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k-holyの史跡巡りメモ https://amago.hatenablog.com/

趣味の史跡巡りと歴史のことを書きます。 戦国時代の細川・三好政権期、畿内と西国が多め。

ブログの内容には素人の根拠無い想像が混ざってるのでお気をつけください。 好きな戦国大名は朝倉英林、好きな将軍は足利義材、好きな守護家は赤松家、好きな右京兆は細川政元、好きな主従は多すぎて書けません。

k-holy
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2014/10/31

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  • 次世代デジタルライブラリーの紹介と史料リンク集

    次世代デジタルライブラリーとは? 国立国会図書館より提供されている「次世代デジタルライブラリー」が、めちゃくちゃ便利なことに今更ながら気づきました。 どういうサービスかというと、公式ではこのように説明されています。 次世代デジタルライブラリーは、国立国会図書館次世代システム開発研究室での研究を基に開発した機能を実装した実験的な検索サービスです。全文テキスト検索機能や機械学習を用いた自動処理、International Image Interoperability Framework(IIIF) API等の技術的有効性を検証することを目的としています。 検索対象は「国立国会図書館デジタルコレクシ…

  • 永正元年「薬師寺元一の乱」の経緯とその背景(二)薬師寺元一の挙兵と細川政元の後継者問題について

    はじめに 前回の記事 「永正元年「薬師寺元一の乱」の経緯とその背景(一)関連する出来事の一覧」 では、「薬師寺元一の乱」の概要を説明するとともに、一次史料の記述を元に関連する出来事の一覧を提示しました。 今回からはその出来事の一覧を前提として、いくつかの論点を質問形式で、より詳しく考察していきます。 薬師寺元一は細川政元を廃して養子澄元を擁立するために謀反を起こしたのか? 意外なことに、薬師寺元一は朝日新聞社が1994年11月に発行した『朝日日本歴史人物事典』に立項されているらしく、その経歴について以下のように説明されているようです。 室町後期の武将。細川政元の被官。通称与一。長盛の長子。伯父…

  • 永正元年「薬師寺元一の乱」の経緯とその背景(1)

    はじめに YouTubeで歴史解説動画を公開されている、右京大夫政元さん(@meiou1493) の新企画『連続講義「不問物語―軍記で読む室町時代」』が、先日のライブ配信「オールナイト幕府 第97回」より開始されました。 新企画✨連続講義「不問物語―軍記で読む室町時代」第1回【オールナイト幕府 97】 右京大夫政元さんの動画はいつかこのブログでも紹介したいと考えていましたが、このたび、このような素晴らしい企画を開始されましたので、『不問物語』でも大きく取り上げられており、これまで自分がTwitterでたびたび語ってきた、いわゆる「薬師寺元一の乱」について、この機会に便乗しまして、その経緯や注目…

  • 2021年に読んだ後期室町・前期戦国関連本の感想

    新年度明けましておめでとうございます。 昨年は例年に増して出会いの多い年でした。今回はそれを振り返りつつ、久々にブログを更新します。 後期室町・前期戦国オタク需要を狙った(?)書籍が続々刊行 2021年は、僕のような 室町後期~戦国前期オタク にとって、非常に実りの多い1年になりました。 極めて個人的かつ近視眼的な感想ばかりですが、雑感を述べて参ります。(2020年に発売され、2021年に読んだものもいくつか含みます) 河村昭一『若狭武田氏と家臣団』 今やすっかりお馴染みとなった戎光祥出版から、1月に刊行されたのが、 河村昭一『若狭武田氏と家臣団』 。 河村昭一先生ご自身の成果も含めた先行研究…

  • 「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(後編)澄元方の上洛戦敗退と将軍義稙の淡路出奔事件の顛末

    以前の記事 『「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(中編)将軍義尹の甲賀出奔事件の背景』 では、永正10年(1513)に将軍がわずかな供だけを連れて突如京都から出奔した珍事件の背景や、細川高国が京兆家当主となってから内衆の再編が進んでいたことなどを紹介しつつ、「義稙」と改名した将軍がどのような政権構想を抱いていたのかを探りました。 そして、大内義興が帰国した経緯については独立した記事として 『大内義興が帰国に至った背景―在京中に起きた「安芸国人一揆」と「有田合戦」の関係、遣明船の永代管掌権を獲得した件について』 で考察しました。 今回は主にその後の話、阿波より機を窺っていた細川澄元と…

  • 大内義興が帰国に至った背景―在京中に起きた「安芸国人一揆」と「有田合戦」の関係、遣明船の永代管掌権を獲得した件について

    今回は永正5年に前将軍足利義尹を奉じて上洛して以来、約10年に渡って在京し幕政に携わってきた大内義興がついに帰国するに至った経緯をまとめつつ、考察してみました。 時系列はややこしいですが、だいたい以前の記事 『「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(中編)将軍義尹の甲賀出奔事件の背景』 の後で、 讃岐香西氏と大内堂の縁起が伝える大内義興の永正17年幻の上洛 の前くらいの話になります。 大内義興の在京中に起きていた領国の混乱と「安芸国人一揆」、毛利元就の武名を高めた「有田合戦」の背景 上洛直後から何度か帰国の意志を仄めかしていた義興ですが、国許の情勢悪化を受けていよいよその意志を固くした…

  • 讃岐香西氏と大内堂の縁起が伝える大内義興の永正17年幻の上洛

    今回は京兆家内衆としても知られる讃岐香西氏の名字の地・高松市香西町にあります、「大内堂」(大内義興報恩堂)を紹介します。 この大内堂の興味深い縁起について考察するとともに、讃岐香西氏の略歴をまとめました。 また併せて、香西で訪れた史跡もいくつか紹介します。 なお、前回の記事 『「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(中編)将軍義尹の甲賀出奔事件の背景』 の続きになる大内義興の帰国後の話や、逆に前回取り上げた丹波の内藤氏以前に香西氏が丹波守護代を務めたという話にも触れていますので、合わせて読んでいただけると幸いです。 香西氏が築いた山城・勝賀城跡のある勝賀山。香西氏が平時の本拠地とした、…

  • 「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(中編)将軍義尹の甲賀出奔事件の背景

    以前の記事 『「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(前編)~義尹上洛から船岡山合戦まで「明応の政変」も振り返りつつ』 に続き、永正8年の船岡山合戦における勝利の立役者となったものの将軍との軋轢が生じていった大内義興、分裂弱体化した細川一門をまとめて京兆家当主・管領として幕府への影響力を強めていく細川高国、そして出奔という大胆な行動に出た将軍足利義尹の三者を中心に、前将軍義澄の遺児亀王丸を庇護したことで今後重要な役割を担っていく赤松家の内情にも触れつつ、帰京した将軍が「義稙」と改名するまでの背景で起きていた変化を読み取ります。 ※なお、「流れ公方」こと足利義尹は一般には最後の名乗りであ…

  • 『三好一族と織田信長 「天下」を巡る覇権戦争』発売記念アンケート「三好家が分裂抗争で弱体化してしまいました。一番悪いのは誰?」を実施しました

    (三好長慶の死後その遺体を密かに埋葬していたと伝えられる、河内飯盛山城の御体塚曲輪跡) 1月下旬、待ちに待った一冊が発売されました。三好氏に興味を持ってきた方にはお馴染み、天野忠幸先生の『三好一族と織田信長 「天下」を巡る覇権戦争』(戎光祥出版)です。 Twitterでフォローしている方の間でも結構話題になっていて、特に天野先生の三好長慶論に馴染みのなかった方にとっては刺激的だったようです。 そこで、この機会に以前から意見を伺ってみたかったアンケートを実施しました。 題して「三好家が分裂抗争で弱体化してしまいました。一番悪いのは誰?」 あえて何も説明を加えず人名のみ掲載する形として、三好義継、…

  • 「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(前編) 義尹上洛から船岡山合戦までを明応の政変も振り返りつつ

    前回の記事『将軍・足利義輝の弑逆「永禄の変」から探る三好政権分裂の実情』 では、松永久秀が三好三人衆との対立に至った経緯について考えてみました。 しかし、それ以前の三好長慶がまだ細川晴元の麾下にあった天文年間、「天文の錯乱」を経て足利義晴を将軍と認めたはずの細川讃州家がなぜ「阿波公方」足利義維・義栄父子を庇護し続けたのかという疑問が湧き、讃州家当主の細川持隆の室と義維の室が共に大内義隆の姉妹、つまりかつて足利義稙の上洛を支えた大内義興の娘であったことや、義稙の死後に大内義隆がその肖像画を制作したこと、また畠山式部少輔父子のように義稙の父義視の代から義栄まで扈従し続けた忠臣の存在などを知るにつれ…

  • 将軍・足利義輝の弑逆「永禄の変」から探る三好政権分裂の実情

    三好長慶死後の三好氏といえば一般には、将軍・足利義輝を「暗殺」した後、松永久秀と三好三人衆が対立して争う間に、「天下布武」を掲げて全国統一を宣言した織田信長が、義輝の弟・義昭を擁立して上洛を開始し、その怒涛の進撃の前に三好方は為す術もなく崩壊したと認識されていると思います。 前回の記事(三好長慶の畿内制覇と本願寺「石山合戦」への道)では、三好長慶が独力の裁許による支配体制を構築するに至りながらも、将軍・足利義輝の権威を必要とした経緯に触れましたが、その三好政権が長慶の死後、なぜ将軍を殺害するに至ったのでしょうか。 また、三好政権はかつての主筋である阿波守護・細川持隆が庇護していた「阿波公方」足…

  • 三好長慶の畿内制覇と本願寺「石山合戦」への道

    引き続き本願寺と畿内政権の関係の変遷を追いますが、今回は畿内第一の勢力として台頭した三好長慶との関係を軸に、本願寺が社会的地位を向上させていった背景を見ていきます。 また「天文の錯乱」の後、武家の勢力争いから距離をおいていた本願寺が、なぜ「石山合戦」を起こし織田信長との対決を選択したのかを考えます。 摂津に勢力基盤を築き、畿内第一の勢力に成長した三好長慶 天文末期から永禄年間は、阿波細川氏の被官から台頭し、やがて主家の細川晴元と将軍・足利義晴を破って京都を制圧、畿内の覇者となった三好長慶の時代でした。 三好長慶は「天文の錯乱」で本願寺や旧高国党の細川晴国方と戦った後、正式に細川晴元の麾下に入り…

  • 天文の錯乱・山科本願寺焼失と『祇園執行日記』に見える京都周辺の情勢

    かなり間が開いてしまいましたが、内容的には英賀城跡と本徳寺巡り(前編)『軍師官兵衛』が触れなかった英賀城と三木一族の歴史からの続き、というか補足になります。 「石山合戦」について書く前に、本願寺と畿内政権の関係の変遷を追う上で重要な事件、「天文の錯乱」について紹介します。 本願寺の門徒同士の内紛「大一揆・小一揆の乱」も含めて「享禄・天文の乱」と呼ばれたり、あるいは当初この乱に本願寺の敵として参加し後に延暦寺と結んだ幕府によって焼き討ちされた法華宗に焦点を当てて「天文法華の乱」と呼ばれる兵乱にも関係する内容ですが、今回は特に天文期の山科本願寺焼き討ちに至った事件から、幕府との和睦までの時期に絞っ…

  • 伊予国・松山城は屏風折の高石垣がすごい!

    連休で伊予国は道後に湯築城跡、そして松山城を訪ねてきました。 湯築城跡(道後公園)は、すっかり公園な感じ…。 湯築城跡と河野氏にまつわる話はまた別の機会においといて、今回は松山城のすごい石垣を写真で紹介します。 近世になって建てられた城だし、初代城主は加藤嘉明か…そんなにときめかないなぁ…などと思いつつ、「坂の上の雲ミュージアム」を見るついでくらいのテンションで行ったんですが、これが予想外の感動がありました。 松山城の概略 松山城は勝山の山頂に本丸、中腹に二ノ丸、山麓に三ノ丸が設けられたいわゆる連郭式平山城で、築城したのはいわゆる賤ヶ岳の七本槍に数えられ叩き上げの武将として名高い加藤嘉明です。…

  • 兵庫津遺跡と兵庫城 - 兵庫津遺跡第62次調査 第4回現地説明会の感想と兵庫津の歴史+α

    さる3月28日、兵庫津遺跡第62次調査の第4回現地説明会に参加してきました。 前日の神戸市からのプレスリリースで「兵庫城の天守台か」と発表され、一部のニュースサイトには「信長の中国攻め拠点」との見出しで掲載されたものです。 兵庫城の天守台か ―信長の築城技術を確認― 神戸新聞NEXT|社会|織田信長の西国進出拠点“発見” 神戸の兵庫津遺跡 兵庫城築城の経緯 兵庫城は天正8年(1580)7月に荒木村重の乱を鎮圧した戦功によって織田信長から摂津12万石を与えられた池田恒興が、その翌年に兵庫津に築いた城です。 享保17年 (1732)に記された『花熊落城記』には、荒木村重の乱における最後の戦いの舞台…

  • 英賀城跡と本徳寺巡り(前編)『軍師官兵衛』が触れなかった英賀城と三木一族の歴史

    英賀城は、夢前川の河口一帯に瀬戸内水運の拠点として発展し、本願寺の播磨における拠点となった本徳寺の寺内町として栄えた城郭都市です。 英賀を発展させた英賀城主・三木一族 戦国期に英賀城主を務めた三木氏は伊予河野氏の一族で、讃岐三木郡を相続したという河野通堯の子・通近を祖としています。しかし、河野氏側の系譜には三木氏との関係が記録されておらず、事実かどうかは定かではありません。 永享2年(1430)に飾東郡恋ノ浜城へと移った通近は三木氏を名乗り、『播州英城日記』は4代目の通武が嘉吉3年(1443)に英賀へ入部、12月から翌文安元年(1444)11月にかけて「芝」の地に居館を築き、同2年正月に移り住…

  • 播磨佐用郡の山城・利神城の歴史と伝説

    利神城跡は佐用郡佐用町平福にあり、標高373.3mの山頂に総石垣作りの威容を誇り「雲突城」とも呼ばれたという山城の遺跡です。 利神城を築いた佐用別所氏 一般に別所氏といえば、赤松政則を支えて東播磨八郡の守護代を任された三木城主・別所則治と、その後裔である別所長治の三木別所氏が知られていますが、別所氏の諸系図では河西郡別所村から三木郡に移った赤松季則の二男頼清を別所氏の始祖とし、赤松圓心の弟「別所五郎入道」圓光がその名跡を継いだとしており、圓光から則治までの系譜は諸説あって定かではありません。 佐用郡歴史研究会が『佐用の史跡と伝説』にまとめた「別所氏略系図」には、貞和5年(1349)に別所五郎左…

  • 尼子詮久の東征(上洛戦?)から郡山城攻めに至るまで

    天文年間の尼子氏による上洛戦とも思われる東征については、侵攻を受けた赤松氏や浦上氏の側から触れてきましたが、今回は尼子氏の側から見た流れをまとめてみます。 畿内の混乱と西国の情勢 この頃の畿内では、天文元年から5年にかけて、細川晴元政権の内訌に端を発した本願寺門徒と法華一揆による大混乱の真っ最中で、一時は晴元も本願寺門徒の一揆勢に敗れて淡路へと逃れるほどでした。 また晴元政権では、晴元と本願寺の和睦を仲介したという三好千熊丸(後の長慶)ら阿波三好一族や、その後ろ盾となっていた讃岐および阿波守護・細川持隆との勢力争い、河内および紀伊守護・尾州家(政長流)の畠山稙長と総州家(義就流)の被官で細川晴…

  • 室津海駅館 特別展『播磨を生きた官兵衛 ~乱世の中の室津~』の感想

    10月26日、たつの市御津町室津にあります、室津海駅館の特別展『播磨を生きた官兵衛 ~乱世の中の室津~』を観てきました。 もうそろそろ終盤に入ろうとする大河ドラマ『軍師官兵衛』ですが、そこで描かれた官兵衛の播磨時代では、信長との関係(というか一方的な憧れ)ばかりが強調されて、小寺氏が擁立していた赤松宗家の存在は無かったことにされるわ、織田と毛利の間で揺れる播磨や備前の情勢を描く上で重要な役割となるはずの浦上宗景は名前すら出てこないわ、序盤の強敵として登場したはずの龍野赤松氏の赤松政秀も、ナレーションすらなくいつの間にか代替わりしている始末…。 渡邊大門先生の『戦国誕生』を読んで戦国時代の前期に…

  • 赤松氏ゆかりの山城・感状山城

    感状山城跡は相生市矢野町瓜生および森にまたがる感状山の尾根にあり、多段に渡る石垣造りの曲輪が特徴的な中世山城の遺跡です。 謎に包まれた感状山城の歴史 近世に成立した地誌『播磨鑑』には、建武3年(1336)、赤松円心が赤松氏の本拠地である白旗城に籠もって新田義貞率いる追討軍を50日以上に渡り足止めした際、円心の三男・則祐が出城として築いたのがこの城で、ここで勇戦した戦功によって足利尊氏から感状を授かったことから「感状山城」と呼ばれたという伝承が記されています。 『ひょうごの城』の感状山城の項(橘川真一氏)によると、『播備作城記』には「岡豊前守居城也元亀年中落城也」とあり、地元の史料『岡城記』には…

  • 武田信虎の甲斐追放と「武田入道」の在京奉公

    今川氏の跡目争いを機に方針を転換し、家督相続以前から敵対してきた今川氏と同盟を結んだ武田信虎は、諏訪氏と共同して信濃佐久郡へ進出、次いで北信濃の村上氏とも連合して信濃小県郡へ出兵し、ようやく甲斐国外に勢力を広げた矢先のこと、実の息子である晴信によって駿河へと追放されてしまいました。 今回は信虎追放の背景と、その後の在京奉公を通じて信虎の魅力を紹介します。 内容的には 武田信虎の甲斐統一と要害山城(武田・今川・北条の戦国黎明期) 武田信虎の戦いはこれからだ!(武田・今川・北条の戦国黎明期その2) の続きになります。 「信虎平生悪逆無道也」信虎追放の背景にあった災害と飢饉 信虎の追放に関して、向嶽…

  • 「備中兵乱」と常山城の鶴姫 - 岡山県立博物館の企画展『岡山の城と戦国武将』より(後編)

    前回の記事 岡山県立博物館の企画展『岡山の城と戦国武将』(前編) の続きです。 今回は展示品の感想とともに、以前の記事 天正2~3年の「備中兵乱」の背景と備中松山城、備前常山城 でも少し取り上げた、備中三村氏と常山城の「鶴姫」について書きます。 『寂弁中興開基通生山血脈』(倉敷市 般若院蔵)と常山城の「鶴姫」 常山城には「備中兵乱」の終幕となる戦いで毛利方の攻囲を受けた際、城主の奥方が女軍を率いて戦った末に城内で尽く自刃したという悲劇が伝わっています。 備中松山城主・三村元親の妹でもあるこの女性の名前は「鶴姫」とされていますが、その由来となる書物で真言宗の寺院、般若院の記録『寂弁中興開基通生山…

  • 岡山県立博物館企画展『岡山の城と戦国武将』の感想(前編)

    先日、岡山県立博物館の企画展『岡山の城と戦国武将』を観てきました。 岡山の城ということで扱われた地域は備前・備中・美作の三ヶ国、宇喜多氏の岡山城や大河ドラマでも取り上げられた備中高松城はもちろんのこと、浦上氏の三石城や天神山城、三村氏の備中松山城、三村元親の妹・鶴姫と女軍の伝説がある常山城、森忠政の津山城、そして意外な所では関東における戦国大名の嚆矢となった伊勢盛時(北条早雲)の出身地、備中伊勢氏の高越城に関する史料など、小規模ながら興味深い物もありなかなか楽しめました。 今回の展示では写真撮影は禁止、図録の販売もなかったので、出品目録と断片的なメモと記憶を頼りに感想を書きます。 個人的には、…

  • 私のおいなりさん…稲荷山のお塚信仰

    伏見稲荷大社と稲荷山の歴史 に引き続き、伏見稲荷について。 稲荷山とお塚信仰 稲荷山の参道を歩いていると、無数の鳥居はもちろんですが、山中のあちこちに建てられた「お塚」の数々にも興味を惹かれます。 これらのお塚は、稲荷神を信仰する方が私的な守護神として思い思いの名前を付けて奉納したものですが、その歴史は意外と新しく、明治時代に稲荷大社によって「七神蹟」(一ノ峰、二ノ峰、間ノ峰、三ノ峰、御劔社、御膳谷、荒神峰)が定められて以後、急速に増えていったそうです。 稲荷山全体でのお塚の数は、昭和初めには約2500基、昭和41年には7762基、そして現在では一万を下らないと言われています。 一般の参道を巡…

  • 伏見稲荷大社と稲荷山の歴史

    伏見稲荷大社は全国に3万2千社を数えるという、稲荷神社の総本宮。 稲荷大社の創建…古代の豪族・秦氏の伝承 大社創建を伝える最古の文献『山背国風土記』逸文の伊奈利社条には、始皇帝の末裔を称して古代山城国に勢力を誇った秦氏にまつわるエピソードが記されているそうです。 伊奈利と称ふは、秦中家忌寸等が遠つ祖、伊侶具秦公、稲梁を積みて富み裕ひき。乃ち、餅を用て的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峰に居り 伊侶巨秦公は餅を的として矢を射たところ、餅は白鳥となって飛び去り山の峰に留まった。 「伊侶具秦公」(いろぐはたのきみ)は「伊侶具」(名) + 「秦」(氏) + 「公」(姓)と解され、同じ逸文の…

  • 武田信虎の戦いはこれからだ!(武田・今川・北条の戦国黎明期その2)

    武田信虎の甲斐統一と要害山城(武田・今川・北条の戦国黎明期) の続きです。 甲斐国内を平定して躑躅ヶ崎館に守護所を移し、駿河今川氏の侵攻という最大の危機を切り抜けた武田信虎ですが、今度は北条氏を相手に関東へと出兵します。 扇谷上杉氏を支援して対北条氏包囲網に参戦 信虎の関東出兵は何の利益もない無謀な外征だったとして、後の追放に繋がる悪評の一例に挙げられることがありますが、実際のところはどうだったのでしょうか。 山内上杉憲房と和睦した扇谷上杉朝興の要請に応じた信虎は、関東制覇を進める北条氏綱と交戦しており、対北条氏包囲網の一員として活動していることが伺えます。 大永4年(1524)7月に上杉朝興…

  • 『地志 播磨鑑』と御着城落城の伝説

    大河ドラマ『軍師官兵衛』、次回は有岡城から救出された官兵衛が小寺政職と顔を合わせる展開となるようです。 史実においても荒木村重と示し合わせて毛利方に付いたと見られる小寺政職ですが、ドラマでは村重すらただ信長に反抗して孤立した挙句に逃げ去ったかのような描かれ方に終わりましたし、当然ながら政職の戦いぶりなど触れられそうにもありません。 ドラマでは描かれない歴史の一幕として、江戸時代の中頃に播磨の郷土史家・平野庸脩が編纂したという『地志 播磨鑑』に記されている、御着城の落城にまつわる伝説を紹介します。 『御着落城之事』 寄手は勇み進めども 此城北より西南に天川と云川あり 四方に堀二重三重にして要害堅…

  • 武田信虎の甲斐統一と要害山城(武田・今川・北条の戦国黎明期)

    はじめに:武田信虎の後世の評価への疑問 武田信虎といえば、強引な拡大政策で民衆の支持を失ったとして、板垣信方や甘利虎泰ら譜代重臣たちに擁立された実の息子・晴信(後の信玄)によって領国甲斐を追放されたという、力ずくの交代劇で知られています。 武田家滅亡後に多くの遺臣を召抱えるとともに金山開発の技術をも取り込んだ徳川幕府にとって、若き家康を打ち負かした信玄の神格化は歓迎すべきことだったのでしょう、甲州流軍学の隆盛を牽引した軍学書『甲陽軍鑑』では、実父を追放したという信玄の負い目を隠すためか信虎の暴虐ぶりが強調され、後世の軍記物などにも多大な影響を及ぼしました。 残虐性を示す逸話として「妊婦の腹裂き…

  • 天正2~3年の「備中兵乱」の背景と備中松山城、備前常山城

    「備中兵乱」までの備中松山城の歴史 上月城の戦い第二幕・尼子再興戦の終焉 で、天正6年(1578)7月17日に山中鹿介が最期を迎えた備中高梁の「阿井の渡」について触れましたが、この時に毛利輝元が本陣を置いていたのが、備中松山城です。 毛利輝元が入城するまでは、元就の代から毛利方として各地を転戦して活躍した備中成羽の国人・三村家親が、尼子方であった庄氏を追い落としたことから、松山城は成羽から移った三村氏の本拠地となっていました。 松山城は今の天守閣が建つ「小松山」の背後に、鎌倉時代に秋庭氏が最初に築いたという「大松山」の城があり、三村氏の頃には小松山と大松山の間に「天神丸」の存在が記録されていま…

  • 上月城の戦い第二幕・尼子再興戦の終焉

    別所氏の離反と毛利方による上月城包囲 上月城の戦い第一幕・秀吉の播磨侵攻 からの続きです。 天正5年(1577)12月、播磨佐用郡を平定した秀吉は、最前線となった上月城を尼子主従に守らせて自身は龍野へと移り、網干郷に禁制を与えるなど戦後処理を行った後、一旦長浜城へ戻りました。 播磨をほぼ制圧し順調に見えた秀吉の中国経略でしたが、その裏では毛利方による離反工作が進んでいました。 天正6年(1578)2月下旬、中国攻めを再開するため、別所氏家臣・賀須屋内膳の城に播磨の諸将を招集したという「加古川評定」の後、三木城の別所長治が東播磨の諸城主と示し合わせ、信長に反旗を翻したのです。 三木城は京都と姫路…

  • 上月城の戦い第一幕・秀吉の播磨侵攻

    上月城と赤松七条家と上月氏 上月城は播磨国佐用郡の西端に位置し、美作・備前に通じる交通の要衝に築かれた城です。 天正6年(1578)に尼子勝久と山中鹿介ら旧臣達が織田方の一員として御家再興を掛けて戦った最後の舞台として知られていますが、中世における経緯はあまりよく分かっていません。 赤松円心の嫡子・範資を祖とする赤松七条家が14世紀頃から佐用郡一帯を領しており、秀吉の書状においても「七条城」と記されていることから、代々赤松七条家が城主を務めた城であったと見られています。 七条家からは、赤松政則の養子として惣領家を継承した赤松義村が出ていますが、その当時の上月城主の名前は一次史料からは明らかでは…

  • 沙沙貴神社と近江源氏佐々木一族と黒田家

    沙沙貴神社は安土にあります、近江源氏佐々木一族ゆかりの神社です。 近江は佐々木源氏だらけ 沙沙貴神社は元々は蒲生郡に勢力を誇った古代豪族「佐々貴山君」(ささきのやまのきみ)氏の氏神を祀る神社でしたが、平安時代中期に宇多天皇の皇子敦実親王に連なる源成頼が近江へと下り、更にその孫である経方の代に蒲生郡佐々木庄の下司となって佐々木氏を名乗り、やがてこの佐々木源氏の一族が沙沙貴神社を氏神として信仰するとともに、佐々貴山君の一族を取り込んでいったという経緯のようです。 源平の争乱で活躍した佐々木氏は鎌倉幕府の元で近江国守護に任じられ、承久の乱で一族の多くが上皇方についたため一旦は縮小を余儀なくされたもの…

  • 大河ドラマ『軍師官兵衛』以前の播磨の戦国時代あらすじ(ほぼ赤松氏の話)・続

    大河ドラマ『軍師官兵衛』に便乗して、官兵衛が生まれ育った播磨の戦国期についてあらすじをまとめてみる記事の続きです。 前回の記事 では、赤松家を再興し播磨・備前・美作三ヶ国を回復した赤松政則と、それを支えた浦上則宗、小寺則職、赤松政秀、別所則治ら重臣達のことを書きました。 今回は赤松政則の後を継いだ義村と、義村を後見した洞松院尼、義村を弑逆した浦上村宗の時代について、まとめてみました。 赤松政則の死後、未亡人の洞松院尼が幼い義村を後見 赤松政則と浦上則宗の死後、何度か訪れた危機をその人脈により救ったのが、政則夫人の洞松院尼(めし様)です。 父である細川勝元の死後、尼となって龍安寺でその菩提を弔っ…

  • 大河ドラマ『軍師官兵衛』以前の播磨の戦国時代あらすじ(ほぼ赤松氏の話)

    現在、NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』が第2話まで放映されていますが、ここまでは黒田家が仕える御着城の小寺政職と、龍野城の赤松政秀という局地的な対立関係しか描かれておらず、その前提となる赤松惣領家の性煕(晴政)と義祐の父子対立はおろか、その存在すら触れられていません。 また、畿内を制していた三好政権の様子が全く話題に上らない一方で、今のところ何の関係もない織田氏の状況が伝えられています。 そして唐突に室津の浦上政宗が登場し、黒田(小寺)職隆との縁組に官兵衛の恋心を絡ませるという不思議な展開。 (当時の政宗は天神山城を本拠とする弟・宗景との抗争で落ち目になっていたことが背景にあるのですが、その辺の…

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