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大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り

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2013/09/04

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  • プレイバック「麒麟がくる」 福知山の旅(9)久昌寺

    「青天を衝け」の放送が休止の間、「麒麟がくる」関連の記事を紹介していきます。福知山城主・朽木家の菩提寺である久昌寺は、文禄元年 (1592年)に創建されました。三度にわたり、諸堂を焼失しましたが、その後復興されました。本尊は釈迦牟尼佛。鎮守として、毘沙門天、祇園牛頭天王、小野小町の歌掛け薬師如来が、奉祀されています。山門また、中井権次一統正胤と中井清次良正実との合作とされる彫刻が見られます。ここは、下調...

  • 寛永寺(6)清水観音堂

    上野公園内の西郷隆盛銅像の近くに清水観音堂があります。清水観音堂は、寛永8(1631)年に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643)によって建立されました。天海大僧正は寛永2(1625)年に、徳川秀忠から寄進された上野の山に、平安京と比叡山の関係にならって「東叡山寛永寺」を開き、比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立しましたが、清水観音堂は京都の清水寺(きよみずでら)を見立てたお...

  • 寛永寺(5)上野東照宮「ぼたん苑」その弐

    上野東照宮ぼたん苑の続きです。牡丹の別名は、「富貴草」「富貴花」「百花王」「花王」「花神」「花中の王」「百花の王」「天香国色」 「名取草」「深見草」「二十日草(廿日草)」「忘れ草」「鎧草」「ぼうたん」「ぼうたんぐさ」など呼ばれ、日本には奈良時代に中国から薬用植物として伝えられたとされ、江戸時代以降、栽培が盛んになり、様々な品種が作り出されるようにました。中国文学では盛唐以後、詩歌に謳われるようにな...

  • 寛永寺(4)上野東照宮「ぼたん苑」その壱

    2018年の春、上野東照宮ぼたん苑を見学してきました。上野東照宮ぼたん苑は、1980年(昭和55年)に日中友好を記念して開苑しました。現在は、中国牡丹、アメリカ品種、フランス品種を含め500株以上の牡丹が植えられています。受付窓口にはこんな演出も!例年は、4月中旬からは華鬘草(荷包牡丹)や石楠花、5月上旬からは芍薬も見頃を迎えるそうですが、この年は開花が早かったようで、私が行った日には既に見頃は過ぎていたように...

  • 寛永寺(3)徳川家康・吉宗・慶喜を祀る上野東照宮

    上野東照宮の正式名称は「東照宮」ですが、他の東照宮との区別のために鎮座地名をつけて上野東照宮と呼ばれ、徳川家康・徳川吉宗・徳川慶喜を祀っています。1616年(元和2年)2月4日、天海僧正と藤堂高虎は危篤の徳川家康の枕元に呼ばれ、三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しいと遺言。 天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった今の上野公園の土地を拝領し、東叡山寛永寺を開山。境内に多くの伽藍や子院が建立しました。1627...

  • 寛永寺(2)旧本坊表門(輪王殿)

    東京上野の寛永寺の輪王殿の手前に、東京国立博物館敷地から移築した寛永寺旧本坊表門が建っています。この重要文化財の表門(黒門)は、平成22年11月から保存修理が行われ、江戸時代の姿に蘇りました。現在の上野公園の敷地には江戸時代、寛永寺の堂塔伽藍が、整然と配置され、表門は、寛永期に寛永寺本坊の表門として、東京国立博物館正門の位置に建てられました。慶応4年の戊辰戦争(上野戦争)では、本坊の他多くの伽藍がこと...

  • 寛永寺(1)根本中堂

    上野の寛永寺は、天台宗関東総本山の寺院であり、 西の比叡山に対し、東国の天台宗の拠点ということで東叡山と名付けられました。開基は江戸幕府3代将軍の徳川家光、開山は天海、本尊は薬師如来。徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠っています。1868年(慶応4)戊辰戦争の際、彰義隊の本拠となり、建造物の大半を焼失、現在は清水観音堂、旧本坊表門、五重塔、常憲院霊廟の勅額門、水盤舎な...

  • 上野恩賜公園(2)花園稲荷神社~五條天神社

    上野恩賜公園の奥へと進んで行きます。花園稲荷神社承応三年(約340年程前)、天海大僧正の弟子の晃海僧正が、廃絶していたお社を再建し上野の山の守護神としました。幕末、彰義隊の戦では最後の激戦地(穴稲荷門の戦)として知られています。この神社の創建年代については不詳であるが、五條天神社が移転してくる以前からこの地にあった神社である。一説に空海が東寺の門前に建てた稲荷山を太田道灌が勧請したとも、天海が勧請し...

  • 上野恩賜公園(1)西郷隆盛像

    今年の春、上野の寛永寺から上野恩賜公園を散策してきました。上野の山は、江戸時代から「桜の名所」として知られ、桜の季節には、花見客で賑わうところです。その歴史がこの駒札に記されています。下町まちしるべ旧 上野恩賜公園 江戸時代初期、この地は津軽、藤堂、堀家の屋敷であったが徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。寛永二年(1625)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが慶応四年(186...

  • 渋沢平九郎の追懐碑

    血洗島の中の家の敷地には、尾高惇忠の弟で、栄一の養子となった渋沢平九郎の追懐碑があります。渋沢栄一によって、東京谷中の霊園に建立されたものでしたが、墓地縮小のため、深谷市に寄贈され、中の家に移設されました。渋沢平九郎追懐碑飯能戦争で若くして亡くなった平九郎の死を惜しんで、義父である栄一によって書かれました。平九郎は、弘化4年(1847)、武蔵国榛沢郡下手計村(現・埼玉県深谷市)の尾高家に生まれました。慶...

  • 円通寺 寛永寺から移築した黒門~彰義隊士の墓

    東京都荒川区南千住の百観音円通寺は、寺伝によれば、延暦10年(791年)、坂上田村麻呂によって開かれたと伝えられています。巨大な観音像明治維新の折、慶応4年(1868年)の戊辰戦争(上野戦争)で亡くなった彰義隊の隊員を現在上野公園の西郷隆盛像があるあたりで、当寺の住職が火葬を行いました。そのため、当寺には火葬を行った場所の近くにあった上野寛永寺の総門(黒門)が移築され、彰義隊士の墓もあります。黒門慶応4年(1868年...

  • 上野恩賜公園の彰義隊の墓

    渋沢喜作は、慶応4年(1868年)、戊辰戦争が起こると、鳥羽・伏見の戦いに参戦した。江戸帰還後、将軍警護を主張し、自分と志を同じくする幕臣らを集め、彰義隊を結成し、頭取に就任する。3月、結城藩の青山隼太らに依頼され、同藩の内紛仲裁のため、織田主膳を隊長とした一隊を結城に派遣した(のちの結城戦争に発展する)。4月、徳川慶喜が謹慎場所を江戸から水戸へ移すと、上野からの撤退を主張するが、武闘派の副頭取・天野八...

  • 江戸城無血開城(5)江戸城明け渡し

    江戸城総攻撃を目前にして,慶応4 (1868) 年3月13,14日,薩摩藩邸で勝と西郷の会見となり、徳川慶喜の助命と江戸無血開城を交換条件として協定が成立し,官軍の総攻撃は中止となりました。4月4日、東海道先鋒総督橋本実梁,副総督柳原前光が勅使として江戸城に入城し、天璋院篤姫と静寛院宮和宮は、島津家や朝廷に嘆願して徳川の救済と慶喜の助命に尽力し、9日には静寛院宮が清水邸に、10日には天璋院が一橋邸に退去。4月11日に正...

  • 江戸城無血開城(4)愛宕神社

    標高26メートル愛宕山は、当時江戸で一番見晴らしの良い場所だったそうです。ともに愛宕山にに登った二人は、江戸の町並みを見て、その美しさに感動し、勝が「この町を失いたくない」と西郷を説得したという説もあります。東京都港区の愛宕神社は、1603年、慶長8年、江戸に幕府を設く徳川家康の命により江戸の防火の神様として祀られました。慶長15年、庚戊本社をはじめ、末社仁王門、坂下総門、別当所等将軍家の寄進により、建立...

  • 江戸城無血開城(3)池上本門寺

    西郷隆盛と勝海舟の会見の地については諸説あるそうです。江戸城攻撃のために東征した官軍が本陣を構えた東京都大田区池上にある池上本門寺に、勝海舟が赴いて、西郷隆盛と会見したという説もあります。仁王門旧国宝の山門は、1945年(昭和20年)空襲で焼失。仁王門として1977年(昭和52年)に再建され、、アントニオ猪木をモデルにした仁王像が安置されましたが、近年の修理の際に本殿内に移設。新たな仁王像が2001年(平成13年)...

  • 江戸城無血開城(2)西郷南洲勝海舟會見之地の碑

    西郷隆盛と勝海舟の会談は2回にわたって行われ、一回目は3月13日は高輪の薩摩藩邸で、二回目は14日の田町の薩摩蔵屋敷で行われたといいます。そのひとつである田町の薩摩蔵屋敷の跡を訪ねました。JR田町駅近くの第一田町ビルの前に西郷南洲勝海舟會見之地の碑があります。この書は、西郷どんのお孫さんの吉之助さんによるものだそうです。田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)附近沿革案内 この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14...

  • 江戸城無血開城(1)西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地

    寛永寺で謹慎中の徳川慶喜を護衛していた高橋泥舟の義弟で、精鋭隊頭の山岡鉄太郎(鉄舟)が、慶応4年(1868年)3月9日勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、官軍の駐留する駿府(現静岡市葵区)に赴くことになりました。山岡は西郷を知らなかったこともあり、まず陸軍総裁・勝海舟の邸を訪問。勝は西郷への書状を認め、薩摩藩焼き討ち事件の際に捕らわれた後、勝家に保護されていた薩摩藩士・益満休之助を護衛につけて送り出しました...

  • 徳川慶喜が謹慎生活を送った至善堂御座の間

    水戸の弘道館は、天保12(1841)年に開設された水戸藩の藩校跡です。徳川慶喜向学の地徳川慶喜は、一橋家を継ぐために、11歳で江戸に出るまで、弘道館で、儒学や歴史を学びました。将軍辞任後は、ここで謹慎しており、当時生活ぎた部屋も残されています。正門江戸時代から現存する本瓦葺の四脚門。瓦には、徳川家の家紋である三つ葉葵があしらわれています。藩主の来館時など、特別な行事の際のみ開門していました。通用門通用門は、...

  • 徳川慶喜が謹慎した上野寛永寺

    鳥羽・伏見の戦に敗れ大坂を脱出した徳川慶喜は、海路江戸に帰り、恭順の態度を示し上野の寛永寺の大慈院において謹慎することになりました。寛永寺は、寛永2(1625)年に、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に、慈眼大師(じげんだいし)天海大僧正によって建立されました。後には第4代将軍・德川家綱の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになりましたが、幕末の上野戦...

  • 浜離宮恩賜公園

    慶応4年(1868)1月3日鳥羽・伏見の戦いが勃発。戊辰戦争の始まりです。5日、錦旗が新政府軍に掲げられ、会津藩は、朝敵へと転落しました。幕府軍は、官軍に惨敗。徳川慶喜は、密かに大阪城を抜け出して、幕府軍艦「開陽丸」で、板倉勝静・会津松平容保・松平定敬などを連れて、江戸へと帰還しました。慶喜が開陽丸から下船したのが、浜離宮恩賜庭園の将軍お上り場で、ここで勝海舟に迎えられたといいます。慶喜は、浜離宮から馬で江...

  • 金戒光明寺の会津藩殉難者墓所

    金戒光明寺は、京都市左京区黒谷町にある浄土宗の寺院で、通称くろ谷さん(くろだにさん)と呼ばれています。法然上人が初めて念仏道場を開いた地であり、新選組ゆかりの地としても知られています。徳川初期、知恩院とともに城郭構造に改められました。黒谷に大軍が一度に入ってこられないように南には小門しかなく、西側には高麗門が建てられました。小高い岡になっている黒谷は、自然の要塞になっており、特に西からやってくる敵...

  • 鳥羽伏見の戦い(2)城南宮~鳥羽離宮跡公園

    京都市 伏見区の城南宮は、平安遷都にあたり、王城の南に守護神として創建されたといいます。応徳三年(1086年)に白河上皇が当地に鳥羽殿を造営した時、鎮守社として崇めたと伝えられ、代々の天皇、上皇が行幸しました。古くより方除けの神として信仰を集めていますが、現在は交通安全の神としても有名です。応仁の乱などで荒廃しましたが、江戸時代に復興。幕末には、鳥羽伏見の戦いの戦場になりました。文久3年(1863年)には、孝...

  • 鳥羽伏見の戦い(1)御香宮神社

    近鉄京都線桃山御陵前駅から大手筋を進んで行くと、御香宮神社の大鳥居があります。1868年(慶応4年)1月、薩摩・長州を中心とする新政府軍と、幕府軍が伏見で対決、鳥羽伏見の戦いが勃発しました。御香宮神社には、官軍の薩摩軍が陣取り、伏見奉行所の新選組や会津藩兵との間では、激しい戦闘が繰り広げられました。本殿などの焼失は免れましたが、伏見奉行所は焼け落ち、街中の多くの家屋が戦火に巻き込まれました。表門は、元和...

  • 髷を落とし、洋装姿になった栄一

    徳川昭武一行は、三か月の諸国訪問を終え、パリへと戻りました。昭武は、パリで学業に励むこととなり、ナポレオン三世が指名した陸軍中佐のヴィレットが昭武の教師としてやって来ました。ヴィレットは、昭武に髷を落とし、刀を外して洋装になることを要求しました。ここでも、渋沢栄一は、異文化への好奇心旺盛な態度、順応性を見せました。誰よりも早く髷を切り、洋服を注文。昭武もそれに倣い、断髪して、洋服をあつらえました。...

  • プレイバック「麒麟がくる」 福知山の旅(8)明智光秀を祀る御霊神社

    「青天を衝け」の放送が、五輪で休止の間、「麒麟がくる」関連の記事を紹介していきます。御霊神社の創祀は1705年(宝永2年)。元々は宇賀御霊大神を祀る稲荷社と明智光秀を祀る菱屋町の常照寺と分かれていました。光秀の死後、福知山では天災が相次ぎ、領民たちは、冤罪で非業の死を遂げた光秀の祟りではないかと恐れを抱くようになり、光秀を公に祀ることを願い出ました。そこで、福知山城主・朽木氏が、当地を「福智山」と命名...

  • プレイバック「麒麟がくる」 福知山の旅(7)光秀の祠があった常照寺

    「青天を衝け」の放送が、五輪で休止の間、「麒麟がくる」関連の記事を紹介していきます。今回は、福知山の旅の続きです。常照寺は、福知山市菱屋町にある日蓮宗の寺院。山号は宝珠山。延慶3年(1310年)大善阿闍梨日範(朗門の九鳳の一人)が創建。万治2年(1659年)唯心院日量(21世)が福知山城主・松平忠房に請願して現在地に移転、延宝6年(1678年)までに現在の伽藍を復興しました。日露戦争ではロシア軍捕虜の収容所の一つ...

  • プレイバック「麒麟がくる」 織田信長・信忠を祀る建勲神社(3)

    「青天を衝け」の放送が、五輪で休止の間、「麒麟がくる」関連の記事を紹介していきます。手水舎桁行1間梁間1間、東西棟の切妻造檜皮葺、化粧屋根裏天井で、中央に石製水盤を置かれています。拝殿本殿の東方に位置する吹放ちの入母屋造妻入檜皮葺の拝殿。内側に織田信長公三十六功臣のうち十八功臣の額を飾っています。織田信長公は戦火の巷と化した応仁の大乱に終止符を打ち、民衆を疲弊絶望から救い、伝統文化に躍動の美を与え...

  • プレイバック「麒麟がくる」 織田信長・信忠を祀る建勲神社(2)

    「青天を衝け」の放送が、五輪で休止の間、「麒麟がくる」関連の記事を紹介していきます。船岡妙見社手水舎の南西方に位置する船岡妙見社は、船岡山の地の神・玄武大神を祭っています。今より千二百年昔、平安建都に際し、船岡山は大地の生気のほとばしり出る玄武の小山と卜され、ここを北の起点として平安京が造営されました。船岡妙見は、船岡山の地の神として、諸厄消除・万病平癒・家宅守護の御神徳が讃えられています。「大平...

  • プレイバック「麒麟がくる」 織田信長・信忠を祀る建勲神社(1)

    「青天を衝け」の放送が、五輪で休止の間、「麒麟がくる」関連の記事を紹介していきます。建勲神社は、京都市北区の船岡山の中腹にある神社で、織田信長を主祭神とし、息子の織田信忠を配祀しています。正式名称は「たけいさおじんじゃ」通称「けんくんじんじゃ」と呼ばれています。天下を統一した織田信長の偉勲を称え、明治2年明治天皇が創建し、1910年(明治43)船岡山の山腹にあった社を山頂に遷祀しました。船岡山は平安京造...

  • プレイバック「麒麟がくる」 妙心寺の浴室「明智風呂」

    「青天を衝け」の放送が、五輪で休止の間、「麒麟がくる」の記事で、アップしていなかったものを紹介していきます。京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山である妙心寺。妙心寺の境内に、明智光秀ゆかりの浴室があります。この浴室(重文)は、明智光秀の叔父にあたる塔頭・大嶺院の密宗(みっそう)和尚が、光秀の菩提を弔うために建立されたといわれ、通称「明智風呂」と呼ばれています。現在の建物は明暦2年(1656)に再建...

  • プレイバック「麒麟がくる」 神足神社~勝竜寺土塁・空堀跡

    「青天を衝け」の放送が、五輪で休止の間、「麒麟がくる」関連の記事で、アップしていなかったものを紹介していきます。京都府長岡京市の勝龍寺城の北東に鎮座する神足神社(こうたりじんじゃ)の敷地内に、空堀や土塁が遺構として残っています。神足神社(こうたりじんじゃ) 旧神足村の産土神(うぶすなかみ)。式内社で「延喜式」にのる乙訓(おとくに)十九座の一つで「神足神社(こうたにのじんじゃ)」とみえる。また、文徳...

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