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後藤和弘のブログ https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。 反対のご意見やコメントも歓迎しま

後藤和弘のブログ
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2014/10/30

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  • 「昭和5年頃の小金井橋の写真」

    現在の小金井橋の近くに掲示してあった写真を撮って来ました。下の流れは玉川上水で江戸時代は江戸の町の生活用水でした。「昭和5年頃の小金井橋の写真」

  • 「1653年からの歴史のある小金井橋の写真を撮りに行く」

    小金井橋は玉川上水が出来た1653年にかけられました。やがて玉川上水の土手の桜が小金井桜として有名になると江戸から見物客がたくさん来るようになりました。歌川広重らの絵師が小金井桜を描いて一層有名になります。その後、小金井橋は何度か架け替えられ現在の鉄筋コンクリート造りになりまた。午後に小金井橋の写真を撮りに行って来ました。「1653年からの歴史のある小金井橋の写真を撮りに行く」

  • 「ツクシが懐かしい、そして未次芭蕉に憧れる」

    もう遥か昔の春の野原で摘んだツクシを懐かしく思い出します。春の野でツクシを沢山摘んだ時はハカマを取ってオシタシにして食べたこともありました。そして若い頃に水芭蕉の歌が流行っていました。水芭蕉の花は見たことが無かったので憧れの花でした。尾瀬のミズバショウは有名でした。その水芭蕉は近くの箱根にもあったのです。箱根の湿生植物園に咲いているのです。今日は懐かしいツクシと水芭蕉について書きたいと思います。さてツクシは不思議な植物です。そばにはスギノコすなわちスギナという変な草も生えていました。調べたら、https://biome.co.jp/biome_blog_162/に詳しい説明がありました。スギナはシダ植物でトクサ綱トクサ目トクサ科の植物です。シダ植物は胞子茎(ツクシ)を作って胞子をばら撒き、その胞子から発芽...「ツクシが懐かしい、そして未次芭蕉に憧れる」

  • 「茫々たる武蔵野の写真を撮りに行く」

    昔のままの手つかずの武蔵野が小金井にあります。東京都が昔の武蔵野の風景を残す目的で作った公園で、名前も「武蔵野公園」と言います。先程その写真を撮って来ました。「茫々たる武蔵野の写真を撮りに行く」

  • 「ぞして全国200市町村の空襲による焼け野原を忘れない!」

    太平洋戦争の犠牲者です。日本の300万人におよぶ犠牲者、そしてアジアの2千万人とも言われている犠牲者を忘れられません。その上、ヨーロッパ戦線で何千万人の犠牲者もでました。人類史上で初めての一番大規模で悲惨な戦争でした。あれから茫々79年。人々は決して悲劇の数々を忘れません。写真は焼野原の仙台の写真です。「ぞして全国200市町村の空襲による焼け野原を忘れない!」

  • 「戦前の暗い時代の東京、平和の有難さ」

    人間は忘れますが、時々は暗い時代を思い出して平和を守る決意をします。暗い時代の東京の写真をお送り致します。写真は、「戦前の東京の写真」を検索してインターネットにある写真からお借りしました。「戦前の暗い時代の東京、平和の有難さ」

  • 「奉安電と 教育勅語の思い出」

    戦前の小学校の校庭には奉安殿がありました。昭和天皇の写真と教育勅語がしまってありました。私が卒業した仙台市向山小学校の校庭にもありました。しかし日本の敗戦後完全の撤去され消えてしまいまそた。奉安殿や教育勅語が懐かしいので今日は奉安電と教育勅語の思い出を書いてみたいと思います。戦前の小学校には、「奉安殿」と呼ばれる施設がありました。「奉安殿」には「天皇の御真影」や「教育勅語」が安置されていました。学校で最も神聖な場所として最大の敬意と細心の注意が払われていたのです。戦前の小学校には必ず「御真影」が下賜されていました。奉安殿の写真を示します。「教育勅語」は、明治22年に出されました。教育の基本方針と国民道徳の基準を示した明治天皇」の言葉です。朕󠄂チン惟オモフニ我ワカ皇クワウ祖ソ皇クワウ宗ソウ國クニヲ肇󠄁ハジム...「奉安電と教育勅語の思い出」

  • 「つるし雛の写真」

    つるし雛とは、3月3日のひな祭りの時、お雛様の脇にお人形を吊るす風習です。江戸時代から伝わるお飾りで、おばあちゃん、お母さんがこどもの幸せや成長を祈りながら、ひとつひとつ縫い上げた日本古来の人形伝統文化なのです。つるし雛の風習は江戸時代から各地に伝わってきましたが、代表的なものとして、・伊豆稲取の『つるし飾り』・山形県酒田市の『傘福』・福岡県柳川市の『さげもん』。この3つの地域が特に有名です。https://www.tougyoku.com/hina-ningyou/column/hina-kazari/hina-kazari-tsurushi-hina/に続きます。「つるし雛の写真」

  • 「山梨県一宮町の桃畑のご紹介」

    桃畠が一面に広がっている山梨県一宮町をご紹介いたします。見ごろは4月10日前後と現地の人が言っていました。山の斜面ではなく甲府と同じ標高の平地の桃畠は開花します。東京から行って、桃畠を楽しむ場合のコツは、中央高速道路の勝沼ICを出て甲州街道に入り一番目の交差点を左折、御坂方面へ少しはしり、適当なところで右折し桃畠の中の細い舗装道路(公道)に入ります。その後は根気よく縦横にゆっくり走りながら一面に満開の桃畠を探すことです。開花状況が畠の位置、日当たり、風向きなどで違いますので時間をかけてのんびり探しましょう。あまり遅く行くと摘花(花の間引き)されて淋しい花見になりますので要注意です。撮影場所:中央高速道路、釈迦堂サービスエイリアの外に出た地点。釈迦堂博物館の付近です。撮影日時:2008年4月4日午前9時頃。「山梨県一宮町の桃畑のご紹介」

  • 「冬空に聳える喬木の写真を撮って来た」

    北風の強い日です。喬木の写真を撮って来ました。「冬空に聳える喬木の写真を撮って来た」

  • 「韓国の韓さんと慶州のお寺の思い出」

    日本の技術援助で韓国南東地域の浦項に近代製鉄所が出来た。技術研究所の所長は、以前東京大学にいた金鉄祐氏であった。その金鉄祐氏に招待されて講義に行った。1985年のころでした。観光のために、慶州の寺をいくつも案内してくれたのは技師の韓さん。慶州周辺の山々には多くのお寺があり、韓国人の観光客が登り下りをしていた。お寺は山の中腹に本堂を置き、その屋根瓦の稜線は山の稜線と調和したなだらかな曲線を描いている。山全体がお寺になっている。瓦屋根のなだらかな曲線は「釈迦の慈悲」を象徴しているようで、参拝する人々の表情を優しげにしてくれていお寺の前に看板があります。「韓さん、この看板は何ですか?」「十六世紀、日本の秀吉の軍隊が朝鮮半島を侵略したとき、このお寺は秀吉軍に完全に焼かれてしまった。その後再建したものが現在のお寺で...「韓国の韓さんと慶州のお寺の思い出」

  • 「キリスト教の信徒の立場から佛教を見ると、」

    今日は日曜日です。日曜日には宗教に関する雑談を少し書くことにしています。そこで今日は、私はカトリック教会の信徒です。その信徒の立場から日本の仏教を見るとどのように感じられるかを簡単に書いてみようと思います。ご承知のように、キリスト教は2000年前に中近東の現在のイスラエル国のベツレヘムで大工の息子として生まれたイエスの教えです。イエスはユダヤ人でしたから当然ユダヤ教徒でした。その彼が戒律だけを大切にするユダヤ教の律法主義を打破して、神の愛を強調した考えを提唱しました。神は全ての人間を愛しているのです。職業の貴賎や国籍に関係なく神を大切の思い、愛している人々を平等に一人残らず愛してくれると教えたのです。下賎な職業の人々も神を愛すれば救われるのです。世界中の人々が救われるのです。これは、民族宗教のユダヤ教にと...「キリスト教の信徒の立場から佛教を見ると、」

  • 「早春の武蔵野の湧き水を集めた小川と池の写真を撮って来た」

    武蔵野は所々に崖があります。崖の下には泉があって清らかな湧き水が出ています。小金井市の貫井弁天神社は湧き水の前に建てられています。あたかも湧き水がご本体のようです。私も清らかな湧き水へ祈りながら写真を撮って来ました。1番目の写真は武蔵野の湧き水を集めて流れる小川です。この小川の名前は野川といいます。多摩川へ流れ下っています。2番目の写真は武蔵野の崖の下の泉です。こういう泉がたくさんあって野川へ水を供給しているのです。3番目の写真は崖下の泉の水を集めて出来た池です。野川の水源の一つです。4番目の写真は小金井市の貫井弁天神社です。湧き水の前に建てられていて、あたかも湧き水がご本体のようです。「早春の武蔵野の湧き水を集めた小川と池の写真を撮って来た」

  • 「中国の宿遷市の春の花園の写真」

    中国江蘇省の北部にある宿遷(しゅくせん)市は秦代末期に劉邦と天下を争った項羽(こうう)の出身地です。また有名な白酒の「洋河」と「双沟(しゃんご)」が生まれた地でもあります。そこの花園があまりにも華麗なので、その写真をお送り致します。出典は、https://rtrp.jp/articles/130520/です。「中国の宿遷市の春の花園の写真」

  • 「中国の農村の風景写真」

    中国の農村の風景写真をお送り致します。写真の出典は、https://jp.123rf.com/photo_55824161_%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3...などです。「中国の農村の風景写真」

  • 「若い頃に留学していたオハイオ州立大学の写真」

    若い頃に留学していたオハイオ州立大学の写真です。オハイオ州立大学へは1960年から1962年迄留学しました。旅費はフルブライト制度でした。生活費はセント・ピエール先生が支給してくれました。Ph.Dを頂きました。懐かしいオハイオ州立大学の写真です。1番目の写真は大学の正門前のオハイオ州立大学の看板の写真です。大学は中心街からノース・ハイ・ストリートを北に行った所にありました。2番目の写真はオハイオ州立大学の全体の航空写真です。中央にある芝生の広場とそれを囲む建物群の写真です。このような広い芝生の広場がもう一つありました。芝生の中に交差している通路は学生たちが芝生を踏まないように舗装した通路です。3番目の写真は私達が使っていた3階建てのロードホールという建物です。この写真では右のほうに玄関がありますが、その右...「若い頃に留学していたオハイオ州立大学の写真」

  • 「私の人生のいろいろ(11)アメリカでの質素な結婚式とレセプション」

    結婚は人生の重大なことです。私は67年間幸福な結婚生活を続けています。幸運でした。今日は私どもの結婚について書きたいと思います。67年前の1961年、私共はオハイオ州のコロンバス市で結婚しました。とても簡素な結婚式と質素なレセプションでした。しかしオハイオ州立大学の先生方や同級生が一生懸命世話をしてくれました。感謝の気持ちは今でも忘れません。もう67年にもなるので写真に写っている自分は容姿も完全に変わり、全くの他人のようになりました。結婚式とレセプションの写真を掲載します。1番目の写真はオハイオ州立大学の中にある結婚式場へ牧師さんが来て式をあげている場面です。私の左後ろはケン・ローリイという同級生で私の付添人をしてくれました。右端の半身だけ映っているのがケン・ローリイの奥さんのゲイルです。2番目の写真は結...「私の人生のいろいろ(11)アメリカでの質素な結婚式とレセプション」

  • 「何度も訪れました山寺の美しい雪景色」

    何度も訪れました山寺の美しい雪景色の写真をお送り致します。仙台の大学に行っていた頃に何度か行きました。展望台からの眺めが絶景でした。写真の出典は、https://www.travel.co.jp/guide/article/36662/です。「何度も訪れました山寺の美しい雪景色」

  • 「日本の仏教と釈迦の教えの違い、5つの具体例」

    誤解を避けるために始めに書きますが、日本の仏教は悪いと非難する意図は毛頭ありません。ただ単に、こんな違いがあるのではないでしょうかと問題を提起したいだけです。皆様からのご意見やご指導を頂きたいのです。さてお釈迦様は2500年程前にインドに生まれ、現在でも世界中の多くの人に信じらている仏教を創ったのです。インドでその後500年くらい経ってから仏教は大乗仏教と上座部仏教の2つに分かれました。玄奘三蔵法師が629年に陸路でインドに向かい645年に経典657部や仏像などを持って唐に帰還しました。この玄奘三蔵法師の持ち帰ってきた経典は大乗仏教のものでした。従って現在の日本の仏教は大乗仏教に近いものなのです。一方、上座部仏教の方はミャンマー、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナム、そしてインドネシアのバリ島に伝承されまし...「日本の仏教と釈迦の教えの違い、5つの具体例」

  • 「山林の中の小屋の庭に流れる小川の写真」

    山林の中の小屋の庭に流れる小川です。一年中水が枯れない小川です。「山林の中の小屋の庭に流れる小川の写真」

  • 「狭い庭いっぱいに咲いている梅の花」

    狭い庭いっぱいにいきよい良く咲いています。今年は鮮やかです。うしろは息子の家です。「狭い庭いっぱいに咲いている梅の花」

  • 「庄野英二の『星の牧場』と山林の中の小屋」

    たまにはロマンチックな気分になるのも良いと思います。そんな朝です。そして私は庄野英二の『星の牧場』を思い出しました。内容はつぎのようなものでした。復員兵イシザワ・モミイチはインドネシアで戦ってきたが、愛馬ツキスミを失い、記憶を失っていたのです。彼が山中の牧場に辿りついて、音楽を演奏するジプシーたちと出会い、そこで心の癒しを得るのです。空には満天の星が輝いていました。・・・そして幻想的な話が続きます。この牧場の上の満天の星空という光景が心に焼き付いてしまったのです。それ以来、牧場のそばの雑木林の中に小屋を建てるのが夢になりました。そんな折、1973年の頃でしたか、新聞に「別荘を建てる山林を格安で売ります」という広告を見ました。小学生だった息子と現地に行ってみるとその山林は牧場から白樺が混じっている雑木林を通...「庄野英二の『星の牧場』と山林の中の小屋」

  • 「カトリック関口教会の年間第7主日のミサの動画配信」

    今日のカトリック関口教会の年間第7主日のミサの動画配信です。年間第7主日https://www.youtube.com/watch?v=Dj2BwBMqqZgカトリック東京カテドラル関口教会主任司祭:天本昭好関口教会は1900年に正式に小教区として設立されました。1918年に大司教館が移転し、1920年に築地教会から関口教会に東京の司教座聖堂(カテドラル)が変更となり現在に至ります。戦後、ドイツ・ケルン教区の多大な支援により1964年12月8日には、丹下健三氏の設計による東京カテドラル聖マリア大聖堂が献堂されました。「カトリック関口教会の年間第7主日のミサの動画配信」

  • 「今日のイグナチオ教会のミサの風景」

    今日は四谷にあるイグナチオ教会のミサにインターネットであずかりました。イグナチオ教会のミサの風景写真をお送り致します。「今日のイグナチオ教会のミサの風景」

  • 「現在の東北大学の航空写真」

    私が通っていた頃の東北大学は仙台の中心近くの片平丁にありました。その後、青葉城跡の南の山に移転しました。その現在の東北大学の航空写真をお送り致します。写真はインターネットからお借りしました。「現在の東北大学の航空写真」

  • 「嗚呼、従軍看護婦の献身と多数の戦没」

    太平洋戦争、第二次世界大戦は日本民族の歴史において空前絶後の大事件でした。以下の一覧表のように日本人が310万人も死に、中国人は1000万人、アメリカ人も40万人も死んだのです。朝鮮人は軍人が22万人、一般人が2万人死亡しました。台湾人は軍人が18万人、一般人が3万人死亡しました。中国1000万人インド350万人ベトナム200万人インドネシア400万人フィリピン111万1938人ビルマ5万人アメリカ人40万5399人オーストラリア2万3365人しかし従軍看護婦の犠牲者数は忘れられています。今日は従軍看護婦の戦地での悲惨な体験と多数の戦没の一端をご紹介しようと思います。まず日本の従軍看護婦従はどれだけいたか?その数からご報告します。満州事変・日中戦争・太平洋戦争において出動した従軍看護婦は、日赤出身者だけで...「嗚呼、従軍看護婦の献身と多数の戦没」

  • 「今日の散歩道の風景」

    散歩は小金井公園か武蔵野公園へ行きますが両方とも遠いのです。片道30分はかかります。今日は風が強く寒いので近所の散歩コースにしました。今日の散歩道の風景写真をお送り致します。「今日の散歩道の風景」

  • 「広々とした花園の写真」

    広々とした花園のふうけいが好きです。小金井公園にそんな花園があります。今日も眺めて来ました。「広々とした花園の写真」

  • 「紅梅も咲き出しました」

    遅く咲く小金井公園の紅梅もついに咲き出しました。先程写真を撮って来ました。「紅梅も咲き出しました」

  • 「懐かしいローテンブルグの風景写真の追加」

    懐かしいローテンブルグの風景の写真の追加をお送り致します。まず1969年夏から11月まで住みついたのは暗い雰囲気を漂わせる小さな町でした。高い城壁に囲まれた中世の町です。そのローテンブルクの城壁の写真をお送りいたします。1番目の写真は町を囲む城壁です。城壁の上には回廊があり守備兵が並んで防戦出来るようになってきます。写真の左側が町になっています。私はこの城壁の上をよく散歩しました。懐かしいです。2番目の写真も町を囲む城壁です。3番目の写真は城壁の入り口です。入り口には高い塔が立っていて、上から敵の動きが見えるようになっております。写真はインターネットからお借りしました。4番目の写真はローテンブルグの街並みです。私はこの通りのレストランでよく食事をしました。75番目の写真はローテンブルグの城壁に囲まれた街の...「懐かしいローテンブルグの風景写真の追加」

  • 「我が家の庭の紅梅と白梅が咲きだした」

    本当に狭い庭ですが紅梅と白梅が咲きだしました。春が庭にもやって来ました。後ろの黄色の実は夏ミカンです。「我が家の庭の紅梅と白梅が咲きだした」

  • 「私の人生のいろいろ(4)高校時代に習った漢文とドイツ語」

    仙台第一高等学校に入ったのは昭和26年でした。新制度の高等学校でしたが先生方は旧制の仙台一中のままです。ですから教育は旧制の中学校のようでした。印象深かったのは漢文とドイツ語の授業でした。新制の中学校には無い課目です。特に漢文の初老の塩見先生は旧制の中学の教え方と同じで生徒にいろいろな漢詩を声高々と暗唱させるのです。自分でも声を張り上げて歌うように朗読します。例えば、李白の山中問答は次のように朗読します。余に問ふ何の意ありて碧山に棲むと笑ひて答へず心自づから閑(しづ)かなり桃花流水窅然(えうぜん)として去る別に天地の人間(じんかん)にあらざる有り問余何意棲碧山笑而不答心自閑桃花流水窅然去別有天地非人間君に問うが,なにゆえ青い山の中に住んでいるのか笑って答えないが,心は自ずから静かだ桃の花,流れる水,その奥...「私の人生のいろいろ(4)高校時代に習った漢文とドイツ語」

  • 「私の人生のいろいろ(3)高校時代は松島湾で競技用ボートを漕ぐ」

    高校時代の忘れられない思い出は松島湾で競技用ボートを漕いだことです。競技用ボートは8人で漕ぐ細長い挺身です。椅子が固定されているフィックスと椅子が前後に滑るスライデイングという2種類を漕いだのです。船尾に座ったコックスの号令に従って8人の漕ぎ手が心を合わせてオールで」漕ぎます。少し大きいカッターというボートも漕ぎました。仙台一高に入学したのは昭和26年でした。旧制の仙台一中の生徒が3年生にそのまま残っていました。入学してすぐ「木工部」に入りました。驚いたことにその部は木工など一切しないで、もっぱら松島湾でボートを漕ぎ回る倶楽部でした。大人のような3年生が東北大学の塩釜の艇庫から競技用ボートやカッターを借り出して来るのです。東北大学の艇庫の場所は3年生だけが知っている秘密なのです。3年生がコックスになり舵を...「私の人生のいろいろ(3)高校時代は松島湾で競技用ボートを漕ぐ」

  • 「春告げる福寿草の花」

    今日は早春に甲斐駒岳の麓の山林の中で撮った福寿草の花の写真をお送りします。私の森の中の小屋の近所に咲いていたのです。見上げれば峩々たる雪山が見え、地上には春告げる福寿草の花が枯葉の間に咲いていました。こんな標高の高い厳寒の森の中にも間違いなく春がやってくるのですね。山は甲斐駒岳です。最後の写真の左下には私の車が写っています。福寿草は早春の風物詩ですね。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)「春告げる福寿草の花」

  • 「東京の梅の花の名所の写真」

    東京では湯島天神をはじめとする多くの場所で、梅の美しい景色を楽しむことができます。そんな東京の梅の花の名所の写真をお送りいたします。写真の出典は、https://iwalkedblog.com/?p=23839です。1番目の写真は湯島天神の梅です。2番目の写真は小石川後楽園の梅です。3番目の写真は小石川植物園の梅です。4池番目の写真は池上梅園です。5番目の写真は哲学堂公園の梅です。6番目の写真は町田市の薬師池公園の梅です。7番目の写真は立川市にある国営昭和記念公園の梅です。「東京の梅の花の名所の写真」

  • 「私の人生のいろいろ(2)徒手空拳でアメリカへ留学した冒険」

    終戦後の日本の生活はみじめなものでした。食べ物も無く庭のハコベを茹でて食べた経験もあります。その一方、戦勝国のアメリカの生活は豊かでした。特に食べ物は贅沢でした。日本人の憧れでした。そんな時代はアメリカ留学が多くの日本人の夢でした。昭和33年に東北大学を卒業した私はアメリカ留学を決心しました。お金も無いので徒手空拳でアメリカへ行く決心をしたのです。あるのは青雲の志だけです。さてアメリカへの渡航費を捻出しなければなりません。いろいろ調べたらアメリカ政府がフルブライト奨学金から支援してくれることが分かりました。ただしそれに一つの条件があったのです。留学生を受け入れるアメリカの大学側が留学生の生活費を支給するという条件でした。そこで東北大学の金属工学科の図書室でアメリカの学会誌を調べました。そうしてオハイオ州立...「私の人生のいろいろ(2)徒手空拳でアメリカへ留学した冒険」

  • 「花も実もある猫額庭」

    寒さの中で咲く紅梅・白梅・山椿。柚子と枝垂れ夏蜜柑の写真です。1番目の写真は紅梅と夏蜜柑です。2番目の写真は枝垂れ夏蜜柑です。3番目の写真は白梅です。4番目の写真は椿です。5番目の写真は柚子です。「花も実もある猫額庭」

  • 「ドラマチックだった我が人生(1)新制中学校での冒険」

    我が人生を振り返ってみるとかなりドラマチックだったと思います。敗戦後の復興期だったので世の中が激しく変わりつつありました。アメリカの占領軍は日本の古い学校制度を根底から変えて新制中学校を創設しました。私は昭和23年に新設の仙台市立愛宕中学校の二期生として入学しました。新設だったので先生方もみな情熱似あふれていました。特に3年間担任だった高橋貞明先生は情熱的でした。いろいろな部活を指導していました。私は登山部と科学部に入り高橋貞明先生と親しくなりました。そしていろいろな小さな冒険をしました。ここで愛宕中学校関連の写真を示しましょう。1番目の写真は現在の仙台市立愛宕中学校です。私が通っていた当時は粗末な木造の校舎でした。2番目の写真は愛宕中学校から見える仙台の街です。学校は遠藤山に建っていたので見晴らしが良か...「ドラマチックだった我が人生(1)新制中学校での冒険」

  • 「冬木立の梢のシルエット」

    小金井公園で先程写して来ました冬木立の梢のシルエットをお送り致します。「冬木立の梢のシルエット」

  • 「今日のカトリック関口教会の年間第6主日のミサの風景」

    今日はカトリック関口教会の年間第6主日のミサの動画配信をインターネットであずかりました。今日のミサの風景の写真をお送り致します。「今日のカトリック関口教会の年間第6主日のミサの風景」

  • 「カトリック関口教会の年間第6主日 世界病者の日の動画配信」

    今日のカトリック関口教会の年間第6主日のミサの動画配信です。年間第6主日https://www.youtube.com/watch?v=vfbJ4fqVv9kカトリック東京カテドラル関口教会主任司祭:天本昭好関口教会は1900年に正式に小教区として設立されました。1918年に大司教館が移転し、1920年に築地教会から関口教会に東京の司教座聖堂(カテドラル)が変更となり現在に至ります。戦後、ドイツ・ケルン教区の多大な支援により1964年12月8日には、丹下健三氏の設計による東京カテドラル聖マリア大聖堂が献堂されました。「カトリック関口教会の年間第6主日世界病者の日の動画配信」

  • 「広々とした所に行って大らかな気持ちになる」

    武蔵野公園を散歩して来ました。何も無い公園です。草原と樹々が静かにあるだけです。「広々とした所に行って大らかな気持ちになる」

  • 「今日の小金井公園のロウバイの写真」

    今日は晴天なので散歩しながら写真を撮って来ました。「今日の小金井公園のロウバイの写真」

  • 「今日の小金井公園の梅林の写真」

    「今日の小金井公園の梅林の写真」

  • 「スイスのツェルマットの豪雪の写真」

    スイスのツェルマットの豪雪の写真をお送り致します。写真の出典は、https://www.bloomberg.co.jp/.../2018-02-01/P3GPJB6S972E01です。「スイスのツェルマットの豪雪の写真」

  • 「鈴木牧之著、「北越雪譜」より」

    越後塩沢(いまの南魚沼市塩沢)の文人鈴木牧之が、天保8年(1837年)江戸文渓堂から出版した本「北越雪譜」は大評判になった。越後のくらし、自然、生物、仕事、伝承、民俗行事、遊びなどが取り上げられ、なかでも、江戸の人間の想像をはるかに超える越後の豪雪が生々しく描かれていたからである。・・・雪中の洪水・・・(塩沢では)大かたは初冬と仲春に雪中の洪水が起こることがある。魚野川に注ぐ流れが、大雪でせき止められ、普段はしっかり雪を除きながら井戸の代わりとして便利に使っていたものの、一気に堰(せき)が切れて流水がみなぎり、なおも溢れて人家に入り、水難に会うこと多し。家財を流し、溺死することもある。・・・写真の出典は、https://nafu.ac.jp/magazine/22450/です。「鈴木牧之著、「北越雪譜」より」

  • 「白馬八方尾根の雪景色」

    白馬八方尾根の雪景色の写真をお送り致します。写真の出典は、https://shinshu.net/outdoor/happouskiです。我が家の子供達がまだ小さかった53年くらい前の夏のことでした。信濃大町の奥、木崎湖や青木湖のさらに奥の白馬東急ホテルに泊ったことがありました。そのホテルはスイスの山岳ホテルのような三角屋根の木造でした。そのホテルから暗い森の中を歩き、崖の道を下るとゴンドラの駅があり八方池まで登れたのです。そ八方池まで登る道からは、八方尾根の向うに広がる白馬鑓ケ岳、杓子岳、白馬岳、小蓮華岳などがパノラマのように見えたものです。「白馬八方尾根の雪景色」

  • 「憧れの美しい雪景色の風景の写真」

    毎日雪が降っている地の人々は雪はもう沢山だと思います。雪で苦しんでいます。その一方で雪の降らない地の人々は雪景色に憧れています。自然現象は公平でないのです。それは分かっていますが今日は美しい雪景色の写真をお送り致したいと思います。私があちこち旅をした土地の雪景色です。その曾遊の地の雪景色はインターネットを駆使して調べ、見つけて美しい寫眞を編集しました。始めは何度か訪れた小樽の雪景色にしました。小樽は運河の町です。小林多喜二が「蟹工船」を書いた町です。暗く美しい町でした。1番目の写真は小樽の運河の雪景色です。写真の出典は、https://ovo.kyodo.co.jp/news/life/travel-news/a-1397278です。2番目の写真は松江城のお堀です。秋の晴天の日にこの遊覧船に乗り松江城を見...「憧れの美しい雪景色の風景の写真」

  • 「房総半島に冬でも咲いている花々の写真の追加」

    房総半島は暖かい黒潮が洗っているので関東地方で一番温暖な場所です。真冬でも春の花々が咲いています。その追加の写真をお送り致します。写真は「房総半島の春の花々」を検索して出て来た沢山の写真から美しい写真を選びました。「房総半島に冬でも咲いている花々の写真の追加」

  • 「冬でも花々が咲き乱れる房総半島」

    房総半島には数多くの観光地があります。東京から比較的近いので訪れる人も多いのです。私どもも何度も訪れました。私どもが訪れたところをご紹介します。マザー牧場、鴨川シーワールド、犬吠埼、水郷佐原あやめパーク、九十九里浜、、養老渓谷、仁右衛門島などです。今日は冬でも花々が咲き乱れている南房総半島の風景をご紹介したいと思います。房総半島は黒潮が洗う温暖な半島です。そのせいで冬でも花が咲くのです。その上青い海が春の陽光に美しく輝いているのです。私どももそんな早春に何度も房総半島の旅を楽しみました。私どもが撮った房総半島の写真をお送り致します。1番目の写真は千倉町にある「道の駅ちくら潮風王国」(http://shiokaze-oukoku.jp/)の向かい側の花畑です。千倉町は房総半島の太平洋に面した場所にあります。...「冬でも花々が咲き乱れる房総半島」

  • 真冬の雪の下で咲く不思議な「雪中花」の越前水仙

    真冬の花と言えばスイセンの花があります。12月に咲き始めて1月に満開になります。有名な群生地は伊豆爪木崎、千葉県房総海岸、南あわじ市灘黒岩、熊本県天草市遠見山公園、福井県能古島などのように雪の降らない温暖な海岸に限られています。ところが福井県の越前岬では雪の下でも咲いている群生地があるのです。それを雪中花とも言うそうです。その越前岬も春になれば雪が解けて一面のスイセンの花が広がるのです。今日はまず雪の下に咲いている越前岬のスイセンの花の写真をお送りします。全ての写真は、『雪中花、スイセン』、http://48986288.at.webry.info/201002/article_11.htmlからお借りしました。雪の寒さにもかかわらず越前スイセンは良い香りを放ちつつ華やかに咲いているのです。冬に満開になる...真冬の雪の下で咲く不思議な「雪中花」の越前水仙

  • 「真鶴半島の風景写真」

    真鶴半島の風景写真をお送り致します。写真は「真鶴半島の風景写真」を検索してインターネットからお借り致しました。「真鶴半島の風景写真」

  • 「真鶴半島の海鮮の店、原忠の鮮魚料理」

    真鶴半島の海鮮の店、原忠では何度も昼ご飯を食べました。原忠の写真をお送り致します。原忠の店内にある生簀を見ながら、料理が来るのを待ちました。そうしたら4番目の写真のような感じの料理が出て来ました。私の取った料理は生の刺身のイカ、コチ、サザエ、アジ、などで遠洋もののマグロやカツオはありません。すべて相模湾で取れるものです。他にサザエを焼いた壺焼き、サワラの焼いたもの、ヒジキの煮もの、モズクの酢の物、貝の入った茶碗蒸し、ご飯、漬物、味噌汁がつきました。一方、家内はキンメダイの煮魚定食をとりました。魚貝類が新鮮なので手の込んだ料理をしなくても非常に美味しいのです。食べながら縄文時代のことを想像していました。当時は刺身包丁が無かったので鋭利な黒曜石の刃物で魚を切った筈です。塩は海水を煮詰めて作っていました。魚の煮...「真鶴半島の海鮮の店、原忠の鮮魚料理」

  • 「巨木の森が広がる真鶴半島への旅」

    東京に近い半島と言えば、房総半島、三浦半島、真鶴半島、伊豆半島です。この4つの半島のうち巨木が重っている以外に何も無い半島が真鶴半島です。何も無いので観光客が行きません。しかし私は巨木の森が好きです。人のいない静かな森が好きです。今日は巨木の森が広がる真鶴半島をご紹介致したいと存じます。さて関東平野の樹木と言えばカシワ、コナラ、クヌギなのど木々です。しかし真鶴半島には全く違う樹々が繁茂しているのです。亜熱帯性のような巨木の森が半島を覆っています。真鶴半島は黒潮が洗うので一年中温暖な気候です。以前に車を駆って真鶴半島へ行って撮ってきた写真をお送り致します。1番目の写真は小田原から真鶴道路に入り海沿いに走っていくと見えてくる真鶴半島の遠景です。海は相模湾です。この半島の根元を通り過ぎると向こうには湯河原や熱海...「巨木の森が広がる真鶴半島への旅」

  • 「軽井沢の風景写真真の追加」

    軽井沢は明治19年に宣教師のショーが別荘を作ってからいろいろな外人宣教師が避暑に訪れ有名になりました。そのような経緯があるので軽井沢にはハイカラな雰囲気があります。それはさておき、軽井沢を私が撮った写真で追加して示したいと思います。1番目の写真は軽井沢の雲場池です。軽井沢で私が好きなところは雲場池です。十年一日の如く、何時行っても静寂につつまれています。何十年と変わらぬ風景に会うと何故か心が深く休まります。2番目の写真は旧三笠ホテルです。営業はしていませんが明治期のホテル建造物として公開しています。駐車場が少し離れているのが残念です。3番目の写真は軽井沢に行くとよく昼食を食べたイタリアン・レストランです。名前はリストランテ・エ・バール・アルソーレと長い名前です。味は美味でした。4番目の写真は万平ホテルです...「軽井沢の風景写真真の追加」

  • 「今年はじめてつもった雪の庭」

    今日はこの冬はじめて雪が降りました。雪がつもった庭の写真をお送り致します。「今年はじめてつもった雪の庭」

  • 「30歳でパリに客死した佐伯祐三の油彩画」

    枚だけお送りいたします。「パリ街景」です。1927年作で大きさは65×81cmです。佐伯祐三の他の多数の油彩画は下記に掲載されています。https://ja.wikipedia.org/.../%E4%BD%90%E4%BC%AF%E7%A5%90...「30歳でパリに客死した佐伯祐三の油彩画」

  • 「まるでゴッホの絵の中を歩いているような感覚になる展示方法」

    不思議な展覧会があるのです。日本初上陸の#ゴッホアライブ展覧会のです。これは世界で850万人動員の没入型展覧会です。是非、https://note.com/konakalab/n/n1f6e6637c976をクリックしてご覧下さい。「まるでゴッホの絵の中を歩いているような感覚になる展示方法」

  • 「ペリー提督の外交戦略と南北戦争の勃発」

    嘉永6年、1853年7月8日、アメリカ海軍のペリー艦隊4隻が浦賀、久里浜へ姿を現した。蒸気外輪巡洋艦、サスケハナとミシシッピーの2艦と、帆船、サラトガとプリマスの合計4艦で、計100門の大砲で武装している。ペリー提督は2つの外交戦略を使った。自分が合衆国大統領の正使であることを強調するため、江戸の将軍の代理と判断できる幕府代表以外には絶対に会わないと宣言した。幕府はしぶしぶながら大統領からの開国を要求する親書を受け取る。ペリー提督は鷹揚にも1年間の検討期間を与えると言い、久里浜を去る。もう一つの外交的戦略は、所謂、「砲艦外交」である。4艦で合計100門の大砲を東京湾の中で発砲する。独立記念日の祝砲とか、儀礼的な発砲であると称して。全て空砲ではあったが、数十発を夜も打ったという。その恐ろしい、大きな爆発音で...「ペリー提督の外交戦略と南北戦争の勃発」

  • 「今日のカトリック関口教会の年間第5主日の風景」

    今日はカトリック関口教会の年間第5主日のミサの動画配信をインターネットであずかりました。今日のミサの風景の写真をお送り致します。「今日のカトリック関口教会の年間第5主日の風景」

  • 「カトリック関口教会の年間第5主日のミサの動画配信」

    今日のカトリック関口教会の年間第5主日のミサの動画配信です。年間第5主日https://www.youtube.com/watch?v=rv7ldZ7d3EE主任司祭挨拶カトリック東京カテドラル関口教会主任司祭:天本昭好関口教会は1900年に正式に小教区として設立されました。1918年に大司教館が移転し、1920年に築地教会から関口教会に東京の司教座聖堂(カテドラル)が変更となり現在に至ります。で聖堂は消失してしまいます。戦後、ドイツ・ケルン教区の多大な支援により1964年12月8日には、丹下健三氏の設計による東京カテドラル聖マリア大聖堂が献堂されました。「カトリック関口教会の年間第5主日のミサの動画配信」

  • 「小金井公園の梅林の花は見頃です」

    金井公園の梅林の花は見頃です。本当に華麗に咲いていました。残念ながらカメラの電池が充電忘れで自分で写真が撮れませんでした。インターネットからお借りした写真をお送り致します。写真の出典は、https://iwalkedblog.com/?p=34854です。「小金井公園の梅林の花は見頃です」

  • 「三浦半島の横須賀に展示してある英国製戦艦、三笠」

    東郷元帥の戦略も独創的で敵の意表をつく見事なものでした。でも、英国のビッカース造船所へこの戦艦を発注した海軍省の官僚も偉かったと思います。砲身の直径30cmの主砲を前後に2門ずつ、両舷側に15cm副砲を7門ずつ、そして8cm砲を両舷側に10門ずつ、合計38門の大砲を持つ三笠の戦闘能力は大きかったのです。大砲の戦闘能力は一分間に何発の砲弾を発射出来るか?砲身の方向を変える速度は大きいか?射程距離と命中精度が敵艦より優れているか?などによって決まります。ビッカース造船所の戦艦製造技術と艦載大砲の優秀性がロシアのバルチック艦隊より優れていたから日本が勝つのが自然でした。当時の帝国海軍は東郷元帥の戦略的能力と決断力を高く評価しつつも、戦艦の戦闘能力を冷静に国際的に比較検討したのです。ロシア艦隊に完全勝利しすぎた結...「三浦半島の横須賀に展示してある英国製戦艦、三笠」

  • 「三浦半島で釣れる魚」

    「三浦半島で最近釣れてる魚」、https://anglers.jp/areas/84/fishesをご覧下さい。かさご、めばる、かわはぎ、たい、ほうぼう、いか、あじ、などなどです。写真は順々に、ほうぼう、かわはぎ、かさご、めばる、です。「三浦半島で釣れる魚」

  • 「三浦半島の絶景の写真」

    三浦半島の絶景の写真です。プロの撮った綺麗な写真です。写真はインターネットからお借りしました。「三浦半島の絶景の写真」

  • 「三浦半島、観音崎へ一泊の小さな旅」

    三浦半島の観音崎に一泊し、浦賀、久里浜、津久井浜、剣崎、三崎、城が島、佐島、葉山と、三浦半島の突端から西海岸を丁寧にドライブしたことがありました。浜辺を歩いたり、城が島公園を散策したりして、悠々とした海の風景を楽しんだのです。家内は例によって浜辺を走りまわっていました。それにしても三浦半島は冬でも温かく、コート無しで散歩できたのです。観音崎の灯台の写真と海の風景の写真をお送り致します。「三浦半島、観音崎へ一泊の小さな旅」

  • 「昔遊んだ三浦半島の懐かしい風景」

    去年の1月に車の運転を止めました。24歳から87歳まで無事故だったのは幸運でした。運転を止めて気楽になります。そして昔よく言ったいろいろな地方の美しい風景を思い出して楽しんでいます。今日は昔よく遊んだ三浦半島の懐かしい風景の写真ををお送り致します。三浦半島でではヨットを習い覚えました。楽しい趣味としてその後25年も続けました。自分でクルザーの所有していました。そこでヨットの帆走方法を習った2つのマリーナの写真を示します。懐かしい場所です。はじめの2枚の写真は葉山マリーナで後の2枚は江の島マリーナの風景写真です。写真はインターネットからお借りしました。1番目の写真は葉山マリーナです。ヨットスクールがあったので何度も通いました。レストランから海が見渡せて良い所でした。2番目の写真は葉山マリーナを出て森戸海岸の...「昔遊んだ三浦半島の懐かしい風景」

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