記憶のなかから立ちのぼってきた、なつかしい声を聞く。自分の、保育園に通っていたころの声だろうか。あどけなくてふわふわとした、高い声。「あいりせんせい、けっこんしたの?」「そうだよー、ひろくん」「ええとねえ、ええっと……でめとー?おでめとー?」「わあ、ありがとう」 応じる保育士の声がふっといたずらっぽく揺れた。「ひろくんはだれとけっこんしたいかなぁ?」「だれと?」「けっこんは、すきなひととずうっとい...
BL小説『いつか君に咲く色へ』連載中です。人の感情を色で把握できるDKとその色をもたない同級生のおはなし。ゆっくり恋になっていきます。
『ありえない設定』⇒『影遺失者』と『保護監視官』、『廃園設計士』や『対町対話士』(coming soon!)など。…ですが、現在は日常ものを書いております。ご足労いただけるとうれしいです。
永崎はゆるりと僕を抱きしめたまま、僕の耳元に言葉を落とした。「峰邨、好きだよ」甘やかな永崎の言葉をかみ砕いて飲み込んで、理解するのに時間がかかった。こんなに単純なフレーズなのに。頭が言葉を飲んだ瞬間、「はぁ?」と、とてつもなくとがった声が出た。永崎がびくっと肩を揺らす。「僕、永崎に好かれる要因がゼロなんだけど、皆無だよ皆無」永崎の自業自得とはいえ厄介者でしかないし、八つ当たりのようにずいぶんひどい...
『できないこと探し』をしながら、筆頭が進学就職、そのつぎあたりに結婚、という事実に気がついて震えあがったのは図書館に行った日から数えて一週間くらい経ったころだった。それが事実だろう。家族や永崎に一生面倒を見てもらえるはずもなく、そうなると引きこもりニートになるしかない。ニートまでいかずとも、在宅でできる仕事があったにしろ、これといった特技も技能もない僕にできることは限られている。そんな僕と婚姻関係...
図書館へと僕を導く永崎の足取りは軽い。明るい声で話しかけてくる。「お前、ほんとに本が好きだったんだな」「ついても仕方のない嘘はつかないよ」たまに、僕がなにかをしたいという意思を示すと、永崎は途端に張り切って、明らかにうれしそうな声になる。きょうがその最たる例だ。わかりやすくて笑ってしまう。なんてかわいそうなんだろう。そう思う僕は性格がわるいのだろうか。あの『事故』をきっかけにしてそうなったのか、も...
図書館に拡大読書器があるらしいということを知ったのは、通院を続けている病院でだった。どんなものかはだいたいの想像しかつかないけれど、試してみたいと思った。永崎に「図書館に行きたい」と、もう冬に差し掛かった冷たい風の吹き抜ける帰り道に言うと「うん、行こう。いますぐ行こう」と妙にうれしそうに返事があった。永崎は平日、ほとんどうちにきている。教室では常に、僕とともに真ん中最前列の席だ。学校内で起きた件だ...
もういい加減にしなきゃ、これじゃただ永崎に絡んでいるだけだ。そう思うのに僕の言葉は止まらない。「休みになっても星も本もないから退屈だし、なにかこの先、僕の人生に楽しいことってあるのかな。あのとき、外傷で死んでた方がましだった。ねぇ、そう思わない?」かすかな、とてもかすかな震える声がした。「……めん。ごめん。ごめん、なさい」以前の永崎からは考えることもできない、細く頼りない声だった。あっ、と思った。息...
「……星を見るのが好きだった、本を読むのが好きだった」永崎の背中にむけてぼそっとそう言ったのは、校内でつねに行動を共にするようになってから一か月経ったころのことだった。とくに親しくなるわけでも、口をきく回数が増えたわけでもなかった。永崎にとって僕は枷でしかなく、僕にとって永崎は怨恨の対象でしかない。黒い髪、黒い制服、黒いリュック。全体的に黒い影のようなぼやぼやした人影が、それでもこちらを向くのがわか...
『事故』後、はじめて登校する日。朝早くに玄関のインターフォンが鳴った。僕には見えない画面越しに、永崎のぼそぼそとした声が言う。『約束したとおりに、峰邨くんを迎えに参りました』両家のあいだで話が決まっていたらしい。永崎の、そんな声を聞くのははじめてだった。いつも陽気で気さくで、クラスの中心にいて、人をひきつけてやまない男子、そんな彼の声が緊張のあまりぶるぶる震えていた。「……きょうくらい、うちで送り届...
何度目かのパニックと意識喪失のあと、僕は否が応でも思い知る。僕を取り囲む世界は、いままでとは全く違うのだと。ぼやぼやにふやけた世界のなかで、僕はなんとか生きていかなければならないのだと。失明を免れたのは不幸中の幸いだった、と僕を診てくれた医師は言った。それは、何とか見える範囲で暮らしていかなければならないという最終通達で、僕の視界が二度と元には戻らないと遠回しに告げる、残酷な事実を診断するものだっ...
意識を取り戻した時には、世界の様相は一変していた。強打した頭は何か包帯のようなもので厳重にぐるぐる巻きにされているのがわかる。ずきずきと頭が痛く、ひどく気持ち悪かった。気持ち悪い……そうだ、水が飲みたい。そっと目を開けると、ぼやけた視界がそこにあった。なにもかもがひどくぼんやりしていた。目を開けた僕に気がついた人影も、そっと近づいてくる指先も。「よかった、気がついて。すぐに看護師さんを呼ぶね」そう言...
ある日突然、僕の世界の輪郭は頼りなく、ぼやぼやにぼやけてしまった。まるで、溶けかけたゼリーみたいに。透明なくらげ越しに、海の底から見た景色みたいに。 * * *『事故』が起こったのは、高校一年の二学期がはじまったばかりの昼休みの教室だった。クラスメイトたちは自由そのものだった夏休みを引きずって、みんなうきうきそわそわしていた。とりわけ、僕が苦手だった男子のグループがそうだった。声の大きな...
終わったあとなんとなく抱き合ったまま、ぽつりぽつりと雨垂れのように会話を交わす。小紅とセックスするようになったはじめのころ、気恥ずかしくて行為のあとにはすぐ服を着ていた。けれどいまではお互いの肌に触れたまま会話をする時間が気に入っている。隣で小紅はさっきからずっと僕の髪をやわらかな手つきで梳いている。こんなふうに僕の髪に触れるのがけっこう好きだと言う。「ルームシェアなんかしたら、僕たち結局セックス...
からんだ視線の先で小紅が言う。「ひさしぶりだからかな、碧音、めっちゃえろいな。もう一回、出しとくか?」「いきたい……っ!いかせて、小紅、出したい」めちゃくちゃにせがむと、うしろをうかがっていた指をなかでばらばらに動かされて、かかとがシーツを蹴る。放出の瞬間は頭が真っ白になるくらい気持ちよかった。ふうふうとあがった息を整えていると、小紅が苦笑する。「夢よりえろいわ。何回も、碧音を抱く夢を見たよ」指を引...
笑う僕を小紅が怪訝そうに見おろす。「どうした、碧音」「いや、このアングルはひさしぶりだなぁと思って」ばか、と僕をいなすと熱心なキスを再開した小紅は、その合間に器用に僕のパーカーを脱がせてしまう。その下のTシャツをたくし上げられじかに素肌に触れられて、それだけでどうしようもなくふるえた。小紅の身体を自分の身体で受け止められるのがうれしかった。唇で首筋をなぞられ、耳朶を食まれ、その性急さに小紅の余裕の...
翌日、約束の時間のきっかり15分まえに小紅が家にやってきた。玄関で迎えるとひどく神妙な顔をしている。「小紅」顔を見ることができる。名前を呼ぶことかできる。たったそれだけのことが、いまはこんなにうれしい。碧音、と僕を呼ぶ小紅もおなじ気持ちだったらいいと思った。ぎゅっと上がり框で抱きすくめられて、胸が高鳴る。抱きしめられた身体があたたかい。僕の部屋のローテーブルのまえにきちんと正座した小紅は「碧音、悪...
みじかく息を吸い込んだ。自分の言葉と心の精いっぱいで、細大漏らさず小紅に伝えたかった。「僕、小紅と離れるの、やっぱりいやだよ。わがままだってわかっていても」小紅の選択肢を奪っているよね、僕がいなければ小紅にはもっとちがう人間関係や恋ができたはずなんだ。いろいろなものを断って、いままで小紅は僕のそばにいてくれた。それをわかっているのに、そばにいたいと願ってしまうことだけ、許して。考え考え、言った。通...
そんな日々をなんとか乗り切っているさなかの金曜日の夜だった。ふいに目が醒めた。なんだろう、とてもいやな予感がする。ぞわぞわと背中を得体のしれないものが這い回っているような。普段はあまりしないけれど、家族に何かあったら後悔してもしきれないので、意識を集中させて、なにが起きようとしているのか感覚をさぐる。小紅。小紅の家。火事。そこまで直感をたぐったところで飛び起きた。枕元のスマホをひっつかみ、震える指...
翌日、朝のホームルームのまえに、ぎりぎりで駆け込んできた小紅と目が合った。すっと目を逸らす直前、小紅の泣き出しそうな瞳を見た気がした。それでも、昼休みになってもいつものように小紅が僕の前の席に陣取ることはなく、小紅と僕はめいめいの席で弁当と購買のパンを食べた。昼食を終えて、イヤフォンを耳に突っ込んで、音楽を聴きながら机に突っ伏す。なにも見たくなかった。なにも聞きたくなかった。ひとりで購買のパンを食...
どうやって家まで帰り着いたのか覚えていない。むしろ、家まで帰り着けたのが奇跡だとすら思えた。小紅が、僕から離れたいと言った。一緒にいて楽しいのに。顔を見れば穏やかな気持ちになれるのに。セックスすればあんなに気持ちいいのに。僕を受け止めてくれていたのに。自分のなかのどの感情を選べばいいのかわからなくて、着替えもせずにベッドにもぐりこんだ。おなじ大学に行きたいって言わなきゃよかった?ルームシェアなんて...
「小紅、合格したらルームシェアしようよ。一緒に暮らそう?」「ちょっとびっくりなんだけど、碧音って俺のこと、けっこうどうしようもない感じで好きでいてくれてるよな」帰宅途中に自然公園に寄り道して、いつもの東屋で話していた。小紅の面食らった表情がおかしくてくすくす笑うと、照れたように、どこか困ったように「ずっとこのまま碧音と一緒にいられるのかな」と小紅が視線を遠くにさまよわせながら言った。どこか遠い声を...
夏休みがあけて3日後の朝礼で、進路希望調査票が配られた。調査票はただの紙なのに、なんだか生殺与奪の権を握られている気がする。理不尽だ。昼休みになると、プリントをひらひらさせながら小紅が僕の前の席にやってきた。小紅にとって紙切れは紙切れにすぎないようだ。碧音はどうするの?と尋ねられる。小声でぼそぼそ話しあう。「いまのところは、四年制大学進学希望にしようかなって」「だよな。一応、進学校だしな」小紅はす...
二泊三日で何回したのか正直覚えていないけれど、一日でこんなにできるのかと驚くほどの回数、小紅に抱かれた。小紅に導かれるまま、様々な体位を試したし、つながったままで二回目に突入することもあった。肝心の夏期講習の授業中はほとんどすべて沈没して過ごしてしまった。ほんとうに名残惜しそうに夏期講習(というか実際にはお泊り重視なのだけれど)の終わりを迎えた小紅が帰っていくのをみて、僕ももう夏休みが終わってしま...
身体じゅうにキスをされる。なんども「好きだよ」とささやかれる。ベルトを外され、下着ごとズボンを脱がされて性器に触れられるころには、ひさしぶりに身体と心に小紅が与えてくれる快感のせいで眦に涙が浮かんでいた。いやらしい音を立てて前を扱きながら、ローションをまとった小紅の指が後孔をうかがう。なんどしてもこの瞬間は緊張するのか、小紅がタイミングをはかっているのがわかる。挿り込んできた小紅の指が、僕がなかで...
その日を境に、小紅とはしょっちゅうセックスするようになった。どちらかの両親が家を空けていればすかさず連れ込んだり連れ込まれたりした。小紅の家で階下に小紅の母親がいるときにそういう雰囲気になってしまい、ふたりとも我慢できずに必死に声を殺して行為に耽った日すらあった。僕たちがどっぷりと快楽に溺れているあいだにも季節はめぐって、梅雨がきて、ちゃんと夏がきて、期末考査が終わるとすぐに夏休みがはじまった。僕...
かばんのなかをさぐっている小紅の背中に声をかける。「小紅、単語帳を学校に忘れてきてる」「えっ?」「たぶん、机のなかに入ったまんまだよ」小紅が目をしばたたいた。「そっか、うん、ありがとう。とりあえず、あしたの範囲は碧音の単語帳のコピーとらせてもらっていい?」うなずいて立ち上がる。財布を持った小紅と連れ立って、借りた傘をさしてコンビニへ向かう。キッチンペーパーががんばってくれたのか、スニーカーの水濡れ...
「あの、あのさ、動いてもいい?」小紅がどこか不安そうに、おっかなびっくり言う。機械仕掛けの人形がしゃべっているみたいだった。いいよ、と答えると、控えめな抽挿がはじまった。僕の喉からは言葉を結ばない声があふれる。「あっ、あぁ!いい……っ、やぁ、あっ、あっ!」小紅が僕の目を覗き込んでくる。かすかに細められた目が色っぽくて、まなざしにずくずくと感じてしまう。強い律動も、浅いところの動きも、なにをされても気...
「碧音、脚、ひらいて」熱を帯びた小紅のその言葉に逆らえようはずもなく、膝を立てておそるおそる脚をひろげる。性器より奥まったところにぬめる感触があって、小紅が僕の後孔に指を忍ばせてくる。「なに、してるの……?」「俺が碧音とセックスする準備。男もちゃんとなかに気持ちいいところがあるんだよ」僕が出したばかりのものをまとった小紅の指がそっと僕の内腑をさぐる。痛みより違和感でそれを押し出そうとする身体を深呼吸...
ふたりして小紅の部屋にもつれ込むように飛び込むと、背中をドアに押し付けられ、いままでとはまったく違う温度のキスをされた。小紅が僕の唇を舌先でなんどもなぞる。ひらいて、とせがんでいるようだった。うすく開くと小紅の舌が口腔に忍び込んでくる。舌を絡め合うようにして一心に口づけられ、気持ちよさにくらくらして身体の重心が危うくなる。小紅の手を借りながらベッドまでたどり着くと、慎重に押し倒された。小紅の体重を...
玄関先ですこし身震いしながら「寒いな」と言う小紅に、そうだね、と返すと脱衣所まで連れていかれる。「服脱いで、とりあえず衣類乾燥機に入れといて。替えの服とってくるな」と言った小紅が脱衣所を出ていった。階段をのぼっていく足音。きっと小紅の部屋にむかったのだろう。とりあえず脱いだアンダーシャツや下着類はどうしたものかと考えていると、自室から戻ってきた小紅が「碧音、ぶかぶかだったらごめんな」と言いながら脱...
小紅も帰宅部なので、告白の翌日からどちらから誘うでもなく学校帰りにこっそり寄り道して、徒歩15分くらいの自然公園でささやかにデートするようになった。公園にいくつか設けられた東屋で手をつなぎながら話したり、人目を忍んでキスしたり、たわいもなくかわいらしいデートだった。指をからめて握るのも、ごく軽いキスも僕をどきどきさせるには充分すぎる。そのたわいもなさやかわいらしさに逆にリアリティーがあって、小紅は...
不安そうに指のあいだから目をのぞかせている小紅を見つめた。心を声にするのが下手な僕なりに、考え考え告げる。ばらばらのビーズに糸を通すように、ひと針ずつ刺繡を施すように、間違えないように、慎重に。「小紅、僕のことを好きでいてくれてありがとう。気持ち悪いなんて思わない。僕だって小紅が好きだよ、ちいさいころから特別な意味で好きだった。小紅がいればなにもいらないくらい」「え?」「小紅が女の子に告白されて断...
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記憶のなかから立ちのぼってきた、なつかしい声を聞く。自分の、保育園に通っていたころの声だろうか。あどけなくてふわふわとした、高い声。「あいりせんせい、けっこんしたの?」「そうだよー、ひろくん」「ええとねえ、ええっと……でめとー?おでめとー?」「わあ、ありがとう」 応じる保育士の声がふっといたずらっぽく揺れた。「ひろくんはだれとけっこんしたいかなぁ?」「だれと?」「けっこんは、すきなひととずうっとい...
煙草の煙が漂ってくると、パブロフの犬もあきれ返る勢いの反射で彼のことを思い出す。僕を抱いた後は煙草が吸いたくなるといった彼。ゆうらりとくゆる一本きりの煙の時間をひっそりとベッドのなかから見守っていた。眼鏡をかけるほどではない軽い近視だった目が、遠くを見るように眇められる、それが色っぽくて好きだった。あの視線が、なにを映していたのかを僕が知るすべはもう、どこにもない。 よく晴れた冬の日曜日の昼下が...
「お疲れさま、ふたりとも。先にあがるね。あ、そうだ!透琉(とおる)くんに教えてもらったレシピ、このまえ試してみたの」「うわあ、ありがとうございます!どうでした?」「レンチンでぜんぶ作れちゃうのね、時短わざは透琉くんに聞けってね」 はじける笑い声を歩生(あゆむ)は背中で聴く。話題そのものに、ものすごい遠心力で弾き飛ばされたのを感じる。相容れない、水と油のように。 バイト仲間の透琉はモテる。主に、パー...
ルーティンというものは破られたときのほうが、守られたときより「そこにある」ことを主張しはじめる。 由糸(ゆいと)の場合、ウィークデーならこんな感じだ。決まった時間に起きて、毎朝飲むサプリメントを服用し、軽く胃に食べものをいれて出勤。帰ってきたら食事のまえに簡単に風呂をすませ、休日に作り置いた数品やスーパーの半額シールの貼られた惣菜で夕食をとって、本や新聞をめくり、だいたい日付が変わるころにベッド...
こんなことでもなければ、20代でふるさとの地をもう一度踏むことはなかっただろう。 視線をめぐらせ見あげる空から、気まぐれに三月の雪が降ってくる。そういえば、この地では死んでいく冬が最期の力を振り絞るように、こんな雪が降ることがあるのだった。襟足から容赦なく冷気が忍び込んでくる。薄手のコート一枚でやってきたことを後悔した。音もなく降る雪に、無沙汰を咎められている気がして、柚希(ゆずき)はちいさく肩を...
もうなにも出ないから、もういいから、と訴えても、やめてもらえなかった。なかの刺激がよくてよくて、無意識にまだ、とかもっと、と口走ってしまうたびになんども奥に射精された。なにも出ないままでいかされたとき、脳髄ごとけいれんを起こすような快感に絶叫した。溺れそうで苦しくて、苦しいことがしあわせだった。 果てのない交合が終わったのは、夜明けちかかった。あちこち痛む身体をなだめすかして起き上がると、響生が...
だから、何のためらいもなく響生の指が後孔をうかがってきたとき、興奮よりも恐怖を覚えた。肌はほてっているのに血の気の引くような、ふしぎな感覚。「ねぇ、ひびきさ……っ!あの、ねぇ、その、……ほんとにできる、の?」 響生が無言で陽詩の手を掴む。そのまま導かれた先の熱に反射的に指先がびくっとした。「陽詩にあれだけしといて、俺のが無反応とかそっちのほうが変態くさいだろ」 軽く笑った響生の指が体内にもぐりこんで...
「すごくいまさらなこと訊くけど」 ベッドサイドのあかりだけが生きた仄暗い部屋、ベッドの上で陽詩がせがむままのキスをしながら、響生が問う。「陽詩くんって、ゲイなの?」 陽詩は答えないまま、自分にのしかかっている男に口づけをねだる。スプリングをきしませながら、なかばもう自暴自棄なのか、響生が熱心にそれに応じた。「こういうキス、したことある?」 響生は舌先だけを陽詩の舌にからめ、誘い出した。ふたつの唇の...
数日後、響生が住むアパートの最寄り駅の改札で、陽詩は姉の恋人の帰りを待っていた。 ここで、姉といっしょに響生を待ったことがある。あの夜は、三人でたこやきパーティーをした。姉はとても楽しそうにはしゃいで、そんな姉を響生がやさしい目で見ていた。 そして今夜は。陽詩は、墨を流したように暗い空を見上げた。 ――……今夜は、後戻りのできない取り引きをする。「陽詩くん?」 背中に、聴きたがえようのない響生の声が...
「ドナーの適合検査……?あの、僕も?」 三日後の朝。ダイニングテーブルをはさんで向かいに座る父親の顔を陽詩が見上げると、父親は「すまないが、検査を受けてくれ。繭子のためだ」と憔悴しきった面持ちでうなずいた。「陽詩がいま、将来に向けて大事なときだっていうことはわかっている。できるだけ、おまえの心身の負担にならないようにはしたいんだが……巻きこんでしまって、ほんとうにすまない」 陽詩は居心地悪く、椅子の上...
ハイレベル模試を全教科受け終わり、家路を辿る途中の自販機で買ったスチール缶のココアを片手に自宅のドアをひらく。いちどきに、重く沈み、暗く淀み、つめたく凍りついた空気に全身を包まれた。家じゅうが閉じた冷蔵庫になってしまったかのような異様な雰囲気にかすかに身震いする。ふっと、このさきの人生には何一ついいことがないんじゃないかという予感がした。 空恐ろしい未来予想を振り払うように、陽詩(ひなた)は精い...
ぽた、と膝に落ちたのが溶けたアイスクリームの雫だったとき、やっと、別れ話をされているのだと理解した。夏の終わりの夜のはじまりはまだ明るく、一瞬でぬるくなった濃紺のうえのミックスミントアイスの色はいかにもすずしげだ。 人工色の緑を指先でふき取り、ふふ、と千緒(ちお)はちいさく笑う。アイスだって。涙じゃなくて。たぶん、650円くらいの値段の恋だったんだ。 涙さえ流す価値さえない恋だったのだと、だれかに...
ふっと、帰ってきている気がした。曇りガラスのむこうに、朝からしとしとと降っている雨の足跡を刻んで。麻杜(おと)は人参をさいの目に刻んでいた手を止め、じっと硝子戸の外の気配をうかがう。犬が甲高く鳴く声、バイクの走り抜ける音。昼下がりの休日の、なんということのない音の光景。きっと、聞いた通りの風景が硝子の引き戸越しには広がっているのだろう。「麻杜」聞こえない声が聞こえる。触れられない腕がそっと手の甲を...
彩葉の目を覗きこみ、清音が感じ入ったように言う。「菅原がちゃんと感じてくれて、すごく気持ちよさそうでよかった」「……気持ちよすぎて頭がへんになるかと思った……。いろいろ見苦しくてごめんね……」 さっきまでの交わりの名残はもう、身体の奥に残るあまい感覚と、シーツを汚しているもろもろの体液にしか残っておらず、彩葉はかすれた声で言うと咳きこんだ。その拍子に後孔からくぷりと清音の放ったものがあふれ、シーツに伝...
「ん、ああんっ、……あぁっ、いい、気持ちい……っ、あ、あっ、……いく、いっちゃう」 清音の歯が乳首をかすめた瞬間、目を閉じ、浮かせた腰をふるわせてさらさらと流れるような射精をする。存分に出したはずなのに強烈な快感は引かず、高止まりのままの性感に彩葉はもうどうしたらいいのかわからない。ただ、身体がそうしたいと思うがままにあられもなく乱れた。荒い息のあいだから、自分を抱く腕に訴える。「あぁぁ……ん、清音、まだ...
じわじわと、清音の性器に浸食されていく。ちっとも怖がらずに清音を受け入れたそこが気持ちよがって、ひくひくと飽きることなくあたらしい異物を啜るのがわかった。ゆるく彩葉を抱きしめ、腰を進める清音が、あっ、とちいさく掠れた声を洩らす。「ゃ……、待って、菅原、……なに、なにこれ」 彩葉の内腑の蠕動を予想していなかったのだろう。とはいえ、彩葉は彩葉で指とは較べるべくもない質量がなかに挿ってくるので、痛苦しいや...
後孔にそろりと最初の指が差し込まれてからどのくらい経つのか、彩葉には判然としない。はじまったころは違和感に清音の指を押し出そうとばかりしていた彩葉の粘膜は、いまや喜んでなかで蠢く指を三本も咥え、啜り、しゃぶっている。ぬちゃぬちゃという粘着質な水音は、清音が彩葉の後孔にたっぷり含ませたローションで。「……だいぶ慣れた?痛くない?」 清音の問いに、枕を抱えて脚をおおきくひらいたまま、声も出せない快楽に...
清音の声で彩葉に吹きこまれるのは慈しみなのに、はっきりと欲情をにじませている。清音が早く彩葉を自分のものにしてしまいたいと思っているのがわかる。だって、唇に優しく口づけながらも清音の手は。「あ、ぅ……ん、あぁ……、んっ、あ」 とうにしとどに濡れていた彩葉の性器に触れる清音の手には、いっさいの躊躇も遠慮もなかった。彩葉が分泌したぬめりを借りて、水音を立てて、反応をうかがいながら追い上げてくる。過ぎた性...
「菅原」「……どうしたの?」「ここ、こりこりになってきた。すごい、指で弄れそう」 したたるような声で言うや否や、清音が指先で彩葉のはっきりと赤みをまとったふたつの尖りをつまんだ。そこから注がれる快感に息を呑んだ彩葉の喉から、うわずった声が迸る。「あ、あぁ、……っ、や……!」 反射的にぎゅっと目をつぶってしまったので、否応なしに触覚と聴覚が研ぎ澄まされる。はっきりわかる。清音にどんなふうに触られているか。...
「菅原、こら、じっとしてて」「ごめん、想像以上に恥ずかしい、これ」「……こら、もう、強硬手段に出るよ」 そう言って、彩葉のパジャマのボタンをベッドの上でひとつずつ外しながら、真上から彩葉を押さえ込んでいる清音が器用に脚で彩葉の動きを封じた。直接、肌に触れる清音の指がくすぐったくて身をよじりたいのに思うように動けない。こんなときなのに笑いだしそうになる。 されるがままにパジャマをはだけられ、素肌に手の...
花火?と首をかしげた智伸はスマートフォンで何やら検索をはじめる。ややあって、「あぁ、これか。海上花火大会」とつぶやいて画面を優羽のほうに差し出した。 智伸のスマホを受け取って目を走らせる。どうやらこの土地では季節にかかわりなく頻繁に花火が上がっているらしい。「どうする?見に行くか?」 智伸に選択権とともにスマホを手渡す。携帯の画面を眺めながらすこし考えた智伸が「きれいだけど、行かなくていいかな」...
「強くならなきゃ」とちいさくもう一度声にすると、ゆるゆると智伸が首を横に振る。「そのままでいいよ、強くなくていいよ、優羽。俺が好きになったのは、いまの優羽だから。好きなんだよ。弱いとことか、いっぱいいっぱいまで溜め込んで、爆発しちゃうとことか」 自分はどうしたらいいのだろう、と考える。こんなふうに存在を肯定されて、変わらなくていいと言われて。智伸がしずかに目を閉じた。「ずっと、優羽のそばにいたか...
「なぁ」 智伸に呼びかけた。ゆっくりと相手がこちらを見る気配がする。「お前、怖くないの。その……病気のこと、死んじゃうとか、だんだん身体が動かなくなるとか。俺だったらもっと取り乱して、泣き喚いていると思う。平静じゃいられない」 優羽の言葉に智伸はすこし考えこむそぶりを見せた。しばらく黙ったあと、すこしずつ紡ぐように言葉を口にする。「『怖い』の第一波は乗り越えたのかもしれない。また怖くなったり、夜眠れ...
「ほんとだから、怖かった。こんなにしあわせなことがあるはずがないって思った。優羽もなにか言うわけじゃないから、確かめたら終わりみたいな気がして、なんにも言えないまま卒業して。大学入ってから後悔したよ、伝えておけばよかったなって。だから社会人になってまた距離が縮んだときは、今度こそうまくやろうって思って、」 智伸の声が途切れる。その矢先に病気のことが発覚したのだろう。つくづくタイミングを逃してばかり...
来てみたのはいいものの、さほど智伸にとって興味を惹かれる展示がなかったようで、早々に美術館をあとにした。 来たときと反対車線のバスに乗って急坂を駅前まで下りていく。ビー玉を落としたら延々と海まで転がっていきそうな街だな、と優羽は妙な感慨を覚えた。そのすこしばかげた物思いを智伸に伝えようとしたけれど、窓の外を見ている横顔のしずけさに口をつぐんだ。 駅前まで戻って、路線バスを乗り換えて温泉宿へ帰る。...
優羽は智伸の頬に手を伸ばした。その手をそっとつかんで、智伸が指先で手のひらの輪郭をなぞる。覚えておけたらなぁ、とちいさな声で言う。「なにを?」「なにもかも。優羽のことはもちろん、大事なことをなにもかも」 ごめんな、という声とともに手が自由になる。智伸の指先の感覚が残る手をぎゅっと握りしめた。ちいさく息を吸い、みじかく言った。「忘れていいよ。だいじょうぶだから」「えっ?」 虚を突かれたような顔にふ...
その晩はひたすら互いを貪った。脚を肩に抱えあげられて、智伸の身体のうえに乗り上げて、さまざまに体位を変えながら。 何回いかされたか優羽は覚えていない。なんど出されたかも。ただ、身体の満足だけを追っているあいだは智伸のこれからを考えずにすんだ。それだけがわかっていた。 明け方、みじかい眠りにつくまえに、智伸がやさしく優羽の肩を撫ぜながら「あしたがいい日でありますように」とつぶやくのが聞こえた。もう...
智伸の指の抜き差しがはっきりと暴く動きに変わった。ひっきりなしの快感に翻弄されて、優羽の心身から羞恥や遠慮が消しゴムをかけるように薄れていく。いきそう、と訴える。「や……あっ、……あぁん、あぁっ、……いく、おれ、いっちゃ……っ!」 はしたなく喘ぎながら優羽がのけぞった身をふるわせて射精すると、智伸は片手で白濁を受けた。「ごめんな、これ、使わせて」 智伸は自分の性器に優羽が放ったものをまぶすと、優羽のなか...
もう恥ずかしがっていてもしかたないので、関節の許す限りいっぱいに大きく両脚をひらいた。さらされる感覚に、ぞくぞくした。 智伸の指が後孔をうかがう。ふちをなぞるように円を描いて、ときどき入口にぴったり指を押し当ててくる。はしたなくこぼしているもののせいで、そのまわりが潤っているのがわかった。 内腑にごく浅く侵入してきた指を、優羽の身体は拒まなかった。むしろ、その呑むような動きに智伸が驚いたように尋...
その問いかけに、気持ちを確かめる疑問符に、智伸の喉がかすかに鳴った。それが答えだという気がしたから、優羽のほうから唇をあわせた。 ついばむような口づけが、ほどくのも難しいような深いものにかわるのにさして時間はかからなかった。智伸は優羽の座る椅子に半分乗り上げるようにして、優羽の唇を、舌を貪った。優羽は智伸の背に両腕をまわして、与えられるがままにキスを受けた。「優羽、抱いてもいいか?俺、いなくなっ...
窓際にしつらえられた椅子に腰かけていた優羽は、軽やかな音とともに洗面台で歯を磨いている智伸を見遣った。「なぁ、智伸」 口をすすいでいる智伸が軽く振り返りちょっと待って、というジェスチャーを返してくる。コップに歯ブラシを立てて、「なに?」とやわらかに問うてくる。「あしたがいい日でありますように」「……え?」「このまえから俺にそう言ってくれるだろ。優しく光っているみたいな祈りの言葉。これってなんなの?...
智伸が居心地悪そうに身じろぎした。湯がゆれる音が立つ。「なんだよ、人の顔見てにやにやして」「いや、智伸のこと無理やり連れだした気がしてたけど、やっぱり来てよかったなって」「……いやだったら来ないよ」 ぽつんと落ちた言葉が浴場に響いた気がした。 ふたりでのぼせる直前まで湯につかって、のんびりと浴衣に着替えて部屋に戻る。智伸がしごくゆったりと言う。「気持ちよかったー……。ふやけるかと思った」 白湯を飲み...
目的地には快適に到着した。スマートフォンを改札にかざして駅前のロータリーに出る。かなりの人出ですくなからず驚いた。温泉宿へのバスに乗り込む。いきなりのジェットコースターみたいな急坂にやや気圧されつつも、隣に座った智伸に話しかける。「きょうは冷え込んでいるから、温泉が楽しみだな。想像するだけでぽかぽかになりそう」 智伸はバスのフロントガラス越しに坂を眺めていたけれど、優羽のほうを向いて楽しそうに笑...
気持ちを切り替えるためだけに、話題を振った。この先のこと、みじかい未来の話を。「智伸、お前、着いたらどうする?とりあえず、宿に行くか?」「そうだなぁ、時間はいっぱいあるから、まずは温泉でゆるっとしたいな」「わかった」 話しているあいだにも、新幹線がやってきてふたりして乗り込む。なんとなく窓際の席に智伸を座らせると、かすかに笑った。「なんだよー」と言うと「なんでもない」と笑ったままの答えが返ってく...
翌日の朝、新幹線の出発時刻15分前に在来線と新幹線が相互乗り入れをしている駅に到着した智伸と優羽は、並んで新幹線ホームにむかいながらキャリーケースを転がしていた。先だって、優羽の荷物が大きすぎると智伸は会うなり声をあげて笑った。そう言う智伸の荷物はコンパクトすぎて、優羽は心配になるのだけれど。「俺、旅行に行くのなんて何年ぶりだろう」 優羽が感慨深げに言うと、智伸が「俺は修学旅行の引率以外の旅行に...
「いいな、熱海。海にも山にも近いし。っていうか、海で、山だし。なんで今まで行かなかったんだろう」「俺はともかく、智伸は学校の仕事でそれどころじゃなかっただろ」 優羽はじっと智伸の目を見た。あきらめるために。ここからはじまる、なんて思っちゃいけない。ここから終わらせていくための旅なのだ。目を見つめたままで言う。「旅じまいに、温泉満喫しような」 智伸の目がかすかに揺らいだ。こくりとうなずく仕草がやけに...
ゆうべの肌寒さは放射冷却によるものだったらしく、翌日は秋晴れのよい日和になった。すこん、と抜けたような青空のもとを部屋から最寄りのバス停まで歩いた。 やってきたバスで駅前まで出て、約束したドトールに優羽が到着すると、智伸はもう席についていて「優羽!」と軽く片手を挙げた。病気だなんてうそみたいな自然な笑顔だった。 いつもそうだった、と優羽は思う。きっちり約束通りの時間に赴くと、智伸がいつも自分を待...
『優羽』 優羽の提案にしばし黙り込んだ智伸が、しずかな声で言う。『思い出作りのためだったらやめたほうがいい。あとから余計に苦しくなるから』「なにもできないほうがいやなんだ。こんなことになったのに、離ればなれで日常を送るほうがいやなんだ。俺の気持ちに気づいているんだろ?だったらわかるだろ?」『ほんとうに俺のこと、好きでいてくれているの?』 こんなときなのに、とても甘い問いかけに聞こえた。「ああ」と短...
つぎつぎにあふれだしてくるものを思いを、考えてもしかたない、と首を打ち振った。考えたところで、智伸を蝕む病気の進行が遅くなるわけじゃないのだ。病気が、消えるわけじゃないのだ。深い悲しみに、両足をとられる。 ふと、別れ際の智伸の声がよみがえる。やわらかい、すこしかすれた声。「あしたがいい日でありますように」。 ふざけんなよ、と唐突な怒りがわいてきた。勝手に病気を打ち明けて、優羽の気持ちを知っていた...
どうやってアパートの部屋に帰りついたのか覚えていない。ほんとうにそんなことがあるんだ、と思った。 気がつけば優羽は自分の部屋のベッドに仰向けに横になり、なにをするでもなくスマートフォンのニュースサイトを眺めていた。現実からはじき出された心が、いつも通りの行動をとることで、現実に戻ろうとしているみたいだった。 我に返って、目を閉じる。「泣くなんてずるい」と言っただれかの声がよみがえる。そうだ、あれ...