人形町江戸甘味處つくし様のお江戸スイーツ数種類買った中から、日持ちのしない風鈴プリンから😋今まで味わったことのない濃厚でまろやかな高級感漂う🍮に感動次は、五家宝をいただきました!五家宝とは、おこし種を水飴で固め棒状にした芯をきな粉に水飴などを混ぜた皮で巻き付け、さらにきな粉を表面にまぶしたもの甘さ控え目で小腹の空いた時に最適な和菓子きなこ大好きな母にもぴったりなお土産となりました。五家宝とはおこし種...
大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り
紫式部は、長保4年(1002年)ごろ、『源氏物語』を書き始めたとされています。のちに藤原道長に召し出され、一条天皇の中宮・道長の長女である藤原彰子に女房として仕えることに。女房名は藤式部(とう の しきぶ / ふじ しきぶ)で、後に「紫式部」と呼ばれたとされています。彰子の家庭教師としての役割も果たしたとされ、この間、道長の支援のもとで『源氏物語』を完成させています。『源氏物語』の執筆地として有力なのは石山...
地域タグ:京都市
京都市上京区晴明町にある晴明神社は、平安時代中期の天文学者である安倍晴明をお祀する神社です。一条戻橋のたもとにあった晴明の屋敷跡に鎮座しています。寛弘2年(1005年)に晴明が亡くなると、一条天皇は晴明の遺業を賛え、晴明は稲荷神の生まれ変わりであるとして、寛弘4年(1007年)、晴明の屋敷跡に晴明を祀る神社を創建しました。創建当時の晴明神社は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通まであり、か...
地域タグ:京都市
京都市上京区の堀川に架けられている一条通の一条戻橋は、「あの世」と「この世」をつなぐ橋とも言われていました。伝説では、安倍晴明の父である安倍保名が殺害された場所であり、晴明が呪法を駆使して保名を蘇生させた場所とも言われています。安倍保名 あべの-やすな古浄瑠璃(こじょうるり)「しのだづま」の登場人物。摂津阿倍野(大阪府)の武士。和泉(いずみ)(大阪府)の信太(信田)(しのだの)森で陰陽師(おんようじ)芦屋道満の弟...
地域タグ:桜井市
仁王門から本堂までの399段の長い登廊を上りきり、やっと長谷寺の本堂に到着。小初瀬山の斜面に建つ国宝の本堂は、慶安3年(1650)、徳川家光により造営された大殿堂。10mを越す本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、本尊を参拝する礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造になっています。ご本尊は、右手に錫杖、左手に水瓶を持って方形の大磐石という台座に立つ長谷寺式十一面観世音菩薩...
地域タグ:桜井市
また、長谷寺は『源氏物語』の「玉鬘(たまかずら)」の舞台としても知られています。仁王門から右の小道に向かうと、『源氏物語』二十二帖「玉鬘」ゆかりの二本の杉があります。幹の根元がくっついた杉の大木です。 謡曲「玉鬘」と二本の杉 謡曲「玉鬘」は源氏物語玉鬘ノ巻に拠ったもので、初瀬詣の旅僧の前に現れた玉鬘の霊が、僧を長谷寺の”二本の杉”の下に案内し、この杉の下で亡母の侍女右近とめぐりあった話を述べるという...
地域タグ:桜井市
奈良県桜井市初瀬(はせ)にある真言宗豊山派の総本山の寺院・長谷寺初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬から5月上旬は150種類以上、7,000株といわれる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されています。牡丹に続いて、6月には紫陽花が見頃を迎え、境内の各所で紫陽花を楽しめます。長谷寺は、朱鳥元(686)年、僧道明上人が天武天皇のために銅板法華説相図(国宝)を西の岡に安置したことが始まりとされています。平安時...
地域タグ:桜井市
京都だけでなく敦賀にも、安倍晴明を祀る晴明神社があります。南北朝時代の金ヶ崎戦、織田信長と朝倉氏との戦火からあつく守られた神社で、以来数々の火災から町を守ったとして、防火の守としても信仰を集めています。晴明は10世紀末に敦賀に移り住み、天文暦学の研究を重ねたといわれており、晴明が陰陽道の研究に使ったとされる「祈念石」がご神体として祭壇の床下に祀られています。祈念石祭壇の下にある小窓から覗き見ることが...
地域タグ:敦賀市
宇治十帖モニュメントから、さわらびの道を進み、宇治神社を越えたところに早蕨の古蹟があります。宇治神社早蕨(さわらび)は、『源氏物語』五十四帖の巻の一つ。第48帖。第三部の一部「宇治十帖」の第4帖にあたる。巻名は、中君が詠んだ和歌「この春は誰にか見せむ 亡き人の形見に摘める 嶺の早蕨」に因む。薫25歳の春の話。宇治の里にまた春がめぐってきた。父八の宮も姉大君も亡くした中君の元に、父の法の師だった宇治山の阿...
地域タグ:宇治市
宇治川に架かる朝霧橋。朝霧橋を渡って、対岸に進んでいます。朝霧橋のたもとには、小舟で橘の小島に向かう浮舟と匂宮との像があります。後ろの屏風型レリーフには、薫が大君・中君を垣間見している「橋姫」の場面が描かれています。ヒカルゲンジという品種のツバキがあるのですね。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご...
地域タグ:宇治市
平等院がある中心地から東へ進んで行くと、宇治川沿いに「宿木」の古蹟があります。宇治駅からだと、歩いて20分。さすがにここまで来ると、観光客の姿は見当たりません。宿木(ヤドリギ)はけやきなどに寄生する植物のことで、宇治川のほとりで目にすることができます。源氏物語宇治十帖(五)宿木亡き大君を忘れかねる薫君は、いつしか現し身の中君におもいをよせるようになった。中君はその真情に絆されはするが「うとましく」も思...
地域タグ:宇治市
宇治の橋姫神社は、源氏物語宇治十帖「橋姫」の古跡ともなっています。橋姫は、宇治橋の守り神で、古代より水辺、特に橋は心霊の宿るところとされていました。橋姫神社は、瀬織津比咩尊(橋姫)を祭神とし、水運の神である住吉明神と並んで境内に祀られています。1870(明治3)年の大洪水で流されるまでは宇治西詰にあり、さらに古くは宇治橋三の間に祀られていたと伝えられています。神は川の汚れを流すとされ、苦しみ、悪縁も消...
地域タグ:宇治市
『源氏物語』第54帖のうち最後の10帖は、「宇治十帖」と呼ばれ、「橋姫(はしひめ)」「椎本(しいがもと)」「総角(あげまき)」「早蕨(さわらび)」「宿木(やどりぎ)」「東屋(あずまや)」「浮舟(うきふね)」「蜻蛉(かげろう)」「手習(てならい)」「夢浮橋(ゆめのうきはし)」の10帖の総称。主人公薫(かおる)大将と宇治の八の宮の娘、大君(おおきみ)・中君(なかのきみ)、および浮舟との人間模様が語られ、主として宇治の地が舞台となって...
地域タグ:宇治市
五条大橋の南東(下京区木屋町通五条下ル)に源融河原院跡の石碑があります。紫式部の『源氏物語』の光源氏のモデルとなった源融の邸宅・河原院があった地とされています。この辺りは河原院の庭の中の島「籬の島」が鴨川の氾濫によって埋没したものと伝えられた「籬の森」の跡で、石碑の隣にある榎は、森にあった木の最後の1本とされています。源融河原院跡この付近には、嵯峨天皇皇子で『源氏物語』の主人公 光源氏のモデルの一人と...
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藤森神社の境内社です。八幡宮 永享10年(1438年)に足利義教が造営したもの。祖霊社 当社に功労・功績があった者を祀る。七宮社 蔵王社、広田社、諏訪社、厳島社、住吉社、熊野社、天満社大将軍社 永享10年(1438年)に足利義教が造営したもの。天満宮社金太郎像かへし石力石とも呼ばれます。昔、この石を拝殿から鳥居まで転がす 行事があり、力を競い合ったとのこと。自販機自販機にも馬の姿が!「必勝祈願」と書かれると、飲...
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本殿本殿は正徳2年(1712年)に中御門天皇より下賜された宮中賢所(内侍所)。現存する賢所としては最も古く、東殿・中央・西殿の三座から成り、本殿中央には、元からこの地に祀られていた三韓征伐にまつわる7柱を祭っています。素盞嗚命(すさのうのみこと)を主神とし、あわせて神功(じんぐう)皇后、日本武尊(やまとたけるのみこと)など十二柱に及ぶ神々を奉祀し、洛南深草の産土神として崇敬されている古社である。本殿は、正徳2...
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京都市伏見区深草にある藤森神社(ふじのもりじんじゃ)は、社伝では、神功皇后摂政3年(203年)、三韓征伐から凱旋した神功皇后が、山城国深草の里の藤森に纛旗(とうき = いくさ旗)を立て、兵具を納め、塚を作り、祭祀を行ったのが当社の発祥であるとしています。また、菖蒲(端午)の節句の発祥地として知られています。『源氏物語』第25帖「蛍」では、端午の節句に六条院の馬場で騎射が行われる場面が描かれています。南と西の...
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誠心院は、京都市中京区にある和泉式部ゆかりの寺院で、通称「和泉式部寺」と呼ばれています。新京極通の東側、誓願寺南にあり、華岳山と号し、真言宗泉涌寺派。本尊阿弥陀如来。寺伝によれば、藤原道長がその女上東門院彰子に仕えていた和泉式部のために、東京極今出川いまでがわ南にあった東北とうほく院の一隅に一庵小御堂を結び与えたのが始まりという(貞徳百人一首頭書)。和泉式部は越前守大江雅致の女。和歌に優れ和泉守橘...
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貴船神社は、心願成就信仰としての「丑ノ刻詣(うしのときまいり)」でも知られています。鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「丑の刻参り」昔、宇治の橋姫が丑ノ刻詣りをして男に呪いをかけた伝説があり、これをもとに作られたのが謡曲「鉄輪」です。竜閑斎画『狂歌百物語』より「橋姫」橋姫が頭にのせた鉄輪を老いた鉄輪掛石が貴船口駅の傍らにあるそうです。丑ノ刻詣りというと、単に呪いをかけるというイメージがありますが、本来は...
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思い川から奥宮への参道を進んで行くと、神門が見えて来ます。神門神門をくぐると、左手にあるのが連理の杉。連理の杉連理の杉(御神木)貞明皇后御参拝の折(大正十三年)称賛された連理の杉。連理とは別々の木が重なって一つになる意で、夫婦、男女の仲睦まじいことをいう。この神木は杉と楓が和合したものでひじょうに珍しい。貴船神社のお参りは、本宮、奥宮、結宮の順にお参りする三社詣という慣わしがあります。奥宮は、もともと...
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貴船神社の奥宮の参道に入るところに、思ひ川橋と呼ばれる朱塗りの小さな橋が架かっています。この橋の下を流れるのが思ひ川で、貴船川に合流します。昔、貴船神社本宮がまだ奥宮にあったころ、御物忌(おものいみ)川といって、貴船神社に参拝する際、川で禊(みそぎ)をして心身を清めたと伝えられています。後に和泉式部が参拝し、恋を祈ったことから「おものいみ」川が「思ひ川」になったのではないかといわれています。思ひ川...
地域タグ:京都市
貴船神社の奥宮の手前にそびえる杉の巨木。相生の杉(御神木)同じ根から生えた樹齢1000年の二本の杉。相生は、相老に通じ、夫婦艫に長生きの意味。自然の生命力を感じますね。貴船神社の縁結びのシンボルであるかのように、二本の杉が寄り添うように生えています。貴船神社の末社・「私市社(きさいちしゃ)」「林田社」私市社の御祭神は大國主命林田社の御祭神は少名彦命にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応...
地域タグ:京都市
貴船神社の本宮から結社(中宮)へと向かいます。料理旅館の立ち並ぶ貴船川沿いの道は、秋は紅葉のトンネルとなります。夏には川床が設けられ、涼を求める人達で賑わいます。本宮より歩くこと10分、和泉式部もお参りしたという結社(ゆいやしろ)が見えてきます。結社は、本宮より上流300メートル、山側の小高い地にあり、本宮と奥宮の中間にあるため中宮 (なかみや)とも呼ばれています。御祭神は磐長姫命 (いわながひめのみこと)を...
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貴船神社の社務所には、「水占い」というおみくじが売られています。まずは、紙の中から好きな一枚を選びます。最初は文字が書かれていませんが、境内の霊泉に浮かべると、文字が浮き出できて、普通のおみくじのように、恋愛、出産、病気、転居などの運勢が書かれています特に女性の間で人気があるようです。(私も引いたことがあります(^^;)また、おみくじには、QR Translatorが印刷されていて、外国人観光客は、それぞれの言語で...
地域タグ:京都市
貴船神社の社殿の前に白と黒の神馬の像があります。雨乞いの社として知られる貴船神社は、歴代天皇より、日照りには黒馬、長雨には白馬、または赤馬を献じて、祈願されてきましたは、平安時代の文献によると、時には生馬に換えて板立馬を奉納したと伝えられています。その板立馬が今日の絵馬の原形と言われ、貴船神社には絵馬は、絵馬発祥の地にちなんで黒馬・白馬の絵馬、貴船神社の神様である龍神さまにちなんだ龍絵馬などがあり...
地域タグ:京都市
新京極にある誓願寺は、清少納言、和泉式部、松の丸殿が帰依したことにより、女人往生の寺として名高いお寺です。飛鳥時代、天智天皇 6年(667)、天皇の勅願により奈良に創建されました。鎌倉時代に奈良から一条小川(現在の上京区元誓願寺通小川西入る)に移転し、天正19年(1591)、秀吉の命により現在の地に移転し、慶長2年(1597)、秀吉の側室・松の丸殿(京極竜子)の援助によって伽藍の再興が完了しました。清少納言も和泉...
地域タグ:京都市
次回の「光る君へ」から和泉式部が登場するようなので、しばらく和泉式部についての記事をアップします。日本三大祭の一つに数えられる祇園祭は、八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)と呼ばれました。八坂神社 西楼門四条通りの突き当たりに建つ切妻造の楼門。南楼門八坂神社の正面門にあたる楼門。舞殿本殿現在の社殿は承応3年(1654)に4代将軍徳川家綱により建立されたもので、拝殿と本殿を大...
地域タグ:京都市
「物語の間」では『源氏物語』のあらすじや、物語の舞台になった宇治の名所について展示されています。『源氏物語』の早わかり表体の動きに反応するセンサー技術を使った体験コーナーでは、『源氏物語』のストーリーを見ながら、グー、チョキをかざしたりするゲーム感覚のコーナーもありますよ。ルーレットで出てきた源氏絵を探す「源氏絵大集合!」六条院にまつわる登場人物の解説を読む「六条院引き出し」「響け!ユーフォニアム...
地域タグ:宇治市
「物語の間」では、『源氏物語』の宇治十帖の主要人物「薫」と「匂宮」にちなんだ香りについての展示があります。香りの文化香りの文化は、仏教と深くかかわっています。仏前で香を薫き、清浄な空間にととのえるのもそのひとつです。良い香りの木で、仏像を彫ることも行われました。『源氏物語』の中では、仏前で香を薫ことを「名香(みょうごう)」と表現しています。香りの原料は、中国や東南アジアから渡来した貴重品でした。これ...
地域タグ:宇治市
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人形町江戸甘味處つくし様のお江戸スイーツ数種類買った中から、日持ちのしない風鈴プリンから😋今まで味わったことのない濃厚でまろやかな高級感漂う🍮に感動次は、五家宝をいただきました!五家宝とは、おこし種を水飴で固め棒状にした芯をきな粉に水飴などを混ぜた皮で巻き付け、さらにきな粉を表面にまぶしたもの甘さ控え目で小腹の空いた時に最適な和菓子きなこ大好きな母にもぴったりなお土産となりました。五家宝とはおこし種...
「べらぼう」の取材の後、前々から寄りたかった日本橋人形町の水天宮前にある「江戸甘味處 つくし」さんに行って来ました。創業は明治10年(1877年)で、現在の店主は5代目ということです。こちらの絵には明治15年(1882年)のお店の前の風景が描かれているそうです。店内には有名人のサイン色紙なども飾られています。お土産にいくつか買っていましたので、次の記事で紹介します! 東京都中央区日本橋人形町2丁目1−12 水天宮つ...
銀座煉瓦街は、1872年(明治5年)に東京で起きた銀座大火の後、西洋流の不燃都市の建設を目指して煉瓦造により造られた街並みです。建設方法は官営で、設計はお雇い外国人のウォートルスが担当。煉瓦街と言っても外壁は漆喰などで仕上げられたものが大部分で、赤煉瓦の街並みだった訳ではない。「煉瓦建の家屋に住むと、青ぶくれになって死んでしまう」という迷信もあり、当初は煉瓦造の建物が不評で、空き家が多かった。やがて新...
安永2年(1773年)山東京伝の父・伝左衛門は、奉公先の質屋を離れ、京橋のたもと付近、京橋銀座一丁目にある町屋敷の家主に。13歳の京伝は、通称を幼名の「甚太郎」から「伝蔵」に。京伝というのは京橋の「京」と伝蔵の「伝」に由来。ちなみに、江戸時代、京橋は「橋名」で、町名ではありませんでした。安永4年(1775年)北尾重政に浮世絵を学び、画号を北尾政演(きたお まさのぶ)と称しました。警察博物館のそばには、京橋の親...
浅草神社の裏手に、山東京伝机塚の碑(さんとうきょうでんつくえづかのひ)があります。山東京伝像山東京伝(さんとうきょうでん)は、多数の洒落本・滑稽本を著した江戸時代の代表的な戯作者です。また、北尾政演の画号で浮世絵師としても著名な人物でした。山東 京伝(さんとう きょうでん、旧字体:山東 京傳、宝暦11年8月15日(1761年9月13日) - 文化13年9月7日(1816年10月27日))は、江戸時代後期の浮世絵師、戯作者。浮世絵師...
銀座5丁目のホテルグランバッハ東京銀座の一角に、「狩野画塾跡」の案内板があります。ここは、田沼意次が晩年過ごした田沼家下屋敷があった場所です。江戸時代、幕府の奥絵師・狩野四家のうち最も栄えたのは木挽町狩野家でした。六代狩野典信は、田沼家の屋敷の一角(今の銀座五丁目付近)を拝領して画塾を開き、八代雅信の門からは明治画壇の巨匠狩野芳崖や橋本雅邦らを輩出しました。江戸幕府の奥絵師であった狩野四家は、いずれ...
田沼意次屋敷跡の近くには神田橋があります。神田橋は、東京都千代田区を流れる日本橋川に架かる日比谷通りの橋。上空には首都高速都心環状線が通っています。橋の名は、かつてこの付近にあった神田明神に由来。江戸城の増築により、外神田に移転した神田明神跡には神田御門と土井大炊頭利位の屋敷が設けられました。(Wikipediaより)ここは、芝崎口・神田口門・大炊殿橋門とも呼ばれ、将軍が上野寛永寺に参詣に行くための御成道と...
田沼意次の上屋敷は、現在の「神田橋辺りにありました。文京区の屋敷で生まれた意次は神田小川町、呉服橋付近に住んだ後、将軍家治時代の御側用人に昇格し、神田橋御門内に屋敷を拝領しました。家治の死とともに失脚する天明6年(1786)まで、この屋敷には、意次に便宜を図ってもらおうと、贈り物を持った商人達が連日のように押し寄せたとか。意次失脚後、「白河の清きに魚も棲みかねてもとの濁りの田沼恋しき」と狂歌で歌われ、田...
東京メトロ半蔵門駅から大妻通りを歩いて行くと、大妻女子大学前の歩道に佐野善左衛門宅跡の案内板があります。現在の大妻学院の辺りには旗本佐野家の屋敷がありました。佐野家は代々番士として、江戸城の警備を勤めていました。1784年(天明4年)4月24日、当主であった佐野善左衛門政言(さのぜんざえもんまさこと)は、江戸城内で若年寄の田沼意知(おきとも、老中田沼意次(おきつぐ)の子)を斬りつけ、その後切腹を命じられ自...
呉服問屋ミュージアムの奥には、「蚊帳仲間連盟帳」をはじめ、商売道具、日用品、行商の際に使用された矢立や棹秤、鬼瓦などが展示されています。蚊帳仲間連盟帳これは問屋ソロバンといい、取引相手から計算を覗かれないように裏板がついていて、大正時代~平成10年ぐらいまで使用されていたとか。手前が矢立と棹秤旧京都店の内蔵の鬼瓦4月24日には、 NHK「あさイチ」にて当店が紹介されたそうですよ。蔦屋重三郎「耕書堂」再現展...
地下鉄人形町駅から人形町通りを神田方面に進むと、織物中央通りに呉服問屋「イチマス田源」があります。イチマス田源は、文政元年(1818年)に近江愛知川(滋賀県愛知郡)で創業。初代は近江商人の一人で、主に地産の麻織物や蚊帳の行商を行っていました。西陣や友禅など京呉服問屋として発展し、嘉永年間(1848〜1854年)に江戸に進出。幕末に入り、行商の旅が安全に行えるように『蚊帳仲間連名組』を作り、明治4年(1871年)に...
台東区千束に今年一月にオープンした江戸新吉原耕書堂を訪ねて来ました。江戸新吉原耕書堂は、蔦屋重三郎が新吉原の大門前に開業した「耕書堂」を模した施設で、吉原に関する観光案内や、お土産品の販売などを行っています。べらぼうめTシャツてやんでえ べらぼうめ と書かれたTシャツポストカード万円袋・ポチ袋花魁扇子・一筆箋・小銭入れ・カードケース・メガネ入れ・手ぬぐいなどおこしや豆板などの浅草名物この他、蔦重に関す...
紀尾井坂(きおいざか)は、東京都千代田区にある坂で、江戸時代における正式名称は「清水坂」とよばれていました。当時周辺一帯には大名屋敷が多くあり、清水坂の南側に紀州徳川家(現在は清水谷公園やグランドプリンスホテル赤坂)、北側には尾張徳川家(現在は上智大学)、彦根藩井伊家(現在はホテルニューオータニ)の屋敷がありました。江戸の住人たちは、三家があった坂道であるところから、紀伊徳川家の「紀」、尾張徳川家...
徳川治貞(とくがわはるさだ)は、紀伊和歌山藩主・徳川宗直(むねなお)の次男として誕生。松平頼邑(よりさと)の養子となり、宝暦3年、伊予西条藩主松平(紀伊)家5代、安永4年、和歌山藩主徳川家9代となりました。8代将軍・徳川吉宗の享保の改革にならって藩政改革を行ない、和歌山藩の財政再建に尽力。自ら綿服を着用、粗食を心掛け、冬には火鉢の数を制限するまでして、死去するまでに10万両の蓄えを築いたといいますこのことから「...
日本橋堀留町に鎮座する三光稲荷神社は、江戸三座の一つである中村座に出演していた歌舞伎役者・関三十郎が伏見より勧請したと言われ、娘さん、子供、芸妓の参拝で賑わったそうです。当社は落語「百川」にも登場します。百川(ももかわ)は古典落語の演目。6代目三遊亭圓生の十八番として知られる。田舎(いなか)から出てきた百兵衛は、葭町(よしちょう)の千束(ちづか)屋という桂庵(けいあん)(口入れ屋)からの紹介で日本橋浮世小...
江戸時代、日本橋室町の浮世小路に料亭「百川楼」がありました。(現在の福徳神社の社務所周辺)百川楼は明和ごろから明治元年にかけて営業をした料亭です。初めは卓袱(しっぽく)料理の店で、後に会席料理に転向。卓袱料理は、江戸時代に伝わった中国料理で、はじめ長崎に伝えられ、京都や大阪にも広がりましたが、江戸では流行が長続きしなかったそうです。安政元年(1854)、ペリー来日の際には、百川楼の料理人が横浜まで出向き、...
東京メトロ銀座線・半蔵門線の三越前駅より徒歩1分、中央区日本橋室町にある福徳神社(福徳稲荷)貞観年間(859年~876年)には既に鎮座していたとされています。日本橋室町二丁目付近は、昔は武蔵国豊島郡福徳村という農漁家の点在する片田舎で、その村名から「福徳稲荷」と呼ばれました。村人は神社の森を「稲荷の森」、里程標(石造一里塚)を「稲荷の一里塚」と呼び親しんでいましたが、明暦3年(1657)正月8日の大地震により、...
中央区日本橋大伝馬町「べらぼう」で、片岡愛之助さんが演じる鱗形屋孫兵衛は、江戸時代、通旅籠町と呼ばれたこの地に地本問屋を構えていました。浄瑠璃本、草双紙、吉原細見、宝船などでを手掛け、安永4年(1775年)に恋川春町『金々先生栄花夢』を刊行して黄表紙をヒットさせました。日本橋堀留町に鎮座する池州稲荷神社は、かつて鱗形屋を同じ通旅籠町にあったったといわれています。創建年代などは不祥ですが、池州屋敷の池沼...
人だけでなく、軍用犬・軍馬慰霊碑や「猫塚」「唐犬八之塚」「オットセイ供養塔」「犬猫供養塔」「小鳥供養塔」、邦楽器商組合の「犬猫供養塔」(三味線の革の供養)など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑、ペットの墓も多数。著名人の墓として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉などの墓があります。山東京伝の墓鼠小僧次郎吉の墓猫塚1793年(寛政5年)、老中・松平定信の命によって造立された「水子塚」は、水子供養の発祥とさ...
明暦大火の供養塔明暦の大火振袖(ふりそで)火事,丸山火事とも。1657年(明暦3年)江戸本郷丸山町から出火し,江戸城本丸をはじめ江戸市中を焼き尽くした火事。死者10万人以上といわれ,江戸城も西丸を残して焼失。幕府は復興に際し御三家をはじめとする大名屋敷の城外への移転,寺社の外辺部への移転などを進め,町屋も道幅を広げ,広小路や火除地を設定,家屋の規模を定めるなどの措置をとった。(コトバンクより)明暦三年(1657...
一条天皇の皇后・藤原定子は、1000年(長保2)12月16日、媄子(びし)内親王を出産した直後、難産のため25歳で崩御、23日、定子の遺体は、六波羅蜜寺に安置され、27日に生前の希望から鳥戸野の南のあたりに土葬されたといいます。定子の死後、中関白家(父・兼家と弟・道長の中継ぎの関白という意味)は人望に欠け没落の一途をたどった。敦康親王が、后腹の第一皇子でありながら即位できなかったのも、それが一因である。定子が儲け...
平安時代、高松殿址は、 醍醐天皇の皇子・源高明(たかあきら)の御殿・高松殿があったところです。後に高明の娘・源明子が藤原道長の妻となり、高松殿を住居としました。その高松殿内に伊勢から天大神を勧請して祀った鎮守社が高松神明神社の起こりとされています。その後、後白河天皇の内裏となり、保元の乱では後白河天皇の本拠地となり、源義朝や平清盛らがここに参集して白河の地へ攻め込みました。平治の乱により高松殿は焼...
『源氏物語』の主人公・光源氏の邸宅「六条院」のジオラマ六条院は、『源氏物語』に登場する架空の建築物で、平安京の六条京極付近に四町を占める光源氏の中年以降の邸宅です。広大な寝殿造で、西南部分に六条御息所の邸宅跡を含み、光源氏はここに主だった夫人たちと子女を住まわせました。「焔 (ほのお)」六条御息所と思われる女性を描いた上村松園の絵画光源氏は、六条院を春夏秋冬の4つに分け、それぞれの女君の希望に沿うよ...
貴族が外出する際に使っていた牛車牛車は馬車とともに中国から伝わったと推定されている。牛車は大きく分けて荷車用と乗用の2つの要素があった。牛車は速度が遅い反面、大量の物資を運ぶのに向いていたため荷車として活用されて『石山寺縁起絵巻』や『方丈記』などにも登場する。運ぶ物資や速達性によって牛車と馬車の使い分けがされていたと推定され、中世に入るとそれぞれ車借・馬借と呼ばれる運送業者が成立することになった。...
大原野神社は、京都盆地の西縁、西山山地の一峰にあたる小塩山の麓に広がる大原野の地に鎮座しています。紫式部は大原野神社を氏神と崇め、この大原野の地を愛していたといいます。『源氏物語』二十九帖「行幸(みゆき)」の巻には、冷泉帝が大原野へ鷹狩りに向かう華やかな行列を光源氏の養女・玉鬘が見物する様子が描かれいます。また、紫式部が生前に自ら撰んだとされる「紫式部集」に次の歌が詠まれています。長徳2年に越前守とし...
京都市西京区大原野南春日町にある大原野神社は、延暦3年(784年)に桓武天皇が長岡京へ遷都した際、皇后の藤原乙牟漏が藤原氏の氏神である奈良・春日社(春日大社)の分霊を勧請したのが始まりとされています。嘉祥3年(850年)、藤原冬嗣を祖父に持つ文徳天皇が現社地に社殿を造営。貞観3年(861年)以降、皇后の参拝が再々あり、また円融天皇、一条天皇が度々行幸するなど藤原氏のみならず朝廷からも特別な崇敬を受けるようにな...
昨夜のドラマでは、清涼殿で、安倍晴明が一条天皇に彰子の入内は、吉日である11月1日がふさわしいと提言する場面が描かれていました。一条天皇や藤原道長の信頼を集めるようになった安倍晴明の様子が、道長の日記『御堂関白記』などの貴族の日記に記されています。藤原実資の『小右記』によると、正暦4年(993年)2月、一条天皇が急な病に伏せった際、晴明が禊(みそぎ)を奉仕したところ、たちまち病は回復し、正五位上に叙された...
土屋町通に平安宮内裏凝華舎(ぎょうかしゃ)(梅壺)跡・飛香舎(ひぎょうしゃ)(藤壺)跡の案内板があります。飛香舎(ひぎょうしゃ)は、藤原道長の娘で、一条天皇の中宮藤原彰子の御殿です。庭に藤の木が植えられたことから藤壺(ふじつぼ)と呼ばれ、この舎で藤や菊を愛でる宴が行われました。通常非公開ですが、現在の京都御所に復元されています。内裏の後宮七殿五舎の一つ。南庭(壺)に紅白の梅を植えていたので梅壺と呼ばれた。...
貴族の暮らしと装束男性の装束男性の正装は、束帯です。平安時代以降、男子が参内する際に着用した正式の服装。天皇は即位以外の晴れの儀式に用いる。臣下は参朝の時を始め、大小の公事には必ずこの服装をする。その形状・構成は時代により変遷するが、中心となる構成は冠・袍・半臂(はんぴ)・下襲(したがさね)・衵(あこめ)・単(ひとえ)・表袴(うえのはかま)・大口(おおくち)・石帯(せきたい)・帖紙(たとう)・笏(しゃく)・襪(しと...
貴族たちの遊び飛鳥・奈良・平安初期にかけては中国大陸の文化を熱心に取り入れていわゆる唐風文化が発達したが、平安中期以後は、摂関政治と荘園制のもとで公家の生活が華やかに展開された。894年遣唐使の廃止により唐文化の影響が弱まったため,それまで摂取した大陸文化を基礎に,安定した貴族生活を背景に国風文化が成立。仮名の発明により,国文学が発達し,女流文学者が出現,物語文学や和歌が発達した。また浄土教の流行に...
宇治市源氏物語ミュージアムは、1998年に『源氏物語』の最後の10帖「宇治十帖」の舞台となった宇治に開館しました。「平安の間」では光源氏を主人公とする前半の物語がテーマとなっており、六条院の縮小模型、牛車、調度品などが展示され、平安貴族たちの暮らしぶりを知ることができます。平安時代の高貴な貴族女性は、成人すると、男性に顔を見せることが滅多になかったため、男性は垣間見(かいまみ)を機に、恋文を送って求愛し...
市バス「法勝寺町」下車し、京都市動物園近くに私立学校共済の「白河院」という宿泊施設があります。この辺りは、かつて藤原良房の別荘があり、後に藤原師実によって白河天皇に献上されました。この白河院を改装して建てたのが六勝寺のうちの法勝寺で、発掘調査の結果、八角九重大塔がそびえ建ち、大きな池を中心にした庭園がある壮大なものであったと推定されています。 六勝寺とは平安時代後期の院政期、天皇、皇后により、白河...
白峯神宮の境内にある伴緒社は、源為義とその息子である源為朝を祀ってあります。伴緒社(ともおのしゃ)源為義源義親の子。義父である義忠が暗殺され、その犯人とされ逃亡した義綱を14歳で討ち取った。その後藤原摂関家に仕える。保元の乱では、子の頼賢、為朝らと供に上皇側につき、天皇方の義朝、平清盛らと戦ったが、義朝らに敗れた。東国へ落ち延びようとしたが、義朝のもとに降伏、比叡山に出家した。義朝は、為義と弟たちの...
もとは、蹴鞠・和歌の宗家である飛鳥井家の邸宅地で、手水舎の飛鳥井(あすかい)は、清少納言の『枕草子』の中で、9つの代表的な井戸のひとつに挙げられています。飛鳥井白峯神宮の飛鳥井は平安の昔から有名です。平安時代の歌謡曲の催馬楽「飛鳥井」には「飛鳥井に宿りはすべし、や、おけ、蔭もよし、御水(ミモヒ)も寒し、御秣(ミマクサ)もよし」と謡われていて、オアシスのように人々が憩っていたと想像されます。(や、おけ...
京都市上京区今出川通にある白峯神社のご祭神は、崇徳天皇と淳仁天皇。崇徳天皇は、鳥羽天皇の皇子としてご生誕、保安4年に第75代の天皇に即位されましたが、保元の乱により、讃岐に配流され、長寛2年に45歳で崩御、白峰山陵に奉葬されました。讃岐に配流されてからは、髪も剃らず、爪も切らずに日本国の大魔縁になって朝廷を呪い続けたと伝えられています。崩御されてから大火事や不穏な事件が頻繁に起きたため、崇徳天皇の祟...
法金剛院は、京都市右京区花園にある律宗の寺院で、開基は待賢門院とされています。ここは平安時代初期の右大臣・清原夏野の山荘を平安末期に待賢門院(鳥羽上皇の中宮、後白河天皇の母)が再興した律宗のお寺です。清原夏野(きよはら の なつの)は、平安時代初期の皇族・公卿。舎人親王の孫である内膳正・小倉王の五男。官位は従二位・右大臣、贈正二位。清原夏野『前賢故実』延暦23年(804年)同じ内舎人の官職にあった親族の...
下京区夕顔町に夕顔之墳があります。ここは、『源氏物語』第4帖「夕顔」に登場する夕顔の屋敷があった場所とされ、住宅地の一角に立つ石碑には「源語傳説 五條邊 夕顔之墳」と刻まれています。昭和4年に京都史蹟会によって建てられたそうです。夕顔は物語の中の架空の人物ではありますが、当地の地名も夕顔町となっています。「源氏夕顔巻」(月岡芳年『月百姿』)光源氏が夕顔の屋敷に泊まると、深夜に夢に嫉妬したもののけ(六条...
北野天満宮の帰りに大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)を参拝しました。大将軍八神社は、桓武天皇が、王城鎮護のために星神大将軍を勧請したといわれる社で、方違え(方除け厄除けの神)として、建築・移動・転宅・婚姻・旅行・交通等あらゆる人間生活に於いて方位の厄災から守護する神として信仰されました。方違えとは、陰陽道に基づいて平安時代以降に行われていた風習のひとつで、外出や造作、宮中の政、戦の開始などの...
元三大師堂本尊は元三大師(良源)。他に毘沙門天像、薬師如来像、不動明王像などを安置。毘沙門天は京都七福神の一つ。鐘楼手水社廬山寺(ろざんじ)(廬山天台講寺[ろざんてんだいこうじ])沿革天慶年中、元三大師良源によって草創される。良源は康保3年(966)55歳で第18世天台座主となり、内供奉に補せられて以降、比叡山から宮中に参内するにあたり、現船岡山の麓、現蘆山寺通北に輿願金剛院を建立し、寛和元年(985)正月3...
京都市上京区北之辺町の廬山寺は、紫式部の邸宅跡として知られています。山門南門(薬医門)遡れば、紫式部の曽祖父である藤原兼輔(堤中納言)が建てた邸宅があり、藤原為時に譲り、紫式部はこの邸で生まれ育ち、『源氏物語』を執筆したとされています。廬山寺(ろざんじ)現在の廬山寺は豊臣秀吉の時代にこの地に移されたもので、ただしくは廬山天台講寺という。もとは天慶元年(938)に慈恵大師良源(じけいだいし りょうげん)...