滋賀県野洲市喜合のさざなみ街道沿いにに紫式部の歌碑があるとのことで、守山市在住の友人が画像を送ってくれました。「おいつ島 しまもる神や いさむらん 浪もさわがぬ わらわべの浦」 沖の島は、古くから人の心をとらえていた島で、歌に詠まれたり、文学の中にその名をとどめている。 この歌は、紫式部が、沖の島の対岸であるあやめ新田童子が浦のこの地から、遠く沖の島を望んで詠んだものと言われている。 平成五年三月...
大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り
「青天を衝け」の放送が休止の間、「麒麟がくる」関連の記事を紹介していきます。福知山城主・朽木家の菩提寺である久昌寺は、文禄元年 (1592年)に創建されました。三度にわたり、諸堂を焼失しましたが、その後復興されました。本尊は釈迦牟尼佛。鎮守として、毘沙門天、祇園牛頭天王、小野小町の歌掛け薬師如来が、奉祀されています。山門また、中井権次一統正胤と中井清次良正実との合作とされる彫刻が見られます。ここは、下調...
上野公園内の西郷隆盛銅像の近くに清水観音堂があります。清水観音堂は、寛永8(1631)年に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643)によって建立されました。天海大僧正は寛永2(1625)年に、徳川秀忠から寄進された上野の山に、平安京と比叡山の関係にならって「東叡山寛永寺」を開き、比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立しましたが、清水観音堂は京都の清水寺(きよみずでら)を見立てたお...
上野東照宮ぼたん苑の続きです。牡丹の別名は、「富貴草」「富貴花」「百花王」「花王」「花神」「花中の王」「百花の王」「天香国色」 「名取草」「深見草」「二十日草(廿日草)」「忘れ草」「鎧草」「ぼうたん」「ぼうたんぐさ」など呼ばれ、日本には奈良時代に中国から薬用植物として伝えられたとされ、江戸時代以降、栽培が盛んになり、様々な品種が作り出されるようにました。中国文学では盛唐以後、詩歌に謳われるようにな...
2018年の春、上野東照宮ぼたん苑を見学してきました。上野東照宮ぼたん苑は、1980年(昭和55年)に日中友好を記念して開苑しました。現在は、中国牡丹、アメリカ品種、フランス品種を含め500株以上の牡丹が植えられています。受付窓口にはこんな演出も!例年は、4月中旬からは華鬘草(荷包牡丹)や石楠花、5月上旬からは芍薬も見頃を迎えるそうですが、この年は開花が早かったようで、私が行った日には既に見頃は過ぎていたように...
上野東照宮の正式名称は「東照宮」ですが、他の東照宮との区別のために鎮座地名をつけて上野東照宮と呼ばれ、徳川家康・徳川吉宗・徳川慶喜を祀っています。1616年(元和2年)2月4日、天海僧正と藤堂高虎は危篤の徳川家康の枕元に呼ばれ、三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しいと遺言。 天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった今の上野公園の土地を拝領し、東叡山寛永寺を開山。境内に多くの伽藍や子院が建立しました。1627...
東京上野の寛永寺の輪王殿の手前に、東京国立博物館敷地から移築した寛永寺旧本坊表門が建っています。この重要文化財の表門(黒門)は、平成22年11月から保存修理が行われ、江戸時代の姿に蘇りました。現在の上野公園の敷地には江戸時代、寛永寺の堂塔伽藍が、整然と配置され、表門は、寛永期に寛永寺本坊の表門として、東京国立博物館正門の位置に建てられました。慶応4年の戊辰戦争(上野戦争)では、本坊の他多くの伽藍がこと...
上野の寛永寺は、天台宗関東総本山の寺院であり、 西の比叡山に対し、東国の天台宗の拠点ということで東叡山と名付けられました。開基は江戸幕府3代将軍の徳川家光、開山は天海、本尊は薬師如来。徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠っています。1868年(慶応4)戊辰戦争の際、彰義隊の本拠となり、建造物の大半を焼失、現在は清水観音堂、旧本坊表門、五重塔、常憲院霊廟の勅額門、水盤舎な...
上野恩賜公園の奥へと進んで行きます。花園稲荷神社承応三年(約340年程前)、天海大僧正の弟子の晃海僧正が、廃絶していたお社を再建し上野の山の守護神としました。幕末、彰義隊の戦では最後の激戦地(穴稲荷門の戦)として知られています。この神社の創建年代については不詳であるが、五條天神社が移転してくる以前からこの地にあった神社である。一説に空海が東寺の門前に建てた稲荷山を太田道灌が勧請したとも、天海が勧請し...
今年の春、上野の寛永寺から上野恩賜公園を散策してきました。上野の山は、江戸時代から「桜の名所」として知られ、桜の季節には、花見客で賑わうところです。その歴史がこの駒札に記されています。下町まちしるべ旧 上野恩賜公園 江戸時代初期、この地は津軽、藤堂、堀家の屋敷であったが徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。寛永二年(1625)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが慶応四年(186...
血洗島の中の家の敷地には、尾高惇忠の弟で、栄一の養子となった渋沢平九郎の追懐碑があります。渋沢栄一によって、東京谷中の霊園に建立されたものでしたが、墓地縮小のため、深谷市に寄贈され、中の家に移設されました。渋沢平九郎追懐碑飯能戦争で若くして亡くなった平九郎の死を惜しんで、義父である栄一によって書かれました。平九郎は、弘化4年(1847)、武蔵国榛沢郡下手計村(現・埼玉県深谷市)の尾高家に生まれました。慶...
東京都荒川区南千住の百観音円通寺は、寺伝によれば、延暦10年(791年)、坂上田村麻呂によって開かれたと伝えられています。巨大な観音像明治維新の折、慶応4年(1868年)の戊辰戦争(上野戦争)で亡くなった彰義隊の隊員を現在上野公園の西郷隆盛像があるあたりで、当寺の住職が火葬を行いました。そのため、当寺には火葬を行った場所の近くにあった上野寛永寺の総門(黒門)が移築され、彰義隊士の墓もあります。黒門慶応4年(1868年...
渋沢喜作は、慶応4年(1868年)、戊辰戦争が起こると、鳥羽・伏見の戦いに参戦した。江戸帰還後、将軍警護を主張し、自分と志を同じくする幕臣らを集め、彰義隊を結成し、頭取に就任する。3月、結城藩の青山隼太らに依頼され、同藩の内紛仲裁のため、織田主膳を隊長とした一隊を結城に派遣した(のちの結城戦争に発展する)。4月、徳川慶喜が謹慎場所を江戸から水戸へ移すと、上野からの撤退を主張するが、武闘派の副頭取・天野八...
江戸城総攻撃を目前にして,慶応4 (1868) 年3月13,14日,薩摩藩邸で勝と西郷の会見となり、徳川慶喜の助命と江戸無血開城を交換条件として協定が成立し,官軍の総攻撃は中止となりました。4月4日、東海道先鋒総督橋本実梁,副総督柳原前光が勅使として江戸城に入城し、天璋院篤姫と静寛院宮和宮は、島津家や朝廷に嘆願して徳川の救済と慶喜の助命に尽力し、9日には静寛院宮が清水邸に、10日には天璋院が一橋邸に退去。4月11日に正...
標高26メートル愛宕山は、当時江戸で一番見晴らしの良い場所だったそうです。ともに愛宕山にに登った二人は、江戸の町並みを見て、その美しさに感動し、勝が「この町を失いたくない」と西郷を説得したという説もあります。東京都港区の愛宕神社は、1603年、慶長8年、江戸に幕府を設く徳川家康の命により江戸の防火の神様として祀られました。慶長15年、庚戊本社をはじめ、末社仁王門、坂下総門、別当所等将軍家の寄進により、建立...
西郷隆盛と勝海舟の会見の地については諸説あるそうです。江戸城攻撃のために東征した官軍が本陣を構えた東京都大田区池上にある池上本門寺に、勝海舟が赴いて、西郷隆盛と会見したという説もあります。仁王門旧国宝の山門は、1945年(昭和20年)空襲で焼失。仁王門として1977年(昭和52年)に再建され、、アントニオ猪木をモデルにした仁王像が安置されましたが、近年の修理の際に本殿内に移設。新たな仁王像が2001年(平成13年)...
西郷隆盛と勝海舟の会談は2回にわたって行われ、一回目は3月13日は高輪の薩摩藩邸で、二回目は14日の田町の薩摩蔵屋敷で行われたといいます。そのひとつである田町の薩摩蔵屋敷の跡を訪ねました。JR田町駅近くの第一田町ビルの前に西郷南洲勝海舟會見之地の碑があります。この書は、西郷どんのお孫さんの吉之助さんによるものだそうです。田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)附近沿革案内 この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14...
寛永寺で謹慎中の徳川慶喜を護衛していた高橋泥舟の義弟で、精鋭隊頭の山岡鉄太郎(鉄舟)が、慶応4年(1868年)3月9日勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、官軍の駐留する駿府(現静岡市葵区)に赴くことになりました。山岡は西郷を知らなかったこともあり、まず陸軍総裁・勝海舟の邸を訪問。勝は西郷への書状を認め、薩摩藩焼き討ち事件の際に捕らわれた後、勝家に保護されていた薩摩藩士・益満休之助を護衛につけて送り出しました...
水戸の弘道館は、天保12(1841)年に開設された水戸藩の藩校跡です。徳川慶喜向学の地徳川慶喜は、一橋家を継ぐために、11歳で江戸に出るまで、弘道館で、儒学や歴史を学びました。将軍辞任後は、ここで謹慎しており、当時生活ぎた部屋も残されています。正門江戸時代から現存する本瓦葺の四脚門。瓦には、徳川家の家紋である三つ葉葵があしらわれています。藩主の来館時など、特別な行事の際のみ開門していました。通用門通用門は、...
鳥羽・伏見の戦に敗れ大坂を脱出した徳川慶喜は、海路江戸に帰り、恭順の態度を示し上野の寛永寺の大慈院において謹慎することになりました。寛永寺は、寛永2(1625)年に、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に、慈眼大師(じげんだいし)天海大僧正によって建立されました。後には第4代将軍・德川家綱の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになりましたが、幕末の上野戦...
慶応4年(1868)1月3日鳥羽・伏見の戦いが勃発。戊辰戦争の始まりです。5日、錦旗が新政府軍に掲げられ、会津藩は、朝敵へと転落しました。幕府軍は、官軍に惨敗。徳川慶喜は、密かに大阪城を抜け出して、幕府軍艦「開陽丸」で、板倉勝静・会津松平容保・松平定敬などを連れて、江戸へと帰還しました。慶喜が開陽丸から下船したのが、浜離宮恩賜庭園の将軍お上り場で、ここで勝海舟に迎えられたといいます。慶喜は、浜離宮から馬で江...
金戒光明寺は、京都市左京区黒谷町にある浄土宗の寺院で、通称くろ谷さん(くろだにさん)と呼ばれています。法然上人が初めて念仏道場を開いた地であり、新選組ゆかりの地としても知られています。徳川初期、知恩院とともに城郭構造に改められました。黒谷に大軍が一度に入ってこられないように南には小門しかなく、西側には高麗門が建てられました。小高い岡になっている黒谷は、自然の要塞になっており、特に西からやってくる敵...
京都市 伏見区の城南宮は、平安遷都にあたり、王城の南に守護神として創建されたといいます。応徳三年(1086年)に白河上皇が当地に鳥羽殿を造営した時、鎮守社として崇めたと伝えられ、代々の天皇、上皇が行幸しました。古くより方除けの神として信仰を集めていますが、現在は交通安全の神としても有名です。応仁の乱などで荒廃しましたが、江戸時代に復興。幕末には、鳥羽伏見の戦いの戦場になりました。文久3年(1863年)には、孝...
近鉄京都線桃山御陵前駅から大手筋を進んで行くと、御香宮神社の大鳥居があります。1868年(慶応4年)1月、薩摩・長州を中心とする新政府軍と、幕府軍が伏見で対決、鳥羽伏見の戦いが勃発しました。御香宮神社には、官軍の薩摩軍が陣取り、伏見奉行所の新選組や会津藩兵との間では、激しい戦闘が繰り広げられました。本殿などの焼失は免れましたが、伏見奉行所は焼け落ち、街中の多くの家屋が戦火に巻き込まれました。表門は、元和...
徳川昭武一行は、三か月の諸国訪問を終え、パリへと戻りました。昭武は、パリで学業に励むこととなり、ナポレオン三世が指名した陸軍中佐のヴィレットが昭武の教師としてやって来ました。ヴィレットは、昭武に髷を落とし、刀を外して洋装になることを要求しました。ここでも、渋沢栄一は、異文化への好奇心旺盛な態度、順応性を見せました。誰よりも早く髷を切り、洋服を注文。昭武もそれに倣い、断髪して、洋服をあつらえました。...
プレイバック「麒麟がくる」 福知山の旅(8)明智光秀を祀る御霊神社
「青天を衝け」の放送が、五輪で休止の間、「麒麟がくる」関連の記事を紹介していきます。御霊神社の創祀は1705年(宝永2年)。元々は宇賀御霊大神を祀る稲荷社と明智光秀を祀る菱屋町の常照寺と分かれていました。光秀の死後、福知山では天災が相次ぎ、領民たちは、冤罪で非業の死を遂げた光秀の祟りではないかと恐れを抱くようになり、光秀を公に祀ることを願い出ました。そこで、福知山城主・朽木氏が、当地を「福智山」と命名...
プレイバック「麒麟がくる」 福知山の旅(7)光秀の祠があった常照寺
「青天を衝け」の放送が、五輪で休止の間、「麒麟がくる」関連の記事を紹介していきます。今回は、福知山の旅の続きです。常照寺は、福知山市菱屋町にある日蓮宗の寺院。山号は宝珠山。延慶3年(1310年)大善阿闍梨日範(朗門の九鳳の一人)が創建。万治2年(1659年)唯心院日量(21世)が福知山城主・松平忠房に請願して現在地に移転、延宝6年(1678年)までに現在の伽藍を復興しました。日露戦争ではロシア軍捕虜の収容所の一つ...
プレイバック「麒麟がくる」 織田信長・信忠を祀る建勲神社(3)
「青天を衝け」の放送が、五輪で休止の間、「麒麟がくる」関連の記事を紹介していきます。手水舎桁行1間梁間1間、東西棟の切妻造檜皮葺、化粧屋根裏天井で、中央に石製水盤を置かれています。拝殿本殿の東方に位置する吹放ちの入母屋造妻入檜皮葺の拝殿。内側に織田信長公三十六功臣のうち十八功臣の額を飾っています。織田信長公は戦火の巷と化した応仁の大乱に終止符を打ち、民衆を疲弊絶望から救い、伝統文化に躍動の美を与え...
プレイバック「麒麟がくる」 織田信長・信忠を祀る建勲神社(2)
「青天を衝け」の放送が、五輪で休止の間、「麒麟がくる」関連の記事を紹介していきます。船岡妙見社手水舎の南西方に位置する船岡妙見社は、船岡山の地の神・玄武大神を祭っています。今より千二百年昔、平安建都に際し、船岡山は大地の生気のほとばしり出る玄武の小山と卜され、ここを北の起点として平安京が造営されました。船岡妙見は、船岡山の地の神として、諸厄消除・万病平癒・家宅守護の御神徳が讃えられています。「大平...
プレイバック「麒麟がくる」 織田信長・信忠を祀る建勲神社(1)
「青天を衝け」の放送が、五輪で休止の間、「麒麟がくる」関連の記事を紹介していきます。建勲神社は、京都市北区の船岡山の中腹にある神社で、織田信長を主祭神とし、息子の織田信忠を配祀しています。正式名称は「たけいさおじんじゃ」通称「けんくんじんじゃ」と呼ばれています。天下を統一した織田信長の偉勲を称え、明治2年明治天皇が創建し、1910年(明治43)船岡山の山腹にあった社を山頂に遷祀しました。船岡山は平安京造...
「青天を衝け」の放送が、五輪で休止の間、「麒麟がくる」の記事で、アップしていなかったものを紹介していきます。京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山である妙心寺。妙心寺の境内に、明智光秀ゆかりの浴室があります。この浴室(重文)は、明智光秀の叔父にあたる塔頭・大嶺院の密宗(みっそう)和尚が、光秀の菩提を弔うために建立されたといわれ、通称「明智風呂」と呼ばれています。現在の建物は明暦2年(1656)に再建...
「青天を衝け」の放送が、五輪で休止の間、「麒麟がくる」関連の記事で、アップしていなかったものを紹介していきます。京都府長岡京市の勝龍寺城の北東に鎮座する神足神社(こうたりじんじゃ)の敷地内に、空堀や土塁が遺構として残っています。神足神社(こうたりじんじゃ) 旧神足村の産土神(うぶすなかみ)。式内社で「延喜式」にのる乙訓(おとくに)十九座の一つで「神足神社(こうたにのじんじゃ)」とみえる。また、文徳...
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滋賀県野洲市喜合のさざなみ街道沿いにに紫式部の歌碑があるとのことで、守山市在住の友人が画像を送ってくれました。「おいつ島 しまもる神や いさむらん 浪もさわがぬ わらわべの浦」 沖の島は、古くから人の心をとらえていた島で、歌に詠まれたり、文学の中にその名をとどめている。 この歌は、紫式部が、沖の島の対岸であるあやめ新田童子が浦のこの地から、遠く沖の島を望んで詠んだものと言われている。 平成五年三月...
多宝塔からさらに上に上がっていくと、見晴らしの良い所に出ます。「近江八景 石山の秋月」で描かれており、瀬田川の光景を眼下に望むことができます。月見亭保元年間、後白河上皇の行幸のために建てられたといわれています。光堂平成20年(2008年)石山を発祥の地とする東レ(株)によって寄進されました。本堂と同様懸造りになっています。光堂の周りでは、早咲きの桜に出会えました。紫式部の像源氏苑の一角にあります。紫式部は、...
三十八所権現社本堂のすぐ東側にある鎮守社で、現存する文献などから慶長7年(1602年)に淀殿により再建されたものと考えられています。祭神は、神武天皇から天智天皇までの38代の歴代天皇。経蔵石山寺一切経や校倉聖教などの文化財を収容してきた校倉造の建物。屋根は瓦葺で、校倉造では珍しい切妻造となっています。紫式部供養塔石山寺で『源氏物語』を起筆した紫式部の供養塔。鎌倉時代に作られた石造の宝篋印塔で、その傘が三...
石山寺の本堂へと続く階段を上っていきます。本堂正堂と礼堂が幅一間の相の間で繋がれていて、礼堂は急な斜面に造られているため、懸崖造になっています。懸崖造で有名なのは、京都の清水寺の本堂ですね。正堂は、承暦2年(1078年)に半焼した後、永長元年(1096年)に再建され、礼堂は、慶長7年(1602年)淀殿の寄進によって建てられました。本堂にある「源氏の間」は、紫式部が『源氏物語』の構想を練り、書き始めた場所と伝えられてい...
平安時代の人々は、霊験あらたかな石山寺の観音様に会いに行くのが大きな楽しみでした。藤原道綱母もその一人で、『蜻蛉日記』には朝早く都を出て、逢坂(おうさか)の関を越えて近江に入り、打出浜から舟で琵琶湖から瀬田川へ進み、夕方頃に石山寺に入ったと記されています。まさに一日がかりの石山詣だったようです。逢坂の関打出浜大河ドラマ館を出て、境内を散策していきます。明王院の前には、比良明神影向石があります。ここ...
石山寺では、「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」と「源氏物語 恋するもののあはれ展」の2つの展示を見学できます。明王院では、「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」を開催中。ドラマに登場する衣装や小道具、撮影の裏側を知ることができるパネルなどを展示。まひろとききょうのフォトスポット「光る君へ」の台本 まひろが書き写した後撰和歌集キャスト・スタッフのインタビューなどの映像を4Kシアターで上映。世尊院では、...
京阪石山寺駅から瀬田川沿いを歩くこと10分。石山寺の東大門に着く直前に「朗澄大徳ゆかりの庭園」があります。朗澄律師大徳は「石山寺中興の祖」と言われた名僧で、自分の死後は鬼となって石山寺の経典と聖教を守ると誓い、弟子の前に金色の鬼となって現れました。石に刻まれた鬼は、石山寺縁起絵巻に描かれた死後の朗澄律師の姿なのだそう。この庭園を過ぎるとすぐに石山寺東大門があります。東大門仁王門、山門、総門とよばれる...
京阪石山駅から石山寺駅に向かう際、京阪電車の「光る君へ」ラッピング列車に乗車出来ました!側面に紫式部(まひろ)役の吉高由里子さんの姿が見られます。現在のまひろとは衣装もメイクも変わり、よりお美しいですね。つり革も紫電車内も「光る君へ」仕様となっていました。石山寺駅に着くと、駅自体も紫式部ワールドになっています。駅前には、源氏物語のレリーフがあります。ここから石山寺に向かって歩いて行きます。郵便局のポ...
楼門寛永5年(1628年)の建立。玉橋楼門と玉橋片岡橋片山御子神社は、上賀茂神社の境内にある24社ある摂末社の中で第1摂社に定められる神社(通称「片岡社」)で、賀茂別雷大神の母である「玉依比売命(たまよりひめのみこと)」をお祀りしている神社です。 縁結びの社として女性に人気があります。屋根には二葉葵のご心紋が見えます。紫式部も参拝したと伝わり、片岡社について「ほととぎす 声まつほどは 片岡の もりのしづくに ...
上賀茂神社の二ノ鳥居を潜ります。二ノ鳥居 上賀茂神社と謡曲「賀茂」 秦氏の妻女の玉依日売が、当地の御手洗川で水を汲んでいると、白羽の矢が流れてきた。持ち帰り、軒に挿しておいたところ、解任して男子を産んだ。その子が三歳の時、父は雷と知り、天に昇って別雷の神となる。この神を祀ったのが当神社で、正式名を賀茂別雷神社という。 神社は京都でも最も古い神社の一つ。雷神を祀ることから、厄除けのほか、五穀豊穣の...
京都市北区上賀茂本山にある上賀茂神社の正式名称は「賀茂別雷神社」といいます。今年も桜の季節にお参りしてきました。創建については諸説あり、社伝では、神武天皇の御代に神山(こうやま)の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝えています。弘仁元年以降、斎院が400年にわたって置かれ、皇女が斎王として賀茂社に奉仕しました。『源氏物語』第9帖「葵」では、女三の宮が新たな斎院となり、第20帖「朝顔」では、朝顔の姫が父...
藤原道綱母の書いた『蜻蛉日記』には、夫である藤原兼家との結婚生活や、兼家のもうひとりの妻である時姫(藤原道長の母)との競争、夫に次々とできる妻妾について書き、また唐崎祓・石山詣・長谷詣などの旅先での出来事、上流貴族との交際、さらに母の死による孤独、息子藤原道綱の成長や結婚、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取った養女の結婚話とその破談についてのの記事がある。藤原道綱母の没年より約20年前、39歳の大晦...
京都市東山区にある大将軍神社は、素盞嗚尊を主神とし、相殿に関白藤原兼家を祀る神社です。この辺りに、藤原兼家の東三条殿はこの周辺にあったといわれています。藤原兼家平安中期の公卿。右大臣師輔の三男。母は武蔵守藤原経邦の女盛子。968年(安和1)兄兼通を越えて従三位に昇り,翌年蔵人頭を兼ねたまま中納言に進んだ。左大臣源高明が失脚した安和の変が起きたのはその1ヵ月後で,兼家もこれに重要な役割を果たしたものと思...
皇室との関係が深いことから御寺と呼ばれる泉涌寺。創建については、伝承によれば、斉衡3年(856年)、藤原式家の流れをくむ左大臣藤原緒嗣が、自らの山荘に神修上人を開山として草創したという説、空海が天長年間(824年-834年)、この地に草創した法輪寺が起源であり、斉衡2年(855年)藤原緒嗣によって再興され、仙遊寺と改めたとするものという説などがあり、伝承を総合すると、平安時代初期に草創された前身寺院が平安時代後...
新京極にある誓願寺は、清少納言、和泉式部、松の丸殿が帰依したことにより、女人往生の寺として名高いお寺です。飛鳥時代、天智天皇 6年(667)、天皇の勅願により奈良に創建されました。鎌倉時代に奈良から一条小川(現在の上京区元誓願寺通小川西入る)に移転し、天正19年(1591)、秀吉の命により現在の地に移転し、慶長2年(1597)、秀吉の側室・松の丸殿(京極竜子)の援助によって伽藍の再興が完了しました。清少納言も和泉...
花街の面影を残す島原を歩いてみました。島原大門は、江戸時代に幕府公認の花街としして栄えた島原の正門です。坂本龍馬、西郷隆盛、桂小五郎、新選組も遊んだと伝わる揚屋(料亭)の角屋(すみや)一階の台所や網代の間、松の間、美術品を展示する展示館が角屋もてなしの文化美術館として公開されています。遊宴だけでなく、お茶会、句会の場所としても使われ、文化サロン的な役割を果たしていたそうです。島原は、我国最初の廓で...
今年も京都の桜を見に出かけて来ました。早咲きの枝垂れ桜を求めて、京都御苑を訪ねました。京都御苑の北西、旧近衛邸の跡地にある近衛邸跡の枝垂桜が見頃を迎えていました。近衛邸跡の枝垂桜は糸桜と呼ばれています。近衛家は、藤原北家嫡流であり、公家の五摂家筆頭で、華族の公爵家のひとつ。藤原氏北家の嫡流,五摂家の一つ。家号は始祖基実の殿第に由来するが,また近衛大路に面する宮門号にちなんで陽明ともいう。平安時代初...
奈良市春日野町に鎮座する春日大社の起源は、平城京に遷都された和銅3年(710年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まるとする説、768年(神護景雲2)左大臣藤原永手が、氏社として春日山の主峰御蓋(みかさ)山の山麓に創建したのが始まりとする説があるようです。藤原氏と共に当社も隆盛し、平安時代初期には官祭が行われるようになりました。...
御嶽詣(みたけもうで)とは、吉野郡金峰山(きんぶせん)に参拝すること。藤原宣孝は、正暦元年(990年)3月頃に御嶽詣を行いますが、『枕草子』によると「御嶽は『質素な服装で詣でよ』などと仰らないだろう」といって長男の隆光とともに派手な衣装で参詣したことが書かれています。帰京後の同年8月に筑前守に任ぜられたことから、「あのとき言った通りであった」と噂されたといいます。吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、...
烏丸松原上る東入因幡堂町にある平等寺は、因幡薬師の名で親しまれています。観音堂(本尊・十一面観音)は洛陽三十三所観音霊場第27番札所。《因幡堂縁起絵巻》によると,因幡の国司橘行平が海中から薬師像を感得し,帰洛後の1003年(長保5)邸内に安置したことに始まると伝わっています。重要文化財の本尊薬師如来は善光寺の阿弥陀如来、清涼寺の釈迦如来とともに三国伝来の日本三如来とされています。狂言《因幡堂》の舞台でも...
続いて血原塚へ 姉川古戦場 お市の方との結婚で結ばれた浅井長政と織田信長の仲は、越前の朝倉氏の反乱によって破れた。朝倉氏との盟約を重んじ同氏についた長政に湖西で挟撃された信長は岐阜へ戻るや戦備を整え、元亀元年(1570年)6月3万の兵を率いて竜ヶ鼻に陣し横山城を包囲した。徳川家康は、この時、5千騎を率いてこれを援軍している。 一方、浅井、朝倉合わせて一万八千は姉川北岸に陣し、戦機は熟していった。 ついに2...
兵士の血で真っ赤に染まった血川も姉川沿いに流れていましたが、平成以降の造成改修工事で無くなりました。最も激戦地であったという姉川にかかる旧「野村橋」が老朽化し、車両の通行が禁止されています。(歩行者や自転車、バイクは通行可)年月が過ぎるにつれ、合戦場の様子も徐々に様変わりしていますが、合戦場付近の「血原」や「血川」という地名は往時の激戦振りを窺わせています。この場所は、元亀元年(1570)6月28日に起き...
さらに自転車を走らせると、「姉川の合戦場」の碑が見えてきました。姉川の野村橋付近一帯は、壮絶な戦い浅井・織田軍の激戦が繰り広げられた所です。 姉川古戦場 元亀元年(1570)6月28日、浅井長政・朝倉景健の連合軍と、織田信長・徳川家康の連合軍が、長浜市を流れる姉川の両岸に布陣し合戦を展開しました。 旧陸軍参謀本部編纂(へんさん)の「日本戦史」によれば、浅井軍八千人・朝倉軍一万人で、対する織田軍二万三千...
続いて向かったのが、姉川の合戦の時に徳川家康が陣を敷いた岡山(勝山)です。上坂神社の前に案内板があります。 徳川家康と岡山(勝山、東上坂町) この背後の山は、元来「岡山」といいましたが、姉川合戦の時に徳川家康が陣を敷き、戦いに勝ったことに因んで「勝山」と呼ばれるようになったとされます。徳川家康軍は激戦の末に朝倉軍を敗走させ、それにより劣勢の織田軍も盛り返し、勝利を得たと伝えられています。 江戸時代...
次に向かったのは、龍ヶ鼻砦から移した織田信長の本陣跡の陣杭の柳(じんごのやなぎ)です。 織田信長と陣杭の柳(東上坂町) 姉川合戦における織田信長の本陣跡と言われる場所です。合戦当日の朝、信長はこの東方の龍ヶ鼻砦にいましたが、姉川北岸への浅井・朝倉軍の展開を知って、この場所に本陣を構えたとされます。ここに立つ柳は、信長が陣太鼓をかけて指揮をしたという伝承があり、「陣杭」本来「陣鼓」と書かれたとも言...
龍ヶ鼻陣所からほど近い田んぼの真ん中に、遠藤直経の墓があります。ここは、姉川の合戦の際、浅井長政の重臣である遠藤直経が討ち死にした場所と伝えられています。自軍の敗色が濃くなると、直経は味方の武将三田村左衛門の首級を携え敵軍に偽装、織田信長の陣中に忍び込み、暗殺を謀りましたが、本陣の信長まで手前数十メートルのところで竹中半兵衛(重治)の弟・竹中久作(重矩)に見破られ、捕らえられて斬首されたといいます。永...
先月、滋賀県在住の友人の案内で、姉川の合戦の史跡を自転車でまわってきました。長浜駅前でレンタサイクルを借り、県道37号線を7.6kmをひたすら走り、東上坂町にある茶臼山古墳(龍ヶ鼻砦)を目指しました。姉川合戦前の横山城攻めの際、織田信長・徳川家康が陣としてこの古墳を利用し、龍ヶ鼻砦とも呼ばれます。合戦が始まると陣を取り払い、それぞれ別のところへ陣を構えました。この古墳のある丘には柵があって中には入れません...
越前の朝倉義景討伐の軍を率いた織田信長が、敦賀に入って朝倉氏一族が守る金ケ崎城を落とし、越前に攻め入ろうとした時、近江の浅井長政が離反して、織田軍の背後を襲い、一転、挟撃を受ける危機に見舞われました。そこで信長は、木下藤吉郎(豊臣秀吉)らに殿(しんがり)を任せ、朽木(くつき)を経由して京に退却(金ヶ崎の退き口)6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙京都に帰還し...
永禄11年(1568年)9月、織田信長は、足利義昭を奉じて上洛し、義昭を室町幕府の第15代将軍に擁立しましたが、信長は自らの天下統一を目指し、義昭は上杉謙信や毛利元就らにも上洛を促して幕府の再興を目指すという、両者の目指す方向にはずれがあり、次第に両者の関係は冷めていきました。永禄12年(1569年)1月14日、信長は義昭の将軍権力を制限するため、殿中御掟9か条、のちに追加7ヶ条をを義昭に突きつけ、承認させました。一...
菅生神社は、岡崎最古の神社で、日本武尊命により(西暦110年)創建されました。御祭神は、天照皇大神・豊受姫命・須佐之男命・徳川家康・菅原道真。松平家・徳川家康ゆかりの神社で、家康が25歳の時、厄除開運祈願をされ、社殿・寄進田など厚く崇敬されていました。その後、江戸幕末まで、岡崎城主代々の祈願所として城主より社殿・鳥居など寄進を受け、岡崎城内鎮守の守護神とされていました。菅生東照宮 開運稲荷大明神岡崎市...
岡崎の松應寺は、徳川家康が父・松平広忠の菩提を弔うため創建したお寺です。松應寺の境内は、昭和の時代まで花街として栄えていましたが、近年はほとんどが空き家となっていました。そんな中、かつての賑わいを取り戻そうと松應寺横丁街づくり協議会が発足し活性化を開始し、いろんなお店ができてきたそうです。松應寺横丁を通って松應寺の境内へと進んでいきます。天文18年(1549)3月、岡崎城主・松平広忠は、城中で家臣の岩松...
岡崎の善立寺は、1467年(応仁元年)に日護が安城に創建したのが始まりとされています。安祥城主であった松平親忠が深く信仰を寄せており、1497年(明応6年)、安祥城主松平親忠より田地3反が寄進されました。その後、親忠の曾孫である松平清康が岡崎城に入ると、1532年(天文元年)に本寺も岡崎へ移転しました。1543年(天文12年)に松平広忠より寺内と田2反を安城の替地として寄進されています。1590年(天正18年)、徳川家康が...
岡崎の籠田公園と桜城橋を結ぶ全長約320mの”みちひろば”中央緑道に設置された徳川四天王の像より、続いては、榊原康政と井伊直政の銅像です。榊原康政像榊原康正といえば、小牧・長久手の戦でのエピソードが知られていますね。小牧・長久手の戦で、徳川軍へ攻め入ろうとする秀吉対し、康政は秀吉非難の檄文を秀吉陣営の諸将に送りつけました。怒った秀吉は「康政の首を取った者に望みのまま褒賞を与えよう」と触れを出したといわ...
岡崎の籠田公園と桜城橋を結ぶ全長約320mの”みちひろば”中央緑道に、徳川四天王の像が設置されています。酒井忠次像徳川家康の覇業に功績のあった重臣。本多(ほんだ)、井伊(いい)、榊原(さかきばら)とともに徳川四天王の一人。徳川氏と同祖だという名門左衛門尉(さえもんのじょう)酒井氏の嫡流に生まれる。家康より15歳年長の忠次は早くから家康に仕え、家康の駿府(すんぷ)人質時代にも供奉(ぐぶ)して奏者役(そうじゃやく)などを...
「どうする家康」の登場人物の衣装や小道具が展示されています。突如現れ、茶を差し出した僧。徐々にその男が信玄だと気付く家康(^0^;)服部半蔵役の山田孝之さんのパネル徳川家康の衣装瀬名の衣装武田信玄役の阿部寛さんの衣装信玄のパネル家康&瀬名のパネル「どうする家康」の映像世界を楽しむことができるデジタル体験4Kシアターでは、出演者インタビューやメイキング映像、浜松でしか見られないオリジナル映像が流れていました...
浜松城の桜が開花し始め、賑わいを増した日に浜松大河ドラマ館へ出かけてきました。エントランスでは、松本潤さんの大判ビジュアルやwelcomeメッセージでお出迎え。「どうする家康」の番組概要ドラマに登場する浜松城城門を再現されています。体感!「どうする家康」の世界では、登場人物のご紹介や衣装・小道具のほか、実際の撮影で使用されたセットを展示されています。出演者の紹介パネルこちらは、椿姫ことお田鶴の方を演じた...
小谷城登城の代わりに、小谷城戦国歴史資料館を見学することにしました。小谷城戦国歴史資料館は、史跡小谷城跡内にある「戦国大名浅井氏と小谷城」をテーマに資料館です。浅井長政やお市の方、織田信長の画像(複製)や小谷城跡絵図、小谷城から出土した遺物など浅井氏と小谷城の資料が展示されています。小谷城の模型館内の資料を見たり、資料館の方の説明を聞いているうちに、小谷城に登った気分になれました(^_^;にほんブログ...
浅井長政、お市の方、浅井三姉妹(茶々、初、江)の悲劇の舞台として語られる小谷城は、長浜市の小谷山(495.1m)にあり、浅井家が3代にわたって居城としていました。堅固な山城として知られ、日本五大山城のひとつとして数えられています。小谷城址の石碑浅井長政は織田信長の妹・お市の方を妻に迎えて織田氏と同盟して全盛を築きましたが、信長と越前国の朝倉義景の対立が深まると、朝倉氏に与したことから、織田勢との武力対立...
4月2日の放送から、浅井長政が登場するらしいので、それに合わせて、浅井長政と家族の像をアップします。長浜市浅井支所の向かいに「家族(長政とお市)」の像があります。浅井長政と妻のお市の方、そして彼らの子どもたちの浅井三姉妹(茶々、初、江)と嫡男の万福丸お市の方が指差している方向は、以前は小谷山だったそうですが、来場者に背を向けることを避けるため、今は琵琶湖の方を向いているそうです。家族(長政とお市)町名...
現在、京都の二条城といえば、慶長8年(1603)に徳川家康が上洛の際の宿舎として造営したもので、織田信長が将軍・足利義昭のために建てた旧二条城は、現在の平安女学院周辺にありました。平安女学院大学と平安女学院中・高等学校の間の通りを行くと、平安女学院の前に石碑が建っています。 旧二条城永禄12年(1569年)に織田信長が、第15代将軍・足利義昭の将軍座所(居城)として、この石碑を中心に、約390メートル...