先日更新したばかりなのに変な広告が出てしまうので、もう一度記事UPしよう、と、同時にお問い合わせしたらすぐに対応していただけてありがたかったです。今一度、こんなところからですが、SeeSaaさん、ありがとうございました。丁寧で迅速な対応、感謝感激でした。 さて、そんなこんなで書こうかな、と思ってたのは最新作品のこと。 最新のおはなしは、掌編で「ジェル…
午前9時。シアトル系コーヒーショップは朝の散歩を終えたらしい初老の女性や、退職して朝の時間を優雅に楽しむ贅沢さをまだまだ享受したての初老の男性がちらほらとあちらこちらの席で寛いでいる。もう少ししたら、営業の途中で寄り道しているらしい人や早めの習い事を終えた主婦が増えて、ランチタイムを迎え、それから少しすれば子どものお迎え前の母親たちや、休講を持て余したか早めに学校を終えた学生たちが席を陣取…
しまった、しまった。またいらぬ広告が入るようになってしもた。 最新の掌編「夢、十夜」はあの村上君がどんな生活送ってるのかなあって想像して書いたお話です。村上君の初登場はこちら → 「ユウジン挿話」(別ウィンドウで開きます) ん〜と、あ…
1.第一夜 夢を、見た。 そんな始まり方をする小説があったな。そう、かの文豪、夏目漱石だ。 そこまで思って村上栄(むらかみさかえ)はぱしっと目を開けた。日の高さから思うに…朝7時、…8時位だろうか。ぐるんと身体を寝返らせてうつぶせになってもう一度うとうとと目を瞑ってしまう。 夢を見た、な。 村上栄は今度こそと目を開けて、布団の上に…
開閉式のライティングデスクの上にデスクトップパソコンのモニターが置いてあった。その横に、投げ入れで生けた紫陽花の花瓶を置いて高科はベッドの上に座り、ドアの前に立っている駿太郎を振り向く。駿太郎はどうしていいのか分からずに部屋の出入り口で高科を、いや、紫陽花を、見守っていた。 花瓶の紫陽花は、青味がかった紫と赤みの強い紫と両方入っていた。ペンションの庭、庭といっても、どこまで…
8.カラー(3) 「変わらない」 駿太郎はペンション タカシナのベンチに座って空を見上げた。初夏の爽やかな青い空を支えるように木々の緑は萌え、庭の緑が美しかった。この高原にももうすぐ夏が来る。短い、夏が。あの夏、どこまでも青い空に身を投げ出すように、駿太郎このベンチに寝そべっていつまでもいつまでも空を見上げていたっけ、まるで、時間を忘れたかのように。 …
6. ブーケ 初夏、高原はまだ朝晩肌寒い。芝を踏みしめて高科はタープの位置を確認する。ポールを立てて、まっすぐに食堂から張り出したデッキへ向かった。無造作に並んでいるテーブルと椅子をデッキの外に出していく。キッチンへ降りてきた叔父の秀春が目を細めて高科を眺めていた。高科は秀春に手をあげて「大丈夫だから」「任せておいて」と合図をしてまた作業を進める。 スリッパの音を高…
忙しい夏が来た。今週は一週間休みはない。もう連続12日間休みはなかった。 「これ、こんなに買ったの?」 と秀春が手…
1. 雰囲気のある美人 富士子ママが言うには「雰囲気のある美人」。
なんだか見たこともない夏だったし、夏なんか本当はなかったような気もするんだけど、でもとにかく暑かったからやっぱり夏はあったんだろう。 おはこんばんちは。 次の作品がそこそこいい感じで仕上がってきました。 数か月前のログにもリンクしたやつなんだけど再びですが、よかったらお付き合いください。 「めぐる季節、また君と出逢う」 →…
あまり更新をさぼるとブログのトップに望ましくない広告が入るのでたまには更新しておきます。 続きみたいな、続きじゃないみたいな、新しくお話を書き始めているのだけど遅々として進まず…。 スナック富士子の舞台である「スナック富士子」は実はモデルとなる実在するスナックがあるのだけども以前からちょいちょいお休みしてたのだけどとうとう閉店したみたいでした。いいの、私の心の中に、ス…
おはこんばんちは、夏です。苗字です。 いよいよロックダウンがカウントダウン(ラッパーかw) 家でできることって、もちろん、仕事、家事、小説を書く、読書、ことにオススメなのは、無料の小説を読もう♪ 私のような無名の作品は投稿サイトでたまたま目にしていただけるかどうかにかかってると思うのですけれど、それでも時折ありがたい読者様もいて、読者登録・ブックマークを…
白いカーテンが揺れている。朝の空気を取り込もうとして窓を開けているからだ。 「さっむ」 大きな体を縮こまらせて航は自分を抱くように腕を摩る。 「閉めてよ」 「やだ」 弓音は取り合わない。 濃いブラウンのテーブルに白いプレートが二枚乗っている。綺麗な目玉焼きと薄いハムが二枚ずつ。 「上手にできたね」 …
本当はずっと知っていた。自分の気持ちも、彼の気持ちも。 いつからだろう。 分からない。 同じ高校出身だと知ったあの日、自分をまっすぐに見つめる彼の視線を捕らえた瞬間だっただろうか。彼のライトグレーの真新しいスニーカーが水溜りを蹴ったあの瞬間だったのかもしれない。怒ったような彼の表情(かお)。野上に好きだと言われたそのことよりも彼に「野上のことが好きな…
「会社の先輩でね、すぐに人間を二通りに分ける人がいるの」「人間を二通りに分ける人間と、そうじゃない人間」「そうそうそう、それ、私もいつもそれ言うの!だよね?」 「あと、女の前で泣ける男と、泣けない男」「それだと男を二通りに分けてるから四分の一になっちゃうじゃん。バカだねえ、ダイモン」「他人(ひと)に向かって平気でバカっていえる人間とそんなこと言わ…
「どうしてだろうな」航はもう幾度も考えて、たった一つの答えにしがみついているその疑問を声に出してみる。弓音はアイスコーヒーのグラスを見つめている。その弓音を航は見つめていた。弓音の小さな手は制服のリボンを結んでいたあの頃よりもいくらかふっくらとしてそして節が主張している、大人の女性の手だった。人差し指がグラスの表面をゆっくりと行ったり戻ったりしている。(ほんとに、どうしてなんだ…
サラリーマン生活を40年続けて退職した父はプツリと何かが切れたように力を無くして、家族にすすめられて病院に行ったときにはもう良くなかった。俺は就職氷河期と言われた時代にそこそこ名の知れた会社に入社して父と同じようにサラリーマンをしていた自分に満足していたけれど、
文具にこだわりはなかったけれどその製図用のシャープペンは思いのほか書きやすくて気に入った。つまらない授業のときはノック部分のダイヤルを回してHBにしたりBにしたり2Bに合わせたりした。俺が一番お気に入りだったのはHだった。男子高校生だったのだ。 1年生と3年生の教室は離れているからそれほど頻繁ではなかったけれど教室を移動するときにたまにあの女の先輩を見かけた。シャープ…
車は高速道路の次の出口を降り空の広い工業道路へ出る。航は迷うことなく河岸に沿った道路を走りいくつかの側道を通り過ぎる。そしてやはり迷うことなくいくつ目かの側道へハンドルを切った。 「よく来るの?」 迷わない航に訊ねた。 「いや、なんとなくこの辺だったよなーって。サークルで来たでしょ、ここ。あんとき俺、運転してたから。」 「そうだったっけ。」
この人は覚えているのだろうか。いや、きっと覚えていないだろう。俺は弓音さんの頭の上でくるりと捻じれた前髪とそれを挿している細いシャープペンの頭についた小さな窓のHBという文字のくっきりと細い文字を思い出していた。それは、俺が弓音さんに初めて出会った日のことだ。高校に入学してひと月、ふた月もたった頃だったろうか。 中学も同じだった部活の先輩は教室の真ん中くらいの席に座っていた…
河川敷をのんびり歩いて、どちらともなく「そろそろ戻るか」と来た道を戻る。人が織りなす出会いの歌もSUKYAKI SONGももう聞こえない。川沿いのどこかの家からカレーのにおいが漂って来ていた。正午近くなったパーキングスペースには車が増えていた。見知らぬ人の車の中にあるとたった数時間前に初めて出会った赤いコンパクトカーがまるで自分の車のように親しく思えてくる。そして朝の躊躇いを思い出しなが…
高架は大きな川を跨いでいた。学生時代にサークルのみんなで来たことがあったなと思い出していると航も同じことを思ったのか、 「あ、ねぇ、寄り道しようか?」 と、助手席側の車窓から河原を見ながら言った。いいね、天気もいいしね、とぼんやり弓音は答えて過去の川原へと記憶を辿る。 その日、バーベキューセットやら食材やらを三台の車に分けて運んだ。弓音と同学年の幾人…
夏 小奈津です、夏(なつ)が苗字です。おはこんばんちは!この挨拶も心なしか懐かしい(苦笑)だいぶサボっていたので拙著のあらすじなど更新。今回はなんかログ込み。 【サニーサイドアップ】なんですか、5年も掛かったんですか。5年間の間、地味に少しずつ書き上げてきたのですが休んだり猛烈に書いたりというぜんぜん別の話を書いたりという5年間でした。ようやっと完結までたどり着……
弓音の使う私鉄のターミナル駅は東西南北の出口があって、東と西はビジネス街、北が歓楽街で南は最近タワーマンションが立ち始めた。弓音は航に言われたとおり東口を出て大きな通りをまっすぐ歩き遠距離バスの乗り場を二つ過ぎてさらに先の銀行の角を曲がった。若い頃からよく来る街なのに案外知らなかった通りはあるものだ。知らなかったというよりも意識していなかった。知らないと意識していないには大きな隔たりがあ…
約束の休日はよく晴れた。空の青さは濃く、雲も白さが濃かった。都心へ出る急行は朝早いせいか空いていて、弓音は七人掛けの座席の空いた真ん中あたりに座った。ひと飛びに駅のホームを二つほど超えると眠気が襲ってくる。 「らしくねえの」 それは、夢ではなくて記憶だ。そして記憶ではなく夢だ。 航が笑っている。右手はジーンズのポケットに突っ込んだまま、左手を弓音に…
「あ、そうそう、これを話そうと思ってたんだった。」 と、航は煮魚の上にのった生姜をよけて身をほぐしながら言った。 「ゆみさん、覚えてる?学生時代によく行ったじゃない、古い喫茶店。アイスコーヒーがうまいとこ。」 「もちろん覚えてるよ。寒くてもアイスコーヒー注文しちゃったよね、ほんと美味しかった。
都心のターミナル駅はあまりにたくさんの出入り口があってよく通るのにあまり使わない出口というのがある。弓音は腕時計を確認して雑踏を逆流する方向へと踏み入った。古くなった蛍光灯がチラつく短い通路を足早に通りすぎる。急に開けた視界はまだ明るく、夜の始まりの時間でありながら健康的だった。 言われた通りに古い道の二本目にところどころ文字も板そのものも欠けた通りの名前の看…
「残業。」 と、打って、もう一度消す。正直に「学生時代の友人と飲みに行く」と打てばいい。弓音は溜息をひとつついて、結局どう書いたところで夫は気にしないのかもしれない、と思った。 ロッカーの扉の裏側についた小さな鏡に映った自分をまじまじと見つめる。おでこと鼻の頭が少し光っている。それなのに小鼻の横は少しかさついているように見えた。弓音はハンドバッグの中から化粧…
掌編小説かにチーク
── 初めて手が触れた、その時ではないかと思うのです。 切れ長の目がさらにすっと細くなる。彼女は僕の靴のつま先を見ていた。ように見えた。そして目を閉じた。しばらく目を閉じていた。眠ってしまったのかと思うくらいの長い時間が過ぎた。僕はもう次の質問を思い出すことができなかった。 * * * 万年筆を、借りました。彼はまだ高校生でしたが、その万年筆を彼は彼のお…
ワシの名前は村上栄。28歳。大学院で修士課程まで修了し一年間フリーターとして居酒屋の店長を務めた後、めでたく希望の出版業界に就職を果たした。この職場をワシはいたく気に入っている。 ワシの上司は保坂泰範(ほさかやすのり)というなかなかいい感じの人で、ワシはこの人を大変尊敬している。本人は多分にワーカホリックな面があるがけしてそれを部下達に強要したりしない。オヤジギャグを言って周りの人…
やっぱりお前に撮り直してもらおうってことになってさ、と湖山を呼び出すつもりでいた。が、湖山のアシスタントが撮ったものは悔しいけれどそれと見分けがつかないくらい出来が良い。仕方がないから「あれでいくよ、進めます」と言う。それだけでも十分に用件になるはずだ。 湖山優仁はいま保坂が仕掛けている仕事でメインカメラマンをしている男で高校からの友人だ。もっというと中学校は学区が違ったが…
22. 窓の外が明るくなり始めてしばらくしてから大沢は湖山のマンションを出た。湖山と顔を合わせるのが嫌だった。人通りのない早朝の道を駅の方へ歩いた。時間を稼ぐようにゆっくり。そして、もしかすれば、大沢がベッドの隣にいないことに気づいた湖山が、自分を追いかけてきてくれるかもしれないという希望もないわけではなかった。ほとんどありえないことでも、期待する。それを人は希望と呼ぶだろう…
20. 同じ高校の同じクラスの、休み時間も放課後も一緒にいた同級生は、今の大沢と比べてどれくらい親しく湖山のそばにいたのだろうか。肌を重ねるという物理的な距離ではない。試験勉強や、眠いばかりの授業、進学、受験、漠然とした未来。人生の一時をともにした誰かと、時間を隔ててまた会っても、きっと会わなかった時間なんてまるでなかったことのように感じる。人との出会いは、きっとそんなふうに出来…
17. ローテーブルとソファーの間に住宅情報誌が落ちていた。住宅情報誌のいくつかのページは大きく折ってある。見るともなしに見るといずれもファミリータイプのマンションのようだった。 湖山はできるだけ何も考えないようにして冊子をテーブルの上に置いた。それから飲みかけのコーラのペットボトルを見て少しため息をつく。 「ふたくらいしとけっつーの…」 と独り言は…
13.どうやら機嫌は直ったのだろう、と湖山は思っていた。久しぶりに、そして当然のようにふたりで帰路に着いた。昭栄出版の応接室を出てから多分一度も口を利かなかったけれど、それでもふたりの足は「どうする?」という戸惑いの欠片のひとつもなく粛々とこの部屋へ向かったのだ。玄関のドアを開けて、シャワー…と言い掛けたその時にはもう湖山は大沢に捕まっていた。貪るという言葉が思い浮かんだ。悪…
10.その日は、昭栄出版での打ち合わせだった。湖山もだ。午前中は別々の現場にいたので別々に昭栄出版に入る。エレベーターに乗りちょうど打ち合わせ室のあるフロアに降りたところで携帯電話が鳴った。陽子からだった。海外出張から戻ったところだが、どうも部屋に大沢の形跡があるので今夜はこっちに来るのかという確認の電話だった。「それなら買い物しておくし。」と、陽子が…
7.陽子の思わぬ返答に呆然として、その後どうやってここまでたどり着いたのかはっきりと覚えていない。見た目はまるでプロレスラーか柔道家のような男がオネエ言葉でしきりに先月別の店のゲイナイトで起きた事件を面白おかしく話していた。大沢の隣に座った細面の男は歯並びの綺麗な口を大きく開けて楽しそうに笑っている。女のような顔だ。肌理が細かい白い肌。整えられた眉は割合としっかりしている。…
4.その頃、湖山はバスに乗っていた。車窓に流れる寺社の山門を見てあぁあの辺りかと今更のように思う。ポケットに入れたスマートホンが小さく震えて湖山は急いでそれを取り出した。発信元を確認してなんとなく肩を落とす。予定通りJR線の駅入り口の停留所で降りると湖山はスマートホンを取り出した。「ユウジン?」と電話の相手が答える。「うん。なに、電話くれた?」「した。だ…
序章学校とビジネスビルが肩を寄せ合うような街だ。急に視界が開けて大きな門があったかと思えば、古いビルも近代的なビルも競いようにひしめき合って並んでいる。その街の一角、薄い灰色の近代的なビルの三階に昭栄出版の受付がある。編集・企画室は4階で、5階に総務部と談話室のようなスペースが設えてあったが、その客人は編集部の入り口で、菓子折りを持って立っていた。編集二部の長を務…
おはこんばんちは、夏 小奈津です。なつが苗字です。 もう何年越しになるんですか、ホットケーキの続編をやっと書き終えました。 小説っていろんな書き方をする方がいらっしゃると思うんですが、私の場合は、詳細にプロットを練って書くこともあるし、割とざっくり落としどころだけ決めて書き始めて書き続けて書き終わる、みたいなこともよくあります。 長いものを書い…
ちーちゃんって呼ばないでと俺の可愛い後輩が言う。足はまだふらついているように見えるが、いたって真面目な顔をしているところを見るとどうやら本気のようだ。 俺が残念がって黙っていると彼は少しイライラしたみたいにもう一度ちーちゃんて呼ぶなと言った。はいはい、分かったよ、と俺が答えると、今度はなんだよとふくれっ面をしてやめるなと文句を言う。どうやら何とか上戸ってやつだな、と俺は思って可愛い後輩…
チーちゃんはねぇよな、と思う。それは俺がもう26歳だからとかそういう話ではない。呼ばれなれているといえば、呼ばれなれているのだ。母も、8歳上の長姉も、5歳上の次姉も、いまだに俺をそう呼ぶ。父だけは「千尋」と呼び捨てにするけれどたまに気を抜くと「チーくん」とかいって幼い頃に「男同士だよな」と嬉しそうに俺を呼んだその呼び方で呼ぶことがある。だから別に大の男が、とかそんなことを考えているわけではな…
「ホットケーキ」シリーズ・本編 第一部 「ホットケーキ」シリーズ・本編 第二部 「ホットケーキ」シリーズ・スピンオフ湖山篇 『いつか、きみにホットケーキ』…
「止まれ」の赤い標識がフロントガラスの向こうに見えた。その一瞬前に目の端に捕らえたハンドルを握る彼女の手首を、あの手首を押さえたら…と想像して彼女を窺って、赤い標識に気づいてしまったから僕は彼女の手首から目を逸らさなければならなかった。それで居住まいを正すみたいに真正面を向いた。それから彼女を見ずにドアを開けた。ハザードの音が遠のき彼女が身じろいだ衣音が聞こえた。ドアを閉めると、彼女は助…
魚子と書いて、ななこ、というのが私の名前だ。 職人だった祖父がつけた、名。 私は手にした小さな紙片を見つめた。角が傷んで小さな皺を、目に見えないくらい小さな皺を蓄えている。私はそれを、右手の親指ですすすと、もう一度伸ばすように擦った。 その紙片は、名刺大の大きさで、── というか名刺で ── 東京とは名ばかりの鬱蒼とした山を彷彿とさせる住所と、工房主の名を一文字とった工房の名前「刻」、…
久しぶりの恋をした、と友人が言う。 小さな花の形のピアスが柔らかな光の中で光った。 電話口で、久々に会いたいと言った彼女の口調は穏やかで、そして少し切羽詰っていた。 そういうところも昔のままだと思った。 小さな喫茶店で、彼女は声をひそめる。 密やかな恋を語る。 でもそれは、案外優しい恋で、幸せならよかった、と私は笑った。 「幸せなんかじゃないわよ」 と、彼女は言う。 幸せそうな笑顔で。 満た…
つまり、上気した肌の、その色、ということだ。それだから私は、彼女の白い肌にすっと赤みのさすところを想像した。彼女の形の良い唇が、花の蕾が解けるように緩む様子や、白い首につく赤い痕を、まるで目の前でそれを見ているかのように想像することができた。私の想像力が極めて高いから、というのではけしてない。彼女の立ち居振る舞いは、けして艶っぽいという訳ではないのだけれど、そういうことを想像しようとしてたやす…
この時期になるとふと思い出すことがある。 花の思い出だ。 垣根に落ちていたのだろうか。何の花だったのか。 一重の愛らしい花だったように記憶している。 ふと隣から居なくなった人は、振り向くと少し早歩きをして私に並び、何も言わずにその花をくれた。 「ありがとう」 と、言った私の声はどこか素っ頓狂だった。 花をずっと手にして歩いた。どこまでも、どこまでも続いて行くその道が、ずっと地の果てまで続いて…
「蟹がね、好きなのよね」 と、彼女は言う。 細いが張りのある髪は少し赤みがかっている。瞳も黒くはない。たとえ夜でも、雨の鬱々と降る日でも、いつでも昼間の窓辺にいるように、太陽を映したような明るい茶色の瞳をしている。 肩までの髪が彼女の動きとともに揺れる。 振れる、という表現が似合うほど揺れる。 それから彼女は、本当に太陽を映したような笑顔で大きく微笑んで、一呼吸して 「蟹といっても色々あるのだけ…
★は自発短歌。☆は返歌です。返歌は主にツイッターでツイ友させていただいている方との掛け合いです。元歌がないのは判りにくいかもしれないのですが何卒ご容赦ください。 ★ 甘きもの欲しい夜なりうつ伏して読むチョコレート語訳の晶子 ☆ きっともう いかにもあやしい あなぐらの すみかをきみに さぐられたくて ★ 君がまだ …
午後の淡い光の中で 君は顔を上げて それから彼女と僕を見比べるようにして それから二度頷いて そしてニコリと笑った アジサイの鉢植えが ひとつ、間をおいてまたひとつ、さらに向こうにまたひとつ 君はその花をひとつひとつ確かめるみたいな目をして 僕と彼女が咲かせる思い出話には少しも興味がないみたいに 綺麗でしょ? と僕が話しかけたら 君はぼんやりと僕を振り向いた 綺麗でしょ? ともう一度言っ…
どうしたらいいのでしょうね 触れたくてのばした指先が ひくりと空(くう)を弾くように ひとつの無音を鳴らして 力をなくした腕が 虚空で何かを掴み どうしたらいいのでしょうね 触れたくて伸ばしたその手を 下ろした 途端にもう 衝動が震えている 身体の奥でずっと 声にならぬ声 名前にならぬ呼称 君と言ったか お前と言ったか あなたと言ったか 名前を呼んだか 苗字をそれとも 下の名を 呼んでみ…
青葉が揺れている 図書館の裏のベンチ 君はよくそこにいた 僕がファインダー越しに 探しているものは何だろう ベンチから見る景色 そこから見える景色 そのどこかにきっと きっと隠されている 君の見ていた夢や未来や 君が語ったことの 半分も知らずに 僕が掴み損ねた情熱 僕が握りつぶした欲望 君はこの先も知ることはない 青葉が揺れている あの頃と同じように 季節が巡るから 花は蕾を開き 花び…
テンガロンハットのへこみをおさえて口角を上げるのがこの男の癖だった。「機関銃のように」という表現があるけれど、話し始めればまさに機関銃のように話し続けるくせに、時折思慮深い顔をして黙り込む。そして言葉を選ぶその瞬間に、彼のトレードマークであるテンガロンハットに左手をやり口角を上げる。そうすると彼の頬には深い笑窪ができた。 彼がテンガロンハットをいくつ持っているのか誰も知らない。彼のマンショ…
いつものように郊外に向かう私鉄のターミナルで黒岩と手を振って別れた。立って帰るのが嫌だったので二本見送って座った。くたびれた空気が揺れるのを座席から眺める。 『変わんねーなぁ、動揺するとすぐ疑問形になるのな?』 航は懐かしそうに目を細めていた。あの頃も、勘のいい航が何か言うと時折見透かされたみたいに感じた。その度に何?何なの?とそういえばそんな風にオドオドして、航に分かり易いと笑われた…
グリルの肉を切り分け野菜を口に放り込みながら、黒岩は営業先の担当者との面白可笑しい出来事を目を細めて話している。黒岩の目尻の皺が目立つようになったなと思い、それではまるで夫婦みたいだとおかしくなった。それから不意に自分の夫のことを思い出して、彼の目尻の皺について考えた。最近夫の顔をしみじみと見ていない、と気づく。 「なに、どうしたの?」 じっと見つめる弓音に気づいた黒岩がフォークを器用…
黒岩はワイングラスを傾けた。飲めないくせになんでいつもアルコールを飲むのだろう。弓音は少し心配げに黒岩を見て、チキンソテーを切り分けた。 黒岩が取引先で聞いたという店はグリル料理の美味しい店で、小さな佇まいだが雰囲気のいい店だった。黒岩の妻は食べ物の好き嫌いが割りに激しい。妻を誘ってもあまり喜んで貰えそうにない店にためしに行ってみようというときは大概弓音が付き合った。家庭があると言っても夫だけ…
黄色いケータリングカーが停まっている。人だかりは、少しピークを過ぎたようで、並んでいる人も数えるほどだ。先週は気づかなかったけれど、組み立て式の小さな黒板にチョークでメニューが書いてあった。メニューの前に立って見覚えのある字を見ていると、横目で航が弓音を認めたのが分かった。 「相変わらずへったくそな字だね。」 弓音は言った。どうしてなのかこういう憎まれ口なら少しの淀みもなく出てくる。最後の…
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