イラストレーターの介護日記です。介護の色々な側面を、イラストを用いて綴っていきます。
実際に経験して得た、介護の色々なコツや工夫をイラストを用いてわかりやすく、楽しく描いています。 読んだ方のお役にたてるような項目があると嬉しいです。
介護士さんのための情報サイト「きらッコノート」で 当「おやおや介護絵日記」を紹介して頂けました。 「平常心で介護ワークするために!自分の心を コントロールする方法」と言うコンテンツの 一番最後、12章目に掲載されています。 【URL】 https://job.kiracare.jp/note/article/4781/
「おやおや介護絵日記」をご覧頂きまして、ありがとうございます。 お陰様で2018年3月現在、総閲覧者数は20万件を超えました。 非常に個人的な内容や考えを綴った日記ではありますが その中から一つでも、ご覧になった方のお役に立てるような 情報がございましたら幸いに思います。 当サイトは父親の介護が終了したのと時期を同じくして 更新も終了しております。その後の物語としては、実は いくつか続く逸話もあるのですが、とりあえずキリが良い所で 終わらせています。 なおサイトの内容をもっと読みやすく編集した本 『親が倒れた日から、いつかくる…その日まで』は2015年に TOブックスさんより刊行されています。 http://www.tobooks.jp/index.html (63話目ぐらいで制作された本ですので、大体サイトの内容の 三分の二ほどが程良くまとめら..
「おやおや介護絵日記」も、ついに最終話になりました。 最後はちょっと前向きに、明るい話題で締めくくりたい と思います。 介護は先が見えず不安だし、色々な事が生じて大変ですが 自分の軸をしっかりと持っていれば、恐らく必要以上に 揺り動かされず、ぶれないんじゃないかなと思います。 そして時には、介護をしなかったら到底巡り会えない様な 思いがけない未来が開ける事もあります。 私の場合は「絵描き」と言う職業柄、どんな状況にあっても 常に描く事を考えています。 「描くこと」が軸だとすると、介護はその周りに発生した 一過性の出来事でした。介護に限った事ではないのですが 日頃の生活の中で影響を受けたものは、自然と 作品と言う形に結びついて、出て来ることがあります。 そうした流れの中で、最初に形となって出て来たのが このブログでした。次いでブログを読んで下さった ..
2017年初春 父の介護生活を綴ったブログ「おやおや介護絵日記」は 2010年3月に父が倒れてから、2017年1月の納骨の儀まで およそ7年間に渡る、長い記録になりました。 その間、私たち家族の生活は「父と介護」が中心でしたが それだけではもちろんなく、仕事や、趣味や、交友関係…など 色々な物事が、並行して行われていた日々でした。 そんな日々の中で感じたのは 「介護と言うのは、私の人生の中の一つの通過点に過ぎない」 と言う事でした。 介護はそれ自体が重く大変なものです。 精神的にも、肉体的にも、金銭や時間的にも のしかかってくる負荷は大きい。 その上、人の命に関わる事でもあります。 なのでさらりと「通過点」と言い切れるほど、軽いものでは 決してないのですが、それでもどんなに影響力が大きくても 例えば「彗星の衝突みたいに、ある日突然現れて 周..
その1:2016年秋「お墓を選ぶ、いろいろ迷う」 秋風が吹く頃になると、色々な事が大分落ち着いてきました。 そうなると次は「お墓をどうしようか」と言う問題に直面しました。 お墓に関しては、墓守になる弟に一任していたので 手続き等の詳細事項はここでは省き、簡単な流れだけ お話します。 まずは、お墓選び。 先祖代々お世話になっているお寺に 「土地に空きがありません」と断られた我が家でしたが そこのお坊さんに「同じ宗派で、新しく作られた霊園がある」 と、住宅地にある墓地を紹介されました。 そこは家からも近いし、綺麗だし、なかなか良い雰囲気です。 しかし問題は少し狭い上に、管理費などが高いことでした。 迷っていると、今度は抽選に応募していた 新しく出来た公共墓地に、当選したと言う便りを受けました。 その墓地は開拓途中の山の頂にありました。 見学に行くと、..
その1:紆余曲折を経て四十九日へ(7月26日) 葬儀の後は四十九日の法要を行いました。 けれど我が家は、ギリギリまで「四十九日はしない… かもしれない」と言う、悩み多き状況にありました。 と言うのも、うちの地方の習慣では四十九日と納骨は 同じ日に行うのが一般的。しかし我が家はこの時点で お墓がありませんでした。従って法要も出来ません。 しかし実はそれ以前に、もっと悩ましい事態が発生しておりました。 それは「葬儀の時にお経をあげて貰えない…かも」と言う 驚愕の実態でした。 そもそも我が家の菩提寺には、それこそ300年以上も前から 先祖代々のお墓があります。だから当然そこのお坊さんが お経をあげてくれるもの…と、長年過信していました。 が、しかし。 近年お寺にお墓(檀家)が増え、お坊さんお一人では 対応出来なくなってきたので「このお寺にお墓がある人にだ..
お葬式と言うのは、非日常的な出来事です。 なので当然、不慣れな事の連続です。 失敗しても仕方がない…とは思うのですが、なぜか 「失敗は許されない」様な、厳粛な雰囲気も漂っております。 そしてそんな緊張感の中、人によってはテンパってしまい 珍妙な言動をし始めたり、許容範囲がすごく狭くなる事もあります。 すると自然とトラブルも多くなる…今回はそんな類の騒動を 簡単にまとめてみました。 実際、身近な人の葬儀を経験した方々に お話を伺っても、皆さん必ずと言っていいほど 「トラブルがあって、大変だった」と仰います。 大半は親族間トラブルでしたが、中にはご近所トラブルに 見舞われた人もいたりと、対象は様々でした。 内容的にも「何かと口を挟んだり、仕切りたがる人がいた」とか 「お金の事で、ものすごく執着された。もめた」とか色々です。 また介護をしている時点から、..
2016年6月17日~8月中旬 (葬儀が終わって、新盆までの2か月間) 葬儀が終わると、次は四十九日の支度が行われました。 我が家の場合は7月末がそれにあたったので、 終わると立て続けに新盆(土地の風習により8月13日~15日) を行うと言う、わりと忙しない運びになりました。 葬儀から新盆まで、この間は約2か月。 同時に、事務的な諸々の手続きなども 大体この2か月の内に片付いたように思います。 今回はその間、どのような事を行ったを具体的にお伝えします。 (祭壇のお供えをもらっていく姪の図) その①:弔問客の記録をつける 忙しさの渦中でしたが、それでもなるべく早めに 『弔問客の記録』をつける事は大事だなと思いました。 なぜなら記憶は日が経つにつれて、思っている以上に早く 曖昧になるからです。まして、こういう人の出入りが多い バタバタ..
父が自宅に戻ってから、葬儀までの約1週間。 非常に慌ただしい家族に代わって、ご近所の方が 色々な形で力を貸してくれました。 その中には「これは、ありがたかった!」と思う 機転の利いたモノがいくつかありました。 まず訃報を聞いてすぐに駆け付けてくれたのは、 父を自宅で介護していた時もお世話になった、 近所のYさんでした。 Yさんはご自身も身内を3人介護して看取り、しかも 2か月前に実のお母様を亡くしたばかりでした。 なので機転の利かせ方も動きも、とてもスマートです。 まずご自宅の庭に咲いていた大輪の百合の花を 数本切って、枕花を用意してくれました。 次に父の顔を「入れ歯を入れて、整えた方がいい」と言って それなりに見られるように、治してくれました。 亡くなった後、病院でも一応「死後の処理」として それなりに顔を整えてはくれたのですが…それは少し..
2016年6月15日~16日 父の葬儀の日。 私は朝からせっせと団子を作っていました。 そして夕方、団子(他)を持って斎場へ。 父は生前よく「オレは一番広い式場で葬式をしたい」と 言っていました。なので遺言通り、一番広い部屋 (140人ぐらい対応)を取ったのですが…。 大きな部屋を取るのは容易いが、果たして参列者が そんなに来るものなのか? これで人が来ない時ほど、悲しい事はないんじゃないか …と、家族としては若干不安を抱きます。 今も現役で仕事をしている人ならともかく、 介護が始まって、更に入院してからは、外の世界との 関係がほとんど途絶えていた父です。世間的にもう 忘れられているんじゃないだろうか…と、思ってしまいます。 けれど、いざ式が始まってみると部屋に入りきれなかった方が 廊下に溢れ、その数はどんどん、どんどん増えていきまし..
2016年6月10日~14日 父が自宅に戻ってから、出棺までに3日半ほどありました。 その間、家族は朝早くから、夜も割と遅い時間まで 弔問に訪れるお客様の接待をしていました。 長時間に渡るので諸々大変ではありますが、それでも 父を偲んできて下さった方々の気持ちや言葉は とても優しくて、ありがたいなと心に沁みました。 葬儀社の方も連日自宅に来ては、喪主である弟と共に 次々と段取りを詰めていきました。 そしてこの時点で「こうした方が便利だな」と思ったのは 「葬儀日程の用紙をコピーする」事でした。 葬儀の日時や場所が決定すると、会場までの地図など 詳細が記された用紙を葬儀社さんが用意してくれますが これを複数枚コピーします。 自宅に来た弔問客中には、葬儀日程を確認して帰られる人も 多かったので、その際に用紙(コピー)をお渡しすると 口頭で伝えるよりもミスが..
2016年6月9日(木) 真夜中に父を連れて帰宅してから、一睡もできないまま 迎えた朝。しかし周囲の状況は待ったなしのフル回転で 進んでいきました。 まず朝一番に、父の兄にあたる伯父が我が家の 菩提寺(先祖代々のお墓があるお寺)に行き、 お坊さんの日程を抑えてくれました。そこに葬儀社さんが 加わって、葬儀式場に連絡し葬儀の日を調整します。 我が家は弟が喪主になったので、今後一切の お寺と葬儀社さんとの打ち合わせや流れは 伯父と弟が主体となって取り進めました。 (主な打ち合わせ内容は、参列者のおおよその目安と それによって会葬礼状をどれぐらい印刷するか。 祭壇の種類、食事や返礼品をどのようにするか 遺影の用意など) 一方、私は各種書類の手続きと、弔問客の接待担当です。 やる事はたくさんあったのですが、こういう場合何から 手を付けて..
2016年6月8日(水) 5月の最後の日曜日、病院にお見舞いに行くと 看護師さんが「お父様が昨晩嘔吐し、血圧が下がりました。 今は落ち着いていますが、酸素チューブや心電図の機材など 体が管だらけになっているので、驚かないでくださいね」と言いました。 今までも時おり、こういう状態になっては回復する…を 繰り返していました。なのでまた、その流れだろうと 思っていたのですが、どうも今回は呼吸が荒い様子です。 それでも徐々に熱も下がり、点滴も外れ、一時は ほぼ元の元気な状態にまで戻ってきていたのですが 酸素チューブを外す段階になると、ぐっと酸素量が減り 肩で息をし出しました。 なので今回は特に、お医者様も看護師さん達も慎重に対応していました。 そんな状態が10日ほど続いた、6月8日の昼間。 「2日前の深夜にも、呼吸が荒くなって一時的に酸素マスクを はめたら..
ブログに介護絵日記を綴っていると、色々なキーワードで 検索されている事に気付きます。 その中には、何度も繰り返し出てくる用語もあります。 なので今回は、関心が高いキーワード(質問)を いくつかまとめて取り上げてみました。 Q1:病人へのお見舞いの仕方。声掛けのコツ。 まず外部の方がお見舞いに行く場合。 これはケースバイケースだと思うので、不安なら 患者さんのご家族に聞くのが一番かと思います。 我が家の場合は、当たり障りない所で「天気や陽気の話」から始まり あとは「本人が良く知っている、昔なじみの方々の近況」などを 話していました。 それから「本人が元気な頃から興味がある項目(趣味など)」の話題も 表情から読み取ると、関心を惹かれている様でした。 要は病気であるなしをあまり気にせず、元気な頃と同じ感覚で 世間話をするように話す事が、話しやすさのポイントか..
2016年の春 2016年に入り、父の容態は可もなく不可もなく 穏やかに過ぎていきました。 ずっと耳だけは良く、頭もしっかりしている状態は 変わらなかったので、お見舞いに行っても 張り合いはありました。 けれど体重は徐々に減っていき、春の終わりごろには 38キロまで落ちてしまったのが気がかりでした。 いつしか食事量も入院当初の半分になっていました。 「ご飯を食べさせないから、体重が落ちるのでは」と思ったけれど むしろ逆で、体がもう食事を受け付けないのかもしれません。 気が付くと、この病棟で父よりも長く入院していた方が 誰もいなくなり、いつの間にか男女合わせて 「一番長い入院患者」になっていた事も、また気がかりでした。 少しずつやせ細り、背中を掻いてあげても 骨と皮ばかりでの体になってしまった父を見て、叔父は 「即身仏みたいだな」と口走りま..
2015年冬~2016年1月 2015年も終わりに近づく頃、一年を振り返って 「父は今年も平穏無事に過ごすことが出来て 良かったな」と安堵します。 父が病院に入ったのと時期を同じくして たまたまですが私の仕事も停滞してきました。 そうなると時間はあるので、毎日お見舞いには行けますが 収入は徐々に不安定になり心許ないです。 でも実はこの年の初め、神社に初もうでに行った際に 引いたおみくじに「勤めに暇(いとま)ができたなら、 親の心を慰めるよう心がけよ」と、書かれていました。 こんな内容のおみくじがあるとは! しかも今の状況に怖いぐらいピッタリです。 偶然ですが、何となくこれを引いた途端 「そうか。今は下手に焦らずとも、こういう時期なんだな」と 自然に思え、引き続き落ち着いて頑張れる気がしました。 そして実際、この1年間はおみくじの言葉通りに過ぎまし..
2015年・秋 真夏の暑い時が、なんとか去っていきました。 暑い時期は、ジリジリと殺人的に焼きつく日差しを浴びるので 病院に通うのも一苦労です。私も病院に行くたび看護師さんや お掃除のスタッフさんなど、様々な方から 『大丈夫ですか』『頑張って』と、逆に入院している患者さん以上に 労わられていましたが、なんとか秋を迎えてホッと一息です。 けれど病院は季節の変わり目になると、お別れも増えます。 父が入院した当初、賑やかだったり元気だった方々も 少しずつ体が弱っていき、気がついたら静かに ベッドが空き出しました。 ある看護婦さんの話では「脳梗塞で寝たきりになっている人は 割と容態が安定しているから元気なんだけど、私が見た範囲では 透析をしている人の方が、容態が急変される方が多い気がする」と。 確かに透析している時点で、腎臓が上手に機能せず 負担がかかって..
2015年・夏 病院に通って、色々と父のケアをしていたある日の事、 次第に父の顔が荒れだしました。 乾燥しないように化粧水や乳液を塗っても、次第にボコボコと クレーターのように、おうとつが沢山出始め 「何やら毒素でも出ている様な」そんな様子です。 この時ちょうど遠方にいる従兄弟(いとこ)が 一時帰省していて、病院にもお見舞いに来てくれたのですが、 父の顔を見るなり「もしかしたら、化粧水が合ってないんじゃない?」 と言いました。従兄弟曰く、自分も以前化粧水が合わなくて、 同じ様な肌の状態になった事があるらしいのです。 従兄弟の場合は、皮膚科の医師に処方してもらった 化粧水に切り替えて事なきを得たらしいのですが、父の場合は なかなかそうもいかず。 それで試しに薬局に行ってみると、思いの外「老人敏感肌用」の 市販の薬用化粧水が出回っている事に気付..
2015年7月 暑い夏も寒い冬も、毎日病院に通う日々。 それも2巡目の夏を迎えました。 療養型病院に毎日見舞いに行く必要があるのか否か…は それぞれのご家族のご都合や想い、患者さんの症状によっても 異なるので一概には言えませんが、うちの場合は本人が 全く動けず、意思表示もできない状態なので 心配で毎日通っていました。 実際に行くと、結構色々な事があったりします。 例えば何かの医療器具のキャップが布団の中や 病衣の襟元に転がり落ちていたり(踏んだら痛いよね) 色々テーピングした後のゴミや、おしぼりの袋ゴミなどが 布団の周囲に散らばっていたり。 これらは単純に看護師さんや介護士さんのうっかりミスなのですが このように忙しく世話して下さるスタッフさんの手が回らない部分の フォローを兼ねて、父の様子を見に行く…と言う感じでしょうか。 ただ一度、お風呂上り..
2015年5月~6月 父の介護を始めて5年が経った2015年の春。 モチベーションを上げるために綴っていた、このブログが 出版され、次いでその本がTV(NHK)でも紹介されました。 ずっと家庭内で行われていた介護が、いきなり明るい日の目を 見る事になり、それと同時に沢山の方から様々なご意見を 聞く事になりました。 今回はそれらを一部まとめてお伝えします。 その1:共感する人・語る人 本を読んだ感想の中でも多かったのは 「自分も介護をしている、したことがある」と言う方々の意見でした。 中には「えっ、この人も介護をしているのか!?」と言うように 人知れず介護をされている方が、思った以上に多くいました。 対象は自身の親や配偶者の親、祖父母、更には体が弱かった娘さんを 看取る話まで、介護する(した)人も内容も様々でした。 「救急車で運ばれた時の項目は、共感..
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