記憶のなかから立ちのぼってきた、なつかしい声を聞く。自分の、保育園に通っていたころの声だろうか。あどけなくてふわふわとした、高い声。「あいりせんせい、けっこんしたの?」「そうだよー、ひろくん」「ええとねえ、ええっと……でめとー?おでめとー?」「わあ、ありがとう」 応じる保育士の声がふっといたずらっぽく揺れた。「ひろくんはだれとけっこんしたいかなぁ?」「だれと?」「けっこんは、すきなひととずうっとい...
BL小説『いつか君に咲く色へ』連載中です。人の感情を色で把握できるDKとその色をもたない同級生のおはなし。ゆっくり恋になっていきます。
『ありえない設定』⇒『影遺失者』と『保護監視官』、『廃園設計士』や『対町対話士』(coming soon!)など。…ですが、現在は日常ものを書いております。ご足労いただけるとうれしいです。
僕の顔色を見て取るなり、「ちがうんだ、極、ちがうんだって」と遠木は慌てたように言う。「好きなやつはいるけど、結婚するつもりはないって言ったら……連れてくるだけ連れてきなさいって言われてさ。親にもさんざん心配かけたから、俺も強く出られなくて」繰りかえしなぞっていたカップの持ち手から指を離した遠木は僕をまっすぐ見て言った。「俺の実家にいっしょに来てくれないか」一瞬、時が止まった。こういうときってほんとう...
遠木のことをなにひとつ忘れていなかったと突きつけられるたび、自分の恋心に戸惑う。こんなに一途な性格だったっけと自己認識を改めかけるものの、遠木以外のことにはてんで無頓着なのでやはり遠木だけが特別なのだろう。僕を呼ぶ声、本をめくるときほんの一瞬ためらう指の動き、ときどきシャツのボタンを段違いに留めるうっかりしたところ。覚えている、覚えていた、なにひとつ損なうことなく。それがとてもうれしくて、誇らしか...
遠木が波打ち際に視線をやったまま、あたたかい声で言う。「極のところに帰れると思って、それだけが、若干の失意の帰国時、心を支えてくれた」「僕は、生きているあいだにまた遠木に会えるなんて夢みたいだと思った」えっ?と遠木が目をしばたたいた。なんで?と疑問が転がり落ちた。「遠木があの国に行って、もう帰ってこないと思っていたから」「それなのに、だれともつきあわないでいてくれたんだ?」「遠木と過ごした時間が僕...
きょうがいい日になるといいおおごえで泣くあかちゃんはきょうがいい日になるといいなんにもかたらぬばあさまはまいにち朝はやってきてわたしの頬をやさしくてらすかなしく涙をながしていてもおそとの草らは背をのばすあたまを下げてるおじさまはきょうがいい日になるといいひとりぼっちのねえさまはきょうはかなしくないといいきょうがいい日になるといいきょうがいい日になるといいたとえまいにちかなしくてたとえあしたがみえず...
遠木が「海に行こうか」と言い出したのは季節がすこし巡り、春になろうとしているころのことだった。日差しは日に日にやわらかく優しく、そんな土曜日の朝、僕らは連れ立って電車に乗り、海岸線を走った。遠木は僕の隣でつり革につかまって口をつぐんだまま、遠くに視線を投げている。なにを考えているのだろうか。やがて海辺の駅に着き、電車を降りて海へと向かった。護岸ブロックを降りるあいだ、だれもいないのをいいことに優し...
遠木の勤務がはじめると、やはりなかなか会えなくなった。それでも遠木はまめに連絡をくれたし、帰り際に僕のアパートに顔を出してくれる。僕のほうからも遠木をタッパー片手に訪ねたり、もらった合鍵で遠木の部屋に行き、本を読みながら彼の帰りを待ったりした。いつまでたっても互いの顔を見られることがあたりまえにならず、いつ会っても遠木の声に新しくどきどきした。遠木も僕が訪ねるたびに、ほんとうにうれしそうに笑ってく...
ふたりの記憶を改めてすり合わせるように、思い出話もよく語りあった。遠木がはっきり覚えているシーンを僕が忘れていたり、僕の大事な記憶が遠木のなかになかったりして、思い出が二倍三倍に増えていくようだった。遠木がコンビニの駐車場で変質者に声をかけられたことを覚えていなかったことにほっとした僕は、あの瞬間、僕の心に深く重く沈んだ遠木への想いの錨をあらためていとおしく思う。「極、いつだったか、久しぶりに話し...
遠木は帰国のひと月後から、隣の市の総合病院で働くことになった。せわしない遠木のスケジューリングに、もうちょっとのんびりすればいいのに、と僕が言うと、のんびりするのは性に合わなくてな、と目を糸のように細めて笑う。僕のアパートの近くの新築アパートに遠木は居を構えたので、遠木の仕事がはじまるまでは僕の終業後や週末なんかにはふたりで過ごすことかできる。信じられないくらい近くに、遠木がいる。そのしあわせに酔...
僕はすこし考えて、そしてちいさな声で遠木にささやいた。「寂しいっていうか、遠木がこっそり僕の部屋に置いていった手紙を読んでから、ずっと声が聴きたかった」あ、あの手紙見つけたんだ、と遠木がちいさく笑った。問いが優しく降ってくる。「声って?どうして声なの?」えっ、とちいさく声が洩れる。「遠木、声がきれいだって言われたことないの?」「ないない、なにを言っているのやら」苦笑の気配に本当にそうなんだろう、と...
遠木が?これからどこへも行かずに僕のそばにいる?実はもう眠っていて都合のいい夢を見ているんだな、とまず思った。あれだけたくさんの努力を重ねて夢をかなえた遠木が、そう簡単にいまの仕事を手放すとは思えなかったから。けれど、まばたきをしても夢から目覚める気配はいっこうになく、遠木にそっと抱き寄せられる感覚がちゃんとリアルで、遠木の言葉が現実に追いついてきた。極といっしょにいたい、と僕の髪を撫ぜながら繰り...
「遠木、人が見るよ」抱きしめられたままちいさく抗うと、ますます背中に回された腕に力がこめられる。優しい力と温かさに衆目がどうでもよくなってきて、僕も遠木の背中に腕をまわして身をゆだねた。こんなふうに触れ合うのは12年ぶりなのに、磁石の両極が引き合うように遠木の腕は僕の背中にぴったりと添った。僕の腕もそうだといい。「おかえり、遠木」「……うん、ただいま」うちに来る?と訊ねると、行く、と返事があって遠木...
翌日、遠木から28日の夜の便で帰る旨の連絡があり、その最後に『迎え、ありがとう。俺も楽しみにしてる』という一文があるのを読んで単純に胸が躍った。「会いたい」が双方向に伸びているということは、こんなに幸せなことなのか。引き寄せあう、強い力。遠木と離れて、ことさらにつらいと思ったことはなかったけれど、寂しくないわけではなかったんだなと自分の心を改めて嚙みしめなおした。そして、ひょっとしたら、遠木も多忙...
☆『あなたの声で息をする』の続編になります☆遠木がアフリカでの勤務医の任を解かれて帰国したのは、彼があちら側にわたってから12年後のことだった。8月の半ばの夕方にとてもひさしぶりに遠木からメールが届いたと思ったら、紛争が終結にむかっていること、それにあわせて医療チームも人員を減らす運びになったこと、11月の末に帰国することが記されていた。はじめは夢でも見ているのかと思ったけれど、次第に喜びがむくむく...
朝晩めっきり冷え込むようになりましたね。わたしはけさ、今シーズンはじめて暖房を使いまして、「電気代もったいないし、10月中は暖房しないからな!」という自らへの誓いを破った次第です。だって寒かったんだもん……。それはさておき。あした夜から『あなたの声のそばにいる』という連載をはじめようと思っております。7月頭に『あなたの声で息をする』が終わったとき、「彼らの10年、20年後を読みたい」というリクエストを...
写真集をあった場所に戻して、永崎、と呼ぶと、優しくやわらかく「どうした?」と返ってくる。僕が呼べば永崎はいつもこんな口調で返してくれた。「もう、暗い道は歩かなくていいんだ。洞窟のなかに迷い込んでいくようなことはおしまいにしよう」永崎が耳朶を撫ぜていた手をとめる。「……え?」永崎にむかって笑ってみせた。心から、まっすぐに視界のなかの滲んだ顔を見た。「ありがとう、僕といっしょに不安な道を歩いてくれて。ひ...
じわじわと永崎に浸食されていく。自由にならない息は苦しいけれど、しあわせで陶然となっていく。「挿ったよ、ぜんぶ」僕のなかに完全に自身を収めて、子どもみたいな声で永崎が言う。そのまま動きたいのを堪えているのだろう、覆いかぶさってきてぎゅっと僕を抱きしめる。「……夢みたいだ。うそみたい、峰邨を抱いてる」「夢でもうそでもないよ、ちゃんとここにいるよ」そのままなんども唇を重ねた。お互いの速い鼓動がどちらのも...
永崎はふたりの息も整わないうちに、「ほんとに、いい?」と僕の後孔にふたりぶんのぬめりをまとった指を這わせる。その声が切羽詰まっているのがおかしくて、笑いながら「いいよ」と言った。永崎に言われ、脚を膝を立ててできるだけ大きくひらいた。いやだ、恥ずかしいという気持ちとこの先を早く知りたいという気持ちが綯い交ぜになる。永崎はなるべく痛くないようにするな、と言って指先をなかへと挿しいれてきた。永崎の手つき...
「峰邨」名を呼ばれる。僕の顔に影が差して、唇が重なる。なんどもついばむようにキスしながら、永崎が僕を抱きしめた。永崎の舌先が僕の唇をなぞる。かすかに開くと、永崎の舌が口腔内に潜りこんでくる。舌を吸い上げながら絡め合い、さんざん深いキスをする。気持ちよくて永崎の背中にしがみつくと、ひょいと抱えられてベッドに押し倒された。真上からの永崎のキスを感じながら、制服のブレザーとシャツを脱がされた。それがとて...
川沿いの遊歩道をゆるゆると歩きながら、熊と小鳥のたとえを思い出す。熊が小鳥にささやき続ける。『ごめんね。ずっと一緒にいるから。安心していいよ』と、心からの誠意と愛をこめて。小鳥は決して熊を愛することはないと僕は思っていたけれど。熊の言葉は小鳥の傷からしみわたり行きわたり、やがて小鳥の心を動かすかもしれない。「好きだよ、峰邨」ふっと永崎の声が想像の景色をかすめた。ずっといっしょにいると言ってくれた、...
ほんの少しの沈黙のあと、永崎が僕に尋ねる。「……どういう、意味?」「だれかを憎んでいる自分より、だれかと楽しく過ごせる自分のほうがやっぱりいいよ」「そっか。そうだよな」同情でも憐憫でもなく、永崎の声が優しい。そのことが、ただうれしかった。だれかに優しくされる価値のある存在なのだと、自分のことを素直に認められた。「永崎」呼びかけると、うん?と返事があった。「優しくしてくれて、たくさん僕のことを考えてく...
どうしてだろう。永崎と話しているときに落ちるこんなふうな沈黙は決して居心地悪くない。気詰まりでもない。けれど、永崎はなんだかごまかすように「ほらほら、反対側のソースがはみ出してるだろ」と自分の食べたあとのバーガーの包み紙を見せてきた。たしかにバンズからはみ出したらしいソースの赤がぼんやり見えた。峰邨は器用なんだよな、と感心したように言うので、たかがハンバーガーの食べかたひとつでと妙におかしかった。...
永崎はしばらく話すのをやめて、ちいさな唸り声をあげた。そしてからりと陽気を装った声で言う。「だめじゃん、峰邨。俺、お前のこと好きだから、そんなこと言われたらうれしくて心臓が口から出てきちまう」僕がすこし笑うと、永崎は真面目な声で「ほんとに、頼むわ。うっかり望みがあるような気になっちゃうから」で言った。この瞬間、完全に信じた。永崎が僕を好きだということ、それが同情でも憐憫でもないこと。動揺を気取られ...
永崎と散歩に出たのは、翌週のよく晴れた日曜日だった。「峰邨、ずっと外食なんてしてないだろ。モス行こうぜ、モス」と僕をファストフードで誘った永崎は、僕の両親に「峰邨くんと昼食を食べに出かけさせてください」と出しなに頭を下げた。このころになるともう僕の両親は永崎をすっかり信頼しきっていて、「ふたりぶんの昼食代にしてね」とお金を渡していた。「永崎くん、ほんとうのことを言うとね」母は永崎にしずかな声で言っ...
すばる。その瞬間、心のいちばんきれいな部分がもろもろと崩れ、泣いてしまうんじゃないかと思った。やわらかな永崎の名前、僕が好きだった星の名前。本物の昴は失われ損なわれ見えなくなり、そのかわりに『すばる』がやってきたみたいだと思った。ひとつの光が失われても、すべての光をなくしてしまうわけじゃない、そんなことも思った。永崎の名前からじわじわと温かさが身体じゅうに沁みこんできて、『事故』以来、ずっと重たか...
「すごいね。こんなふうな星は本格的な天体望遠鏡がなきゃ見られないよ」じっくりと顔を本に近づけたり遠ざけたりしてみている僕に、永崎は満足そうに笑うと、ゆっくりとページを繰っていく。ふっと錯覚にとらわれる。永崎とは旧知の仲で、ずっと以前からこんなふうに過ごしていたような。錯覚は一瞬で消え、けれど、世界を一歩踏み外したような感覚が戻らない。「永崎」ちいさく名を呼ぶと、ん?と生返事が返ってくる。「お前、い...
僕が言い終えるとほぼ同時に、永崎がちいさく息をついた。知ってたよ、と言う。え?と輪郭のぼやけた顔を見やると、「峰邨が俺らのことを苦手なの、知ってた」と息と同じくちいさな声で言った。だから、と言ったあと永崎はしばらく考えて、だけど、と言い直した。「いまの峰邨の感謝の気持ちを、俺は受け取ってしまってもいいのかな」ゆるい視界のなかで、黒い背中がうつむいている。だから、僕は言った。永崎の気持ちがすこしでも...
その日もふたりでノートの空白部分を埋め、数学の問題集を解いた。この習慣もだいぶスムーズに進むようになっている。きのうのきょうで家に永崎をあげるのはすこし怖かったけれど、永崎は真面目に勉強に集中している。「峰邨、頭いいから大学だって行けたのにな。ほんとに申し訳ない」数式をA4の紙に大きく書き写してもらったものを解いていた僕の手元を見ながら、永崎がぽつんと言った。ほんとうは「もういいよ」と伝えたかった...
その日の帰り、永崎に訊ねてみた。前々からふしぎに思っていたことだった。「どうして永崎は僕から逃げないの?あのとき、永崎と喋っていたやつらは誰ひとり責任取ろうとしないのに」「直接の原因は俺だろ。責任感じるなっていう方が無理だよ。お前があんなふうに教室で取り乱して、ああ悪いことしたなってきょうも思ったし……。峰邨はいまだに、本はともかく星はまだ見えないままなんだろ。好きなもんをお前から奪ったのを、これで...
「終わったか」僕が用を足し終えるとぼそっと永崎が言い、また永崎の服の裾をつかんでトイレから教室に戻る。教室の戸口まで戻ったところでうすぼやけた教室のなか、口さがない女子の声がした。自分の名前を耳が拾って、凍りついたようにその場に棒立ちになる。「峰邨くんもそろそろ、永崎のこと許してやんなきゃねー」「そうそう、未来永劫あのまんまじゃ、いくらなんでも永崎がかわいそう」無責任に笑いあう声は、僕らが教室に戻...
「……なんで、笑ってるの?」「お前、言いたいように言うよな。静かでおとなしい印象だったのに」永崎が僕のことを以前から目立たないクラスメイトとして認識していたらしいことに若干の驚きを覚えながらも、「悪目立ちしないようにしてただけ。それもだれかのおかげで台無しだけど」とまた憎まれ口がこぼれ落ちる。出る杭は打たれる、はみ出し者は叩かれる。ならば、しずかに埋没しているのが賢いありかただったろう。実際、妙に目...
「……永崎はもともと、そういう人だったわけ?」翌朝、迎えに来た永崎の黒いリュックにつかまって歩きながら尋ねた。一晩じっくり考えてもわからなかったので、本人に訊くしかない。「そういうって?」鈍いな、しかも絶望的に。もうどうにでもなれ、と直截的に口にした。「男が好きな、男」僕が言うと、リュックの背中が電気でも走ったかのようにぎくっと硬直するのがわかった。きのうのことを思い出さないようにしたいのは永崎もお...
「なぁ、信じてくれるか?俺、お前が好きなんだよ」永崎がそろりと尋ねてくる。声がまだ熱を帯びていて、それが無性に怖かった。ほんとうに永崎は僕を。でも。「いやだ、信じたくないし信じられない」たった一言が、いままでぶつけてしまったどの言葉より深く永崎を傷つけたのがわかった。そうだよな、とつぶやくと「ごめんな」と低くささやいて、後始末をしてくれる。のろのろとジーンズをもとどおりに履くとぼやけた視界のなかで...
床の上に押し付けられながらの熱心な口づけの隙間から、自分のものと思えない甘い吐息が洩れていく。「……んっ、ふ……ぁ」ずいぶんと自分でも触れていなかった下肢が熱を持ち、反応しているのがわかった。永崎の手のひらがそれを確かめるようにジーンズのうえから性器に触れる。ためらいのない手つきでベルトを外され、ジーンズを脱がされる。そのあいだにも続けられる口づけに、とうに下着が濡れているのが恥ずかしかった。永崎の手...
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記憶のなかから立ちのぼってきた、なつかしい声を聞く。自分の、保育園に通っていたころの声だろうか。あどけなくてふわふわとした、高い声。「あいりせんせい、けっこんしたの?」「そうだよー、ひろくん」「ええとねえ、ええっと……でめとー?おでめとー?」「わあ、ありがとう」 応じる保育士の声がふっといたずらっぽく揺れた。「ひろくんはだれとけっこんしたいかなぁ?」「だれと?」「けっこんは、すきなひととずうっとい...
煙草の煙が漂ってくると、パブロフの犬もあきれ返る勢いの反射で彼のことを思い出す。僕を抱いた後は煙草が吸いたくなるといった彼。ゆうらりとくゆる一本きりの煙の時間をひっそりとベッドのなかから見守っていた。眼鏡をかけるほどではない軽い近視だった目が、遠くを見るように眇められる、それが色っぽくて好きだった。あの視線が、なにを映していたのかを僕が知るすべはもう、どこにもない。 よく晴れた冬の日曜日の昼下が...
「お疲れさま、ふたりとも。先にあがるね。あ、そうだ!透琉(とおる)くんに教えてもらったレシピ、このまえ試してみたの」「うわあ、ありがとうございます!どうでした?」「レンチンでぜんぶ作れちゃうのね、時短わざは透琉くんに聞けってね」 はじける笑い声を歩生(あゆむ)は背中で聴く。話題そのものに、ものすごい遠心力で弾き飛ばされたのを感じる。相容れない、水と油のように。 バイト仲間の透琉はモテる。主に、パー...
ルーティンというものは破られたときのほうが、守られたときより「そこにある」ことを主張しはじめる。 由糸(ゆいと)の場合、ウィークデーならこんな感じだ。決まった時間に起きて、毎朝飲むサプリメントを服用し、軽く胃に食べものをいれて出勤。帰ってきたら食事のまえに簡単に風呂をすませ、休日に作り置いた数品やスーパーの半額シールの貼られた惣菜で夕食をとって、本や新聞をめくり、だいたい日付が変わるころにベッド...
こんなことでもなければ、20代でふるさとの地をもう一度踏むことはなかっただろう。 視線をめぐらせ見あげる空から、気まぐれに三月の雪が降ってくる。そういえば、この地では死んでいく冬が最期の力を振り絞るように、こんな雪が降ることがあるのだった。襟足から容赦なく冷気が忍び込んでくる。薄手のコート一枚でやってきたことを後悔した。音もなく降る雪に、無沙汰を咎められている気がして、柚希(ゆずき)はちいさく肩を...
もうなにも出ないから、もういいから、と訴えても、やめてもらえなかった。なかの刺激がよくてよくて、無意識にまだ、とかもっと、と口走ってしまうたびになんども奥に射精された。なにも出ないままでいかされたとき、脳髄ごとけいれんを起こすような快感に絶叫した。溺れそうで苦しくて、苦しいことがしあわせだった。 果てのない交合が終わったのは、夜明けちかかった。あちこち痛む身体をなだめすかして起き上がると、響生が...
だから、何のためらいもなく響生の指が後孔をうかがってきたとき、興奮よりも恐怖を覚えた。肌はほてっているのに血の気の引くような、ふしぎな感覚。「ねぇ、ひびきさ……っ!あの、ねぇ、その、……ほんとにできる、の?」 響生が無言で陽詩の手を掴む。そのまま導かれた先の熱に反射的に指先がびくっとした。「陽詩にあれだけしといて、俺のが無反応とかそっちのほうが変態くさいだろ」 軽く笑った響生の指が体内にもぐりこんで...
「すごくいまさらなこと訊くけど」 ベッドサイドのあかりだけが生きた仄暗い部屋、ベッドの上で陽詩がせがむままのキスをしながら、響生が問う。「陽詩くんって、ゲイなの?」 陽詩は答えないまま、自分にのしかかっている男に口づけをねだる。スプリングをきしませながら、なかばもう自暴自棄なのか、響生が熱心にそれに応じた。「こういうキス、したことある?」 響生は舌先だけを陽詩の舌にからめ、誘い出した。ふたつの唇の...
数日後、響生が住むアパートの最寄り駅の改札で、陽詩は姉の恋人の帰りを待っていた。 ここで、姉といっしょに響生を待ったことがある。あの夜は、三人でたこやきパーティーをした。姉はとても楽しそうにはしゃいで、そんな姉を響生がやさしい目で見ていた。 そして今夜は。陽詩は、墨を流したように暗い空を見上げた。 ――……今夜は、後戻りのできない取り引きをする。「陽詩くん?」 背中に、聴きたがえようのない響生の声が...
「ドナーの適合検査……?あの、僕も?」 三日後の朝。ダイニングテーブルをはさんで向かいに座る父親の顔を陽詩が見上げると、父親は「すまないが、検査を受けてくれ。繭子のためだ」と憔悴しきった面持ちでうなずいた。「陽詩がいま、将来に向けて大事なときだっていうことはわかっている。できるだけ、おまえの心身の負担にならないようにはしたいんだが……巻きこんでしまって、ほんとうにすまない」 陽詩は居心地悪く、椅子の上...
ハイレベル模試を全教科受け終わり、家路を辿る途中の自販機で買ったスチール缶のココアを片手に自宅のドアをひらく。いちどきに、重く沈み、暗く淀み、つめたく凍りついた空気に全身を包まれた。家じゅうが閉じた冷蔵庫になってしまったかのような異様な雰囲気にかすかに身震いする。ふっと、このさきの人生には何一ついいことがないんじゃないかという予感がした。 空恐ろしい未来予想を振り払うように、陽詩(ひなた)は精い...
ぽた、と膝に落ちたのが溶けたアイスクリームの雫だったとき、やっと、別れ話をされているのだと理解した。夏の終わりの夜のはじまりはまだ明るく、一瞬でぬるくなった濃紺のうえのミックスミントアイスの色はいかにもすずしげだ。 人工色の緑を指先でふき取り、ふふ、と千緒(ちお)はちいさく笑う。アイスだって。涙じゃなくて。たぶん、650円くらいの値段の恋だったんだ。 涙さえ流す価値さえない恋だったのだと、だれかに...
ふっと、帰ってきている気がした。曇りガラスのむこうに、朝からしとしとと降っている雨の足跡を刻んで。麻杜(おと)は人参をさいの目に刻んでいた手を止め、じっと硝子戸の外の気配をうかがう。犬が甲高く鳴く声、バイクの走り抜ける音。昼下がりの休日の、なんということのない音の光景。きっと、聞いた通りの風景が硝子の引き戸越しには広がっているのだろう。「麻杜」聞こえない声が聞こえる。触れられない腕がそっと手の甲を...
彩葉の目を覗きこみ、清音が感じ入ったように言う。「菅原がちゃんと感じてくれて、すごく気持ちよさそうでよかった」「……気持ちよすぎて頭がへんになるかと思った……。いろいろ見苦しくてごめんね……」 さっきまでの交わりの名残はもう、身体の奥に残るあまい感覚と、シーツを汚しているもろもろの体液にしか残っておらず、彩葉はかすれた声で言うと咳きこんだ。その拍子に後孔からくぷりと清音の放ったものがあふれ、シーツに伝...
「ん、ああんっ、……あぁっ、いい、気持ちい……っ、あ、あっ、……いく、いっちゃう」 清音の歯が乳首をかすめた瞬間、目を閉じ、浮かせた腰をふるわせてさらさらと流れるような射精をする。存分に出したはずなのに強烈な快感は引かず、高止まりのままの性感に彩葉はもうどうしたらいいのかわからない。ただ、身体がそうしたいと思うがままにあられもなく乱れた。荒い息のあいだから、自分を抱く腕に訴える。「あぁぁ……ん、清音、まだ...
じわじわと、清音の性器に浸食されていく。ちっとも怖がらずに清音を受け入れたそこが気持ちよがって、ひくひくと飽きることなくあたらしい異物を啜るのがわかった。ゆるく彩葉を抱きしめ、腰を進める清音が、あっ、とちいさく掠れた声を洩らす。「ゃ……、待って、菅原、……なに、なにこれ」 彩葉の内腑の蠕動を予想していなかったのだろう。とはいえ、彩葉は彩葉で指とは較べるべくもない質量がなかに挿ってくるので、痛苦しいや...
後孔にそろりと最初の指が差し込まれてからどのくらい経つのか、彩葉には判然としない。はじまったころは違和感に清音の指を押し出そうとばかりしていた彩葉の粘膜は、いまや喜んでなかで蠢く指を三本も咥え、啜り、しゃぶっている。ぬちゃぬちゃという粘着質な水音は、清音が彩葉の後孔にたっぷり含ませたローションで。「……だいぶ慣れた?痛くない?」 清音の問いに、枕を抱えて脚をおおきくひらいたまま、声も出せない快楽に...
清音の声で彩葉に吹きこまれるのは慈しみなのに、はっきりと欲情をにじませている。清音が早く彩葉を自分のものにしてしまいたいと思っているのがわかる。だって、唇に優しく口づけながらも清音の手は。「あ、ぅ……ん、あぁ……、んっ、あ」 とうにしとどに濡れていた彩葉の性器に触れる清音の手には、いっさいの躊躇も遠慮もなかった。彩葉が分泌したぬめりを借りて、水音を立てて、反応をうかがいながら追い上げてくる。過ぎた性...
「菅原」「……どうしたの?」「ここ、こりこりになってきた。すごい、指で弄れそう」 したたるような声で言うや否や、清音が指先で彩葉のはっきりと赤みをまとったふたつの尖りをつまんだ。そこから注がれる快感に息を呑んだ彩葉の喉から、うわずった声が迸る。「あ、あぁ、……っ、や……!」 反射的にぎゅっと目をつぶってしまったので、否応なしに触覚と聴覚が研ぎ澄まされる。はっきりわかる。清音にどんなふうに触られているか。...
「菅原、こら、じっとしてて」「ごめん、想像以上に恥ずかしい、これ」「……こら、もう、強硬手段に出るよ」 そう言って、彩葉のパジャマのボタンをベッドの上でひとつずつ外しながら、真上から彩葉を押さえ込んでいる清音が器用に脚で彩葉の動きを封じた。直接、肌に触れる清音の指がくすぐったくて身をよじりたいのに思うように動けない。こんなときなのに笑いだしそうになる。 されるがままにパジャマをはだけられ、素肌に手の...
目を閉じる。智伸の荒い息遣いが聞こえるのに、ひどく興奮した。耳からの刺激にあっという間に絶頂が近くなる。「あ、……っ、あっ、や、だめ、出る……いく、から」「俺も、いきそ……っ、ん」 二人分の白濁を手のひらに受けて、あわただしく智伸が優羽の腰の下に浴衣をあてがった。そのせわしなさにすこし笑いそうになる。 忘れない。忘れることなんてできない。夕方の光が仄明るいなかで、カーテンも閉めずにこんなふうに智伸と肌...
ぎゅっと一瞬だけ強く握った手をすぐに離して、智伸が横顔で淡く笑った。はっと胸を衝かれるような、寂しげでうつろな笑顔だった。こんなにがらんどうな笑顔を、ひとはできるものなのか。「お前が好きだよ、優羽。俺がお前を好きだったこと、思い出してくれたらやっぱりうれしい」 風に紛れて聞こえないような声で智伸が言う。馬鹿、と声には出さずに思う。 ぜんぶ覚えておくと言っただろう。つらくないわけじゃない、悲しくな...
ふたりが食べ終わっても店の外には順番待ちの人たちがひしめくように立っていたため、ふたりは早々に店をあとにした。海までの坂道をゆっくりと下っていく。 目のまえを行く男女が仲睦まじげに手をつないで、顔を寄せあってなにごとかささやきあっている姿を、優羽は幾重にも胸がよじれるような思いで見つめた。 こうして智伸と自分が歩いていても、だれもふたりが恋人どうしだとは思わないだろう。 智伸がいなくなったあとに...
花火?と首をかしげた智伸はスマートフォンで何やら検索をはじめる。ややあって、「あぁ、これか。海上花火大会」とつぶやいて画面を優羽のほうに差し出した。 智伸のスマホを受け取って目を走らせる。どうやらこの土地では季節にかかわりなく頻繁に花火が上がっているらしい。「どうする?見に行くか?」 智伸に選択権とともにスマホを手渡す。携帯の画面を眺めながらすこし考えた智伸が「きれいだけど、行かなくていいかな」...
「強くならなきゃ」とちいさくもう一度声にすると、ゆるゆると智伸が首を横に振る。「そのままでいいよ、強くなくていいよ、優羽。俺が好きになったのは、いまの優羽だから。好きなんだよ。弱いとことか、いっぱいいっぱいまで溜め込んで、爆発しちゃうとことか」 自分はどうしたらいいのだろう、と考える。こんなふうに存在を肯定されて、変わらなくていいと言われて。智伸がしずかに目を閉じた。「ずっと、優羽のそばにいたか...
「なぁ」 智伸に呼びかけた。ゆっくりと相手がこちらを見る気配がする。「お前、怖くないの。その……病気のこと、死んじゃうとか、だんだん身体が動かなくなるとか。俺だったらもっと取り乱して、泣き喚いていると思う。平静じゃいられない」 優羽の言葉に智伸はすこし考えこむそぶりを見せた。しばらく黙ったあと、すこしずつ紡ぐように言葉を口にする。「『怖い』の第一波は乗り越えたのかもしれない。また怖くなったり、夜眠れ...
「ほんとだから、怖かった。こんなにしあわせなことがあるはずがないって思った。優羽もなにか言うわけじゃないから、確かめたら終わりみたいな気がして、なんにも言えないまま卒業して。大学入ってから後悔したよ、伝えておけばよかったなって。だから社会人になってまた距離が縮んだときは、今度こそうまくやろうって思って、」 智伸の声が途切れる。その矢先に病気のことが発覚したのだろう。つくづくタイミングを逃してばかり...
来てみたのはいいものの、さほど智伸にとって興味を惹かれる展示がなかったようで、早々に美術館をあとにした。 来たときと反対車線のバスに乗って急坂を駅前まで下りていく。ビー玉を落としたら延々と海まで転がっていきそうな街だな、と優羽は妙な感慨を覚えた。そのすこしばかげた物思いを智伸に伝えようとしたけれど、窓の外を見ている横顔のしずけさに口をつぐんだ。 駅前まで戻って、路線バスを乗り換えて温泉宿へ帰る。...
優羽は智伸の頬に手を伸ばした。その手をそっとつかんで、智伸が指先で手のひらの輪郭をなぞる。覚えておけたらなぁ、とちいさな声で言う。「なにを?」「なにもかも。優羽のことはもちろん、大事なことをなにもかも」 ごめんな、という声とともに手が自由になる。智伸の指先の感覚が残る手をぎゅっと握りしめた。ちいさく息を吸い、みじかく言った。「忘れていいよ。だいじょうぶだから」「えっ?」 虚を突かれたような顔にふ...
その晩はひたすら互いを貪った。脚を肩に抱えあげられて、智伸の身体のうえに乗り上げて、さまざまに体位を変えながら。 何回いかされたか優羽は覚えていない。なんど出されたかも。ただ、身体の満足だけを追っているあいだは智伸のこれからを考えずにすんだ。それだけがわかっていた。 明け方、みじかい眠りにつくまえに、智伸がやさしく優羽の肩を撫ぜながら「あしたがいい日でありますように」とつぶやくのが聞こえた。もう...
智伸の指の抜き差しがはっきりと暴く動きに変わった。ひっきりなしの快感に翻弄されて、優羽の心身から羞恥や遠慮が消しゴムをかけるように薄れていく。いきそう、と訴える。「や……あっ、……あぁん、あぁっ、……いく、おれ、いっちゃ……っ!」 はしたなく喘ぎながら優羽がのけぞった身をふるわせて射精すると、智伸は片手で白濁を受けた。「ごめんな、これ、使わせて」 智伸は自分の性器に優羽が放ったものをまぶすと、優羽のなか...
もう恥ずかしがっていてもしかたないので、関節の許す限りいっぱいに大きく両脚をひらいた。さらされる感覚に、ぞくぞくした。 智伸の指が後孔をうかがう。ふちをなぞるように円を描いて、ときどき入口にぴったり指を押し当ててくる。はしたなくこぼしているもののせいで、そのまわりが潤っているのがわかった。 内腑にごく浅く侵入してきた指を、優羽の身体は拒まなかった。むしろ、その呑むような動きに智伸が驚いたように尋...
その問いかけに、気持ちを確かめる疑問符に、智伸の喉がかすかに鳴った。それが答えだという気がしたから、優羽のほうから唇をあわせた。 ついばむような口づけが、ほどくのも難しいような深いものにかわるのにさして時間はかからなかった。智伸は優羽の座る椅子に半分乗り上げるようにして、優羽の唇を、舌を貪った。優羽は智伸の背に両腕をまわして、与えられるがままにキスを受けた。「優羽、抱いてもいいか?俺、いなくなっ...
窓際にしつらえられた椅子に腰かけていた優羽は、軽やかな音とともに洗面台で歯を磨いている智伸を見遣った。「なぁ、智伸」 口をすすいでいる智伸が軽く振り返りちょっと待って、というジェスチャーを返してくる。コップに歯ブラシを立てて、「なに?」とやわらかに問うてくる。「あしたがいい日でありますように」「……え?」「このまえから俺にそう言ってくれるだろ。優しく光っているみたいな祈りの言葉。これってなんなの?...
智伸が居心地悪そうに身じろぎした。湯がゆれる音が立つ。「なんだよ、人の顔見てにやにやして」「いや、智伸のこと無理やり連れだした気がしてたけど、やっぱり来てよかったなって」「……いやだったら来ないよ」 ぽつんと落ちた言葉が浴場に響いた気がした。 ふたりでのぼせる直前まで湯につかって、のんびりと浴衣に着替えて部屋に戻る。智伸がしごくゆったりと言う。「気持ちよかったー……。ふやけるかと思った」 白湯を飲み...
目的地には快適に到着した。スマートフォンを改札にかざして駅前のロータリーに出る。かなりの人出ですくなからず驚いた。温泉宿へのバスに乗り込む。いきなりのジェットコースターみたいな急坂にやや気圧されつつも、隣に座った智伸に話しかける。「きょうは冷え込んでいるから、温泉が楽しみだな。想像するだけでぽかぽかになりそう」 智伸はバスのフロントガラス越しに坂を眺めていたけれど、優羽のほうを向いて楽しそうに笑...
気持ちを切り替えるためだけに、話題を振った。この先のこと、みじかい未来の話を。「智伸、お前、着いたらどうする?とりあえず、宿に行くか?」「そうだなぁ、時間はいっぱいあるから、まずは温泉でゆるっとしたいな」「わかった」 話しているあいだにも、新幹線がやってきてふたりして乗り込む。なんとなく窓際の席に智伸を座らせると、かすかに笑った。「なんだよー」と言うと「なんでもない」と笑ったままの答えが返ってく...
翌日の朝、新幹線の出発時刻15分前に在来線と新幹線が相互乗り入れをしている駅に到着した智伸と優羽は、並んで新幹線ホームにむかいながらキャリーケースを転がしていた。先だって、優羽の荷物が大きすぎると智伸は会うなり声をあげて笑った。そう言う智伸の荷物はコンパクトすぎて、優羽は心配になるのだけれど。「俺、旅行に行くのなんて何年ぶりだろう」 優羽が感慨深げに言うと、智伸が「俺は修学旅行の引率以外の旅行に...
「いいな、熱海。海にも山にも近いし。っていうか、海で、山だし。なんで今まで行かなかったんだろう」「俺はともかく、智伸は学校の仕事でそれどころじゃなかっただろ」 優羽はじっと智伸の目を見た。あきらめるために。ここからはじまる、なんて思っちゃいけない。ここから終わらせていくための旅なのだ。目を見つめたままで言う。「旅じまいに、温泉満喫しような」 智伸の目がかすかに揺らいだ。こくりとうなずく仕草がやけに...
ゆうべの肌寒さは放射冷却によるものだったらしく、翌日は秋晴れのよい日和になった。すこん、と抜けたような青空のもとを部屋から最寄りのバス停まで歩いた。 やってきたバスで駅前まで出て、約束したドトールに優羽が到着すると、智伸はもう席についていて「優羽!」と軽く片手を挙げた。病気だなんてうそみたいな自然な笑顔だった。 いつもそうだった、と優羽は思う。きっちり約束通りの時間に赴くと、智伸がいつも自分を待...