軍事拠点としての「難波宮」
『書紀』には「百済を救う役」の際に「難波宮」で「軍器」を閲した記事があります。(六六〇年)六年…十二月丁卯朔庚寅。天皇幸于難波宮。天皇方随福信所乞之意。思幸筑紫將遣救軍。而初幸斯備諸軍器。これによれば「難波宮」で「諸軍器」を「初幸」したとされています。確かに「斉明」は『書紀』による限り「難波」には行ったことがなかったようですから、「初幸」という表現も当然ですが、この時点で「筑紫」に行くのに際して「難波宮」で「諸軍器」を確認したらしいことが窺えます。つまり「難波宮」には「軍器」が揃っていたということですが、確かに『書紀』には「難波宮」の「兵庫職」についての記事があります。(六八六年)朱鳥元年春正月壬寅朔…乙卯。酉時。難波大藏省失火。宮室悉焚。或曰。阿斗連藥家失火之。引及宮室。唯兵庫職不焚焉。これによれば「兵庫職」...軍事拠点としての「難波宮」
2021/06/27 22:29