記憶のなかから立ちのぼってきた、なつかしい声を聞く。自分の、保育園に通っていたころの声だろうか。あどけなくてふわふわとした、高い声。「あいりせんせい、けっこんしたの?」「そうだよー、ひろくん」「ええとねえ、ええっと……でめとー?おでめとー?」「わあ、ありがとう」 応じる保育士の声がふっといたずらっぽく揺れた。「ひろくんはだれとけっこんしたいかなぁ?」「だれと?」「けっこんは、すきなひととずうっとい...
BL小説『いつか君に咲く色へ』連載中です。人の感情を色で把握できるDKとその色をもたない同級生のおはなし。ゆっくり恋になっていきます。
『ありえない設定』⇒『影遺失者』と『保護監視官』、『廃園設計士』や『対町対話士』(coming soon!)など。…ですが、現在は日常ものを書いております。ご足労いただけるとうれしいです。
その日の夕方になってやってきた葉は僕の表情を見て、マリー姉さんがいなくなったことを察したのか「ごめんね」と謝った。「インディゴの大事なお姉さんのために何かできたらと思っていたんだけど……」首を横に振る。頼りない動きだと自分でもわかっていた。葉の顔を見たとたん、ぽろぽろと涙が頬を伝った。マリー姉さんの口癖や、髪を梳くのが好きだった後ろ姿を思い出せば、いくらでも涙があふれた。葉は泣くなとも泣けとも言わず...
葉がうーん、と言って両腕に顎をうずめた。「僕、自分がずっとままならない恋に振り回されてきたから、幽霊になってまで恋に悲劇がついて回るなんて信じたくないなぁ」うん、とうなずいて葉の目を見つめた。僕のことを好きだと言ってくれる葉。僕も『ままならない』の一部なのだろう。「真剣に考えてくれて、ほんとうにありがとう。マリー姉さんが消えてしまっても、葉がいてくれるのなら何とかだいじょうぶでいられる気がする」葉...
その日やってきた葉はすぐ、僕の元気がないことを察してくれた。葉のこういうところがすごいと思うし、本当に尊敬する。細やかさは、逆に葉の繊細さなのだろうか。「どうしたの、インディゴ。どこか具合が悪いの?」心配そうに僕をのぞきこむ葉にしがみついて泣き出したかった。子どもみたいに泣いて、心の負荷をすこしでも軽くしたかった。でも、マリー姉さんを認識できない葉にそんな風には甘えられない。かわりに、ぽつんと言っ...
草取りの手をとめている山科のおじさんに背を向けて、マリー姉さんの住む区画へ走り出した。ぴかぴかに磨かれた墓石のうえでマリー姉さんはご機嫌で髪を梳いている。鼻歌が聞こえる。呼びかけると、「どうしたの、インディゴ。顔色が真っ青」と言った。どう訊いていいのかわからない僕の口から飛び出したのは結局、とても直截的な問いかけだった。「姉さんはオリーブさんのことが好きなの?」マリー姉さんの頬がみるみる赤く染まっ...
ほんとうに、ほんとうになにげない台詞だったのに、山科のおじさんの顔がみるみる曇っていく。いつも僕を安心させてくれる思慮深さとはまた違った翳りだった。つられて僕も真顔になる。「インディゴ、それはほんとうなのか?マリーちゃんが恋をしているというのは」「うん、マリー姉さんに確かめたわけじゃないから、まだわからないけれど。でも姉さんのようすを見ていればわかるよ」山科のおじさんははびこる雑草を取る手をとめて...
その日もやってきた葉にその話をした。僕のような幽霊がどうして存在するのか。胸が不穏な感じにどきどきしている。「それで、僕みたいに幽霊になっちゃうのは、しあわせな死にかたをしなかった人間なんだって」葉がすこし考えて「なんとなく、考えかたとしてはわかる」とひどく言いにくそうに言った。「未練とか心残りとかがあると死んでからも現世にとどまってしまうっていうのはよく言うよ」「……そう、なんだ」でも、と明るい口...
マリー姉さんの区画にあたらしく男性の幽霊がやってきたのは、それから三日後のことだった。姉さんとおなじくらいの年恰好で、すこし葉に似たきれいな顔立ちをしていた。「こんにちは」僕が挨拶をしに行くと、すこし疲れたような顔をほどいて「こんにちは。君がインディゴか」とかすかに笑った。「俺、なんていう名前なんだろう。生きていたころの名前も住所も思い出せないんだ」と焦った声で言う。彼のかたわらにしゃがみこんで、...
秘密、秘密と胸のうちで猛然と転がしながら、夏の夕暮れがだんだん夜になっていくのを眺める。オレンジから紫、濃紺へと空が変化していく。空の色さえ甘やかに見えた。なんとなく、生きていたころはこんなふうにきれいな空を眺めることもしなかったような気がする。いや、空を見たってきれいだと思うことがなかったのかもしれない。きっと幽霊になるのも悪いことばっかりじゃない。空を見上げることを、忘れていなくてよかった。ふ...
ひと言発するごとに考えているような喋りかたで、葉が言う。「たとえばさ、たいていの人は……僕の学校のクラスメイトみたいに……男性が好きな男っていうと気味悪がるけど、インディゴはすこしも気持ち悪がらなかった。自分に好意が向けられているのに」「嫌われるより、好かれる方がずっといいに決まってる」「まぁ、そうだよね。そうではあるよね」葉が二重の目を細めて笑った。かすかにうなずいている。「だから、学校での居場所が...
葉が、男性を好きになる男。告げられた言葉を頭のなかで繰りかえした。もちろん、そういう人がいることは知っていた。いじめに遭っているというのは、なるほど、そういう事情だったのか。「そうだったんだ」という僕に、葉は大人びた声で言った。「インディゴにこたえてほしいと思っているわけじゃなくって、ただ伝えておきたかったんだ。わかるかな。僕は、インディゴのことが好き」「うん、わかる。ありがとう」僕がこたえると、...
葉がやってくるようになってからも、日中の僕の過ごしかたはだいたい変わらない。山科さんのリヤカーに座って歌を歌ったり、しゃべったり、マリー姉さんと外界と墓地を隔てるブロック塀の隙間から外を眺めたりして過ごした。葉がやってくる時間になると、自分のねぐらの墓石のところに腰かけて、待つ。葉が顔を輝かせて駆け寄ってくるのを、心待ちにして。雨が降っていると葉があまりここにいられないので、晴れが好きだったぼくは...
僕の言葉に、葉はとても弱々しく笑った。「そうだねぇ、できるといいね」とちいさく、どこか投げやりな声で言う。まるで他人事のような口調に、心の奥底がひやっとした。僕が思っているより、きっとずっと深く、葉は悩んでいる。毎日、話し相手のいない場所に行くのが苦痛なことくらい容易に想像がつく。マリー姉さんと山科さんのいない墓地より、きっとつらい。想像する以上の痛みなのかもしれない。けれど、葉はがんばって負けま...
その日の夕方も葉はやってきた。ねぐらのまえで待っていた僕を見るなり、顔を輝かせて駆け寄ってくる。所作や喋りかたの大人っぽい葉だけれど、そのときはまるで子犬のような喜びようだった。「インディゴ!待っていてくれたの?」「葉が来てくれるといいな、って思っていたところ」くすぐったい気持ちで僕は答える。葉が笑っていてくれることが彼の生きる支えになれば。「ふわふわって学校まで迎えにきてくれればいいのにな」と僕...
「人間の友達ができた!葉はいいやつだよ」僕の息せききった報告に、ゆっくりと振り返ったマリー姉さんがおだやかにコメントした。「そうね、そうみたいね」一見、無関心なように自分の髪を梳いているマリー姉さんが実は心配そうにこちらを見ていたのを知っている。だから、「心配いらないよ」と言うと、マリー姉さんが目をしばたたかせた。「インディゴがそんな風に心を許すなんて、意外だな」「どうして?僕、そんなに心が狭そう...
その日は主に葉が家族のこと、勉強のことをしゃべった。僕が教えてほしいとせがんだのだ。葉がいじめに遭っているのが心配なだけ、葉の暮らしぶりが知りたかった。両親と三歳離れた妹がひとり、犬が一匹の家族構成で、得意科目は英語と化学。ここから電車で二駅の私立高校に通っている一年生。中学二年生のとき、この墓地近くに造成された、海にも山にも近いという謳い文句のニュータウンに引っ越してきた。順序立てて、やわらかな...
「インディゴが話ができるっていう山科さんって、あの人?」葉の視線を追う。おじさんがリヤカーの把手を置いてタオルで額の汗をぬぐっているところだった。「そうだよ」肯定して、山科さんについて補足する。「山科さんはおだやかで思慮深くて、決して人の悪口を言わない人。僕、もしも死ななかったのなら山科さんみたいな大人になりたかったな」葉が嘆息する。学校の先生にもそういうあこがれの対象になるような人がいればなぁ、...
僕をやさしく案じてくれる山科のおじさんの言葉を噛みしめて、すこし考えて言ってみた。「きっと、幽霊が珍しいんじゃないかな」「それにしたって、わざわざ会いに来なければいけないだろ。学校に行けばいくらでも人間の友達がいるだろうに」「それもそうか」ふたりで考えていたけれど、納得のいく答えは見あたらない。心の隅に引っかかった綿毛みたいに気になったので、その日は山科のおじさんのリヤカーに乗ってあちこち墓地を移...
優しげなまなざしのまま、そっと訊かれる。生卵を両手でくるんで運ぶような喋りかただった。「名前はなんていうの?」「インディゴ。生きていたころはちがう名前だったような気がするけど」「そうなんだ」会話が成立することに安心したように少年はかすかにうなずいた。おだやかさのむこうに聡明さが垣間見える。「僕は葉(よう)。葉っぱの葉で、よう」葉、と呼ぶとまたうなずく。葉の顔をじっと見た。もちろん、失礼にならない程...
僕を見下ろすマリー姉さんがあきれたように言う。長い栗色の髪に触れながら、すこし笑っている。「インディゴ、なにびっくりしてるの」「いや、マリー姉さんのほうから僕のところにくるのが珍しいなぁって」マリー姉さんはきれいな顔立ちのほっそりした女性だ。印象としては、幽霊だということを抜きにしても、ごく淡いシャープペンシルで輪郭を描いたような人。山科のおじさんは「薄幸の佳人」と言っていたけれど、どういう意味か...
飛び起きて、リヤカーを押す山科さんに大慌てで謝った。「ごめんなさい、山科さん。僕、うつらうつらしちゃって」「起こさないようにしたつもりだったけど、目が覚めたかい」おだやかに言った山科さんは僕がねぐらにしている墓石まで僕を送り届けると、「退勤の時間だから帰るな、またあした」と言ってリヤカーを押して去っていった。山科さんの背中を見送ってから、墓石の足元にうずくまった。夜の間だけ、僕はふわふわと宙を漂う...
果敢にも墓石の隙間から顔をのぞかせている雑草に手を伸ばした。もちろん、触れられない、つかめない。僕の生前の名前のように。山科のおじさんがちいさく笑った。「ごめんね。手伝いたいのはやまやまなんだけど」「かまわんよ。インディゴがしゃべってくれるから退屈しない」「もうすぐまた人がいっぱい来るからね。山科さんの仕事もたくさん」「まあ、なぁ。お盆だからな。インディゴが好きな花いっぱいの景色になるぞ」僕は笑う...
幽霊になって、インディゴ、と呼ばれるようになってから何年経つのかはよくわからない。気がついたら僕に対する周囲の呼びかけはそうなっていたから。周囲というのは、毎日、僕の暮らす墓地の清掃にきてくれる山科のおじさんやここの隣の区画にいるマリー姉さんのことだ。いまのところ、僕をインディゴと呼ぶのはこのふたりだけ。僕が話をすることができるのもこのふたりだ。なんてせまい世界なんだろう、とときどき思うけれど、こ...
昼過ぎには遠木の実家を辞した。また来ることはあるだろうか。未来のことはわからない。なにひとつとして。駅までの道をふたたび並んで歩きながら、遠木がほっとした声を出した。すこし笑いながら言う。「極の勝算とやらの『お手紙作戦』があんなにうまくいくとはなぁ」「遠木と僕の歳月の力じゃないかな」笑いながら返すと、軽やかに遠木が笑った。思えば長く恋をしていた。恋をしている。そしてこれからもずっと、恋をしていく。...
「僕の存在が乃生くんのご両親にとって不本意なものであることは承知しています」ふるえだしそうな足にしっかりしろ、と言い聞かせる。「でも、これを読んでください。乃生くんが、アフリカにいたあいだ僕にくれた手紙と、大学進学直前に書き残してくれた手紙です」これ以上はないだろうという渋面をした遠木の父親と不安そうな表情の母親は、不承不承といったていで読みはじめる。隣で遠木はじっとしている。どれくらいの時間が流...
思い返せば、遠木と大きな喧嘩をした記憶がない。僕が我慢することもないし、遠木もおなじだと思いたい。呼吸をするように、お互いがお互いの酸素であるかのように互いを必要としている。言葉に出さずとも考えや思いが的確に伝わることがあるし、12年も離れていたのに不思議なくらいだ。 * * *遠木が浮かない顔で僕の部屋にやってきたのは、帰国から一年半が過ぎようとする夏のはじめごろのことだった。「どうした?しょん...
それからしばらく経っても、遠木の両親からは特になにを言ってくる様子でもなかったので「しぶしぶ黙認ってことなのかな」と遠木は言った。僕はそう甘くはないんじゃないかと思ったけれど、遠木を不安にさせる必要もないのでそっと黙っていた。「極はいいの?結婚しろとか言われない?」「基本的に父さんも母さんもそこは放任主義というか、したかったらすればいいっていうスタンスだと思う」そっか、という遠木の横顔が淡くやわら...
解放されたのは夕方の陽がまもなく落ちようというころだった。オレンジ色の陽がすべてをあまねく照らしだし、遠木と僕の影も長く伸びている。長時間の緊張のあまりに背骨がぎしぎしと軋んでいた。「遠木、僕、うまくやれてた?」「うん、極はよくやったと思うよ。俺より緊張したろ。わかってるんだ。ありがとな」遠木は微笑んで、僕のほうを見た。茄子色の髪がやわらかに風に揺れる。「どうなんだろう。遠木のお父さん、苦虫を10...
「それで、乃生」遠木の父親は息子を見据えるようにして苦々しげに言う。「お前たちはその、最近テレビでときどき見る同性愛者ってやつなのか」問いかけに、遠木も僕もしばらく考えこんだ。どうなんだろう。僕は、小さなころからあんまりにも遠木の上にばかり関心があったものだから、遠木以外には考えられなかったのだけれど。「わからないんだ。俺は極しか好きになったことがないから、改めて訊かれると……どうなんだろう」どうや...
「楠原極と申します。乃生くんとおつきあいさせていただいています」名乗り、僕にできうる限り丁寧に頭を下げた。大事なのは第一印象だ。傍らに立っている遠木がたじろぐのがわかった。僕が『乃生くん』と彼を呼んだせいだろう。遠木を『乃生くん』と呼ぶと、無性に泣きたくなるのはなぜだろう。「あぁ、えーっと、つまり……それじゃあ、君が乃生の恋人だというわけだな」「そうです」「そうか……そういうわけだったのか、いつまでた...
ひさしぶりに訪れる遠木の家は相変わらず瀟洒だった。けれど、玄関先の階段に手すりがとりつけられていて、遠木の両親が年齢を重ねていることが垣間見える。門柱のところのインターフォンで「母さん?俺だけど」と話しかける遠木のふるえる声を聞いた瞬間、手のひらにどっと汗をかいた。玄関の扉を開けて、家のなかに入る。キッチンから出てきた遠木の母親は遠木を見て、それから僕を見た瞬間、怪訝そうな顔になった。「乃生?あな...
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記憶のなかから立ちのぼってきた、なつかしい声を聞く。自分の、保育園に通っていたころの声だろうか。あどけなくてふわふわとした、高い声。「あいりせんせい、けっこんしたの?」「そうだよー、ひろくん」「ええとねえ、ええっと……でめとー?おでめとー?」「わあ、ありがとう」 応じる保育士の声がふっといたずらっぽく揺れた。「ひろくんはだれとけっこんしたいかなぁ?」「だれと?」「けっこんは、すきなひととずうっとい...
煙草の煙が漂ってくると、パブロフの犬もあきれ返る勢いの反射で彼のことを思い出す。僕を抱いた後は煙草が吸いたくなるといった彼。ゆうらりとくゆる一本きりの煙の時間をひっそりとベッドのなかから見守っていた。眼鏡をかけるほどではない軽い近視だった目が、遠くを見るように眇められる、それが色っぽくて好きだった。あの視線が、なにを映していたのかを僕が知るすべはもう、どこにもない。 よく晴れた冬の日曜日の昼下が...
「お疲れさま、ふたりとも。先にあがるね。あ、そうだ!透琉(とおる)くんに教えてもらったレシピ、このまえ試してみたの」「うわあ、ありがとうございます!どうでした?」「レンチンでぜんぶ作れちゃうのね、時短わざは透琉くんに聞けってね」 はじける笑い声を歩生(あゆむ)は背中で聴く。話題そのものに、ものすごい遠心力で弾き飛ばされたのを感じる。相容れない、水と油のように。 バイト仲間の透琉はモテる。主に、パー...
ルーティンというものは破られたときのほうが、守られたときより「そこにある」ことを主張しはじめる。 由糸(ゆいと)の場合、ウィークデーならこんな感じだ。決まった時間に起きて、毎朝飲むサプリメントを服用し、軽く胃に食べものをいれて出勤。帰ってきたら食事のまえに簡単に風呂をすませ、休日に作り置いた数品やスーパーの半額シールの貼られた惣菜で夕食をとって、本や新聞をめくり、だいたい日付が変わるころにベッド...
こんなことでもなければ、20代でふるさとの地をもう一度踏むことはなかっただろう。 視線をめぐらせ見あげる空から、気まぐれに三月の雪が降ってくる。そういえば、この地では死んでいく冬が最期の力を振り絞るように、こんな雪が降ることがあるのだった。襟足から容赦なく冷気が忍び込んでくる。薄手のコート一枚でやってきたことを後悔した。音もなく降る雪に、無沙汰を咎められている気がして、柚希(ゆずき)はちいさく肩を...
もうなにも出ないから、もういいから、と訴えても、やめてもらえなかった。なかの刺激がよくてよくて、無意識にまだ、とかもっと、と口走ってしまうたびになんども奥に射精された。なにも出ないままでいかされたとき、脳髄ごとけいれんを起こすような快感に絶叫した。溺れそうで苦しくて、苦しいことがしあわせだった。 果てのない交合が終わったのは、夜明けちかかった。あちこち痛む身体をなだめすかして起き上がると、響生が...
だから、何のためらいもなく響生の指が後孔をうかがってきたとき、興奮よりも恐怖を覚えた。肌はほてっているのに血の気の引くような、ふしぎな感覚。「ねぇ、ひびきさ……っ!あの、ねぇ、その、……ほんとにできる、の?」 響生が無言で陽詩の手を掴む。そのまま導かれた先の熱に反射的に指先がびくっとした。「陽詩にあれだけしといて、俺のが無反応とかそっちのほうが変態くさいだろ」 軽く笑った響生の指が体内にもぐりこんで...
「すごくいまさらなこと訊くけど」 ベッドサイドのあかりだけが生きた仄暗い部屋、ベッドの上で陽詩がせがむままのキスをしながら、響生が問う。「陽詩くんって、ゲイなの?」 陽詩は答えないまま、自分にのしかかっている男に口づけをねだる。スプリングをきしませながら、なかばもう自暴自棄なのか、響生が熱心にそれに応じた。「こういうキス、したことある?」 響生は舌先だけを陽詩の舌にからめ、誘い出した。ふたつの唇の...
数日後、響生が住むアパートの最寄り駅の改札で、陽詩は姉の恋人の帰りを待っていた。 ここで、姉といっしょに響生を待ったことがある。あの夜は、三人でたこやきパーティーをした。姉はとても楽しそうにはしゃいで、そんな姉を響生がやさしい目で見ていた。 そして今夜は。陽詩は、墨を流したように暗い空を見上げた。 ――……今夜は、後戻りのできない取り引きをする。「陽詩くん?」 背中に、聴きたがえようのない響生の声が...
「ドナーの適合検査……?あの、僕も?」 三日後の朝。ダイニングテーブルをはさんで向かいに座る父親の顔を陽詩が見上げると、父親は「すまないが、検査を受けてくれ。繭子のためだ」と憔悴しきった面持ちでうなずいた。「陽詩がいま、将来に向けて大事なときだっていうことはわかっている。できるだけ、おまえの心身の負担にならないようにはしたいんだが……巻きこんでしまって、ほんとうにすまない」 陽詩は居心地悪く、椅子の上...
ハイレベル模試を全教科受け終わり、家路を辿る途中の自販機で買ったスチール缶のココアを片手に自宅のドアをひらく。いちどきに、重く沈み、暗く淀み、つめたく凍りついた空気に全身を包まれた。家じゅうが閉じた冷蔵庫になってしまったかのような異様な雰囲気にかすかに身震いする。ふっと、このさきの人生には何一ついいことがないんじゃないかという予感がした。 空恐ろしい未来予想を振り払うように、陽詩(ひなた)は精い...
ぽた、と膝に落ちたのが溶けたアイスクリームの雫だったとき、やっと、別れ話をされているのだと理解した。夏の終わりの夜のはじまりはまだ明るく、一瞬でぬるくなった濃紺のうえのミックスミントアイスの色はいかにもすずしげだ。 人工色の緑を指先でふき取り、ふふ、と千緒(ちお)はちいさく笑う。アイスだって。涙じゃなくて。たぶん、650円くらいの値段の恋だったんだ。 涙さえ流す価値さえない恋だったのだと、だれかに...
ふっと、帰ってきている気がした。曇りガラスのむこうに、朝からしとしとと降っている雨の足跡を刻んで。麻杜(おと)は人参をさいの目に刻んでいた手を止め、じっと硝子戸の外の気配をうかがう。犬が甲高く鳴く声、バイクの走り抜ける音。昼下がりの休日の、なんということのない音の光景。きっと、聞いた通りの風景が硝子の引き戸越しには広がっているのだろう。「麻杜」聞こえない声が聞こえる。触れられない腕がそっと手の甲を...
彩葉の目を覗きこみ、清音が感じ入ったように言う。「菅原がちゃんと感じてくれて、すごく気持ちよさそうでよかった」「……気持ちよすぎて頭がへんになるかと思った……。いろいろ見苦しくてごめんね……」 さっきまでの交わりの名残はもう、身体の奥に残るあまい感覚と、シーツを汚しているもろもろの体液にしか残っておらず、彩葉はかすれた声で言うと咳きこんだ。その拍子に後孔からくぷりと清音の放ったものがあふれ、シーツに伝...
「ん、ああんっ、……あぁっ、いい、気持ちい……っ、あ、あっ、……いく、いっちゃう」 清音の歯が乳首をかすめた瞬間、目を閉じ、浮かせた腰をふるわせてさらさらと流れるような射精をする。存分に出したはずなのに強烈な快感は引かず、高止まりのままの性感に彩葉はもうどうしたらいいのかわからない。ただ、身体がそうしたいと思うがままにあられもなく乱れた。荒い息のあいだから、自分を抱く腕に訴える。「あぁぁ……ん、清音、まだ...
じわじわと、清音の性器に浸食されていく。ちっとも怖がらずに清音を受け入れたそこが気持ちよがって、ひくひくと飽きることなくあたらしい異物を啜るのがわかった。ゆるく彩葉を抱きしめ、腰を進める清音が、あっ、とちいさく掠れた声を洩らす。「ゃ……、待って、菅原、……なに、なにこれ」 彩葉の内腑の蠕動を予想していなかったのだろう。とはいえ、彩葉は彩葉で指とは較べるべくもない質量がなかに挿ってくるので、痛苦しいや...
後孔にそろりと最初の指が差し込まれてからどのくらい経つのか、彩葉には判然としない。はじまったころは違和感に清音の指を押し出そうとばかりしていた彩葉の粘膜は、いまや喜んでなかで蠢く指を三本も咥え、啜り、しゃぶっている。ぬちゃぬちゃという粘着質な水音は、清音が彩葉の後孔にたっぷり含ませたローションで。「……だいぶ慣れた?痛くない?」 清音の問いに、枕を抱えて脚をおおきくひらいたまま、声も出せない快楽に...
清音の声で彩葉に吹きこまれるのは慈しみなのに、はっきりと欲情をにじませている。清音が早く彩葉を自分のものにしてしまいたいと思っているのがわかる。だって、唇に優しく口づけながらも清音の手は。「あ、ぅ……ん、あぁ……、んっ、あ」 とうにしとどに濡れていた彩葉の性器に触れる清音の手には、いっさいの躊躇も遠慮もなかった。彩葉が分泌したぬめりを借りて、水音を立てて、反応をうかがいながら追い上げてくる。過ぎた性...
「菅原」「……どうしたの?」「ここ、こりこりになってきた。すごい、指で弄れそう」 したたるような声で言うや否や、清音が指先で彩葉のはっきりと赤みをまとったふたつの尖りをつまんだ。そこから注がれる快感に息を呑んだ彩葉の喉から、うわずった声が迸る。「あ、あぁ、……っ、や……!」 反射的にぎゅっと目をつぶってしまったので、否応なしに触覚と聴覚が研ぎ澄まされる。はっきりわかる。清音にどんなふうに触られているか。...
「菅原、こら、じっとしてて」「ごめん、想像以上に恥ずかしい、これ」「……こら、もう、強硬手段に出るよ」 そう言って、彩葉のパジャマのボタンをベッドの上でひとつずつ外しながら、真上から彩葉を押さえ込んでいる清音が器用に脚で彩葉の動きを封じた。直接、肌に触れる清音の指がくすぐったくて身をよじりたいのに思うように動けない。こんなときなのに笑いだしそうになる。 されるがままにパジャマをはだけられ、素肌に手の...
花火?と首をかしげた智伸はスマートフォンで何やら検索をはじめる。ややあって、「あぁ、これか。海上花火大会」とつぶやいて画面を優羽のほうに差し出した。 智伸のスマホを受け取って目を走らせる。どうやらこの土地では季節にかかわりなく頻繁に花火が上がっているらしい。「どうする?見に行くか?」 智伸に選択権とともにスマホを手渡す。携帯の画面を眺めながらすこし考えた智伸が「きれいだけど、行かなくていいかな」...
「強くならなきゃ」とちいさくもう一度声にすると、ゆるゆると智伸が首を横に振る。「そのままでいいよ、強くなくていいよ、優羽。俺が好きになったのは、いまの優羽だから。好きなんだよ。弱いとことか、いっぱいいっぱいまで溜め込んで、爆発しちゃうとことか」 自分はどうしたらいいのだろう、と考える。こんなふうに存在を肯定されて、変わらなくていいと言われて。智伸がしずかに目を閉じた。「ずっと、優羽のそばにいたか...
「なぁ」 智伸に呼びかけた。ゆっくりと相手がこちらを見る気配がする。「お前、怖くないの。その……病気のこと、死んじゃうとか、だんだん身体が動かなくなるとか。俺だったらもっと取り乱して、泣き喚いていると思う。平静じゃいられない」 優羽の言葉に智伸はすこし考えこむそぶりを見せた。しばらく黙ったあと、すこしずつ紡ぐように言葉を口にする。「『怖い』の第一波は乗り越えたのかもしれない。また怖くなったり、夜眠れ...
「ほんとだから、怖かった。こんなにしあわせなことがあるはずがないって思った。優羽もなにか言うわけじゃないから、確かめたら終わりみたいな気がして、なんにも言えないまま卒業して。大学入ってから後悔したよ、伝えておけばよかったなって。だから社会人になってまた距離が縮んだときは、今度こそうまくやろうって思って、」 智伸の声が途切れる。その矢先に病気のことが発覚したのだろう。つくづくタイミングを逃してばかり...
来てみたのはいいものの、さほど智伸にとって興味を惹かれる展示がなかったようで、早々に美術館をあとにした。 来たときと反対車線のバスに乗って急坂を駅前まで下りていく。ビー玉を落としたら延々と海まで転がっていきそうな街だな、と優羽は妙な感慨を覚えた。そのすこしばかげた物思いを智伸に伝えようとしたけれど、窓の外を見ている横顔のしずけさに口をつぐんだ。 駅前まで戻って、路線バスを乗り換えて温泉宿へ帰る。...
優羽は智伸の頬に手を伸ばした。その手をそっとつかんで、智伸が指先で手のひらの輪郭をなぞる。覚えておけたらなぁ、とちいさな声で言う。「なにを?」「なにもかも。優羽のことはもちろん、大事なことをなにもかも」 ごめんな、という声とともに手が自由になる。智伸の指先の感覚が残る手をぎゅっと握りしめた。ちいさく息を吸い、みじかく言った。「忘れていいよ。だいじょうぶだから」「えっ?」 虚を突かれたような顔にふ...
その晩はひたすら互いを貪った。脚を肩に抱えあげられて、智伸の身体のうえに乗り上げて、さまざまに体位を変えながら。 何回いかされたか優羽は覚えていない。なんど出されたかも。ただ、身体の満足だけを追っているあいだは智伸のこれからを考えずにすんだ。それだけがわかっていた。 明け方、みじかい眠りにつくまえに、智伸がやさしく優羽の肩を撫ぜながら「あしたがいい日でありますように」とつぶやくのが聞こえた。もう...
智伸の指の抜き差しがはっきりと暴く動きに変わった。ひっきりなしの快感に翻弄されて、優羽の心身から羞恥や遠慮が消しゴムをかけるように薄れていく。いきそう、と訴える。「や……あっ、……あぁん、あぁっ、……いく、おれ、いっちゃ……っ!」 はしたなく喘ぎながら優羽がのけぞった身をふるわせて射精すると、智伸は片手で白濁を受けた。「ごめんな、これ、使わせて」 智伸は自分の性器に優羽が放ったものをまぶすと、優羽のなか...
もう恥ずかしがっていてもしかたないので、関節の許す限りいっぱいに大きく両脚をひらいた。さらされる感覚に、ぞくぞくした。 智伸の指が後孔をうかがう。ふちをなぞるように円を描いて、ときどき入口にぴったり指を押し当ててくる。はしたなくこぼしているもののせいで、そのまわりが潤っているのがわかった。 内腑にごく浅く侵入してきた指を、優羽の身体は拒まなかった。むしろ、その呑むような動きに智伸が驚いたように尋...
その問いかけに、気持ちを確かめる疑問符に、智伸の喉がかすかに鳴った。それが答えだという気がしたから、優羽のほうから唇をあわせた。 ついばむような口づけが、ほどくのも難しいような深いものにかわるのにさして時間はかからなかった。智伸は優羽の座る椅子に半分乗り上げるようにして、優羽の唇を、舌を貪った。優羽は智伸の背に両腕をまわして、与えられるがままにキスを受けた。「優羽、抱いてもいいか?俺、いなくなっ...
窓際にしつらえられた椅子に腰かけていた優羽は、軽やかな音とともに洗面台で歯を磨いている智伸を見遣った。「なぁ、智伸」 口をすすいでいる智伸が軽く振り返りちょっと待って、というジェスチャーを返してくる。コップに歯ブラシを立てて、「なに?」とやわらかに問うてくる。「あしたがいい日でありますように」「……え?」「このまえから俺にそう言ってくれるだろ。優しく光っているみたいな祈りの言葉。これってなんなの?...
智伸が居心地悪そうに身じろぎした。湯がゆれる音が立つ。「なんだよ、人の顔見てにやにやして」「いや、智伸のこと無理やり連れだした気がしてたけど、やっぱり来てよかったなって」「……いやだったら来ないよ」 ぽつんと落ちた言葉が浴場に響いた気がした。 ふたりでのぼせる直前まで湯につかって、のんびりと浴衣に着替えて部屋に戻る。智伸がしごくゆったりと言う。「気持ちよかったー……。ふやけるかと思った」 白湯を飲み...
目的地には快適に到着した。スマートフォンを改札にかざして駅前のロータリーに出る。かなりの人出ですくなからず驚いた。温泉宿へのバスに乗り込む。いきなりのジェットコースターみたいな急坂にやや気圧されつつも、隣に座った智伸に話しかける。「きょうは冷え込んでいるから、温泉が楽しみだな。想像するだけでぽかぽかになりそう」 智伸はバスのフロントガラス越しに坂を眺めていたけれど、優羽のほうを向いて楽しそうに笑...
気持ちを切り替えるためだけに、話題を振った。この先のこと、みじかい未来の話を。「智伸、お前、着いたらどうする?とりあえず、宿に行くか?」「そうだなぁ、時間はいっぱいあるから、まずは温泉でゆるっとしたいな」「わかった」 話しているあいだにも、新幹線がやってきてふたりして乗り込む。なんとなく窓際の席に智伸を座らせると、かすかに笑った。「なんだよー」と言うと「なんでもない」と笑ったままの答えが返ってく...
翌日の朝、新幹線の出発時刻15分前に在来線と新幹線が相互乗り入れをしている駅に到着した智伸と優羽は、並んで新幹線ホームにむかいながらキャリーケースを転がしていた。先だって、優羽の荷物が大きすぎると智伸は会うなり声をあげて笑った。そう言う智伸の荷物はコンパクトすぎて、優羽は心配になるのだけれど。「俺、旅行に行くのなんて何年ぶりだろう」 優羽が感慨深げに言うと、智伸が「俺は修学旅行の引率以外の旅行に...
「いいな、熱海。海にも山にも近いし。っていうか、海で、山だし。なんで今まで行かなかったんだろう」「俺はともかく、智伸は学校の仕事でそれどころじゃなかっただろ」 優羽はじっと智伸の目を見た。あきらめるために。ここからはじまる、なんて思っちゃいけない。ここから終わらせていくための旅なのだ。目を見つめたままで言う。「旅じまいに、温泉満喫しような」 智伸の目がかすかに揺らいだ。こくりとうなずく仕草がやけに...
ゆうべの肌寒さは放射冷却によるものだったらしく、翌日は秋晴れのよい日和になった。すこん、と抜けたような青空のもとを部屋から最寄りのバス停まで歩いた。 やってきたバスで駅前まで出て、約束したドトールに優羽が到着すると、智伸はもう席についていて「優羽!」と軽く片手を挙げた。病気だなんてうそみたいな自然な笑顔だった。 いつもそうだった、と優羽は思う。きっちり約束通りの時間に赴くと、智伸がいつも自分を待...
『優羽』 優羽の提案にしばし黙り込んだ智伸が、しずかな声で言う。『思い出作りのためだったらやめたほうがいい。あとから余計に苦しくなるから』「なにもできないほうがいやなんだ。こんなことになったのに、離ればなれで日常を送るほうがいやなんだ。俺の気持ちに気づいているんだろ?だったらわかるだろ?」『ほんとうに俺のこと、好きでいてくれているの?』 こんなときなのに、とても甘い問いかけに聞こえた。「ああ」と短...
つぎつぎにあふれだしてくるものを思いを、考えてもしかたない、と首を打ち振った。考えたところで、智伸を蝕む病気の進行が遅くなるわけじゃないのだ。病気が、消えるわけじゃないのだ。深い悲しみに、両足をとられる。 ふと、別れ際の智伸の声がよみがえる。やわらかい、すこしかすれた声。「あしたがいい日でありますように」。 ふざけんなよ、と唐突な怒りがわいてきた。勝手に病気を打ち明けて、優羽の気持ちを知っていた...
どうやってアパートの部屋に帰りついたのか覚えていない。ほんとうにそんなことがあるんだ、と思った。 気がつけば優羽は自分の部屋のベッドに仰向けに横になり、なにをするでもなくスマートフォンのニュースサイトを眺めていた。現実からはじき出された心が、いつも通りの行動をとることで、現実に戻ろうとしているみたいだった。 我に返って、目を閉じる。「泣くなんてずるい」と言っただれかの声がよみがえる。そうだ、あれ...