記憶のなかから立ちのぼってきた、なつかしい声を聞く。自分の、保育園に通っていたころの声だろうか。あどけなくてふわふわとした、高い声。「あいりせんせい、けっこんしたの?」「そうだよー、ひろくん」「ええとねえ、ええっと……でめとー?おでめとー?」「わあ、ありがとう」 応じる保育士の声がふっといたずらっぽく揺れた。「ひろくんはだれとけっこんしたいかなぁ?」「だれと?」「けっこんは、すきなひととずうっとい...
BL小説『いつか君に咲く色へ』連載中です。人の感情を色で把握できるDKとその色をもたない同級生のおはなし。ゆっくり恋になっていきます。
『ありえない設定』⇒『影遺失者』と『保護監視官』、『廃園設計士』や『対町対話士』(coming soon!)など。…ですが、現在は日常ものを書いております。ご足労いただけるとうれしいです。
そうかぁーと実秋先輩は僕を眺めた。だよなぁ、お前、顔がきらっきらしてるもんな、と目を細めて笑う。思わず身を引いて、頬を両手で覆うと「なにやってんの」とさらに笑われた。ちなみに、この時の、この朝の、ハイテンションがから回ったあげくの自分の挙動を考えると羞恥で消えたくなるので、大人な対応をしてくれた実秋先輩の目に自分がどう映っていたのかはぜったいに知りたくない。優しくて寛容な先生や陰湿だから要注意な先...
車内には僕と先輩の姿しかなく、太陽の光がさんさんとさしているのに勇気をもらって僕は先輩の前までちょこまか走り寄った。「おはようございます!」面食らったように先輩が顔をあげる。だるそうに座席にもたれて読んでいた本は意外なことに漫画ではなく、しかも分厚いペーパーバックの英語の小説だった(the story ofで始まっているのでわかる)明るい茶色の髪、男にしては白い肌、黒目がちの目、薄い唇。その唇が動いて「おう、...
キッチンに降りると母さんの「おはよう」がやわらかに飛んできた。おはよう、と機嫌よく返し、ダイニングテーブルの自分の席につく。春の日差しが差し込むダイニングで、父さんと姉さんはもう朝食を半ば食べおえて、それぞれ会社と大学に行く格好をしていた。姉さんはおととい大学の入学式を終えたばかりで、思えば去年の我が家はなんとなくどんよりしていた。なんど姉さんと「遠い夜明けだね……」と言いあったか記憶にない。なには...
《春》あたらしい服というのは、どうしてこうも人をこそばゆい自意識過剰に陥らせるのだろうか。特に制服となるとプラスアルファ緊張と高揚で鏡の前から離れられなくなる。というわけで僕は四月上旬のよく晴れた朝、自室のスタンドミラーの前で、制服のブレザーのボタンを掛け違えていないかとか、えんじ色のネクタイの結び目が変じゃないかとか、ズボンの折り目がゆがんでいないかとか、とにかくそういったことで頭をいっぱいにさ...
指先を体内に潜り込ませると、さすがに怖いのか緊張しているのがわかる。「ナツ、ゆっくり息をして。大丈夫だから。ここで、ちゃんと気持ちよくしてやるから」俺の言葉に安心したように内腑の緊張がすこしほどけた。ぐるりと指を巡らせると、ナツが一点で高い声をあげた。びくびくと身体を震わせる。「ここ?ナツの気持ちいいところ、ここ?」ナツがこくこくとうなずく。変、だけど、いい。ゆるゆるとじれったいほど時間をかけてナ...
シバさん、とつぶやくナツの涙がTシャツの肩をじょわじょわ濡らす。なんで泣くんだよ、と子どもをあやすように言うと、肩口で声がした。「シバさん、ちゃんとキスをして。眠っていないときに」一回だけ、鼓動が強く、胸を打った。一瞬ためらって、ベッドスペースに片手でナツを押しやって俺もそのあとにつづく。遮光カーテンを閉める音に、ちいさくナツが身じろいだ。ふとんの上で唇を重ねると、ナツの口腔に舌を忍ばせた。ナツも...
こんなに真摯に他者から存在を乞われるのははじめてだった。年下の男に、年甲斐もなく、どうしようもなくどきどきした。ハンドルの上にきちんと両手を並べる。深呼吸しなければ、そうだ、深呼吸を。そして、思った。こいつとなら、俺もひとところで生きていけるんじゃないだろうか。窓を開けてくれる手が、新鮮な空気を運んでくれる手がある場所でなら、生きていけるんじゃないだろうか。俺の迷いを見透かしているのだろう、とても...
「しょうがねえなぁ」俺が笑うと、ナツの顔が曇った。僕、絵が描けるようになったのに、まだシバさんと一緒にいたい。なんでだろう。シバさんのことは優しくて怖い人だと思っていて、それで。「きっと、僕、シバさんのことが好きなんだ」どくりと、一度だけ心臓が跳ねた。続いて、とくとくと速まった鼓動がつづく。ナツが言い募る。シバさんがハルさんの話をするたび、なんだか悲しくて悔しくてどうしてだろうと思っていたけれど、...
「シバさん、なんか眠そう……っていうかめっちゃ顔むくんでるよ?大丈夫なの?」ステアリングに両腕を乗せてぼうっとしていると、俺のやましさなんて知るよしもないナツが、心配そうに顔を覗き込んでくる。よく眠れなくってよ、と詳細をおおいに省いて返すと、シバさんでもそんなことあるんだーといたってのんきに言われた。僕、時々夜中に目が覚めるんだけど、シバさんすごく寝てるから、意外。知ってるよ、と思う。お前が眠れない...
「シバさんにとって、いま、ハルさんはどんな存在なの?」ナツがおそるおそるといった調子で尋ねてきたのは、鹿児島のサービスエリアで仮眠休憩をとる寝入りばなのことだった。もう眠気に両足をとられているのか、もったりとした緩やかな口調だった。そのゆるりとした質問に、俺の口もつい軽くなる。「思い出すと痛い、でも思い出さずにはいられない、会いたい、でも会うのが怖い、忘れられるはずがない」重いね、とナツが言った。...
誘蛾灯に群がっては死んでいく翅の話を思い出した。ナツは言った。あこがれていたものに最期に触れられるのだから、いいなあと思うと。お前だって思っているだろう。三文の恋なんかじゃなかったって。すべてを捨ててもいいくらいに好きだったんだって。「兄ちゃんの婚約者とは、なにかあったのか」問うと、ナツはものすごい勢いで首を横に振って「ないないない、ありえない」と言う。天地がひっくり返ったってあの人が僕とどうこう...
夏の、白くて細い雨がさあさあとフロントガラスに降り注いでいる。ずいぶんとしばらくぶりの雨だ。ナツは雨の軌跡を指でたどって遊んでいる。どこか、いつもと様子が違う気がした。俺はちらちらとナツを横目にしながらも運転に意識を向けている。ハルに言われた。シバくんの運転、すごく安心して乗っていられる。椅子に座っていられないほど落ち着きがなかったなんてうそみたい。それからというもの、俺は無事故無違反安全運転を心...
―――ああ、どうして。どうしてお前はそう聡いんだ。なにかが決壊したようだった。あふれ出して、流れ出す。もう、止めることができない。俺は、ナツにハルとの思い出を語り始めた。工事現場で出会ったこと、ダンプカーであちこち出歩いたこと、雨の日のおにぎり、そしてこの車での別れ、幸せを願えばその手を離すしかなかったこと。忘れてなどいない、こんなに覚えている。こんなに、記憶から消えてくれない。ナツはちいさくうなず...
「ハル……ハル、元気か?」「うん」すべてをあまねく照らす真夏の光のなかで、ほんの少し笑って、ハルはうなずいた。そして、両手をきちんと並べ、膝の上に置いた。あ、と思う。『しるし』だ。あの、あのね、ハルがなにか言いかけて口ごもる。なんだよ、もう、と促すと恥ずかしそうに言う。いま、秦野さんのご両親に挨拶に行った帰りなんだ。その言葉にへなへなとその場に座り込んでしまいそうな、軽い衝撃と深い安堵があった。ハル...
夏休みに入ったサービスエリアはうんざりするような人出だ。連日ラジオで長蛇の渋滞情報が流れると、それだけでげんなりする。クーラーを最強で稼働させているのに、直射日光でもうこれはどうにもならない。「混んでるね」大型車用の駐車スペースでナツが呆気にとられたように言った。夏休みはいつもこうだぜ、と返すと「まじ?僕、シバさんのことほんとうに尊敬する」と真顔で言われた。やめろや、とそらしたまなざしが目のくらむ...
珍しく高速道路がすいている午後のことだった。隣で炭酸水を飲みながらナツがふと俺に疑問を投げた。「シバさんさぁ、結婚しないの?」「はあ?」質問があまりにもいきなりで少し声がとがった。結婚て。こいつ、俺を人生の指標にするつもりだろうか。ろくなことにならないぞ。「いや、シバさんモテるでしょ」喉の奥から笑いが漏れた。ひとり深夜の高速道路を長距離トラックで飛ばす男にモテる要素があるんだろうか。すごく、ない気...
博多付近のサービスエリアで仮眠をとった。遮光カーテンを引き、俺はふとんで、ナツはシュラフで眠っていた。ナツは俺が運転中にいつでも寝ていいよ、というのに首を振る。ちゃんと、いろいろなものを見ておきたい。そう言って。だから仮眠のタイミングはいつも一緒になった。ふっと目が覚めた。ナツが起きている、そんな気配がした。わずかに身を起こす。昼間をさえぎるカーテンの生む薄暗がりの中で、ナツが一心にスマホを見てい...
ナツの言葉に、胸が詰まった。もう会えない。最後のメッセージでハルは『きっと会えるよ』といったけれど、俺たちをつないでいた衝動の糸はあいまいに切れてしまった。もう会わない、もう会えない。どちらだろう。たくさんのかわいい話、たくさんの重い苦しみ。どちらを俺との記憶として、ハルは選ぶのだろう。わからない、わからなかった。でも、とナツが明るい声を出した。「もう会えないって思ってても会えるんだ。会いたい人に...
「こら、ナツ、ただめし食えると思うなよ」「あたりまえだよ。ヒッチハイカーなりにお金は持ってる」「えらいぞ。ただめしが食えるとはなから思い込むやつと、めしを粗末にするやつはろくでもないやつだ」ナツが楽しそうに笑った。それ、シバさんの人生訓?久しぶりにいいこと聞いたな。機嫌を取ろうとしているのではない、いい笑い方だった。天ぷらがすっかりそばつゆを吸ってふやけているのに機嫌よくいられたのは(さくっとして...
「誘蛾灯に」横顔を盗み見ながら、思わず口をついた。「誘蛾灯に向かって飛んでって、死んじゃう虫のこと、お前どう思うよ?」「いいなあって思う」唐突な問いにもかかわらず、間髪を入れず、想定外の答えが返ってきてちょっと動揺した。両の手のひらをハンドルの上で握って開くのを何度か繰り返す。「あこがれて、近づきたかったものに、最期にたどり着けるんだ。いいなあって、思う」あどけない、夢見るような声だった。たったい...
描けなく、なっちゃったんだよね。頼りない声がふよりと車内を漂う。ハンドルを握ったまま、そっとナツを見やる。弱々しく笑って「有名な賞をもらったこともあるんだけど」と情けなさそうにいった。だから、いろんなものを見て、聞いて、触って、嗅いだり味わったり、そういうことしないと。このままずるずる描けなくなったら、まわりにどやされる。どやされるのが怖いんじゃなくて、これ以上、まわりの期待を裏切るのが怖いんだ。...
ナツがやわらかに、軽やかに尋ねる。「シバさんは?いくつ?」「35」「わー、大人の人だ。僕、タメ口きいちゃってるけど、いい?」変な奴。また少し笑って、絶対に許さねえ、次のサービスエリアでおろしてやると言うと、わぁー嫌ですそれだけは勘弁してくださいと慌てたように言う。冗談だよ。まじに取られると困る。「で、さっきのシバさんの話なんだけど」ナツが問う。「どの話だよ」「ミケ。シバさんの名前と『ミケ』のあいだ...
「ありがとう、ほんとにありがとう」そのサービスエリアを出発するまで10分もたっていなかったと思う。男は俺のトラックの助手席でまるで神さまをあがめるようなまなざしで俺を見て礼を繰りしていた。運転しながら、おざなりな返事をする。「わかったわかった、ありがたく思うんなら、そのたい焼きを半分くれ。腹が減ったんだよ」差し出されたたい焼きを左手で受け取ってかじりながら、「で、名前は」と促した。「芦田、那津」思...
「こんにちはー」青年がさわやかに挨拶してくる。初夏の日差しのなか、とても感じのいい笑顔で。ふさがりがちだった胸にすうっと一瞬だけ、すずしい風が通り抜けた気がした。そよかぜ、まさにそんな感じで。好青年、という使いなれない言葉が脳裏に浮かんだ。片手をあげて挨拶を返す。「おう、兄ちゃんどこ行くんだ」「えっと、門司まで行きたいんですが……」誤字に気づいていないとみて、「そんなんじゃ誰も乗っけてくんねえぞ」と...
鹿児島のサービスエリアで仮眠から目覚めると、ふいに尿意を催した。ベッドスペースから這い出し、トラックを降りて鍵をちゃりちゃり鳴らしながら公衆トイレに向かう。昼間のサービスエリアは日曜だからということもあるのか混雑していて、たい焼きとソフトクリームののぼりには行列ができていた。小さな子供が「たいやきたりぶー」と叫んでいる。その子供を抱いた母親は、娘を軽くゆすり上げてあやしながら、かばんのなかを探って...
夜だった。中継センターから戻る途中、まばゆい誘蛾灯にみちびかれて力尽きた夜の翅を地面に見つけた。青白い灯りを見あげる。性懲りもなく、次の翅また次の翅、と群がっている。翅そのものより、群がらずにはいられないその愚かさがやりきれなくて視線を外した。俺の足音だけが夜の静寂に響く。長距離トラックに乗り込む。エンジンをかけるとぶおん、と低い音ともに出発する。次の目的地までの道のりをナビに表示させながら、むな...
声を殺して泣きながら、それでも駅に向かおうとするとかばんの底で携帯が震えた。その振動でわずかに我に返り、かばんを開ける。取り出してみると、メッセージが一通届いていた。シバくんからだった。『いつかどこかのサービスエリアで会えたらうれしい』それは、偶然にということ?それとも、真夜中のまぼろしのことだろうか。涙を拭きながら、スマホの画面を眺めているとふっと暗くなる。気持ちもかげり、それを察したかのように...
トラックから降りて、空を仰ぐ。日が落ちかけ、空がオレンジ色に染め上げられている。その鮮やかさは幼いあの頃と少しも変わらない。大きな炎が沈んでいくような激しい色をした夕日が街並みをあまねく照らす。その炎を背景にして、勢いよく走りだすシバくんのトラック。海に出ていく巨大な船が汽笛を鳴らすような音を残して去っていく。僕は置いていかれたのだろうか、それとも置いていったのだろうか。わからない。あっという間に...
「行かないの?俺と」温度の下がったシバくんの声に、力なくうなずく。行こう、行きたいと思ったあの瞬間とはちがう涙があふれそうになるのを必死でとどめた。ここで泣くのは、狡い。「僕は、父のようにはなりたくないんだ。だからいつだって、どんなにつらくたって、家に帰った」このままどこかへ行ってしまおうかと思ったとき、遠ざかっていく電車の姿がよみがえった。炎のなかに運ばれていく、大きすぎる父の棺。どれだけ遠くへ...
うるんだ孔はよろこんでシバくんを受け入れた。ひくついているのが自分でわかる。「いやじゃない?ハル、いやじゃない?」衝動をこらえているのだろう、顔をしかめて尋ねるシバくんは本当に不安そうで、でももう止まれないんだろうなぁ、と思うといとおしさで胸が痛んだ。「だ、いじょうぶ……気持ちいい、いいから、つづけて」動くよ、といったシバくんは荒い息のあいだに何度も僕の名を呼んだ。あたらしい言葉を覚えた子どもみたい...
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記憶のなかから立ちのぼってきた、なつかしい声を聞く。自分の、保育園に通っていたころの声だろうか。あどけなくてふわふわとした、高い声。「あいりせんせい、けっこんしたの?」「そうだよー、ひろくん」「ええとねえ、ええっと……でめとー?おでめとー?」「わあ、ありがとう」 応じる保育士の声がふっといたずらっぽく揺れた。「ひろくんはだれとけっこんしたいかなぁ?」「だれと?」「けっこんは、すきなひととずうっとい...
煙草の煙が漂ってくると、パブロフの犬もあきれ返る勢いの反射で彼のことを思い出す。僕を抱いた後は煙草が吸いたくなるといった彼。ゆうらりとくゆる一本きりの煙の時間をひっそりとベッドのなかから見守っていた。眼鏡をかけるほどではない軽い近視だった目が、遠くを見るように眇められる、それが色っぽくて好きだった。あの視線が、なにを映していたのかを僕が知るすべはもう、どこにもない。 よく晴れた冬の日曜日の昼下が...
「お疲れさま、ふたりとも。先にあがるね。あ、そうだ!透琉(とおる)くんに教えてもらったレシピ、このまえ試してみたの」「うわあ、ありがとうございます!どうでした?」「レンチンでぜんぶ作れちゃうのね、時短わざは透琉くんに聞けってね」 はじける笑い声を歩生(あゆむ)は背中で聴く。話題そのものに、ものすごい遠心力で弾き飛ばされたのを感じる。相容れない、水と油のように。 バイト仲間の透琉はモテる。主に、パー...
ルーティンというものは破られたときのほうが、守られたときより「そこにある」ことを主張しはじめる。 由糸(ゆいと)の場合、ウィークデーならこんな感じだ。決まった時間に起きて、毎朝飲むサプリメントを服用し、軽く胃に食べものをいれて出勤。帰ってきたら食事のまえに簡単に風呂をすませ、休日に作り置いた数品やスーパーの半額シールの貼られた惣菜で夕食をとって、本や新聞をめくり、だいたい日付が変わるころにベッド...
こんなことでもなければ、20代でふるさとの地をもう一度踏むことはなかっただろう。 視線をめぐらせ見あげる空から、気まぐれに三月の雪が降ってくる。そういえば、この地では死んでいく冬が最期の力を振り絞るように、こんな雪が降ることがあるのだった。襟足から容赦なく冷気が忍び込んでくる。薄手のコート一枚でやってきたことを後悔した。音もなく降る雪に、無沙汰を咎められている気がして、柚希(ゆずき)はちいさく肩を...
もうなにも出ないから、もういいから、と訴えても、やめてもらえなかった。なかの刺激がよくてよくて、無意識にまだ、とかもっと、と口走ってしまうたびになんども奥に射精された。なにも出ないままでいかされたとき、脳髄ごとけいれんを起こすような快感に絶叫した。溺れそうで苦しくて、苦しいことがしあわせだった。 果てのない交合が終わったのは、夜明けちかかった。あちこち痛む身体をなだめすかして起き上がると、響生が...
だから、何のためらいもなく響生の指が後孔をうかがってきたとき、興奮よりも恐怖を覚えた。肌はほてっているのに血の気の引くような、ふしぎな感覚。「ねぇ、ひびきさ……っ!あの、ねぇ、その、……ほんとにできる、の?」 響生が無言で陽詩の手を掴む。そのまま導かれた先の熱に反射的に指先がびくっとした。「陽詩にあれだけしといて、俺のが無反応とかそっちのほうが変態くさいだろ」 軽く笑った響生の指が体内にもぐりこんで...
「すごくいまさらなこと訊くけど」 ベッドサイドのあかりだけが生きた仄暗い部屋、ベッドの上で陽詩がせがむままのキスをしながら、響生が問う。「陽詩くんって、ゲイなの?」 陽詩は答えないまま、自分にのしかかっている男に口づけをねだる。スプリングをきしませながら、なかばもう自暴自棄なのか、響生が熱心にそれに応じた。「こういうキス、したことある?」 響生は舌先だけを陽詩の舌にからめ、誘い出した。ふたつの唇の...
数日後、響生が住むアパートの最寄り駅の改札で、陽詩は姉の恋人の帰りを待っていた。 ここで、姉といっしょに響生を待ったことがある。あの夜は、三人でたこやきパーティーをした。姉はとても楽しそうにはしゃいで、そんな姉を響生がやさしい目で見ていた。 そして今夜は。陽詩は、墨を流したように暗い空を見上げた。 ――……今夜は、後戻りのできない取り引きをする。「陽詩くん?」 背中に、聴きたがえようのない響生の声が...
「ドナーの適合検査……?あの、僕も?」 三日後の朝。ダイニングテーブルをはさんで向かいに座る父親の顔を陽詩が見上げると、父親は「すまないが、検査を受けてくれ。繭子のためだ」と憔悴しきった面持ちでうなずいた。「陽詩がいま、将来に向けて大事なときだっていうことはわかっている。できるだけ、おまえの心身の負担にならないようにはしたいんだが……巻きこんでしまって、ほんとうにすまない」 陽詩は居心地悪く、椅子の上...
ハイレベル模試を全教科受け終わり、家路を辿る途中の自販機で買ったスチール缶のココアを片手に自宅のドアをひらく。いちどきに、重く沈み、暗く淀み、つめたく凍りついた空気に全身を包まれた。家じゅうが閉じた冷蔵庫になってしまったかのような異様な雰囲気にかすかに身震いする。ふっと、このさきの人生には何一ついいことがないんじゃないかという予感がした。 空恐ろしい未来予想を振り払うように、陽詩(ひなた)は精い...
ぽた、と膝に落ちたのが溶けたアイスクリームの雫だったとき、やっと、別れ話をされているのだと理解した。夏の終わりの夜のはじまりはまだ明るく、一瞬でぬるくなった濃紺のうえのミックスミントアイスの色はいかにもすずしげだ。 人工色の緑を指先でふき取り、ふふ、と千緒(ちお)はちいさく笑う。アイスだって。涙じゃなくて。たぶん、650円くらいの値段の恋だったんだ。 涙さえ流す価値さえない恋だったのだと、だれかに...
ふっと、帰ってきている気がした。曇りガラスのむこうに、朝からしとしとと降っている雨の足跡を刻んで。麻杜(おと)は人参をさいの目に刻んでいた手を止め、じっと硝子戸の外の気配をうかがう。犬が甲高く鳴く声、バイクの走り抜ける音。昼下がりの休日の、なんということのない音の光景。きっと、聞いた通りの風景が硝子の引き戸越しには広がっているのだろう。「麻杜」聞こえない声が聞こえる。触れられない腕がそっと手の甲を...
彩葉の目を覗きこみ、清音が感じ入ったように言う。「菅原がちゃんと感じてくれて、すごく気持ちよさそうでよかった」「……気持ちよすぎて頭がへんになるかと思った……。いろいろ見苦しくてごめんね……」 さっきまでの交わりの名残はもう、身体の奥に残るあまい感覚と、シーツを汚しているもろもろの体液にしか残っておらず、彩葉はかすれた声で言うと咳きこんだ。その拍子に後孔からくぷりと清音の放ったものがあふれ、シーツに伝...
「ん、ああんっ、……あぁっ、いい、気持ちい……っ、あ、あっ、……いく、いっちゃう」 清音の歯が乳首をかすめた瞬間、目を閉じ、浮かせた腰をふるわせてさらさらと流れるような射精をする。存分に出したはずなのに強烈な快感は引かず、高止まりのままの性感に彩葉はもうどうしたらいいのかわからない。ただ、身体がそうしたいと思うがままにあられもなく乱れた。荒い息のあいだから、自分を抱く腕に訴える。「あぁぁ……ん、清音、まだ...
じわじわと、清音の性器に浸食されていく。ちっとも怖がらずに清音を受け入れたそこが気持ちよがって、ひくひくと飽きることなくあたらしい異物を啜るのがわかった。ゆるく彩葉を抱きしめ、腰を進める清音が、あっ、とちいさく掠れた声を洩らす。「ゃ……、待って、菅原、……なに、なにこれ」 彩葉の内腑の蠕動を予想していなかったのだろう。とはいえ、彩葉は彩葉で指とは較べるべくもない質量がなかに挿ってくるので、痛苦しいや...
後孔にそろりと最初の指が差し込まれてからどのくらい経つのか、彩葉には判然としない。はじまったころは違和感に清音の指を押し出そうとばかりしていた彩葉の粘膜は、いまや喜んでなかで蠢く指を三本も咥え、啜り、しゃぶっている。ぬちゃぬちゃという粘着質な水音は、清音が彩葉の後孔にたっぷり含ませたローションで。「……だいぶ慣れた?痛くない?」 清音の問いに、枕を抱えて脚をおおきくひらいたまま、声も出せない快楽に...
清音の声で彩葉に吹きこまれるのは慈しみなのに、はっきりと欲情をにじませている。清音が早く彩葉を自分のものにしてしまいたいと思っているのがわかる。だって、唇に優しく口づけながらも清音の手は。「あ、ぅ……ん、あぁ……、んっ、あ」 とうにしとどに濡れていた彩葉の性器に触れる清音の手には、いっさいの躊躇も遠慮もなかった。彩葉が分泌したぬめりを借りて、水音を立てて、反応をうかがいながら追い上げてくる。過ぎた性...
「菅原」「……どうしたの?」「ここ、こりこりになってきた。すごい、指で弄れそう」 したたるような声で言うや否や、清音が指先で彩葉のはっきりと赤みをまとったふたつの尖りをつまんだ。そこから注がれる快感に息を呑んだ彩葉の喉から、うわずった声が迸る。「あ、あぁ、……っ、や……!」 反射的にぎゅっと目をつぶってしまったので、否応なしに触覚と聴覚が研ぎ澄まされる。はっきりわかる。清音にどんなふうに触られているか。...
「菅原、こら、じっとしてて」「ごめん、想像以上に恥ずかしい、これ」「……こら、もう、強硬手段に出るよ」 そう言って、彩葉のパジャマのボタンをベッドの上でひとつずつ外しながら、真上から彩葉を押さえ込んでいる清音が器用に脚で彩葉の動きを封じた。直接、肌に触れる清音の指がくすぐったくて身をよじりたいのに思うように動けない。こんなときなのに笑いだしそうになる。 されるがままにパジャマをはだけられ、素肌に手の...
「ごめんな、お前、いったばっかりでちょっとしんどいかもしれないけど」 しばらく堪えていた智伸のものが一気に奥まで届いたとき、優羽はすがっていた背中にぎゅっと力を込めた。すこし乱暴なほどの快感が走る。荒い呼吸をそのままに優羽にキスをして、深い場所でつながったまま、智伸がもどかしげに言う。「俺とこうしたこと、ずっと覚えていて……気持ちよかったなって、ときどき思い出して」 優羽の目じりからぽろぽろと涙がこ...
目を閉じる。智伸の荒い息遣いが聞こえるのに、ひどく興奮した。耳からの刺激にあっという間に絶頂が近くなる。「あ、……っ、あっ、や、だめ、出る……いく、から」「俺も、いきそ……っ、ん」 二人分の白濁を手のひらに受けて、あわただしく智伸が優羽の腰の下に浴衣をあてがった。そのせわしなさにすこし笑いそうになる。 忘れない。忘れることなんてできない。夕方の光が仄明るいなかで、カーテンも閉めずにこんなふうに智伸と肌...
ぎゅっと一瞬だけ強く握った手をすぐに離して、智伸が横顔で淡く笑った。はっと胸を衝かれるような、寂しげでうつろな笑顔だった。こんなにがらんどうな笑顔を、ひとはできるものなのか。「お前が好きだよ、優羽。俺がお前を好きだったこと、思い出してくれたらやっぱりうれしい」 風に紛れて聞こえないような声で智伸が言う。馬鹿、と声には出さずに思う。 ぜんぶ覚えておくと言っただろう。つらくないわけじゃない、悲しくな...
ふたりが食べ終わっても店の外には順番待ちの人たちがひしめくように立っていたため、ふたりは早々に店をあとにした。海までの坂道をゆっくりと下っていく。 目のまえを行く男女が仲睦まじげに手をつないで、顔を寄せあってなにごとかささやきあっている姿を、優羽は幾重にも胸がよじれるような思いで見つめた。 こうして智伸と自分が歩いていても、だれもふたりが恋人どうしだとは思わないだろう。 智伸がいなくなったあとに...
花火?と首をかしげた智伸はスマートフォンで何やら検索をはじめる。ややあって、「あぁ、これか。海上花火大会」とつぶやいて画面を優羽のほうに差し出した。 智伸のスマホを受け取って目を走らせる。どうやらこの土地では季節にかかわりなく頻繁に花火が上がっているらしい。「どうする?見に行くか?」 智伸に選択権とともにスマホを手渡す。携帯の画面を眺めながらすこし考えた智伸が「きれいだけど、行かなくていいかな」...
「強くならなきゃ」とちいさくもう一度声にすると、ゆるゆると智伸が首を横に振る。「そのままでいいよ、強くなくていいよ、優羽。俺が好きになったのは、いまの優羽だから。好きなんだよ。弱いとことか、いっぱいいっぱいまで溜め込んで、爆発しちゃうとことか」 自分はどうしたらいいのだろう、と考える。こんなふうに存在を肯定されて、変わらなくていいと言われて。智伸がしずかに目を閉じた。「ずっと、優羽のそばにいたか...
「なぁ」 智伸に呼びかけた。ゆっくりと相手がこちらを見る気配がする。「お前、怖くないの。その……病気のこと、死んじゃうとか、だんだん身体が動かなくなるとか。俺だったらもっと取り乱して、泣き喚いていると思う。平静じゃいられない」 優羽の言葉に智伸はすこし考えこむそぶりを見せた。しばらく黙ったあと、すこしずつ紡ぐように言葉を口にする。「『怖い』の第一波は乗り越えたのかもしれない。また怖くなったり、夜眠れ...
「ほんとだから、怖かった。こんなにしあわせなことがあるはずがないって思った。優羽もなにか言うわけじゃないから、確かめたら終わりみたいな気がして、なんにも言えないまま卒業して。大学入ってから後悔したよ、伝えておけばよかったなって。だから社会人になってまた距離が縮んだときは、今度こそうまくやろうって思って、」 智伸の声が途切れる。その矢先に病気のことが発覚したのだろう。つくづくタイミングを逃してばかり...
来てみたのはいいものの、さほど智伸にとって興味を惹かれる展示がなかったようで、早々に美術館をあとにした。 来たときと反対車線のバスに乗って急坂を駅前まで下りていく。ビー玉を落としたら延々と海まで転がっていきそうな街だな、と優羽は妙な感慨を覚えた。そのすこしばかげた物思いを智伸に伝えようとしたけれど、窓の外を見ている横顔のしずけさに口をつぐんだ。 駅前まで戻って、路線バスを乗り換えて温泉宿へ帰る。...
優羽は智伸の頬に手を伸ばした。その手をそっとつかんで、智伸が指先で手のひらの輪郭をなぞる。覚えておけたらなぁ、とちいさな声で言う。「なにを?」「なにもかも。優羽のことはもちろん、大事なことをなにもかも」 ごめんな、という声とともに手が自由になる。智伸の指先の感覚が残る手をぎゅっと握りしめた。ちいさく息を吸い、みじかく言った。「忘れていいよ。だいじょうぶだから」「えっ?」 虚を突かれたような顔にふ...
その晩はひたすら互いを貪った。脚を肩に抱えあげられて、智伸の身体のうえに乗り上げて、さまざまに体位を変えながら。 何回いかされたか優羽は覚えていない。なんど出されたかも。ただ、身体の満足だけを追っているあいだは智伸のこれからを考えずにすんだ。それだけがわかっていた。 明け方、みじかい眠りにつくまえに、智伸がやさしく優羽の肩を撫ぜながら「あしたがいい日でありますように」とつぶやくのが聞こえた。もう...
智伸の指の抜き差しがはっきりと暴く動きに変わった。ひっきりなしの快感に翻弄されて、優羽の心身から羞恥や遠慮が消しゴムをかけるように薄れていく。いきそう、と訴える。「や……あっ、……あぁん、あぁっ、……いく、おれ、いっちゃ……っ!」 はしたなく喘ぎながら優羽がのけぞった身をふるわせて射精すると、智伸は片手で白濁を受けた。「ごめんな、これ、使わせて」 智伸は自分の性器に優羽が放ったものをまぶすと、優羽のなか...
もう恥ずかしがっていてもしかたないので、関節の許す限りいっぱいに大きく両脚をひらいた。さらされる感覚に、ぞくぞくした。 智伸の指が後孔をうかがう。ふちをなぞるように円を描いて、ときどき入口にぴったり指を押し当ててくる。はしたなくこぼしているもののせいで、そのまわりが潤っているのがわかった。 内腑にごく浅く侵入してきた指を、優羽の身体は拒まなかった。むしろ、その呑むような動きに智伸が驚いたように尋...
その問いかけに、気持ちを確かめる疑問符に、智伸の喉がかすかに鳴った。それが答えだという気がしたから、優羽のほうから唇をあわせた。 ついばむような口づけが、ほどくのも難しいような深いものにかわるのにさして時間はかからなかった。智伸は優羽の座る椅子に半分乗り上げるようにして、優羽の唇を、舌を貪った。優羽は智伸の背に両腕をまわして、与えられるがままにキスを受けた。「優羽、抱いてもいいか?俺、いなくなっ...
窓際にしつらえられた椅子に腰かけていた優羽は、軽やかな音とともに洗面台で歯を磨いている智伸を見遣った。「なぁ、智伸」 口をすすいでいる智伸が軽く振り返りちょっと待って、というジェスチャーを返してくる。コップに歯ブラシを立てて、「なに?」とやわらかに問うてくる。「あしたがいい日でありますように」「……え?」「このまえから俺にそう言ってくれるだろ。優しく光っているみたいな祈りの言葉。これってなんなの?...
智伸が居心地悪そうに身じろぎした。湯がゆれる音が立つ。「なんだよ、人の顔見てにやにやして」「いや、智伸のこと無理やり連れだした気がしてたけど、やっぱり来てよかったなって」「……いやだったら来ないよ」 ぽつんと落ちた言葉が浴場に響いた気がした。 ふたりでのぼせる直前まで湯につかって、のんびりと浴衣に着替えて部屋に戻る。智伸がしごくゆったりと言う。「気持ちよかったー……。ふやけるかと思った」 白湯を飲み...
目的地には快適に到着した。スマートフォンを改札にかざして駅前のロータリーに出る。かなりの人出ですくなからず驚いた。温泉宿へのバスに乗り込む。いきなりのジェットコースターみたいな急坂にやや気圧されつつも、隣に座った智伸に話しかける。「きょうは冷え込んでいるから、温泉が楽しみだな。想像するだけでぽかぽかになりそう」 智伸はバスのフロントガラス越しに坂を眺めていたけれど、優羽のほうを向いて楽しそうに笑...
気持ちを切り替えるためだけに、話題を振った。この先のこと、みじかい未来の話を。「智伸、お前、着いたらどうする?とりあえず、宿に行くか?」「そうだなぁ、時間はいっぱいあるから、まずは温泉でゆるっとしたいな」「わかった」 話しているあいだにも、新幹線がやってきてふたりして乗り込む。なんとなく窓際の席に智伸を座らせると、かすかに笑った。「なんだよー」と言うと「なんでもない」と笑ったままの答えが返ってく...
翌日の朝、新幹線の出発時刻15分前に在来線と新幹線が相互乗り入れをしている駅に到着した智伸と優羽は、並んで新幹線ホームにむかいながらキャリーケースを転がしていた。先だって、優羽の荷物が大きすぎると智伸は会うなり声をあげて笑った。そう言う智伸の荷物はコンパクトすぎて、優羽は心配になるのだけれど。「俺、旅行に行くのなんて何年ぶりだろう」 優羽が感慨深げに言うと、智伸が「俺は修学旅行の引率以外の旅行に...
「いいな、熱海。海にも山にも近いし。っていうか、海で、山だし。なんで今まで行かなかったんだろう」「俺はともかく、智伸は学校の仕事でそれどころじゃなかっただろ」 優羽はじっと智伸の目を見た。あきらめるために。ここからはじまる、なんて思っちゃいけない。ここから終わらせていくための旅なのだ。目を見つめたままで言う。「旅じまいに、温泉満喫しような」 智伸の目がかすかに揺らいだ。こくりとうなずく仕草がやけに...