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大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り

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2013/09/04

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  • 岩国の旅(10)吉川史料館(昌明館)

    吉川史料館は、平成7(1995)年11月に開館した史料館で、吉川家に伝来した歴史資料、美術工芸品ほか、約7,000点が収蔵されています。昌明館付属屋及び門(岩国市指定 文化財)寛政5(1793)年に岩国7代領主吉川経倫(つねとも)の隠居所として建築された昌明館に付属する建物の一部です。史料館は、青江為次(あおえためつぐ)の太刀で国宝の「狐ヶ崎」をはじめ、吉川元春の兜、吉川広家の「なまづ形兜」など、国指定重要文化財の...

  • 岩国の旅(9)旧目加田(めかだ)家住宅

    吉香公園内にある岩国藩士の旧目加田家住宅です。旧目加田家住宅は、18世紀中頃と見られる中級武家屋敷の数少ない遺構として、国の重要文化財に指定されています。目加田家は、天正年間に吉川元春に召し抱えられ、その後、吉川家が岩国に移封された際に藩主広家に従い、この地に居を構えた家系です。屋根の筋葺きは二種類の瓦を交互にする二平葺きで、重ね合わせの桟を両側に持つ特殊な形の桟瓦は、両袖瓦(りょうそでがわら)別名...

  • 岩国の旅(8)吉川経家公忌魂碑

    吉川広嘉公像のすぐ近くにある吉川経家公忌魂碑秀吉が鳥取城攻めの際、経家は鳥取城の城督として抵抗するが、開城を余儀なくされ切腹することとなります。弔魂碑はこの英魂を弔うため、昭和14年に建立。礎石に鳥取城の石12個が使用。場所も江戸時代に、経家の子孫の石見吉川氏の屋敷のあったところです。(おいでませ山口へHPより)天下統一を目指す織田信長は、天正八年(1580)六月・羽柴秀吉をつかわして鳥取城攻めを開始した。...

  • 岩国の旅(7)吉川広嘉像

    錦帯橋創健の偉業を讃えて建てられた岩国藩三代藩主・吉川広嘉の像です。しかし、岩国藩では二代藩主から十一代藩主までの肖像画が残されておらず、この銅像は、初代藩主と子孫の方の肖像画と写真を合成して作られたものだそうです。(山口県観光連盟HPより)吉川 広嘉(きっかわ ひろよし)は、江戸時代前期の周防国岩国領の第3代領主。 元和7年(1621年)7月6日、第2代領主・吉川広正の長男として萩に生まれる。寛永元年(1624年)...

  • 岩国の旅(6)吉香公園

    錦帯橋を渡り終えたところにある吉香公園 (きっこうこうえん)は、かつての岩国藩主の居館跡で、明治になってから公園として一般公開されました。広大な園内には、吉香神社、中級武士の目加田家住宅、岩国藩家老香川家の長屋門、錦雲閣、岩国徴古館、吉川史料館、岩国城ロープウエー山麓駅などが点在しています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログラン...

  • 岩国尾旅(5)巌流ゆかりの柳

    錦帯橋の袂に、巌流ゆかりの柳という木があります。巌流島の決闘で敗れた剣豪・佐々木小次郎は、吉川英治の小説「宮本武蔵」のなかで「祖先以来、岩国の住、姓は佐々木といい、名を小次郎と親からもらい、また 剣名を”巌流”とも呼ぶ人間は、かくいう私であるが・・・」と、周防岩國の出身とされています。小次郎はもともと「岩柳」と名乗り、後に「巌流」と改名しました。秘剣燕返しは、錦川の河畔で風に揺れる柳の枝を切り、水辺...

  • 岩国の旅(4)槍倒し松(やりこかしまつ)

    錦帯橋を岩国城方面に渡ると、橋の左手に、「槍倒し松」という立派な松の木があります。これは、「やりこかしまつ」といい、岩国藩士の負けず嫌いを表徴する松として有名なのだそう。この松は、岩国武士の負けず嫌いをまけず表徴する有名な槍倒し松です。昔諸国の大名が他藩の城下を通るときは行列の槍を倒すのが礼儀となっていたのですが、大藩が小藩の城下を通るときは、儀礼を守らず槍を立てたまま威風堂々と通ったものです。岩...

  • 岩国の旅(3)錦帯橋 その参

    錦帯橋を渡り終えた後、橋の下を眺めてみました。岩国市観光協会HPによると、巻きガネとカスガイを使った「木組みの技法」で造られています。反り橋の構造は精巧かつ独創的で、現代の橋梁工学からみても非の打ちどころがないと言われています。以下、Wikipediaの説明です。アーチ橋の構造は、左右の橋脚を起点に橋桁の1番桁から11番桁まで順次勾配をゆるめながら先に突き出るように重ねていき、9番桁鼻間に大棟木(おおむなぎ)、1...

  • 岩国の旅(2)錦帯橋 その弐

    錦帯橋は、川幅約200メートルの河川内に4つの橋脚を持つ5連の木造橋で、中央3連がアーチ橋、両端が桁橋構造を持つ反橋となっています。長さはアーチ橋が35.1メートル、桁橋は34.8メートル。 さあ、橋を渡ってみましょう。実際、歩いてみると、一歩一歩踏み出すごとに木のきしみを感じ、木造の橋であることを実感できます。渡橋は24時間可能ですが、往復入橋料が要ります。1966年以降、観光客から「入橋料」を徴収し、掛け替え・管...

  • 岩国の旅(1)錦帯橋 その壱

    数年前のことですが、大河ドラマ「花燃ゆ」が放映された年に、岩国を訪ねました。岩国を代表するものといえば、やはり錦帯橋が一番でしょうね。錦帯橋は国指定の名勝であり、日本を代表する木造橋です。延宝元(1673)年、岩国3代領主の吉川広嘉(きっかわひろよし)が現在の橋の原型となる木造橋を架けましたが、錦川の洪水によりすぐに流失しました。しかし、改良を加えて翌延宝2(1674)年に再建された橋は、昭和25(1950)年9...

  • 日坂宿を行く(14)事任八幡宮 その弐

    大杉神輿日本一の大笛(画像:有料パンフレットより)明治元年(1868年)鳥羽、伏見の戦いの後、新政府軍は東海道を東に進みました。これに合わせて、遠州地方では、石川依平らの国学の影響を受けた神主や国学者を中心に「遠州報国隊」が結成されました。掛川からも9人が参加し、当社の祀官であった朝比奈蔵之進藤原秀直もその中のひとりでした。その後、戦乱が落ち着いても祀官は幕府の刺客にねらわれて帰ることができず、誉田束稲...

  • 日坂宿を行く(14)事任八幡宮 その壱

    事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)は、静岡県掛川市八坂、旧東海道沿いの、日坂宿(にっさかしゅく)および小夜の中山の西の入口、宮村にある神社です。 式内社で遠江国一宮。一の鳥居太鼓橋創建時期は定かではないが、社伝では成務天皇の治世としている。古くは真知乃神(まちのかみ)、任事神社(ままのことじんじゃ)などと呼ばれ、『延喜式神名帳』には「己等乃麻知神社」と記載されている。 大同2年(807年)、坂上田村麻...

  • 日坂宿を行く(13)法讃寺

    三悟山真宗大谷派の法讃寺。 親鸞聖人の像旅籠が満員の場合は、宿泊を受けていたそうです。本堂鐘楼境内には、日坂の書家・成瀬大域の碑があるとのことですが、わかりませんでした。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキングへ...

  • 日坂宿を行く(12)脇本陣「黒田屋」跡

    脇本陣「黒田屋」跡 幕末期に日坂宿最後の脇本陣を努めた黒田屋(大澤富三郎家)があった場所です。 文久2年(1862年)の宿内軒並取調書上帳には、黒田屋は間口8間・奥行15間・畳101畳・板鋪15畳・総坪数120坪あったと記されています。 日坂宿の脇本陣は時代と共に移りかわり何軒かが務めました。ここには幕末期に日坂宿最後の脇本陣を務めた「黒田屋(大澤富三郎家)」がありました。黒田家の拵えは文久2年(1862)の宿内軒並取...

  • 日坂宿を行く(11)本陣跡の秋葉常夜燈

    本陣跡の入り口にも秋葉常夜燈 があります。秋葉常夜燈 日坂宿はしばしば火災にあっているためか、火伏せ(火防)の秋葉信仰が盛んであったようです。当時の人々は神仏のご加護を願い秋葉講を結成し分社や常夜燈などを各所につくりました。 秋葉常夜燈は秋葉神社に捧げる灯りをともすためのもので、辻など人目につきやすい場所に建てられました。 日坂宿にはここ本陣入口の常夜燈の他、相伝寺境内と古宮公会堂脇と当時三基建っ...

  • 日坂宿を行く(10)本陣跡

    江戸時代に諸大名が江戸へ往来した時の旅宿にあてた宿駅の旅籠屋を本陣といい、 日坂宿本陣の屋号は「扇屋」代々片岡家が世襲で営んでいました。本陣跡 江戸時代に諸大名が江戸へ往来した時の旅宿にあてた宿駅の旅籠屋を本陣といいます。 日坂宿本陣の屋号は「扇屋」代々片岡家が世襲で営んでいました。 本陣の敷地はおよそ三百五十坪・建坪二百二十坪、門構・玄関付の建物でした。嘉永5年(1852)の日坂宿の大火で全焼、再建...

  • 日坂宿を行く(9)藤文

    宿場町の風情を残す建築物が続きます。こちらは藤文という屋号の日坂最後の問屋役を務めた伊藤文七邸です。藤文・・・日坂最後の問屋役を務めた伊藤文七邸 商家で屋号は藤文。 伊藤文七(号は文陰)翁は安政3年(1856)に日坂宿年寄役となり、万延元年(1860)から慶応3年(1867)にかけて日坂宿最後の問屋役を務めました。 維新後の明治4年(1871)には、日坂宿他二十七ヶ村の副戸長に任ぜられました。 その間、幕府の長州...

  • 日坂宿を行く(8)萬屋

    萬屋はもっぱら庶民の泊まる旅籠でした。 間口が4間半(約8.2メートル)であり、幕末としては中規模の旅篭です。1階が「みせ」や「帳場」で、2階が宿泊のための「座敷」というごく普通の店構えです。 表の蔀戸(しとみど)は当時の一般的な店舗建物の使用であり、昼間は障子戸、夜は板戸の様は、日坂宿では昭和20年代まで数多く見られました。 日坂宿は嘉永年間に大火災にあい、萬屋の土間下からも当時の焼土がみられ、それを裏...

  • 日坂宿を行く(7)相伝寺

    相伝寺は、遠江三十三観音霊場の二十一番札所にあたり、古くから日坂の人々の信仰を集めた寺でした。 相伝寺内光善寺 縁起 天長2年(825)創建とされる、「天台宗 紫雲山 光善寺」(東山椎林)が元来とされている。御詠歌の「光よき寺」がそれである。 現在の「相伝寺」は、日坂本陣扇屋当主片岡清兵衛が京より僧を招いて慶長2年(1597)に開基した。清兵衛は、当時、役人大名による日坂宿の人足手当ての支払いが、三年後...

  • 日坂宿を行く(6)秋葉常夜燈

    相伝寺参道の入口に秋葉常夜燈があります。庶民の秋葉山に対する信仰は、江戸中期にとても盛んになりました。常夜燈は、秋葉山に参詣するための街道沿いにあるものばかりでなく、人々が火伏せの神への信仰や地域内の安全を願って建てられたものも数多くあるそうです。 秋葉常夜燈 日坂宿 はしばしば火災にあっているためか、火伏せ(火防)の秋葉進行が盛んであったようです。当時の人々は神仏のご加護を願い秋葉講 を結成し分社...

  • 日坂宿を行く(5)川坂屋お茶屋

    二階から降りて、台所や家人の住まいの空間に行ってみましょう。台所湯沸かし釜旅人もここで座って、お茶の接待を受けていたそうです。茶室文化2年(1805年)、掛川城主太田資順が市内の偕楽園に建てた由緒ある建物で、後に掛川城内に移され、明治元年(1868年)に川坂屋に譲られたものです。床の間の壁は掛川特産の葛を使った「葛壁」で、床柱には大変珍しい「つつじ」の巨木が使われています。(川坂屋HP、Wikipediaより)開館時...

  • 日坂宿を行く(4) 川坂屋 西郷従道、山岡鉄舟の書

    掛川市の川坂屋は、旧東海道の日坂宿にある旧旅籠の建物で、掛川市指定の有形文化財建造物です。 寛政年間に問屋役を務めていた斉藤次右衛門が始めたと伝わり、1852年(嘉永5年)の大火後に再建され、江戸時代の面影を残す貴重な建物のひとつです。精巧な木組みと細かな格子が特徴的で、江戸より棟梁を招いたといわれています。日坂宿の旅籠である萬屋は、庶民が宿泊したのに対して、川坂屋は身分の高い武士や公家が宿泊する格の高...

  • 日坂宿を行く(3)賜硯堂成瀬大域出生の地

    書家・成瀬大域出生の地の碑の前を通りました。書家、成瀬大域(成瀬温)は文政10年(1827)古宮のこの地で生まれました。 四十二歳の時上京、安井息軒の門に入って書を修めました。 宮内省に奉職していた明治12年、王義之の聖教序を臨書するとともに諸葛孔明の出師表を、楷書と草書の二幅に書き、併せて明治天皇に献上しました。天皇よりお褒めの言葉とともに楠木正成愛用と伝わる古い硯を賜りました。 このことから庵と自らを...

  • 日坂宿を行く(2)高札場

    逆川にかかる古宮橋のところに高札場が復元されています。高札場とは、幕府や領主が決めた法度や掟書などを高札と呼ばれる木の札に記して、掲示しておく場所のことで、多くの人の目につくように、村の中心や主要な街道が交錯する交差点といった人通りの多い場所に設置されていました。幕府や藩の定めた法令や禁令を板札に墨書したものを高札、その掲げられた場所を高札場といいます。 高札場は人々の注目をひきやすい所に設置され...

  • 日坂宿を行く(1)下木戸跡

    掛川から日坂宿に向かいました。高札場跡の手前に見つけた下木戸跡下木戸(しもきど)跡 江戸時代、宿場 の治安維持のため、東西の入り口には木戸 が設けられていました。大規模な宿場では観音開きの大きな門でしたが、小規模であった日坂宿では川が門の役割を果たしていました。 古宮橋の架かる逆川のこの場所が「下の木戸(下木戸)」となっていて、江戸時代初期の頃までは橋幅も狭く、粗末な木橋で、いったん事が起こったと...

  • 小夜の中山を訪ねて(6)西行の歌碑

    小夜の中山公園に「西行の歌碑」が建っています。西行歌碑 ― 生涯二度目の難所越えに詠む ― 西行法師は平安時代末期の歌人。新古今和歌集には最も多くの歌が入集されているが、その中でも秀れた歌のひとつとされているのが、この一首である。 年たけて また越ゆべしと おもひきや 命なりけり さやの中山 二十三歳で出家し、自由な漂泊者としての人生を送りながら自然とのかかわりの中で人生の味わいを歌いつづけた西行の、...

  • 小夜の中山を訪ねて(5)元祖子育て飴「小泉屋」

    さて、二つの夜泣石の見学を終え、休憩することに。夜泣石の階段脇にある小泉屋さんは、宝暦元年(1751年)より創業、子育飴、子育飴キャンディー、掛川名産の葛湯、掛川茶などのお土産の販売の他、静岡おでん、うどん、そばなどの飲食もできる休憩所です。中でも、名物「子育飴」と子育飴を混ぜ合わせた「子育飴ソフトクリーム」が人気!私もこの文句につられて、ソフトをいただきました。とても暑い日でしたので、ほんのり飴の風...

  • 小夜の中山を訪ねて(5)小夜の中山夜泣石 その弐

    小夜ノ中山夜泣石とありますね。夜泣石の伝説只今居ります場所は国道1号線沿いですが、これより4~500メートル山をのぼりますと旧東海道が通って居ります。旧道の頂上にはお観音様をお祀りした久延寺という昔からのお寺があります。この寺に、或る日の夕方、臨月の身に成った婦人が安産をお祈りして帰る途中、丸い石にもたれて休んで居りますと、突然刀を持った山賊が出て来て婦人を丸い石に切りつけ、ふところにあったお金を取り...

  • 小夜の中山を訪ねて6)小夜の中山夜泣石 その壱

    さて、久延寺から昔話に登場する国道一号線沿いのところにあるもうひとつの「夜泣石」へと向かいました。夜泣石は小泉屋横の石段を3登った所に祀られています。この階段が結構急でした。階段を上りきって、ようやくそれらしきものが見えてきました。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ...

  • 小夜の中山を訪ねて(5)子育て飴

    久延寺の和尚が飴で子を育てたという伝説から、子育て飴という琥珀色の水飴が小夜の中山の名物となっています。久延寺の手前にある茶屋「扇屋」が、峠を通る客に出したのが始まりとされ、今でも子育て飴が売られています。伝説の舞台にはぴったりの風情のあるお店です。子育て飴は一本100円。昔懐かしいお味でした。子育て飴といえば、京都の東山区松原通の六道の辻近くにも「みなとや 幽霊子育飴本舗」という飴屋さんがあります...

  • 小夜の中山を訪ねて(4)久延寺の茶亭跡の碑

    山内一豊が関ヶ原合戦のきっかけとなる会津上杉征伐の軍を大坂より進めてきた徳川家康をもてなした茶亭の跡や、その御礼に家康が植えたとされる五葉松が残っています。 茶亭跡聖徳大師堂地蔵堂青紅葉と山門二宮金次郎蔵にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキングへ...

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