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  • 当ブログについて

    当ブログについて当ブログは、公開、非公開を管理人の意思において定期的に行っております。公開、非公開はカテゴリー別において管理しています。そのため、公開も一部のみの限定公開となることが多いです。あしからずご了承下さいませ。現在、ご質問等の個別の対応は控えさせて頂いております。どうぞ宜しくお願い申し上げます。 管理人拝当ブログについて

  • 河内・往生院でも当麻寺さんと同様の二十五菩薩お練り供養が修されていたか? 日想観と共に華麗荘厳な来迎会 2024年4月18日

    河内・浄土院についての関連から、往生院でも迎講、来迎会、二十五菩薩お練り供養、聖衆来迎練供養会が修されていたと考えられることについて。考古学者・小林義孝先生は、20年以上前に、早くからこのことを指摘されていました。色々と解明が進み、誠に有り難いことでございます。河内・往生院でも当麻寺さんと同様の二十五菩薩お練り供養が修されていたか?日想観と共に華麗荘厳な来迎会2024年4月18日https://youtu.be/jLFVh6IFfiI?feature=shared河内・往生院でも当麻寺さんと同様の二十五菩薩お練り供養が修されていたか?日想観と共に華麗荘厳な来迎会2024年4月18日

  • 往生院で二十五菩薩練り供養が行われていた可能性が高いことを早い段階から仮説・指摘

    寺史掲載の考古学者、小林義孝氏の論文からである。往生院で二十五菩薩練り供養が行われていた可能性が高いことを早い段階から仮説されていたのである。慧眼に恐れ入る。もちろん、双子、兄弟寺院であった河内浄土院に本尊、当麻曼荼羅があったこととは無関係ではなかっただろう。つまり、浄土院、往生院ともに、迎講、来迎会、練り供養がなされていたのであろう。もちろん、往生院にも当麻曼荼羅があった可能性も極めて高い。東大阪市の文化財課の文化財調査官を往生院金堂跡とともに浄土院跡にも案内するが、練り供養がなされていたとなれば、娑婆堂と金堂が確実にあったと思われるため、その痕跡についてもその際にしっかりと見極めたい。往生院で二十五菩薩練り供養が行われていた可能性が高いことを早い段階から仮説・指摘

  • 河内浄土院の創建にあたっては、九條家開基、証空上人開山の可能性は、更にかなり高まる

    九條道家の兄、慶政上人(九條良経の子・兼実の孫)が、実質的に当麻曼荼羅の由来を世に広め、その普及に努めていたことを突き止めた。もちろん、証空上人の当麻曼荼羅普及に関することも書かれている。やはり、河内浄土院の創建にあたっては、九條家開基、証空上人開山の可能性は、更にかなり高まったと共に、河内往生院にも当麻曼荼羅が本尊としてあり、二十五菩薩お練り供養がなされてあった可能性が極めて高い痕跡があることも改めてわかった。金堂跡の地勢から小林義孝氏の論文にてそれが詳細に述べられてある。後ほどにそれはあげることにする。https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/.../KU-1100-19940331-02.pdf河内浄土院の創建にあたっては、九條家開基、証空上人開山の可能性は、更にかなり高まる

  • 字「南九重堂」 「九重」は「九輪」と混同したか!? やはり、字「院堂」に桜井寺・六萬寺も多重的に存在していた? 2024年4月17日

    結局は、字「院堂」に、桜井寺金堂、六萬寺金堂、安助上人御堂、往生院金堂、全て多重的に存在していた可能性がやはり高いかも、、字「南九重堂」「九重」は「九輪」と混同したか!?やはり、字「院堂」に桜井寺・六萬寺も多重的に存在していた?2024年4月17日https://youtu.be/vwaqZ_RkML4?feature=shared字「南九重堂」「九重」は「九輪」と混同したか!?やはり、字「院堂」に桜井寺・六萬寺も多重的に存在していた?2024年4月17日

  • 正行の城あと 字「南九重堂」に六萬寺跡を探索へ 楠木正行の城あとを確認 往生院金堂跡・北側 2024年4月16日

    いよいよ、本命となる六萬寺の探索へ向かった。残念ながら、奈良時代、平安時代の瓦は見つからなかったけど、別に成果があった。しかし、もう藪蚊がかなりすごい、、藪の中の探索はもう無理かな、、正行の城あと字「南九重堂」に六萬寺跡を探索へ楠木正行の城あとを確認往生院金堂跡・北側2024年4月16日https://youtu.be/LMt8vU0EuqM?feature=shared正行の城あと字「南九重堂」に六萬寺跡を探索へ楠木正行の城あとを確認往生院金堂跡・北側2024年4月16日

  • 河内・往生院と浄土院 当麻曼荼羅銘文から引き続き関係性を読み解く 2024年4月15日

    浄土院跡を確認できた流れに乗って、いよいよ、六萬寺の本丸を探すために、字「南九重堂」周辺へと行きたかったのですが、市の文化財課の調査官を迎える準備のために、まずは歴史館の資料整理、掃除を優先。往生院金堂跡、浄土院跡へも案内するため、効率よく回れるようにしたいですね。とにかく、やる気があるうちにやるしかない。。河内・往生院と浄土院当麻曼荼羅銘文から引き続き関係性を読み解く2024年4月15日https://youtu.be/Ikn99qGB93g?feature=shared河内・往生院と浄土院当麻曼荼羅銘文から引き続き関係性を読み解く2024年4月15日

  • 河内・浄土院・当麻曼荼羅銘文の分析

    往生院の金堂落慶法要は、遅くとも1210年までかな。。浄土院は、1230年頃になるかな、、やはり、同時というわけでは無かったかも。しかし、九條家が両方ともに関わりの深いことがわかった。更に浄土院の開山の検討にて、往生院の中興開山についても誰であったのか、かなり絞れることにはなりそうだ。重源、叡尊、忍性、慈円、信円、、信円はありえるかも。浄土院は、当麻曼荼羅を本尊としての落慶ならば、やっぱり証空が有力になるかな。しかし、当麻曼荼羅銘文は本当に有り難い。まさに情報のタイムカプセルだ。修復と修複はやはりちがうのだろう。。原文は複なのである。つまり、複写した、新しいものということであろう。原本はやはり破損したわけだ。修復不可、要は焼けるなどしたのではないだろうか。ならば、1337年の後醍醐天皇が立ち寄られたことと...河内・浄土院・当麻曼荼羅銘文の分析

  • 河内・浄土院と往生院 その関係性について 当麻曼荼羅銘文から浄土院の歴史を考える

    浄土院・当麻曼荼羅の銘文を分析することで、往生院の歴史についても解明できていけることがあるとみています。つまり、中世に往生院に建立された金堂の落慶法要の導師となった中興開山と、浄土院の開山が同じなのではないかということです。今のところ証空上人(浄土宗・西山派の祖)ではないかとみています。とにかく今後の研究がずいぶんと進みそうです。有り難いです。河内・浄土院と往生院その関係性について当麻曼荼羅銘文から浄土院の歴史を考えるhttps://youtu.be/L5cqkU3zOpQ?feature=shared河内・浄土院と往生院その関係性について当麻曼荼羅銘文から浄土院の歴史を考える

  • 河内・浄土院か? 浄土寺跡について 往生院の兄弟寺!? 当麻曼荼羅銘文から浄土院の成立を読み解く

    河内・浄土院の成立年代、開山、開基を当麻曼荼羅銘文から推測してみました。限りなく往生院の兄弟寺ということかも。金堂が同時期に建てられた可能性が、、本当に不思議なことです。(そういえば、法名の阿号は時宗でしたね・・)河内・浄土院か?浄土寺跡について往生院の兄弟寺!?当麻曼荼羅銘文から浄土院の成立を読み解くhttps://youtu.be/MWzfFt9mqrE?feature=shared河内・浄土院か?浄土寺跡について往生院の兄弟寺!?当麻曼荼羅銘文から浄土院の成立を読み解く

  • 奈良国立博物館にある鎌倉時代の「當麻曼荼羅」は浄土寺の本尊であったのか!?

    きた!奈良国立博物館にある鎌倉時代のこの「當麻曼荼羅」、確定的に浄土寺のだ。正式名称は、浄土院か!https://www.narahaku.go.jp/collection/v-1008-0.html鎌倉時代に壮麗な大金堂があり、この曼荼羅が阿弥陀如来の仏像、または弥陀三尊と共に本尊として祀られていたのだろう。歴史を掘り起こした!やったぞ!奈良国立博物館にある鎌倉時代の「當麻曼荼羅」は浄土寺の本尊であったのか!?

  • 河内・浄土寺跡、探索へ 大発見・再発見!

    浄土寺跡、昼から実際に探しに行ってきた。どこにあるのか・・全く見当がつかず。最初1時間、とにかく横小路墓地の南側を探すもわからず。しかし、横小路墓地には無数に古い石仏があるのにはびっくりした・・かなり古い。平安からのものもあるかも・・次に、墓地の南側を諦めて、西側を探すも畑が多く、全く手がかりなし。やはり字名のとおりに浄土谷方面であるとみて、横小路墓地の北側に入ると・・あった。発見した・・無数に散らばる中世の瓦。しかも、往生院金堂跡と同様の瓦が無数に・・いや、中には平安期のも・・すぐに往生院に匹敵する大金堂があったと推測できた・・しかし、全く歴史には何も登場していない・・不思議だ・・市の資料を探しても、まともに調査もほとんどされていない感じである・・府の史跡指定を受けた往生院金堂跡と変わらない金堂があった...河内・浄土寺跡、探索へ大発見・再発見!

  • 横小路・浄土寺跡周辺域・箕後川南側、横小路山麓付近の調査へ向けて

    浄土寺跡、その周辺域に、平安期、現在、往生院六萬寺・仏殿の阿弥陀如来坐像が祀られてあったとすれば、やはり、そこそこ大きな瓦葺きの本堂があったと推測されます。実は、本尊級の貞観仏が二躯ありますから、往生院には前身となる浄土系のお寺が、六萬寺以外に二つあったことも考えられることにはなります。となれば、平安前期の瓦が出てくるところが、必ず近くにあるはずと言えます。まずは、その第一候補の浄土寺跡とその周辺域、箕後川南側、横小路山麓付近を隈なく調査してみたいところです。箕後川ルート近辺以外は未開地に近いだけに期待はできますが…とにかく露出してあるであろう瓦が、一番の鍵になります。特に沢へと落ちてきているかもしれない瓦。探索に行かねば、、山歩きのお手伝い募集です。生駒山系の山歩き「横小路南谷連絡道」https://y...横小路・浄土寺跡周辺域・箕後川南側、横小路山麓付近の調査へ向けて

  • 往生院金堂跡 立派な庭園があった!? 2024年4月11日

    仁和寺・御室(おむろ)の親王を迎えることもあったことから、おもてなし、休息を頂くための書院か方丈が、金堂とは別にあったのではないかと推測される。ならば併設で庭園も造られてあった可能性も高くなる。往生院金堂跡立派な庭園があった!?2024年4月11日https://youtu.be/_W4_g7JG12g?feature=shared手水鉢、つくばいがあったということは、庭園、裏庭があったということでもあろう。禅文化の影響だろう。円爾禅師か、黙庵禅師によるかかと思われる。ならば古い鬼瓦は鬼門厄除けと共に庭園の飾りの役割もあったのかもしれない。庭園に鬼瓦はセットでもある。一応、希望調査範囲を出してみたが、どうなるかな、、またあとで動画も。往生院金堂跡立派な庭園があった!?2024年4月11日

  • 往生院六萬寺の歴史 補足について 2024年4月10日

    これまでの歴史考察動画の内容を踏まえて、更に補足したいことについて述べています。往生院六萬寺の歴史補足について2024年4月10日https://youtu.be/K0DON7QMXKY?feature=shared往生院六萬寺の歴史補足について2024年4月10日

  • 往生院金堂跡・再調査へ向けて 2024年4月10日

    往生院金堂跡・再調査へ向けて2024年4月10日https://youtu.be/aWOyoaP1gKY?feature=shared東大阪市文化財課による往生院金堂跡の再調査へと向けた事前見分のための北東池の境界確認、散在してある瓦等の確認往生院金堂跡・再調査へ向けて2024年4月10日

  • 新しい領解文のこと

    最近、歴史ばかりで、新しい領解文のことは辞めたのですか、諦めたのですか、と。彼岸頃にあのくだんの問題論文が全国門末に郵送配布されたと知り、マジかと呆気にとられているという感じですね、、暖簾に腕押し。詰んでいるのに投了しない、、駄目だこりゃです。新しい領解文のこと

  • 往生院六萬寺・歴史再考察・修正補足動画 4月8日・釈尊降誕会の様子 2024年4月8日

    往生院六萬寺・歴史再考察・修正補足動画4月8日・釈尊降誕会の様子2024年4月8日https://youtu.be/Cdtx_BML4qw?feature=shared往生院六萬寺・歴史再考察・修正補足動画4月8日・釈尊降誕会の様子2024年4月8日

  • 空白寺院の存在!?「河内・六萬寺→◯◯寺→往生院」本尊・阿弥陀如来仏像の由来について考える(岩瀧山 往生院六萬寺)2024年4月7日

    実は、六萬寺荒廃の跡、安助上人創建となる往生院の前に、現存の貞観仏彫刻・阿弥陀如来坐像の由来となる寺院があったと思われることと、百済留学前後における瓦づくりについて、六萬寺の考えられる伽藍様式について、など、専門家からアドバイスを頂いたことについても触れています。補足として、鎌倉期の九條家の関係での玉日姫のことと親鸞聖人りことについても。空白寺院の存在!?「河内・六萬寺→◯◯寺→往生院」本尊・阿弥陀如来仏像の由来について考える(岩瀧山往生院六萬寺)2024年4月7日https://youtu.be/5SWeAVu17lo?feature=shared空白寺院の存在!?「河内・六萬寺→◯◯寺→往生院」本尊・阿弥陀如来仏像の由来について考える(岩瀧山往生院六萬寺)2024年4月7日

  • 「河内・往生院の歴史を概観する」平安時代から江戸時代まで(岩瀧山 往生院六萬寺)

    「河内・往生院の歴史を概観する」平安時代から江戸時代まで(岩瀧山往生院六萬寺)2024年4月6日https://youtu.be/h21-2zIeuMA?feature=shared「河内・往生院の歴史を概観する」平安時代から江戸時代まで(岩瀧山往生院六萬寺)

  • 「河内・桜井寺と六萬寺の歴史を解明する」日本最古の鬼瓦!?日本最古の寺院!?日本最古の九重塔!?往生院以前の古代史を再考察する

    往生院六萬寺・歴史再調査について。動画でまとめました。「河内・桜井寺と六萬寺の歴史を解明する」日本最古の鬼瓦!?日本最古の寺院!?日本最古の九重塔!?往生院以前の古代史を再考察するhttps://youtu.be/uKoFMTehfIU?feature=shared「河内・桜井寺と六萬寺の歴史を解明する」日本最古の鬼瓦!?日本最古の寺院!?日本最古の九重塔!?往生院以前の古代史を再考察する

  • 日本最古の鬼瓦? 日本最初に作られた鬼瓦? 河内国・桜井寺(百済留学僧・善信尼入寺・589年)の全容解明へ向けて 2024年4月3日

    鬼瓦三種についての考察日本最古の鬼瓦?日本最初に作られた鬼瓦?河内国・桜井寺(百済留学僧・善信尼入寺・589年)の全容解明へ向けて2024年4月3日https://youtu.be/yftEVTxU-SQ?feature=shared日本最古の鬼瓦?日本最初に作られた鬼瓦?河内国・桜井寺(百済留学僧・善信尼入寺・589年)の全容解明へ向けて2024年4月3日

  • 桜井寺の実態解明へ向けて・古墳時代の鬼瓦

    鬼瓦、どうも三種違うと。明らかに粘土、焼きが古墳時代のものは、古墳時代に建てられた日本最古の寺院建造物にあった鬼瓦の可能性があり、つまり、六萬寺の前身、桜井寺が500年代の早い時期には建てられて、善信尼がその後に入寺したと思われるわけである。つまり、仏教伝来は550年頃ではなく、まだ古墳文化の濃い、500年すぐであった可能性が高いことになる。渡来文化流入直後、自国作の試みの最初の鬼瓦というわけである。だから埴輪などと同じ質感なのであろう。まだ、瓦の製法も伝わったかどうか、直後ぐらいなのだろう。渡来人が書いた百済にあった鬼瓦の模写を真似て作ったのではないかと思われる粗さである。その次のものは、明らかに更に年代が経ってからのもので、飛鳥白鳳〜奈良時代のものであろう。まだ作りは甘いが、粘土、焼きはかなりしっかり...桜井寺の実態解明へ向けて・古墳時代の鬼瓦

  • 日本最古の鬼瓦、日本最初に作られた鬼瓦の可能性あり

    このような鬼瓦は過去出土の前例がなく、古墳〜飛鳥時代の可能性もあると。500年代、つまり、日本に仏教が伝わった初期の頃の寺院建造物に使われた可能性があるということになる。つまり、六萬寺の前身、桜井寺のもの、日本初の尼僧として百済から帰国した留学僧、善信尼が入寺した(589年)とされる桜井寺のものである可能性が出てきたわけである。今の六万寺一帯は、飛鳥時代、もともとは河内三郷の一つ桜井郷と称されていた。そこにあったとされる桜井寺が六萬寺の前身と伝わっていたわけであるが、そのお寺のものならば、日本初期も初期の寺院建造物の、最初期、最古の鬼瓦かもしれないのである。どうりで粘土質感、焼き感、作り感が、土器や埴輪などと同じで古墳時代なわけである。この鬼瓦は、596年に建立された飛鳥寺よりも、もっと古い、550年以前...日本最古の鬼瓦、日本最初に作られた鬼瓦の可能性あり

  • 奈良時代創建「六萬寺」(聖武天皇勅願・行基菩薩開基・本尊薬師如来) 六萬寺、九重堂・塔の存在について

    六萬寺・九重塔についての考察奈良時代創建「六萬寺」(聖武天皇勅願・行基菩薩開基・本尊薬師如来)六萬寺、九重堂・塔の存在について2024年4月2日https://youtu.be/7sUycV0n4A0?feature=shared奈良時代創建「六萬寺」(聖武天皇勅願・行基菩薩開基・本尊薬師如来)六萬寺、九重堂・塔の存在について

  • 六萬寺の九重堂(九重塔)・日本最古の木造建築の九重塔と推測している

    拙推測では、小字の院堂が、往生院金堂跡のことであり、九重堂(あるいは九重塔)は、奈良時代〜平安時代にあった六萬寺の寺院建造物であったと思うのである。九重堂は、奈良時代〜平安時代に建てられた日本最古の木造建築の九重塔であったのではないかと推測している。京都、法勝寺にあったとされる八角九重塔よりも古いと見ている。日本で九重塔は、法勝寺と百済大寺にしかあったとされていないが、六萬寺にもあったというのが拙説である。それを裏付けるように奈良時代、平安時代の瓦が出てきてあることが、昨日にも確認できた。奈良時代、瓦葺きでの九重塔、それも50メートルを超える塔があったと考えるのである。塔から眺める景色がどれほどに美しかったであろうか。日本最古の九重塔。史実証明していきたいところであります。六萬寺の九重堂(九重塔)・日本最古の木造建築の九重塔と推測している

  • 往生院金堂跡再調査、往生院所有地北東池の南側で、鎌倉期のキリーク丸瓦二種を発見

    エイプリルフールネタではなく、午前中に行った往生院金堂跡再調査、往生院所有地北東池の南側で、鎌倉期のキリーク丸瓦二種を発見。最初のものは一回り小さく、山門か別棟のものと思われる。二つ目に出たものは金堂のものと推測される。いずれにしても、山門か別棟があったことが明らかになったのは新発見である。息子は完璧な灯明皿を発見した。その他、平安期の瓦と思わしきものや、土師器や甕などの破片も数点回収。これからすぐに洗って分析に入ります。歴史的発見!洗いましたら、完全なるキリーク梵字が浮かび上がりました。一つは金堂、もう一つは一回り小さくて山門か中門の軒丸瓦と推測されます。一回り小さいのは新発見となります。また、調べてみたら今までにない瓦の種類もあり、鎌倉期以前のものであれば、平安時代から瓦葺きの建物があった可能性もかな...往生院金堂跡再調査、往生院所有地北東池の南側で、鎌倉期のキリーク丸瓦二種を発見

  • 法炬の円相について

    最近の葬儀は、(小さな・・など)広くない会場で喪家・会葬者と近い位置で勤めることもあるため、作法をそばで見られることも多くなっています。松明を投げる(法炬放擲)前に、松明を回して円を描いた後、真ん中で何か書いているようですが、何を書いているのですかと聞かれることも。拙生の場合は、一字梵字を空中に書いています。それは本尊に合わせる種子としています。阿弥陀如来であれば、「キリーク」、釈迦如来であれば、「バク」となります。あるいは、「ア」(大日如来・胎蔵界)でも良いかとも。法炬二本となったため、下炬と引導の場合とで種子を分けても良いかもしれませんね。下炬を「ア」(火天の種子でもある)として、引導を本尊の種子として。法炬の円相について

  • 葬儀における散華と法炬について

    葬儀における散華と法炬について葬儀における奉請の際に、梵字や仏名の無い華葩を散華し、それとは別に、棺に血脈・引導法語と共にお棺の上にお供え、納棺する華葩には、梵字や仏名を書いたものを調えて(通夜の奉請にて薫じてお供え)、葬儀奉請における散華の華葩は、私や会葬者、スタッフに納棺頂くということとして、たいまつは、一本目を秉炬佛事の下炬(法炬放擲)として、二本目は、引導法語後の引導(法炬放擲)として、一本目は火葬の聖火、二本目を黄檗度母引導故事由来として修めることにしてみようと思います。葬儀における散華と法炬について

  • お通夜・お葬儀について(新版)(往生院六萬寺)

    お通夜・お葬儀について(新版)(往生院六萬寺)往生院六萬寺にお葬儀をご依頼される場合は、下記をご参考になさって下さいませ。【基本儀軌・作法】授戒・引導法式【通夜・授戒】三帰戒・五戒・三聚浄戒・十重禁戒・戒名(法号)授与【葬儀・引導】秉炬佛事下炬(法炬)引導法語引導(法炬)【お布施】25万円(枕経・通夜法要・葬儀法要・安骨(還骨)法要・初七日忌法要まで)(約30年以上前から、お布施の額は一定25万円にて変わりございません)(※任意お車料・お膳料2~3万円※市外の場合、お車代2万円)※枕経・通夜式・葬儀式への往復をタクシーで伺うこともあります。その場合は、タクシー代相当のお車料を頂戴することがございます。※戒名料(法名料)は基本的にはお布施に含まれますが、任意ご厚志として別にてお包み頂く分は大変に有り難くに存...お通夜・お葬儀について(新版)(往生院六萬寺)

  • 葬儀における法炬・松明(たいまつ)について

    法炬(たいまつ)前に考察したように、火葬と引導の二本として、今までは一本のみで毎回葬儀社さんに借りていたが、二本まではやはり借りにくい(投げるし)、、これからは自作二本を持参致すことにします。併せて、剃刀も毎回借りていたのだが、この前に借りたものが、あまりにもお粗末な使い捨てのヒドい剃刀で、これはあかん、、と思い、本堂にあった本物の大きな剃刀を錆を落とし使えるようにして、装飾を施した。法炬(たいまつ)二本についての前のポストとはこれですね。・・昔の葬儀における引導は、火葬場の龕前堂にて行われていたのであろう。入龕念誦、龕前念誦、鎖龕念誦、起龕念誦、山頭念誦→葬列、龕前堂へと移動→法語、引導(法炬投下)→下炬(火葬)が、本来の正式な流れであったのだろう。山頭念誦はまさに別れの表白であるから、出棺の贐となるわ...葬儀における法炬・松明(たいまつ)について

  • 葬儀における散華について

    葬儀において、もう一つ気になっていたのが、散華。奉請の際に、天台宗や真宗では散華がある。真宗では基本、あまりされていない感じでもあるが。。ただ、いつも授戒願文の次の奉請にて散華してもと考えていた。ご来迎をお迎え致す意味でもである。しかし、問題は落ちたものが、お別れの際に踏まれないかである。希望は拾ってもらっておいて、納棺して頂くのがベストかもしれないが、スタッフに頼まなければ、私がちゃんとせねばならない。そのあたりがどうしたものかと気になる。納棺するならば、棺の上にそっと置くのでも良いのかもしれないが、、葬儀における散華について

  • 令和6年春彼岸法要 法話「法然聖人 親鸞聖人 御影坐像 ご紹介」・「往生について」

    令和6年春彼岸法要法話1冒頭「法然聖人親鸞聖人御影坐像ご紹介」https://youtu.be/4biDOLY4xUs?feature=shared令和6年春彼岸法要法話2「往生について」https://youtu.be/9cv1Aug7-Sk?feature=shared※フリップの内容はこちらで詳しくご覧頂けます。https://fb.watch/qZ0I_4X6kL/?令和6年3月・春彼岸施餓鬼法要配布資料「往生・引導・灌頂について」http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/92486211.html令和6年春彼岸法要法話「法然聖人親鸞聖人御影坐像ご紹介」・「往生について」

  • 法然聖人三日月の御影について

    法然聖人の坐像とは別となる三日月の御影については、鎌倉時代の藤原隆信か、藤原信実によるものではないかとして、文化財課による鑑定待ち(いつになるか分からないが)であり、別に厳重保管対象としている。もしかするとオリジナルの三日月の御影かもしれない。藤原隆信は、歌人、画家で法然聖人の下で出家している。藤原北流であり、もちろん、九条家、九条兼実とも交流は深い。また、その子の信実は、似絵の家元でもある。隆信か信実によるものを九条兼実か九条道家が、往生院に下賜したものであろうと思われるのである。伝説の法然上人御影https://archives.bukkyo-u.ac.jp/.../MK/0003/MK00034R007.pdf法然聖人三日月の御影について

  • 念仏門の変遷

    平安時代、安助上人が、晩年、往生院にて修されていたのは日想観、五念門であったことが、拾遺往生伝に記されてありますが、四天王寺在中時代には、観無量寿経に基づいた阿弥陀講、往生講の講師として講式を修されていたことが分かります。平安期の浄土教は、観想中心の念仏行であったわけですが、法華験記、拾遺往生伝、後拾遺往生伝、二十五三昧会などにおける行法を詳しく見てみると、天台法華、台密、東密による真言行が圧倒的にその中心となっていたことが窺えるのであります。念仏門は、観想念仏から、密教念仏、そして、称名念仏と多様な変遷を経るわけです。往生院金堂跡からは、梵字キリークの瓦が出土しており、密教的な浄土教も奉じていた可能性が高いと推測できます。観想念仏と密教念仏が融合したあり方であったと思われ、どのような勤行、修法が日々営ま...念仏門の変遷

  • 福徳・功徳の資糧集積のあり方について

    功徳行、報恩行、助正業として、ボランティアや奉仕活動、慈善事業、寄附事業を勧めるのは、浄土真宗的にも、また、仏教的にも、誰もが平等にできるような実践ではないということもあるのだが、あまり良い功徳行、報恩行、助正業というわけでもないのである。もちろん、社会、国、世界では奨励されていることではあるため、個人の意思で行う分には当然に構わないことではあるが、結局は、人間ご都合主義、人間第一主義のいわゆる優生思想、差別思想を内包してあることがあるため、仏教の全ての衆生を助ける、救うというための平等の慈悲によっての行いにはなりにくく、それどころか、自己満足や欺瞞に陥り、自分では良いことをしたつもりではあるものの、それが功徳にもならずに、逆に業を汚す行いとなり得ることにも注意が必要になるのであります。(例えば、(人間社...福徳・功徳の資糧集積のあり方について

  • 親鸞思想の浄土論、往生論、成仏論と仏性論

    親鸞思想の浄土論、往生論、成仏論が、通仏教とは全く異なる性質、論理であることを理解していないために、助正論や報恩行、功徳行などの必要性についての議論がいつまでも起こるわけであります。時流や社会、世界の潮流に合わせてとか、色々と理由をグダグダと述べ立てても、それは、理由、根拠には全くならないのであります。冒涜とまではならなくても、宗祖の思想、教義への疑義を呈していることになるわけであります。仏性論については、そもそも悟りへと向けた自力的あり方の根拠となる仏性の存在は否定されるものであり、あくまでも成仏は、法性法身阿弥陀如来との一如、一味において成されるものであるため、自分の側における仏性があるのかないのかは、一切関係がないことで、仏性論は、否定的な無記に近い立場となるのであります。もちろん、輪廻にあり、煩悩...親鸞思想の浄土論、往生論、成仏論と仏性論

  • 石泉学派の弘願助正についての補足

    石泉学派の弘願助正については、随分と前にも考察しているが、称名以外の五念門を往生への助正業と成すのを、その基本としつつ、五念門以外に、報恩行の活動も、その助正業に含めるのか否かが問われてくるところになるわけであります。つまり、通仏教の功徳行とその性質が同じとなるわけで、もちろん、往生へ向けては善根功徳は欠かせないものであるため、功徳+称名念仏は、往生の基本要素であるわけです。門主が勧めようとしているのは、要は浄土真宗も、通仏教に準じて、名号+功徳でいきましょう、というわけです。但し、功徳+称名念仏による「往生」と、浄土真宗の「往生」とは、そもそも同じではなく、中身も性質も異なるものであります。そのため、同じように、功徳+称名念仏では、浄土真宗の「往生」の要件にはならないのであります。流れ的には、浄土往生→...石泉学派の弘願助正についての補足

  • 3/17-3/23・春彼岸「おせがき」供養・3/20・彼岸中日「日想観」法要

    事前申し込みの彼岸施餓鬼塔婆もほぼ書き終えて、諸々の準備も整ったが、配布資料はもう少し精査したかった、、「往生・引導・灌頂について」令和6年3月・春彼岸施餓鬼法要配布資料http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/92486211.html結局、法話も日和ってしまい当たり障りのない「往生について」に。称名念仏+功徳は、やはり往生の基本になると落ち着くかな。3/20は、夕方に日想観極楽誓願法要。晴れとなり日没を拝せれると有り難いですね。3/17-3/23・春彼岸「おせがき」供養・3/20・彼岸中日「日想観」法要のご案内http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/92167878.html3/17-3/23・春彼岸「おせがき」供養・3/20・彼岸中日「日想観」法要

  • 池田総長辞意表明 総長選挙 新総長就任

    池田総長辞意表明総長選挙新総長就任https://note.com/ryouge/n/n65a446a99544結局、騒動、混乱を収束させるどころか、騒動、混乱を助長しているのが門主であることが、前回今回と続いての総長候補指名からも明らかに窺えるところとなった。白票が一番の得票とは、、指名する人選も不可解極まりなく、教義センスだけでなく、政治センスも疑われて仕方がないだろう…門主として適任にあらずはもう明らかながら、辞めさせられないのは門末においては誠に悲劇的なことであるだろう、、少し淡い期待を抱いたが無駄であった。池田総長辞意表明総長選挙新総長就任

  • 尼僧を強姦し14年間監禁・性加害…住職に蛮行を促し尼僧を「ロボット玩具」にした80代"生き仏"の地獄の所業

    千日回峰行を成満した者であっても、傲慢、高慢な鬼畜へと成り下がってしまった、ということなのであろう・・成満後も常不軽菩薩行の実践者であるべきはずが、周りが不動明王の化身だなんだと神格化するなどして崇め奉りすぎなのも問題であるのだろう・・とにかく、千日回峰行では当人が煩悩障さえもほとんど対治できなかったということで、被害者へのしかるべき補償と共に、当該加害者二人には相当な処分と、一から修行をやり直させるのが、天台宗、宗門としての役割となるであろう・・まあ、個人的には千日回峰行はあまり仏教の修行としては良くないとも考えている。山を走り廻ると、どうしてもたくさんの虫などの生き物を踏み殺すことになってしまい、殺生を避けれないからだ。だからあまりお勧めできる修行ではそもそもない。尼僧を強姦し14年間監禁・性加害…住...尼僧を強姦し14年間監禁・性加害…住職に蛮行を促し尼僧を「ロボット玩具」にした80代"生き仏"の地獄の所業

  • 新旧領解文をどのように見直せばよいのか

    門主は、石泉学派が好みであり、念仏者には、通仏教の功徳行、善徳行もやはり必要だとの感覚は、もちろん十分に理解できるのであります。功徳行、善徳行を、雑修、雑行、自力だと一切否定する側が問題だと思うのも、まあ、普通であればそう思うわけでもあります。仏教、世間一般の感覚から見ても。仏教の基本的なあり方、基礎となる土台を無視して、「他力」、「信心」一辺倒により過ぎたのも、そうだとも思うのである。そのあり方を見直すべくに「報恩」、「報謝」としての功徳行、善徳行を勧めるとの方向性へとなり、それをより明確化していきたい、修正したいとの門主の意思も窺えるわけですが、何分にもそれを任せた者が、あまりにも無知であったのが大誤算であったと思うのであります。仏教も浄土真宗も、まあ分かっていないというお粗末さと、功名心による高慢さ...新旧領解文をどのように見直せばよいのか

  • 浄土真宗の「信心」の内実について

    このリンクのポストに絡めて、https://www.facebook.com/share/p/k14tNEccrJ5JJKS2/親鸞聖人以降の者たちにおいて「信心」の内実が甘く見積もられてしまうようになった弊害なのでしょうかね、と。本願寺派の方ではありませんが。まあ、そうなのだとは思います。それが◯◯上人や誰彼のせいだともおっしゃる方もあるわけですが、これまで、親鸞聖人の浄土論、往生論、成仏論の特異性を理解した上から「信心」の内実について深く検討してこなかった可能性が高いのではないかとも思うのであります。本来、成仏に必要となる膨大な智慧資糧と福徳資糧の代替が、浄土真宗においては「信心」決定一つに集約されることになるわけですが、その根拠が、新旧領解文を理解する程度、唱和、解説を聴く程度で済むとするならば、ま...浄土真宗の「信心」の内実について

  • 「七支供養」(七支清浄行)について

    「帰依・懺悔(滅罪)・受戒・善根功徳(追善)」は、チベット仏教ではどのようになるのかと申せば、要は「七支供養」(七支清浄行)として調えることになるわけであります。それは、華厳経における普賢行願讃の内容であり、「帰依、礼拝、懺悔、供養、随喜、勧請、廻向」として調えられるもので、「勧請を発菩提心、あるいは菩提心の保持」とする場合もありますが、この七つの供養を行うことによって、福徳資糧となる功徳も積むことができることになるのであります。ですから、七支供養を勤めて、日常においては、五戒、もしくは十善戒に努めること、これが往生、引導を頂くためにおいても、必要最低限の条件であると言い得るわけでもあります。七支供養は、1分~2分ほどあればできるお勤めです。もちろん、難行苦行などではなく、誰もが簡単にできる供養、功徳であ...「七支供養」(七支清浄行)について

  • 二十五三昧会の現代版へ向けて

    改めて考えてみると、寂しいことではあるが、日本では悟りへと至るためとしての仏教ではなくなりつつあると共に、往生、引導のためとしての仏教でもなくなりつつあるのかも…と。そもそも、悟れるとは思ってはいなくても、往生できる、引導されるとも、ほとんどの方は本気で思っていないのが現実なのではないだろうか、、そのため、形骸化が著しくなり、僧俗ともに仏教と向き合う敬虔さ、真摯さも失われつつあるのだと言えるわけでもあります。それは、本来、仏教徒、檀信徒において大切な仏教修養となる布薩、ハ斎や講などの集まりがなくなっているということも関係があるのでしょう。お寺でイベントを行うのは良いのだが、檀信徒となってもらい、布薩や講などの仏道修養へと繋がらないのであれば、そのあり方を考えなければならないということでもあります。拙生とし...二十五三昧会の現代版へ向けて

  • 「往生・引導・灌頂について」令和6年3月・お盆施餓鬼法要 配布資料

    春彼岸の配布資料を一気に書いたが、当初予定していた題「浄土門について」ではなく、「往生・引導・灌頂について」となってしまった。先に考えていた法話の内容とはまた違ってきてしまい、途中で、普通に一般的に考えられている「自力、他力」、「難行、易行」の定義とは、異なる見解となってしまったからである。まあ、これも一つの考察かと、自分に納得させて。。とにかく彼岸近しである、、岩瀧山往生院六萬寺令和6年3月・お盆施餓鬼法要配布資料「往生・引導・灌頂について」最近、個人的に、西本願寺・本願寺派の「新しい領解文(りょうげもん)」問題について考察することが多くあったことから、従来より進めていた浄土真宗の教義についての考究がよりいっそうに進むとともに、日本における初期の浄土教、平安時代の往生院における日想観(じっそうかん)を中...「往生・引導・灌頂について」令和6年3月・お盆施餓鬼法要配布資料

  • 信心獲得、信心決定の内実について

    これは・・従来の領解文もそうだが、改悔批判で唱和させて、与奪者が解説を行い、正しい領解を確認するということの根拠、論拠が、新旧ともに疑わしいものであると宣言してしまっているようなことではないだろうか。領解の精査は、直結して信心獲得、信心決定の内実の精査へと向かうものでもあり、教義における根本中枢、核心を扱うものである。それがいい加減なもの(新しい領解文はもちろん論外ではあるが)を根拠、論拠としていたとなれば、とんでもないことである。もしも、従来の領解文に問題があるから、新しい領解文が必要となったとしての制定動機であったのであれば、信心の核心を扱い、教義の中枢となるものになるのであるのだから、議論を重ねた上でより慎重かつ丁寧に進めるべきであっただろう。それが、仏教としても、浄土真宗としても間違いだらけのもの...信心獲得、信心決定の内実について

  • 拙浄土門考と浄土真宗について比較検討していくのであれば

    次に、拙考と浄土真宗について比較検討していくのであれば、阿弥陀佛による名号の利益・功徳による救いの範囲をひとまずは往生(見仏・授記を含む)までとするのか、それとも一気に悟り・成仏までとするのか、つまり、悟りへの指向・方向性の明示とするのか、即座に完結までとするのか、この点も、法性法身(真実浄土)を往生先として想定するのかどうかと併せて考えていかないといけないことになります。そして、「信心」獲得・決定の内実の検討であります。法性法身(真実浄土)への往生並びに成仏(二種法身円満)へ向けた「名号」の利益功徳の力へのアプローチのあり方について、例えば、三帰依や善行・功徳等の条件、必要性の検討となります。更には、「名号」の利益功徳の力以外に、一切、何も頼りとしない、頼まない、必要としないあり方を、往生についてと捉え...拙浄土門考と浄土真宗について比較検討していくのであれば

  • 「浄土門」についての一考

    浄土宗や浄土真宗の教義とは別に、貴兄が考える「浄土門」とはどのようなものかと問われていたことについて、春彼岸の法話として、改めてまとめてみることにした。基本的に、浄土門の教えとは、極楽往生を目指すもので、往生により、阿弥陀佛との見仏、阿弥陀佛からの授記を頂くことで、浄土での修習によって悟りに至れる(成仏できる)ように調えるためのものと考えるのであります。その往生先については、報身報土だけではなく、応身応土など、見仏身、浄土地にも、往生者に応じての相違があると考えています。ただ、往生先を阿弥陀佛の(法性)法身、法身そのものを含めるかとなれば、それは想定していません。(名号の利益功徳に即座の成仏までを含めるのかどうかもまだ保留としておきます。)また、極楽の報土にせよ、応土にせよ、極楽の六道(地獄もあり)にせよ...「浄土門」についての一考

  • 往生院金堂跡での発見物について

    今回の五輪塔の一部だけではなく、これまでに、往生院金堂跡のお寺所有の池付近からのものも併せて、私が発見したものは結構ある。キリークの大きな丸瓦、鬼瓦、南側沢にあった鎌倉期の土管もそうである。本格的な発掘調査ができれば、五輪塔や石仏の一部なども含めて、もっともっと色々なものが見付かるのであろうが、市文化財課が動いてくれないと、当然に難しい…とにかく試掘でも良いのだが、、そういえば昨年に調査官調査の親鸞聖人自作坐像もまだ途中である。法然聖人三日月の御影も含めて、まだ幾つも調査依頼をしているのに…行政を待っていては時間だけが無駄に過ぎていきかねない。やはり、合間合間に私が調査研究していかねばなるまい、、あと、岩瀧山の中腹から上にあったと思われる建物の調査もあれから一向に進んでいない。山の探索もまたやらねば…往生院金堂跡での発見物について

  • 西本願寺・本願寺派の第323回定期宗会での門主開会挨拶の内容について

    門主の挨拶に「新しい領解文」についての直接的な言及はなく、信心の社会性の体現(社会活動やボランティア活動)へ向けた意思表示もややトーンダウンしたように思える。(もちろん、混乱、騒動の責任を取って退任する気はなさそうである。)そもそも社会活動やボランティア活動、寄附行為などは、彌陀本願に適うものではない。当然に誰もができる実践ではないからだ。余裕のある者、お金のある者、能力のある者にしかできないことを勧めるのは、彌陀がお垂れになられた平等の慈悲に添うものではないのである。浄土門においてそういったことを勧めるのは、自力云々以前に、本来、あまり良くないことになる。とにかく押し寄せてある反対の声に、門主も配慮せざるを得なくなったのは確かなのであろう。補足・・釈尊も、無理強いするような功徳のあり方を言われたわけでは...西本願寺・本願寺派の第323回定期宗会での門主開会挨拶の内容について

  • 新しい御守札「厄除招福」

    コロナ禍が終わり、疫病退散の御守はお役目御免となり、もう置いていませんが、ありますか?と聞かれる方がまだあるため、観音さんのとは別で、新しく「厄除招福」でお作りし、また、大きさ、フィルムケースも変えてみることに。基本的には1年毎に変えるとかではないのですが、変えたいという方も多いみたいですね。結構頼りにされているため、切らさないように気をつけたいものです。またしっかりと日を見てお勤めをしたいと思います。改めて考えてみると祈祷祈願の際にも必ず楞厳呪を読誦しますね。白傘蓋仏母尊の護法力のお加持を頂戴致すということになるわけです。そういえば、下の山号と寺名、逆に読まれる方がたまにいるようで、「じ、まん、ろく、」って何ですか?と聞かれたことがある…若い方は、西洋の書き出ししか知らないことがあり、仕方がないのかもし...新しい御守札「厄除招福」

  • 「新しい領解文」は、約仏の観点からも当然に間違いである

    仏教における悟りは空性了解が、本来、重要なものとなるが、浄土真宗では、空性了解より信心領解が重要となる。この違いは目的の相違による。その違いは、悟りを目的とするのか、彌陀摂取を目的とするのか、である。浄土真宗では、彌陀摂取により彌陀と一如、一味となることで、如来と同等の二種(法性・方便)法身を得れるとするため、空性の了解へと向けた智慧の開発、空性了解による法身の獲得、また、衆生済度へ向けた福徳、功徳の集積、円満なる福徳による色身の獲得を必要とは考えないのである。この両者にまたがる目的の隔たりを理解しないと、浄土真宗を理解することは難しいのであります。浄土真宗は、彌陀摂取により、凡夫のままにて救われ、凡夫のままにて二種法身を得れて成仏できると考えることになるわけです。約仏とはこの観点となります。では、輪廻の...「新しい領解文」は、約仏の観点からも当然に間違いである

  • 往生院金堂跡 再調査 五輪塔の一部をまた発見か!?

    岩瀧不動尊お参り後、今日は日が良いと思い、一ヶ月ぶりに往生院金堂跡の再調査へ。前回、五輪塔の一部を発見し、現地供養後に現在の往生院歴代尊位の墓所へとお祀りしましたが、更に気になることもあり、金堂跡南側斜面を調査したところ、五輪塔の一部か、石仏の台座と思わしき石を発見しました。周囲にある山の石とは明らかに質が違い、重く、また人工的に切り取られてあると思われるため、寺院関係のお墓石か石仏の台座とほぼ断定して間違いがないでしょう。更に再調査して参ります。これも、第5世であるとおっしゃられてお出ましなさられた浄興さんのお導きでしょうか。。やはり、前回に持ち帰った五輪塔の一部と同じ石質でした。形状的には石仏の台座の可能性が高いかもしれません。いずれにしても往生院歴代尊位の場所にてお祀りして御供養致します。更に調査を...往生院金堂跡再調査五輪塔の一部をまた発見か!?

  • AIとのhasunoha問答対比シリーズ・7

    AIとのhasunoha問答対比シリーズ・7「解脱」についてだが、AIの回答には少々がっかりした。まあ、「輪廻」=「迷い・苦しみ」という捉え方は間違ってはいないが、「解脱を得ることによって、人は無限の慈悲と智慧を身につけ」というのは間違いである。智慧と慈悲(功徳)の力により、解脱を得て、そして、それから更に修行の段階を進めて円満なる悟りへと向かうことになるのである。AI、まだこの程度の回答なのかと、ガッカリである。問い「解脱とは何ですか」https://hasunoha.jp/ai/q/bbe598e8e194ce20AIによる回答相談してくださり、ありがとうございます。心の底から出てくる疑問に向き合われていること、心から尊重いたします。仏教で説かれる「解脱」とは、苦しみや迷いから自由になることを指します...AIとのhasunoha問答対比シリーズ・7

  • 安土問答についての再考

    安土問答を更に考えてみたが、では、日蓮宗側はどう答えたら良かったのだろうか。貞安云ふ四十余年の法門を以て、爾前を捨て、方座第四の「妙」の一字は捨つるか、捨てざるか。法華云ふ四十余年四妙之中には何ぞや。(40年余の説法の何処にある妙か?)貞安云ふ法華の妙よ。汝知らざるか。(此の返答、之無く閉口す)貞安亦云ふ捨つるか、捨てざるか。(尋ねし処に無言す)当時の教判は、天台宗におけるものがベースになっているわけであるが、法華の妙は、円妙として、方便には含まれない判定にあったはずである。方座第四の妙が、法華の妙だと言われたら、「法華の妙は、方座の妙にあらず、円教の妙である」と答えて、「捨てるにあらず」としていれば、問答はまだ続いていたと思われるのである。法華玄義、法華玄義釈から、「法華の妙は、円教の中でも純円の妙であ...安土問答についての再考

  • 「安土問答」について

    信長の話題から、「安土問答」について聞かれていることがあるが、正直、あまり詳しくには把握していない。教判に関わることの議論がされたが、問答にもならないことで集結した、という認識である。要は、何が方便で、何が真理かということについて、方便の妙に関してのやり取りで、法華側が切り返せずに沈黙したことで、負けと判定された、というものではなかっただろうか。Wikipediaで内容を読み返したのだが、イマイチよくのみこめない、、方便の妙には法華の妙もあるから、それは(真理へ向けて)捨てるべきであるのかどうか、と聞いたのだろうか?ならば、法華の妙は、法華宗においては、教判において最高真理にあたるわけなのだから、捨てられるわけなどない。当然に方便ではないとの認識であるのだから。では、法華の妙が方便だと、どの経典のどこに書...「安土問答」について

  • 川口家と美作後南朝の繋がりについて

    室町時代、臨済宗(相国寺派)の盂蘭盆会ではこんなにたくさんのお経、陀羅尼が読誦されていたのか、、現在のように開甘露門が無いということは、施餓鬼会とはまた少し性質を異にしていたものになっていたということでもあるのだろう。相国寺は、足利義満の菩提寺であるが、南禅寺や東福寺を別格として、足利幕府の庇護を受けた京都五山、鎌倉五山を中心とした臨済宗系が北朝系とするならば、曹洞宗、総持寺が南朝系として、それぞれに教線を拡大していったとも言えるのかもしれない。もちろん、臨済宗でも末寺の数が全国的に圧倒的に多い妙心寺派について考えてみる必要がある。妙心寺派の寺院は室町期の守護代系の武家が開基している寺院が相当に多い印象である。ならばやはり北朝系となる感じかも。今のところ、河内の楠木家子孫における浄土真宗寺院の展開を以前に...川口家と美作後南朝の繋がりについて

  • 楞厳呪・八句陀羅尼の期待効果について

    楞厳呪の第五会のみを地鎮、撥遣、また、八句陀羅尼を各祈祷等において読誦する場合がありますが、仏頂百傘蓋尊は、仏母・女尊で、護法、守護の力が強大とされており、障りを除いてくれる者として、特に八句陀羅尼を含む第五会が仏頂百傘蓋尊の主要陀羅尼であり、やはり、障りを除く効果、加持を期待して、となるのではないだろうか。当然に災いを防ぐ祈願となる陀羅尼である消災呪との併用も目立つのである。更に、楞厳呪は反呪詛、つまり、呪詛返しの力が強いともされているため、より守護の意味合いでも重用されたのでもあるのでしょう。そう言えば観音経にも呪詛返しの文言がありますね。また、禅宗で楞厳呪と共に特に読誦するお経は、大悲心陀羅尼(大悲呪)である。観音菩薩の守護、加持を頂くための陀羅尼となるが、楞厳呪ほどの強烈な文言はなく、どちらかと言...楞厳呪・八句陀羅尼の期待効果について

  • 首楞厳三昧経と楞厳経について

    首楞厳三昧経と楞厳経とは別物です。楞厳経は、正式には大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経となります。首楞厳三昧経は、首楞厳三昧についての内容を説くものであります。楞厳経が、禅定の完成へ向けた功徳を説く一方で、首楞厳三昧経は、首楞厳三昧そのもの自体とはどのようなものであるのかを説いているだけなのである。つまり、首楞厳三昧へ至るためにどうするべきであるのかの中身、内容について具体的なものは乏しく、十地の菩薩でしか成し得ない三昧であるとして、要は修行者向けの実践解説ではないということが言えるのであります。そのため、禅宗ではあまり重視されるものとはならず、禅定の完成へ向けて役立つとされた楞厳経の方が重用されることになったわけです。ちなみに、楞厳経は、チベットには仏頂大百傘蓋陀羅尼経として伝わっており、楞厳経の...首楞厳三昧経と楞厳経について

  • 浄土真宗と曹洞宗と三昧について

    海、舟の喩えが多用されるのは、海印三昧、般舟三昧など、初期浄土教経典にもやはり由来しているのであろう。大智度論にも多い。三昧、念仏→往生、見仏という三昧行、念仏行のあり方を、念仏→法性(仏性)往生としたのが、親鸞聖人であると言える。ならば、道元禅師の坐禅→見仏、坐禅→仏性とも、要は似通った論理とも言える。もちろん、他力と自力での歴然とした差はあるが、、法友の愁いにそんなことを考えた朝である。生死の苦海ほとりなしひさしくしづめるわれらをば弥陀弘誓のふねのみぞのせてかならずわたしける浄土真宗と曹洞宗と三昧について

  • 禅宗と法華懺法と三昧行について

    禅宗と法華懺法が結びつかないと思われがちだが、常行三昧行は、天台摩訶止観に由来し、三昧行の狙いは、見仏(→授記)にあります。念仏三昧行も見仏(→授記)を目的とするわけである。つまり、三昧行は、止観、禅定の完成へ向けた行であると共に、見仏、実質的には、往生へ向かうための補完と言えるわけであります。法華懺法が彌陀念仏とセットになるのも、やはり見仏、往生のためとなります。臨済宗が、浄土教と近接した関係となり、在家葬送において引導を極楽とするのも、この台密の法華懺法の影響が考えられるわけであります。しかし、一方で、臨済宗は見性、つまり、如来蔵の見性を目的とする己事究明に止観の主眼を置くのでもあります。要は、止観、禅定は、見仏を自分自身の如来蔵へと向けて行うと言い得るものとなり、阿弥陀如来や弥勒菩薩、他の如来、菩薩...禅宗と法華懺法と三昧行について

  • 栄西禅師が定めた日常勤行について

    栄西禅師が定めた日常勤行にて早い段階から建仁寺では、南宋の禅林と同様に、朝課、楞厳呪・回向昼課、楞厳呪・回向晩課、安楽行・法華三昧・極楽誓願真言・止観の修学坐禅、寅申巳亥(午前3時~5時、午前9時~11時、午後3時~5時、午後21時~23時)と定め置かれている。晩課の内容が少し不明だが、天台・延暦寺で行われていた法華懺法・弥陀念仏が想定される。今の臨済宗では、法華懺法の名残は全くない。法華経となれば、毎日、観音経を読誦するぐらいである。真言を修学の対象としていたのは驚きである。もちろん、今の臨済宗では僧堂において真言、梵字、密教を学ぶことはまずない。止観については、天台摩訶止観を学んでいた可能性が高いが、これも今の臨済宗ではまず学ぶことはない。現在の僧堂で「学ぶ」こととなれば、各法事の作法、所作はもちろん...栄西禅師が定めた日常勤行について

  • 葬儀における献茶・献湯について

    この前、市外での公益社さんの会館で葬儀導師をお勤めさせて頂いた際に、他の葬儀社では最近、霊前へのお供えで見られなかった献茶、献湯がきっちりとあった。入龕、龕前、鎖龕、起龕、山頭に次いで、本来であれば、献茶、献湯を行って、秉炬佛事に入る。一般葬送において、葬儀会館では、献茶、献湯は役僧不足や準備の関係からも省略されることが大半であり、拙生もそうである。また、事前に会館への指示で、葬儀式では、霊前に献茶、献湯をお供えしておいてほしいということも今までは無かったのである。本来は別れの贐のため重要なものであるだけに、公益社さんの配慮を見て、改めて考えさせられることになった。恐らくは、定型のお供えとなっているのか、昔に導師からの指示で、それが通例となったのではないかと思われるのである。やはり、老舗の経験による差が出...葬儀における献茶・献湯について

  • 総持寺(能登・祖院)と加賀藩・前田家と南朝について

    総持寺を庇護した加賀藩、前田家は、もちろん、南朝である。そのため、南朝勅願所である総持寺を厚く庇護するのは当然であったわけなのである。前田家は、菅原道真を祖とする美作菅一族の出自であり、美作菅党は、後醍醐帝に従った一族で、室町時代、山名教清によって美作に入ることになった小倉宮良泰の子、尊義親王、尊秀親王に仕えることにもなり、以後、美作後南朝を支えることになるのである。その菅党から、やがて尾張へと移り、織田信長の家臣となったのが、前田利家である。前田利家は、豊臣政権の五大老にあり、当然に、利家の子、利長は、豊臣秀頼の後見と目されていたものの、利家の死後は徳川家康に協力することになり、関ヶ原の戦いでは、当然に南朝勢力である東軍に味方することになるのである。また、利長の次に藩主となった利常が、家光に警戒された背...総持寺(能登・祖院)と加賀藩・前田家と南朝について

  • 臨済宗と曹洞宗における台密・密教の影響について

    初期臨済宗で楞厳呪がどのように誦されていたのかを調べてみたが、最後の偈頌、八句陀羅尼は見当たるが、全会が読誦されていたかどうかは今のところまだ分からない。結局、修法の中心は、やはり台密法式である。つまり、台密に禅を中心と置くか、禅に台密を補完するか、であって、栄西禅師の台密葉上流(建仁寺流)、栄朝流が、初期臨済宗では主流であったようだ。九条道家開基、円爾禅師により臨済宗に改宗した往生院も、円爾禅師の流れとなることから、台密栄朝流による修法が中心となっていたと推測できることになる。ならば、唐招提寺に伝わった往生院にあった鎌倉期の戒体箱は、もしかしたら、この時に円爾により調えられたものであるのかもしれない。これは新しい考証となりそうである。栄西禅師から学んだ覚心禅師が三時勤行を定めているが、仏頂尊勝陀羅尼、宝...臨済宗と曹洞宗における台密・密教の影響について

  • 禅宗で楞厳呪を読誦する理由について

    禅宗では、釈尊に関する法会や主要行事において、真言、陀羅尼である楞厳呪を多用して誦すわけですが、その理由についてはあまり知られていない。一番には、もちろん、修行増進のためとなる。特に、禅定の三昧の完成へ向けてである。だから、禅宗で重用されることになったわけであります。要は、正しい持戒と正しい禅定により、正しい智慧の完成へと向かうためということになり、その障りとなるものを排除し、如来のお加持を頂くために修するのである。その如来のお加持には、悟りへと向けた見仏と授記の利益を得ることも当然に含んであるわけです。短く、最後の偈頌、「オンオノリー〜」のみを唱える場合もありますが、本来は、大悲呪もそうであるが、本格的に修する場合、密教と同様に曼荼羅道場を設け、結界を布いて、儀軌どおりに、全体を三週間かけて、何万回と唱...禅宗で楞厳呪を読誦する理由について

  • 葬儀における引導について・秉炬仏事・法炬・下炬について

    昔の葬儀における引導は、火葬場の龕前堂にて行われていたのであろう。入龕念誦、龕前念誦、鎖龕念誦、起龕念誦、山頭念誦→葬列、龕前堂へと移動→法語、引導(法炬投下)→下炬(火葬)が、本来の正式な流れであったのだろう。山頭念誦はまさに別れの表白であるから、出棺の贐となるわけである。「〜茶三点を傾け、香一炉に焚いて、雲程に送り奉りて〜」現代では、法語の前に法炬、下炬があるということは、もともとは、火葬点火後→引導法語ということであったのかもしれない。いや、黄檗引導の故事は、引導法語→法炬投下だったであろうか?法炬投下→引導法語だったか?法炬投下→引導法語→下炬または、引導法語→法炬投下→下炬が正しいことになるのかもしれない。つまり、松明は二回使わねばならないということなる。ならば、二つ用意して、一つは投下、もう一...葬儀における引導について・秉炬仏事・法炬・下炬について

  • 近世公家(鷹司家)の葬儀の流れ・満中陰まで

    近世公家(鷹司家)の葬送の記録がなかなか興味深い。鷹司兼煕公の葬儀、満中陰までの記録がある。戒名、院号(通例、戒名は天皇、摂関家は院号のみ)を三宝院に頼むも、突き返して、自分たち(身内に僧侶関係も多い)で(心空華院と)付けている。20日に亡くなって、23日に通夜、入棺。24日に出棺。25日〜27日は、そのまま二尊院に安置されていたのだろう。28日に送葬行列とあるが、実質、引導、焼香とあるため、葬儀が28日であることがわかる。死後1週間後である。龕前堂は火葬場にある建物であり、火葬場への送葬後、龕前堂にて葬儀が営まれる感じであったのだろう。火葬、収骨を終えて戻り(二尊院)、七ヵ日法事が勤められている。七ヵ日法事は、七日間、毎日勤めるものであるようだ。七ヵ日法事とはどのような法事であったのだろうか。そして、初...近世公家(鷹司家)の葬儀の流れ・満中陰まで

  • 葬儀・葬式、弔いのあり方について

    最近、お葬儀を新興の葬儀社さんのところにてお勤めすることが多くなってきているが、やはり、老舗の方が、細かい配慮が行き届いていると感じることが多々である。特に、公益社さんは、老舗の中でもそのように感じることがある。もちろん、それぞれの会館でのスタッフさんの器量、質次第ということにもなるが・・個々人の経験、意識の差で、かなりの開きがあると感じる・・新興のところは、都度都度での(寄せ集め)チームみたいなカタチとなり、ギリギリで人を回しているようなところもあるから、常に何だか余裕がないように感じる・・「弔い」が確りとできるかどうかは、亡くなった方自身にとってはもちろんのこと、遺族にとっても大切なものとなる。取り返しの付かないことであるため、「悔い」の残るようなものとなってはいけない。今や、葬儀は、簡素化、省略化の...葬儀・葬式、弔いのあり方について

  • 護良親王の最期・・

    今回は護良親王を取り上げて頂けている。護良(もりよし)親王と楠木正成は互いに信頼し合っていた憂国の同志。足利尊氏による後醍醐帝への策略諫言に騙されて護良親王は追い落とされてしまう。同時に楠木正成は全ての官職を辞任して抗議の意を示すが、後醍醐帝との信頼関係にも大きなヒビが入る。足利尊氏が再起を図り京へ向けて侵攻を開始。楠木正成には十分に尊氏の侵攻を止める策略があったが、後醍醐帝に採用されず、不仲であった新田義貞と共に楠木正成は湊川で不利な戦いに挑み、壮絶な最期を遂げるのである。誠に無念である。護良親王の最期・・

  • 南木会趣意書の意義は大きい

    江戸時代の往生院の歴史で、幕府からではなくて、松平信平の個人からの朱印拝領が明らかになったのは本当に大きい。また、大きな銅製の仏像があったことは初めて知った。江戸時代の往生院の歴史は、檀家総代であった池島村の庄屋、富家家の古文書に詳しくあったはずながら、明治期の寺院をめぐる混乱で散逸、滅却したようである。だから、江戸期の歴史も断片を他の資料から知るだけで、詳しくは分からないのである。地租改正による上知令での寺領没収に、神道国教化に伴う神仏分離令による廃仏毀釈、これらにより往生院も寺院放棄の波が押し寄せたのであろう…本尊など木製の仏像や仏具などの売却は免れたが、金属製の仏像や仏具は、ことごとく売り払われたことが記されてある。大きな銅の仏像の全容も謎である。しかし、なんとも罰当たりなことではあるが、そのような...南木会趣意書の意義は大きい

  • 葬儀での引導法語について

    随分前に聞かれたことに、引導法語について、どう組み立てるのか、であるが、その一定のあり方、形式は決まったものがあるわけではないとは思う。当然に宗派によっても異なるし、日蓮宗さんや真言宗さんは長文丁寧であると感心することがある。一方、臨済、曹洞は、漢文調を好み、簡素と言えば簡素である。特に僧侶の葬儀では、法語を七言絶句のみを調える場合がある。平仄式(ひょうそくしき)で、平字、仄字、平仄外字とルールがあり、また、起承結では七文字目を韻で踏まないといけない。在家でも正式な葬儀法語となると、偈頌、法名、腹句、一字関、落句となるが、最近ではそこまで調えられることはあまり無くなってしまっているように思う。わかりやすく、書き下しで、現代語で、簡潔に、となりつつあるだろう。もちろん、一から全てを調えるのは、並大抵ではない...葬儀での引導法語について

  • 「新しい領解文」騒動、現総局の情けない他人事感・・

    最後に公文名総務のあいさつでは、「SNS時代で誤情報がすぐに広がっていく。それがまるで真実であるかのように受け取られる。混乱の原因はそのようなところにあると思う。某新聞でも、ちゃんと確証をせずに情報を載せていたものも多々あったのではないかと思っている。」という意を述べました。反対、混乱をネットや某新聞のせいにしている時点で、まだ他人事みたいなのが、本当に呆れる。どう取り繕おうとしても、間違いは、間違いであり、門主、前総長、前総局の間違い、責任であろう。かの大恥論文もまだ配布しているとは、呆れを通り越して、もうウケる。まあ、上記の他人事のように、本人たちは、宗派のお金で地方を回って、泊まって、温泉入って、美味しいものが食べれてラッキーとか程度な感じでもあるのだろう。まるで親鸞聖人への申し訳ないという気持ち、...「新しい領解文」騒動、現総局の情けない他人事感・・

  • 川口蓮海(怒濤・宏)文学と往生院

    泉南の大雄寺近くに居を構えていた際には、このエピソードを鑑みると浄土宗に傾向していたことが窺える。浄土宗大雄寺の住職であった豊島妙澄尼の娘と再婚し、そして、やがて不思議にも往生院入寺の話が来ることになる。やはり、川口家が南朝ゆかりにあったことからであろうか。その前にいた久米田寺は、もちろん南朝ど真ん中の一つではあったが、、新聞社を辞めた後は、文筆家として放浪されることになるが、往生院入寺まで、南朝について意識されていた節はほとんどなさそうである。もしあれば、著作において必ず何か触れているであろうからだ。どうもそれはないみたいである。しかし、先祖の因縁からなのであろうか。南朝ゆかりを転々とされていたようにも思える。大雄寺もすぐ近くの地名に楠畑とあるように楠木家の所領地の一つであったのであろう。楠木正成の家臣...川口蓮海(怒濤・宏)文学と往生院

  • 浄土教の基本となる考え方と浄土真宗について

    先のポストの続きとして・・信心(領解)の度合いは、やはり個々人それぞれで当然に様々となります。また、彌陀の救いは平等に垂れられてあるものですが、何をもって救いとするのかも問われるところとなります。見仏と授記、大乗仏教ではこの二点が、悟り、涅槃へと向けての必須となります。如来の救いとは、この二点を我々が頂く、頂けることを意味するものと考えることができます。(浄土教では、如来在世となる阿弥陀如来の浄土にて、阿弥陀如来との見仏と阿弥陀如来からの授記を頂くために、極楽への往生を目指すという教えが基本となります。)阿弥陀如来の極楽世界も一仏国土として膨大で、三千大千世界を有しており、報土、化土、穢土等も有するところとなりますが、如来在世であるため、見仏と授記は可となってあると言える世界であり、穢土上であっても応身の...浄土教の基本となる考え方と浄土真宗について

  • 浄土真宗における本願疑心について

    本願疑心は、当然に信心獲得、信心決定していないわけであるから、浄土真宗の(目指すべき)往生(先)からは外れるものとなる。問題は、では「弥陀の救い」は、疑心者に頂けなくなるものかどうかである。このあたりは非常に微妙な問題となる。拙生は、弥陀の救いは、誰にも平等に頂けるものであるが、その本願を受けるこちら側のありようにおいて、その救いのありよう、救いの度合いも当然に異なるものになる、というのが拙見解となります。要は、往生先が異なるということです。法界・法海、報土、化土・応土、穢土、諸々の天界、その他の浄土などと。親鸞聖人の目的とされる往生先は、上記の中でも特に最上となる法界・法海(真実報土)を想定されておられるものと言えます。本願疑心は、その想定先(の往生)からは外れてしまうと考えると良いのではないかと思うわ...浄土真宗における本願疑心について

  • 「新しい領解文」の功罪・・

    とにかく、「新しい領解文」を改悔批判で使用したという汚名は、もう歴史から消せない事実となって残ってしまうことになってしまった・・拙生としてはそれだけは何としても止めねばと、12月にできるだけのことで最後にしたのではあったが、虚しくも力及ばずであった。親鸞聖人に大変申し訳ないと拙寺のご自作坐像に平身低頭三拝九拝である・・いずれにしても、西本願寺・本願寺派は大恥、汚辱を歴史に刻んでしまったわけである。江戸期の異安心、惑乱ならば、世間に対してのイメージとしてはさほどの影響はなく、また世間もそんなに関心なかったことであったろうが、現代のネット時代、ニュースは世界中の隅から隅に行き渡り、更にデジタルデータとして消されずに残るだけに、もはやそのマイナスイメージは江戸期とは比にならない計り知れないものであるだろう・・「新しい領解文」の功罪・・

  • 往生院、先々代、川口蓮海(宏・怒濤)について

    往生院、先先代、川口蓮海(宏・怒濤)はいわゆる秀才である。寺史にまとめられてある来歴は墓誌に刻まれてあるのとは若干異なるところもあるが、桁違いな文才があったことがとにかく分かる。小説、童話、または戯曲まで、幅広い執筆活動である。戦後にその著書群を顧みる者がなかったため、いまだ世に埋もれたままとなってしまっている。お寺のどこかには、元原稿や印刷物などが保管されてはあるのだろうが、敢えて本格的に調べないと出てこないだろう、、いずれ私が調べ出して、全集として発行してみるのも良いのかもしれないが、、その中でも仏教小説にはかなり興味がある。一覧は大正12年までのものだが、昭和初期の「輪廻」という長編宗教小説は特に高い評価を受けていたようだ。晩年は、時代の流れに抗えずに楠公道場、菊水寮での錬成、学童疎開受け入れに精魂...往生院、先々代、川口蓮海(宏・怒濤)について

  • 四條縄手の合戦について

    先先代が、陸軍少尉に頼み、四條縄手の合戦について考察してもらっている。言わば、戦闘のプロに頼んだわけである。陸軍幹部から見ても、四條畷市の四條畷付近が本戦地であったとは考えにくいと思われている。特に陣容図にあるように、拙生は、佐々木道誉軍が、暗峠から侵攻してきているのに、大軍が控えてある野崎付近まで前線を伸ばせるわけがないと考えるのである。上四条が最大の激戦になったのは、鷲尾山城、興法寺砦、慈光寺砦、古神感寺城と落とされてしまい、とにかく、砂山城、客坊城、往生院城は死守せねばと正行軍が奮戦したからである。丁度、上四条一帯が、暗峠から下ってきた佐々木道誉軍を向かえ討つ防衛の最前線となったのである。上四条が、砂山城、客坊城、往生院城の中間点でもある。だから、そこから人骨、武具等が大量に出土しているのである。も...四條縄手の合戦について

  • 松平信平公と徳川家との関係について

    南木会の趣意書は、前にも一通り読んだつもりになっていたが、その際には「信平」の名前に注目することはなく、鷹司信房により再興されたが、明治には廃仏毀釈で、当時の政譽住職が大変な目にあっていたのだな程度であった。数日前というか、前日のこの考察がなければ、また見過ごしていたかもしれない。信平は、家光の正室、鷹司孝子が姉にいたことから、幕府において旗本として取り立てられるところとなっている。妻は、徳川頼宣の娘である。家光は、徳川頼宣や松平忠輝など、家康の子どもらが美作後南朝支持者にあることは重々に知っていた上で、30万の兵をもって上洛し、後水尾天皇から譲位を受けた美作後南朝高仁天皇を廃位させ、明正天皇を即位させたのである。信平の父、信房が、信長と共に、南朝支持者となっていたことは、信房が往生院後中興開基になったこ...松平信平公と徳川家との関係について

  • 毎月5日・小楠公月忌・四條縄手の合戦について

    5日、小楠公月忌旧暦なら四條縄手の合戦は、丁度この頃になる。一番寒い時分である。松平信平公、ちゃんと毎月供養滞りなくお勤めしておりますよ。もう拙生で休まず25年以上になります。しかし、南木会趣意書を読むと、四條縄手の合戦は、今の四條畷市の四條畷神社付近ではなく、河内六万寺村の四條、縄手であると、何度も強く訴えている。まあ、当時、あの辺りは北朝勢力圏であり、そこまで僅かな手勢で攻め寄せることはまずあり得ない。今の水走、石切神社、枚岡神社附近までが南朝の防衛勢力圏だったのである。普通に考えれば、本陣の往生院から、北朝勢力圏のあそこまでたどり着けるわけはないのである。Wikipediaの四條畷の合戦の説明は、あまりにも主張が偏り過ぎている。かなり意図的でもあるのだろう。楠木正行公の胴塚も、鷹司信房公がその荒廃ぶ...毎月5日・小楠公月忌・四條縄手の合戦について

  • 大発見!! 鷹司松平家・松平信平と往生院との繋がりと美作後南朝について

    まてよ、、よく読めば、鷹司信房の子、鷹司松平家の「松平信平」の名が、、きた!後南朝と繋がる。信平の妻は、紀伊徳川家、徳川頼宣の娘。頼宣は、もちろん、美作後南朝(影の)後見者。慶安事件、承応事件の(影の)首謀者。その信平が、往生院に、楠木正行のお墓をしっかりと祀り供養するようにと、永世壹百拾參石の朱印を与えている。往生院歴史にあった幕府より授かった朱印とは、この信平からであったのだ。ちゃんと読まないと。繋がったか。信平の子、信政の妻は、美作津山藩、森長継の娘、大姫である。松平信平と往生院、そして、美作後南朝がここで繋がるのである。更に精査しないと。・・100石が今の1000万ぐらいの価値だから、年1000万ほどを永世に保証されたということである。それも松平信平の加増された禄からのようである。つまり、信平のど...大発見!!鷹司松平家・松平信平と往生院との繋がりと美作後南朝について

  • 明治期の往生院・南木会・鷹司煕通との関係について

    次に、明治になり往生院の歴史に登場することになる鷹司煕通のことであるが、楠木正行の墓所を本格的に整備して、陵墓とする計画が突如として沸き起こるのであります。南木会の創設であり、その会長に鷹司煕通がなります。明治時代の往生院は、廃仏毀釈の影響もあって不安定な中、無住となったりしており、すっかりと本堂は老朽化著しく、境内も荒れ果ててしまいます。大正14年に川口蓮海が入寺するまで、一時、村の管理となりました。そのような中で、ある意味、寺運に恵まれるような話が突然に起きるわけです。小楠公墓所整備と共に、お寺の再興もと。しかし、この南木会は結局、頓挫してしまうことになります。まあ、もしも話が進んでいたならば、現在の四條畷神社と同様の神社となっていた可能性もあったわけです。小楠公神社の一角のお寺になるという感じです。...明治期の往生院・南木会・鷹司煕通との関係について

  • 楠木正成公、正行公の戒名について

    拙寺の楠木正行公のお墓は胴塚に建てられてある五輪塔になるが、五輪塔には残念ながら銘は確認されていない。もちろん、その台座下に経筒があり、経文や五輪塔建立由来などが納められてある可能性は高いが、いまさら確認などはできない。隣には、江戸初期、鷹司信房開基、後中興浄泉和尚開山の浄土宗往生院成立の際に、楠木正成の供養塔が板碑で建立されており、その銘には、位牌と同様に、「雲光寺大円義龍居士」と彫られてあることが確認できる。となれば、楠木正行の戒名も本堂に祀られてある位牌のとおりの内容として供養されていたのだろう。現在、毎月5日に供養しているのも、この位牌の戒名にてである。正行の他のお墓で、首塚となる宝篋院の五輪塔には、梵字以外には銘がなく、戒名は確認できない。他にも幾つか正行のお墓と伝わるものもあるが、戒名は確認で...楠木正成公、正行公の戒名について

  • 鷹司信房と美作後南朝について

    少し前の考察で、美作後南朝における高仁天皇に関して、後水尾天皇譲位→高仁天皇即位→家光介入→即廃位→明正天皇即位における経緯もそうだが、「本能寺の変」にて、二条御所にいたのが、美作後南朝の「尊道親王」であったとした説も挙げましたが、これらのことを朝廷内にて最も知れていた人物こそが、何よりも鷹司信房であったわけです。そもそも、二条家から鷹司家の養子に入るように促したのが、信長で、信の字を与えられるほどに信認が厚かったのが、信房であったわけです。余談ながら二条御所も、二条家の屋敷を信長が改修したものであります。信長が二条家とも深い結びつきにあったことが窺えます。信房は、正親町天皇、後陽成天皇と仕えるわけですが、93歳まで高齢ながら権威を長らく保っていました。往生院の再興開基となったのも最晩年になります。その再...鷹司信房と美作後南朝について

  • 天皇の戒名と公家の戒名について(本地の菩提寺ではない場合)

    天皇の戒名は、本地の菩提寺ではない場合、基本的には神儀であるため、戒名をお祀りする場合は、基本は院号のみとなっている。後陽成院、後光明院と、拙寺では二柱のみ現存してある。また、皇后も院号のみであることが分かる。中和門院は、後陽成天皇の皇后、近衛前子である。一方の摂関家では、本地の菩提寺ではない場合、院殿、最終の官位、殿下となっている。(拙寺は、九条家、鷹司家の菩提寺ではあったが、本地の菩提寺ではない)鷹司信房公も後法音院殿従一位殿下となっている。このあたりの違いや、僧侶の戒名の違いなどを調べるとある一定の形式のあることがわかる。僧侶の場合など位号が、和尚、大和尚、大徳、僧正、大僧正など色々であり、宗派によっても位号が様々である。天皇の戒名と公家の戒名について(本地の菩提寺ではない場合)

  • 楠木正成公、楠木正行公の戒名について

    ちなみに、楠木正成、楠木正行の戒名には諸説あるが、正成の「大圓義龍」と正行の「雲山升龍」はほぼ同じであるものの、院号が違うことがある。正成の「雲光寺」が「霊光寺」、正行の「大光寺」が「文光寺」だったり、更には、寺が院であったり、または、道号の雲が霊であったりと、、あるいは、殿がつけられてある場合なども。居士が、卍堂、仏海、仙海なども。卍堂は意外である。拙寺の位牌は江戸前期であると思われるため、オリジナルとは言えないかもしれないが、戒名の変遷を調べてみると案外面白いのかもしれない。例えば、墓石に彫られてある戒名からの写しまちがいで、霊が雲になったとか、文が大になったとか、普通にありえそうだ。楠木正成公、楠木正行公の戒名について

  • 後南朝・小倉宮家の御供養

    昨日にポストを見られた方から、小倉宮家の御供養をお願いしますと、岡山のとある方から。ならば、南朝、後南朝も改めて御供養することに致します。後南朝・小倉宮家の御供養

  • 「天台宗の寺で性暴力被害」音声テープの内容と親鸞聖人の「夢告女犯偈」について

    「天台宗の寺で性暴力被害」尼僧が僧侶と大阿闍梨の懲戒申し立てhttps://www.asahi.com/articles/ASS105CY4S10UTIL00W.html音声テープの内容は、親鸞聖人の夢告女犯偈「行者宿報設女犯我成玉女身被犯一生之間能荘厳臨終引導生極楽」を僧侶A(大阿闍梨Bではなく、大阿闍梨の弟子)が援用して、観音菩薩の代わりとなって、性の悩みで訪れる者(僧侶)たちとエッチしてあげなさいと述べているものではないかと、、そんなむちゃくちゃな、、親鸞聖人は、もう往生が予定されたレベルにまで境地、信心が至られてあったからこその夢告であると解されてあり、そこまでに至れてない僧侶はもちろん、簡単に破戒が許されるものではなく、ましてや、菩薩の境地にもない普通の者、尼僧に、観音菩薩の代わりになって、僧侶...「天台宗の寺で性暴力被害」音声テープの内容と親鸞聖人の「夢告女犯偈」について

  • 「天台宗の寺で性暴力被害」 尼僧が僧侶と大阿闍梨の懲戒申し立て

    千日回峰行を成満されたからといって、周りが何か特別であるかのように神格化するのは愚かなことであり、また、その神格化に惑わされてもいけない。天台宗の高僧が、アドヴァイタ、ノンデュアリティに利用されていた例もある。「新しい領解文」も結局はアドヴァイタ、ノンデュアリティに利用された一つの現れであるとみている。共通しているのは、無知である。仏教の基本を学んでいない無知ということもあるが、間違った空の解釈を根拠として、仏も凡夫も、悟りも煩悩も同一、同列に扱う愚である。もう一つは、同じく間違った空の解釈を根拠として、一切は幻なるものとして、煩悩も悪業も関係ない、もともと無いなどと始末する愚である。浄土真宗の正しい信心のあり方を蝕む「新しい領解文」は、見真大師の御影に泥を塗ったが、天台宗、伝教大師の御影に汚い泥を塗った...「天台宗の寺で性暴力被害」尼僧が僧侶と大阿闍梨の懲戒申し立て

  • まだ配布しているとか・・満井論文・・

    大きな間違いを晒しておきながらも「議論の余地なし」と大恥の満井論文『なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか』、桂紹隆先生にちゃんと謝罪して、当然に配布も辞めているのかと思っていたが、まだ配布しているとは・・他の勧学や総合研究所のこれまでの功績をも著しく貶める愚行中の愚行・・誰か本当に早く気づかせてあげてほしいものです・・哀れすぎる・・まだ配布しているとか・・満井論文・・

  • 往生院金堂跡・ご歴代尊位並びに中世戦乱犠牲者御供養

    朝から往生院金堂跡へ、ご供養に赴いた。五輪塔の破片と思わしき石群を住職にも確認してもらい、加工の跡、断片等から間違いなく五輪塔の一部であるとして、幾つかを現在の歴代供養塔のところにお祀りして、今後供養していくことになった。一帯を掘れば、おそらくもっと断片も出てくるであろうが、大阪府史跡指定地、埋蔵文化財包蔵地であることから、勝手に掘ることは当然にできない。(地権者には、露出してある瓦、石等は資料として提供を頂ける許可を頂いている。)やはり、この五輪塔は、安助上人をはじめとした歴代尊位の供養塔であった可能性が高く、このことを(中興五代目・浄興和尚から)教えて頂いたのだと思われるのである。そして、このあたりは、金堂裏における墓域として、中世戦乱犠牲者方の埋葬、供養もされてあった場所だと考えられるのである。前回...往生院金堂跡・ご歴代尊位並びに中世戦乱犠牲者御供養

  • 閑院宮家の創設と美作後南朝の小倉宮家廃絶とは密接な繋がりがある

    先ほどのポストの湛如上人の室が、閑院宮直仁親王の長女・始宮であるが、この閑院宮家の創設には、実は、美作後南朝の小倉宮家廃絶とも密接な繋がりがあるのである。徳川幕府は、慶安事件、承応事件、明暦の大火を受けて、後南朝勢力の恐ろしさを目の当たりにしたことから、綱吉の代にての改易の嵐にて津山藩森家を筆頭として南朝勢力を徹底的に追い落とすと共に、いよいよ小倉宮家を廃絶させ、代わりに親幕府であった東山天皇の流れとなる閑院宮家を創って、没収した小倉宮家の財産をそのまま新しい宮家に充てたとされています。閑院宮家は、言わば幕府直属の宮家なのであり、以後、朝幕関係の緩衝を担うことになるのである。そのため、幕府により閑院宮家から天皇となった光格天皇、仁孝天皇、孝明天皇は、当然に親幕府よりであったわけです。結局のところ、維新派に...閑院宮家の創設と美作後南朝の小倉宮家廃絶とは密接な繋がりがある

  • 安助上人以降、江戸期(後中興)までの入寺の僧侶について

    明日に往生院金堂跡へ供養に赴くにあたって、慎重を期すために、お出ましになられた第五代とされる浄興さんについて資料等を改めて調べてみるが、もちろん、どこにもそのお名前は見当たらない。安助上人以降、江戸期までにおける寺史上にお名前のある方の位牌は、新しくして祀られあるのが四柱。安助上人、東福寺開山の円爾禅師(臨済宗往生院の整備来山)、夢窓疎石の弟子、黙庵禅師、そして、熊王丸こと正寛法師である。あとはこれも新しいものになるが、歴代を供養するための笠塔婆供養塔、宝篋印塔、五輪塔、どこを調べてもお名前はない。念のために江戸期の無縫塔、位牌も調べたが、もちろんない。ただ、先代は、正寛法師を中興第四世としている。ならば、その次の方となるのかもしれない。とにかく、正寛法師のあとの方になるとみてよいのだろう。とすれば、室町...安助上人以降、江戸期(後中興)までの入寺の僧侶について

  • 西本願寺・本願寺派16世・湛如上人の一説ご自害の裏について

    西本願寺・本願寺派16世・湛如上人の一説ご自害の裏についても、拙生は額面どおりには捉えていない。理由としては、皇家から降嫁(閑院宮直仁親王の長女・始宮)を受けているわけであり、その相手方である湛如上人を自害に追い込むことはあり得ないと思うのである。皇家に対する不敬にもなるわけで、門跡寺院でもあったのだから、尚、おかしいと思うのである。また、病気平癒を室が神祇祈願したためという理由だけで、日渓法霖和上・能化(勧学)が、室にではなく、門主に自害を勧めたというのもやや行き過ぎ感が否めない。日渓法霖和上・能化は、室を責めたが、その室の代わりに責めを負って、病気が重いこともあり、自らで自害したというのが本当のところではないだろうか。湛如上人に異安心があったとはやはり思われないのである。能化は室を責めたものの、門主が...西本願寺・本願寺派16世・湛如上人の一説ご自害の裏について

  • 御開山・安助上人以降、江戸期までの歴代尊位の供養について

    明日に往生院金堂跡へ供養に赴くにあたって、慎重を期すために、お出ましになられた第五代とされる浄興さんについて資料等を改めて調べてみるが、もちろん、どこにもそのお名前は見当たらない。安助上人以降、江戸期までにおける寺史上にお名前のある方の位牌は、新しくして祀られあるのが四柱。安助上人、東福寺開山の円爾禅師(臨済宗往生院の整備来山)、夢窓疎石の弟子、黙庵禅師、そして、熊王丸こと正寛法師である。あとはこれも新しいものになるが、歴代を供養するための笠塔婆供養塔、宝篋印塔、五輪塔、どこを調べてもお名前はない。念のために江戸期の無縫塔、位牌も調べたが、もちろんない。ただ、先代は、正寛法師を中興第四世としている。ならば、その次の方となるのかもしれない。とにかく、正寛法師のあとの方になるとみてよいのだろう。とすれば、室町...御開山・安助上人以降、江戸期までの歴代尊位の供養について

  • 南北朝時代以降、不可解な歴史のエアポケットには、間違いなく美作後南朝が至るところに絡んである

    ちなみに、「承応の変」で捕まった戸次一党の詮議においては、紀州藩(徳川頼宣)、尾張藩(徳川光友)、岡山藩(池田光政)、鳥取藩(池田光仲)と共謀して謀反を企てていたとして、特に池田光政を筆頭としての幕府転覆計画であったと暴露されているものの、証拠も不十分で、結局は徳川頼宣の蟄居継続以外、目立ったお咎めはなしとなっています。もちろん、この背後に美作後南朝朝廷の存在があることは容易に想像できるわけであります。池田光政が筆頭と挙げられたのも、何も偶然ではなく、池田光政が楠木家(正行)の子孫として、南朝方全体に認識されていたからであります。悲願の後南朝・高仁天皇の再即位(一回目の即位はもちろん歴史上から抹殺されている)へと向けた明らかな動きが、慶安の変、承応の変、明暦の大火であったわけです。このように色々とその痕跡...南北朝時代以降、不可解な歴史のエアポケットには、間違いなく美作後南朝が至るところに絡んである

  • 「慶安事件」・「承応事件」・「明暦の大火」と美作後南朝について

    由比正雪の乱後の残党による反乱蜂起が、「明暦の大火」であると述べたわけですが、もともとの未遂に終わった由比正雪の乱である「慶安事件」は、ただ浪人たちの不満による蜂起の未遂と、日本史で習うのが、まあ、普通なわけである。「明暦の大火」の歴史の謎について・由井正雪の残党たちによる反乱蜂起説https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/b09e1540fe4492e3fa8e23fb92eda29fしかし、由比正雪が橘姓を名乗り、楠木正辰創始の南木流軍学者で、南朝正統主張論者であったことまで習うことは、まずありません。そのため、背景を考えずに、ただ江戸に地方から集まった浪人の不平不満に応えて決起しただけと認識されてしまうのであります。しかし、実はそうではなく、美作後南朝の高仁天皇を天皇...「慶安事件」・「承応事件」・「明暦の大火」と美作後南朝について

  • 織田信長と本願寺、本能寺の変と南北朝の関係について

    少し前の考察から、私のところも南北朝時代、または室町時代に南朝方の武将が僧侶となって入寺されて、浄土真宗に改宗した寺院です、と複数の方から教えて頂いていた。やはりそんな寺院は、考察での推測どおりに案外多いのかもしれない。楠木家は、楠木正勝が本願寺派4世の善如から学びを受けているのは有名な話であり、本願寺派8世の蓮如の参謀であった浄賢は正勝の孫であったとも言われている。やはり、南朝勢力は生き残る術として、本願寺、浄土真宗に入り込むようになっていたとも言えるのである。河内において、楠木家の子孫が次々と浄土真宗の僧侶となって入寺したり、開山となったり、中興となったりしたのは、南朝の生き残りの一つの策であったのだろうとして考察したのが先の拙説だったが、河内以外でも多いとなれば、そういう向きが全国的にもあったのだろ...織田信長と本願寺、本能寺の変と南北朝の関係について

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