「べらぼう」の取材の後、前々から寄りたかった日本橋人形町の水天宮前にある「江戸甘味處 つくし」さんに行って来ました。創業は明治10年(1877年)で、現在の店主は5代目ということです。こちらの絵には明治15年(1882年)のお店の前の風景が描かれているそうです。店内には有名人のサイン色紙なども飾られています。お土産にいくつか買っていましたので、次の記事で紹介します! 東京都中央区日本橋人形町2丁目1−12 水天宮つ...
大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り
吉川史料館は、平成7(1995)年11月に開館した史料館で、吉川家に伝来した歴史資料、美術工芸品ほか、約7,000点が収蔵されています。昌明館付属屋及び門(岩国市指定 文化財)寛政5(1793)年に岩国7代領主吉川経倫(つねとも)の隠居所として建築された昌明館に付属する建物の一部です。史料館は、青江為次(あおえためつぐ)の太刀で国宝の「狐ヶ崎」をはじめ、吉川元春の兜、吉川広家の「なまづ形兜」など、国指定重要文化財の...
吉香公園内にある岩国藩士の旧目加田家住宅です。旧目加田家住宅は、18世紀中頃と見られる中級武家屋敷の数少ない遺構として、国の重要文化財に指定されています。目加田家は、天正年間に吉川元春に召し抱えられ、その後、吉川家が岩国に移封された際に藩主広家に従い、この地に居を構えた家系です。屋根の筋葺きは二種類の瓦を交互にする二平葺きで、重ね合わせの桟を両側に持つ特殊な形の桟瓦は、両袖瓦(りょうそでがわら)別名...
吉川広嘉公像のすぐ近くにある吉川経家公忌魂碑秀吉が鳥取城攻めの際、経家は鳥取城の城督として抵抗するが、開城を余儀なくされ切腹することとなります。弔魂碑はこの英魂を弔うため、昭和14年に建立。礎石に鳥取城の石12個が使用。場所も江戸時代に、経家の子孫の石見吉川氏の屋敷のあったところです。(おいでませ山口へHPより)天下統一を目指す織田信長は、天正八年(1580)六月・羽柴秀吉をつかわして鳥取城攻めを開始した。...
錦帯橋創健の偉業を讃えて建てられた岩国藩三代藩主・吉川広嘉の像です。しかし、岩国藩では二代藩主から十一代藩主までの肖像画が残されておらず、この銅像は、初代藩主と子孫の方の肖像画と写真を合成して作られたものだそうです。(山口県観光連盟HPより)吉川 広嘉(きっかわ ひろよし)は、江戸時代前期の周防国岩国領の第3代領主。 元和7年(1621年)7月6日、第2代領主・吉川広正の長男として萩に生まれる。寛永元年(1624年)...
錦帯橋を渡り終えたところにある吉香公園 (きっこうこうえん)は、かつての岩国藩主の居館跡で、明治になってから公園として一般公開されました。広大な園内には、吉香神社、中級武士の目加田家住宅、岩国藩家老香川家の長屋門、錦雲閣、岩国徴古館、吉川史料館、岩国城ロープウエー山麓駅などが点在しています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログラン...
錦帯橋の袂に、巌流ゆかりの柳という木があります。巌流島の決闘で敗れた剣豪・佐々木小次郎は、吉川英治の小説「宮本武蔵」のなかで「祖先以来、岩国の住、姓は佐々木といい、名を小次郎と親からもらい、また 剣名を”巌流”とも呼ぶ人間は、かくいう私であるが・・・」と、周防岩國の出身とされています。小次郎はもともと「岩柳」と名乗り、後に「巌流」と改名しました。秘剣燕返しは、錦川の河畔で風に揺れる柳の枝を切り、水辺...
錦帯橋を岩国城方面に渡ると、橋の左手に、「槍倒し松」という立派な松の木があります。これは、「やりこかしまつ」といい、岩国藩士の負けず嫌いを表徴する松として有名なのだそう。この松は、岩国武士の負けず嫌いをまけず表徴する有名な槍倒し松です。昔諸国の大名が他藩の城下を通るときは行列の槍を倒すのが礼儀となっていたのですが、大藩が小藩の城下を通るときは、儀礼を守らず槍を立てたまま威風堂々と通ったものです。岩...
錦帯橋を渡り終えた後、橋の下を眺めてみました。岩国市観光協会HPによると、巻きガネとカスガイを使った「木組みの技法」で造られています。反り橋の構造は精巧かつ独創的で、現代の橋梁工学からみても非の打ちどころがないと言われています。以下、Wikipediaの説明です。アーチ橋の構造は、左右の橋脚を起点に橋桁の1番桁から11番桁まで順次勾配をゆるめながら先に突き出るように重ねていき、9番桁鼻間に大棟木(おおむなぎ)、1...
錦帯橋は、川幅約200メートルの河川内に4つの橋脚を持つ5連の木造橋で、中央3連がアーチ橋、両端が桁橋構造を持つ反橋となっています。長さはアーチ橋が35.1メートル、桁橋は34.8メートル。 さあ、橋を渡ってみましょう。実際、歩いてみると、一歩一歩踏み出すごとに木のきしみを感じ、木造の橋であることを実感できます。渡橋は24時間可能ですが、往復入橋料が要ります。1966年以降、観光客から「入橋料」を徴収し、掛け替え・管...
数年前のことですが、大河ドラマ「花燃ゆ」が放映された年に、岩国を訪ねました。岩国を代表するものといえば、やはり錦帯橋が一番でしょうね。錦帯橋は国指定の名勝であり、日本を代表する木造橋です。延宝元(1673)年、岩国3代領主の吉川広嘉(きっかわひろよし)が現在の橋の原型となる木造橋を架けましたが、錦川の洪水によりすぐに流失しました。しかし、改良を加えて翌延宝2(1674)年に再建された橋は、昭和25(1950)年9...
大杉神輿日本一の大笛(画像:有料パンフレットより)明治元年(1868年)鳥羽、伏見の戦いの後、新政府軍は東海道を東に進みました。これに合わせて、遠州地方では、石川依平らの国学の影響を受けた神主や国学者を中心に「遠州報国隊」が結成されました。掛川からも9人が参加し、当社の祀官であった朝比奈蔵之進藤原秀直もその中のひとりでした。その後、戦乱が落ち着いても祀官は幕府の刺客にねらわれて帰ることができず、誉田束稲...
事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)は、静岡県掛川市八坂、旧東海道沿いの、日坂宿(にっさかしゅく)および小夜の中山の西の入口、宮村にある神社です。 式内社で遠江国一宮。一の鳥居太鼓橋創建時期は定かではないが、社伝では成務天皇の治世としている。古くは真知乃神(まちのかみ)、任事神社(ままのことじんじゃ)などと呼ばれ、『延喜式神名帳』には「己等乃麻知神社」と記載されている。 大同2年(807年)、坂上田村麻...
三悟山真宗大谷派の法讃寺。 親鸞聖人の像旅籠が満員の場合は、宿泊を受けていたそうです。本堂鐘楼境内には、日坂の書家・成瀬大域の碑があるとのことですが、わかりませんでした。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキングへ...
脇本陣「黒田屋」跡 幕末期に日坂宿最後の脇本陣を努めた黒田屋(大澤富三郎家)があった場所です。 文久2年(1862年)の宿内軒並取調書上帳には、黒田屋は間口8間・奥行15間・畳101畳・板鋪15畳・総坪数120坪あったと記されています。 日坂宿の脇本陣は時代と共に移りかわり何軒かが務めました。ここには幕末期に日坂宿最後の脇本陣を務めた「黒田屋(大澤富三郎家)」がありました。黒田家の拵えは文久2年(1862)の宿内軒並取...
本陣跡の入り口にも秋葉常夜燈 があります。秋葉常夜燈 日坂宿はしばしば火災にあっているためか、火伏せ(火防)の秋葉信仰が盛んであったようです。当時の人々は神仏のご加護を願い秋葉講を結成し分社や常夜燈などを各所につくりました。 秋葉常夜燈は秋葉神社に捧げる灯りをともすためのもので、辻など人目につきやすい場所に建てられました。 日坂宿にはここ本陣入口の常夜燈の他、相伝寺境内と古宮公会堂脇と当時三基建っ...
江戸時代に諸大名が江戸へ往来した時の旅宿にあてた宿駅の旅籠屋を本陣といい、 日坂宿本陣の屋号は「扇屋」代々片岡家が世襲で営んでいました。本陣跡 江戸時代に諸大名が江戸へ往来した時の旅宿にあてた宿駅の旅籠屋を本陣といいます。 日坂宿本陣の屋号は「扇屋」代々片岡家が世襲で営んでいました。 本陣の敷地はおよそ三百五十坪・建坪二百二十坪、門構・玄関付の建物でした。嘉永5年(1852)の日坂宿の大火で全焼、再建...
宿場町の風情を残す建築物が続きます。こちらは藤文という屋号の日坂最後の問屋役を務めた伊藤文七邸です。藤文・・・日坂最後の問屋役を務めた伊藤文七邸 商家で屋号は藤文。 伊藤文七(号は文陰)翁は安政3年(1856)に日坂宿年寄役となり、万延元年(1860)から慶応3年(1867)にかけて日坂宿最後の問屋役を務めました。 維新後の明治4年(1871)には、日坂宿他二十七ヶ村の副戸長に任ぜられました。 その間、幕府の長州...
萬屋はもっぱら庶民の泊まる旅籠でした。 間口が4間半(約8.2メートル)であり、幕末としては中規模の旅篭です。1階が「みせ」や「帳場」で、2階が宿泊のための「座敷」というごく普通の店構えです。 表の蔀戸(しとみど)は当時の一般的な店舗建物の使用であり、昼間は障子戸、夜は板戸の様は、日坂宿では昭和20年代まで数多く見られました。 日坂宿は嘉永年間に大火災にあい、萬屋の土間下からも当時の焼土がみられ、それを裏...
相伝寺は、遠江三十三観音霊場の二十一番札所にあたり、古くから日坂の人々の信仰を集めた寺でした。 相伝寺内光善寺 縁起 天長2年(825)創建とされる、「天台宗 紫雲山 光善寺」(東山椎林)が元来とされている。御詠歌の「光よき寺」がそれである。 現在の「相伝寺」は、日坂本陣扇屋当主片岡清兵衛が京より僧を招いて慶長2年(1597)に開基した。清兵衛は、当時、役人大名による日坂宿の人足手当ての支払いが、三年後...
相伝寺参道の入口に秋葉常夜燈があります。庶民の秋葉山に対する信仰は、江戸中期にとても盛んになりました。常夜燈は、秋葉山に参詣するための街道沿いにあるものばかりでなく、人々が火伏せの神への信仰や地域内の安全を願って建てられたものも数多くあるそうです。 秋葉常夜燈 日坂宿 はしばしば火災にあっているためか、火伏せ(火防)の秋葉進行が盛んであったようです。当時の人々は神仏のご加護を願い秋葉講 を結成し分社...
二階から降りて、台所や家人の住まいの空間に行ってみましょう。台所湯沸かし釜旅人もここで座って、お茶の接待を受けていたそうです。茶室文化2年(1805年)、掛川城主太田資順が市内の偕楽園に建てた由緒ある建物で、後に掛川城内に移され、明治元年(1868年)に川坂屋に譲られたものです。床の間の壁は掛川特産の葛を使った「葛壁」で、床柱には大変珍しい「つつじ」の巨木が使われています。(川坂屋HP、Wikipediaより)開館時...
掛川市の川坂屋は、旧東海道の日坂宿にある旧旅籠の建物で、掛川市指定の有形文化財建造物です。 寛政年間に問屋役を務めていた斉藤次右衛門が始めたと伝わり、1852年(嘉永5年)の大火後に再建され、江戸時代の面影を残す貴重な建物のひとつです。精巧な木組みと細かな格子が特徴的で、江戸より棟梁を招いたといわれています。日坂宿の旅籠である萬屋は、庶民が宿泊したのに対して、川坂屋は身分の高い武士や公家が宿泊する格の高...
書家・成瀬大域出生の地の碑の前を通りました。書家、成瀬大域(成瀬温)は文政10年(1827)古宮のこの地で生まれました。 四十二歳の時上京、安井息軒の門に入って書を修めました。 宮内省に奉職していた明治12年、王義之の聖教序を臨書するとともに諸葛孔明の出師表を、楷書と草書の二幅に書き、併せて明治天皇に献上しました。天皇よりお褒めの言葉とともに楠木正成愛用と伝わる古い硯を賜りました。 このことから庵と自らを...
逆川にかかる古宮橋のところに高札場が復元されています。高札場とは、幕府や領主が決めた法度や掟書などを高札と呼ばれる木の札に記して、掲示しておく場所のことで、多くの人の目につくように、村の中心や主要な街道が交錯する交差点といった人通りの多い場所に設置されていました。幕府や藩の定めた法令や禁令を板札に墨書したものを高札、その掲げられた場所を高札場といいます。 高札場は人々の注目をひきやすい所に設置され...
掛川から日坂宿に向かいました。高札場跡の手前に見つけた下木戸跡下木戸(しもきど)跡 江戸時代、宿場 の治安維持のため、東西の入り口には木戸 が設けられていました。大規模な宿場では観音開きの大きな門でしたが、小規模であった日坂宿では川が門の役割を果たしていました。 古宮橋の架かる逆川のこの場所が「下の木戸(下木戸)」となっていて、江戸時代初期の頃までは橋幅も狭く、粗末な木橋で、いったん事が起こったと...
小夜の中山公園に「西行の歌碑」が建っています。西行歌碑 ― 生涯二度目の難所越えに詠む ― 西行法師は平安時代末期の歌人。新古今和歌集には最も多くの歌が入集されているが、その中でも秀れた歌のひとつとされているのが、この一首である。 年たけて また越ゆべしと おもひきや 命なりけり さやの中山 二十三歳で出家し、自由な漂泊者としての人生を送りながら自然とのかかわりの中で人生の味わいを歌いつづけた西行の、...
さて、二つの夜泣石の見学を終え、休憩することに。夜泣石の階段脇にある小泉屋さんは、宝暦元年(1751年)より創業、子育飴、子育飴キャンディー、掛川名産の葛湯、掛川茶などのお土産の販売の他、静岡おでん、うどん、そばなどの飲食もできる休憩所です。中でも、名物「子育飴」と子育飴を混ぜ合わせた「子育飴ソフトクリーム」が人気!私もこの文句につられて、ソフトをいただきました。とても暑い日でしたので、ほんのり飴の風...
小夜ノ中山夜泣石とありますね。夜泣石の伝説只今居ります場所は国道1号線沿いですが、これより4~500メートル山をのぼりますと旧東海道が通って居ります。旧道の頂上にはお観音様をお祀りした久延寺という昔からのお寺があります。この寺に、或る日の夕方、臨月の身に成った婦人が安産をお祈りして帰る途中、丸い石にもたれて休んで居りますと、突然刀を持った山賊が出て来て婦人を丸い石に切りつけ、ふところにあったお金を取り...
さて、久延寺から昔話に登場する国道一号線沿いのところにあるもうひとつの「夜泣石」へと向かいました。夜泣石は小泉屋横の石段を3登った所に祀られています。この階段が結構急でした。階段を上りきって、ようやくそれらしきものが見えてきました。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ...
久延寺の和尚が飴で子を育てたという伝説から、子育て飴という琥珀色の水飴が小夜の中山の名物となっています。久延寺の手前にある茶屋「扇屋」が、峠を通る客に出したのが始まりとされ、今でも子育て飴が売られています。伝説の舞台にはぴったりの風情のあるお店です。子育て飴は一本100円。昔懐かしいお味でした。子育て飴といえば、京都の東山区松原通の六道の辻近くにも「みなとや 幽霊子育飴本舗」という飴屋さんがあります...
山内一豊が関ヶ原合戦のきっかけとなる会津上杉征伐の軍を大坂より進めてきた徳川家康をもてなした茶亭の跡や、その御礼に家康が植えたとされる五葉松が残っています。 茶亭跡聖徳大師堂地蔵堂青紅葉と山門二宮金次郎蔵にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキングへ...
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「べらぼう」の取材の後、前々から寄りたかった日本橋人形町の水天宮前にある「江戸甘味處 つくし」さんに行って来ました。創業は明治10年(1877年)で、現在の店主は5代目ということです。こちらの絵には明治15年(1882年)のお店の前の風景が描かれているそうです。店内には有名人のサイン色紙なども飾られています。お土産にいくつか買っていましたので、次の記事で紹介します! 東京都中央区日本橋人形町2丁目1−12 水天宮つ...
銀座煉瓦街は、1872年(明治5年)に東京で起きた銀座大火の後、西洋流の不燃都市の建設を目指して煉瓦造により造られた街並みです。建設方法は官営で、設計はお雇い外国人のウォートルスが担当。煉瓦街と言っても外壁は漆喰などで仕上げられたものが大部分で、赤煉瓦の街並みだった訳ではない。「煉瓦建の家屋に住むと、青ぶくれになって死んでしまう」という迷信もあり、当初は煉瓦造の建物が不評で、空き家が多かった。やがて新...
安永2年(1773年)山東京伝の父・伝左衛門は、奉公先の質屋を離れ、京橋のたもと付近、京橋銀座一丁目にある町屋敷の家主に。13歳の京伝は、通称を幼名の「甚太郎」から「伝蔵」に。京伝というのは京橋の「京」と伝蔵の「伝」に由来。ちなみに、江戸時代、京橋は「橋名」で、町名ではありませんでした。安永4年(1775年)北尾重政に浮世絵を学び、画号を北尾政演(きたお まさのぶ)と称しました。警察博物館のそばには、京橋の親...
浅草神社の裏手に、山東京伝机塚の碑(さんとうきょうでんつくえづかのひ)があります。山東京伝像山東京伝(さんとうきょうでん)は、多数の洒落本・滑稽本を著した江戸時代の代表的な戯作者です。また、北尾政演の画号で浮世絵師としても著名な人物でした。山東 京伝(さんとう きょうでん、旧字体:山東 京傳、宝暦11年8月15日(1761年9月13日) - 文化13年9月7日(1816年10月27日))は、江戸時代後期の浮世絵師、戯作者。浮世絵師...
銀座5丁目のホテルグランバッハ東京銀座の一角に、「狩野画塾跡」の案内板があります。ここは、田沼意次が晩年過ごした田沼家下屋敷があった場所です。江戸時代、幕府の奥絵師・狩野四家のうち最も栄えたのは木挽町狩野家でした。六代狩野典信は、田沼家の屋敷の一角(今の銀座五丁目付近)を拝領して画塾を開き、八代雅信の門からは明治画壇の巨匠狩野芳崖や橋本雅邦らを輩出しました。江戸幕府の奥絵師であった狩野四家は、いずれ...
田沼意次屋敷跡の近くには神田橋があります。神田橋は、東京都千代田区を流れる日本橋川に架かる日比谷通りの橋。上空には首都高速都心環状線が通っています。橋の名は、かつてこの付近にあった神田明神に由来。江戸城の増築により、外神田に移転した神田明神跡には神田御門と土井大炊頭利位の屋敷が設けられました。(Wikipediaより)ここは、芝崎口・神田口門・大炊殿橋門とも呼ばれ、将軍が上野寛永寺に参詣に行くための御成道と...
田沼意次の上屋敷は、現在の「神田橋辺りにありました。文京区の屋敷で生まれた意次は神田小川町、呉服橋付近に住んだ後、将軍家治時代の御側用人に昇格し、神田橋御門内に屋敷を拝領しました。家治の死とともに失脚する天明6年(1786)まで、この屋敷には、意次に便宜を図ってもらおうと、贈り物を持った商人達が連日のように押し寄せたとか。意次失脚後、「白河の清きに魚も棲みかねてもとの濁りの田沼恋しき」と狂歌で歌われ、田...
東京メトロ半蔵門駅から大妻通りを歩いて行くと、大妻女子大学前の歩道に佐野善左衛門宅跡の案内板があります。現在の大妻学院の辺りには旗本佐野家の屋敷がありました。佐野家は代々番士として、江戸城の警備を勤めていました。1784年(天明4年)4月24日、当主であった佐野善左衛門政言(さのぜんざえもんまさこと)は、江戸城内で若年寄の田沼意知(おきとも、老中田沼意次(おきつぐ)の子)を斬りつけ、その後切腹を命じられ自...
呉服問屋ミュージアムの奥には、「蚊帳仲間連盟帳」をはじめ、商売道具、日用品、行商の際に使用された矢立や棹秤、鬼瓦などが展示されています。蚊帳仲間連盟帳これは問屋ソロバンといい、取引相手から計算を覗かれないように裏板がついていて、大正時代~平成10年ぐらいまで使用されていたとか。手前が矢立と棹秤旧京都店の内蔵の鬼瓦4月24日には、 NHK「あさイチ」にて当店が紹介されたそうですよ。蔦屋重三郎「耕書堂」再現展...
地下鉄人形町駅から人形町通りを神田方面に進むと、織物中央通りに呉服問屋「イチマス田源」があります。イチマス田源は、文政元年(1818年)に近江愛知川(滋賀県愛知郡)で創業。初代は近江商人の一人で、主に地産の麻織物や蚊帳の行商を行っていました。西陣や友禅など京呉服問屋として発展し、嘉永年間(1848〜1854年)に江戸に進出。幕末に入り、行商の旅が安全に行えるように『蚊帳仲間連名組』を作り、明治4年(1871年)に...
台東区千束に今年一月にオープンした江戸新吉原耕書堂を訪ねて来ました。江戸新吉原耕書堂は、蔦屋重三郎が新吉原の大門前に開業した「耕書堂」を模した施設で、吉原に関する観光案内や、お土産品の販売などを行っています。べらぼうめTシャツてやんでえ べらぼうめ と書かれたTシャツポストカード万円袋・ポチ袋花魁扇子・一筆箋・小銭入れ・カードケース・メガネ入れ・手ぬぐいなどおこしや豆板などの浅草名物この他、蔦重に関す...
紀尾井坂(きおいざか)は、東京都千代田区にある坂で、江戸時代における正式名称は「清水坂」とよばれていました。当時周辺一帯には大名屋敷が多くあり、清水坂の南側に紀州徳川家(現在は清水谷公園やグランドプリンスホテル赤坂)、北側には尾張徳川家(現在は上智大学)、彦根藩井伊家(現在はホテルニューオータニ)の屋敷がありました。江戸の住人たちは、三家があった坂道であるところから、紀伊徳川家の「紀」、尾張徳川家...
徳川治貞(とくがわはるさだ)は、紀伊和歌山藩主・徳川宗直(むねなお)の次男として誕生。松平頼邑(よりさと)の養子となり、宝暦3年、伊予西条藩主松平(紀伊)家5代、安永4年、和歌山藩主徳川家9代となりました。8代将軍・徳川吉宗の享保の改革にならって藩政改革を行ない、和歌山藩の財政再建に尽力。自ら綿服を着用、粗食を心掛け、冬には火鉢の数を制限するまでして、死去するまでに10万両の蓄えを築いたといいますこのことから「...
日本橋堀留町に鎮座する三光稲荷神社は、江戸三座の一つである中村座に出演していた歌舞伎役者・関三十郎が伏見より勧請したと言われ、娘さん、子供、芸妓の参拝で賑わったそうです。当社は落語「百川」にも登場します。百川(ももかわ)は古典落語の演目。6代目三遊亭圓生の十八番として知られる。田舎(いなか)から出てきた百兵衛は、葭町(よしちょう)の千束(ちづか)屋という桂庵(けいあん)(口入れ屋)からの紹介で日本橋浮世小...
江戸時代、日本橋室町の浮世小路に料亭「百川楼」がありました。(現在の福徳神社の社務所周辺)百川楼は明和ごろから明治元年にかけて営業をした料亭です。初めは卓袱(しっぽく)料理の店で、後に会席料理に転向。卓袱料理は、江戸時代に伝わった中国料理で、はじめ長崎に伝えられ、京都や大阪にも広がりましたが、江戸では流行が長続きしなかったそうです。安政元年(1854)、ペリー来日の際には、百川楼の料理人が横浜まで出向き、...
東京メトロ銀座線・半蔵門線の三越前駅より徒歩1分、中央区日本橋室町にある福徳神社(福徳稲荷)貞観年間(859年~876年)には既に鎮座していたとされています。日本橋室町二丁目付近は、昔は武蔵国豊島郡福徳村という農漁家の点在する片田舎で、その村名から「福徳稲荷」と呼ばれました。村人は神社の森を「稲荷の森」、里程標(石造一里塚)を「稲荷の一里塚」と呼び親しんでいましたが、明暦3年(1657)正月8日の大地震により、...
中央区日本橋大伝馬町「べらぼう」で、片岡愛之助さんが演じる鱗形屋孫兵衛は、江戸時代、通旅籠町と呼ばれたこの地に地本問屋を構えていました。浄瑠璃本、草双紙、吉原細見、宝船などでを手掛け、安永4年(1775年)に恋川春町『金々先生栄花夢』を刊行して黄表紙をヒットさせました。日本橋堀留町に鎮座する池州稲荷神社は、かつて鱗形屋を同じ通旅籠町にあったったといわれています。創建年代などは不祥ですが、池州屋敷の池沼...
人だけでなく、軍用犬・軍馬慰霊碑や「猫塚」「唐犬八之塚」「オットセイ供養塔」「犬猫供養塔」「小鳥供養塔」、邦楽器商組合の「犬猫供養塔」(三味線の革の供養)など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑、ペットの墓も多数。著名人の墓として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉などの墓があります。山東京伝の墓鼠小僧次郎吉の墓猫塚1793年(寛政5年)、老中・松平定信の命によって造立された「水子塚」は、水子供養の発祥とさ...
明暦大火の供養塔明暦の大火振袖(ふりそで)火事,丸山火事とも。1657年(明暦3年)江戸本郷丸山町から出火し,江戸城本丸をはじめ江戸市中を焼き尽くした火事。死者10万人以上といわれ,江戸城も西丸を残して焼失。幕府は復興に際し御三家をはじめとする大名屋敷の城外への移転,寺社の外辺部への移転などを進め,町屋も道幅を広げ,広小路や火除地を設定,家屋の規模を定めるなどの措置をとった。(コトバンクより)明暦三年(1657...
墨田区両国二丁目にある回向院は、振袖火事と呼ばれる明暦3年(1657)に起きた明暦の大火の焼死者10万8千人を幕命(当時の将軍は徳川家綱)によって葬った万人塚が始まりで、のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬されました。明和5年(1768)以降には、境内で勧進相撲が興行され、これが今日の大相撲の起源となり、明治42年(1909)旧両国国技館が建てられました。回向院明暦三年(1657)、江戸史...
平安時代、高松殿址は、 醍醐天皇の皇子・源高明(たかあきら)の御殿・高松殿があったところです。後に高明の娘・源明子が藤原道長の妻となり、高松殿を住居としました。その高松殿内に伊勢から天大神を勧請して祀った鎮守社が高松神明神社の起こりとされています。その後、後白河天皇の内裏となり、保元の乱では後白河天皇の本拠地となり、源義朝や平清盛らがここに参集して白河の地へ攻め込みました。平治の乱により高松殿は焼...
『源氏物語』の主人公・光源氏の邸宅「六条院」のジオラマ六条院は、『源氏物語』に登場する架空の建築物で、平安京の六条京極付近に四町を占める光源氏の中年以降の邸宅です。広大な寝殿造で、西南部分に六条御息所の邸宅跡を含み、光源氏はここに主だった夫人たちと子女を住まわせました。「焔 (ほのお)」六条御息所と思われる女性を描いた上村松園の絵画光源氏は、六条院を春夏秋冬の4つに分け、それぞれの女君の希望に沿うよ...
貴族が外出する際に使っていた牛車牛車は馬車とともに中国から伝わったと推定されている。牛車は大きく分けて荷車用と乗用の2つの要素があった。牛車は速度が遅い反面、大量の物資を運ぶのに向いていたため荷車として活用されて『石山寺縁起絵巻』や『方丈記』などにも登場する。運ぶ物資や速達性によって牛車と馬車の使い分けがされていたと推定され、中世に入るとそれぞれ車借・馬借と呼ばれる運送業者が成立することになった。...
大原野神社は、京都盆地の西縁、西山山地の一峰にあたる小塩山の麓に広がる大原野の地に鎮座しています。紫式部は大原野神社を氏神と崇め、この大原野の地を愛していたといいます。『源氏物語』二十九帖「行幸(みゆき)」の巻には、冷泉帝が大原野へ鷹狩りに向かう華やかな行列を光源氏の養女・玉鬘が見物する様子が描かれいます。また、紫式部が生前に自ら撰んだとされる「紫式部集」に次の歌が詠まれています。長徳2年に越前守とし...
京都市西京区大原野南春日町にある大原野神社は、延暦3年(784年)に桓武天皇が長岡京へ遷都した際、皇后の藤原乙牟漏が藤原氏の氏神である奈良・春日社(春日大社)の分霊を勧請したのが始まりとされています。嘉祥3年(850年)、藤原冬嗣を祖父に持つ文徳天皇が現社地に社殿を造営。貞観3年(861年)以降、皇后の参拝が再々あり、また円融天皇、一条天皇が度々行幸するなど藤原氏のみならず朝廷からも特別な崇敬を受けるようにな...
昨夜のドラマでは、清涼殿で、安倍晴明が一条天皇に彰子の入内は、吉日である11月1日がふさわしいと提言する場面が描かれていました。一条天皇や藤原道長の信頼を集めるようになった安倍晴明の様子が、道長の日記『御堂関白記』などの貴族の日記に記されています。藤原実資の『小右記』によると、正暦4年(993年)2月、一条天皇が急な病に伏せった際、晴明が禊(みそぎ)を奉仕したところ、たちまち病は回復し、正五位上に叙された...
土屋町通に平安宮内裏凝華舎(ぎょうかしゃ)(梅壺)跡・飛香舎(ひぎょうしゃ)(藤壺)跡の案内板があります。飛香舎(ひぎょうしゃ)は、藤原道長の娘で、一条天皇の中宮藤原彰子の御殿です。庭に藤の木が植えられたことから藤壺(ふじつぼ)と呼ばれ、この舎で藤や菊を愛でる宴が行われました。通常非公開ですが、現在の京都御所に復元されています。内裏の後宮七殿五舎の一つ。南庭(壺)に紅白の梅を植えていたので梅壺と呼ばれた。...
貴族の暮らしと装束男性の装束男性の正装は、束帯です。平安時代以降、男子が参内する際に着用した正式の服装。天皇は即位以外の晴れの儀式に用いる。臣下は参朝の時を始め、大小の公事には必ずこの服装をする。その形状・構成は時代により変遷するが、中心となる構成は冠・袍・半臂(はんぴ)・下襲(したがさね)・衵(あこめ)・単(ひとえ)・表袴(うえのはかま)・大口(おおくち)・石帯(せきたい)・帖紙(たとう)・笏(しゃく)・襪(しと...
貴族たちの遊び飛鳥・奈良・平安初期にかけては中国大陸の文化を熱心に取り入れていわゆる唐風文化が発達したが、平安中期以後は、摂関政治と荘園制のもとで公家の生活が華やかに展開された。894年遣唐使の廃止により唐文化の影響が弱まったため,それまで摂取した大陸文化を基礎に,安定した貴族生活を背景に国風文化が成立。仮名の発明により,国文学が発達し,女流文学者が出現,物語文学や和歌が発達した。また浄土教の流行に...
宇治市源氏物語ミュージアムは、1998年に『源氏物語』の最後の10帖「宇治十帖」の舞台となった宇治に開館しました。「平安の間」では光源氏を主人公とする前半の物語がテーマとなっており、六条院の縮小模型、牛車、調度品などが展示され、平安貴族たちの暮らしぶりを知ることができます。平安時代の高貴な貴族女性は、成人すると、男性に顔を見せることが滅多になかったため、男性は垣間見(かいまみ)を機に、恋文を送って求愛し...
市バス「法勝寺町」下車し、京都市動物園近くに私立学校共済の「白河院」という宿泊施設があります。この辺りは、かつて藤原良房の別荘があり、後に藤原師実によって白河天皇に献上されました。この白河院を改装して建てたのが六勝寺のうちの法勝寺で、発掘調査の結果、八角九重大塔がそびえ建ち、大きな池を中心にした庭園がある壮大なものであったと推定されています。 六勝寺とは平安時代後期の院政期、天皇、皇后により、白河...
白峯神宮の境内にある伴緒社は、源為義とその息子である源為朝を祀ってあります。伴緒社(ともおのしゃ)源為義源義親の子。義父である義忠が暗殺され、その犯人とされ逃亡した義綱を14歳で討ち取った。その後藤原摂関家に仕える。保元の乱では、子の頼賢、為朝らと供に上皇側につき、天皇方の義朝、平清盛らと戦ったが、義朝らに敗れた。東国へ落ち延びようとしたが、義朝のもとに降伏、比叡山に出家した。義朝は、為義と弟たちの...
もとは、蹴鞠・和歌の宗家である飛鳥井家の邸宅地で、手水舎の飛鳥井(あすかい)は、清少納言の『枕草子』の中で、9つの代表的な井戸のひとつに挙げられています。飛鳥井白峯神宮の飛鳥井は平安の昔から有名です。平安時代の歌謡曲の催馬楽「飛鳥井」には「飛鳥井に宿りはすべし、や、おけ、蔭もよし、御水(ミモヒ)も寒し、御秣(ミマクサ)もよし」と謡われていて、オアシスのように人々が憩っていたと想像されます。(や、おけ...
京都市上京区今出川通にある白峯神社のご祭神は、崇徳天皇と淳仁天皇。崇徳天皇は、鳥羽天皇の皇子としてご生誕、保安4年に第75代の天皇に即位されましたが、保元の乱により、讃岐に配流され、長寛2年に45歳で崩御、白峰山陵に奉葬されました。讃岐に配流されてからは、髪も剃らず、爪も切らずに日本国の大魔縁になって朝廷を呪い続けたと伝えられています。崩御されてから大火事や不穏な事件が頻繁に起きたため、崇徳天皇の祟...
法金剛院は、京都市右京区花園にある律宗の寺院で、開基は待賢門院とされています。ここは平安時代初期の右大臣・清原夏野の山荘を平安末期に待賢門院(鳥羽上皇の中宮、後白河天皇の母)が再興した律宗のお寺です。清原夏野(きよはら の なつの)は、平安時代初期の皇族・公卿。舎人親王の孫である内膳正・小倉王の五男。官位は従二位・右大臣、贈正二位。清原夏野『前賢故実』延暦23年(804年)同じ内舎人の官職にあった親族の...
下京区夕顔町に夕顔之墳があります。ここは、『源氏物語』第4帖「夕顔」に登場する夕顔の屋敷があった場所とされ、住宅地の一角に立つ石碑には「源語傳説 五條邊 夕顔之墳」と刻まれています。昭和4年に京都史蹟会によって建てられたそうです。夕顔は物語の中の架空の人物ではありますが、当地の地名も夕顔町となっています。「源氏夕顔巻」(月岡芳年『月百姿』)光源氏が夕顔の屋敷に泊まると、深夜に夢に嫉妬したもののけ(六条...
北野天満宮の帰りに大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)を参拝しました。大将軍八神社は、桓武天皇が、王城鎮護のために星神大将軍を勧請したといわれる社で、方違え(方除け厄除けの神)として、建築・移動・転宅・婚姻・旅行・交通等あらゆる人間生活に於いて方位の厄災から守護する神として信仰されました。方違えとは、陰陽道に基づいて平安時代以降に行われていた風習のひとつで、外出や造作、宮中の政、戦の開始などの...
元三大師堂本尊は元三大師(良源)。他に毘沙門天像、薬師如来像、不動明王像などを安置。毘沙門天は京都七福神の一つ。鐘楼手水社廬山寺(ろざんじ)(廬山天台講寺[ろざんてんだいこうじ])沿革天慶年中、元三大師良源によって草創される。良源は康保3年(966)55歳で第18世天台座主となり、内供奉に補せられて以降、比叡山から宮中に参内するにあたり、現船岡山の麓、現蘆山寺通北に輿願金剛院を建立し、寛和元年(985)正月3...
京都市上京区北之辺町の廬山寺は、紫式部の邸宅跡として知られています。山門南門(薬医門)遡れば、紫式部の曽祖父である藤原兼輔(堤中納言)が建てた邸宅があり、藤原為時に譲り、紫式部はこの邸で生まれ育ち、『源氏物語』を執筆したとされています。廬山寺(ろざんじ)現在の廬山寺は豊臣秀吉の時代にこの地に移されたもので、ただしくは廬山天台講寺という。もとは天慶元年(938)に慈恵大師良源(じけいだいし りょうげん)...
藤原宣孝 は、正暦元年(990)、御嶽詣を行い、その年筑前守となりました。紫式部との結婚は998年(長徳4)の末か長保元年(999)のはじめといわれいます。紫式部の父の為時と為輔はいとこであり、宣孝と式部はまたいとこの関係にありました。998年には、石清水臨時祭、賀茂臨時祭の舞人を奉仕、同年山城守を兼任。11月末には豊前国宇佐神宮の奉幣使に任ぜられ、翌年帰京。この年4月平野臨時祭の勅使となり、7月相撲召合にも武官として...