尊氏は好機訪れたとみてとり、 征夷大将軍に任ぜられて時行を討つことを請うたが、 許されなかったので勅許を待たずに東下し、 時行を討って鎌倉を回復しました。 新政権に不平を抱き、 幕府の再興を望む武士
「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。
自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。 これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。 充実して生きる道を探しているのだ。 それが、何にもまして一番重要なことなのだ。 それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。
イスラム教徒が 西アジアを中心に建設した大帝国を 中世ヨーロッパではサラセン帝国とよびました。 アラビア半島西岸の メッカ市に生まれたマホメットは、 自分かってに神さまをまつり、 自分
李治(りち)は、 一一九二年に女真国の都だった 北京で生まれた数学者です。 十代のとき、 チンギス・ハーン率いるモンゴル軍が 支那北部を攻撃して北京を占領したため、 家族は彼を河北省の学
隋王朝の開祖文帝、 すなわち楊堅の父にあたる楊忠は 北周開国の功臣の一人で、 妻は鮮卑の貴族独孤氏の女です。 北朝の漢族官僚と異民族との混血児である楊堅が、 華北における漢族と異族との融
支那の歴史では、 漢帝国が(二二〇年に)ほろんだのち、 四百年ちかくのあいだ社会がみだれており、 六世紀末になって、ようやくひさしぶりで 隋という大帝国があらわれました。 隋は、中華(漢
当時、ユーラシア大陸深部にいた遊牧民 (匈奴帝国が東西に分裂したあと、 西匈奴はさらに南北に分裂しますが、 そのうち北匈奴が西進してきた人々ではないか と言われています)のうち、 西進して
前時代から続いていた寒冷化が 400年ごろに寒期のピークを迎えました。 それにより、すでに寒冷期の中で ギリギリの生活を強いられていた遊牧民は その生存すら脅(おびや)かされるようになり、
前時代から続いている寒冷期は、 5世紀初頭に最寒冷期を迎え 各地で民族移動が起こり、 分裂と混乱がはじまりましたが、 その後は温暖化に向かったため、 6世紀には各地が一斉に統一に向かった時
三世紀から六世紀にかけて支那の漢帝国、 西アジアのパルチア王国、 中央アジアのクシャーナ王国、 地中海のローマ帝国、 インドのグプタ帝国が、あいついで滅亡して以後、 しばらくのあいだユーラ
漢時代と同様、 宋時代には数学者・天文学者. 暦法師・望師がたくさんいました。 一七九九年に出版された『疇人(ちゅうじん)伝』は、 すぐれた数学者を漢時代からは三八人、 宋時代からは二九人
五世紀はユーラシアの東西で 遊牧民が台頭した時代でした。 西のフン族、中央アジアのエフタル、 東の鮮卑(せんぴ)といった、 それまでの時代には”文明の外に置かれた野蛮人” として扱われてい
あぶみは、馬にのるときの足かけに、 馬の背中から腹へさげた馬具の一つです。 紀元後三世紀ごろまでのあぶみは、 固定されてなかったので、 のっていた兵士がよくころげおちました。 それが四
紀元元年前後に、 ユーラシア大陸の各地でさかえた古代的大帝国は、 三世紀以後におなじような事情で つぎつぎにほろんでいきました。 経済事情については、自由競争のなかで、 富裕な人がますま
宋時代に支那人が発展させたもう一つのものは、 海陸旅行用の羅針盤の使用です。 一〇八六年、河渠の監督官の沈括は一書を著わし、 そのなかで、化石や模型地図や金属変成の実例や ふしぎな方向探知
支那は一二三七年にはすでに火器をもっていました。 当時の支那の記録は、 数種の火薬用武器のことを述べていますが、 弾丸を発射する火器のことを最初に引用しているのは、 一二五九年に宋の軍隊が
唐時代の末期までに 火薬が発達していましたが、 火器があらわれたのは宋の末期以前です。 硝石は、支那とインドとでは、 土壌の自然的風化物として産出されます。 硝石のことは、 紀元前第
磁器の製造は、 漢時代の粗末な素焼きにはじまり、 唐で高度な完成を見ました。 六二一年には その製造のための官が設けられました。 手押し一輪車は第五世紀に発明され、 七世紀には、
唐代の玄奘(六〇二~六六四年)が翻訳した 『成唯識論』によって成立したのが法相宗で、 弟子の基(慈恩大師、六三二~六八二年)が 開祖とされています。 支那仏教全体に大きな影響を与えたのが、
ユングの分析心理学によると「こころ」は、 表面に(顕在)意識があり、 その奥に個人的無意識・集合的無意識がある、 という構造になっています。 唯識思想は、 ユングの分析心理学に類似した部分
唯識では成仏には三大阿僧祇劫 (さんだいあそうぎごう: 数えることのできないほどの) と呼ばれるとてつもなく長い時間の 修行が必要だとされています。 修行の結果悟りを開き仏になると、
唯識はインドで成立し、中央アジアを経て、 支那・日本と伝えられ、 さらにはチベットにも伝播して、 広く大乗仏教の根幹をなす体系です。 倶舎論とともに仏教の基礎学として学ばれています。
大乗仏教の中観の教理の基盤は、 般若経の教えです。 この世のすべての現象は、 存在現象も含めて、 原因(因)と条件(縁)によって 生起(縁起)しており、 その現象はそのまま 他の現象
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尊氏は好機訪れたとみてとり、 征夷大将軍に任ぜられて時行を討つことを請うたが、 許されなかったので勅許を待たずに東下し、 時行を討って鎌倉を回復しました。 新政権に不平を抱き、 幕府の再興を望む武士
中興事業に協力した武士の多くは、 幕府に対して不平を抱く人々です。 彼らは幕府を倒すことによって、 自己の地位を安定させ、 さらにそれがよりよくなることを期待したので。 天皇の理想を理解し、 それ
新政権に対する信頼が失われていくときに、 朝廷では、大内裏の造営を計画し、 安芸・周防を料国に宛て、 諸国の地頭にもその費用を課し、 夫役を徴した上に、 期日におくれると それを倍額にして徴収したので
中央.地方の行政機構は整備されましたが、 その施政には不手際が多く、 中興政権はわずか二年で崩壊しました。 新政の成否は、恩賞と土地問題の処理にありましたが、 恩賞の給源としての土地には限りがあるの
後醍醐天皇は伯耆を発し、 途中光厳天畠の廃立を宣言し、 京都に還幸するや、新政を開始しました。 翌年改元した年号をとって、 これを建武中興といいます。 中興政治の理想は、天皇観政を中核とする 公家
後醍醐天皇は隠岐に遷っても譲位の意志はなく、 光厳天皇の在位を認めず、 あくまでも討幕の志をすてません。 護良親王も楠木正成も幕府に抑えられることなく、 親王は近畿地方で活躍し、 叡山の末寺を中心に
正中の変により、 幕府の天皇に対する瞥或は厳重になり、 皇太子邦艮親王薨去後は、 天皇の皇子を皇太子に立てることを拒否し、 量仁親王を皇太子とします。 これで幕府を倒さない限り、 天皇が皇子に位を譲
持明院統の花園天畠のあとを受けて 皇位についたのは、大覚寺統の後醍醐天皇です。 天皇は後宇多天良の第二皇子で、 近臣とともに僧玄恵について宋学を学び、 革新的思想を身につけられました。 即位の初め
幕府の対朝廷策の失敗も 崩壊のきっかけの一つです。 承久の乱後公武両政権の関係は一変し、 治世の君として院政を担当する上皇の決定は、 幕府の手に握られることになりました。 朝廷では、後嵯峨天皇は、
御家人の所領を保護する必要に迫られた幕府は、 一二九七(永仁五)年徳政令を発布して、 御家人所領の質入・売買を禁止し、 すでに売却された土地は無償でもとの持主に取戻させ、 また金銭貸借に関する訴訟は
得宗専制の強化と内管領の抬頭は、 外様(とざま)と呼ばれた一般御家人との対立を生じ、 時宗の死を機として、 一二八五(弘安八)年の霜月騒動となって現われました。 これは幕府草創以来の名家である安達泰盛
1333年7月4日(元弘3年/正慶2年5月22日)に、 元弘の乱で鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇が、 7月17日(和暦6月5日)に 「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したこと により成立した建武の新政でしたが、 鎌倉
元の世祖フビライ・セチェン・ハーンがつくった 北モンゴルから南シナ海におよぶ帝国は、 元朝の中国に君臨した最後の皇帝である 恵宗トゴン・テムル・ハーン(順帝)の治世に その組織が完戊し、 一三六八年か
西方では、 チンギス=ハーンの孫のフラグ=ハーンが 一二五八年にバグダドを略奪し、 ついに東部のアッバス王朝にとどめを刺しました。 フラグ=ハーンは、 タブリーズの南カにある アゼルバイジャンのマラ
火薬と火器は、蒙古人の手をへて 西欧に達したと考えられます。 印刷についても技術的な細目は別としても、 この径路で西欧に達したのです。 ある時期に支那で印刷されたカルタが、 蒙古人の侵入後まもなく
東洋では東部回教君主国を征服し、 支那の宋王朝を征服した蒙古人は、 最初は、アラビア人の場合よりももっと野蛮でした。 しかしかれらは、 征服した人びとから得た文明の水準にまで達しました。 蒙古人が
今日アフリカにはアラブ人の国が樹立され、 すべてイスラーム圏に属していますが、 中部アフリカでもイスラーム教を信奉する国、 あるいはイスラーム教を第一の宗教とする国 がかなりあります。 たとえば、
アフリカだけにかぎりません。 インド北部にも、 一○世紀末からたびたびイスラームの軍隊 (イスラーム化されたトルコ人)が侵入し、 一二○○年ごろ、ついにイスラーム勢力が 北インド全域を占領してしまって
夢窓疎石は一人で坐禅していた時に、 眠気に襲われたので 後ろの壁にもたれて寝ようとしますが、 後ろには何もなくそのまま倒れてしまいました。 思わず大笑いした時、悟りを得ました。 鎌倉幕府が滅亡する
建治元年(1275)に伊勢国で生まれた 夢窓は臨済宗の禅僧です。 9歳で出家し、奈良の東大寺で 仏教経典はもちろん支那の老荘思想を修めました。 20歳の時、夢の中で異人に導かれ、 疎山と石頭という
奥州藤原氏は、 特産品の金や馬で栄えてきた一族です。 源平の争いの間も、じっと静観し、 力を温存してきました。 第3代奥州藤原家当主、 藤原秀衡(ふじわらのひでひら)は 冷静沈着、剛の者と言われ、
保元の乱での天皇側の源義朝は 上皇側の源為義(義朝の父)の 助命を懇願しますが願いは聞きいれられず、 処刑されます。 さらに同じ天皇側であった 平清盛ばかりが厚くもてなされ、 義朝の不信感は高まって
後白河法皇の子、以仁王(もちひとおう)が 平氏討伐の兵をあげたのです。 挙兵後すぐに以仁王は 平氏に負けて亡くなってしまいます。 ところが、 これをきっかけに源頼朝が立ち上がると、 それに呼応して
平治の乱で源氏が敗北した際、 源頼朝は 敵方の嫡男(ちゃくなん・家を継ぐ者)として、 当然処刑されるはずでした。 しかし、「死んだ息子に似ている」との思いから、 情けをかけてほしいと平清盛に懇願した
今様(いまよう)は、 日本の歌曲の一形式です。 今様というはやり歌を、白拍子・遊女が歌い、 流行しました。 庶民はもとより貴族にまで愛され、 宮中の宴会でも歌われました。 後白河上皇も今様を好ま
鎌倉時代に資本主義があったかどうかは 議論の余地がありますが、 鎌倉時代には、 重商主義という考え方がありました。 重商主義とは、国家の富を増やすために、 貿易を通じて金銀を蓄えることを目的とした政
奈良・京都の文化圏から遠く離れた 鎌倉に幕府を置くことにより、 新たに武士や庶民の文化が花開きました。 問注所をつくつたことで土地争いが減少し、 相続には分割制度が採用されて 所領は細分化されました
鎌倉時代、源頼朝が鎌倉殿として 武士の頂点に立ちました。 平氏は朝廷に入り込み、 朝廷を通じて支配しようとしましたが、 鎌倉幕府は、 京都の朝廷、地方の荘園や公領はそのままにして、 幕府と主従関係を
鎌倉時代の特徴として、 公的な歴史書が書かれなくなったことがあります。 『今鏡』『水鏡』『愚管抄(ぐかんしょう)』 などが書かれていますし、 『吾妻(あづま)鏡』という 鎌倉幕府の一貫した流れを書いた歴
義経は壇ノ浦の戦いの後、 都にもどり後白河法皇に官位を与えられたために、 鎌倉の頼朝と対立せざるを得なくなりました。 頼朝は都に兵を送り、法皇を問い詰め、 義経を捕えるために、自分の部下(御家人)を
仁安(にんあん)二(一一六七)年、 平清盛が太政大臣となり、 平氏政権を打ち立てました。 藤原氏にとってかわった政権でしたが、 福原遷都など無謀な動きをして、 没落を早めました。 初めは朝廷のボディ
保元元年(1156年)7月に 皇位継承問題や摂関家の内戦で、 朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、 双方の衝突に至った政変です。 崇徳上皇方が敗北し、上皇は讃岐に配流されました。 この朝廷の内部抗
釈迦の死後が「正法」の時代、 次が「像法(ぞうほう)」の時代で、 最後に来るのが「末法(まっぼう)」の時代です。 この世はもう終わりではないか、 という末法思想がはびこったのです。 十一世紀に入ると政
後三条天皇の後、 天皇に即位したのは白河天皇です。 この白河天皇が始めたのが 院政と言う新しい政治のやり方です。 院政とは、天皇の座を明け渡すが、 自らは上皇(じょうこう)として 変わらず政治を
今度は前九年の役で、 その力を貸してくれた清原一族の内部で (1083年~1087年)に争いが起こります。 清原一族の跡継ぎ問題、土地の所有問題です。 この内乱に力を貸して収めたのが源義家です。
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の 蝦夷(えみし)討伐の後、 東北地方は朝廷により律令体制に組み込まれました。 しかし、時の流れと共に、 東北はまた波乱を起こし始めます。 東北は京都から離れ
錬金術の起原は古く、 紀元前3世紀ごろのアレクサンドリアでも その研究がなされています。 錬金術はもともと卑金属を貴金属つまり 金に変えるのが第1の目的ですが、 不老不死の薬をつくるということも、 し
九世紀の末に、 関東で勢力を作った武士は平氏の始祖、 高望王(たかもちおう)です。 元々関東の役人として赴任した高望王でしたが、 武士として、新たな生き方を目指しました。 そこで関東で勢力を広げ、
10世紀になると、各地で武士が成長し始めます。 彼らは高貴の出自であるという家柄と、 国司としての公法的な権威から、 地方の人々の名望を集め、 在任中から公私の田を営んで一大領主となり、 その所有地
日本の摂関政治の時代は、 貴族寺院の経済は主に荘園に依存していました。 律令の政治機構の多くは有名無実となり、 官職は政治の機関というよりも 貴族のための収入源となり、 朝廷の儀式や社寺の造営の費用