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大河ドラマに恋して http://shizuka0329.blog98.fc2.com/

大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り

しずか
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2013/09/04

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  • 修善寺の旅(16)十三士の墓

    十三士の墓は、頼家の墓近くにあります。頼家の家臣十三人が、頼家が殺された6日後に謀叛を企てたものの、挙兵前に発見され、全員殺されたと伝えられています。北条氏との確執で、病気を理由に修禅寺に配流された頼家は、元久元年(1204)7月18日、入浴中に暗殺された。吾妻鏡(鎌倉時代史書)によると、この6日後、頼家の家臣らは謀反を企てたが、挙兵以前に発覚して、相州金窪太郎行親らに殺されたことが記されている。...

  • 修善寺の旅(15)源頼家の墓

    源頼家の墓は、鹿山のふもと源氏公園内の指月殿の隣にあります。正面に立っている石碑は、元禄16年(1703年)頼家公500回忌の際に、時の修禅寺住職が建てた記念碑で、墓は記念碑の裏にある小さな五輪石塔で、それぞれ頼家、側室の若狭の局、子の一幡のものといわれています。 毎年7月下旬ごろの『頼家まつり』では、頼家公行列と墓前供養が行なわれます。正治元年(1199年)に父頼朝の後を継いで18歳で鎌倉幕府の二代将軍となった...

  • 修善寺の旅(14)指月殿

    修禅寺の山門から川を挟んだ対岸にある指月殿は、修善寺で暗殺された源頼家の冥福を祈って母の北条政子が修禅寺に寄進した経堂で、伊豆最古の木造建築物といわれています。その際、政子が寄進した経典の一部は、修禅寺の宝物殿で展示されています。この時宋版大蔵経、釈迦三尊繍仏なども合わせて寄進し、門前の虎渓橋も架け替えたといわれています。堂内中央に禅宋式という珍しい様式の丈六釈迦如来座像が安置されていますが、持ち...

  • 修善寺の旅(13)源頼家が幽閉された修禅寺

    修善寺温泉街の中心にある修禅寺地名は「修善寺」、ですが、寺名は「修禅寺」、表記が異なります。807年(大同2年)に空海が創建したと伝えられています。当時は周辺の地名が桂谷であったことから、桂谷山寺と言われていましたが、鎌倉時代初期には修禅寺の名称が定着し、寺領も修禅寺と呼ばれるようになりました。手水舎から出ているのは温泉です。現在の本堂は1883年(明治16年)に再建したもの。岡本綺堂の「修禅寺物語」の舞台...

  • 修善寺の旅(12)源頼家ゆかりの筥湯

    修善寺の筥湯(はこゆ)は、鎌倉幕府二代将軍、源頼家が入浴中に北条氏の刺客に襲撃された温泉したという伝説の名湯です。伊豆最古の温泉場として栄えてきた修善寺には、かつて桂川沿いに7つの外湯があり、それぞれが浴客で賑わっていました。しかし昭和20年代には「独鈷の湯」だけになったといわれてます。平成12年に筥湯がオープンし、外湯が復活。檜造りの湯舟には掛け流しの湯があふれ、修禅寺温泉の情緒を味わえます。修善寺...

  • 修善寺の旅(11) 独鈷そば大戸

    修善寺を散策中、お昼近くになったので、ランチ休憩を取ることにしました。温泉街を歩いていたら、「独鈷そば大戸」と言うお店を発見こちらのお店は、蕎麦のメニューは「かけ」か「ざる」の2種類のみという蕎麦好きにはぴったりのお店です。看板メニューの独鈷ざるそば(1320円)を注文。地元産の本わさびがまるまる一本付いたセットで、余ったわさびはお持ち帰り用の袋に入れて持って帰ることが出来ます。自分で少しずつすりおろ...

  • 修善寺の旅(10)源義経像

    指月殿の裏手の山を登って行くと「岩谷観音とおしゃぶり婆さん」が、祀られている祠があります。なかなかの急な山道なので、350mといってもバカになりません。しかも、この日は雨上がりでしたので、滑りやしないかとハラハラしながら登りました。この鹿山のことを正式には「塔の峰」と呼び、昔は「塔の峰の観音さん」または岩を削って石仏を安置してあることから「岩谷観音」とも呼んでいました。この下の谷のことを「観音洞」と呼...

  • 三島の仁田忠常兄弟の墓

    仁田館は、仁田一族の菩提寺である慶音寺に隣接し、同家邸内には、四郎忠常・五郎忠正・六郎忠時の墓石があり、現在も子孫によって守られています。仁田四郎忠常兄弟の墓六郎忠時(右)、四郎忠常(中央)、五郎忠正(左)仁田忠常頼朝死後は跡を継いだ二代将軍・源頼家に仕えた。引き続き頼家に信頼され、建仁2年(1202年)には忠常の屋敷で小笠懸が催されている。『保暦間記』『北条九代記』は頼家の嫡男・一幡の乳母父となったとする[...

  • 三島の仁田館遺跡

    8月21日の回で、仁田忠常殿が退場してしまわれたので、三島の仁田忠常ゆかりの地を再アップします。伊豆箱根鉄道「伊豆仁田駅」から徒歩約5分のところに、函南町仁田館遺跡があります。ここは、源頼朝の旗揚げに尽力した仁田忠常の屋敷跡とされる遺跡です。来光川河川改修による発掘調査では、屋敷の周りの堀や、多くの土器や陶器、こけら経など貴重な遺構や遺物が発見されました。仁田四郎忠常 月岡芳年画「芳年武者无類」仁田忠...

  • 姫の前と義時の子・北条重時開基の極楽寺

    北条義時の二人目の妻、姫の前「権威無双の女房で、容姿がとても美しい」「離別はしないという起請文をもらい受け、結婚の儀に及んだという」などと記されています。源頼朝の大倉御所に勤める女官であった姫の前は、『吾妻鏡』に「比企の籐内朝宗が息女、当時権威無双の女房なり。殊に御意に相叶う。容顔太だ美麗なり」と記されており、頼朝のお気に入りでたいへん美しく、並ぶ者のない権勢の女房であった。義時は1年あまりの間姫...

  • 修善寺の旅(9)お伺い石

    竹林の小径から指月殿へ指月殿の横には、源頼家の墓があるのですが、その階段下に『お伺い石』という石があります。 この石には不思議な力があり、石の重さで、自分の願いが叶うか叶わないか占う事ができるといわれています。戦前にはこの占いは盛んに行われていましたが、次第に廃れていったため、再度占いができるよう修復し、現在の場所に移設されました。指月殿の中には、釈迦如来像が安置されており、その右手に持っている蕾...

  • 修善寺の旅(8)竹林の小径

    修善寺の竹林の小径は、修善寺温泉街の中央を流れる桂川沿いの散策道。平成6年(1994年)から3年間を費やして整備されたそう。小径内の無料で見学できるギャラリー「しゅぜんじ回廊」では、修善寺の四季の様子を写真で紹介しています。この時は、ちょうど「源頼家」展をやっていました。大きなタケノコ見っけ!竹林の中央エリアには、大きな竹の円形ベンチがあり、休憩スポットとなっています。竹林の中から、八重さんが現れました...

  • 修善寺の旅(7)赤蛙公園

    赤蛙公園は、修善寺温泉街の西の端、滝下橋のほとりにある小公園です。昭和19年に作家の島木健作が病気療養のため修善寺を訪れた際、桂川の中州から向こう岸に渡ろうとする1匹の赤蛙に目が留まり、短編 「赤蛙」の構想を得たところといわれています。島木健作小説家。明治36年9月7日、札幌生まれ。本名朝倉菊雄。2歳のとき父を失って一家は離散し、苦学しながら20歳で北海中学を卒業、東北帝国大学法文学部の選科に入ったが、東北...

  • 修善寺の旅(6)桂川にかかる恋の願掛け橋

    修善寺の桂川にかかる5つの橋は、上流から滝下橋、楓橋、桂橋、虎渓橋、渡月橋といい、などそれぞれ別名が付いています。滝下橋(たきしたばし) 別名:安らぎ橋赤蛙公園の近くの橋が滝下橋で、橋が朱色ではありません。夫婦円満のご利益があるといわれています。北条義時ゆかりの地の幟が飾られていました。渡月橋(とげつばし) 別名:みそめ橋渡月橋は良縁祈願のご利益があるとされています。虎渓橋(こけいばし) 別名:あ...

  • 修善寺の旅(5)独鈷の湯

    独鈷の湯(とっこのゆ)は、修善寺温泉の修善寺川(桂川)の川中にあり、伊豆最古の温泉ともいわれています。大同2年(807)、修善寺を訪れた空海は桂川で病気の父の身体を洗う少年の孝行の心に打たれ、「川の水では冷たかろう」と持っていた独鈷杵で川の岩を打ち、霊泉を湧き出させました。その湯に浸かったところ、十数年来の父親の病気はたちまち完治させることができたといいます。これにより、温泉療法が広まり、修善寺温泉が...

  • 妙本寺(4)源頼家の娘・源媄子の墓

    妙本寺の境内に、源頼家の娘・源媄子(よしこ)の墓があります。寺伝によると、鎌倉幕府2代将軍 源頼家と比企能員の娘 讃岐局との間に生まれましたが、比企の乱で一族が滅ぼされました。生き残った媄子(よしこ)は、祖母 北条政子の死後、幕府の中で唯一、頼朝の血をひく者として御家人一同の尊敬を集め、彼らをまとめる役割を果たしました。幕府は政権維持のため、京都から藤原頼経を迎え、4代将軍とし、媄子は4代将軍の奥方となりま...

  • 妙本寺(3)若狭局を祀る蛇苦止堂

    妙本寺の方丈門のところに境内の案内図があります。ここから門に入らず脇の細い道を進んで行くと、階段があり、これを上って行くと、蛇苦止堂というお堂に辿り着きます。比企の乱で、井戸(一説に池)に飛び込んで自害したという若狭局は、後に北条政村の娘に霊となって憑き、日蓮によって供養され、蛇苦止堂(じゃくしどう)に祀られたといいます。比企の乱より50年ほど後、北条政村の娘が何かに取憑かれて座敷をのたうち回り苦し...

  • 妙本寺(2)比企一族の墓

    妙本寺の境内には比企一族の墓と一幡の袖塚があります。比企一族の墓北条時政は、娘・北条政子と組み、源頼家を亡き者にし、千幡(後の実朝)を次期将軍に立てようと画策。1203年、頼家が病気になると、時政は一幡(源頼家の嫡男で、母は若狭局(比企能員の娘)に関東二十八区に地頭職と日本国総守備職を、実朝には関西三十八国地頭職を相続させました。 これに不満を抱いた比企能員は、頼家と組み、北条氏を打倒することを決意。...

  • 妙本寺(1)比企一族ゆかりの寺

    鎌倉の妙本寺の立つこの辺りは比企が谷といい、鎌倉時代には比企能員や比企尼をはじめとする比企一族が住んでいました。懐妊した北条政子は、比企の館に入り、万寿(後の源頼家)を出産。比企一族と頼朝の絆は、さらに深まっていくのでした。総門しかし、建仁3年(1203年)9月2日、2代将軍源頼家の外戚として権勢を握った能員とその一族が、北条時政の謀略によって滅ぼされてしまいました。唯一、京都にいて難を逃れた比企能員(よ...

  • 鎌倉の常栄寺(ぼたもち寺)

    鎌倉の妙本寺の総門から住宅街の小道を進んで行くと、民家の間に常栄寺という小さなお寺がぽつんとあります。通称ぼたもち寺の名で知られているこの寺の裏山は、源頼朝が由比ガ浜を眺めるための桟敷(展望台)を設けたところといわれています。ここを守護していた印東祐信の妻の日蓮宗の尼僧・桟敷尼が、文永8年(1271年)の龍ノ口法難の折り、処刑のため刑場(現・龍口寺)に引かれて行く日蓮に胡麻ぼたもちを捧げたところ、この...

  • 琵琶橋と琵琶小路

    鎌倉十橋の一つ、琵琶橋を訪ねてみました。鎌倉十橋(かまくらじっきょう)とは、鎌倉を流れる滑川などに架かる橋の中で、古くから重要な交通路にあった橋や、伝説の伝わる十の橋のことです。江戸時代に『新編鎌倉志』で選定されました。現在は橋としては残っておらず、碑だけが残っているところもあります。鎌倉十橋とされたのは以下の10の橋である。歌の橋夷堂橋勝ノ橋裁許橋逆川橋十王堂橋筋違橋針磨橋琵琶橋乱橋琵琶橋と琵琶小...

  • 若宮大路と段葛

    若宮大路(わかみやおおじ)は、鎌倉市の由比ヶ浜(滑川交差点)から鶴岡八幡宮に通じる約1.8km)に及ぶ参道です。由比ヶ浜側から「一の鳥居」「二の鳥居」「三の鳥居」と3つの鳥居があり、 二の鳥居から三の鳥居までの間は、盛土によって大路中央部分は一段高く、その両側に堤を築いて石を置いた段葛(だんかずら)と呼ばれる歩道になっています。段葛は、遠近法によって実際の距離より長く見えるように、二ノ鳥居から鶴岡八幡宮側...

  • 鎌倉の「下馬」の碑

    鎌倉駅から由比ガ浜に向かう若宮大路沿いのガソリンスタンドの脇に「下馬」の碑が建っています。往昔鶴岡社參ノ武人ハ此ノ邊ニテ馬ヨリ下リ徒歩ニテ詣デタルニ因リ下馬ノ稱アリ今ニ地名トシテ存ス此ノ地點ハ鎌倉ノ要路ニ位セルヲ以テ屡々戦場ノ巷トナリシコト古書ニ見ユ尚ホ文永八年(皇紀一九三一)九月十二日日蓮聖人名越ノ小庵ヨリ龍口ノ刑場ニ送ラレタマフ途上鶴岡ニ向ヒ八幡大菩薩神トシテ法門ノタメ霊験ヲ顯ハシタマヘト大音...

  • 沼津の大泉寺(2)阿野全成の首掛け松

    この大泉寺には全成の首が一夜のうちに息子の時元のいた阿野の大泉寺まで飛んで来て、松の木の枝に掛かったという阿野全成の首掛け松の伝説が伝えられています。また、家臣が首を持ち帰ったが、警備が厳しく館の中に入れなかったため、入り口近くの松にかけたとも伝わっています。大泉寺の入口にあった松がその松だといわれていましたが、現在は枯れてしまい、その跡に石碑が建てられています。またその切り株は、お寺で保存されて...

  • 沼津の大泉寺(1)阿野全成の墓

    阿野全成の幼名は今若。7歳の時の平治元年(1159年)、平治の乱で父義朝が敗死したため幼くして京都の醍醐寺にて出家させられ、隆超(または隆起)と名乗り、ほどなく全成と改名。兄の源頼朝が挙兵すると、京を抜け出し、頼朝のもとへ駆けつけ、その時、頼朝は涙を流して喜んだといいます。その後、北条政子の妹・阿波局(後に実朝の乳母になる)と結婚し、頼朝のもとで着実な地位を築いていきました。頼朝の死後、嫡男の源頼家が...

  • 源氏山公園の源頼朝公銅像碑

    源氏山は源義家が後三年の役で奥州に向かう際、山頂に源氏の白旗を立てて戦勝祈願したところです。源頼朝もこれにならい、平家討伐の際、源氏山の山頂で戦勝を祈願したといいます。頼朝の鎌倉入り800年を記念して約2mの頼朝像が造られました。源氏山公園の中央には芝生が広がり、家族連れの憩いの場となっています。源頼朝公銅像碑この銅像は治承4年(1180年)10月源頼朝公が鎌倉入りして以来八百年目に当る年を記念し よ...

  • 安達氏の菩提寺・無量寿院跡に建つ鎌倉歴史文化交流館

    鎌倉歴史文化交流館が建つ谷は無量寺谷と呼ばれ、 近辺には 安達盛長の孫・安達義景ゆかりの菩提寺・無量寿院や甘縄の邸宅があったと考えられています。 敷地内の発掘調査では、鎌倉時代後期の池の跡や礎石が見つかり、 安達氏に関係する遺構の可能性が指摘されているそうです。この池の跡は、平成14年 (2002) の発掘調査により、現在の鎌倉歴史文化交流館別館の地下、 同建物の北西側の崖下近くから発見されました。発掘された時の...

  • 修善寺の旅(4)安達盛長の墓

    修禅寺の裏側に安達盛長の墓があります。盛長は、源頼朝が伊豆の流人であった頃から側近として仕えていた武将で、頼朝の死後、鎌倉二代将軍・源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になり幕政に参画しました。妻は頼朝の乳母・比丘禅尼の娘・丹後の局、娘・亀御前は、頼朝の異母弟・源範頼の妻。盛長の墓は、以前は修善寺の小山地区にある源範頼の墓のそばにありましたが、バイパス工事に伴い、桂谷トンネルそばの修善寺梅林登り...

  • 鎌倉の甘縄神明神社・安達盛長邸址

    天照大神を祭る長谷の鎮守で、鎌倉市最古の神社とされている甘縄神明神社は、和銅3年(710年)行基が草創し、豪族染谷時忠によって創建されたといわれています。源頼義が相模守として祈願した後、八幡太郎義家が生まれたと伝えられ、永保元年(1081年)に当社を再興しています。源頼朝、北条政子、実朝らもお参りしており、源氏と縁の深い神社です。境内には、北条時宗の産湯の井戸、頼朝の側近である安達盛長の屋敷跡を示す「安達...

  • 頼朝から厚遇された三浦義澄

    三浦義澄は、桓武平氏の流れを汲む三浦氏の一族で、三浦義明の次男。源義朝の家人として平治の乱(1159)に参加。治承4(1180)年の源頼朝が、石橋山の戦いで挙兵した際には悪天候のため参戦できず、引き返す途中で平家方の畠山重忠との間で衣笠城合戦となり、父・義明は討ち死。その後房総半島へ渡ってきた頼朝軍と合流し、のちに頼朝に帰服した重忠らと共に鎌倉入りしました。義澄は千葉常胤、上総広常、土肥実平らと共に頼朝の宿老...

  • 梶原景時が開山した犬山の興禅寺

    愛知県犬山市の興禅寺は、頼朝の家臣で鎌倉幕府の侍所の別当として権勢を誇った梶原景時が、1174年に菩提寺として建てた寺で、興禅寺の東側には羽黒城跡が残されています。羽黒城は、建仁2年(1201)梶原景親(景時の孫)によって築城された。景時は、頼朝に信望のあった御家人で侍所の別当として権勢を誇っていたが、頼朝が死ぬと、しばらくして滅ぼされた。 一部の遺族たちは、景時の孫・豊丸(のちの景親)をかこんで豊丸の乳母...

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