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2014/11/03

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  • 軍事拠点としての「難波宮」

    『書紀』には「百済を救う役」の際に「難波宮」で「軍器」を閲した記事があります。(六六〇年)六年…十二月丁卯朔庚寅。天皇幸于難波宮。天皇方随福信所乞之意。思幸筑紫將遣救軍。而初幸斯備諸軍器。これによれば「難波宮」で「諸軍器」を「初幸」したとされています。確かに「斉明」は『書紀』による限り「難波」には行ったことがなかったようですから、「初幸」という表現も当然ですが、この時点で「筑紫」に行くのに際して「難波宮」で「諸軍器」を確認したらしいことが窺えます。つまり「難波宮」には「軍器」が揃っていたということですが、確かに『書紀』には「難波宮」の「兵庫職」についての記事があります。(六八六年)朱鳥元年春正月壬寅朔…乙卯。酉時。難波大藏省失火。宮室悉焚。或曰。阿斗連藥家失火之。引及宮室。唯兵庫職不焚焉。これによれば「兵庫職」...軍事拠点としての「難波宮」

  • 「治部卿」と「礼式」

    以下の記事は以前投稿したものとほぼ同趣旨ですが、最近気がついた点を含めて再度投稿いたします。最新の「淡海三船」の著と言われる『懐風藻』の「葛野王」の伝記の欄に、「高市皇子」の死去後、後継者(日嗣)についての審議があったとされる記事があります。そこには以下のように書かれています。「高市皇子薨じて後、皇太后、王公卿士を禁中に引きて日嗣を立てん事を謀る」古代では「日嗣(ひつぎ)」は「皇位」と同じ意味です。「日嗣皇子(御子)」とはまったく事なるものであり、「日嗣ぎ」は皇位そのものです。そして、この記事が「草壁皇子」の死去に伴うものならまだしも、「高市皇子」の死去後に「日嗣」についての「審議」があった、ということ自体が「不審」な事と思われます。それは『書紀』によれば「草壁」の死去から「高市」の死去まで相当な年数が経過して...「治部卿」と「礼式」

  • 「列伝」と「起居注」

    以前の投稿を再度(再再度?)提示します。『隋書』に限らず、史書の根本史料として最も重視されるのは「起居注」と呼ばれるものです。「起居注」は皇帝に近侍する史官が「皇帝」の「言」と「動」を書き留めた資料であり、その皇帝本人もその内容を見ることはできなかったとされる「皇帝」に直接関わる記録です。「隋代」の「起居注」については「大業年間」のものが「唐代初期」の時点で既に大半失われていたという説があります。たとえば『隋書経籍志』(これは『隋書』編纂時点で宮廷の秘府に所蔵されていた史料の一覧です)を見ても「開皇起居注」はありますが、「大業起居注」は見あたらず、漏れているようです。また、「唐」が「隋」から禅譲を受けた段階ではすでに「秘府」(宮廷内書庫)にはほとんど史料が残っていなかったとさえ言われています。特に「大業年間」の...「列伝」と「起居注」

  • 倭国王と日本国天皇

    以前『善隣国宝記』の記事について解析しましたが、その中で「天武」に対して「倭王」という称号が使用されていることを記しました。ところで「天武」の場合「表函」の上書しか言及されておらず「国書」そのものは受け取らなかった可能性があります。「天智」退位の後は「捕囚」となっていた「倭国王」と思われる「筑紫君薩夜麻」が復帰する予定であったと見るわけですが、すぐにそれが実現できたかどうかが問題です。やはり「唐」の意向を含んだ王権の成立を拒否する人達も数多くいたことは間違いないものと思われ、それが「壬申の乱」という内乱として現実のものとなったということではないでしょうか。表函が開けられ、国書を受け取るという儀典の中に「唐」との関係がより従属的になることは避けられず、それでは国内に対する指導力を発揮できないという問題があることを...倭国王と日本国天皇

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