富山県射水市海王町に海王丸パークがあります。海王丸パークには日本海交流センターがあります。海洋文化への理解と知識を深めてもらうための施設です。世界の帆船の模型が展示され、海の情報発信基地として親しまれています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/日本海交流センター
諏訪湖には釜口水門があります。水の流出口は、釜口のみであり、ひとたび大雨が降れば、たいへん氾濫の起こりやすい構造になっています。このため古くから洪水対策に悩まされていたようです。諏訪湖の水があふれてしまうのを防ぐには、早く天竜川に流してしまうのが良策だと考えられてきました。このため、天竜川への流出口(釜口)を切り広げる工事が、江戸時代から行われてきました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/釜口水門
長野県諏訪市・下諏訪町・岡谷市にまたがって諏訪湖があります。諏訪湖は、海抜759m、周囲約16km、面積13。3平方km、水深約7mの長野県のほぼ中央に位置する同県最大の湖で、天竜川の源でもあります。わかさぎなどの淡水魚が豊富であり、武田信玄の石棺伝説など幾多のロマンを秘めています。諏訪湖では鯉(こい)や鮒(ふな)、公魚(わかさぎ)などの釣りも楽しめます。明治期にはここでスケートが発達。日本のスケート競技発祥の地となっています。冬の厳寒期には、氷がせり上がって長い亀裂の帯をつくる「御神渡(おみわたり)」という現象も生まれます。これは諏訪大社上社と下社の神様が出会うために渡ることだとされ、大切な神事のひとつにもなっています。諏訪湖は、宮川、砥川、横河川、上川など多くの川が流入しているのを見てもわかるように、...諏訪湖
長野県諏訪市湖岸通りにサンリツ服部美術館があります。財団法人サンリツ美術館は、平成7年(1995)、諏訪湖畔にオープンしました。諏訪市のサンリツ企画(株)が所有する美術品と、元セイコーエプソン社長、故服部一郎氏が妻と娘に残した美術品の茶道具、古書画や西洋近代絵画等、約600点の作品を収蔵しています。展示品は日本・東洋の古代から近代に至る絵画・書蹟・工芸に、西洋近代絵画が加わっています。重要文化財の「大中臣能宣像」などの大和絵、俵屋宗達など琳派の秀作、中国宋元時代の水墨画、伝藤原行成筆「大字和漢朗詠集切」など素晴らしいものばかりです。他にも茶道具を中心とする国宝級の工芸品、兀庵晋寧、大燈国師の墨蹟、本阿弥光悦が娘に与えたと伝えられる「白楽茶碗」、古九谷大絵皿など。ルノワール、シャガール、デュフィ、ルオーなど...サンリツ服部美術館
長野県諏訪市大字豊田に北澤美術館新館があります。この美術館の新館はSUWAガラスの里ともいい、平成15年(2003)4月1日「ルネ・ラリック美術館」から新たにオープンしました。世界最大級のアール・ヌーヴォー、アール・デコ・ガラス工芸公開コレクションが誕生したのです。ガラスアートの代表的な作家であるガレ、ドーム、ラリックの3大コレクションから、選び抜かれた作品が彩る美術館です。アール・ヌーヴォーの世界的ガラス・コレクションとして定評ある「北澤コレクション」に、アール・デコ期(20世紀初頭~中期)を代表する「ルネ・ラリック」のガラス作品450余点が展示されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村...北澤美術館新館(SUWAガラスの里)
長野県諏訪市湖岸通りに北澤美術館があります。この美術館は、アール・ヌーボーガラスコレクションと近代日本画を展示する諏訪地域を代表する美術館です。エミール・ガレ(1846-1904)の作品を主とする、アール・ヌーヴォー期のガラス工芸40点と現代日本画30点を常時展示しています。切妻の三角屋根にクリーム色のタイル外壁が山荘風の雰囲気を感じさせる建物です。展示室は1階と2階に分かれています。エントランスホールに面したブロンズの扉を押し開けると、オレンジ色の光を放つエミール・ガレの代表作「ひとよ茸ランプ」があります。照明を落とした暗がりの中に、作品だけがスポットライトの光に浮かび上がる展示手法をとっています。2階へ上がると明るく開放的な空間に現代日本画が並べられています。東山魁夷の代表作「白夜」・「曙」のほか、東...北澤美術館
長野県諏訪市四賀霧ヶ峰に霧ヶ峰自然保護センターがあります。霧ヶ峰自然保護センターは霧ヶ峰高原の散策起点となるビーナスライン霧ヶ峰ICにあります。散策の前に立ち寄って事前に情報や知識を仕入れておくと、より深く霧ヶ峰を知ることができます。霧ヶ峰周辺の地質や動植物についての解説展示や、霧ヶ峰の魅力をわかりやすくまとめたビデオが用意されていて、自由に見ることができます。館内には北の美ヶ原から南の八ヶ岳連峰までの八ヶ岳中信高原国定公園の地形模型があります。霧ヶ峰高原の位置が一目で実感できます。「今咲いている花」パネルは、野外観察前の下調べや野外観察後の再確認のために大変参考になります。また定期的に自然観察会も行われていて霧ヶ峰の自然を体験できます。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda....霧ヶ峰自然保護センター
長野県諏訪市四賀霧ヶ峰に霧ヶ峰自然研究路があります。霧ヶ峰自然研究路は八ヶ岳中信高原国定公園の自然の仕組みや営みを歩きながら学べるコースです。1.4kmで1時間強で一周できます。レンゲツツジ・ニッコウキスゲ・マツムシソウ・リンドウなどが咲き乱れます。霧ヶ峰自然研究路付近はわすれじの丘とも呼ばれているところです。園地内に霧ヶ峰水神社の御柱が建てられていました。諏訪の御柱と同じ時に御柱が行われるそうです。霧ヶ峰水神社と御神木が有りました。この辺は樹叢(じゅそう)と呼ばれる小さな林です。昔は水が流れていて土が流されて岩ばかりになってしまったところです。御神木の土もなく岩の上に張り付いています。第3園地付近までがススキの限界です。それより上はササしかありません。ススキはカヤ、オバナとも呼ばれかやぶき屋根の材料とし...霧ヶ峰自然研究路
長野県諏訪市四賀霧ヶ峰に霧ヶ峰高原(きりがみねこうげん)があります。霧ヶ峰高原は諏訪湖の北東にあり、車山を主峰とする溶岩台地です。八島ヶ原、踊場、車山の3つの高層湿原があり、霧ヶ峰湿原植物群落は国の天然記念物に指定されています。この高原は車山の噴火によって噴出した熔岩が広がって固まりできたもので、ニッコウキスゲやレンゲツツジ、マツムシソウなどの花が季節を追って見ることが出来ます。標高は1600mから1900mのところにあり、年間平均気温は5.8℃で北海道と同じような気温です。そのため夏の7、8月は多くの花々が一斉に咲き乱れます。霧ヶ峰高原は1925mの主峰車山から1798mの鷲ヶ峰まで標高1500mから1900m、東西10kmに広がる壮大な高原です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www...霧ヶ峰高原
長野県諏訪市湖岸通りに片倉館(かたくらかん)があります。片倉館は昭和3年(1928)、シルクエンペラーと呼ばれた片倉財閥の2代目社長が地域住民に厚生と社交の場を提供するため造られた施設です。片倉家は諏訪湖のほとりで明治の初めに製糸業を起こし、シルク・エンペラーとして、世界に知られる一大コンツェルンを築きました。創業50周年の記念事業としてこの片倉館を建設しました。片倉家2代目の当主片倉兼太郎は欧米視察で地域に対する企業の社会貢献を学びました。特に健康福祉施設の充実に関心があり諏訪にもそのような施設をと、大浴場や休憩室、大広間などを造りました。庭園には一面に白砂を敷き、池の傍らには小動物も飼われました。建築デザインも当時の日本の最先端をいくものだったのです。片倉館で有名なものといえば男女別に作られた「千人風...片倉館
長野県諏訪市渋崎に諏訪市原田泰治美術館があります。この美術館は、原田泰治氏の作品を展示する美術館です。原田氏は諏訪市出身の著名なグラフィックデザイナーであり画家です。平成10年(1998)7月、北アルプスの峰々を望む諏訪湖のほとりに開館しました。美術館は体の不自由な人にも親切な配置になっています。駐車場から入り口へはなだらかなスロープにしてあり、館内にエレベーターが設置されています。そして作品は車椅子の方のために少し低めに掛かっていて点字の表示もしてあります。名誉館長は原田さんの親友であるさだまさしさんだそうです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/諏訪市原田泰治美術館
長野県諏訪市湯の脇の温泉寺に高島藩主諏訪家墓所があります。8代・諏訪忠恕(ただみち)は忠粛の長男で文化13年(1816)に藩主になりました。松平定信の娘の烈姫を正室に迎えています。藩財政再建を目指し、検地や諏訪湖の治水工事、養蚕業奨励を実施しました。しかし凶作や江戸藩邸の焼失により藩財政は悪化、文政7年(1824)には高島藩で唯一といえる百姓一揆を引き起こされています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/8代・諏訪忠恕墓
長野県諏訪市湯の脇の温泉寺に高島藩主諏訪家墓所があります。7代・諏訪忠粛(ただかた)は忠厚の長男で、御家騒動の後を受けて天明元年(1781)に藩主となりました。灌漑用水の再編をして耕地開発したり、藩政改革を行いました。享和3年(1803)に藩校・長善館を創設、藩士子弟の養育や藩医を長崎留学させ蘭学を学ばせました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/7代・諏訪忠粛墓
長野県諏訪市湯の脇の温泉寺に高島藩主諏訪家墓所があります。6代・諏訪忠厚は忠林の四男で宝暦13年(1763)に父の隠居を受けて家督を継ぎました。藩政を家老に任せるようになり、二之丸諏訪家と三之丸千野家の両家老家が対立しました。跡目争いまでが絡んだ御家騒動(二之丸騒動)に発展したため、責任を取り隠居しました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/6代・諏訪忠厚墓
長野県諏訪市湯の脇の温泉寺に高島藩主諏訪家墓所があります。5代・諏訪忠林は分家の旗本、諏訪頼篤の二男で、忠虎の実子が早世したため、養子に迎えられ、享保16年(1731)に藩主となりました。生まれつき病弱で、藩政よりも学問にのめり込み、詩人としては秀でた人物でした。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/5代・諏訪忠林墓
長野県諏訪市湯の脇の温泉寺に高島藩主諏訪家墓所があります。4代諏訪忠虎は忠晴の三男で、元禄8年(1695)に藩主になりました。学問に優れ、学問好きであった将軍徳川綱吉の師事を受けました。郡中法度、家中法度を出したほか、郡内の林改を行いました。俳諧に秀で「闡幽」と号しました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/4代諏訪忠虎墓
長野県諏訪市湯の脇の温泉寺に高島藩主諏訪家墓所があります。3代・諏訪忠晴(ただはる)は忠恒の長男です。明暦3年(1657)に藩主になりました。宗門改めの実施、知行制度の整備など藩の支配機構を整え、藩体制の確立に努めました。また文芸にも秀で、絵画を得意としたほか、「本朝武林小伝」などの著作があります。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/3代諏訪忠晴墓
長野県諏訪市湯の脇の温泉寺に高島藩主諏訪家墓所があります。2代藩主諏訪忠恒(ただつね)の仮御霊屋が平成20年(2008)に奥の中央に建てられています。内部にある墓標の戒名の刻字部分は金泥、標身(ひょうしん)の継ぎ目は漆喰で充填されています。寛文13年(1673)3代忠晴が忠恒の17回忌に御霊屋を建立し、老朽化のため復元に備え仮御霊屋になっています。忠恒は初代高島藩主・諏訪頼水の長男で、寛永17年(1640)に藩主になりました。大坂夏の陣に徳川方で出陣し、天王寺の戦いなどで奮戦しました。その功により、戦後5千石の加増を受けました。父・頼水の施策を受け継ぎ、干拓や新田開発を進め領内の生産力増大に努めました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan...2代藩主諏訪忠恒仮御霊屋
長野県諏訪市湯の脇の温泉寺に高島藩主諏訪家墓所があります。諏訪家の菩提寺は頼岳寺でしたが高島城から離れていたため、慶安2年(1649)、高島藩2代藩主・諏訪忠恒(ただつね)は、新たに温泉寺を創建し菩提寺としました。墓所には2代藩主・諏訪忠恒から、8代藩主・諏訪忠恕(ただみち)までの7代の藩主墓と、妻や子供の墓、家臣が奉納した石灯籠が建てられています。墓所は二段に分かれ、上段に藩主の墓と忠恒の御霊屋が建てられています。諏訪家は信濃国一宮諏訪大社の大祝(おおほうり)家の家柄です。中世以降は諏訪の領主として君臨しました。戦国時代、武田信玄の謀略により諏訪家惣領家は断絶し、諏訪頼重の血が入る武田勝頼が諏訪を継ぎました。信玄の後を継ぎましたが、武田は滅亡しました。後に惣領家のいとこ・諏訪頼忠が諏訪氏を復活させました...高島藩主諏訪家墓所
長野県諏訪市湯の脇に温泉寺(おんせんじ)があります。温泉寺のシダレザクラは推定樹齢が300年以上という古木です。高島藩2代藩主諏訪忠恒(ただつね)が大坂の陣後に持ち帰り植えたものといわれています。諏訪市の天然記念物に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/温泉寺のシダレザクラ
長野県諏訪市湯の脇に温泉寺(おんせんじ)があります。温泉寺の墓地の横の温泉寺シダレザクラの近くに五輪塔があります。これが和泉式部の墓と伝えられています。和泉式部は下諏訪宿の出身地という説があります。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/和泉式部の墓
長野県諏訪市湯の脇に温泉寺(おんせんじ)があります。温泉寺の経蔵は転輪蔵と呼ばれています。中には立川流初代・立川和四郎冨棟が造った八角八面の輪蔵があり、その中に黄檗板大蔵経が納められています。真心を込めてこれを一回転させると経文を読んだと同じ功徳があるとされています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/温泉寺経蔵
長野県諏訪市湯の脇に温泉寺(おんせんじ)があります。温泉寺の本堂は明治3年(1870)の火災で焼失し、廃城となった高島城の能舞台を移築、改修して本堂に組み入れました。能舞台は高島藩8代・諏訪忠恕(ただみち)の時に造られたものです。本堂の能舞台遺構として諏訪市の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/温泉寺本堂
長野県諏訪市湯の脇に温泉寺(おんせんじ)があります。温泉寺の山門(三門)は明治3年(1870)の火災で焼失しました。廃藩置県と廃城令により高島城が廃城となったので城門を移築、改修したものです。江戸時代の薬医門で、諏訪市の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/温泉寺山門
長野県諏訪市湯の脇に温泉寺(おんせんじ)があります。温泉寺の鉄塔は多宝塔の中に納められています。諏訪大社上社本宮の御神体だった塔で、明治時代初頭に発令された神仏分離令と廃仏毀釈により温泉寺に移されたものです。鉄塔といっても石造りの2mの石塔です。鉄塔は当初、弘法大師により建立されたと伝えられています。鉄塔が腐朽したため、源頼朝が再興し、さらに寛永8年(1631)に高島藩2代藩主・諏訪忠恒(ただつね)が石造に造り直したと伝えられています。昭和46年(1971)に諏訪市の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/温泉寺鉄塔
長野県諏訪市湯の脇に温泉寺(おんせんじ)があります。温泉寺の梵鐘は伊那郡市田村(高森町)の安養寺の梵鐘で、永享2年(1430)に鋳造された古鐘です。天正10年(1582)に織田信忠が武田勝頼を攻めた時に陣鐘として安養寺から持ち出し、上之諏訪(神宮寺)まで引いてきて捨てていった鐘で、寺創建時に温泉寺の梵鐘としたそうです。昭和61年(1986)に県宝に指定され、鐘楼には別の鐘が架けられています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/温泉寺梵鐘
長野県諏訪市湯の脇に温泉寺(おんせんじ)があります。臨江山温泉寺は臨済宗妙心寺派のお寺です。高島藩2代藩主・諏訪忠恒(ただつね)によって寛永17年(1640)、慈雲寺の泰嶺和尚を招聘して開山しました。諏訪家の菩提寺は長く永明寺でしたが、寛永8年(1631)、頼岳寺が創建されました。しかし頼岳寺が高島城から離れた場所にあったため温泉寺を菩提寺として創建したのでした。明治3年(1870)、火災により本堂など伽藍が焼失しました。高島城より能舞台と城門が移築され能舞台は本堂に、城門が山門に改修されています。温泉寺には長野県県宝の梵鐘をはじめ、諏訪市指定有形文化財の鉄塔、舎利塔、山門、本堂の能舞台遺構、高島藩主廟所などがあります。木造地蔵菩薩座像、一切経入経蔵、泰嶺和尚書軸、鏡板なども諏訪市指定文化財で、枝垂桜は市...温泉寺
長野県諏訪市茶臼山に手長神社はあります。手長神社の延命杉は樹齢500年の御神木です。「心平穏に天つ御空乃梢を仰ぎ三度深く息すれば生命延ぶといふな里」下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/手長神社延命杉
長野県諏訪市茶臼山に手長神社はあります。手長神社の境内は神域だったため、大欅13本を中心に、スギ、サワラ、ヒノキ、イチョウ、コブシ、ウワミズザクラ、オオモミジなど30種、400本余りの樹木に覆われています。「手長の森」と呼ばれ平成元年(1989)に諏訪市の天然記念物に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/手長の森
長野県諏訪市茶臼山に手長神社はあります。手長神社の末社の弥栄神社は銅板葺きの一間社流造りで、手長神社本殿であった社殿です。宝永6年(1709)に大隅流の伊藤庄左衛門が棟梁になり建てられています。昭和8年(1933)に本殿から弥栄神社になっています。弥栄神社は平成6年(1994)に諏訪市の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/手長神社末社弥栄神社
長野県諏訪市茶臼山に手長神社はあります。手長神社の拝殿は天明8年(1788)に諏訪の大工・立川和四郎富棟が棟梁になり建てられています。間口2間、奥行1間、木造平屋建て、入母屋造り、平入、銅板葺きで、外壁は真壁造り板張りになっています。欅の木目を活かした重厚な建物です。正面には軒唐破風があり、細部に唐獅子、龍などの彫刻が施されています。また拝殿の左右には間口2間、奥行1間の片拝殿が付けられています。手長神社の拝殿は昭和59年(1984)に諏訪市の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/手長神社拝殿
長野県諏訪市茶臼山に手長神社はあります。手長神社は足長神社とともに桑原村の総鎮守でしたが、上桑原と下桑原に分かれた時、下桑原の産土神として遷座し、手摩乳命を祭神としています。足長神社と同じく諏訪大社上社の末社でもあります。天正19年(1591)に高島城が築かれると手長神社は城の北東にあたり、城の鬼門除けとして歴代城主に崇敬され、広い社領が安堵されました。例祭で奉納される八朔相撲には各地から有力力士が集まり、諏訪大社上社の十五夜相撲、田沢稲荷の二百十日相撲と共に諏訪三辻に数えられました。手長神社は古くから神仏習合し「手長宮」、「手長大明神」などと呼ばれました。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃されています。明治5年(1872)に村社、明治32年(1899)に郷社、大正13年(1924)に県社に...手長神社
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富山県射水市海王町に海王丸パークがあります。海王丸パークには日本海交流センターがあります。海洋文化への理解と知識を深めてもらうための施設です。世界の帆船の模型が展示され、海の情報発信基地として親しまれています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/日本海交流センター
富山県射水市海王町に海王丸パークがあります。「海王丸」は海洋実習船として建造されました。進水式が2月14日のバレンタインデーであったため、恋人の聖地に認定され、カップルにとって素敵なイベントも開かれています。59年間に106万海里(地球約50周)を航海し1万人以上の海の若人を育てたそうです。姉妹船「日本丸」も同時期に建造され、「日本の海の王者たれ」という日本の海運の期待を集めました。平成2年(1990)4月から富山で一般公開されし、現在も海洋教室など青少年錬成の場として活用されています。帆をすべて開く「総帆展帆」(そうはんてんぱん)は4月から11月の間に月に1回、年に10回程度行われています。「海の貴婦人」と称される美しい姿が披露されます。美しい日本海と、新湊大橋、立山連峰が眺められます。下記のサイトにも...海王丸パーク
富山県射水市(いみずし)八幡町に放生津八幡宮(ほうじょうづはちまんぐう)があります。映画「人生の約束」に放生津八幡宮の曳山の譲渡シーンが撮影されました。各町にある13基全ての曳山が放生津八幡宮でお祓いを受け繰り出します。令和3年(2021)に、曳山と築山の行事は国の重要無形民俗文化財の指定を受けました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/曳山と築山の行事
富山県射水市(いみずし)八幡町に放生津八幡宮(ほうじょうづはちまんぐう)があります。境内に建立されている芭蕉翁の句碑は天保14年(1843)に付近の俳人達によって建てられています。元禄2年(1689)に芭蕉が詠んだ「早稲の香や分け入右は有磯海」の句が刻まれています。この句碑は射水市の文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/放生津八幡宮芭蕉翁の句碑
富山県射水市(いみずし)八幡町に放生津八幡宮(ほうじょうづはちまんぐう)があります。現在の放生津八幡宮の社殿は江戸時代末期の弘化2年(1845)に発生した火災により焼失し、氏子の浄財により文久3年(1863)に再建されたものです。放生津の宮大工棟梁・高瀬輔太郎、脇棟梁・梁野上武平、赤井弥左エ門が手掛けました。放生津八幡宮の拝殿は間口6間、奥行5間、木造平屋建て、入母屋造り、平入で屋根は桟瓦葺きです。正面に3間の向拝付けられています。外壁は真壁造り板張り、正面1間分は吹き放しになっています。平成16年(2004)に射水市指定文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://...放生津八幡宮拝殿
富山県射水市(いみずし)八幡町に放生津八幡宮(ほうじょうづはちまんぐう)があります。放生津八幡宮は奈良時代の天平18年(746)、越中国司として赴任した大伴家持が奈古之浦(なごのうら)の風光を愛し、宇佐八幡神を勧請し奈古八幡宮としたのが始まりです。鎌倉時代に越中の守護所が設置されると総社となり、正和年間(1312-1317)に越中守護名越時有(なごやときあき)が社殿を造営しています。室町時代には放生津が石清水八幡宮領となり、放生津湊に出入りする船の課役を八幡宮が担うようになりました。明応の政変(1493)では足利義稙が放生津を御座所としました。永禄6年(1563)、越中一向一揆勢・神保(じんぼ)氏・椎名氏連合軍と、上杉謙信との合戦があり、兵火により社殿、社宝などが焼失しました。後に放生津城主・神保長識(な...放生津八幡宮
富山県射水市立町に大楽寺があります。大楽寺の庫裏は大火直後の明治2年(1869)に建てられています。木造2階建て、切妻造り、平入、桟瓦葺きで、建築面積は399平方mです。古くからの伽藍を偲ばせる建物で、一時は小学校の仮校舎にも使われたそうです。平成9年(1997)に国の登録有形文化財に登録されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/大楽寺庫裏
富山県射水市立町に大楽寺があります。大楽寺の本堂は明治12年(1879)に建てられた建物で、寺院本堂建築としては珍しい土蔵造りです。間口7間、奥行11間の平屋建て、切妻造り、平入で桟瓦葺きです。正面に1間の向拝が付けられています。外壁は白漆喰仕上げで、建築面積は263平方mあります。平成9年(1997)に国の登録有形文化財に登録されました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/大楽寺本堂
富山県射水市立町に大楽寺があります。長恩山大楽寺は浄土宗のお寺です。平安時代後期の長徳2年(996)に花山天皇の勅願により但阿無外上人によって開かれたといわれています。当初は長徳寺という天台宗のお寺でしたが、鎌倉時代の弘安元年(1278)に浄土宗に改宗し、寺号を大楽寺と改めています。大楽寺の本堂と庫裏は国の登録有形文化財に登録されています。室町時代後期の天文年間(1532-1555)に描かれた絹本著色涅槃絵図は昭和61年(1986)に射水市指定文化財(絵画)に指定され、平安時代の木造阿弥陀如来立像は昭和53年(1978)に射水市指定文化財(彫刻)に指定されています。また江戸時代の萬誉上人の大楽寺御名号本尊は昭和50年(1975)に射水市指定文化財(書跡)に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りくださ...大楽寺
富山県射水市本町に専念寺があります。専念寺の本堂は木造平屋建て、入母屋造り、桟瓦葺きの大きな建物です。間口7間、平入で、正面に1間の向拝を付けています。外壁は真壁造り白漆喰仕上げです。本尊の阿弥陀如来像を祀っています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/専念寺本堂
富山県射水市本町に専念寺があります。専念寺の梵鐘は明治4年(1871)に専念寺が買い取った銅鐘で、文明6年(1474)の銘があります。高さ158cm、口径91cm、胴厚約8.5cmです。文明の銘がある梵鐘は、在銘の銅鐘としては県内最古といわれ、昭和40年(1965)に富山県の有形文化財に指定されています。この梵鐘は、文明6年(1474)に立山寺の明舜が、自ら創建した面白寺で使うために荻生の鋳物師の幸善に造らせたものでした。その後、面白寺が廃寺になると本寺だった立山寺が引き取り、その後、廃仏毀釈の中、処分されることになり、専念寺が買い取ったといういきさつがありました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブロ...専念寺梵鐘
富山県射水市本町に専念寺があります。専念寺の前庭にある傘松は「からかさ松」と呼ばれ有名です。黒松と赤松の雑種であるアイグロマツで、突然変異によって傘状になったといわれ、全国的にも珍しい松です。享保2年(1717)、放生津城主・神保慶宗(のりむね)の菩提を弔うため植えられたと伝えられています。この松は開いた傘のように見えることから傘松と呼ばれています。樹高約4m、地上から約1.5mの高さで枝が横方向に伸び、直径13mから15mにわたって広がっています。昭和40年(1965)に富山県の天然記念物に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/専念寺傘松
富山県射水市本町に専念寺があります。専修山専念寺は浄土真宗東本願寺派のお寺です。文明16年(1484)本願寺8世蓮如上人の法弟である賢祐(けんゆう)が法土寺村(ほうどうじむら)に創建しています。延徳3年(1490)に親鸞絵像が蓮如上人より下付されています。中世には越中守護代の神保氏から帰依され寺運が隆盛しました。江戸時代中期の享保2年(1717)に水害により現在地に移ったそうです。この寺にある「からかさ松」は県の天然記念物に指定され、銅鐘は富山県の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/専念寺
富山県射水市(いみずし)庄西町に牧田組本社があります。牧田組本社ビルは元は回船業を営む南島商行本店として大正4年(1915)に建てられました。木造2階建て、銅板葺き、建築面積81平方mの近代洋風建築で、昭和62年(1987)に富山の建築百選に選定されました。平成14年(2002)には国の登録有形文化財に登録されています。玄関は両脇の袖壁を大きく前に張り出させています。そして上部には印象的な意匠を施し、玄関上部の2階パラペットを切妻風にしています。木造の壁に重厚なレンガを貼り、腰、隅柱などに花崗岩を使用しています。縦長の上げ下げ窓を左右対称に配置しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村htt...牧田組本社ビル
富山県高岡市守山町に旧高岡共立銀行本店の建物があります。このビルは大正3年(1914)に高岡共立銀行本店として建てられた擬ルネッサンス様式の建物です。その後、北陸銀行高岡支店になり、昭和39年(1964)からは富山銀行本店として使用されました。令和3年(2021)に高岡市に無償譲渡されています。建物が建つ守山町は、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている「山町筋伝統的建造物群保存地区」です。この建物も山町筋の景観を構成する伝統的建造物に特定されており、市民より「赤レンガの銀行」として親しまれました。鉄骨煉瓦造り2階建ての洋風銀行建築で、設計は、東京駅を設計した辰野金吾の監修のもと、清水組の田辺淳吉が担当しました。建設当時、一帯は証券会社や金融会社の本店、支店が軒を連ね、「北陸のウォール街」と呼ば...旧高岡共立銀行本店
富山県高岡市御馬出町に佐野家住宅があります。佐野家住宅の主屋は間口7間半、奥行5間の土蔵造り、2階建ての古民家です。入母屋造り、平入り、桟瓦葺きの町屋の建築形式です。両脇には釉薬を塗りこんだ煉瓦造りの防火壁を設けています。外壁は2階が大壁の黒漆喰で1階の主屋正面には1間の土庇が付いています。軒下は白漆喰、2階腰部分はタイルを貼り、2階の開口部には銅板貼りの扉を設けています。平成9年(1997)に国の有形文化財を登録され、平成25年(2013)には高岡市歴史的風致形成建造物に選定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/佐野家住宅主屋
富山県高岡市御馬出町に佐野家住宅があります。佐野家住宅は明治33年(1900)の高岡大火の直後に建てられています。屋敷は主屋が道路に面しており、間に中庭を挟んで奥に1番蔵、2番蔵、調度蔵、味噌蔵が4棟横一列に建てられています。主屋とともに国の有形文化財に登録され、高岡市歴史的風致形成建造物に選定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/佐野家住宅
富山県高岡市小馬出町に旧室崎家住宅(高岡市土蔵造りのまち資料館)があります。旧室崎家住宅の主屋は間口4間半、奥行8間半の土蔵造り、2階建ての古民家です。切妻造り、平入り、桟瓦葺きで、内部は3列3段の通り土間形で古い町屋の形式です。外壁の仕上げは道路側の正面だけが黒漆喰で仕上げられています。間取りは正面1列目左から「ミセザシキ」、「ミセ」、2列目左から「ブツマ」、「ツウロ」、「チャノマ」、3列目左から「ブツマ」、「ナナジョウマ」があり、外観とは違う数寄屋風の造りです。主屋と土蔵は平成10年(1998)に高岡市の文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc...旧室崎家住宅主屋
富山県高岡市小馬出町に旧室崎家住宅(高岡市土蔵造りのまち資料館)があります。室崎家は明治初年にこの地に移り住み、それ以前は現施設の向う側に住んでいました。昭和20年(1945)まで綿布の卸業を手広く営んでいたそうです。現在は石油商を営んでいますが、室崎氏の転居にあたり市がこの施設を資料館として整備し、平成14年(2002)から公開しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/旧室崎家住宅(高岡市土蔵造りのまち資料館)
富山県高岡市守山町に高岡御車山会館(たかおかみくるまやまかいかん)があります。高岡御車山会館は高岡御車山祭にて曳き出す御車山と呼ばれる山車を展示しています。これらは国の重要無形民俗文化財、国の重要有形民俗文化財に指定されています。また高岡御車山祭は平成28年(2016)にユネスコの無形文化遺産に登録されています。高岡御車山会館は北陸新幹線の開業に合わせ平成27年(2015)4月25日に開館しました。鉄筋コンクリート造り2階建て一部3階建ての建物で、国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)山町筋にあるため土蔵造りの家屋になっています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.f...高岡御車山会館
岐阜県飛騨市神岡町殿に瑞岸寺(ずいがんじ)があります。殿秀山瑞岸寺は臨済宗妙心寺派のお寺です。瑞岸寺は高山市国府町にある太平山安国寺の末寺として、神岡周辺を治めていた豪族・江馬氏の初代当主江馬輝経により天舟海を招いて開山しています。その後、寺運は衰退しましたが、天文4年(1534)、江馬氏13代・江馬九右衛門時正が安国寺の信海和尚を招いて中興開山しています。江馬氏の菩提寺として寺運が隆盛しました。江戸時代に入ると臨済宗に改宗し、宗猷寺の末寺となっています。瑞岸寺の飛地にある仏堂の薬師堂(小萱薬師堂)は国の重要文化財に指定され、堂内に安置されている懸仏は岐阜県指定重要文化財です。文禄3年(1594)の刻銘を残す磬子は岐阜県指定重要文化財、江馬氏軍書、馬具は飛騨市指定文化財に指定されています。下記のサイトにも...瑞岸寺
岐阜県飛騨市神岡町殿に加茂若宮神社(かもわかみやじんじゃ)があります。加茂若宮神社は平安時代に編纂された日本三代実録に天慶5年(942に正六位上だった賀茂若宮神が従五位下の神階を得たと記されています。中世は神岡周辺を治めた豪族・江馬氏の崇敬社として信仰されていたようです。2代高原太郎平朝臣は、寛喜2年(1230)には社殿を再建し、宝物の奉納、祭祀の執行し、馬場を造り競馬まで行っています。天正10年(1582)、江馬氏は松倉城主三木氏との戦いに敗れて滅びます。その後に領主となった金森氏に庇護され、金森可重の5男・金森重勝は寛永2年(1625)に加茂若宮神社の社殿を再建しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキング...加茂若宮神社
岐阜県飛騨市神岡町小萱に薬師堂(小萱薬師堂)(やくしどう(こかややくしどう))があります。薬師堂は間口3間、奥行3間、一重、入母屋造り、こけら葺きの方三間堂です。外壁は真壁造り縦板張り、舟肘木、一軒の小堂で、岐阜県で最も古い御堂建築です。昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定されています。内部は江戸中期に改変をうけてはいますが、側回りの軸部や垂木は当時のものと思われます。円柱、様式や工法から元弘から元中年間(1333-1392)頃の室町時代前期に建てられたと思われます。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/薬師堂
岐阜県飛騨市神岡町小萱に薬師堂(小萱薬師堂)(やくしどう(こかややくしどう))があります。小萱薬師堂は中世に北飛騨の領主であった江馬氏の菩提寺・瑞岸寺の飛び地の仏堂です。古くから養蚕の守り本尊として広く信仰されていたようです。堂内には円空が彫刻した飛騨市指定文化財の木造薬師如来立像が安置されています。薬師堂の上には白山神社があり、神仏習合のあった昔からの境内であったことがわかります。薬師堂に安置されている「懸仏」は永仁7年(1299)に造られたもので、岐阜県の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/薬師堂(小萱薬師堂)
岐阜県高山市八軒町に高山陣屋があります。高山陣屋は、幕末には全国に60数ヵ所あった郡代・代官所の中で、当時の建物が全国で唯一残っている建物です。陣屋とは、江戸時代に郡代・代官が治政を行った場所で、役所や郡代(代官)役宅、御蔵などを総称して陣屋と呼んでいます。もともと高山陣屋は飛騨高山藩主の金森氏の下屋敷でした。元禄5年(1692)に幕府が飛騨を天領として、伊奈忠篤らによって代官所として用いられるようになりました。安永六年(1777)に飛騨代官から飛騨郡代に昇格し、当時4ヵ所あった郡代役所の中でも重要な直轄地となりました。郡代役所は玄関、御役所、大広間などの部分に文化13年(1816)に改築されたものが現存しています。また敷地内の土蔵は、慶長年間(1596-1615)に高山城内に建てられ、元禄8年(1695...高山陣屋
岐阜県高山市桜町に桜山八幡宮があります。桜山日光館は屋台会館に付属しています。日光東照宮の本殿、陽明門、拝殿、鳥居など28の建造物を精巧な10分の1の模型で再現しています。33人の技術者が15年の歳月をかけて造ったそうです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/桜山日光館
岐阜県高山市桜町に桜山八幡宮があります。桜山八幡宮の敷地内に屋台会館があります。高山祭の実物屋台を常設展示しています。神楽台、鳳凰台、布袋台、金凰台など11台のうち4台の屋台が交替で展示されています。それぞれの屋台に、それぞれ固有の歴史があり、一位一刀彫の彫刻も見事です。これらは国指定重要有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/桜山八幡宮屋台会館
岐阜県高山市桜町に桜山八幡宮があります。仁徳天皇の頃、飛騨山中に両面宿儺(りょうめんすくな)という顔が前後にある怪物が現われ、天皇の命に背いたため、難波根子武振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)に討伐を命じました。武振熊命が応神天皇の御霊を勧請し戦勝祈願したのが桜山八幡宮の始まりと伝えられています。大永年間(1521-1527)に京都の石清水八幡宮から分霊を勧請し合祀しました。その後戦乱の時代が続き一時荒廃しました。元和9年(1623)、高山藩2代藩主金森重頼が再興し、神領を寄進し、高山の安川以北の産土神に定め、神事を管理高山府の総鎮守府としました。金森氏が移封された後も、歴代代官、郡代の篤い崇敬を集め社運が隆盛しました。明治の神仏分離令により神社として独立し、明治4年(1871)郷社に指定されました...桜山八幡宮
岐阜県高山市大新町に日下部家住宅(日下部民藝館)があります。日下部家住宅は日下部家住宅は明治12年(1879)に建てられたもので、名工棟梁・川尻治助が江戸時代の建築を見事に再現したものといわれています。日下部家は幕府(代官所)の御用商人として栄えた商家で、屋号を「谷屋」といいました。嘉永5年(1851)には、役所の御用金を用立てする掛屋〈かけや〉をつとめ、後には両替屋を営みました。当時の邸宅は明治8年の大火で類焼し、再建されたのが現在の住宅です。明治時代に入り軒の高さや用材の規制が取れたため江戸時代に比べ軒が高く檜材をふんだんに使用されています。主屋は木造平屋建(1部2階建)、桁行17.4m、梁間17.3m、切妻造り、平入、桟瓦葺きです。梁と束柱の力強い木組みがすばらしく、10mある吹き抜けはなんとも美し...日下部家住宅
岐阜県高山市上三之町・上二之町に飛騨高山の昔の町並みが残されています。その中に平田記念館があります。平田記念館は「打保屋」(うつぼや)の屋号でびんつけ油、ろうそく屋を家業として財をなした平田家の住宅です。主屋は明治時代に建てられた典型的な高山の町屋建築とされ、贅を尽した飛騨商人の旦那衆の暮らしぶりがうかがえます。12代にわたって愛蔵してきた美術品、調度品を江戸期の土蔵3棟で公開しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/平田記念館
岐阜県高山市上三之町・上二之町に飛騨高山の昔の町並みが残されています。金森長近は天正16年(1588)より高山城の築城を開始し、同時に城山の麓に城下町の整備を進めました。三本の道路を通し、そこを町人の住む三町(さんまち)としたのです。また、寺院は京都を参考に東山へ集められ、城下町高山は形作られました。この三町と呼ばれる町割を基礎として、江戸から明治にかけて建てられた、洗練された意匠の商家町家が連なっています。特に上三之町付近は、狭い通りに沿って、往時の町並みが良く保存されています。三之町を中心とした一帯、南北約420m、東西約150mの範囲が「高山市三町」として重要伝統的建造物群保存地区に選定され、商家町として栄えた当時の様子をそのまま今に伝えています。有力な商家が数多くあり、高山は商家町として発展しまし...飛騨高山の町並み
岐阜県高山市上岡本町に飛騨高山美術館があります。飛騨高山美術館は平成9年(1997)にオープンしたガラス工芸作品と家具を展示する私立の美術館です。小高い丘にあり、高山の町並みや北アルプスを見渡すことができます。16世紀から20世紀の世界中から収集したガラス工芸と、アール・ヌーヴォー、アール・デコのガラス工芸品、19世紀末の家具や照明器具などを収蔵展示しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/飛騨高山美術館
岐阜県高山市上岡本町に飛騨民俗村・飛騨の里があります。旧吉真(よしざね)家住宅は、桁行13.9m、梁間9.4m、入母屋造り、茅葺きの2階建です。飛騨市河合町角川にあったものを移築しています。安政5年(1858)の角川地震(飛越地震)にも耐えた頑丈な造りになっています。マグニチュード7をこえた角川地震は全壊家屋378軒、半壊497軒、死者207名という大規模なものでした。豪雪地帯ならではのどっしりとした土台や太い柱や梁、桁などで組まれています。なかでも左右側面の四隅などに立つ柱は、上部が二股になった「むかい柱(のぞき柱)」と呼ばれ、全国でも飛騨の一部だけに見られる地域色の強いものです。昭和52年(1977)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda...旧吉真家住宅
岐阜県高山市上岡本町に飛騨民俗村・飛騨の里があります。旧田中家住宅は、高山市冬頭町にあった田舎(でんしゃ)だった建物です。田舎とは、田畑の管理や年貢の徴収、農産物の作納状況などを主人に代わって行った所で作業所・休憩所のような場所でした。建てられたのは江戸時代中期ごろです。桁行12.1m、梁間10.9m、切妻造り、榑葺き(板葺き)です。屋根は勾配が緩やかで、榑板の上には石が置かれています。東面に一間の庇(ひさし)がついています。一之町で薬種商を営む「田中屋」の建物で、国学者田中大秀の実家です。昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://...旧田中家住宅
岐阜県高山市上岡本町に飛騨民俗村・飛騨の里があります。旧田口家住宅は、飛騨と美濃との国境に位置する下呂市金山町卯野原にありました。代々名主を務めた大きな農家です。桁行25.2m、梁間13.3m、切妻造り、鉄板葺き(建築当時は榑葺き)です。家の前から右横へ雨戸の外に濡れ縁がまわっていて、雪深い地域の民家と比べると開放的な造りです。旧田口家住宅は文化6年(1809)の建立です。規模が大きくて質が良く、大きな修繕などもなかったようで、江戸後期の上級農家の貴重な遺構です。昭和45年(1970)、飛騨民俗村に移築され、昭和52年(1977)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブロ...旧田口家住宅
岐阜県高山市上岡本町に飛騨民俗村・飛騨の里があります。旧若山家住宅は、御母衣ダムの建設にともなって水没した荘川村下滝に建っていた民家です。昭和34年(1959)に高山市に移築され「飛騨民俗館」として一般公開されました。飛騨の古い民家・農山用具などの保存の足がかりとなり、後に作られた飛騨の里に平成8年(1996)から約3年かけて再移築されました。宝暦年間(1751-1764)の初め頃の建立とみられ、桁行16.9m、梁間14.3m、合掌造り、茅葺きです。背面に1間半程の「ミンジャ、フロバ」などが出でいます。4階建てのうち、1階は居住用に使い、2階から上は養蚕のためのカイコの飼育場として活用されました。昭和52年(1977)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://w...旧若山家住宅
岐阜県高山市上岡本町に飛騨民俗村・飛騨の里があります。飛騨民俗村・飛騨の里は豪雪に耐えてきた合掌造りや榑(くれ)葺き(木の幹を裂いた榑板で屋根を葺くやり方)の屋根など、飛騨の代表的な民家群が立ち並び、昔の農山村風景を形づくる民家の博物館です。また、飛騨の伝統産業である一位一刀彫、飛騨春慶塗、草木染めなどの伝承保存や、飛騨地方の民具なども展示されています。昭和30年代、御母衣ダムにより水没する荘川村の合掌造り民家の矢篦原家(やのはらけ)住宅が横浜市の三渓園に移築されました。旧若山家住宅も、御母衣ダムの建設にともなって昭和34年(1959)に高山市に移築された民家です。「飛騨民俗館」として一般公開され、飛騨の古い民家の保存の足がかりとなりました。昭和46年(1971)には「飛騨民俗村」がオープンしました。飛騨...飛騨民俗村・飛騨の里
岐阜県高山市総和町に飛騨国分寺があります。飛騨国分寺本堂の前にある大イチョウは「乳イチョウ」とよばれ、推定樹齢1200年、幹周10m、高さ37mの大イチョウです。国の天然記念物に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/飛騨国分寺大イチョウ
岐阜県高山市総和町に飛騨国分寺があります。飛騨国分寺の三重塔は寛政3年(1791)に暴風雨で倒壊し、文政3年(1820)に再建された三重塔です。天平の七重塔の跡に建てられています。飛騨地方唯一の三重塔で、全国の国分寺の中でも塔建築としてはここだけといわれています。間口、奥行ともに4.24mで、高さ22m、屋根は鋼平板葺き(建立当初はこけら葺き)です。三重塔は岐阜県の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/飛騨国分寺三重塔
岐阜県高山市総和町に飛騨国分寺があります。飛騨国分寺の本堂は間口5間、奥行4間、1重入母屋造り、向拝1間、銅板葺き、総桧造りの室町時代の建物です。天正15年(1587)に川上郷から移築されたといわれています。柱など太くて荘重内陣と外陣は厳重な格子で間仕切され、外陣の虹梁、蟇股などは古風な造りです。本堂は国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/飛騨国分寺本堂