「べらぼう」の取材の後、前々から寄りたかった日本橋人形町の水天宮前にある「江戸甘味處 つくし」さんに行って来ました。創業は明治10年(1877年)で、現在の店主は5代目ということです。こちらの絵には明治15年(1882年)のお店の前の風景が描かれているそうです。店内には有名人のサイン色紙なども飾られています。お土産にいくつか買っていましたので、次の記事で紹介します! 東京都中央区日本橋人形町2丁目1−12 水天宮つ...
大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り
元城町東照宮から徒歩圏内に椿姫観音があります。 お田鶴の方は、家康の正室・築山御前とは母親同士が義理の姉妹という関係にあります。城を最後まで死守したことに感動した家康は、お田鶴の方と侍女18人の遺骸を厚く葬り塚を築き、彼女の死を哀れに思った築山御前は、討ち死にした場所に百余株の椿植えました。すると数日後に椿が微笑むようにぱっと咲きほころんだと伝えられています。御堂は1944(昭和19)年に建立されましたが...
地域タグ:浜松市
元城町東照宮明治19年旧幕臣・井上延陵の発起により創建されました。石の鳥居の横には「曳馬城跡」(引馬城址)と書かれた石碑があります。 引間城本丸跡 鎌倉時代の浜松は、「ひきま(ひくま)」と呼ばれる町でした。現在の馬込(まごめ)川が天竜川の本流にあたり、西岸に町屋が発達しました。「船越」や「早馬(はやうま)」はこの頃の地名です。 戦国時代、この町を見下ろす丘の上に引間城が築かれます。歴代の城主には、尾張...
地域タグ:浜松市
浜松まつりは、子どもの誕生を祝い、健やかな子の成長を願う祭りです。その起源は一説によると、永禄年間(1558~1569年)、浜松城の前身の引間城の城主であった飯尾連龍とお田鶴方の嫡男の誕生を祝って、城中高く大凧を揚げたことが起源との説があります。お田鶴の方がおんな城主直虎として守り戦った引間城跡には、徳川家康を祀る元城町東照宮があります。浜松城公園駐車場の向かいにあるペットと一緒に楽しめるドッグレストラン...
地域タグ:浜松市
吉野太夫の墓開山廟比翼塚鬼子母神堂常富大菩薩堂にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
地域タグ:京都市
境内を進んで行くと、桜が見頃なスポットがありました。吉野太夫ゆかりの茶席茶室「遺芳庵」2代目吉野太夫を偲んで夫の灰屋紹益が寄進したもの。壁にある大きな円窓は2代目吉野太夫が好んだことから吉野窓と呼ばれています。完全な円にはならないように作られており、円の一番下の部分は切り取られています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキ...
地域タグ:京都市
鷹ヶ峰源光庵のバス停を降り、しばらく進むと、常照寺というお寺があります。寂光山 常照寺当山は、元和2年(1616)本阿弥光悦の土地寄進を受け、寛永4年(1627)その子光瑳の発願により日蓮宗総本山身延山久遠寺第21世寂照院日乾上人(じゃくしょういんにちけんしょうにん)を招じて開創された山城六壇林(やましろろくだんりん)の一偉観「鷹峰壇林」の旧跡である。 吉野門と呼ばれる朱塗りの山門は、寛永三名妓天...
地域タグ:京都市
前回の紀行で紹介されたので、「さらば!源内先生編」として再アップします。86番札所 志度寺に隣接して、志度寺の塔頭である自性院常楽寺があります。平賀家が自性院の檀家であるあることから、仁王門前の自性院北正門から入ってすぐ南側に、平賀源内のお墓があります。安永8年(1779年)大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12...
地域タグ:さぬき市
前回の紀行で紹介されたので、「さらば!源内先生編」として再アップします。別館には、旧邸・銅像・薬草園などがあります。平賀源内旧邸平賀源内先生は江戸へ出る前即ち宝暦四年、平賀家の家督を妹里与の婿養子権太夫(ごんだゆう)に譲り、一生を独身で過ごした。生家は権太夫の孫松三郎によって文久2年(1862)に建て替えられ、現在に到っています。当時は銅像敷地まで本座敷のある構えでしたが、昭和9年(1934)銅像建設のため切...
地域タグ:さぬき市
前回の紀行で紹介されたので、「さらば!源内先生編」として再アップします。香川県さぬき市志度は、江戸時代の鬼才といわれる平賀源内の生誕地です。歴女の友人が、先日讃岐を訪ねてきたと画像を送ってくれたので、その画像をお借りして記事にしてみました。平賀源内記念館は、平成21年3月、平賀源内遺品館を移転、名称を改め新装開館しました。記念館本館には、映像で紹介する「源内奇才劇場」や、ビックリ意外な交流や出来事を...
地域タグ:さぬき市
平賀源内の墓の後ろに、従僕福助の墓があります。従僕福助の墓源内が亡くなる8ヶ月前に逝去敷地内には、寺門靜軒の碑もあります。静軒先生之碑寺門静軒(てらかど せいけん)江戸後期の儒者,詩人。名は良,字子温,弥五左衛門と称した。水戸藩大吟味方勤寺門弥八郎勝春の次男。母は江戸における勝春の妾。文化4(1807)年,12歳で同居の母を失い,翌年水戸の実父に死なれ,母方の祖父母に育てられた。山本北山の子緑陰に儒学を学び,上野寛...
地域タグ:台東区
十思公園の隣に立つ大安楽寺もかつては一帯が伝馬町牢屋敷でした。牢屋敷は、1875年(明治8年)に廃止されましたが、土地の買い手がなく、跡地は荒廃。この地で処刑された人々を慰めるため、当時が建立されました。高野山金剛峯寺より賜った弘法大師像を本尊とし、処刑された人の霊を弔うため、延命地蔵がおかれました。 新高野山大安楽寺縁起 抑も此の地伝馬町は 江戸時代 徳川幕府の牢獄の所在せし所なり。当山...
地域タグ:中央区
昭和3年(1928年)に建てられた旧中央区立十思小学校が、平成2年(1990年)に廃校となり、その後は中央区の日本橋特別出張所仮庁舎として利用され、平成12年(2000年)に改修工事を行って「十思スクエア」としてオープンしました。小伝馬町の牢屋敷跡建物内には福祉施設として中央区日本橋在宅介護支援センターや十思デイルームなどがあるほか、地域の人々の交流の場として利用されています。十思スクエア(旧十思小学校)に隣接す...
地域タグ:中央区
東京の地下鉄小伝馬町の駅を降りると、十思公園という小さな公園があります。そこは、江戸時代に伝馬町の牢屋があったところで、吉田松陰をはじめ、安政の大獄で投獄された人たちもこの地で処刑されました。今話題の平賀源内は、殺傷事件を起こし、ここに収監されました。安永8年(1779年)11月20日夜、神田の源内宅に門人の久五郎と友人の丈右衛門が止宿、明け方に彼らは「口論」となり源内は抜刀。両人に手傷を負わせ、久五郎は...
地域タグ:中央区
新宿区高田馬場にある諏訪神社は、 弘仁年間(810 - 824年)の創建と伝えられ、小野篁により大国主命・事代主命を祀ったのがはじまりとされています。当初、奥羽街道の一部松原街道に面していたので、松原神社と称されていましたが、江戸時代初期に、尾張の徳川家の祖である徳川義直により諏訪神社と改名されました。その後も源頼義父子や源頼朝、太田道灌等が再造したといいます。寛永年間(1624 - 44年)徳川家光が造営。徳川家...
地域タグ:新宿区
ランチは映画村のお店で済ますことに京うどん 開化亭「京都九条ネギうどん」や「侍うどん」など個性的なメニューがあります。私は頼んだのは「侍うどん」刀に見立てたちくわの天ぷらが入っていました(^0^;)食事を終え、行きに見逃したところを見学していきます。帰る時に気付いたのですが、パディオス1Fに、「相国寺の七重塔」の模型が飾られていました。この後、「べらぼう」関連の史跡めぐりに戻りました!にほんブログ村 歴史...
地域タグ:京都市
徳川家基(とくがわ いえもと)は、10代将軍徳川家治と田沼意次の推薦で側室となったお知保の方(蓮光院)との間に生まれました。幼年期より聡明で文武両道だったため、将来の第11代将軍として期待されていました。しかし、安永8年(1779年)2月21日、鷹狩りの帰りに立ち寄った品川の東海寺で、休息中に突然体の不調を訴え、江戸城に運ばれましたが、3日後の2月24日に江戸城で死去。享年18(満16歳没)。後継ぎを失った父・家治は...
地域タグ:品川区
港町江戸の港町を再現しています。廻船問屋寺田屋坂本龍馬の京都の定宿でした。寺田屋騒動で有名ですね。港町を見学していたら、池の中から突然恐竜が現れました!効果音とともに頭を出した恐竜は迫力満点!長屋門江戸時代の武家屋敷の門の形のひとつ。現在は、「新選組の屯所」に飾られています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加...
地域タグ:京都市
村内を散策していたら、目の前に突然お侍さんが現れました(^_^;せっかくなので、記念写真を撮らせていただきました。侍姿がキマッていますね😃村内の案内を兼ねているようです。おっと!こんなところに忍者発見!こんな狭い小路にも、ちゃんとお店がありますよ。こちらはお茶の駿河屋さんこちらの民家からは江戸時代の庶民の暮らしぶりが窺えます。小道具も見事に再現されていますね!井戸のところには、「火の用心」のお札が貼られ...
地域タグ:京都市
中村座中村座では、忍者アクションのステージ「激突!忍者ショー忍びの街道」やチャンバラの実演「ちゃんばら辻指南」が行われています。ちょうど上映時間のタイミングが合ったので、覗いて見ることに・・・客席と一体化した楽しいショーでしたよ!今回残念だったのは、一部リニューアル工事中で、このフェンスから向こうのエリアが見られなかったことです。気を取り直して、オープンセットを見学していきます。時代劇で見覚えのあ...
地域タグ:京都市
今年1月、太秦映画村に行って来ました。京都には何度も足を運んでいますが、映画村はかなり久しぶりです。正面ゲイトをくぐると、パディオス(複合施設)があり、一階には、時代劇の扮装体験の出来る「時代劇扮装の館」があります。こちらでは、殿様、武士、町人、舞妓、芸者、お姫様、花魁などプロのメイクさんがメイクと着付けをしてくれます。私も若い頃、母と一緒にここで扮装体験をしたことがあります。母は芸者、私は舞妓に...
地域タグ:京都市
大澤寺は、元々、高天神城の南東にあり本楽寺と称していました。天正2年(1574年)の高天神城の戦いにて、徳川方の陣として使用されたことにより、兵火で焼失。その後、徳川家康の支援により、相良大沢に再建、本尊阿弥陀如来、今川義元伝来の明朝の皿を寄進し、「本楽院大澤寺」と改称しました。大澤寺の本堂は、田沼意次失脚ののちに破却された相良城の木材を再利用して、寛政3年(1791)に建てられたものといわれています。床下に...
地域タグ:牧之原市
浄心寺は、寛永元(1624)年、京都伏見の元住人で、相良湊で廻船業を営んでいた西尾源兵衛が、先祖の菩提を弔うために出家し、浄心日清と称して開創しました。江戸後期には、田沼家の祈願所として雨乞祈祷などで厚く崇敬されました。山門に施されている見事な龍の彫刻は、地元の画家・寺田洞仙によって寛政元(1789)年に作られたもので、市の文化財に指定されています。また、平賀源内は誤って人を殺してしまい投獄され、獄中死し...
地域タグ:牧之原市
平田寺は、弘安6年(1283)年に開創した遠州地方で最も古い禅寺の一つで、今川氏、武田氏、徳川氏など数々の武将から尊崇されました。開山の龍峯宏雲禅師は、足利尊氏の叔父といわれています。宝暦8年(1758)、田沼意次が相良藩主になると、田沼家の御位牌を祀る香華寺として厚い庇護を受けました。現在の本堂は、天明6年(1786)に再建されたもので、左側に田沼家専用の玄関があります。国宝「聖武天皇勅書」や県指定文化財「平田寺宝...
地域タグ:牧之原市
萩間川の左岸にある大江八幡宮は、弘安7年(1284)相良庄守護・上杉憲藤が東中の邸内に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したのが始まりとされています。嘉暦2年(1327)、東中の屋敷から小牧山に移し、小牧山八幡宮とも呼ばれました。江戸時代には相良藩主の尊崇もあり、享保3年(1718)相良藩主であった本多忠通が社殿寄進、宝暦年間(1751年〜1764年)には田沼意次が神輿と馬具を寄進しています。大江八幡宮に伝わる御船(おふね)神事は、毎年9...
般若寺の本堂には、相良城の御殿大書院にあった8枚の「相良城の襖戸」があります。「相良城の杉戸」は、相良城の本丸御殿を彩っていた襖戸の一部と考えられ、竹林に虎や牡丹に鳳凰などの画題が見事に描かれています。絵師は、10代将軍徳川家治の御用絵師・狩野典信といわれています。「牡丹と鳳凰」「竹林と虎」小さい二本の戸は、徳川家康の相良御殿のものと伝えられていますが、絵師は不明なのだそう。「背負ったか(しょったか)...
地域タグ:牧之原市
般若寺は、田沼意次ゆかりの宝物「陣太鼓」と「相良城の杉戸」を所蔵する曹洞宗の寺院です。本堂鐘楼堂では、本堂の中に入ってみましょう。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
地域タグ:牧之原市
相良城本丸跡を見学後、近くにある壽亭(ことぶきてい)へ。こちらで、田沼意次ゆかりの「田沼蕎麦」をいただきました。やはりここに来たら、人気ナンバー1の田沼蕎麦をいただきたいですね!天ざるに高級感を出したかった壽亭の先代は、当地相良が田沼意次の城下だったことから、黒地の輪島塗で器を作り、蓋に田沼家の家紋・七燿紋を金字で入れて、田沼蕎麦としたそうです。サクサクの天ぷらに、コシのあるお蕎麦!大変美味しくい...
地域タグ:牧之原市
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「べらぼう」の取材の後、前々から寄りたかった日本橋人形町の水天宮前にある「江戸甘味處 つくし」さんに行って来ました。創業は明治10年(1877年)で、現在の店主は5代目ということです。こちらの絵には明治15年(1882年)のお店の前の風景が描かれているそうです。店内には有名人のサイン色紙なども飾られています。お土産にいくつか買っていましたので、次の記事で紹介します! 東京都中央区日本橋人形町2丁目1−12 水天宮つ...
銀座煉瓦街は、1872年(明治5年)に東京で起きた銀座大火の後、西洋流の不燃都市の建設を目指して煉瓦造により造られた街並みです。建設方法は官営で、設計はお雇い外国人のウォートルスが担当。煉瓦街と言っても外壁は漆喰などで仕上げられたものが大部分で、赤煉瓦の街並みだった訳ではない。「煉瓦建の家屋に住むと、青ぶくれになって死んでしまう」という迷信もあり、当初は煉瓦造の建物が不評で、空き家が多かった。やがて新...
安永2年(1773年)山東京伝の父・伝左衛門は、奉公先の質屋を離れ、京橋のたもと付近、京橋銀座一丁目にある町屋敷の家主に。13歳の京伝は、通称を幼名の「甚太郎」から「伝蔵」に。京伝というのは京橋の「京」と伝蔵の「伝」に由来。ちなみに、江戸時代、京橋は「橋名」で、町名ではありませんでした。安永4年(1775年)北尾重政に浮世絵を学び、画号を北尾政演(きたお まさのぶ)と称しました。警察博物館のそばには、京橋の親...
浅草神社の裏手に、山東京伝机塚の碑(さんとうきょうでんつくえづかのひ)があります。山東京伝像山東京伝(さんとうきょうでん)は、多数の洒落本・滑稽本を著した江戸時代の代表的な戯作者です。また、北尾政演の画号で浮世絵師としても著名な人物でした。山東 京伝(さんとう きょうでん、旧字体:山東 京傳、宝暦11年8月15日(1761年9月13日) - 文化13年9月7日(1816年10月27日))は、江戸時代後期の浮世絵師、戯作者。浮世絵師...
銀座5丁目のホテルグランバッハ東京銀座の一角に、「狩野画塾跡」の案内板があります。ここは、田沼意次が晩年過ごした田沼家下屋敷があった場所です。江戸時代、幕府の奥絵師・狩野四家のうち最も栄えたのは木挽町狩野家でした。六代狩野典信は、田沼家の屋敷の一角(今の銀座五丁目付近)を拝領して画塾を開き、八代雅信の門からは明治画壇の巨匠狩野芳崖や橋本雅邦らを輩出しました。江戸幕府の奥絵師であった狩野四家は、いずれ...
田沼意次屋敷跡の近くには神田橋があります。神田橋は、東京都千代田区を流れる日本橋川に架かる日比谷通りの橋。上空には首都高速都心環状線が通っています。橋の名は、かつてこの付近にあった神田明神に由来。江戸城の増築により、外神田に移転した神田明神跡には神田御門と土井大炊頭利位の屋敷が設けられました。(Wikipediaより)ここは、芝崎口・神田口門・大炊殿橋門とも呼ばれ、将軍が上野寛永寺に参詣に行くための御成道と...
田沼意次の上屋敷は、現在の「神田橋辺りにありました。文京区の屋敷で生まれた意次は神田小川町、呉服橋付近に住んだ後、将軍家治時代の御側用人に昇格し、神田橋御門内に屋敷を拝領しました。家治の死とともに失脚する天明6年(1786)まで、この屋敷には、意次に便宜を図ってもらおうと、贈り物を持った商人達が連日のように押し寄せたとか。意次失脚後、「白河の清きに魚も棲みかねてもとの濁りの田沼恋しき」と狂歌で歌われ、田...
東京メトロ半蔵門駅から大妻通りを歩いて行くと、大妻女子大学前の歩道に佐野善左衛門宅跡の案内板があります。現在の大妻学院の辺りには旗本佐野家の屋敷がありました。佐野家は代々番士として、江戸城の警備を勤めていました。1784年(天明4年)4月24日、当主であった佐野善左衛門政言(さのぜんざえもんまさこと)は、江戸城内で若年寄の田沼意知(おきとも、老中田沼意次(おきつぐ)の子)を斬りつけ、その後切腹を命じられ自...
呉服問屋ミュージアムの奥には、「蚊帳仲間連盟帳」をはじめ、商売道具、日用品、行商の際に使用された矢立や棹秤、鬼瓦などが展示されています。蚊帳仲間連盟帳これは問屋ソロバンといい、取引相手から計算を覗かれないように裏板がついていて、大正時代~平成10年ぐらいまで使用されていたとか。手前が矢立と棹秤旧京都店の内蔵の鬼瓦4月24日には、 NHK「あさイチ」にて当店が紹介されたそうですよ。蔦屋重三郎「耕書堂」再現展...
地下鉄人形町駅から人形町通りを神田方面に進むと、織物中央通りに呉服問屋「イチマス田源」があります。イチマス田源は、文政元年(1818年)に近江愛知川(滋賀県愛知郡)で創業。初代は近江商人の一人で、主に地産の麻織物や蚊帳の行商を行っていました。西陣や友禅など京呉服問屋として発展し、嘉永年間(1848〜1854年)に江戸に進出。幕末に入り、行商の旅が安全に行えるように『蚊帳仲間連名組』を作り、明治4年(1871年)に...
台東区千束に今年一月にオープンした江戸新吉原耕書堂を訪ねて来ました。江戸新吉原耕書堂は、蔦屋重三郎が新吉原の大門前に開業した「耕書堂」を模した施設で、吉原に関する観光案内や、お土産品の販売などを行っています。べらぼうめTシャツてやんでえ べらぼうめ と書かれたTシャツポストカード万円袋・ポチ袋花魁扇子・一筆箋・小銭入れ・カードケース・メガネ入れ・手ぬぐいなどおこしや豆板などの浅草名物この他、蔦重に関す...
紀尾井坂(きおいざか)は、東京都千代田区にある坂で、江戸時代における正式名称は「清水坂」とよばれていました。当時周辺一帯には大名屋敷が多くあり、清水坂の南側に紀州徳川家(現在は清水谷公園やグランドプリンスホテル赤坂)、北側には尾張徳川家(現在は上智大学)、彦根藩井伊家(現在はホテルニューオータニ)の屋敷がありました。江戸の住人たちは、三家があった坂道であるところから、紀伊徳川家の「紀」、尾張徳川家...
徳川治貞(とくがわはるさだ)は、紀伊和歌山藩主・徳川宗直(むねなお)の次男として誕生。松平頼邑(よりさと)の養子となり、宝暦3年、伊予西条藩主松平(紀伊)家5代、安永4年、和歌山藩主徳川家9代となりました。8代将軍・徳川吉宗の享保の改革にならって藩政改革を行ない、和歌山藩の財政再建に尽力。自ら綿服を着用、粗食を心掛け、冬には火鉢の数を制限するまでして、死去するまでに10万両の蓄えを築いたといいますこのことから「...
日本橋堀留町に鎮座する三光稲荷神社は、江戸三座の一つである中村座に出演していた歌舞伎役者・関三十郎が伏見より勧請したと言われ、娘さん、子供、芸妓の参拝で賑わったそうです。当社は落語「百川」にも登場します。百川(ももかわ)は古典落語の演目。6代目三遊亭圓生の十八番として知られる。田舎(いなか)から出てきた百兵衛は、葭町(よしちょう)の千束(ちづか)屋という桂庵(けいあん)(口入れ屋)からの紹介で日本橋浮世小...
江戸時代、日本橋室町の浮世小路に料亭「百川楼」がありました。(現在の福徳神社の社務所周辺)百川楼は明和ごろから明治元年にかけて営業をした料亭です。初めは卓袱(しっぽく)料理の店で、後に会席料理に転向。卓袱料理は、江戸時代に伝わった中国料理で、はじめ長崎に伝えられ、京都や大阪にも広がりましたが、江戸では流行が長続きしなかったそうです。安政元年(1854)、ペリー来日の際には、百川楼の料理人が横浜まで出向き、...
東京メトロ銀座線・半蔵門線の三越前駅より徒歩1分、中央区日本橋室町にある福徳神社(福徳稲荷)貞観年間(859年~876年)には既に鎮座していたとされています。日本橋室町二丁目付近は、昔は武蔵国豊島郡福徳村という農漁家の点在する片田舎で、その村名から「福徳稲荷」と呼ばれました。村人は神社の森を「稲荷の森」、里程標(石造一里塚)を「稲荷の一里塚」と呼び親しんでいましたが、明暦3年(1657)正月8日の大地震により、...
中央区日本橋大伝馬町「べらぼう」で、片岡愛之助さんが演じる鱗形屋孫兵衛は、江戸時代、通旅籠町と呼ばれたこの地に地本問屋を構えていました。浄瑠璃本、草双紙、吉原細見、宝船などでを手掛け、安永4年(1775年)に恋川春町『金々先生栄花夢』を刊行して黄表紙をヒットさせました。日本橋堀留町に鎮座する池州稲荷神社は、かつて鱗形屋を同じ通旅籠町にあったったといわれています。創建年代などは不祥ですが、池州屋敷の池沼...
人だけでなく、軍用犬・軍馬慰霊碑や「猫塚」「唐犬八之塚」「オットセイ供養塔」「犬猫供養塔」「小鳥供養塔」、邦楽器商組合の「犬猫供養塔」(三味線の革の供養)など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑、ペットの墓も多数。著名人の墓として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉などの墓があります。山東京伝の墓鼠小僧次郎吉の墓猫塚1793年(寛政5年)、老中・松平定信の命によって造立された「水子塚」は、水子供養の発祥とさ...
明暦大火の供養塔明暦の大火振袖(ふりそで)火事,丸山火事とも。1657年(明暦3年)江戸本郷丸山町から出火し,江戸城本丸をはじめ江戸市中を焼き尽くした火事。死者10万人以上といわれ,江戸城も西丸を残して焼失。幕府は復興に際し御三家をはじめとする大名屋敷の城外への移転,寺社の外辺部への移転などを進め,町屋も道幅を広げ,広小路や火除地を設定,家屋の規模を定めるなどの措置をとった。(コトバンクより)明暦三年(1657...
墨田区両国二丁目にある回向院は、振袖火事と呼ばれる明暦3年(1657)に起きた明暦の大火の焼死者10万8千人を幕命(当時の将軍は徳川家綱)によって葬った万人塚が始まりで、のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬されました。明和5年(1768)以降には、境内で勧進相撲が興行され、これが今日の大相撲の起源となり、明治42年(1909)旧両国国技館が建てられました。回向院明暦三年(1657)、江戸史...
『源氏物語』の主人公・光源氏の邸宅「六条院」のジオラマ六条院は、『源氏物語』に登場する架空の建築物で、平安京の六条京極付近に四町を占める光源氏の中年以降の邸宅です。広大な寝殿造で、西南部分に六条御息所の邸宅跡を含み、光源氏はここに主だった夫人たちと子女を住まわせました。「焔 (ほのお)」六条御息所と思われる女性を描いた上村松園の絵画光源氏は、六条院を春夏秋冬の4つに分け、それぞれの女君の希望に沿うよ...
貴族が外出する際に使っていた牛車牛車は馬車とともに中国から伝わったと推定されている。牛車は大きく分けて荷車用と乗用の2つの要素があった。牛車は速度が遅い反面、大量の物資を運ぶのに向いていたため荷車として活用されて『石山寺縁起絵巻』や『方丈記』などにも登場する。運ぶ物資や速達性によって牛車と馬車の使い分けがされていたと推定され、中世に入るとそれぞれ車借・馬借と呼ばれる運送業者が成立することになった。...
大原野神社は、京都盆地の西縁、西山山地の一峰にあたる小塩山の麓に広がる大原野の地に鎮座しています。紫式部は大原野神社を氏神と崇め、この大原野の地を愛していたといいます。『源氏物語』二十九帖「行幸(みゆき)」の巻には、冷泉帝が大原野へ鷹狩りに向かう華やかな行列を光源氏の養女・玉鬘が見物する様子が描かれいます。また、紫式部が生前に自ら撰んだとされる「紫式部集」に次の歌が詠まれています。長徳2年に越前守とし...
京都市西京区大原野南春日町にある大原野神社は、延暦3年(784年)に桓武天皇が長岡京へ遷都した際、皇后の藤原乙牟漏が藤原氏の氏神である奈良・春日社(春日大社)の分霊を勧請したのが始まりとされています。嘉祥3年(850年)、藤原冬嗣を祖父に持つ文徳天皇が現社地に社殿を造営。貞観3年(861年)以降、皇后の参拝が再々あり、また円融天皇、一条天皇が度々行幸するなど藤原氏のみならず朝廷からも特別な崇敬を受けるようにな...
昨夜のドラマでは、清涼殿で、安倍晴明が一条天皇に彰子の入内は、吉日である11月1日がふさわしいと提言する場面が描かれていました。一条天皇や藤原道長の信頼を集めるようになった安倍晴明の様子が、道長の日記『御堂関白記』などの貴族の日記に記されています。藤原実資の『小右記』によると、正暦4年(993年)2月、一条天皇が急な病に伏せった際、晴明が禊(みそぎ)を奉仕したところ、たちまち病は回復し、正五位上に叙された...
土屋町通に平安宮内裏凝華舎(ぎょうかしゃ)(梅壺)跡・飛香舎(ひぎょうしゃ)(藤壺)跡の案内板があります。飛香舎(ひぎょうしゃ)は、藤原道長の娘で、一条天皇の中宮藤原彰子の御殿です。庭に藤の木が植えられたことから藤壺(ふじつぼ)と呼ばれ、この舎で藤や菊を愛でる宴が行われました。通常非公開ですが、現在の京都御所に復元されています。内裏の後宮七殿五舎の一つ。南庭(壺)に紅白の梅を植えていたので梅壺と呼ばれた。...
貴族の暮らしと装束男性の装束男性の正装は、束帯です。平安時代以降、男子が参内する際に着用した正式の服装。天皇は即位以外の晴れの儀式に用いる。臣下は参朝の時を始め、大小の公事には必ずこの服装をする。その形状・構成は時代により変遷するが、中心となる構成は冠・袍・半臂(はんぴ)・下襲(したがさね)・衵(あこめ)・単(ひとえ)・表袴(うえのはかま)・大口(おおくち)・石帯(せきたい)・帖紙(たとう)・笏(しゃく)・襪(しと...
貴族たちの遊び飛鳥・奈良・平安初期にかけては中国大陸の文化を熱心に取り入れていわゆる唐風文化が発達したが、平安中期以後は、摂関政治と荘園制のもとで公家の生活が華やかに展開された。894年遣唐使の廃止により唐文化の影響が弱まったため,それまで摂取した大陸文化を基礎に,安定した貴族生活を背景に国風文化が成立。仮名の発明により,国文学が発達し,女流文学者が出現,物語文学や和歌が発達した。また浄土教の流行に...
宇治市源氏物語ミュージアムは、1998年に『源氏物語』の最後の10帖「宇治十帖」の舞台となった宇治に開館しました。「平安の間」では光源氏を主人公とする前半の物語がテーマとなっており、六条院の縮小模型、牛車、調度品などが展示され、平安貴族たちの暮らしぶりを知ることができます。平安時代の高貴な貴族女性は、成人すると、男性に顔を見せることが滅多になかったため、男性は垣間見(かいまみ)を機に、恋文を送って求愛し...
市バス「法勝寺町」下車し、京都市動物園近くに私立学校共済の「白河院」という宿泊施設があります。この辺りは、かつて藤原良房の別荘があり、後に藤原師実によって白河天皇に献上されました。この白河院を改装して建てたのが六勝寺のうちの法勝寺で、発掘調査の結果、八角九重大塔がそびえ建ち、大きな池を中心にした庭園がある壮大なものであったと推定されています。 六勝寺とは平安時代後期の院政期、天皇、皇后により、白河...
白峯神宮の境内にある伴緒社は、源為義とその息子である源為朝を祀ってあります。伴緒社(ともおのしゃ)源為義源義親の子。義父である義忠が暗殺され、その犯人とされ逃亡した義綱を14歳で討ち取った。その後藤原摂関家に仕える。保元の乱では、子の頼賢、為朝らと供に上皇側につき、天皇方の義朝、平清盛らと戦ったが、義朝らに敗れた。東国へ落ち延びようとしたが、義朝のもとに降伏、比叡山に出家した。義朝は、為義と弟たちの...
もとは、蹴鞠・和歌の宗家である飛鳥井家の邸宅地で、手水舎の飛鳥井(あすかい)は、清少納言の『枕草子』の中で、9つの代表的な井戸のひとつに挙げられています。飛鳥井白峯神宮の飛鳥井は平安の昔から有名です。平安時代の歌謡曲の催馬楽「飛鳥井」には「飛鳥井に宿りはすべし、や、おけ、蔭もよし、御水(ミモヒ)も寒し、御秣(ミマクサ)もよし」と謡われていて、オアシスのように人々が憩っていたと想像されます。(や、おけ...
京都市上京区今出川通にある白峯神社のご祭神は、崇徳天皇と淳仁天皇。崇徳天皇は、鳥羽天皇の皇子としてご生誕、保安4年に第75代の天皇に即位されましたが、保元の乱により、讃岐に配流され、長寛2年に45歳で崩御、白峰山陵に奉葬されました。讃岐に配流されてからは、髪も剃らず、爪も切らずに日本国の大魔縁になって朝廷を呪い続けたと伝えられています。崩御されてから大火事や不穏な事件が頻繁に起きたため、崇徳天皇の祟...
法金剛院は、京都市右京区花園にある律宗の寺院で、開基は待賢門院とされています。ここは平安時代初期の右大臣・清原夏野の山荘を平安末期に待賢門院(鳥羽上皇の中宮、後白河天皇の母)が再興した律宗のお寺です。清原夏野(きよはら の なつの)は、平安時代初期の皇族・公卿。舎人親王の孫である内膳正・小倉王の五男。官位は従二位・右大臣、贈正二位。清原夏野『前賢故実』延暦23年(804年)同じ内舎人の官職にあった親族の...
下京区夕顔町に夕顔之墳があります。ここは、『源氏物語』第4帖「夕顔」に登場する夕顔の屋敷があった場所とされ、住宅地の一角に立つ石碑には「源語傳説 五條邊 夕顔之墳」と刻まれています。昭和4年に京都史蹟会によって建てられたそうです。夕顔は物語の中の架空の人物ではありますが、当地の地名も夕顔町となっています。「源氏夕顔巻」(月岡芳年『月百姿』)光源氏が夕顔の屋敷に泊まると、深夜に夢に嫉妬したもののけ(六条...
北野天満宮の帰りに大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)を参拝しました。大将軍八神社は、桓武天皇が、王城鎮護のために星神大将軍を勧請したといわれる社で、方違え(方除け厄除けの神)として、建築・移動・転宅・婚姻・旅行・交通等あらゆる人間生活に於いて方位の厄災から守護する神として信仰されました。方違えとは、陰陽道に基づいて平安時代以降に行われていた風習のひとつで、外出や造作、宮中の政、戦の開始などの...
元三大師堂本尊は元三大師(良源)。他に毘沙門天像、薬師如来像、不動明王像などを安置。毘沙門天は京都七福神の一つ。鐘楼手水社廬山寺(ろざんじ)(廬山天台講寺[ろざんてんだいこうじ])沿革天慶年中、元三大師良源によって草創される。良源は康保3年(966)55歳で第18世天台座主となり、内供奉に補せられて以降、比叡山から宮中に参内するにあたり、現船岡山の麓、現蘆山寺通北に輿願金剛院を建立し、寛和元年(985)正月3...
京都市上京区北之辺町の廬山寺は、紫式部の邸宅跡として知られています。山門南門(薬医門)遡れば、紫式部の曽祖父である藤原兼輔(堤中納言)が建てた邸宅があり、藤原為時に譲り、紫式部はこの邸で生まれ育ち、『源氏物語』を執筆したとされています。廬山寺(ろざんじ)現在の廬山寺は豊臣秀吉の時代にこの地に移されたもので、ただしくは廬山天台講寺という。もとは天慶元年(938)に慈恵大師良源(じけいだいし りょうげん)...
藤原宣孝 は、正暦元年(990)、御嶽詣を行い、その年筑前守となりました。紫式部との結婚は998年(長徳4)の末か長保元年(999)のはじめといわれいます。紫式部の父の為時と為輔はいとこであり、宣孝と式部はまたいとこの関係にありました。998年には、石清水臨時祭、賀茂臨時祭の舞人を奉仕、同年山城守を兼任。11月末には豊前国宇佐神宮の奉幣使に任ぜられ、翌年帰京。この年4月平野臨時祭の勅使となり、7月相撲召合にも武官として...
合格門をくぐり、階段を上がっていくと、安倍晴明をお祀りする晴明堂に行き着きます。 晴明堂は、平安時代の陰陽師・安倍晴明をお祀りしています。 当山は安倍一族の寺として古来より安倍晴明信仰の聖地の一つとして数えられています。平成十六年(2004)、安倍晴明千回忌を迎えるにあたり二百年振りに晴明堂が再建されました。 正面にある「如意宝珠」は、いかなる願望も意のままに成就し、また悪を払い、災難を防ぐ功徳がある...