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ブログタイトル
大河ドラマに恋して
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http://shizuka0329.blog98.fc2.com/
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今年は大河ドラマ「青天を衝け」「麒麟がくる」のゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしていきます。
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366回 / 365日(平均7.0回/週)

ブログ村参加:2013/09/04

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しずかさんの新着記事

1件〜30件

  • プレイバック「麒麟がくる」 織田信長・信忠を祀る建勲神社(3)

    「青天を衝け」の放送が、五輪で休止の間、「麒麟がくる」関連の記事を紹介していきます。手水舎桁行1間梁間1間、東西棟の切妻造檜皮葺、化粧屋根裏天井で、中央に石製水盤を置かれています。拝殿本殿の東方に位置する吹放ちの入母屋造妻入檜皮葺の拝殿。内側に織田信長公三十六功臣のうち十八功臣の額を飾っています。織田信長公は戦火の巷と化した応仁の大乱に終止符を打ち、民衆を疲弊絶望から救い、伝統文化に躍動の美を与え...

  • プレイバック「麒麟がくる」 織田信長・信忠を祀る建勲神社(2)

    「青天を衝け」の放送が、五輪で休止の間、「麒麟がくる」関連の記事を紹介していきます。船岡妙見社手水舎の南西方に位置する船岡妙見社は、船岡山の地の神・玄武大神を祭っています。今より千二百年昔、平安建都に際し、船岡山は大地の生気のほとばしり出る玄武の小山と卜され、ここを北の起点として平安京が造営されました。船岡妙見は、船岡山の地の神として、諸厄消除・万病平癒・家宅守護の御神徳が讃えられています。「大平...

  • プレイバック「麒麟がくる」 織田信長・信忠を祀る建勲神社(1)

    「青天を衝け」の放送が、五輪で休止の間、「麒麟がくる」関連の記事を紹介していきます。建勲神社は、京都市北区の船岡山の中腹にある神社で、織田信長を主祭神とし、息子の織田信忠を配祀しています。正式名称は「たけいさおじんじゃ」通称「けんくんじんじゃ」と呼ばれています。天下を統一した織田信長の偉勲を称え、明治2年明治天皇が創建し、1910年(明治43)船岡山の山腹にあった社を山頂に遷祀しました。船岡山は平安京造...

  • プレイバック「麒麟がくる」 妙心寺の浴室「明智風呂」

    「青天を衝け」の放送が、五輪で休止の間、「麒麟がくる」の記事で、アップしていなかったものを紹介していきます。京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山である妙心寺。妙心寺の境内に、明智光秀ゆかりの浴室があります。この浴室(重文)は、明智光秀の叔父にあたる塔頭・大嶺院の密宗(みっそう)和尚が、光秀の菩提を弔うために建立されたといわれ、通称「明智風呂」と呼ばれています。現在の建物は明暦2年(1656)に再建...

  • プレイバック「麒麟がくる」 神足神社~勝竜寺土塁・空堀跡

    「青天を衝け」の放送が、五輪で休止の間、「麒麟がくる」関連の記事で、アップしていなかったものを紹介していきます。京都府長岡京市の勝龍寺城の北東に鎮座する神足神社(こうたりじんじゃ)の敷地内に、空堀や土塁が遺構として残っています。神足神社(こうたりじんじゃ) 旧神足村の産土神(うぶすなかみ)。式内社で「延喜式」にのる乙訓(おとくに)十九座の一つで「神足神社(こうたにのじんじゃ)」とみえる。また、文徳...

  • プレイバック「麒麟がくる」 勝龍寺

    「青天を衝け」の放送が、五輪で休止の間、「麒麟がくる」の記事で、アップしていなかったものを紹介していきます。京都府長岡京市の勝龍寺城公園に隣接する勝龍寺は、大同元年(806)空海(弘法大師)の開基で、寺伝によれば、空海が入唐時、長安の青龍寺に学んだことから、この地に青龍寺を建てたといわれています。かつては観音堂をはじめ、九十九坊が建てられていたと伝えられています。大干ばつ大飢饉の年に千観上人の祈とう...

  • プレイバック「麒麟がくる」 明智左馬之助の湖水渡り

    滋賀県大津市打出浜、琵琶湖岸の大津なぎさ公園の歩道沿いに「明智左馬之助湖水渡り」の石碑が立っています。明智左馬之助は、明智光秀の娘婿であり、重臣でした。当初は三宅弥平次、後には明智弥平次と名乗り、通称は左馬之助。妻は光秀の娘ですが、最初は荒木村重に嫁ぎますが、天正6(1578)年、村重が織田信長に背いた際に離縁されのち秀満に再嫁しました。左馬之助は、光秀の本能寺の変を確認するや、安土城から明智氏の居城で...

  • プレイバック「麒麟がくる」 廬山寺 明智光秀の念持仏

    「青天を衝け」の放送が、五輪で休止の間、「麒麟がくる」の記事で、アップしていなかったものを紹介していきます。廬山寺(ろざんじ)は、京都市上京区北之辺町にある円浄宗の本山で、比叡山延暦寺の中興の祖である良源(元三大師、慈恵大師)により、天慶元年(938年)、平安京の北にある船岡山の南麓に與願金剛院が創建されました。一方で寛元3年(1245年)に法然に帰依した住心房覚瑜が、出雲路に寺を建立、宋の廬山にならい廬...

  • プレイバック「麒麟がくる」 南禅寺の塔頭・金地院の明智門

    「青天を衝け」の放送が、五輪で休止の間、「麒麟がくる」の記事で、アップしていなかったものを紹介していきます。南禅寺の塔頭である金地院は、応永年間(1394-1428)に足利義持が北山に創建し、1605年(慶長10)崇伝により現在地に移築されました。庫裡明智門 天正10年(1582年)に明智光秀が母の菩提のため寄進した銀により大徳寺方丈に建立されたもので、それまで金地院にあった国宝の唐門が豊国神社に移築されたため、大徳寺...

  • プレイバック「麒麟がくる」 樫原を訪ねて(4)明智光秀ゆかりの龍淵寺

    「青天を衝け」の放送が、五輪で休止の間、「麒麟がくる」の記事で、アップしていなかったものを紹介していきます。京都市西京区樫原の龍淵寺は、明智光秀に寺領を認められ、本能寺の変が起こった1582 年に建立されたお寺なのだそうです。永禄年間(1558~70年頃)、浄土宗西山派の洞空文翁上人が樫原を訪れ、草庵を建立のがはじまりとされています。天正七年(1579年)、物集女街道と旧山陰街道の辻にあった地蔵堂へ、戦に敗れ逃...

  • プレイバック「麒麟がくる」 樫原を訪ねて(3)郷倉~石焼生パスタ蔵之助~樫原本陣跡

    「青天を衝け」の放送が、五輪で休止の間、「麒麟がくる」の記事で、アップしていなかったものを紹介していきます。京都市西京区の「勤皇家殉難之地」の向かい側には、「郷倉」と呼ばれる蔵があります。平安時代に年貢米などを納める「郷倉」をつくったことが起源になっているそうです。郷倉西暦702年(大宝2年)大宝律令制定、山背国葛野、愛宕、乙訓、紀伊、宇治、久世、綴喜、相楽の八郡に西暦794年(延暦13年)桓武天皇は平安京に...

  • プレイバック「麒麟がくる」 樫原を訪ねて(2)勤王殉難之地&小泉仁左衛門宅跡

    小畠川の駒札の前には、勤王殉難之地の碑もあります。この樫原の地は、江戸時代には交通の要衝として、本陣や旅宿が設けられていた所です。元治元年(1864)の蛤御門の変では、長州藩は会津、薩摩の両藩を中心とした連合軍に敗れて、多くの兵士が捕殺されました。こちらは、敗れた長州集義隊・楳本僊之助と元下野宇都宮藩 相良頼光、新八郎兄弟3名が幕府方の追手である小浜藩士に斬殺された殉死の地でもあるそうです。なお、相良兄...

  • プレイバック「麒麟がくる」 樫原を訪ねて(1)明智光秀が開発した小畠川

    京都市西京区樫原交差点から西に進んだところにある明智光秀が開発したという小畠川、別名「明智川」を訪ねてきました。幅1メートルほどの小さな川で、正式名称は、「洛西右岸西幹線用水路」というそうです。本能寺の変の直後、織田信長を滅ぼした光秀が樫原地域に立ち寄り、「東に見える火事はどの辺りで起きているか、言い当てたら褒美を与える」と村人に尋ねたところ、村人は「本能寺の辺り」と即座に答え、水不足を解消するた...

  • プレイバック「麒麟がくる」 明智光秀終焉の地(3)明智光秀の銅塚

    「青天を衝け」の放送が、五輪で休止の間、「麒麟がくる」の記事で、アップしていなかったものを紹介していきます。京都市山科区勧修寺御所内町には、明智光秀の銅が祀られている明智光秀之塚があります。京阪バス「西醍醐上ノ山町」バス停で下車。山科川を渡り南へ歩いていきます。小栗栖で土民から襲撃され、明智藪で自刃したという光秀の首は介錯をした溝尾庄兵衛によって隠されたという説または持ち去られ、首は東山区三条通白...

  • 大政奉還、五箇条の御誓文に尽力した福岡孝弟の生誕地

    福岡孝弟(ふくおか たかちか)は、後藤象二郎らと大政奉還を徳川慶喜に勧告、五箇条の御誓文を加筆、政体書を起草した人物です。天保6年(1835年)、土佐藩士・福岡孝順(180石)の次男として生まれる。安政元年(1854年)、吉田東洋の門下生として後藤象二郎や岩崎弥太郎らと共に師事し、その薫陶をうけた。安政5年(1858年)、吉田の藩政復帰に伴って大監察に登用され、後藤らと若手革新勢力「新おこぜ組」を結成して藩政改革に...

  • 岩倉具視幽棲旧宅(3)付属屋

    繋屋には、浴室と便所が設けられています。附属屋勝手口、炊事場、台所、居間からなります。龍吐水今でいう消防用ホースです。米びつ竈羽釜炊飯や湯を沸かすのに用いられました。水屋箪笥食器の収納に用いられました。炊事の様子の説明です。岩倉具視の暮らしぶりが窺えます。付属屋の居間付属屋から中庭越しに主屋が見えます。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴...

  • 岩倉具視幽棲旧宅(2)主屋

    岩倉具視幽棲旧宅は、茅葺の主屋(約60㎡)と瓦葺の附属屋(約67㎡)、繋屋(約9㎡)から成ります。敷地の南土塀に表門を構え、門を入って主屋南庭に通じる中門、池庭、離れの便所によって構成されています。平成20年(2008)から4箇年をかけて京都市が国庫補助を得て、本格的な修理が行われました。それでは家屋の中に入ってみましょう。中門主屋茅葺の建物で、西側に玄関である式台を設け、玄関、6畳の次の間,床の間のある6畳の座敷と東...

  • 岩倉具視幽棲旧宅(1)

    岩倉具視幽棲旧宅は、京都市左京区岩倉上蔵町の岩倉具視が隠れ住んだ屋敷です。公武合体を掲げ、皇女和宮の将軍家降嫁などに尽力した岩倉は、倒幕急進派から弾劾され、官職を辞して剃髪したうえ洛中から追放され、11代前から縁のあったこの地で慶応3年(1867)までの間幽棲しました。元治元年(1864)に大工藤吉の居宅(現在の附属屋)を購入し、主屋と繋屋を増築して住居としたのがこの旧宅です。大久保利通や中岡慎太郎、坂本龍馬など...

  • 江戸薩摩藩上屋焼討事件

    江戸薩摩藩邸焼討事件は、薩摩藩が江戸市中取締の庄内藩屯所を襲撃したため、慶応3年12月25日(1867年)江戸の三田にある薩摩藩の江戸藩邸が江戸市中取締の庄内藩新徴組らによって襲撃され、砲火により焼失した事件です。1867年(慶応3)10月ころから、西郷隆盛の指示で小島四郎(相楽総三(さがらそうぞう))らは浪士数百名を同藩邸に糾合、「御用盗」なる名目で市中およびその周辺で辻斬(つじぎ)り、強盗火付けをはたらき攪乱(かく...

  • 王政復古の大号令~小御所会議

    すでに倒幕の姿勢を決めていた薩摩藩は、徳川家を排除し、天皇親政の新政府を樹立すべく、王政復古のクーデターを起こすことになります。同年、12月9日、朝議が終わり公家衆が退出した後、待機していた5藩の兵が御所の九門を封鎖。御所への立ち入りは藩兵が厳しく制限し、二条摂政や朝彦親王ら親幕府的な朝廷首脳も参内を禁止されました。そこへ、赦免されたばかりの岩倉具視らが参内して、京都御所の御学問所において、「王政復古...

  • 大政奉還の舞台となった二条城

    第2次長州征伐に失敗した幕府は衰退。薩長同盟による倒幕の動きが強まったため、徳川慶喜は前土佐藩主・山内容堂(豊信)の勧告に従い、慶応3年(1867)10月14日に政権の朝廷返上を明治天皇に上奏し、翌日朝廷がこれを受け入れました。これにより幕府が消滅。薩長両藩は、武力行使の理由を失いました。慶喜は、24日には、将軍辞職の上表を朝廷に提出。しかし、政局の主導権を放棄したのではなく、新たに自らを首班とする公儀成体を作...

  • 岩倉具視が剃髪した霊源寺

    京都市北区西賀茂の船岡山の東麓に岩倉家の菩提寺である霊源寺があります。通称「霊源皇寺」。山号は清凉山、臨済宗、本尊は釈迦如来像。寛永13年(1636年)、後水尾天皇が仏頂国師(一絲文守いっしぶんしゅ)を開山とし創建。当初は霊源庵と呼ばれてました。寛文16年(1666年)、上皇より勅額を賜り、現在の山号、寺名になりました。仏頂国師は岩倉具尭の第3子で、堺の南宗寺の沢庵に師事し、その高風を聞いた後水尾上皇の帰依を受け...

  • 長州藩邸跡と渋沢栄一が見た桂小五郎

    禁門の変後、幾松や対馬藩士・大島友之允の助けを借りながら、潜伏生活を余儀なくされた桂小五郎(後の木戸孝允)。会津藩などによる長州藩士の残党狩りが行われ、京都での潜伏生活が難しくなり、但馬の出石へと潜伏の場所を移します。その後、高杉晋作が下関で挙兵すると、藩のリーダーとして藩政を仕切り、薩長同盟を成立させ、倒幕へと導いて行きます。京都の河原町御池の長州藩邸があった場所には、現在京都ホテルオークラが建...

  • 原市之進、暗殺される!

    水戸藩士の原市之進は、藩校弘道館に籍を置き、会沢正志斎や藤田東湖にも学びました。弘道館会沢正志斎藤田東湖嘉永6(1853)年、昌平黌に入学。安政2(1855)年帰藩後は、弘道館訓導、次いで史館に勤務の傍ら、菁莪塾を経営し子弟の教育に当たりました。その後、尊王攘夷運動に参加し、老中・安藤信正の襲撃を画策。安藤信正やがて、一橋家に才能を買われ、慶喜が将軍職につくと、一橋家の目付となりますが、兵庫開港をとなえ、慶応3...

  • 七卿落史跡と西郷・木戸・大久保の会見所

    山口の湯田温泉を代表する創業330年の老舗ホテルの松田屋ホテルの館内に、維新にまつわる資料や史跡が残されていると聞き、松田屋ホテルに向かいました。松田屋ホテルは、高級旅館で、到底私などが泊まれるところではないので、見学だけでもできるか尋ねたところ、快く館内を案内してくださいました。毛利敬親を演じた北大路欣也さんのサイン色紙が飾られています。高杉晋作と坂本龍馬三矢の訓そして、回遊式日本庭園を歩いて行く...

  • パリ万国博覧会とジャポニスム

    パリ万国博覧会の会場は、シャン・ド・マルス広場で、40ヘクタールを超える敷地に、巨大な楕円形の会場が設けられました。世界42ヶ国が参加し、各国からは、エレベーターや最新式の電気電信機器、蒸気動力による機械、紡績器械、医療器具、測量器、兵器など最先端のものが出展されました。パリ万国博覧会は、日本が初めて参加した国際博覧会であり、東洋からの参加は、日本、清国、シャム(タイ)の三か国でした。幕府、薩摩藩、肥...

  • 栄一、いざフランスへ

    慶応3(1867)年、フランスで、パリ万国博覧会が開催されることになり、幕府からは、15代将軍となった徳川慶喜の弟で御三卿・清水家当主の徳川昭武が名代として派遣されることになり、その昭武の随員の一員に、渋沢栄一が選ばれました。栄一の役職は「御勘定役格陸軍附調役」という一行の庶務会計などを行う役で、栄一が適任だと、慶喜直々の指名だったといいます。栄一は、黒羽二重の小袖と羽織、緞子の義経袴姿で、燕尾服と靴を持...

  • 尾高平九郎、渋沢栄一の見立養子へ

    尾高平九郎は、弘化4年(1847年)11月7日、武蔵国榛沢郡下手計村(現・埼玉県深谷市下手計)名主の尾高勝五郎保孝の末子として誕生。兄妹には、長男・尾高惇忠、長女・みち、次女・こう、次男・長七郎(弘忠)、三女・千代、四女・くにがいました。尾高惇忠の生家この尾高惇忠生家は、江戸時代後期に惇忠の曽祖父・磯五郎が建てたものと伝わっています。当時は「油屋」の屋号で呼ばれ、この家で、見立養子となった平九郎、栄一の妻...

  • 徳川昭武

    徳川昭武(とくがわ あきたけ)は、清水徳川家第6代当主、のち水戸藩第11代(最後)の藩主。第9代水戸藩主・徳川斉昭の十八男(庶子)で、第10代藩主・徳川慶篤、第15代将軍・徳川慶喜の異母弟。生母は側室・万里小路建房の六女・睦子(ちかこ、のち秋庭)。 初名は松平 昭徳。字は子明。号は鑾山。諡号は節公。子は徳川武定など。正仁親王妃華子の曽祖父。嘉永6年(1853年)、江戸駒込の水戸藩中屋敷で誕生。幼名は余八麿。生後半...

  • 第二次長州征伐 高杉晋作療養の地

    高杉晋作は小倉戦争で、長州軍を指揮して幕府軍と戦いましたが、この戦いで持病の結核が悪化し、桜山神社の近くに小さな家を建てて、野村望東尼、愛人おうのの看病による療養生活を送りました。山口県下関市桜山町の民家の塀の一部にこの碑が建てられています。「高杉東行」の「東行」とは晋作の号のことです。慶応2年(1866)6月から始まった四境戦争(幕長戦争)で、奇兵隊など緒隊を率いた高杉晋作は、小倉口に迫った幕府...

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