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千の朝 https://plaza.rakuten.co.jp/beabea65/

「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。

 自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。  これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。  充実して生きる道を探しているのだ。  それが、何にもまして一番重要なことなのだ。  それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。

beabea65
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2014/09/11

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  • 宋の市民文化

    第一に、内外の商業の発展により、 宋時代に多くの都市が誕生し、さかえたこと、 第二に、宋時代も印刷術の発達などによって、 多数の市民がさかんに読書をし、 市民の活動がさかんになっています。 第三に、

  • 宋の市民文化

    第一に、内外の商業の発展により、 宋時代に多くの都市が誕生し、さかえたこと、 第二に、宋時代も印刷術の発達などによって、 多数の市民がさかんに読書をし、 市民の活動がさかんになっています。 第三に、

  • 支那の文芸復興

    宋の都市の繁栄から、 かがやかしい文芸復興が生まれています。 従来の世界史では、 一五世紀末のイタリアで ルネサンス(文芸復興など)が最高潮に達し、 新しい種類の都市生活があらわれたとのべています。

  • 変革の時代

    唐末に軍閥や反乱勢力の争いの焦点となった 政治・経済の中心地は, もはや長安でも洛陽でもなく, 黄河と大運河という交通大動脈のまじわる 汴州(ベんしゅう)の周辺です。 節度使(せつどし)朱全忠(しゅぜん

  • パックス・タタリカ

    元による古代シルク・ロードの復活が玄界灘、 そして東シナ海の彼方で着々と展開され パックス・タタリカ(タタール=モンゴルの平和) が強化されているとき、 日本でもいくどかの政治的紛争や 冷害、疫病、地

  • 宋王朝

    宋代前期(北宋時代)の 首都・開封(かいほう)は、 人口が百万をこえ、 朝から晩まで市内がにぎわっていたのです。 また、宋代後期(南宋時代)の 首都・臨安(りんあん:今の杭州)の 人口は五百万に達したも

  • シルク・ロード

    元は広大なユーラシア大陸に 壮大な通商圏を築きました。 古代以来のシルク・ロードは、 この元の支配下で息を吹き返しただけでなく、 最高の繁栄と最大の安全を保障されたのです。 その西の終点は、 それ

  • コーラン

    《アラーのほかに神はなし》と マホメットがメッカで説き始めた時、 人々には信仰心と血族間の団結心が 旺盛であったにもかかわらず、 はげしい部族間の憎悪、対立がまき起こりました。 彼の家族ハーシム家は

  • 世界史の誕生

    それまで文明世界から遠く離れ 孤立した極限の地が、 大洋が開かれて通商ができるようになると、 あらゆる種類の外国からの海路に対し、 門戸を開くことになります。 西欧と日本の歴史が、 近年におよんで安

  • ペパン

    教会が支配力を失った メロヴィング朝に見切りをつけたペパンの父は、 もっと強力な「信仰の擁護者」を捜し求め、 たまたまトクール・ポワチエの英雄 カール・マルチル(鉄槌(てつつい)公)に 白羽の矢をたてた

  • 匿名問答

    七五一年にイタリアの パヴィアにいた教皇ザカリアスは、 フランク王国の使者から一通 の手紙をうけとりました。 教皇はこれを一読し、会心の笑みをもらすと、 聖庁職員に旅支度を命じました。 その文面は

  • 三つの「上陸」

    エジプトからアフリカ北岸を西へ向かった イスラーム軍は七世紀中に旧ロ-マ領を席巻(せつけん)し、 七二年スペインに渡りました。 上陸第一歩のヘルス・デ・ラ・フロンテラの戦いで、 その地の西ゴート王ロデ

  • ギリシャの火

    コンスタンティノープルでは、 ビザンティンのへラクレイオス帝が 失意のうちに世を去った後、 暗い不安な日々が続いていました。 アラビア人の活動が予言者の死後も 後継者(カリフ)によって結束を強め、

  • イスラームの湖

    勇猛ではあるが意志の弱いへラグレイオスは アヴアール人が城下にせまってくると、 カルタゴヘの亡命を考えました。 この非常時に コンスタンティノープル総大主教セルギオスは 彼をはげまし、 帝国と教会と

  • 偶像と棗の中から

    領土が縮小し、国民は窮乏し、 見るかげもなくなった東ローマ帝国を、 人は哀れんで「ビザンツ」帝国とよび、 旭日(きょくじつ)の勢いをもって発展してきたのは イスラーム教徒のサラセン帝国です。 不毛のア

  • へラグレイオス

    ゲルマン諸族によって 西ローマの地図がぬりかえられたころ、 東ローマの属州では、エスティニアヌスの大達征後、 七世紀前半の東ローマは風雲の中に投げこまれたが、 そこには皇帝へラグレイオス一世がおりまし

  • ブリタニア島

    シーザーの征服以来イングランド一帯は 三、四世紀までにローマ文化の 全盛時代を経験していたが 四一〇年に最後のローマ兵士が撤退すると、 島内はプルトン人、スコット人、ピグト人などの 原住民の掠奪(りや

  • 美しき奴隷

    グレゴリウスの多忙の日常に 片時も彼の頭を去らなかったのは、 あの美しい顔をもつアングル人のことです。 彼はなんとかして ブリタニア島に手がかりを得たい と考えていたがたまたま ジュート人のケント国

  • グレゴリウス

    ローマ総督在任中グレゴリウスはある時、 市内でアングル人の少年奴隷を見かけ、 《アングルとはよく名づけたものだ。 まるでアンゲルのようだ》 とその金髪、白い肌、青い眼をほめたが、 ふと彼らが異教徒であ

  • 宗教界の新風

    当時イタリアは東ゴート人の テオドリッグ大王の支配下にあり、 ラヴェンナに都をおく大王は 東ローマでうけた教養を誇り、 当代随一の思想家ポエティウス、 カッシオドルスなどを顧問とし、 万事ローマ風を規

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