識が眼根によって色境を縁ずるのみならず、余の四境をも縁ずることになり、自在位あって随境得名するならば、一識を色識乃至身識と名づけ五種の区別がなくなってしまうのである。そう...10月度テキスト(2)

  • 10月度テキスト

    「唯識性」について『述記』には「唯識性というは、略して二種あり。一つには虚妄、即ち偏計所執なり。二つには真実、即ち円成実なり。・・・・・又二種あり。一つには世俗、即ち依他起なり。二つには勝義、即ち円成実なり。・・・・・又言わく、唯識に於いて相と性と不同なり。相とは即ち依他なり。唯是れ有為なり。有・無漏に通ず。唯識即相なるを以って唯識相と名づく。・・・・・性とは即ち是れ識が円成の自体なり。唯是れ真如なり。無為無漏なり。唯識が性なるを以って唯識性と名づく。・・・・・」と記述されています。ここには真実・勝義というものは虚妄・世俗と離れてはありえないことをあらわしています。私たちは何故迷っているのか、ただたんに無意味に迷っているのでしょうか。そうではないはずです。迷っていること自体、真実に触れているのです。真実に触れて...10月度テキスト

  • 五月度テキスト

    唯識の学びも回を重ねてきました。かれこれもう七年になりますかね。聞成坊ご住職の尽力でまがりなりにもお話をさせていただいています。一番学ばせていただいているのは僕でしょうね。真宗の教学と重ねながらを憶念しながと思っていても、唯識の言語の難しさもあり、皆さん方には、よくついてきていただいていると感謝しております。今回で一応第二能変末那識の説明は終わらせていただきます。もし興味のおありの方は、29日午後三時より八尾別院で開講しております。会費は1000円です。第八段第十門起滅分位門、その(2)分位行相門第七識の分位の行相を明らかにする。上来、『三十頌』の第十門に依って、末那識を伏し断ずる位を分別してきた。それはあくまでも未転依有漏の位に約して明らかにしている。この一段は、末那識の分位の差別(種類・区別のこと)を明らか...五月度テキスト

  • 三月度テキスト

    「末那と心所は何の地にか繋せらるる耶。」(『論』第五)先ず末那識と、その心所は三界九地の内、どの階層に繋ぎとめられるのであろうか、という問が出されます。「彼の所生に随って、彼の地に繋せらる。」(『論』第五)「彼(阿頼耶識)が生まれたところ(所生=界)に随って、その生まれたところ(阿頼耶識の生じたところ)に繋ぎとめられるのである。「謂く、欲界に生じぬるとき、現行の末那と相応の心所とは、即ち欲界繋なり、乃し有頂に至るまで応に知るべし亦然なり。」(『論』第五)つまり、阿頼耶識が欲界に生じた時は、現行している末那識と、末那識相応の心所とは、欲界繋のものとなる。このことは欲界から無色界の有頂に至るまで同様であることを知るべきである。「任運に恒に自地の蔵識を縁じて、執じて内我と為す、他地には非ざるが故に。」(『論』第五)末...三月度テキスト

  • 11月度テキスト

    「彼れに十種有り、此れには何ぞ唯四のみある。」(『論』第四)(彼(根本煩悩)には十種ある。此れ(第七末那識)にはどうしてただ四つの煩悩のみがあるのか?)「我見有るが故に余の見生ぜず、一心の中には二の慧有ること無きが故に。」(『論』第四)(我見があるために、他の見は生じないのである。一心の中、即ち一つの識の中に二つの慧が生起することはないからである。)「如何ぞ此の識に要ず我見しも有る。」(『論』第四)(どうしてこの識にはかならず我見が存在するのか。)「二取と邪見とは但分別生なり、唯見所断なり。此れと倶なる煩悩は唯是れ倶生なり、修所断なるが故に。」(『論』第四)(二取(見取見・戒禁取見)と邪見とはただ分別生、分別起の煩悩であり、ただ見所断の煩悩である。しかし第七末那識と倶である煩悩はただ倶生起のものである。何故なら...11月度テキスト

  • 第二能変 六月度テキスト・開導依についての解説

    「伽陀に説けるが如し、阿頼耶を依と為して、故(かれ)末那転ずること有り、心と及び意とに依止して、余の転識生ずることを得という。」(『論』第四・二十一右)(伽陀(『入楞伽経』第九巻・大正16・571c20「依止阿梨耶能轉生意識依止依心意能生於轉識」の取意)に説かれている通りである。「阿頼耶識を依とすることに於いて、末那識は活動する。心と意とに依止して、他の転識は生じる。)『入楞伽経』第九巻・総品の中の頌に「阿梨耶に依止して能く転じて意識を生ず、心に依る意に依止して能く転識を生ずと。」と語られているのですが、『論』はこの『頌』の要を述べています。そしてこの文が第七識の倶有依は第八識であることの証拠であると示しているのです。「述して曰く、即ち『楞伽経』第九巻の総品の中の頌なり。旧偈には阿梨耶に依止して能く転じて意識を...第二能変六月度テキスト・開導依についての解説

  • 第二能変 六月度テキスト・開導依について

    等無間縁依(開導依)について、『論』第四(テキストp86)に護法の正義が記されています。「開導依(かいどうえ)というは、謂く有縁の法たり、主と為り能く等無間縁(とうむけんえん)と作(な)る。此れ後に生ずる心・心所法に於て開避(かいひ)し引導(いんどう)するを以て開導依と名づく。此れは但心のみに属す。心所等には非ず。」説明一刹那前に滅した心を開導依という。前念の一刹那を開避し、後念の心・心所を引導して障りなく生起させる前滅の心・意根をいう。即ち諸の心・心所は、この開導依なくしては生起することが不可能であり、すべての心・心所は開導依(等無間縁依)に託して生起する。しかし、この開導依に難陀・安慧・護法の異説があり、初に難陀等の説が述べられ、つぎに安慧等の説が述べられ、そして最後に護法の正義が示されます。護法の正義のみ...第二能変六月度テキスト・開導依について

  • 五月度テキスト

    随分暖かくなりました。日中は汗ばむくらいですね。唯識の学びも遅々として進みませんが、末那識の所依について煩雑な論考もなされています。このところはスルーして今回は護法菩薩の所論を学ばせていただきたいと思っています。原文と和訳をてきすととして用います。5月24日八尾別院で午後三時開講です。「有義は、前の説くこと皆理に応ぜず、未だ所依と依との別(ことなる)ことを了せざるが故に。」(『論』第四・十九左。『選註p83))(護法は、前に説かれていることはすべて理にかなわないという。何故ならば、前に説かれている諸説は、未だ所依と依とが別であることを理解していないからである、と。)「依とは、謂く、一切の生滅を有せる法が、因に杖し縁に託して、而も生じ住することを得。」(『論』第四・十九左)(依というのは、一切の有生滅の法が、因に...五月度テキスト

  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(23)第五・経言無属難(9)雑感

    連休最終日、皆さんはどのようにお過ごしのことでしょうか。滅尽定は、仮定のこととしてしか話せませんが、滅尽定において初めて散乱粗動し間断がある前六識が波立たないことになるのでしょう。六識が無くなるわけではなく、五識が転じて成所作智・第六識が転じて妙観察智という智慧となって働いてくるのでしょう。真宗では信心の智慧と表されていると思うのですが、この信心の智慧は何を依り所として生起してくるのか、この問題に答えているのが、細意識ではなく、散乱粗動し間断の無い、無覆無記である第八識なのでしょう。第八識が増上縁依となって我執が破れてくるわけでしょう。そして第八識は無漏であるけれども、有為の世界に身をいただいた時、有漏の根拠として前六識に影響を与えてくる。この身をもって私たちは日々の生活をしているわけでしょう。ですから生活全般...阿頼耶識の存在論証滅尽証(23)第五・経言無属難(9)雑感

  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(22)第五・経言無属難(8)

    『述記』の釈から、「此の定(滅尽定)をも無心定と名くが故に」と、経量部の末宗の転計(末計)を破斥しましたが、ここで経量部からの反論がでます。それは、第八識の問題です。護法さんが立てられるは八識別体の論法から云えば、滅尽定でも第八識が存在するというのは有心定ではないのかということです。『述記』の釈を読んでみます。「述して曰く、初に心有りというを破する中文分かって三とす。初に名に違するを難じ、次に理に違するを難じ、後に意趣を結す。此れは即ち初なり。」本科段は初の「名に違する」ことを批判してきます。つまり、「此れは計を牒して此れは理に応ぜずと非す。此の定を亦無心定と名づくるが故に。故に知りぬ、第六識有ることを得ず。此れは並びに二家の『摂論』と及び『成業論』とを對勘するに、義更に違うこと無し。而も彼救して言く、無心定と...阿頼耶識の存在論証滅尽証(22)第五・経言無属難(8)

  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(21)第五・経言無属難(7)

    総結の文が閉じられまして、第四に経量部が「心が有る」という主張を論破する科段になります。名に違する難。理に違する難を以て論破し、後に意趣を結びます。滅尽定にあって、種子を保持する識が存在しないと言うのであれば、滅尽定から出た後に識はどうして生ずることができるのかと論破された経量部が再度反論してくるのです。それは、滅尽定にあっても、六識は滅しているが、種子を宿している第六識が存在するので、識が身に離れず、滅尽定から出た後には識が生ずるのであると主張します。この主張に対して護法は再度論破してくるのです。「若し謂く、此の位には第六識有るをもって、身に離れずと名くといわば、亦理に応ぜず、此の定をも亦無心定と名くるがゆえに。』(『論』第四・五左)(もし言うのであれば、この滅尽定においては第六識(種子を保持する識)が存在す...阿頼耶識の存在論証滅尽証(21)第五・経言無属難(7)

  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(20)第五・経言無属難(6)

    第四は、以量成有識難(イリョウジョウウシキナン)を説明します。以量は推論です。成有識は第八識が存在することを明らかにしています。つまり、第八識が存在するという推論を以て経量部の主張を論破する科段になります。「然も滅定等の無心の位には、有心の位の如く、定んで実に識有るべし、根と寿と煖とを具して、有情に摂めらるるが故に。」(『論』第四・五右)(しかも滅尽定等の無心位の中においては、無心位の中にいる有情は、有心位のように必ず実に識があるであろう。有情は五根と命根と体温とを備えいるからである。)滅尽定の位にあっても、もっというならば、有余涅槃の位に在っても生きている。有為の世界に生きている有情なんですね。生きている限り、たとえ六識が滅したとして、そこに存在する有情は識も寿や煖等のように実に身を離れないものである、とい...阿頼耶識の存在論証滅尽証(20)第五・経言無属難(6)

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、唯識に学ぶ・誓喚の折々の記さんをフォローしませんか?

ハンドル名
唯識に学ぶ・誓喚の折々の記さん
ブログタイトル
唯識に学ぶ・誓喚の折々の記
フォロー
唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用