人形町江戸甘味處つくし様のお江戸スイーツ数種類買った中から、日持ちのしない風鈴プリンから😋今まで味わったことのない濃厚でまろやかな高級感漂う🍮に感動次は、五家宝をいただきました!五家宝とは、おこし種を水飴で固め棒状にした芯をきな粉に水飴などを混ぜた皮で巻き付け、さらにきな粉を表面にまぶしたもの甘さ控え目で小腹の空いた時に最適な和菓子きなこ大好きな母にもぴったりなお土産となりました。五家宝とはおこし種...
大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り
久延寺は、夜泣き石伝説ゆかりのお寺としても知られています。伝説 小夜の中山夜泣石。その昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働きに行っての帰り中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、お石の魂魄がそばにあった丸石にのりうつり...
小夜の中山峠の中腹に位置する古刹・久延寺に到着。関ケ原の戦いに赴く徳川家康を、当時掛川城主だった山内一豊がもてなしたというところです。山門境内は市の文化財に指定されています。掛川市指定文化財 久延寺境内久延寺は、真言宗の寺院で山号は佐夜中山。本尊は聖観音で、昔、住職が山賊に殺された妊婦の子を育て、子は成長して親の敵を討つことができた。これはひとえに本尊の加護によるものである」という夜泣石の伝説に因...
掛川市日坂の小夜の中山を訪ねました。小夜の中山は、金谷宿と日坂宿の間にある峠で、夜泣き石の伝説で知られています。掛川へは何度か行っていますが、この辺りは初めてです。佐夜鹿(小夜の中山)一里塚が見えてきました。佐夜鹿(小夜の中山)一里塚 徳川家康 は慶長六年(一六〇一)、江戸と京都を結ぶ東海道 に宿駅を設置しました。その後、街道の並木の整備とともに一里塚が作られました。 一里塚 とは、江戸日本橋を基点...
西郷ノ局の生誕地(3)観音寺 戸塚五郎忠春の五輪塔と於国の墓
観音寺の墓地には、戸塚五郎忠春の五輪塔、於国の墓があります。戸塚五郎忠春の五輪塔と於国の墓於国は、戸塚忠春の妹の子で、西郷ノ局の従姉妹です。十王像にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキングへ...
次は上西郷の碧岩山観音寺跡に向かいました。今は廃寺となっています。昭和40年代まで石ヶ谷氏、西郷氏の菩提寺の観音寺がありましたが、現在は遊園地(公園)になっています。観音寺跡地にある案内板より「西郷局(於愛の方)」生誕の地 徳川二代将軍秀忠公の御生母で、実父は掛川在、戸塚に住んだ郷士夫忠春、実母は三河五本松城主・西郷弾正左衛門正勝の娘で、戸塚家に嫁いだ。天文23年(1554)戸塚五郎忠春は「大森の...
土佐編を終えて、新シリーズです♪(/・ω・)/ ♪静岡県掛川市上西郷は、西郷ノ局の生誕地とされています。西郷ノ局といえば、徳川家康の側室で、二代将軍・徳川秀忠を生んだ女性です。上西郷の構江公民館は、西郷十八士の一人・戸塚五郎太夫忠春の居館跡で、案内板と標柱が立っています。戸塚忠春の娘が、お愛、後の西郷ノ局です。(西郷ノ局の出生については諸説あり)西郷ノ局の生誕地 二代将軍、徳川秀忠公の生母、西郷ノ局は、幼...
私が土佐の旅でお世話になった旅のアイテムの龍馬パスポート。事前に観光協会から高知の各種パンフレットを送付していただいたので、これが自分の目的地で使えるかどうか調べておきました。龍馬パスポートは、高知県内の主な観光施設などで提示するだけで特典が受けられる高知観光におトクなアイテムです。龍馬パスポート申請書(申請ハガキ)にスタンプを3つ集めて、JR高知駅前・高知観光情報発信館「とさてらす」へ持参すると、...
高知では、駅前の高知ホテルを利用しました。高知駅から最も近く、交通の便が良いという理由で選びました。部屋からは、三志士像が正面に見える部屋に宿泊できたので、夜になると窓からライトアップされた銅像を眺めることもできました。そして、何よりも便利だったのが、ホテルでもレンタサイクルを貸し出していたことです。これで朝早くからまわることができて非常に便利でした。フロントの方も大変親切で、いろんな地元の情報を...
高知で電車といえば路面電車のことを指します。日本最古の電車は,南国市後免(ごめん)町駅から伊野駅まで東西22.1km、高知駅前から桟橋通五丁目までの南北3.2kmの総延長25.3kmで,日本最長。高知市民の通勤、通学の足として利用されています。昔ながらの電車や超低床電車(LRV)、ポルトガル・ノルウェー・オーストリアなど外国の街を実際に走っていた電車も市内を走っています。(よさこいネットより)高知に滞在中、自転車...
高知市中央公園にある「よさこい鳴子踊りの歌碑」よっちょれよ よっちょれよ よっちょれ よっちょれ よっちょれよよっちょれ よっちょれ よっちょれよ高知の城下へ来てみいや(ソレ)じんまも ばんばも よう踊る鳴子両手に よう踊る よう踊る 土佐のー(ヨイヤサノ サノ サノ)高知の はりまや橋で(ヨイヤサノ サノ サノ)坊さん かんざし買うをみた(ソレ)よさこい よさこい(ホイ ホイ)よさこい節の歌詞は、歌い継がれ...
高知市の繁華街にある「旧 新京橋」の案内板.。昭和十一年(1936)、市内の町域整理により本町と帯屋町の一部を町域としてできた町。明治5年(1872)、南新町の吉田長太郎が官許を得て架設した有料の橋の名に由来する町名。明治28年(1895)、橋は県道になり往来が自由になった。堀川の終点(堀詰)にあたり、荷揚場としてにぎわっていた。のちには映画館。、遊技場なども多くなり繁華街になった。はりまや橋のすぐそばにある京町・新京...
河田小龍生誕地の碑の近くに「旧 浦戸町」の案内板があります。浦戸湾の玄関口に位置する浦戸や種崎の場合は、高知城下町の建設に伴い、本水主たちを城下町に移住させて浦戸町、種崎町をつくり、一人当たり十六代の屋敷地を与えている。こうして、藩主の交通上の役割を担わせたり、城下町に必要な物資の海上輸送をさせたりした。(高知市広報「あかるいまち」より)七町と呼ばれる古町の一つ。城下町がつくられたとき、吾川郡浦戸...
旧種崎町の案内板が横堀公園の南側にあります。背後に四国山地がそびえ、前面に土佐湾が広がっている土佐にあっては、「水主浦」を設けて、船の確保や乗組員である水主、船大工、鍛冶などを掌握することが、新領主・山内一豊にとっての緊急であり重要な仕事であった。 (高知市広報「あかるいまち」より)七町(ななまち)と呼ばれる古町の一つ。城下町がつくられたとき、長岡郡種崎浦から水主を移住させたことに由来する町名。南...
横堀公園に行く途中で見つけた「旧 材木町」の案内板。城下町がつくられたころ、赤岡町、樽屋町、佐賀町があり、寛政二年(1625)、三町の商人たちが、私費で東の横堀から町の中央部まで新堀を開き、それに対する代償として、木材販売の特権を与えられたことに由来する町名。藩内から大量の木材が集められ、材木問屋、大鋸挽(製材業)、大工が集中して住んでいた。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろ...
高知八幡宮の境内に「旧山田町」の案内板があります。長宗我部元親が一時城下町をつくろうとしたとき、香美郡山田村から住民を移した古い町、参勤交代の順路は山田橋を渡って北東へ延びていた。橋の南の広場には、城下三番所の一つの山田橋番所があった。周辺には自由民権の思想家中江兆民の生家など、武士の屋敷があった。高知八幡宮は、高知城内から明治初期にこの町に移された。山田橋番所跡ここで、多くの勤王党志士が命を落と...
浜松城公園の中央芝生広場に、浜松市営元城プール跡の案内板が建っています。浜松市は市制40周年記念事業で市営プール建設を決定。昭和25年(1950)には日本水泳連盟会長の田畑政治が日米対抗の水泳大会の浜松開催を発表し、4カ月間の突貫工事で50m9コース、1万2千人収容の国内有数のプールを竣工させた。開設記念として8月8日には日米交歓水上大会を開催。日本代表として古橋、橋爪、浜口等、アメリカ代表としてマックレーン、マ...
旧追手筋は、現在の追手筋二丁目や追手筋一丁目が旧追手筋に当たります。高知城の正門追手門前から東の廿代筋までをつらぬく表通りで、参勤交代の行列もここを通り山田橋へ向かった。家老、中老、御連枝(藩主の一門)などの広壮な屋敷や北会所(藩庁)、藩校教授館などがあった。追手門の前は広場になっており、大腰掛(家来の待合所)や訴訟箱が置かれていた。山内容堂公誕生之地の碑を探している途中で見つけました。にほんブロ...
上町4丁目の公園の前に「旧 北奉公人町」の案内板があります。旧 北奉公人町江戸時代、足軽や奉公人が多く住んでいたことに由来する町名。もとは内町といわれ、武士も住んでいたが、慶安二年(1649)に、野中兼山により町割が行われ、北奉公人町と改められた。武士が江ノ口川対岸の小高坂村西町などへ移住したため、次第に商人と職人の町となった。江戸時代には、足軽や奉公人が多く住んでいたので名付けられた町名。慶安2(1649)...
龍馬の生まれた町・上町の龍馬記念館のそばに「旧 水通町」の案内板があります。旧 水通町江戸時代にはじめから、道の中央に用水路が通されていたことに由来する町名。水路は当初、この町の紺屋が共同して造ったものであるが、のち上流の杓田村に郭中堰が作られて、住民の生活用水となった。東の郭中にも外堀の上に大樋を通して流された。職人や商人の町で、刀工の左行秀もこの町で刀を鍛えた。幕末の志士・近藤長次郎の屋敷跡が...
アーケード街を歩いていて、旧 西紺屋町の案内板を発見!紺屋町は、城下町がつくられたとき、曽我六兵衛ほか数人の紺屋が住んでいたことに由来する町名。大正13年(1924)、高知駅開設にともなって、南北の道路が整備され、昭和3年(1928)には路面電車が開通した。昭和11年(1936)市内の町域整理のとき、この道路を基準として新しくできた町で、紺屋町の西側と種崎町の一部を町域とした。この辺りは、江戸時代を通じて綿屋、糸屋、呉...
「菜園場」という地名は、この場所に江戸時代に土佐藩主用の菜園所があったことに由来しています。高知城下町名今昔 旧 菜園場町 藩主用の菜園所があったことに由来する町名。西の菜園場橋(のち橋のたもとの竹村家の屋号にちなみ木屋橋とよばれた)で種崎町へ通じているだけであったが、寛永年間(1624~44)、北に新町、東に農人町の開発が始められ、さらに幕末には南に大鋸屋橋(おがやばし)ができて九反田へも通行できる...
高知市中心部を歩いていると、高知城下町名今昔という標識に遭遇します。高知市の町名は、江戸時代から引き継がれた歴史的な町名が多数残っており、これ らの歴史的な町名を保存伝承するために、平成13年の高知城築城400周年記念行事の一環として標識を旧町域に設置したのだそう。升形公園には、「旧 升形」の案内があります。升形は、城下町がつくられた時、集まった兵士の数を量るために造られた四角形の広場が、升形と呼ばれた...
浜松市中区広沢の静岡県立浜松北高等学校の過去の名称が、静岡県立浜松中学校です。浜松中学校の開校は明治27年(1894)、静岡県尋常中学校浜松分校として創立されました。田畑政治の成績は抜群で、第一高等学校(現在の東京大学教養学部)に進学。水泳部は昭和3年(1928)から全国3連覇を達成し、昭和7年(1932)には在学中の宮崎康二がロス五輪で2冠を達成しました。浜松中学校は明治27年(1894)に静岡県尋常中学校浜松分校として開校...
高知市長浜にある鶴田塾(少林塾)跡です。山内容堂に登用された土佐藩の参政吉田東洋は、暴行事件で謹慎処分を受け、謹慎中、この地で鶴田塾を開きました。後藤象二郎、板垣退助、岩崎弥太郎、福岡孝弟、間崎滄浪ら数多くの人材を育て、参政復帰後、彼らの多くを藩の重要な役職に取り立てました。(よさこいネットより) 安政元年 ( 1854 ) 八月、吉田東洋は江戸上屋敷の藩邸で山内氏の親戚の旗本・松下嘉兵衛を殴打する事件を起...
さらに、雪蹊寺境内をまわってみましょう。馬頭観音菩薩太玄塔雪蹊寺が廃仏毀釈の後、再興に尽力した十七世・山本太玄宜點和尚のために、養子嗣法 ( しほう ) となった玄峰和尚が建立した塔で碑文は裏側に刻まれています。碑文の一節には、「文政九丙戌年 ( 1826 ) 京都ノ公家ニ生マル幼時花園桂春院ノ徒トナリ長ジテ岡山国清寺月珊 ( こくせいじげっさん ) 和尚ニ師事シ三十餘歳ニシテ茨木本源寺ニ住ス明治十二年本山妙心寺ノ特命...
雪蹊寺は、高知市長浜にある寺院で、四国八十八箇所霊場の第三十三番札所。本尊は薬師如来。 弘仁年間(810年から823年)、弘法大師の開基と伝えられています。寺は一時衰退していましたが、月峰和尚を住職として、長宗我部元親の保護することとなり、臨済宗妙心寺派に改宗。元親の死後、子の盛親は父・元親の菩提寺と定め、元親の法号『雪蹊恕三』にちなみ高福山雪蹊寺と改めました。。また、仏師・運慶の作と伝えられる本尊薬師...
長宗我部元親の菩提寺である雪蹊寺が廃仏毀釈により明治3年(1870年)に一時廃寺となったため、元親の弟の親房の子孫と称する島弥九郎与助たちが、土地の有志たちとともに再三高知藩庁に働きかけ、秦神社の創建を請願し、雪蹊寺に安置されていた元親公木像(県指定文化財)、肖像画(国指定の重要文化財)、戸次川戦没者の霊板、山内忠義奉納の絵馬などを貰い受け、明治4年、長浜城山麓の元の雪蹊寺跡に秦神社を創建しました。社名...
秦神社と雪蹊寺の背後の山が、本山氏の支配下にあった長浜城址です。長宗我部元親の父・国親が種崎城に送った兵糧を本山氏の兵に奪われ、怒った国親は長浜城を急襲し攻略。長浜城城主は、本山茂辰に急を告げ、長浜城奪還のため押し寄せた本山軍と長宗我部軍が対決。この戸ノ本の戦いに、元親も参加し、彼の初陣となりました。(高知市HP参照)長浜の戦い国親は本山領への本格的な侵攻を企図するが、本山方の前線にあった長浜城(高...
雪蹊寺の西側には、勤王の志士・島浪間の墓があります。幕末の志士、通称を浪間または並馬、字を義親、天保十四年 ( 1843 ) 長浜村塩谷 ( 現高知市長浜 ) に父興助 ( よすけ ) 重親の二男として生まれました。遠祖は長宗我部元親の弟の島弥九郎親益で、浪間は長宗我部四郎を一時名乗っていました。文久三年 ( 1863 ) 八月、吉村虎太郎らと天誅組の義挙に参加しました。その後元治元年 ( 1864 ) 十一月、井原応助、千屋金策、備前岡...
浜松市西区舘山寺のニューいずみ館というホテルの前に赤い橋があります。この橋のたもとに、浜名湖大遠泳の案内板がたっています。文武両道の浜松中学校(現在の浜松北高等学校)では、8月に弁天島で厳しい水泳訓練を行うのが慣例となっており、訓練のクライマックスは荘内半島の村櫛から都田川河口の気賀までを泳ぐ大遠泳。水泳時間は6時間を超え、完泳率は4割以下という中、田畑は1年生の時から見事に完泳。5年生の時まで毎年完...
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人形町江戸甘味處つくし様のお江戸スイーツ数種類買った中から、日持ちのしない風鈴プリンから😋今まで味わったことのない濃厚でまろやかな高級感漂う🍮に感動次は、五家宝をいただきました!五家宝とは、おこし種を水飴で固め棒状にした芯をきな粉に水飴などを混ぜた皮で巻き付け、さらにきな粉を表面にまぶしたもの甘さ控え目で小腹の空いた時に最適な和菓子きなこ大好きな母にもぴったりなお土産となりました。五家宝とはおこし種...
「べらぼう」の取材の後、前々から寄りたかった日本橋人形町の水天宮前にある「江戸甘味處 つくし」さんに行って来ました。創業は明治10年(1877年)で、現在の店主は5代目ということです。こちらの絵には明治15年(1882年)のお店の前の風景が描かれているそうです。店内には有名人のサイン色紙なども飾られています。お土産にいくつか買っていましたので、次の記事で紹介します! 東京都中央区日本橋人形町2丁目1−12 水天宮つ...
銀座煉瓦街は、1872年(明治5年)に東京で起きた銀座大火の後、西洋流の不燃都市の建設を目指して煉瓦造により造られた街並みです。建設方法は官営で、設計はお雇い外国人のウォートルスが担当。煉瓦街と言っても外壁は漆喰などで仕上げられたものが大部分で、赤煉瓦の街並みだった訳ではない。「煉瓦建の家屋に住むと、青ぶくれになって死んでしまう」という迷信もあり、当初は煉瓦造の建物が不評で、空き家が多かった。やがて新...
安永2年(1773年)山東京伝の父・伝左衛門は、奉公先の質屋を離れ、京橋のたもと付近、京橋銀座一丁目にある町屋敷の家主に。13歳の京伝は、通称を幼名の「甚太郎」から「伝蔵」に。京伝というのは京橋の「京」と伝蔵の「伝」に由来。ちなみに、江戸時代、京橋は「橋名」で、町名ではありませんでした。安永4年(1775年)北尾重政に浮世絵を学び、画号を北尾政演(きたお まさのぶ)と称しました。警察博物館のそばには、京橋の親...
浅草神社の裏手に、山東京伝机塚の碑(さんとうきょうでんつくえづかのひ)があります。山東京伝像山東京伝(さんとうきょうでん)は、多数の洒落本・滑稽本を著した江戸時代の代表的な戯作者です。また、北尾政演の画号で浮世絵師としても著名な人物でした。山東 京伝(さんとう きょうでん、旧字体:山東 京傳、宝暦11年8月15日(1761年9月13日) - 文化13年9月7日(1816年10月27日))は、江戸時代後期の浮世絵師、戯作者。浮世絵師...
銀座5丁目のホテルグランバッハ東京銀座の一角に、「狩野画塾跡」の案内板があります。ここは、田沼意次が晩年過ごした田沼家下屋敷があった場所です。江戸時代、幕府の奥絵師・狩野四家のうち最も栄えたのは木挽町狩野家でした。六代狩野典信は、田沼家の屋敷の一角(今の銀座五丁目付近)を拝領して画塾を開き、八代雅信の門からは明治画壇の巨匠狩野芳崖や橋本雅邦らを輩出しました。江戸幕府の奥絵師であった狩野四家は、いずれ...
田沼意次屋敷跡の近くには神田橋があります。神田橋は、東京都千代田区を流れる日本橋川に架かる日比谷通りの橋。上空には首都高速都心環状線が通っています。橋の名は、かつてこの付近にあった神田明神に由来。江戸城の増築により、外神田に移転した神田明神跡には神田御門と土井大炊頭利位の屋敷が設けられました。(Wikipediaより)ここは、芝崎口・神田口門・大炊殿橋門とも呼ばれ、将軍が上野寛永寺に参詣に行くための御成道と...
田沼意次の上屋敷は、現在の「神田橋辺りにありました。文京区の屋敷で生まれた意次は神田小川町、呉服橋付近に住んだ後、将軍家治時代の御側用人に昇格し、神田橋御門内に屋敷を拝領しました。家治の死とともに失脚する天明6年(1786)まで、この屋敷には、意次に便宜を図ってもらおうと、贈り物を持った商人達が連日のように押し寄せたとか。意次失脚後、「白河の清きに魚も棲みかねてもとの濁りの田沼恋しき」と狂歌で歌われ、田...
東京メトロ半蔵門駅から大妻通りを歩いて行くと、大妻女子大学前の歩道に佐野善左衛門宅跡の案内板があります。現在の大妻学院の辺りには旗本佐野家の屋敷がありました。佐野家は代々番士として、江戸城の警備を勤めていました。1784年(天明4年)4月24日、当主であった佐野善左衛門政言(さのぜんざえもんまさこと)は、江戸城内で若年寄の田沼意知(おきとも、老中田沼意次(おきつぐ)の子)を斬りつけ、その後切腹を命じられ自...
呉服問屋ミュージアムの奥には、「蚊帳仲間連盟帳」をはじめ、商売道具、日用品、行商の際に使用された矢立や棹秤、鬼瓦などが展示されています。蚊帳仲間連盟帳これは問屋ソロバンといい、取引相手から計算を覗かれないように裏板がついていて、大正時代~平成10年ぐらいまで使用されていたとか。手前が矢立と棹秤旧京都店の内蔵の鬼瓦4月24日には、 NHK「あさイチ」にて当店が紹介されたそうですよ。蔦屋重三郎「耕書堂」再現展...
地下鉄人形町駅から人形町通りを神田方面に進むと、織物中央通りに呉服問屋「イチマス田源」があります。イチマス田源は、文政元年(1818年)に近江愛知川(滋賀県愛知郡)で創業。初代は近江商人の一人で、主に地産の麻織物や蚊帳の行商を行っていました。西陣や友禅など京呉服問屋として発展し、嘉永年間(1848〜1854年)に江戸に進出。幕末に入り、行商の旅が安全に行えるように『蚊帳仲間連名組』を作り、明治4年(1871年)に...
台東区千束に今年一月にオープンした江戸新吉原耕書堂を訪ねて来ました。江戸新吉原耕書堂は、蔦屋重三郎が新吉原の大門前に開業した「耕書堂」を模した施設で、吉原に関する観光案内や、お土産品の販売などを行っています。べらぼうめTシャツてやんでえ べらぼうめ と書かれたTシャツポストカード万円袋・ポチ袋花魁扇子・一筆箋・小銭入れ・カードケース・メガネ入れ・手ぬぐいなどおこしや豆板などの浅草名物この他、蔦重に関す...
紀尾井坂(きおいざか)は、東京都千代田区にある坂で、江戸時代における正式名称は「清水坂」とよばれていました。当時周辺一帯には大名屋敷が多くあり、清水坂の南側に紀州徳川家(現在は清水谷公園やグランドプリンスホテル赤坂)、北側には尾張徳川家(現在は上智大学)、彦根藩井伊家(現在はホテルニューオータニ)の屋敷がありました。江戸の住人たちは、三家があった坂道であるところから、紀伊徳川家の「紀」、尾張徳川家...
徳川治貞(とくがわはるさだ)は、紀伊和歌山藩主・徳川宗直(むねなお)の次男として誕生。松平頼邑(よりさと)の養子となり、宝暦3年、伊予西条藩主松平(紀伊)家5代、安永4年、和歌山藩主徳川家9代となりました。8代将軍・徳川吉宗の享保の改革にならって藩政改革を行ない、和歌山藩の財政再建に尽力。自ら綿服を着用、粗食を心掛け、冬には火鉢の数を制限するまでして、死去するまでに10万両の蓄えを築いたといいますこのことから「...
日本橋堀留町に鎮座する三光稲荷神社は、江戸三座の一つである中村座に出演していた歌舞伎役者・関三十郎が伏見より勧請したと言われ、娘さん、子供、芸妓の参拝で賑わったそうです。当社は落語「百川」にも登場します。百川(ももかわ)は古典落語の演目。6代目三遊亭圓生の十八番として知られる。田舎(いなか)から出てきた百兵衛は、葭町(よしちょう)の千束(ちづか)屋という桂庵(けいあん)(口入れ屋)からの紹介で日本橋浮世小...
江戸時代、日本橋室町の浮世小路に料亭「百川楼」がありました。(現在の福徳神社の社務所周辺)百川楼は明和ごろから明治元年にかけて営業をした料亭です。初めは卓袱(しっぽく)料理の店で、後に会席料理に転向。卓袱料理は、江戸時代に伝わった中国料理で、はじめ長崎に伝えられ、京都や大阪にも広がりましたが、江戸では流行が長続きしなかったそうです。安政元年(1854)、ペリー来日の際には、百川楼の料理人が横浜まで出向き、...
東京メトロ銀座線・半蔵門線の三越前駅より徒歩1分、中央区日本橋室町にある福徳神社(福徳稲荷)貞観年間(859年~876年)には既に鎮座していたとされています。日本橋室町二丁目付近は、昔は武蔵国豊島郡福徳村という農漁家の点在する片田舎で、その村名から「福徳稲荷」と呼ばれました。村人は神社の森を「稲荷の森」、里程標(石造一里塚)を「稲荷の一里塚」と呼び親しんでいましたが、明暦3年(1657)正月8日の大地震により、...
中央区日本橋大伝馬町「べらぼう」で、片岡愛之助さんが演じる鱗形屋孫兵衛は、江戸時代、通旅籠町と呼ばれたこの地に地本問屋を構えていました。浄瑠璃本、草双紙、吉原細見、宝船などでを手掛け、安永4年(1775年)に恋川春町『金々先生栄花夢』を刊行して黄表紙をヒットさせました。日本橋堀留町に鎮座する池州稲荷神社は、かつて鱗形屋を同じ通旅籠町にあったったといわれています。創建年代などは不祥ですが、池州屋敷の池沼...
人だけでなく、軍用犬・軍馬慰霊碑や「猫塚」「唐犬八之塚」「オットセイ供養塔」「犬猫供養塔」「小鳥供養塔」、邦楽器商組合の「犬猫供養塔」(三味線の革の供養)など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑、ペットの墓も多数。著名人の墓として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉などの墓があります。山東京伝の墓鼠小僧次郎吉の墓猫塚1793年(寛政5年)、老中・松平定信の命によって造立された「水子塚」は、水子供養の発祥とさ...
明暦大火の供養塔明暦の大火振袖(ふりそで)火事,丸山火事とも。1657年(明暦3年)江戸本郷丸山町から出火し,江戸城本丸をはじめ江戸市中を焼き尽くした火事。死者10万人以上といわれ,江戸城も西丸を残して焼失。幕府は復興に際し御三家をはじめとする大名屋敷の城外への移転,寺社の外辺部への移転などを進め,町屋も道幅を広げ,広小路や火除地を設定,家屋の規模を定めるなどの措置をとった。(コトバンクより)明暦三年(1657...
平安時代、高松殿址は、 醍醐天皇の皇子・源高明(たかあきら)の御殿・高松殿があったところです。後に高明の娘・源明子が藤原道長の妻となり、高松殿を住居としました。その高松殿内に伊勢から天大神を勧請して祀った鎮守社が高松神明神社の起こりとされています。その後、後白河天皇の内裏となり、保元の乱では後白河天皇の本拠地となり、源義朝や平清盛らがここに参集して白河の地へ攻め込みました。平治の乱により高松殿は焼...
『源氏物語』の主人公・光源氏の邸宅「六条院」のジオラマ六条院は、『源氏物語』に登場する架空の建築物で、平安京の六条京極付近に四町を占める光源氏の中年以降の邸宅です。広大な寝殿造で、西南部分に六条御息所の邸宅跡を含み、光源氏はここに主だった夫人たちと子女を住まわせました。「焔 (ほのお)」六条御息所と思われる女性を描いた上村松園の絵画光源氏は、六条院を春夏秋冬の4つに分け、それぞれの女君の希望に沿うよ...
貴族が外出する際に使っていた牛車牛車は馬車とともに中国から伝わったと推定されている。牛車は大きく分けて荷車用と乗用の2つの要素があった。牛車は速度が遅い反面、大量の物資を運ぶのに向いていたため荷車として活用されて『石山寺縁起絵巻』や『方丈記』などにも登場する。運ぶ物資や速達性によって牛車と馬車の使い分けがされていたと推定され、中世に入るとそれぞれ車借・馬借と呼ばれる運送業者が成立することになった。...
大原野神社は、京都盆地の西縁、西山山地の一峰にあたる小塩山の麓に広がる大原野の地に鎮座しています。紫式部は大原野神社を氏神と崇め、この大原野の地を愛していたといいます。『源氏物語』二十九帖「行幸(みゆき)」の巻には、冷泉帝が大原野へ鷹狩りに向かう華やかな行列を光源氏の養女・玉鬘が見物する様子が描かれいます。また、紫式部が生前に自ら撰んだとされる「紫式部集」に次の歌が詠まれています。長徳2年に越前守とし...
京都市西京区大原野南春日町にある大原野神社は、延暦3年(784年)に桓武天皇が長岡京へ遷都した際、皇后の藤原乙牟漏が藤原氏の氏神である奈良・春日社(春日大社)の分霊を勧請したのが始まりとされています。嘉祥3年(850年)、藤原冬嗣を祖父に持つ文徳天皇が現社地に社殿を造営。貞観3年(861年)以降、皇后の参拝が再々あり、また円融天皇、一条天皇が度々行幸するなど藤原氏のみならず朝廷からも特別な崇敬を受けるようにな...
昨夜のドラマでは、清涼殿で、安倍晴明が一条天皇に彰子の入内は、吉日である11月1日がふさわしいと提言する場面が描かれていました。一条天皇や藤原道長の信頼を集めるようになった安倍晴明の様子が、道長の日記『御堂関白記』などの貴族の日記に記されています。藤原実資の『小右記』によると、正暦4年(993年)2月、一条天皇が急な病に伏せった際、晴明が禊(みそぎ)を奉仕したところ、たちまち病は回復し、正五位上に叙された...
土屋町通に平安宮内裏凝華舎(ぎょうかしゃ)(梅壺)跡・飛香舎(ひぎょうしゃ)(藤壺)跡の案内板があります。飛香舎(ひぎょうしゃ)は、藤原道長の娘で、一条天皇の中宮藤原彰子の御殿です。庭に藤の木が植えられたことから藤壺(ふじつぼ)と呼ばれ、この舎で藤や菊を愛でる宴が行われました。通常非公開ですが、現在の京都御所に復元されています。内裏の後宮七殿五舎の一つ。南庭(壺)に紅白の梅を植えていたので梅壺と呼ばれた。...
貴族の暮らしと装束男性の装束男性の正装は、束帯です。平安時代以降、男子が参内する際に着用した正式の服装。天皇は即位以外の晴れの儀式に用いる。臣下は参朝の時を始め、大小の公事には必ずこの服装をする。その形状・構成は時代により変遷するが、中心となる構成は冠・袍・半臂(はんぴ)・下襲(したがさね)・衵(あこめ)・単(ひとえ)・表袴(うえのはかま)・大口(おおくち)・石帯(せきたい)・帖紙(たとう)・笏(しゃく)・襪(しと...
貴族たちの遊び飛鳥・奈良・平安初期にかけては中国大陸の文化を熱心に取り入れていわゆる唐風文化が発達したが、平安中期以後は、摂関政治と荘園制のもとで公家の生活が華やかに展開された。894年遣唐使の廃止により唐文化の影響が弱まったため,それまで摂取した大陸文化を基礎に,安定した貴族生活を背景に国風文化が成立。仮名の発明により,国文学が発達し,女流文学者が出現,物語文学や和歌が発達した。また浄土教の流行に...
宇治市源氏物語ミュージアムは、1998年に『源氏物語』の最後の10帖「宇治十帖」の舞台となった宇治に開館しました。「平安の間」では光源氏を主人公とする前半の物語がテーマとなっており、六条院の縮小模型、牛車、調度品などが展示され、平安貴族たちの暮らしぶりを知ることができます。平安時代の高貴な貴族女性は、成人すると、男性に顔を見せることが滅多になかったため、男性は垣間見(かいまみ)を機に、恋文を送って求愛し...
市バス「法勝寺町」下車し、京都市動物園近くに私立学校共済の「白河院」という宿泊施設があります。この辺りは、かつて藤原良房の別荘があり、後に藤原師実によって白河天皇に献上されました。この白河院を改装して建てたのが六勝寺のうちの法勝寺で、発掘調査の結果、八角九重大塔がそびえ建ち、大きな池を中心にした庭園がある壮大なものであったと推定されています。 六勝寺とは平安時代後期の院政期、天皇、皇后により、白河...
白峯神宮の境内にある伴緒社は、源為義とその息子である源為朝を祀ってあります。伴緒社(ともおのしゃ)源為義源義親の子。義父である義忠が暗殺され、その犯人とされ逃亡した義綱を14歳で討ち取った。その後藤原摂関家に仕える。保元の乱では、子の頼賢、為朝らと供に上皇側につき、天皇方の義朝、平清盛らと戦ったが、義朝らに敗れた。東国へ落ち延びようとしたが、義朝のもとに降伏、比叡山に出家した。義朝は、為義と弟たちの...
もとは、蹴鞠・和歌の宗家である飛鳥井家の邸宅地で、手水舎の飛鳥井(あすかい)は、清少納言の『枕草子』の中で、9つの代表的な井戸のひとつに挙げられています。飛鳥井白峯神宮の飛鳥井は平安の昔から有名です。平安時代の歌謡曲の催馬楽「飛鳥井」には「飛鳥井に宿りはすべし、や、おけ、蔭もよし、御水(ミモヒ)も寒し、御秣(ミマクサ)もよし」と謡われていて、オアシスのように人々が憩っていたと想像されます。(や、おけ...
京都市上京区今出川通にある白峯神社のご祭神は、崇徳天皇と淳仁天皇。崇徳天皇は、鳥羽天皇の皇子としてご生誕、保安4年に第75代の天皇に即位されましたが、保元の乱により、讃岐に配流され、長寛2年に45歳で崩御、白峰山陵に奉葬されました。讃岐に配流されてからは、髪も剃らず、爪も切らずに日本国の大魔縁になって朝廷を呪い続けたと伝えられています。崩御されてから大火事や不穏な事件が頻繁に起きたため、崇徳天皇の祟...
法金剛院は、京都市右京区花園にある律宗の寺院で、開基は待賢門院とされています。ここは平安時代初期の右大臣・清原夏野の山荘を平安末期に待賢門院(鳥羽上皇の中宮、後白河天皇の母)が再興した律宗のお寺です。清原夏野(きよはら の なつの)は、平安時代初期の皇族・公卿。舎人親王の孫である内膳正・小倉王の五男。官位は従二位・右大臣、贈正二位。清原夏野『前賢故実』延暦23年(804年)同じ内舎人の官職にあった親族の...
下京区夕顔町に夕顔之墳があります。ここは、『源氏物語』第4帖「夕顔」に登場する夕顔の屋敷があった場所とされ、住宅地の一角に立つ石碑には「源語傳説 五條邊 夕顔之墳」と刻まれています。昭和4年に京都史蹟会によって建てられたそうです。夕顔は物語の中の架空の人物ではありますが、当地の地名も夕顔町となっています。「源氏夕顔巻」(月岡芳年『月百姿』)光源氏が夕顔の屋敷に泊まると、深夜に夢に嫉妬したもののけ(六条...
北野天満宮の帰りに大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)を参拝しました。大将軍八神社は、桓武天皇が、王城鎮護のために星神大将軍を勧請したといわれる社で、方違え(方除け厄除けの神)として、建築・移動・転宅・婚姻・旅行・交通等あらゆる人間生活に於いて方位の厄災から守護する神として信仰されました。方違えとは、陰陽道に基づいて平安時代以降に行われていた風習のひとつで、外出や造作、宮中の政、戦の開始などの...
元三大師堂本尊は元三大師(良源)。他に毘沙門天像、薬師如来像、不動明王像などを安置。毘沙門天は京都七福神の一つ。鐘楼手水社廬山寺(ろざんじ)(廬山天台講寺[ろざんてんだいこうじ])沿革天慶年中、元三大師良源によって草創される。良源は康保3年(966)55歳で第18世天台座主となり、内供奉に補せられて以降、比叡山から宮中に参内するにあたり、現船岡山の麓、現蘆山寺通北に輿願金剛院を建立し、寛和元年(985)正月3...
京都市上京区北之辺町の廬山寺は、紫式部の邸宅跡として知られています。山門南門(薬医門)遡れば、紫式部の曽祖父である藤原兼輔(堤中納言)が建てた邸宅があり、藤原為時に譲り、紫式部はこの邸で生まれ育ち、『源氏物語』を執筆したとされています。廬山寺(ろざんじ)現在の廬山寺は豊臣秀吉の時代にこの地に移されたもので、ただしくは廬山天台講寺という。もとは天慶元年(938)に慈恵大師良源(じけいだいし りょうげん)...
藤原宣孝 は、正暦元年(990)、御嶽詣を行い、その年筑前守となりました。紫式部との結婚は998年(長徳4)の末か長保元年(999)のはじめといわれいます。紫式部の父の為時と為輔はいとこであり、宣孝と式部はまたいとこの関係にありました。998年には、石清水臨時祭、賀茂臨時祭の舞人を奉仕、同年山城守を兼任。11月末には豊前国宇佐神宮の奉幣使に任ぜられ、翌年帰京。この年4月平野臨時祭の勅使となり、7月相撲召合にも武官として...