罪が赦されたことを信じて感謝している…だけでなく、全く新しい生き方をするために新しいいのちが与えられたのだ。「キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。」ローマ6:4「同じように、あなたがたもキリスト
罪が赦されたことを信じて感謝している…だけでなく、全く新しい生き方をするために新しいいのちが与えられたのだ。「キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。」ローマ6:4「同じように、あなたがたもキリスト
みことばを知っている、信じている…と言っても、都合の良いみことばが多くないだろうか。自分にとって、刺さる言葉や信じたくないみことばを聞いているだろうか?クリスチャンが神のいのちで生きるとき、敵は様々な状況や思いを与えて挑んで来る。(〈神を信じているから〉と
クリスチャンが「世の常識」や「この世の支配者(死)の法則」を当然のように簡単に受け入れ過ぎていることについて学ばされる。しばらく元気が続いているのに急に異変を感じることがある…そんな時はすぐに、もう年だからといちいち「病気」や「死」と結びつけて考えてしまう
身内にキリスト教式の葬儀があった。ごく近場に住む近親者だけの簡素なものになったが、これはこれで良かったと思う。故人が高齢であったことと、家族も少なく…前夜式はせず、葬式だけにした。(私の時もそれを望んでいる)ただキリスト教式なので、なんとなく初めに決めたこ
クリスチャンの受けている恵みは計り知れない。日々どんなことも神を頼り、祈り求めることができる者とされたから。困ったときは当たり前のように話し、聞いていただいている。もし神と繋がりも関係もなければ、父と呼ぶこともできず…人生で身にふりかかる苦難に押し潰され
神に祈れることはすばらしい。♪告げよ主に 告げよいま うちにある悩みを…主が知ってくださるだけでも…幸せ者だと思う。どれほど多くの問題や悩みを主に聞いていただいたことか、数えきれない。時には的外れなことさえ…あわれんで助けてくださった。これらはとても有り
…… ……「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしているとわかります。」Ⅰヨ
老いたからわかったことも多いけれど、老いも若きも関係なく…みことばの語りかけに真剣に向き合うことを切に願う。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。」伝道者の書12:1「結局のとこ
~みことばの糧~より「わたしは、高く、聖なる所に住み 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり」イザヤ57:15【 だれでも、その人のかたくなな心が砕かれなければクリスチャンになることはできません。 心を砕かれるのは神です。しかし神にとってもそれは容易な仕事
意識してもしなくても、人が求めているものは、まことの神からの恵みと平安だと思う。神がくださった「救い」とか「永遠のいのち」というと先のことのように思ってしまわないだろうか。それもあって、福音を伝わりにくくしているかもしれない。「…私たちの神であり救い主で
これ以外にも、回りの人によって知らず知らずクリスチャンに加工され市民権を得た人もいる。ひどい場合は、教会やクリスチャンに好意的・協力的な人だったという理由で…取り巻きが救ってしまう?等々。(あんな良い人を神が滅ぼすハズはない…と。)永遠を思うとき、なおざり
未信者の祈りは聞かれるか…について学んだことがあった。もちろん聞かれる、と思っていたし、そう言いたいところだが…考えさせられる。信者と未信者=(キリストにある)義人と罪人=神に属する者と悪魔に属する者=・・クリスチャンが祈るとき、イエス・キリストの聖名によ
「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」ヘブル12:5-6咋年末わが家を見舞った青天の霹靂。あぁ人生とはこういうものなんだ、と実感した。「もしあな
今年もあと一日という時に…心配事も大小あったけど守られて、年を越せる…と安堵していたが・・一番身近なところで問題が発生した。内容は話せないが、私と近くの息子におおきな重荷が・・青天の霹靂とはこれか!今朝も主を仰ぎ見る。~いと高き方のもとに~の一文【 「イ
~いと高き方のもとに~より【 「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」ガラテヤ5:24 霊の戦い 罪は地獄と悪魔に属するものである。私は神の子供として、天国と神に属している。罪を捨てているか、
福音を伝えたいと思うのに…、なんと伝わらないことをやってきたことか・・そればかりか、真理に導く妨げにさえなる・・いまこのみことばが、タイムリーに私の心にしみてくる。「私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによ
~いと高き方のもとに~より【「私たちは、この御子のうちにあって……罪の赦しを受けている。」エペソ1:7 神の赦し 「神は優しく、愛に富んだ方であるから、私たちを赦すのは当然である」というような、自分に都合の良い方法で、父なる神を見ることは、気をつけるべきで
クリスチャンが最初に必ず踏まなければならないベースがあることに気づかされた。この聖歌に表されていると思う。♪~あなたのつみあやまちは しまつされてあるか神なるキリスト・イェスを信じ救われたか罪を悔いて 誰もすがれイェスにイェスは十字架の血潮で 罪をきよめ
キリストにあって変えられ、キリストに根ざして生きている先輩クリスチャンに対して、私はその生き方を見倣っていたのに過ぎなかった。それは「新しい私」ではなく、生来の私のままでクリスチャンらしく生きようとしていただけ。教会を離れるのは自己責任なので、ひとりで重
30年余り在籍した母教会を離れてから…長い年月を経て~一昨日は久しぶりに二人の姉妹と顔を合わせた。お互い高齢者となり、もう会えないかも知れないから一度会いたい、ということで急遽お声がかかった。懐かしい思いもなければブランクも感じなかったのは、ずっと主にあっ
人が神に立ち返ってキリストの道を行くには、神の恵みがなければできないことを思わずにいられない。小さい頃から毎週教会学校に通い…ある時点で洗礼を受けた人、または教会へ行かなくなった人など様々だけれど、聖書の話を聞いて育ったなら、少なくとも天地の創造主がおら
軽い風邪は時々引いておく方が良いらしい。滅多に風邪を引かない夫と私が続けて寝込むことになり…キツかった。「どんなに祈っても、『いやされよ』と命じても良くならず苦しかった」と息子に言ったら、「(まだいやされていない)現実を見るのじゃなく…」とか言われ(^^;確か
「人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」詩篇8:4クリスチャン生活で、悪いと思うことには敏感だが、良いことをしていない罪については気づきにくい。自分に関して言うと(分かりやす
神についてわかっていないことが多すぎる、と思った。「知っている」と思っていた一番大事なことさえも・・~「日々のみことば」より~【 神は、実に……お与えになったほどに、世を愛された。 ヨハネ3:16 [神の側の放棄] 救いとは、単に罪からの解放や、個人的なきよ
夕方買い物帰りに、よく通る大型スーパー周辺の道を車で走っていた。信号のない交差点…私の方は優先道路だが、たまに一旦停止せずに横切る車があるので いつも気をつけている。(右からの車は少なく…)左側の車がしっかり停止してくれていたので、ありがたく…徐行から少しア
信仰義認と聞くと、〈不敬虔な者だけれど、ただ信じただけで義と認められた…〉と軽く受け流してしまいそうだが・・その実体は、「転嫁される」という…思えば思うほど 考えられないような重いことだった。「転嫁」の意味は=罪や責任を他人になすりつけること、とある。まさ
44年余り前に洗礼を受けた。その後の婦人の会で祝っていただいたとき、一人の姉妹が言われたみことばをいつも思い出す。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは……」ヨハネ15:16私は長い間、「本当の
問題を見続けると問題も不安も大きくなっていくが、神に目を向けご自身を見続けることによって神への信頼を取り戻せて、心が落ち着いていくのを感じる。神の偉大さ・不思議さを思えば思うほど…ますます神がわからなくなると同時に…かけ離れた存在のお方だ…とわかる。そん
信仰生活も30年以上経ってから、〈自分は新しく生まれていないかも知れない〉という疑問を持ち始めた。青天の霹靂だった。それは信仰のスタートからのやり直しを意味する。確かな「神の(御霊の)いのち」を受けたいと、どんなに願っても、求めても…がんばってキリストの元に
何年ぶりかで、366日の黙想「いと高き方のもとに」(オズワルド・チェンバーズ著)を今年の日課にすることとなった。この本は、一貫して「神との正しい関係」にあるかどうかを問われていたと思う。今の私に必要な、今だけでなく生涯にわたっての課題だ。[まえがき]から一部を抜
信仰の友と話すとき、世の人とは違う幸いを感じるのだが、救いのところに及ぶといつも何とも言えない平行線にぶつかることがあってむなしい。先日久しぶりに義妹と電話で話した。彼女は、人の信仰(救い?)には寛大で、一言で言うなら(とにかく神の愛を持って祈っていれば必ず
よく知られているヨハネ3章16節「……それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」15節父なる神がひとり子をお与えになったのは・・このためだった・・イエ
♪~友よ読みしや 主がわれらのため十字架の上にて 苦しみしをみ手とみ足のみか 心も裂けて君は死にたまいぬ われらのため (聖歌401より)「水のように 私は注ぎ出され骨はみな外れました。心は ろうのように私のうちで溶けました。」詩篇22:14
~朝ごとに~より【「事の終わりは、その初めにまさり……。」(伝道者7:8) ダビデの主を仰ぎ見よ。その初めがどうであったかを思え。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」あなたはその終わりを見るか。主は父なる神の右に座し、その敵を
思い、願い、祈りを与え…応えてくださる主。折にかなった知恵を与え、悔い改めを与えてくださる主。すべてを神からいただいた一年だった。実際は、弱く思い煩いの多い者であるのに、振り返れば主の恵みの中で…豊かに生かされた。一つ一つのことに、良いタイミングが…良い
世と人に期待したり頼ろうとする考えはほどほどにしないと、どこかの時点で失望することになる。もしそうならなくても、神の力・恵みを知ることができないのは大損失だ。神の主権を当然と認め、その恵み深さに信頼するとき心は安らぐ。もっともっと神御自身を知りたいと思う
~朝ごとに~より【「イスラエルは妻をめとるために働いた。彼は妻をめとるために羊の番をした。」ホセア12:12 ヤコブはラバンと言い争って、自分の労苦を次のように語っている。「私はこの二十年間、あなたといっしょにいましたが……野獣に裂かれたものは、あなたのもとへ
「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、…」マタイ、マルコ、ルカにある。どうしても自分のいのち(感情や意思や自我)を大事にしてしまう。かなり手放してきたつもりでも、いのちがある限りそれはなくならない。死んで葬られることなしには。自分ひとりではどうにもで
久しぶりに…破れ障子を張り替えてすっきりと明るくなった。出来上がってみれば、たったこれだけのことに悪戦苦闘した?一番厄介だったのが古い紙を剥がしたあとに、障子の桟にこびりついている糊と過去の紙の残骸・・多分前回きれいにしないままで貼ったのだろう。大半の労