記憶のなかから立ちのぼってきた、なつかしい声を聞く。自分の、保育園に通っていたころの声だろうか。あどけなくてふわふわとした、高い声。「あいりせんせい、けっこんしたの?」「そうだよー、ひろくん」「ええとねえ、ええっと……でめとー?おでめとー?」「わあ、ありがとう」 応じる保育士の声がふっといたずらっぽく揺れた。「ひろくんはだれとけっこんしたいかなぁ?」「だれと?」「けっこんは、すきなひととずうっとい...
BL小説『いつか君に咲く色へ』連載中です。人の感情を色で把握できるDKとその色をもたない同級生のおはなし。ゆっくり恋になっていきます。
『ありえない設定』⇒『影遺失者』と『保護監視官』、『廃園設計士』や『対町対話士』(coming soon!)など。…ですが、現在は日常ものを書いております。ご足労いただけるとうれしいです。
生絹とは二年生に進級したときにもおなじクラスになった。心のどこかでそうなるような気がしていたから、とくに驚きもしなかった。クラス分けが張り出されている掲示板のまえで前後になったふたりの名前を見つけたとき、生絹とはこうして一生そばにいるのかなぁとひどくしずかに凪いだ気持ちで思った。それでも、春の光のなかで、おだやかな湯にたゆたうような幸福を覚えた。 生絹。傍らで「またおなじクラスだな」と言ってうれ...
担任のその提案に当初は、子どもっぽいとか、その程度で大学受験を乗り越えられるのなら苦労しないとか、高二の同窓会ってなにか意味があるのかなとか、ぜんぜん乗り気でない意見ばかりが目立った。至極もっともだ、と碧生も思った。手紙を書こうにも三年後という微妙なタイムラグはどうなんだろう、と。 けれど、つぎの週のロングホームルームで担任が便箋と封筒の束を抱えて教壇に立ったとき、なぜか全員が厳粛といっても差し...
寒風の吹き抜けるグラウンドの片隅には長机が置かれ、そのまわりを高校二年生のときにおなじクラスだった男女が取り囲んでいる。ほとんど全員の視線が長机のうえの一抱えはあろうかというぼろぼろのごつい金属の箱にむけられている。碧生たちのタイムカプセルだ。13年間ものあいだ、漂流し続けていた17歳の自分たちのかけら。 もうずっと長いことその存在すら忘れていたのも関わらず、碧生の心はそわそわと落ち着かない。「それ...
「ねぇ、どうして?」 やっと絞り出したふるえる声で碧生は訊ねた。傷つけられたのは碧生のはずなのに、なぜか生絹がひどく傷ついている気がした。「どうして……どうして、こんなことするの?」「な、これで、碧生はいつだって左手を見れば俺を思い出せるんだよ」「こんなこと、しなくても……忘れたりしないのに」「言葉だけの約束は弱いんだ。ちゃんと物理的に残しておかないと。俺には碧生以上に大切なやつがいないんだから。碧生...
うたうような調子で、楽しげに生絹が碧生の名を呼ぶ。その声が魂がここにないようなまなざしとひどくちぐはぐで、碧生の背を悪寒が這いあがった。どうしたの?訊きたいそのひと言が、どうしても出ない。「碧生、手を貸して」 悪い魔法というのは、ああいうふうなものなのだろうか。碧生はうっすらといやな予感を覚えながらも、催眠術にでもかかったように生絹の手のひらにゆらりと手をゆだねた。 つぎの瞬間、脳天まで貫くよう...
生絹が「化学室に参考書を忘れたからいっしょに取りに行こう」と碧生を誘ったのは、高校一年生の秋、碧生が生絹と出会ってもう半年以上がすぎようとしていたころの放課後のことだった。 面倒だなぁとすこしだけ思いながらも、ところどころが欠けているすのこをがたがた言わせながら渡り廊下を連れ立って歩いて、化学室のある第三校舎までむかう。もうすぐ陽が落ちようとしていた。燃え立つようなオレンジ色の陽はすべてをあま...
バスのアナウンスがのどかな声でつぎは高校前、と告げる。バスのなかの泡のようなざわめきがひときわ大きくなるとともに、碧生はふっと冬枯れの木々が空に梢を伸ばす景色に引き戻された。また回想にふけっていたことに気がついて、しっかりしろと自分に言い聞かせる。 それなのに、心のなかで厳重に封をして、閉じ込めて押し込めて普段は忘れたふりをしている数々の記憶の蓋が、丘野と言葉を交わしたのを皮切りにつぎからつぎへ...
けれど、碧生はどれだけの理不尽な束縛を受けようと、生絹のそばにいたかった。そばにいられさえすれば、ほかの級友たちの目も気にならない。クラスで孤立してもいい。ふたりぼっちでいい。 自分でももう、どうしてなのかわからなかった。二重底になった心の奥では、芽生えはじめていた自分の本音の帯びる熱に気づいていたのかもしれないけれど。ただそのときは、親愛からも友愛からもかけ離れたところで、「碧生だけがいればい...
たとえば。 生絹といつものように碧生の席であちこちとピンポン玉みたいに話題を変えながらだらだらと喋っていたら「おーい、園田」と呼ばれて振り返った。クラスメイトで読書が好きだという男子が、二週間ほどまえに生絹に黙って碧生が貸した本を片手に歩み寄ってくるところだった。 たったそれだけで生絹の切れ味のよい不機嫌の気配を感じて、胸の奥がひんやりする。 いつも寡黙で教室でひとり本を読んでいるのがうそのよう...
生絹の碧生に対する束縛の例をあげつらえば、それはもうきりがなかった。 たとえば、週明けの月曜日。「おはよう」と声をかけた瞬間から生絹の機嫌がひどく悪いので、おそるおそる「どうかした?」と訊ねた。針のような声が碧生の心に突き刺さった。「碧生、お前、きのう井上たちとみどり町のショッピングセンターにいただろ」 碧生と目を合わせようともせずに生絹は言う。背中をひやりと、とてもつめたいものが這った。 たし...
ひとりぼっちの生絹。人付き合いの苦手な生絹。けれど、それでも碧生を選んでくれた。 そう思えば思うほど、びっくりするほど賢いのにうまく立ち振る舞えない不器用な生絹がいとおしかった。そばにいたいと思った。 生意気、気取ってる。ひそひそとささやかれる、あるいは聞こえよがしな生絹への反感を耳にするたびに、「だいじょうぶだよ」と視線だけで碧生は生絹に伝えた。その視線にこたえて、生絹はいつもかすかに笑って...
生絹はまるで口癖のように気負いない口調で言う。「碧生がいれば俺はそれでいいから」と。 勇気を最後の最後まで振り絞るような女子からの告白をあっさり断ってしまうとき、口さがないクラスメイトの「瀬尾って生意気じゃね?」という言葉を偶然聞いてしまったとき、「碧生だけがいればいいんだ」とむしろ碧生を安心させるように繰りかえしそう口にする。 まるで選ばれた人間だけが聴ける福音のような言葉だと碧生は思った。生...
ほかのクラスメイトのまえではいつも涼しげな顔をして、つねに他と一定の距離を保っている生絹が、碧生にだけ笑顔や不機嫌な顔を見せるようになるのに時間はかからなかった。その笑顔に、ぶすっとした顔に、特別な友達だと言外に言われているようでただうれしかった。いまだに、碧生のどこが彼のお気に入りだったのかはわからないけれど。 碧生のほうもすぐに生絹に夢中になった。 ユーモアと怜悧さを兼ね備えた生絹と話すのは...
ふっと回想から我に返ると、バスのなかはなんとなく聞き覚えのある名前を呼びあう声と「ひさしぶり!」「元気だったか?」などというやりとりに満ちていた。乗車時には気がつかなかっただけで、碧生をふくめ、地元組ではない元クラスメイトがほとんど、同級会会場に指定されている母校にむかうこのバスに乗り合わせているようだった。丘野も通路を挟んでむこうの栗色の髪の女子となにやら熱心に話し込んでいる。 にぎやかな車内...
なんとか笑いの波を飲み込んだらしい彼は、それでもまだ声をふるわせながら言った。「頼む。『もめん』はやめてくれ。俺、瀬尾もめんなんて名前いやだよ」「……じゃあ、これ、名前なの?」「そう。これで『すずし』って読む」 変わった名前、とちいさくつぶやく。声を拾っただろうに、生絹は気分を害するふうでもなく「だろ?」と笑って「4年前に死んだ父親が絹織物を扱う仕事しててな。そこにちなんでるんだ。生絹ってのは生糸...
瀬尾生絹(すずし)と出会ったのは、碧生が高校一年になったばかりの春だった。 大なり小なりの差はあれど、みんな鋭意作成中というふうなおさなさの残る顔立ちをしていたなか、生絹は同い年とは思えないくらいに完成度の高い、むしろすこし怖いくらいに整った目鼻立ちをしていた。ほっそりした背中をいつもまっすぐに伸ばしていた。入学してすぐのころは、女子たちが川のなかの小魚のようにさわさわと騒ぎながら、彼を遠巻きに...
こちらを見る瞳に軽く首を振った。「いや、普通に大学に進学して、最初は一般企業に入社したくらいだよ」 碧生が答えると、「すごいね、13年もあればなんにだってなれるってことだよね」と丘野はくりくりした瞳を瞬かせて真顔でうなずいた。碧生は自分をそんなたいそうに考えていないので、若干の戸惑いを覚える。 なにやらひとり納得しているようすの丘野は楽しげに言う。「けど、むかしから園田くんってものすごくきっちり...
「ありがと、わたしひとりだったらきっと落っこちちゃってたよ」 そう言って笑って碧生を見上げた母親は、赤ん坊をあやしながら「川瀬美星です、覚えてる?」と言った。 聞き覚えのない名前に首をかしげると「あっ、ごめんね。旧姓は丘野。丘野美星」と軽やかに訂正が入った。なんとなく天体観測を彷彿とさせるこちらの名前の記憶はあったので、「覚えてるよ。図書委員で一緒だったね」と答える。 結婚してもう7年経つからつい...
ふるさとの地を踏むのは高校卒業以来はじめてだった。なつかしさを覚えるより足元がざわざわと落ち着かないような奇妙な感覚だ。ふと間違った世界に入り込んでしまったような。 山間の鄙びた温泉街は町を出たときとほとんどなにも変わらないように思える。駅前に並んで三軒あったはずの土産物屋が一軒減っているところをみると、どうやら衰退の方向になだらかにゆるゆると下っていっているのかもしれないけれど。 ぼんやりと駅...
「見つかった、のか」 ふたたびのひとり言とともに見あげる、アイボリーホワイトの天井のシーリングファンを埃がうっすら覆っていた。めんどうだ。また掃除をしなければ。 そんなことをつらつらと思いながらも、碧生の心ははるかむかしの高校時代に飛んでいる。 古い校舎の廊下に反響する上履きが床にこすれる音、チョークと埃の混ざりあったような教室のにおい、休み時間ともなれば学校中を覆ったはじけるような笑い声、配られ...
その風変わりな同級会の開催を知らせるはがきを見つけたのは、たまたまのことだった。 仕事先でもらってきたラングドシャを食べようと紅茶を淹れてカップをソファーテーブルに置いた。その拍子に、郵便受けから抜き出してきてそのままテーブルの端に置いてあった郵便物の小山がばらっと崩れた。 ダイレクトメールやチラシ、公共料金の引き落としの連絡票にまざって妙に目を引いたのは、そのなかに一枚だけあったなんの変哲もな...
ときどき見る夢がある。真っ白で、真っ黒な凍りついた悪夢。 夢の景色はこうだ。 小雪のちらつくなか、広い雪原にたたずんでいる。すこし離れたところから、ブレザーを着た端正な顔立ちの男子高校生が黙ってこちらを見返している。表情に浮かんでいるものを読み取ろうとするけれど、うまくいかない。 上着を着ていないのが寒そうで、上履きを履いた足がとてもつめたそうで、歩み寄り手を取ってこちらに引き寄せようとする。あ...
「それでいいの?」と小窪がすこし笑った。緊張がゆるんだのか、おさない笑顔だった。すこしだけ、と僕は言う。「すこしだけなら、怖くない?」小窪がうなずく。あらためて向き合うかたちで座りなおして、その唇に唇を重ねた。ただ重ねるだけのキスだったのに、とても気持ちがよかった。これ以上のあれやこれやはもっともっと気持ちいいんだろうなぁという煩悩がよぎりはしたものの、実行には至らなかった。ただ、小窪をこわがらせ...
からめた指先でゆるく手をつないだまま玄関ドアをくぐる。背後のドアの閉まる音がいつになく大きく聞こえた。指を離して施錠し、上がり框で小窪を抱きしめた。指先まで心臓になったみたいに鼓動がうるさい。小窪がそろそろと僕の背に腕を回す。なにも言わずに抱きしめあったままで、お互いのにぎやかな鼓動をそっと交換した。ほんとうのところ、女の子じゃない身体を感じたら、小窪も僕も淡い夢から目覚めるように「これじゃないな...
僕の手をそっと離すと、小窪は「僕にはいま、榎並くんしかいない」とまっすぐな目で言った。ちょっと怖いくらい、直線的なまなざしだった。「夏休み、毎日ピアノを聴いてくれて……しかも、わざわざ聴きにきてくれた日もいくつもあって、話を聞いてくれて、じいちゃんが倒れて混乱しているときに優しくて。言葉が足りない僕のことをちゃんとわかってくれる榎並くんが、僕には必要だよ。榎並くんがくれる気持ちにこたえたいし、僕だっ...
そのピアノの旋律が耳に入ってきたのは、駅のロータリーに差し掛かったときだった。スピッツの『スターゲイザー』だ。あっ、と思いふわふわとした足取りのまま駆け出す。躓きそうになりながらも駅前広場に辿りつけば、案の定、小窪がピアノに向かっている。両手の指がいっさい迷うことなく鍵を押し、メロディを奏でている。「小窪!」名を呼ぶと、旋律がやんだ。榎並くん、と振り返った小窪はただにこにこ笑っていて、しあわせそう...
はじめてLINEの小窪とのトークルームにふきだしが浮かんだのがその一週間後の金曜日の夜だった。驚いたことにトークはじめてのメッセージは小窪からだった。漫画雑誌を読んでいた僕の頭から、おもしろいと思っていたはずのストーリーが瞬時に吹き飛んでいく。『あした、12時に駅ピアノのところで待ってる』急に走り出したせいでひっくり返りそうな心臓をもてあましながら、みじかいメッセージをなんども読み返す。これは、返事をさ...
翌日からも小窪は屈託なく僕に笑いかけ、話しかけてくれた。昼食の弁当を一緒に開くようにもなった。僕のとなりでひろげられる小窪の弁当は彩りがきれいで、大事につくられているのがよくわかる。こんなふうに育てられたんだろうなぁと、勝手に弁当から生い立ちを思った。天高く馬肥ゆる、という感じの秋晴れの昼休みだった。あいかわらずきれいな色彩の弁当を食べながら小窪が言った。「そうだ。高校卒業したら弟子入りする人が決...
高校の最寄り駅まで並んで歩き、改札を抜けて電車に乗ると小窪はちいさく息をついた。「どうなっちゃうのかな」うん、とうなずく。小窪の祖父が師として彼を導けなくなったあと、小窪はだれを頼りに箱庭の木を植え、花を咲かせ、うつくしい庭を保てばいいのだろう。「じいちゃんの伝手で、弟子入りさせてくれそうな人をあたってみてはいるんだけど」えっ、と小さくつぶやく。この地域にそうそう調律師を生業としている人はいそうに...
言葉を尽くして伝えながら、強く思った。花が盛りを終えて散って、若葉が芽生えて生い茂り、花が咲いていたことすら忘れるまえに、やがてすべてが失われるまえに、小窪に想いを伝えられてよかった。ほんとうによかった。どきどきと速い脈を心臓に隠して、意識して口角を持ち上げる。気持ち悪かったらごめんな、と小窪に視線を合わせて笑ってみせると、まなざしは意外にも逸らされなかった。「榎並くん」生真面目な声で小窪が言った...
「混乱しているときに、いきなりごめんな。でも、伝えたかったんだ。小窪が将来、どうしたらいいか考えたかったら、僕がいっしょに考える。ほんとうに逃げたいんだったら、どこへでも連れて行く。小窪のことが、好きだからだよ」重ねて言うと、血の気の失せた小窪の表情にようやく徐々に赤みがさしていく。ゆらゆらと所在なげに視線がぶれる。「榎並くん」とつぶやいて、恥ずかしそうに僕のシャツから手を離す。離した手は膝の上に...
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記憶のなかから立ちのぼってきた、なつかしい声を聞く。自分の、保育園に通っていたころの声だろうか。あどけなくてふわふわとした、高い声。「あいりせんせい、けっこんしたの?」「そうだよー、ひろくん」「ええとねえ、ええっと……でめとー?おでめとー?」「わあ、ありがとう」 応じる保育士の声がふっといたずらっぽく揺れた。「ひろくんはだれとけっこんしたいかなぁ?」「だれと?」「けっこんは、すきなひととずうっとい...
煙草の煙が漂ってくると、パブロフの犬もあきれ返る勢いの反射で彼のことを思い出す。僕を抱いた後は煙草が吸いたくなるといった彼。ゆうらりとくゆる一本きりの煙の時間をひっそりとベッドのなかから見守っていた。眼鏡をかけるほどではない軽い近視だった目が、遠くを見るように眇められる、それが色っぽくて好きだった。あの視線が、なにを映していたのかを僕が知るすべはもう、どこにもない。 よく晴れた冬の日曜日の昼下が...
「お疲れさま、ふたりとも。先にあがるね。あ、そうだ!透琉(とおる)くんに教えてもらったレシピ、このまえ試してみたの」「うわあ、ありがとうございます!どうでした?」「レンチンでぜんぶ作れちゃうのね、時短わざは透琉くんに聞けってね」 はじける笑い声を歩生(あゆむ)は背中で聴く。話題そのものに、ものすごい遠心力で弾き飛ばされたのを感じる。相容れない、水と油のように。 バイト仲間の透琉はモテる。主に、パー...
ルーティンというものは破られたときのほうが、守られたときより「そこにある」ことを主張しはじめる。 由糸(ゆいと)の場合、ウィークデーならこんな感じだ。決まった時間に起きて、毎朝飲むサプリメントを服用し、軽く胃に食べものをいれて出勤。帰ってきたら食事のまえに簡単に風呂をすませ、休日に作り置いた数品やスーパーの半額シールの貼られた惣菜で夕食をとって、本や新聞をめくり、だいたい日付が変わるころにベッド...
こんなことでもなければ、20代でふるさとの地をもう一度踏むことはなかっただろう。 視線をめぐらせ見あげる空から、気まぐれに三月の雪が降ってくる。そういえば、この地では死んでいく冬が最期の力を振り絞るように、こんな雪が降ることがあるのだった。襟足から容赦なく冷気が忍び込んでくる。薄手のコート一枚でやってきたことを後悔した。音もなく降る雪に、無沙汰を咎められている気がして、柚希(ゆずき)はちいさく肩を...
もうなにも出ないから、もういいから、と訴えても、やめてもらえなかった。なかの刺激がよくてよくて、無意識にまだ、とかもっと、と口走ってしまうたびになんども奥に射精された。なにも出ないままでいかされたとき、脳髄ごとけいれんを起こすような快感に絶叫した。溺れそうで苦しくて、苦しいことがしあわせだった。 果てのない交合が終わったのは、夜明けちかかった。あちこち痛む身体をなだめすかして起き上がると、響生が...
だから、何のためらいもなく響生の指が後孔をうかがってきたとき、興奮よりも恐怖を覚えた。肌はほてっているのに血の気の引くような、ふしぎな感覚。「ねぇ、ひびきさ……っ!あの、ねぇ、その、……ほんとにできる、の?」 響生が無言で陽詩の手を掴む。そのまま導かれた先の熱に反射的に指先がびくっとした。「陽詩にあれだけしといて、俺のが無反応とかそっちのほうが変態くさいだろ」 軽く笑った響生の指が体内にもぐりこんで...
「すごくいまさらなこと訊くけど」 ベッドサイドのあかりだけが生きた仄暗い部屋、ベッドの上で陽詩がせがむままのキスをしながら、響生が問う。「陽詩くんって、ゲイなの?」 陽詩は答えないまま、自分にのしかかっている男に口づけをねだる。スプリングをきしませながら、なかばもう自暴自棄なのか、響生が熱心にそれに応じた。「こういうキス、したことある?」 響生は舌先だけを陽詩の舌にからめ、誘い出した。ふたつの唇の...
数日後、響生が住むアパートの最寄り駅の改札で、陽詩は姉の恋人の帰りを待っていた。 ここで、姉といっしょに響生を待ったことがある。あの夜は、三人でたこやきパーティーをした。姉はとても楽しそうにはしゃいで、そんな姉を響生がやさしい目で見ていた。 そして今夜は。陽詩は、墨を流したように暗い空を見上げた。 ――……今夜は、後戻りのできない取り引きをする。「陽詩くん?」 背中に、聴きたがえようのない響生の声が...
「ドナーの適合検査……?あの、僕も?」 三日後の朝。ダイニングテーブルをはさんで向かいに座る父親の顔を陽詩が見上げると、父親は「すまないが、検査を受けてくれ。繭子のためだ」と憔悴しきった面持ちでうなずいた。「陽詩がいま、将来に向けて大事なときだっていうことはわかっている。できるだけ、おまえの心身の負担にならないようにはしたいんだが……巻きこんでしまって、ほんとうにすまない」 陽詩は居心地悪く、椅子の上...
ハイレベル模試を全教科受け終わり、家路を辿る途中の自販機で買ったスチール缶のココアを片手に自宅のドアをひらく。いちどきに、重く沈み、暗く淀み、つめたく凍りついた空気に全身を包まれた。家じゅうが閉じた冷蔵庫になってしまったかのような異様な雰囲気にかすかに身震いする。ふっと、このさきの人生には何一ついいことがないんじゃないかという予感がした。 空恐ろしい未来予想を振り払うように、陽詩(ひなた)は精い...
ぽた、と膝に落ちたのが溶けたアイスクリームの雫だったとき、やっと、別れ話をされているのだと理解した。夏の終わりの夜のはじまりはまだ明るく、一瞬でぬるくなった濃紺のうえのミックスミントアイスの色はいかにもすずしげだ。 人工色の緑を指先でふき取り、ふふ、と千緒(ちお)はちいさく笑う。アイスだって。涙じゃなくて。たぶん、650円くらいの値段の恋だったんだ。 涙さえ流す価値さえない恋だったのだと、だれかに...
ふっと、帰ってきている気がした。曇りガラスのむこうに、朝からしとしとと降っている雨の足跡を刻んで。麻杜(おと)は人参をさいの目に刻んでいた手を止め、じっと硝子戸の外の気配をうかがう。犬が甲高く鳴く声、バイクの走り抜ける音。昼下がりの休日の、なんということのない音の光景。きっと、聞いた通りの風景が硝子の引き戸越しには広がっているのだろう。「麻杜」聞こえない声が聞こえる。触れられない腕がそっと手の甲を...
彩葉の目を覗きこみ、清音が感じ入ったように言う。「菅原がちゃんと感じてくれて、すごく気持ちよさそうでよかった」「……気持ちよすぎて頭がへんになるかと思った……。いろいろ見苦しくてごめんね……」 さっきまでの交わりの名残はもう、身体の奥に残るあまい感覚と、シーツを汚しているもろもろの体液にしか残っておらず、彩葉はかすれた声で言うと咳きこんだ。その拍子に後孔からくぷりと清音の放ったものがあふれ、シーツに伝...
「ん、ああんっ、……あぁっ、いい、気持ちい……っ、あ、あっ、……いく、いっちゃう」 清音の歯が乳首をかすめた瞬間、目を閉じ、浮かせた腰をふるわせてさらさらと流れるような射精をする。存分に出したはずなのに強烈な快感は引かず、高止まりのままの性感に彩葉はもうどうしたらいいのかわからない。ただ、身体がそうしたいと思うがままにあられもなく乱れた。荒い息のあいだから、自分を抱く腕に訴える。「あぁぁ……ん、清音、まだ...
じわじわと、清音の性器に浸食されていく。ちっとも怖がらずに清音を受け入れたそこが気持ちよがって、ひくひくと飽きることなくあたらしい異物を啜るのがわかった。ゆるく彩葉を抱きしめ、腰を進める清音が、あっ、とちいさく掠れた声を洩らす。「ゃ……、待って、菅原、……なに、なにこれ」 彩葉の内腑の蠕動を予想していなかったのだろう。とはいえ、彩葉は彩葉で指とは較べるべくもない質量がなかに挿ってくるので、痛苦しいや...
後孔にそろりと最初の指が差し込まれてからどのくらい経つのか、彩葉には判然としない。はじまったころは違和感に清音の指を押し出そうとばかりしていた彩葉の粘膜は、いまや喜んでなかで蠢く指を三本も咥え、啜り、しゃぶっている。ぬちゃぬちゃという粘着質な水音は、清音が彩葉の後孔にたっぷり含ませたローションで。「……だいぶ慣れた?痛くない?」 清音の問いに、枕を抱えて脚をおおきくひらいたまま、声も出せない快楽に...
清音の声で彩葉に吹きこまれるのは慈しみなのに、はっきりと欲情をにじませている。清音が早く彩葉を自分のものにしてしまいたいと思っているのがわかる。だって、唇に優しく口づけながらも清音の手は。「あ、ぅ……ん、あぁ……、んっ、あ」 とうにしとどに濡れていた彩葉の性器に触れる清音の手には、いっさいの躊躇も遠慮もなかった。彩葉が分泌したぬめりを借りて、水音を立てて、反応をうかがいながら追い上げてくる。過ぎた性...
「菅原」「……どうしたの?」「ここ、こりこりになってきた。すごい、指で弄れそう」 したたるような声で言うや否や、清音が指先で彩葉のはっきりと赤みをまとったふたつの尖りをつまんだ。そこから注がれる快感に息を呑んだ彩葉の喉から、うわずった声が迸る。「あ、あぁ、……っ、や……!」 反射的にぎゅっと目をつぶってしまったので、否応なしに触覚と聴覚が研ぎ澄まされる。はっきりわかる。清音にどんなふうに触られているか。...
「菅原、こら、じっとしてて」「ごめん、想像以上に恥ずかしい、これ」「……こら、もう、強硬手段に出るよ」 そう言って、彩葉のパジャマのボタンをベッドの上でひとつずつ外しながら、真上から彩葉を押さえ込んでいる清音が器用に脚で彩葉の動きを封じた。直接、肌に触れる清音の指がくすぐったくて身をよじりたいのに思うように動けない。こんなときなのに笑いだしそうになる。 されるがままにパジャマをはだけられ、素肌に手の...
「なぁ」 智伸に呼びかけた。ゆっくりと相手がこちらを見る気配がする。「お前、怖くないの。その……病気のこと、死んじゃうとか、だんだん身体が動かなくなるとか。俺だったらもっと取り乱して、泣き喚いていると思う。平静じゃいられない」 優羽の言葉に智伸はすこし考えこむそぶりを見せた。しばらく黙ったあと、すこしずつ紡ぐように言葉を口にする。「『怖い』の第一波は乗り越えたのかもしれない。また怖くなったり、夜眠れ...
「ほんとだから、怖かった。こんなにしあわせなことがあるはずがないって思った。優羽もなにか言うわけじゃないから、確かめたら終わりみたいな気がして、なんにも言えないまま卒業して。大学入ってから後悔したよ、伝えておけばよかったなって。だから社会人になってまた距離が縮んだときは、今度こそうまくやろうって思って、」 智伸の声が途切れる。その矢先に病気のことが発覚したのだろう。つくづくタイミングを逃してばかり...
来てみたのはいいものの、さほど智伸にとって興味を惹かれる展示がなかったようで、早々に美術館をあとにした。 来たときと反対車線のバスに乗って急坂を駅前まで下りていく。ビー玉を落としたら延々と海まで転がっていきそうな街だな、と優羽は妙な感慨を覚えた。そのすこしばかげた物思いを智伸に伝えようとしたけれど、窓の外を見ている横顔のしずけさに口をつぐんだ。 駅前まで戻って、路線バスを乗り換えて温泉宿へ帰る。...
優羽は智伸の頬に手を伸ばした。その手をそっとつかんで、智伸が指先で手のひらの輪郭をなぞる。覚えておけたらなぁ、とちいさな声で言う。「なにを?」「なにもかも。優羽のことはもちろん、大事なことをなにもかも」 ごめんな、という声とともに手が自由になる。智伸の指先の感覚が残る手をぎゅっと握りしめた。ちいさく息を吸い、みじかく言った。「忘れていいよ。だいじょうぶだから」「えっ?」 虚を突かれたような顔にふ...
その晩はひたすら互いを貪った。脚を肩に抱えあげられて、智伸の身体のうえに乗り上げて、さまざまに体位を変えながら。 何回いかされたか優羽は覚えていない。なんど出されたかも。ただ、身体の満足だけを追っているあいだは智伸のこれからを考えずにすんだ。それだけがわかっていた。 明け方、みじかい眠りにつくまえに、智伸がやさしく優羽の肩を撫ぜながら「あしたがいい日でありますように」とつぶやくのが聞こえた。もう...
智伸の指の抜き差しがはっきりと暴く動きに変わった。ひっきりなしの快感に翻弄されて、優羽の心身から羞恥や遠慮が消しゴムをかけるように薄れていく。いきそう、と訴える。「や……あっ、……あぁん、あぁっ、……いく、おれ、いっちゃ……っ!」 はしたなく喘ぎながら優羽がのけぞった身をふるわせて射精すると、智伸は片手で白濁を受けた。「ごめんな、これ、使わせて」 智伸は自分の性器に優羽が放ったものをまぶすと、優羽のなか...
もう恥ずかしがっていてもしかたないので、関節の許す限りいっぱいに大きく両脚をひらいた。さらされる感覚に、ぞくぞくした。 智伸の指が後孔をうかがう。ふちをなぞるように円を描いて、ときどき入口にぴったり指を押し当ててくる。はしたなくこぼしているもののせいで、そのまわりが潤っているのがわかった。 内腑にごく浅く侵入してきた指を、優羽の身体は拒まなかった。むしろ、その呑むような動きに智伸が驚いたように尋...
その問いかけに、気持ちを確かめる疑問符に、智伸の喉がかすかに鳴った。それが答えだという気がしたから、優羽のほうから唇をあわせた。 ついばむような口づけが、ほどくのも難しいような深いものにかわるのにさして時間はかからなかった。智伸は優羽の座る椅子に半分乗り上げるようにして、優羽の唇を、舌を貪った。優羽は智伸の背に両腕をまわして、与えられるがままにキスを受けた。「優羽、抱いてもいいか?俺、いなくなっ...
窓際にしつらえられた椅子に腰かけていた優羽は、軽やかな音とともに洗面台で歯を磨いている智伸を見遣った。「なぁ、智伸」 口をすすいでいる智伸が軽く振り返りちょっと待って、というジェスチャーを返してくる。コップに歯ブラシを立てて、「なに?」とやわらかに問うてくる。「あしたがいい日でありますように」「……え?」「このまえから俺にそう言ってくれるだろ。優しく光っているみたいな祈りの言葉。これってなんなの?...
智伸が居心地悪そうに身じろぎした。湯がゆれる音が立つ。「なんだよ、人の顔見てにやにやして」「いや、智伸のこと無理やり連れだした気がしてたけど、やっぱり来てよかったなって」「……いやだったら来ないよ」 ぽつんと落ちた言葉が浴場に響いた気がした。 ふたりでのぼせる直前まで湯につかって、のんびりと浴衣に着替えて部屋に戻る。智伸がしごくゆったりと言う。「気持ちよかったー……。ふやけるかと思った」 白湯を飲み...
目的地には快適に到着した。スマートフォンを改札にかざして駅前のロータリーに出る。かなりの人出ですくなからず驚いた。温泉宿へのバスに乗り込む。いきなりのジェットコースターみたいな急坂にやや気圧されつつも、隣に座った智伸に話しかける。「きょうは冷え込んでいるから、温泉が楽しみだな。想像するだけでぽかぽかになりそう」 智伸はバスのフロントガラス越しに坂を眺めていたけれど、優羽のほうを向いて楽しそうに笑...
気持ちを切り替えるためだけに、話題を振った。この先のこと、みじかい未来の話を。「智伸、お前、着いたらどうする?とりあえず、宿に行くか?」「そうだなぁ、時間はいっぱいあるから、まずは温泉でゆるっとしたいな」「わかった」 話しているあいだにも、新幹線がやってきてふたりして乗り込む。なんとなく窓際の席に智伸を座らせると、かすかに笑った。「なんだよー」と言うと「なんでもない」と笑ったままの答えが返ってく...
翌日の朝、新幹線の出発時刻15分前に在来線と新幹線が相互乗り入れをしている駅に到着した智伸と優羽は、並んで新幹線ホームにむかいながらキャリーケースを転がしていた。先だって、優羽の荷物が大きすぎると智伸は会うなり声をあげて笑った。そう言う智伸の荷物はコンパクトすぎて、優羽は心配になるのだけれど。「俺、旅行に行くのなんて何年ぶりだろう」 優羽が感慨深げに言うと、智伸が「俺は修学旅行の引率以外の旅行に...
「いいな、熱海。海にも山にも近いし。っていうか、海で、山だし。なんで今まで行かなかったんだろう」「俺はともかく、智伸は学校の仕事でそれどころじゃなかっただろ」 優羽はじっと智伸の目を見た。あきらめるために。ここからはじまる、なんて思っちゃいけない。ここから終わらせていくための旅なのだ。目を見つめたままで言う。「旅じまいに、温泉満喫しような」 智伸の目がかすかに揺らいだ。こくりとうなずく仕草がやけに...
ゆうべの肌寒さは放射冷却によるものだったらしく、翌日は秋晴れのよい日和になった。すこん、と抜けたような青空のもとを部屋から最寄りのバス停まで歩いた。 やってきたバスで駅前まで出て、約束したドトールに優羽が到着すると、智伸はもう席についていて「優羽!」と軽く片手を挙げた。病気だなんてうそみたいな自然な笑顔だった。 いつもそうだった、と優羽は思う。きっちり約束通りの時間に赴くと、智伸がいつも自分を待...
『優羽』 優羽の提案にしばし黙り込んだ智伸が、しずかな声で言う。『思い出作りのためだったらやめたほうがいい。あとから余計に苦しくなるから』「なにもできないほうがいやなんだ。こんなことになったのに、離ればなれで日常を送るほうがいやなんだ。俺の気持ちに気づいているんだろ?だったらわかるだろ?」『ほんとうに俺のこと、好きでいてくれているの?』 こんなときなのに、とても甘い問いかけに聞こえた。「ああ」と短...
つぎつぎにあふれだしてくるものを思いを、考えてもしかたない、と首を打ち振った。考えたところで、智伸を蝕む病気の進行が遅くなるわけじゃないのだ。病気が、消えるわけじゃないのだ。深い悲しみに、両足をとられる。 ふと、別れ際の智伸の声がよみがえる。やわらかい、すこしかすれた声。「あしたがいい日でありますように」。 ふざけんなよ、と唐突な怒りがわいてきた。勝手に病気を打ち明けて、優羽の気持ちを知っていた...
どうやってアパートの部屋に帰りついたのか覚えていない。ほんとうにそんなことがあるんだ、と思った。 気がつけば優羽は自分の部屋のベッドに仰向けに横になり、なにをするでもなくスマートフォンのニュースサイトを眺めていた。現実からはじき出された心が、いつも通りの行動をとることで、現実に戻ろうとしているみたいだった。 我に返って、目を閉じる。「泣くなんてずるい」と言っただれかの声がよみがえる。そうだ、あれ...
最悪の、最悪の、最悪の一日。店に入るまでのふわふわと高揚した気持ちはいったいどこへ消し飛んでしまったのだろう。 男性店員の「ありがとうございました!」を無防備に背中に受けて、優羽はぼんやりと空を仰ぐ。晩秋の、透き通った夜空に星がまばらに散っている。「優羽」 智伸の気づかわしげな声が聞こえた。声にむきなおり、小刻みに震える声で優羽は智伸に言う。「悪い夢だって言って。お願いだから、ぜんぶ冗談だって言...
いくら考えても、どんな思いかたをしても、理不尽だとしか思えなかった。こんなのってない。こんなのってないよ。 どれだけ優羽が智伸を好きでも、智伸とはいずれどうしようもなく枝分かれした道を行くはずで。でも、それはこんなにはやくないはずで。こんなに突然のことでもないはずで。 つらいのは俺じゃないだろうが、と優羽は自分の心を抑えつけようとした。けれど、ひび割れのすきまから水が漏れてくるように、ひんやりと...