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大河ドラマに恋して http://shizuka0329.blog98.fc2.com/

大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り

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2013/09/04

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  • 小夜の中山を訪ねて(2)久延寺に伝わる夜泣き石伝説

    久延寺は、夜泣き石伝説ゆかりのお寺としても知られています。伝説 小夜の中山夜泣石。その昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働きに行っての帰り中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、お石の魂魄がそばにあった丸石にのりうつり...

  • 小夜の中山を訪ねて(2)久延寺 山門~本堂

    小夜の中山峠の中腹に位置する古刹・久延寺に到着。関ケ原の戦いに赴く徳川家康を、当時掛川城主だった山内一豊がもてなしたというところです。山門境内は市の文化財に指定されています。掛川市指定文化財 久延寺境内久延寺は、真言宗の寺院で山号は佐夜中山。本尊は聖観音で、昔、住職が山賊に殺された妊婦の子を育て、子は成長して親の敵を討つことができた。これはひとえに本尊の加護によるものである」という夜泣石の伝説に因...

  • 小夜の中山を訪ねて(1)佐夜鹿(小夜の中山)一里塚

    掛川市日坂の小夜の中山を訪ねました。小夜の中山は、金谷宿と日坂宿の間にある峠で、夜泣き石の伝説で知られています。掛川へは何度か行っていますが、この辺りは初めてです。佐夜鹿(小夜の中山)一里塚が見えてきました。佐夜鹿(小夜の中山)一里塚 徳川家康 は慶長六年(一六〇一)、江戸と京都を結ぶ東海道 に宿駅を設置しました。その後、街道の並木の整備とともに一里塚が作られました。 一里塚 とは、江戸日本橋を基点...

  • 西郷ノ局の生誕地(3)観音寺 戸塚五郎忠春の五輪塔と於国の墓

    観音寺の墓地には、戸塚五郎忠春の五輪塔、於国の墓があります。戸塚五郎忠春の五輪塔と於国の墓於国は、戸塚忠春の妹の子で、西郷ノ局の従姉妹です。十王像にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキングへ...

  • 西郷局ノ生誕の地(2)観音寺跡

    次は上西郷の碧岩山観音寺跡に向かいました。今は廃寺となっています。昭和40年代まで石ヶ谷氏、西郷氏の菩提寺の観音寺がありましたが、現在は遊園地(公園)になっています。観音寺跡地にある案内板より「西郷局(於愛の方)」生誕の地 徳川二代将軍秀忠公の御生母で、実父は掛川在、戸塚に住んだ郷士夫忠春、実母は三河五本松城主・西郷弾正左衛門正勝の娘で、戸塚家に嫁いだ。天文23年(1554)戸塚五郎忠春は「大森の...

  • 西郷ノ局の生誕地 (1)戸塚五郎忠春の居館跡

    土佐編を終えて、新シリーズです♪(/・ω・)/ ♪静岡県掛川市上西郷は、西郷ノ局の生誕地とされています。西郷ノ局といえば、徳川家康の側室で、二代将軍・徳川秀忠を生んだ女性です。上西郷の構江公民館は、西郷十八士の一人・戸塚五郎太夫忠春の居館跡で、案内板と標柱が立っています。戸塚忠春の娘が、お愛、後の西郷ノ局です。(西郷ノ局の出生については諸説あり)西郷ノ局の生誕地 二代将軍、徳川秀忠公の生母、西郷ノ局は、幼...

  • 土佐の旅(142)龍馬パスポート

    私が土佐の旅でお世話になった旅のアイテムの龍馬パスポート。事前に観光協会から高知の各種パンフレットを送付していただいたので、これが自分の目的地で使えるかどうか調べておきました。龍馬パスポートは、高知県内の主な観光施設などで提示するだけで特典が受けられる高知観光におトクなアイテムです。龍馬パスポート申請書(申請ハガキ)にスタンプを3つ集めて、JR高知駅前・高知観光情報発信館「とさてらす」へ持参すると、...

  • 土佐の旅(140)高知での滞在は

    高知では、駅前の高知ホテルを利用しました。高知駅から最も近く、交通の便が良いという理由で選びました。部屋からは、三志士像が正面に見える部屋に宿泊できたので、夜になると窓からライトアップされた銅像を眺めることもできました。そして、何よりも便利だったのが、ホテルでもレンタサイクルを貸し出していたことです。これで朝早くからまわることができて非常に便利でした。フロントの方も大変親切で、いろんな地元の情報を...

  • 土佐の旅(139)日本最古の電車・路面電車

    高知で電車といえば路面電車のことを指します。日本最古の電車は,南国市後免(ごめん)町駅から伊野駅まで東西22.1km、高知駅前から桟橋通五丁目までの南北3.2kmの総延長25.3kmで,日本最長。高知市民の通勤、通学の足として利用されています。昔ながらの電車や超低床電車(LRV)、ポルトガル・ノルウェー・オーストリアなど外国の街を実際に走っていた電車も市内を走っています。(よさこいネットより)高知に滞在中、自転車...

  • 土佐の旅(138)よさこい鳴子踊りの歌碑

    高知市中央公園にある「よさこい鳴子踊りの歌碑」よっちょれよ よっちょれよ よっちょれ よっちょれ よっちょれよよっちょれ よっちょれ よっちょれよ高知の城下へ来てみいや(ソレ)じんまも ばんばも よう踊る鳴子両手に よう踊る よう踊る 土佐のー(ヨイヤサノ サノ サノ)高知の はりまや橋で(ヨイヤサノ サノ サノ)坊さん かんざし買うをみた(ソレ)よさこい よさこい(ホイ ホイ)よさこい節の歌詞は、歌い継がれ...

  • 土佐の旅(137)高知城下町名今昔「旧 新京橋」

    高知市の繁華街にある「旧 新京橋」の案内板.。昭和十一年(1936)、市内の町域整理により本町と帯屋町の一部を町域としてできた町。明治5年(1872)、南新町の吉田長太郎が官許を得て架設した有料の橋の名に由来する町名。明治28年(1895)、橋は県道になり往来が自由になった。堀川の終点(堀詰)にあたり、荷揚場としてにぎわっていた。のちには映画館。、遊技場なども多くなり繁華街になった。はりまや橋のすぐそばにある京町・新京...

  • 土佐の旅(136)高知城下町名今昔 「旧 浦戸町」

    河田小龍生誕地の碑の近くに「旧 浦戸町」の案内板があります。浦戸湾の玄関口に位置する浦戸や種崎の場合は、高知城下町の建設に伴い、本水主たちを城下町に移住させて浦戸町、種崎町をつくり、一人当たり十六代の屋敷地を与えている。こうして、藩主の交通上の役割を担わせたり、城下町に必要な物資の海上輸送をさせたりした。(高知市広報「あかるいまち」より)七町と呼ばれる古町の一つ。城下町がつくられたとき、吾川郡浦戸...

  • 土佐の旅(135)高知城下町名今昔「旧 種崎町」

    旧種崎町の案内板が横堀公園の南側にあります。背後に四国山地がそびえ、前面に土佐湾が広がっている土佐にあっては、「水主浦」を設けて、船の確保や乗組員である水主、船大工、鍛冶などを掌握することが、新領主・山内一豊にとっての緊急であり重要な仕事であった。 (高知市広報「あかるいまち」より)七町(ななまち)と呼ばれる古町の一つ。城下町がつくられたとき、長岡郡種崎浦から水主を移住させたことに由来する町名。南...

  • 土佐の旅(134)高知城下町名今昔「旧 材木町」

    横堀公園に行く途中で見つけた「旧 材木町」の案内板。城下町がつくられたころ、赤岡町、樽屋町、佐賀町があり、寛政二年(1625)、三町の商人たちが、私費で東の横堀から町の中央部まで新堀を開き、それに対する代償として、木材販売の特権を与えられたことに由来する町名。藩内から大量の木材が集められ、材木問屋、大鋸挽(製材業)、大工が集中して住んでいた。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろ...

  • 土佐の旅(133)高知城城町名今昔「旧 山田町」

    高知八幡宮の境内に「旧山田町」の案内板があります。長宗我部元親が一時城下町をつくろうとしたとき、香美郡山田村から住民を移した古い町、参勤交代の順路は山田橋を渡って北東へ延びていた。橋の南の広場には、城下三番所の一つの山田橋番所があった。周辺には自由民権の思想家中江兆民の生家など、武士の屋敷があった。高知八幡宮は、高知城内から明治初期にこの町に移された。山田橋番所跡ここで、多くの勤王党志士が命を落と...

  • 田畑政治ゆかりの地(10)浜松市営元城プール跡

    浜松城公園の中央芝生広場に、浜松市営元城プール跡の案内板が建っています。浜松市は市制40周年記念事業で市営プール建設を決定。昭和25年(1950)には日本水泳連盟会長の田畑政治が日米対抗の水泳大会の浜松開催を発表し、4カ月間の突貫工事で50m9コース、1万2千人収容の国内有数のプールを竣工させた。開設記念として8月8日には日米交歓水上大会を開催。日本代表として古橋、橋爪、浜口等、アメリカ代表としてマックレーン、マ...

  • 土佐の旅(132)高知城下町名今昔 「旧 追手筋」

    旧追手筋は、現在の追手筋二丁目や追手筋一丁目が旧追手筋に当たります。高知城の正門追手門前から東の廿代筋までをつらぬく表通りで、参勤交代の行列もここを通り山田橋へ向かった。家老、中老、御連枝(藩主の一門)などの広壮な屋敷や北会所(藩庁)、藩校教授館などがあった。追手門の前は広場になっており、大腰掛(家来の待合所)や訴訟箱が置かれていた。山内容堂公誕生之地の碑を探している途中で見つけました。にほんブロ...

  • 土佐の旅(131)高知城下町名今昔「旧 北奉公人町」

    上町4丁目の公園の前に「旧 北奉公人町」の案内板があります。旧 北奉公人町江戸時代、足軽や奉公人が多く住んでいたことに由来する町名。もとは内町といわれ、武士も住んでいたが、慶安二年(1649)に、野中兼山により町割が行われ、北奉公人町と改められた。武士が江ノ口川対岸の小高坂村西町などへ移住したため、次第に商人と職人の町となった。江戸時代には、足軽や奉公人が多く住んでいたので名付けられた町名。慶安2(1649)...

  • 土佐の旅(130)高知城町名今昔「旧 水通町」

    龍馬の生まれた町・上町の龍馬記念館のそばに「旧 水通町」の案内板があります。旧 水通町江戸時代にはじめから、道の中央に用水路が通されていたことに由来する町名。水路は当初、この町の紺屋が共同して造ったものであるが、のち上流の杓田村に郭中堰が作られて、住民の生活用水となった。東の郭中にも外堀の上に大樋を通して流された。職人や商人の町で、刀工の左行秀もこの町で刀を鍛えた。幕末の志士・近藤長次郎の屋敷跡が...

  • 土佐の旅(129)高知城下町名今昔 「旧 西紺屋町「」

    アーケード街を歩いていて、旧 西紺屋町の案内板を発見!紺屋町は、城下町がつくられたとき、曽我六兵衛ほか数人の紺屋が住んでいたことに由来する町名。大正13年(1924)、高知駅開設にともなって、南北の道路が整備され、昭和3年(1928)には路面電車が開通した。昭和11年(1936)市内の町域整理のとき、この道路を基準として新しくできた町で、紺屋町の西側と種崎町の一部を町域とした。この辺りは、江戸時代を通じて綿屋、糸屋、呉...

  • 土佐の旅(128)高知城下町名今昔 「旧 菜園場町」

    「菜園場」という地名は、この場所に江戸時代に土佐藩主用の菜園所があったことに由来しています。高知城下町名今昔 旧 菜園場町 藩主用の菜園所があったことに由来する町名。西の菜園場橋(のち橋のたもとの竹村家の屋号にちなみ木屋橋とよばれた)で種崎町へ通じているだけであったが、寛永年間(1624~44)、北に新町、東に農人町の開発が始められ、さらに幕末には南に大鋸屋橋(おがやばし)ができて九反田へも通行できる...

  • 土佐の旅(127)高知城下町名今昔 「旧 升形」

    高知市中心部を歩いていると、高知城下町名今昔という標識に遭遇します。高知市の町名は、江戸時代から引き継がれた歴史的な町名が多数残っており、これ らの歴史的な町名を保存伝承するために、平成13年の高知城築城400周年記念行事の一環として標識を旧町域に設置したのだそう。升形公園には、「旧 升形」の案内があります。升形は、城下町がつくられた時、集まった兵士の数を量るために造られた四角形の広場が、升形と呼ばれた...

  • 田畑政治ゆかりの地(9)浜松中学校

    浜松市中区広沢の静岡県立浜松北高等学校の過去の名称が、静岡県立浜松中学校です。浜松中学校の開校は明治27年(1894)、静岡県尋常中学校浜松分校として創立されました。田畑政治の成績は抜群で、第一高等学校(現在の東京大学教養学部)に進学。水泳部は昭和3年(1928)から全国3連覇を達成し、昭和7年(1932)には在学中の宮崎康二がロス五輪で2冠を達成しました。浜松中学校は明治27年(1894)に静岡県尋常中学校浜松分校として開校...

  • 土佐の旅(126)鶴田塾(少林塾)跡

    高知市長浜にある鶴田塾(少林塾)跡です。山内容堂に登用された土佐藩の参政吉田東洋は、暴行事件で謹慎処分を受け、謹慎中、この地で鶴田塾を開きました。後藤象二郎、板垣退助、岩崎弥太郎、福岡孝弟、間崎滄浪ら数多くの人材を育て、参政復帰後、彼らの多くを藩の重要な役職に取り立てました。(よさこいネットより) 安政元年 ( 1854 ) 八月、吉田東洋は江戸上屋敷の藩邸で山内氏の親戚の旗本・松下嘉兵衛を殴打する事件を起...

  • 土佐の旅(125)雪蹊寺 長宗我部信親の墓

    さらに、雪蹊寺境内をまわってみましょう。馬頭観音菩薩太玄塔雪蹊寺が廃仏毀釈の後、再興に尽力した十七世・山本太玄宜點和尚のために、養子嗣法 ( しほう ) となった玄峰和尚が建立した塔で碑文は裏側に刻まれています。碑文の一節には、「文政九丙戌年 ( 1826 ) 京都ノ公家ニ生マル幼時花園桂春院ノ徒トナリ長ジテ岡山国清寺月珊 ( こくせいじげっさん ) 和尚ニ師事シ三十餘歳ニシテ茨木本源寺ニ住ス明治十二年本山妙心寺ノ特命...

  • 土佐の旅(124)雪蹊寺

    雪蹊寺は、高知市長浜にある寺院で、四国八十八箇所霊場の第三十三番札所。本尊は薬師如来。 弘仁年間(810年から823年)、弘法大師の開基と伝えられています。寺は一時衰退していましたが、月峰和尚を住職として、長宗我部元親の保護することとなり、臨済宗妙心寺派に改宗。元親の死後、子の盛親は父・元親の菩提寺と定め、元親の法号『雪蹊恕三』にちなみ高福山雪蹊寺と改めました。。また、仏師・運慶の作と伝えられる本尊薬師...

  • 土佐の旅(123)秦神社

    長宗我部元親の菩提寺である雪蹊寺が廃仏毀釈により明治3年(1870年)に一時廃寺となったため、元親の弟の親房の子孫と称する島弥九郎与助たちが、土地の有志たちとともに再三高知藩庁に働きかけ、秦神社の創建を請願し、雪蹊寺に安置されていた元親公木像(県指定文化財)、肖像画(国指定の重要文化財)、戸次川戦没者の霊板、山内忠義奉納の絵馬などを貰い受け、明治4年、長浜城山麓の元の雪蹊寺跡に秦神社を創建しました。社名...

  • 土佐の旅(122)長浜城址

    秦神社と雪蹊寺の背後の山が、本山氏の支配下にあった長浜城址です。長宗我部元親の父・国親が種崎城に送った兵糧を本山氏の兵に奪われ、怒った国親は長浜城を急襲し攻略。長浜城城主は、本山茂辰に急を告げ、長浜城奪還のため押し寄せた本山軍と長宗我部軍が対決。この戸ノ本の戦いに、元親も参加し、彼の初陣となりました。(高知市HP参照)長浜の戦い国親は本山領への本格的な侵攻を企図するが、本山方の前線にあった長浜城(高...

  • 土佐の旅(121)島浪間の墓

    雪蹊寺の西側には、勤王の志士・島浪間の墓があります。幕末の志士、通称を浪間または並馬、字を義親、天保十四年 ( 1843 ) 長浜村塩谷 ( 現高知市長浜 ) に父興助 ( よすけ ) 重親の二男として生まれました。遠祖は長宗我部元親の弟の島弥九郎親益で、浪間は長宗我部四郎を一時名乗っていました。文久三年 ( 1863 ) 八月、吉村虎太郎らと天誅組の義挙に参加しました。その後元治元年 ( 1864 ) 十一月、井原応助、千屋金策、備前岡...

  • 田畑政治ゆかりの地(8)浜名湖大遠泳

    浜松市西区舘山寺のニューいずみ館というホテルの前に赤い橋があります。この橋のたもとに、浜名湖大遠泳の案内板がたっています。文武両道の浜松中学校(現在の浜松北高等学校)では、8月に弁天島で厳しい水泳訓練を行うのが慣例となっており、訓練のクライマックスは荘内半島の村櫛から都田川河口の気賀までを泳ぐ大遠泳。水泳時間は6時間を超え、完泳率は4割以下という中、田畑は1年生の時から見事に完泳。5年生の時まで毎年完...

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