尊氏は好機訪れたとみてとり、 征夷大将軍に任ぜられて時行を討つことを請うたが、 許されなかったので勅許を待たずに東下し、 時行を討って鎌倉を回復しました。 新政権に不平を抱き、 幕府の再興を望む武士
「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。
自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。 これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。 充実して生きる道を探しているのだ。 それが、何にもまして一番重要なことなのだ。 それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。
トーマス・モアの描いた 唯一の価値観、唯一の基準、唯一の思想による 全体の知と富の共有というユートピア ではないユートピアはつぎのとおりです。 ①国民から信頼されている政治 教育も社会福
まず衣食住と医療、そして学ぶ機会が、 すべての人に約束された社会。 これは多くの人が望む社会ではないでしょうか。 問題はその次です。 最低限の生活が約束された上で、 出来るだけ豊かな
人が変えることができる社会なら、 人は理想の社会を作れるのではないでしょうか? 理想の社会を作る、 それこそ世の役に立つ仕事なのでしょうか。 人類は理想の社会を作ろうと、努力してきました
社会(制度:システム)は すべて人々の思いが造りだしたものです。 決して神が与えたものでも、 自分の外に物としてあるわけでもありません。 社会という現実は、 みんなの思っていることが外へ
社会全体が貧しければ、 みんな食料の確保で手一杯です。 歌う時間も夜空を見つめる余裕も生まれないし、 人生について考えているひまもありません。 農耕という生産手段を手に入れた人類は 生
アリストテレスの生物学にしても、 扁鵠の医学にしても、当時多くの知識が体系化し、 すぐれた科学があらわれていたことがわかります。 もちろん、今日の生物学・医学からみて、 いくらかのあやまり
ユーラシア文化革命期に、 支那やギリシャでおなじ年代に思想・哲学が いちじるしく発展したことがわかりますが、 この時期にはまた、科学も大きく進歩しました。 プラトンは、幾何学でも有名です。
支那とインドは広大ですが、 面積の小さなギリシャにも 多くのすぐれた成果があらわれたのは、 おどろくべきことです。 ギリシャの場合それは、 「ポリス社会」とよばれる 市民のなかの個人の
この時期(紀元前六○○年ごろから 前三一○○年ごろまでの時期)を、 ここでは 「ユーラシア文化革命期」とよぶことにしましょう。 支那では、 あまりに多くの有名な思想家があらわれたので、 「
この時代を、ドイツの哲学者カール・ヤスパースは 「軸の時代」と呼びました。 人民がこぞってそれを中心としてめぐりつつ結集するところの ひとつの理念的な軸を生み出した時代、という意味です。
帝国が建設されたのちも 二百年ほど偉大な創造がつづきます。 一般に、 前六世紀後半から前三世紀前半までの約三百年のあいだが、 ユーラシア文化の飛躍的な発展の時代で、 この三百年間を「ユー
第二の要因は、 ローマ帝国や徳川幕府と同様に すばらしい情報伝達の手段が考案されたことです。 どこかで反乱がおきると、 たとえ首都から遠くはなれたところでも、 その情報が迅速に首都にいる
第一の要因は、 大国を維持する統治技術のおかげです。 まず、帝国を二〇あまりの州にわけ、 各州を太守に統治させると同時に、 王の目、王の耳とよばれる監察官を派遣して、 太守の反乱をふせぎ
「ペルシャ」ということばは、 元来イランの一地方のことです。 イランの一地方から台頭してきた勢力が、 ついにイランだけでなく、 メソポタミアとエジプトを征服し、 さらに中央アジアの一かく
鉄器時代にはいってから、 各地で生産がすすみ、交通が発達しています。 そして生産と交通の発展は、 大帝国の形成を可能にしました。 大帝国の建設として、 むかしから歴史書によくのべられて
メソポタミアとエジプトの二つの文明地帯を 同時に征圧する大帝国アッシリアが 前七世紀にあらわれましたが、 それから約三十年ののちに、 アッシリアははやくも滅亡してしまいました。 しかし
支那に孔子があらわれ、 インドでシャカが仏教を説き、 ギリシャで哲人ソクラテスが出現したのが、 ほぼおなじ時代です。 えらい思想家や宗教家の名が、 歴史にあらわれてくるのは、 このころ
BC6世紀前後、 考える人が世界中に数多く登場してきました。 そして草木が一斉に芽吹くように、 今日まで残るような さまざまな思考の原点が誕生したのです。 この時代を、 謝世輝はユーラ
歴史的には長いあいだ、 農耕民族の安定した生活を送る力こそが、 人類の進歩の先として正しいものである と考えられてきました。 狩猟民族的な職業である芸術家よりも、 農耕的職業である公務員
狩猟採取民族は生活のために 武器の使い方を身につけてはいますが、 その武器で人を襲うことはありません。 その牙はあくまでも 採取対象の動物に向けられるもので、 人肉を栄養源にすることはあ
韓非子に、 「いにしえは、丈夫耕さざるも、 草木の実、食うに足れり」という言葉があります。 農耕の仕事がが中心であった支那においても、 昔はそんな努力をせずとも、 大自然に任せておけば食
現実主義の思想の系譜は 古代ギリシアの歴史家である トゥキュディデスに始まると言われています。 彼はペロポネソス戦争の叙述を通じて その根本的な戦争原因を アテネとスパルタの勢力不均衡に
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尊氏は好機訪れたとみてとり、 征夷大将軍に任ぜられて時行を討つことを請うたが、 許されなかったので勅許を待たずに東下し、 時行を討って鎌倉を回復しました。 新政権に不平を抱き、 幕府の再興を望む武士
中興事業に協力した武士の多くは、 幕府に対して不平を抱く人々です。 彼らは幕府を倒すことによって、 自己の地位を安定させ、 さらにそれがよりよくなることを期待したので。 天皇の理想を理解し、 それ
新政権に対する信頼が失われていくときに、 朝廷では、大内裏の造営を計画し、 安芸・周防を料国に宛て、 諸国の地頭にもその費用を課し、 夫役を徴した上に、 期日におくれると それを倍額にして徴収したので
中央.地方の行政機構は整備されましたが、 その施政には不手際が多く、 中興政権はわずか二年で崩壊しました。 新政の成否は、恩賞と土地問題の処理にありましたが、 恩賞の給源としての土地には限りがあるの
後醍醐天皇は伯耆を発し、 途中光厳天畠の廃立を宣言し、 京都に還幸するや、新政を開始しました。 翌年改元した年号をとって、 これを建武中興といいます。 中興政治の理想は、天皇観政を中核とする 公家
後醍醐天皇は隠岐に遷っても譲位の意志はなく、 光厳天皇の在位を認めず、 あくまでも討幕の志をすてません。 護良親王も楠木正成も幕府に抑えられることなく、 親王は近畿地方で活躍し、 叡山の末寺を中心に
正中の変により、 幕府の天皇に対する瞥或は厳重になり、 皇太子邦艮親王薨去後は、 天皇の皇子を皇太子に立てることを拒否し、 量仁親王を皇太子とします。 これで幕府を倒さない限り、 天皇が皇子に位を譲
持明院統の花園天畠のあとを受けて 皇位についたのは、大覚寺統の後醍醐天皇です。 天皇は後宇多天良の第二皇子で、 近臣とともに僧玄恵について宋学を学び、 革新的思想を身につけられました。 即位の初め
幕府の対朝廷策の失敗も 崩壊のきっかけの一つです。 承久の乱後公武両政権の関係は一変し、 治世の君として院政を担当する上皇の決定は、 幕府の手に握られることになりました。 朝廷では、後嵯峨天皇は、
御家人の所領を保護する必要に迫られた幕府は、 一二九七(永仁五)年徳政令を発布して、 御家人所領の質入・売買を禁止し、 すでに売却された土地は無償でもとの持主に取戻させ、 また金銭貸借に関する訴訟は
得宗専制の強化と内管領の抬頭は、 外様(とざま)と呼ばれた一般御家人との対立を生じ、 時宗の死を機として、 一二八五(弘安八)年の霜月騒動となって現われました。 これは幕府草創以来の名家である安達泰盛
1333年7月4日(元弘3年/正慶2年5月22日)に、 元弘の乱で鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇が、 7月17日(和暦6月5日)に 「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したこと により成立した建武の新政でしたが、 鎌倉
元の世祖フビライ・セチェン・ハーンがつくった 北モンゴルから南シナ海におよぶ帝国は、 元朝の中国に君臨した最後の皇帝である 恵宗トゴン・テムル・ハーン(順帝)の治世に その組織が完戊し、 一三六八年か
西方では、 チンギス=ハーンの孫のフラグ=ハーンが 一二五八年にバグダドを略奪し、 ついに東部のアッバス王朝にとどめを刺しました。 フラグ=ハーンは、 タブリーズの南カにある アゼルバイジャンのマラ
火薬と火器は、蒙古人の手をへて 西欧に達したと考えられます。 印刷についても技術的な細目は別としても、 この径路で西欧に達したのです。 ある時期に支那で印刷されたカルタが、 蒙古人の侵入後まもなく
東洋では東部回教君主国を征服し、 支那の宋王朝を征服した蒙古人は、 最初は、アラビア人の場合よりももっと野蛮でした。 しかしかれらは、 征服した人びとから得た文明の水準にまで達しました。 蒙古人が
今日アフリカにはアラブ人の国が樹立され、 すべてイスラーム圏に属していますが、 中部アフリカでもイスラーム教を信奉する国、 あるいはイスラーム教を第一の宗教とする国 がかなりあります。 たとえば、
アフリカだけにかぎりません。 インド北部にも、 一○世紀末からたびたびイスラームの軍隊 (イスラーム化されたトルコ人)が侵入し、 一二○○年ごろ、ついにイスラーム勢力が 北インド全域を占領してしまって
夢窓疎石は一人で坐禅していた時に、 眠気に襲われたので 後ろの壁にもたれて寝ようとしますが、 後ろには何もなくそのまま倒れてしまいました。 思わず大笑いした時、悟りを得ました。 鎌倉幕府が滅亡する
建治元年(1275)に伊勢国で生まれた 夢窓は臨済宗の禅僧です。 9歳で出家し、奈良の東大寺で 仏教経典はもちろん支那の老荘思想を修めました。 20歳の時、夢の中で異人に導かれ、 疎山と石頭という
奥州藤原氏は、 特産品の金や馬で栄えてきた一族です。 源平の争いの間も、じっと静観し、 力を温存してきました。 第3代奥州藤原家当主、 藤原秀衡(ふじわらのひでひら)は 冷静沈着、剛の者と言われ、
保元の乱での天皇側の源義朝は 上皇側の源為義(義朝の父)の 助命を懇願しますが願いは聞きいれられず、 処刑されます。 さらに同じ天皇側であった 平清盛ばかりが厚くもてなされ、 義朝の不信感は高まって
後白河法皇の子、以仁王(もちひとおう)が 平氏討伐の兵をあげたのです。 挙兵後すぐに以仁王は 平氏に負けて亡くなってしまいます。 ところが、 これをきっかけに源頼朝が立ち上がると、 それに呼応して
平治の乱で源氏が敗北した際、 源頼朝は 敵方の嫡男(ちゃくなん・家を継ぐ者)として、 当然処刑されるはずでした。 しかし、「死んだ息子に似ている」との思いから、 情けをかけてほしいと平清盛に懇願した
今様(いまよう)は、 日本の歌曲の一形式です。 今様というはやり歌を、白拍子・遊女が歌い、 流行しました。 庶民はもとより貴族にまで愛され、 宮中の宴会でも歌われました。 後白河上皇も今様を好ま
鎌倉時代に資本主義があったかどうかは 議論の余地がありますが、 鎌倉時代には、 重商主義という考え方がありました。 重商主義とは、国家の富を増やすために、 貿易を通じて金銀を蓄えることを目的とした政
奈良・京都の文化圏から遠く離れた 鎌倉に幕府を置くことにより、 新たに武士や庶民の文化が花開きました。 問注所をつくつたことで土地争いが減少し、 相続には分割制度が採用されて 所領は細分化されました
鎌倉時代、源頼朝が鎌倉殿として 武士の頂点に立ちました。 平氏は朝廷に入り込み、 朝廷を通じて支配しようとしましたが、 鎌倉幕府は、 京都の朝廷、地方の荘園や公領はそのままにして、 幕府と主従関係を
鎌倉時代の特徴として、 公的な歴史書が書かれなくなったことがあります。 『今鏡』『水鏡』『愚管抄(ぐかんしょう)』 などが書かれていますし、 『吾妻(あづま)鏡』という 鎌倉幕府の一貫した流れを書いた歴
義経は壇ノ浦の戦いの後、 都にもどり後白河法皇に官位を与えられたために、 鎌倉の頼朝と対立せざるを得なくなりました。 頼朝は都に兵を送り、法皇を問い詰め、 義経を捕えるために、自分の部下(御家人)を
仁安(にんあん)二(一一六七)年、 平清盛が太政大臣となり、 平氏政権を打ち立てました。 藤原氏にとってかわった政権でしたが、 福原遷都など無謀な動きをして、 没落を早めました。 初めは朝廷のボディ
保元元年(1156年)7月に 皇位継承問題や摂関家の内戦で、 朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、 双方の衝突に至った政変です。 崇徳上皇方が敗北し、上皇は讃岐に配流されました。 この朝廷の内部抗
釈迦の死後が「正法」の時代、 次が「像法(ぞうほう)」の時代で、 最後に来るのが「末法(まっぼう)」の時代です。 この世はもう終わりではないか、 という末法思想がはびこったのです。 十一世紀に入ると政
後三条天皇の後、 天皇に即位したのは白河天皇です。 この白河天皇が始めたのが 院政と言う新しい政治のやり方です。 院政とは、天皇の座を明け渡すが、 自らは上皇(じょうこう)として 変わらず政治を
今度は前九年の役で、 その力を貸してくれた清原一族の内部で (1083年~1087年)に争いが起こります。 清原一族の跡継ぎ問題、土地の所有問題です。 この内乱に力を貸して収めたのが源義家です。
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の 蝦夷(えみし)討伐の後、 東北地方は朝廷により律令体制に組み込まれました。 しかし、時の流れと共に、 東北はまた波乱を起こし始めます。 東北は京都から離れ
錬金術の起原は古く、 紀元前3世紀ごろのアレクサンドリアでも その研究がなされています。 錬金術はもともと卑金属を貴金属つまり 金に変えるのが第1の目的ですが、 不老不死の薬をつくるということも、 し
九世紀の末に、 関東で勢力を作った武士は平氏の始祖、 高望王(たかもちおう)です。 元々関東の役人として赴任した高望王でしたが、 武士として、新たな生き方を目指しました。 そこで関東で勢力を広げ、
10世紀になると、各地で武士が成長し始めます。 彼らは高貴の出自であるという家柄と、 国司としての公法的な権威から、 地方の人々の名望を集め、 在任中から公私の田を営んで一大領主となり、 その所有地
日本の摂関政治の時代は、 貴族寺院の経済は主に荘園に依存していました。 律令の政治機構の多くは有名無実となり、 官職は政治の機関というよりも 貴族のための収入源となり、 朝廷の儀式や社寺の造営の費用