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2013/12/16

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  • 現代のバベルの塔

    ハム語系は、今ではエジプト語系などと個別にいわれるようになっているが、ハムとはあの洪水で有名なノアの息子である。そしてハムの孫であるニムロドは、メソポタミアを支配する王となり、バベルの塔を建設する。天にも届くその塔は神の怒りを買い、様々な言語が生まれ、人々は散り散りばらばらとなった。1563年に描かれたバベルの塔は、ブリューゲル(父)の作品。そして現代のフランスにバベルの塔がよみがえっている。それが1999年にストラスブールに完成した欧州議会のルイーズ・ワイスビルだ。EUの崩壊を暗示しているようで、誰が設計したのだろうか。にほんブログ村現代のバベルの塔

  • 宋襄の仁

    中国の戦国時代の宋という国は現在の河南省に位置している。周の前の王朝である殷は、宋の国としてのこっていた。その時の「宋襄の仁」の話は有名である。「春秋時代、宋の国の王である襄公は覇者を目指していた。しかし楚の成王との戦いの際、奇襲をかけるべきであるという勧めに対し、仁義を重んじる故にこれを受け入れず、みすみす勝機を失った。この事件は時宜をわきまえないものとして笑いぐさとなった。」(『呪の思想』P275)このように中国では前王朝が完全に滅ぼされることはなかったが、やはり馬鹿にされていたのであろう。殷の前王朝である夏も、杞の国としてのこったが、極端な心配性の話「杞憂」が伝わっている。さて、『呪の思想』のP175で白川静が、「中国では必ず「姓」がある。この姓が殷にはない。周の場合は「姫(き)」でしょう。羌族は「姜」姓...宋襄の仁

  • サンスーシ宮殿で宣言したものとばかり思っていた

    『山川詳説世界史B』のP229には、「サンスーシ宮殿でフルートを演奏するフリードリヒ2世」という絵画が紹介されている。この宮殿はフリードリヒ2世が、オーストリア継承戦争中にベルリン郊外のポツダムに建設したもので、「憂い無し」という意味があるという。フランスでは講和会議がヴェルサイユ宮殿でおこなわれているので、てっきりドイツでそのような会議はサンスーシ宮殿でおこなわれているものと早とちりしていた。しかし、第二次世界大戦のポツダム会談やポツダム宣言がおこなわれた場所は、ツェツィーリエンホーフ宮殿であるという。まあどちらも「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」として世界遺産に登録されているのですが、ちょっとショックですね。にほんブログ村サンスーシ宮殿で宣言したものとばかり思っていた

  • アルタイ語族と日本語

    昔はアルタイ語族の中に日本語や朝鮮語も含められ、学習させられていたが、現在では「日本語と朝鮮語の帰属については定説がない。(山川『詳説世界史B』のP13より)」とされている。地理の教科書では、アルタイ語族が語族として成立するかもあやしいとして「アルタイ諸語」と記述しているものもある。山川の『詳説世界史B』には、P13に昔ながらの系統分類表がのっているが、山川の『新世界史B』や東京書籍の『世界史B』などにはないようだ。結構、古代オリエント世界を学ぶときには、「インド=ヨーロッパ語系」や「セム語系」など無造作に使われていることが多いので、系統分類表があった方がわかりやすい気がする。しかし、「セム」と兄弟のようによく登場していた「ハム」がいつの間にか消えていますね。栄枯盛衰を感じます。にほんブログ村アルタイ語族と日本語

  • 寧波の乱が寧波で起こるワケ

    山川詳説日本史BのP128にある「寧波の乱」。堺商人と結んだ細川氏と博多商人と結んだ大内氏が、中国の港町寧波で両方が争い、明の官憲を殺傷する事件を引き起こした。『中国通史』(堀敏一著、講談社学術文庫、P319)で、また勉強したことがあった。「諸国の入港する地もきまっていて、寧波は日本の入港地としてわりあてられていました。泉州ははじめ琉球の入港地でしたが、琉球はのちに福州から入るよう変えられて、福州市舶司がおかれました。広州は暹羅(シャム)をはじめとする南海諸国の入港地とされていました。」また少しまとめていますが、P326からP328のあたりに「清朝でも福州は琉球の入港地で、広州は東南アジア諸国の入港地でした。1757年以後、貿易港が広州一港に制限されます。公行とよばれる特権商人に任せられるのですが、これはヨーロ...寧波の乱が寧波で起こるワケ

  • 昔は皇太子夫妻だったが

    昔は皇太子夫妻だったが、山川詳説世界史BではP332に「1914年6月末,オーストリア帝位後継者夫妻がボスニアの州都サライェヴォでセルビア人の民族主義者に暗殺された。」東京書籍世界史BではP331に「バルカン情勢が緊迫するなか,1914年6月28日ボスニアの州都サライェヴォで,オーストリアの帝位継承者夫妻が暗殺された。」山川新世界史BではP344に「1914年6月,オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者夫妻がボスニアのサライェヴォでセルビア人に暗殺されたことをきっかけに,オースストリア=ハンガリーは同盟国ドイツの支持を得て,翌月セルビアに宣戦布告した。」現在は皇位継承者で統一されているようだ。にほんブログ村昔は皇太子夫妻だったが

  • 結婚と妻帯は同じか?

    東京書籍世界史BのP156では「また,当時は,聖職者の結婚,世俗領主による聖職者の任命はありふれたことで,聖職売買もめずらしくなかった。」とある。山川詳説世界史BのP131では「教皇グレゴリウス7世はこの改革をおしすすめ,聖職売買や聖職者の妻帯を禁じ,また聖職者を任命する権利(聖職叙任権)を世俗権力から教会の手に取り戻して教皇権を強化しようとした。」と説明している。同じく山川新世界史BのP137では「カロリング朝時代の末期には,国王や貴族が司教座や修道院を私物化し,聖職者や修道士の生活にも,妻帯や聖職売買(シモニア)などの悪習がはびこっていた。」となっている。結婚と違い、妻帯は、今の言葉で事実婚も含むんじゃないかと思った。しかし妻とは女性の配偶者を言い、配偶者は法律用語で事実婚は含まないと言う。(Wikiped...結婚と妻帯は同じか?

  • 儒教の国教化

    山川詳説世界史BのP73に「漢代の初めには法家や道家の思想が力をもったが,武帝の時代には,董仲舒の提案により儒学が官学とされ,礼と徳の思想による社会秩序の安定化がめざされた。」とある。山川新世界史BのP73にも同じ文章がのっている。東京書籍世界史BのP77には「第7代武帝は,地域社会の推薦によって人材を登用し(郷挙里選),董仲舒などの儒家の意見を採用して国家体制の維持に努めた。このため儒家の思想は,国教(儒教)の地位を獲得し,その教えは国家の正当な学問(儒学)として発達した。」『中国通史問題史としとてみる』(堀敏一著講談社学術文庫出版2000年)のP115では「古来の説では,武帝のときから儒教が国教になったといわれています。国教という言い方はもちろん,ローマ帝国がキリスト教を国教化したという事実にならったのです...儒教の国教化

  • 秦は15年しか続かなかったのになぜCHINAになれたか。

    正式には,山川詳説世界史BのP71「~,秦は統一後わずか15年で滅んだ。」ということである。秦は前8世紀に建国されている。CHINAといえば中国であり,秦が語源であることは知っていたが,この当時に15年で世界に普及させることは難しかっただろう。「しかしその統一は十五年しか続かなかったので,その名がなんでそんなに遠くまで伝わったのだろうと,私などかねがね不思議に思っていました。ところが近年になって,秦という名が漢代でも中国を指す名称として使われていたことに気づきました。従来も漢代の西域人らが中国のことを秦とよんだことは指摘されていたのですが,実は漢代に中国人自身が中国人と外国人とを区別するときに,「秦・胡」「胡・秦」などといったのです。P53より」(『中国通史問題史としとてみる』堀敏一著講談社学術文庫出版2000...秦は15年しか続かなかったのになぜCHINAになれたか。

  • マックス=ヴェーバー

    山川詳説世界史BのP413にある「マックス=ヴェーバー」。ルビがMaxWeberと打ってある。東京書籍世界史Bには「マックス=ウェーバー」とあるのでまだ共通した読みにはなっていないようだ。ヴェーバーとは現地語読み(ドイツ語)にしたのだろう。にほんブログ村マックス=ヴェーバー

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