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ブログタイトル
大河ドラマに恋して
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今年は大河ドラマ「麒麟がくる」のゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしていきます。
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366回 / 365日(平均7.0回/週)

ブログ村参加:2013/09/04

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大河ドラマに恋して

しずかさんの新着記事

1件〜30件

  • 井伊谷の龍潭寺(8)小堀遠州作の名勝庭園

    本堂の北側の庭園は、小堀遠州作といわれ、江戸時代初期に本堂北庭として築かれた池泉鑑賞式庭園です。 中央に守護石、左右に仁王石、正面に礼拝石(坐禅石)が配され、数多くの石組みと築山全体で鶴亀が表現されています。 岩は地元で産するチャートが使われ、池の型は心字池となっていてます。典型的な寺院庭園として貴重なものとされ、昭和11年国指定の名勝となりました。四季折々の美しさがあり、5月~6月はサツキが楽しめます...

  • 井伊谷の龍潭寺(7)井伊家霊殿

    井伊家霊殿には、元祖・井伊共保公、22代・井伊直盛公、24代・井伊直政公の木像が安置され、大老・井伊直弼の御位牌もお祀りされています。井伊家御霊屋  井伊谷を本拠地としてきた井伊氏は、平安時代より戦国時代まで、遠江の代表的国人領主として西遠地方を治めてきました。井伊介を名乗り鎌倉幕府に仕え、南朝方の皇子宗良親王を迎え、北朝軍と戦いました。室町時代、遠江に侵攻した今川軍との戦いに敗れ、その支配下に入りま...

  • 井伊谷の龍潭寺(6)開山堂~正夢稲荷

    本堂西に朱塗りの楼閣造り開山堂があります。身代わり地蔵八世徹叟和尚が建立。開山黙宗瑞淵和尚を祀っています。1702年建立。静岡県指定有形文化財となっています。塔上に井伊氏の家紋彦根橘、彦根井筒(井桁)を見られます。 堂内には、井伊家のお籠や左甚五郎作と伝えられる龍の彫刻が見られます。稲荷堂には、「夢をかなえてくださるお稲荷さん」正夢稲荷様が祀られています。    正夢の稲荷由来記 -夢を叶えてくださるお稲...

  • 井伊谷の龍潭寺(5)宗良親王の御位牌~十一面観音像

    後醍醐天皇の皇子・宗良親王の菩提寺である龍潭寺には、宗良親王の御位牌があります。  宗良親王の御位牌 龍潭寺は南朝、後醍醐天皇の皇子・宗良親王の菩提寺です。興国元年(1340)正月、親王は井伊軍の砦、三岳城に立てこもり、これを攻める北朝軍と激突します。 三岳城は落城し、親王は駿河・越後・信州の各地を転々とし、信濃の大河原の山奥で30年余り世を避け過ごされました。晩年は井伊谷に戻られ余生を送り、元中...

  • 井伊谷の龍潭寺(4)本堂

    さて、龍潭寺の本堂に入ってみましょう。庫裡 丈六の釈迦牟尼仏   丈六の釈迦牟尼仏  この仏さまは遠州地方第一の大仏さま、丈六仏です。丈六とは一丈六尺(5米)の寸法をいいますが、お座りですから三米ほどの高さです。  静かに己の心を深く見つめておられる、座禅のお姿の仏さまです。  この仏さまのお体には黒い落書きの跡が付いています。明治初年に起こった廃仏毀釈の動乱の傷跡です。本堂にあった大仏殿が壊された...

  • 井伊谷の龍潭寺(3)祐椿尼が隠棲した松岳院跡地

    祐椿尼(松岳院様)は、今川氏の家臣である新野親矩の妹で、井伊直盛に嫁ぎました。直盛との間には男子は生まれず、ひとり娘の次郎法師・井伊直虎を生みました。桶狭間の戦いで、夫・直盛が亡くなると、出家して龍潭寺の境内に建立された松岳院で生活するようになりました。祐椿尼は、この時期に名乗った出家名です。晩年には直虎もこの松岳院で、母とともに暮らしたといいます。後に松岳院は祐椿尼の菩提寺となり、天正6年(1578...

  • 井伊谷の龍潭寺(2)虎松(井伊直政)ゆかりの子育て地蔵

    龍潭寺の境内にある子育て地蔵虎松(後の井伊直政)の無事成長祈願仏永禄5年(1562年)虎松の2歳の時、父の直親は今川氏真の手に掛かり 掛川城下で殺されました虎松にも殺す命令が出ましたが 家老・新野左馬之助の助命嘆願で救われました。  子育て地蔵 -虎松の無事成長祈願仏- 戦国末期徳川軍団筆頭となり、彦根十八万石城主に出世した井伊直政は、幼名を虎松といいました。虎松は幼少の頃、井伊谷で実に苦難の道をた...

  • 井伊谷の龍潭寺(1)井伊直政出世の地

    井伊谷 龍潭寺は次郎法師・井伊直虎ゆかりのお寺です。井伊家、後醍醐天皇の皇子・宗良親王の菩提寺である龍潭寺は、古くは地蔵寺といい、天平5年(733)に行基によって開創されたと伝わっています。井伊家は藤原鎌足の後裔とされ、藤原共資公(元祖共保公の父)の時、遠江国守として遠州村櫛に下り、共保公より井伊谷の地に移り、約五百年間にわたり、井伊谷の庄を治めました。保元の乱では源義朝に、鎌倉時代には源頼朝に仕え、...

  • 渋川「井伊家墓所」の井伊直親の墓

    井伊氏一族の居館跡で、北側にある墓石群には、渋川井伊家墓所として、井伊(直之・直貞・直秀・直幸・直親 他)の名前が残っています。渋川村には、山里に居城を構えた井伊庶家、渋川井伊氏がありました。井伊谷井伊家八代目泰直の子の直助が上野左衛門次郎を名乗って分家し、直助の子の直貞が渋川太郎二郎を名乗り、この地に移り住んだことが、始まりといわれています。一方、徳川家康の家臣として出世し彦根藩主を務め、幕末に...

  • 渋川「東光院」の井伊直親の墓

    浜松市北区引佐町渋川にある東光院東光院は、井伊直虎の許嫁であった亀之丞(後の井伊直親)が一時、身を寄せた寺院です。臨済宗方廣寺派に属します。天文13(1544)年、亀之丞の父である井伊直満とその弟の井伊直義が謀反の疑いをかけられ、今川義元によって駿府で殺害されました。事件の後、直満の息子である亀之丞の命も狙われたため、家臣の今村藤七郎に背負われて領内の黒田山中からこの寺に逃げ込んでかくまわれますが、追っ...

  • 都田川湖畔の井伊直親の墓

    永禄5年(1562)、家老の小野但馬守が、「井伊直親が松平元康(のちの徳川家康)と内通して謀反を起こそうとしていると、今川氏真に讒言をしたため、直親は、弁明に駿河へ向かう道中、掛川城主・朝比奈備中守によって謀殺されました。享年27。直親の首は、南谿和尚が蜂前神社の宮司を使いに出して掛川城からもたい受け、首と体を一緒にして、棺に入れ、都田川の河畔で火葬にされました。直親の墓は都田川と堤防の中間になった平場に...

  • 井伊直親ゆかりの池辺神社の八幡宮

    掛川の十九首塚から池辺神社へ。この池辺神社の北には二つ池と呼ばれる池があり、現在でも池面に突き出した半島部に八幡宮を祀る社が鎮座しています。八幡宮由来十九首宇佐八幡宮と称し元は掛川市十九首の地にあった。井伊谷の領主井伊直親(幼名亀之丞)が今川家に謀反を疑われ、永禄5年(1563年)その釈明に駿府に向かう途中掛川領主朝比奈泰朝に主従19人が謀殺された。よってこの地に祀り八幡宮を建てたと大池のほとりにあった旧...

  • 井伊直親が討たれた掛川の十九首塚

    桶狭間の戦いで、敗北した今川家の勢力が弱体化すると、今まで今川家に臣従してきた松平元康(徳川家康)が独立。織田家と同盟を結び、今川家との対決姿勢を見せ、今川家に反旗を翻す在地領主も出てきました。1562年(永禄5)井伊家の当主となった井伊直親は、遠江を手中にしょうとしていた三河の元康から、今川を見限り徳川に付くよう誘いを受けたとされています。直親が家康と通じているという嫌疑を、小野但馬守が今川氏真に伝えた...

  • 亀之丞の「青葉の笛」を所蔵する寺野六所神社

    渋川つつじ公園の近くにある寺野六所神社 。井伊直親(亀之丞)が、井伊谷に帰還する道筋で、寺野宝蔵寺観音堂に寄進された後、六所神社に奉納されたと伝わる「青葉の笛」を所蔵しています。松源寺の亀之丞の肖像画「青葉の笛」は、井伊谷の地域遺産センターで、複製品が展示されています。「建立の時代は詳かではないが、文献棟札等より天慶年間と伝う。後承久年間に至りこの土地は三河国乃信濃国に通ずる要衝あった。其の後建武中...

  • 亀之丞(井伊直親)が青葉の笛を寄進した寺野宝蔵寺観音堂

    浜松市北区引佐町渋川の寺野宝蔵寺観音堂弘治元年(1555)、亀之丞(井伊直親)が信州の松源寺から井伊谷へ帰国の際、青葉の笛は、最初このお堂に寄進され、のちに六所神社に奉納されたといわれています。山号にちなんだ正式名称は「直笛山(ちょくてきざん)宝蔵寺」井伊直親の『直』と『笛』の字が用いられています。観音堂は、毎年1月3日に、寺野ひよんどりが行なわれることでも知られています。ひよんどりは、「火踊り」がなま...

  • 亀之丞(井伊直親)ゆかりの地と桜守の旅(8)愛宕稲荷神社のエドヒガンザクラ

    飯田市の愛宕稲荷神社は、文治年間、飯坂城主・坂西(ばんざい)由政が崇敬する伏見稲荷大神を勧請し、知久町の南端に奉祀したので、古来「由政稲荷」と称えられたのが始まり。文禄年間、飯田城主・京極高知が城下を整備する際、飯坂城跡で当時愛宕山地蔵寺の境内であった当地へ奉遷。愛宕稲荷神社と称するようになりました。鎌倉時代の仁治年間に清秀法印が境内に植えた清秀桜は、エドヒガンザクラで、樹齢は推定750年以上、飯田...

  • 亀之丞(井伊直親)ゆかりの地と桜守の旅(7)桜丸御殿址に咲く夫婦桜

    現在の県飯田合同庁舎東側の地には、飯田城本丸御殿の別棟として桜丸御殿が建てられていました。庭園には藩主・脇坂氏時代(1615~1672年)多くの桜が植栽され、御殿名の呼称となりました。桜丸御殿址に咲く巨木は、高さ約20m、幹周り約10m、推定樹齢400年の古木で、一見、1本の樹に見えますが、実はエドヒガンザクラとシダレザクラの2本の桜・夫婦桜が寄り添うように咲いています。 参勤交代の殿様夫婦が1年の別れを惜しんで愛でた...

  • 亀之丞(井伊直親)ゆかりの地と桜守の旅(6)長姫ゆかりの安富桜と飯田城跡

    南信州は、樹齢300年を超える古桜や樹形の素晴らしい銘桜が数多く残されており「一本桜の宝庫」として全国的に注目されています。その一本桜を桜の案内人・桜守さんが案内してくれました。安富桜この日はまだ咲き始めたばかりで、満開の状態ではありませんでしたが、その堂々たる巨木の存在感には圧倒されました。飯田市美術博物館前にあり「長姫のエドヒガン」として県指定天然記念物に指定されています。推定樹齢450年、胸高周囲...

  • 亀之丞(井伊直親)ゆかりの地と桜守の旅(5)亀之丞の子孫が営む嶋田屋こうじ店

    福姫の墓の見学後は、亀之丞のご子孫が営む嶋田屋こうじ店へ亀之丞は、市田郷の松源寺に匿われた10年余の間に、嶋田村(現飯田市松尾)の代官・塩沢権三郎の女との娘と恋仲になり、一子吉直をもうけます。吉直は母の実家の塩沢家で養育され、数代の後、飯田城下大横町に出て麹屋を創業。5代目から井伊氏を名乗り、吉右衛門を襲名。嶋田屋として麹屋を始め、飯田藩ご用達に。明治になり、9代当主・井伊清一郎は蘭学を志し、長崎へ行...

  • 亀之丞(井伊直親)ゆかりの地と桜守の旅(4)織田信長と徳川家康の孫娘・福姫の墓(峯高寺)

    峯高寺は、織田信長と徳川家康を祖父に持つ福姫(登久姫)の菩提寺です。境内には福姫の墓があります。飯田城主・小笠原秀政正室の福姫はの父は、「築山殿事件」で家康の命により遠州二俣城で自刃した松平信康。母は信長の娘・徳姫。祖母は、夫である家康の命で殺害された築山御前。築山御前の母は、井伊直平の娘。亀之丞とはいとこの間柄になり、築山殿の孫娘である福姫は井伊家の血筋でもあります。福姫は、天正4年(1576年)3月...

  • 亀之丞(井伊直親)ゆかりの地と桜守の旅(3)松岡城址

    下市田の中央にある段丘上に位置する松岡城は、松岡氏一族の築城と伝えられ、主郭・二の郭~五の郭からなる連郭式の城です。築城時期は定かではありませんが、南北朝の戦乱の頃ともいわれ、その後戦国時代に大きな修築が加えられたと考えられています。500年間にわたって、松岡氏の本拠地となりましたが、1588(天正16)年、同氏の改易により、廃城となりました。現在、城址は畑になっていますが、堀の遺構は残されています。松源...

  • 亀之丞(井伊直親)ゆかりの地と桜守の旅(2)松源寺の本堂

    松源寺の本堂本堂では、ご住職による説明があり、亀之丞が松源寺に落ち延びてきた経緯、龍潭寺との縁などを詳しく説明してくださいました。こちらのご住職さん、浜北出身ということで、親近感が湧きましたo(^▽^)o文叔瑞郁禅師の像井伊直親の御位牌伝・井伊家から賜った水差し本堂から見た庭園鐘楼松源寺の鐘楼が、吊るし柿簾で覆われる光景は有名で、カレンダーになったり、TVや新聞でも紹介されているそうです。そして、山門前の...

  • 亀之丞(井伊直親)ゆかりの地と桜守の旅(1)松源寺

    「おんな城主直虎」で、井伊直親役を好演された三浦春馬さんを偲んで、今日から井伊直親特集を始めます。「大河ドラマ館」に展示された直親のパネル放送当時「浜松出世の館」に飾られていた三浦春馬さんの色紙2017年4月、井伊亀之丞ゆかりの地と桜守の旅のバスツアーに参加してきました。遠鉄観光のバスで、浜松から飯田へ。浜松を7時15分に出発し、11時に松源寺に到着。松源寺は、井伊直虎の許婚である亀之丞(井伊直親)が今川氏...

  • 伊丹の荒木村重の墓

    伊丹の墨染寺は、源義仲が創建した七堂伽藍を構える巨刹でしたが、天正7年(1579年)荒木村重の有岡城の戦いで焼失。その後、道元禅師旧跡の墨染寺(京都市伏見区)が荒廃したため、伊丹の住人加楽井氏がここに遷して再興。 後に荒木村重の菩提所となりました。境内の墓地には、荒木村重の墓と伝えられてきた九層の石塔があります。天正7年(1579年)の有岡城落城後、織田信長は城中の婦女をひと所に集めて焚殺させたといいます。...

  • 有岡城落城後の荒木一族

    荒木村重の逃亡について「陰徳太平記」では、「荒木家老の者共さし寄りて村重を諫めて云く、つらつら城中の形勢を見るに、毛利家の援兵も今は頼み少なく、徒らに月日を送り給う故、兵糧甚だ乏しく成り候。此上し別に行も候はじ、只早く大将尼崎へ御出有りて、中国・西国の諸将を語らはれ候はば、定めて援兵を出さるべきかにて候。先ず一旦城中を忍びて御出ありて、随分御智謀をめぐらされ候へと、衆口一舌に勧めけり。村重是を聞き...

  • 伊丹の名物スイーツ あっぱれ村重まんじゅう

    伊丹の猪名野神社の門前菓子のお店中満さんこちらには、荒木村重にちなんだ「あっぱれ村重まんじゅう」があると聞き、立ち寄ってみました。お店に入ってみると、「酒の露」という酒まんじゅうもお奨めということなので、お店の前で両方いただくことに!右の村重の似顔絵を焼印した酒まんじゅう「あっぱれ村重まんじゅう」の由来についての説明書きがあり、村重と織田信長とのエピソードが紹介されていました。「陰徳太平記」による...

  • 有岡城の岸の砦 猪名野神社

    伊丹の猪名野神社は、荒木村重の有岡城の惣構北端を防御する「きしの砦」があったところで、当時の土塁が西側に残っています。拝殿には酒造業者の酒樽が寄進され、境内には酒造家・商人らの寄進した97基の石灯篭が並んでいます。標柱には、「修理固成」の刻銘とあります。これは、「国を、修 め、理 り(つくり)、 固 め、 成 せ(なせ)」という意味なのだそうです。土塁ここにも鬼貫の句碑があります.。これ、何て書いてあるの...

  • 兵庫城跡

    ハーバーランド駅から地下鉄で中央市場駅へ兵庫城跡を訪ねました。兵庫城は、兵庫県神戸市兵庫区中之島(摂津国兵庫津)周辺にあった城で、尼崎藩時代には兵庫陣屋と呼ばれ奉行が置かれ、明治時代には兵庫県庁がありました。 兵庫城跡と最初の兵庫県庁    天正八年(1580)池田信輝と輝政父子が花隈城を攻め落とした功によって兵庫の土地を与えられてから, 兵庫は, それまでの室町幕府の権力を離れ, 東大寺や興福寺と兵庫の関との...

  • 荒木村重の最後の砦となった花隈城

    阪急電鉄神戸高速線の花隈駅から徒歩3分、花隈城跡があります。正面の石垣JR元町と高速鉄道花隈駅の中間に花隈公園があり、この公園の中にあるのが、花隈城跡なのですが、花隈公園は、城の一部にすぎず、実際の城は、東西約350m、南北約200mの範囲だったと推定されています。地下は駐車場となっています。花隈城は、中国地方に勢力を伸ばすため、織田信長が荒木村重に1574年に修築、一年程度で完成させたとされています。築城に...

  • 荒木村重が逃げた行った尼崎城

    天正7年(1579年)9月2日夜半、荒木村重は、船で猪名川を下って5、6名の側近を引き連れ、嫡男・村次がいる有岡城を脱出して尼崎城へ(大物城)移っていきました。現在、尼崎城と呼んでいるのは、元和3(1617)年に戸田氏鉄が築城した尼崎城を指し、村重時代の城は、大物城(別名・尼崎城)でした。尼崎城と大物城とは別の城であるとの説が有力とされているのですが、尼崎城が大物城の跡地に築かれたという説もあり、いまだに議論の決...

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大河ドラマに恋して

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